大石寺9世日有は、「戒壇の大本尊」を偽作して「戒壇の大本尊がまします所(在所)が本門事の戒壇」との教義を発明。そして「本門事の戒壇に祀る戒壇の大本尊」=本仏=日蓮の「日蓮本仏義」を発明。百六箇抄、本因妙抄、産湯相承事を偽作。さらに「戒壇の大本尊」と法主書写の曼荼羅本尊を「滅後の日蓮」とするために、本尊七箇相承、本尊三度相伝を偽作した。そして戒壇の大本尊=日蓮本仏が、釈尊をはじめとする全ての仏や神に超越する本仏にするため、日蓮本仏とキリスト教の全知全能の神を合体させた。これにより、本来仏教であるはずの大石寺の教義が、極めてキリスト教に近い教義に変質している。仏とは、迷いから目覚めて悟りを開いた人で、キリスト教の神は、天地創造の主・全知全能の神である。しかし日蓮本仏は「日蓮即法界・法界即日蓮」であるため、きわめてキリスト教全知全能の神に近い。仏教では、仏弟子は誰でも仏になることができると説く。キリスト教では人は神のしもべにはなれるが、神にはなれない。大石寺の教義は、戒壇中心の三大秘法にすり替えて、成仏が極めて難しいものにしている。仏教では、全て因果の道理で天地創造の神はいない。キリスト教では、人だった仏を神とは認めない。大石寺の日蓮本仏は、釈尊よりも上で、キリスト教全知全能の神に近い。仏は慈悲を衆生に垂れるが、キリスト教の神は、元々、戦争の神。大石寺は、「大石寺以外は邪宗」として、ケンカばかりやっている。仏は因果の道理を曲げることはできない。キリスト教のゼウスは全宇宙を支配する全知全能の神。日蓮本仏は「日蓮即法界・法界即日蓮」であるため、きわめてキリスト教全知全能の神に近い。仏の慈悲は生きとし生ける者全てに行き渡るが、キリスト教では、イエスを救世主と信じた人だけ救われる。大石寺の「無疑曰信」は、キリスト教の「信じる者は救われる」に似ている。仏教は、三世十方の諸仏というように多神教だが、キリスト教は一神教。異端は排斥する。大石寺は仏教なのに、戒壇の大本尊=日蓮本仏の一神教で、ここも異端である異流儀を排斥する。大石寺9世日有と、キリスト教ネストリウス派の接点は、京都であると考えられる。今でも京都に「太秦」という地名があるが、秦氏は渡来人の子孫といわれている。唐でも、キリスト教ネストリウス派が栄えていたときの教会名を「大秦寺」と呼んでいた。