第一に、奈良・平安・鎌倉時代前期ぐらいまでは、朝廷公認の戒壇で受戒した僧侶のみが、僧侶として認められた。その他は全て私度僧(ニセ坊主)とされた。朝廷公認の戒壇とは、奈良時代は東大寺戒壇院、太宰府戒壇院(西戒壇)、下野国薬師寺戒壇の、いわゆる「天下の三戒壇」と、唐招提寺の戒壇、平安時代はこれらに、比叡山延暦寺戒壇院、いわゆる大乗戒壇が加わる。これが各宗派で度牒・授戒して僧侶を採るようになっていったのは鎌倉時代のころから。いわゆる鎌倉仏教が武家の帰依を受け、鎌倉幕府から宗派として公認されていったことが大きい。しかし京都・奈良では「僧侶は朝廷公認の戒壇で授戒した僧侶だけ」との風潮が強く残り、各宗派で授戒・度牒が一般化したのは、安土桃山時代・江戸時代以降である。その鎌倉仏教の宗祖・開祖である法然、親鸞、栄西、道元。日蓮、一遍らは、皆、比叡山延暦寺で修行、授戒した僧侶であった。第二に、一般庶民が仏教の信仰をしたのは鎌倉仏教以降のことで、それ以前の奈良・平安時代で仏教の信仰をしていたのは、天皇、皇族、公家といった支配階級、知識階級の人たちのみ。平安後期ごろから武家や農民・庶民が南無阿弥陀仏などの仏教を信仰するようになった。ただし、当寺の一般庶民のほとんどの人は、文字の読み書きができず、今のように国民の識字率が99%を越えるようになったのは、近代の学校制度が普及して以降のことである。第三に、日本には古来から「怨霊信仰」(祟り)というものがあった。これは失脚、遠流、自決などの怨みを持って死去した人が怨霊になって、災難を引き起こすという思想で、この怨霊を供養・鎮魂することで怨霊が御霊になる(成仏)するというもの。この怨霊信仰の学説はいろいろあるが、井沢元彦氏の「逆説の日本史」の説によれば、古来から平安時代にかけて怨霊になった人とは、大国主命、聖徳太子、長屋王、菅原道真、崇徳上皇、早良皇太子、大友皇子等である。この怨霊信仰も、鎌倉時代のころから一般庶民に広まっていく。大石寺9世日有の「おいらん淵殺人事件」を検証するに当たっては、この怨霊信仰を押さえておく必要がある。