日蓮本宗本山・要法寺15(元は釈迦堂だった要法寺開山堂2)

 

以上のような検証から、サイト「要法寺」が取り上げている「新撰京都名所圖會 3 竹村俊則、昭和36年」に出ている要法寺古図の中で、現開山堂を釈迦堂と書いているのは、間違いではないと考えます。

要法寺古図1


この古図は間違ったことを書いているのではなく、要法寺本堂が落成した安永3(1774)から、要法寺が仏像を廃して大曼荼羅本尊を勧請し、日蓮宗・京都15本山との間に教義紛争が起こった寛政7(1795)までの21年間の間に書かれた古図であると考えられます。

つまり、要法寺開山堂は、元々は釈迦如来像が祀られた釈迦堂として建立されたのであり、要法寺が仏像を廃止した後は、新堂と改められ、さらにその後、開山堂と改められて現在に至っている、ということです。

ではいつ新堂から開山堂に改められたのか、というと、明治26(1893)年当時の要法寺の古図では、開山堂が新堂となっています。日蓮宗制作・日蓮聖人門下連合会監修の「日蓮聖人門下・京都十六本山めぐり」という小冊子の中では

「古来は新堂と呼ばれるお堂でしたが、大正4年以降に、大御本尊と開山の日尊上人の御影像を安置し開山堂と改めました」(『日蓮聖人門下・京都十六本山めぐり』p22)

と書いてありますので、1915(大正4)年以降、そうなったということのようです。

 

「要法寺 日蓮本宗の本山で根本道場」というサイトを見ると、次のような記述が見られます。

「要法寺 日蓮本宗の本山で根本道場」

http://blogs.yahoo.co.jp/masatake_ko/45632134.html

「重層の屋根をもつ開山堂は文政13 1830 )年に再建された。再建当時は開山堂を本堂と称していたが大正4 1915 )年、開祖 日尊上人を 祀り祖師堂を本堂とした」

 

要法寺の公式見解によれば、

「開山堂は正徳5(皇紀2375・西暦1715)11月、日眷上人の代、上棟せられ、当時、仮本堂とせられていたのを、後、本堂再建とともに、開山堂とせられたものである」(『本山要法寺参詣案内』)

となっています。

つまり現開山堂は、現本堂よりも一足先に落成して「仮本堂」だったが、新たに本堂が落成した後、開山堂になった、というものである。

「要法寺 日蓮本宗の本山で根本道場」の記述と要法寺の公式見解の間には、具体的な年については、食い違いが見られるものの、「再建当初は開山堂が本堂」「後に祖師堂が本堂になった」という大筋では食い違っていないと考えます。

 

二条寺町時代までの要法寺は、釈迦如来仏像が祀られていた釈迦堂が本堂で、日蓮祖師像が祀られていた祖師堂が建っていたわけですが、火災による焼失で、今の東山三条に堂宇を再建するにあたり、釈迦如来仏像を廃した堂宇を建てるとは考えられません。普通に考えれば、寺院を再建するなら、同じ堂宇を再建するはずです。

こういう道理から考えても、東山三条に再建当初は、現開山堂は、釈迦如来仏像が祀られていた釈迦堂だったと考えられるわけです。

 

その後、30世日良が貫首に晋山して、寛政年間に京都の他の日蓮宗本山と本尊・教義紛争が起こり、これが決着して後、文政13(1830)に開山堂が再建となっていますから、今のように祖師堂が本堂と正式に名乗るようになったのは、サイト「要法寺 日蓮本宗の本山で根本道場」が記しているように、かなり後になってからのこととも考えられます。