日蓮本宗本山・要法寺22(紫宸殿の曼荼羅・天覧)

 

前号で書いた「勅使門がない」ことと深い関わりがある、要法寺の歴史とは、「紫宸殿の曼荼羅・天覧」の見解である。

日蓮本宗宗務院が発行した小冊子「私たちの要法寺」には、要法寺の歴史について、下記の見解が述べられている。

 

(日性上人は)その名が宮中にまで聞こえ、時の後陽成天皇のお召しをうけ、また本山要法寺の重宝である『紫宸殿の曼荼羅』を天覧に供しておられます」(『私たちの要法寺』p10)

 

そもそも要法寺の「紫宸殿の曼荼羅」そのものが、日蓮の真筆ではない、偽筆の疑いが非常に強いものであり、ここではあえて、「紫宸殿の曼荼羅」の真偽は論じないこととします。

仮に「紫宸殿の曼荼羅」が真筆だったとしても、要法寺の「紫宸殿の曼荼羅・天覧」の見解については、疑義を唱えたいと考えます。

要法寺17表門

 

後陽成天皇のお召しを受けて、『紫宸殿の曼荼羅』を天覧に供したということですが、

 

1 後陽成天皇が在位で日性が要法寺貫首だった時代とは、徳川幕府が大御所・家康、二代将軍・秀忠の時代だが、当時、家康・秀忠は、朝廷を実質的に幕府の支配下にしようとして、ありとあらゆる圧力をかけ、干渉し、武断政治を強いていた時代のこと。

天皇の僧正、門跡、院家の任命叙任や紫衣の授与等に至るまで、幕府は干渉していた。

2 この時代は、日蓮宗自体が「不受不施問題」で、どの門流も大揺れに揺れていた。すでに徳川幕府は、幕府の命に随わない不受不施派を禁圧し、日蓮宗の立場が非常に悪かった時代であること。

3 日蓮宗の唯一の勅願寺は、京都・妙顕寺であり、要法寺は勅願寺でも祈願寺でもないこと。

 

こういう歴史的な背景からして、後陽成天皇のお召しで、『紫宸殿の曼荼羅』を要法寺貫首・日性が天覧に供したということが、本当にあったのか、相当疑わしいと言える。

さらにその上に、要法寺には「勅使門がない」という事実があるわけである。

仮に、本当に天皇のお召しがあったとすれば、伝奏なり、それ相応の官位・職にある人物が、天皇の使者ないしは勅使として、要法寺に来ることになるのだが、天皇の門跡寺院や勅願寺、祈願寺、あるいは朝廷・幕府とむ縁が深い寺院では、勅使を迎える勅使門や、勅使を供応する堂宇が整備され、今に残っている寺院が多い。

よって歴史的な背景に加えて、要法寺に「勅使門がない」という事実も、後陽成天皇のお召しで、『紫宸殿の曼荼羅』を要法寺貫首・日性が天覧に供したということが、本当にあったのか疑わしい根拠の一つになる。

 

 

「日性が貫首だった時代とは二条寺町時代だから」という弁解もあるかもしれないが、二条寺町時代の要法寺に勅使門があったとしたら、東山三条に移転した後も、勅使門をそのまま移すはずである。

よって、「紫宸殿の曼荼羅」の真偽は別としても、要法寺貫首・日性が「紫宸殿の曼荼羅」を天覧に供したという史実はなかったのではないかと考えられる。

 

確たることは言えないが、おそらく大石寺・要法寺の通用・交流の時代に、要法寺が大石寺の「紫宸殿の曼荼羅」に対抗して、偽作した曼荼羅であり、偽作した歴史ではないかと考えられる。