■法華宗本門流大本山・光長寺10(秘蔵抄は後世の偽書)

 

日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨の著書「隠れたる左京日教師」で紹介している、岡宮・光長寺の学頭・大林日有氏から得たとする「本因妙抄、百六箇抄、本尊七箇相伝、産湯相承の合本」である「秘蔵抄」だが、これは本是院日叶(左京阿闍梨日教)が相伝を受けた文献ではなく、後世の偽書である。理由は以下の証拠による。

 

1京都・要法寺貫首・広蔵院日辰が『二論議』という著書の中で述べている「御正筆の血脈書を拝せざる間は謀実定め難し」(『二論議』5巻・日蓮宗宗学全書3p370)との矛盾

 

「秘蔵抄」と称している「本因妙抄、百六箇抄、本尊七箇相伝、産湯相承の合本」の奥書の記述は、明らかに広蔵院日辰が『二論議』で述べている見解と矛盾している。

もし本是院日叶が出雲の師匠・日耀から「秘蔵抄」を相伝していたとしたら、日辰よりはるか上代に「本因妙抄、百六箇抄、本尊七箇相伝、産湯相承」が日尊門流に存在していたことになり、要法寺貫首がこれを知らないはずがない。よって日辰が「御正筆の血脈書を拝せざる間は謀実定め難し」などと書くはずがない。この日辰の『二論議』で述べている見解は、本因妙抄、百六箇抄が明らかに他門流から日尊門流に流入してきた文書であることを物語っている。

 

2 同じく要法寺側の史料である「日宗年表」によると、1483(文明15)510日、左京阿闍梨日教(日叶)が、調御寺・日乗に宗義相伝書を授与したときの名前を、改名前の本是院日叶ではなく、左京阿闍梨日教としている。

 

1482(文明14)年の日有死去後、著書や文献においては、「左京阿闍梨日教」と名のっており、「本是院日叶」の名前は使っていない。したがって「秘蔵抄」の奥書に「本是院日叶」の名前が使われているのは、大きな不審点である。

「本是院日叶」とは、左京日教が日尊門流にいたときからの名前だが、日蓮正宗大石寺9世法主日有の門下に帰参して後は「左京阿闍梨日教」と改名している。しかし改名後も、京都・鳥辺山に碑を建てたときも「本是院日叶」の名前を使っているが、これは日教が元々は日尊門流出身であるから、京都では「本是院日叶」の名前をそのまま使っていたと思われる。

しかし一旦、改名した以上、対外的には「左京阿闍梨日教」と名のることが本筋であり、したがって「秘蔵抄」の奥書に「本是院日叶」の名前が使われているのは、どう考えても不審なのである。

 

3 「秘蔵抄」の奥書における「文明十七年巳十月十九日 八十六歳日乗在判」と「文明十五年卯五月十五日 日叶在判」の記述がアベコベになっている。

 

4 本是院日叶(左京阿闍梨日教)自身の著書に、この「本因妙抄、百六箇抄、本尊七箇相伝、産湯相承の合本」たる「秘蔵抄」は全く出てきていない。

 

5 堀日亨自身も、合本(秘蔵抄)の写本について、「筆者不明」であるとし、「原本は日叶師のものなりしや」と疑問符をつけて書いており、不審を呈している。

59世日亨2

 

 

さらにこれに加えて、沼津市教育委員会の調査で、岡宮・光長寺に「秘蔵抄」なる文献が、正文書として蔵されていない、という見解を考え合わせれば、結果は判然としている。

「本因妙抄、百六箇抄、本尊七箇相伝、産湯相承の合本」である「秘蔵抄」は、「本是院日叶」が相伝を受けた文献ではなく、奥書も「本是院日叶」が書いた文献とは認められず、後世の偽書と結論づけられるということである。

したがって、「秘蔵抄」なる文献を根拠にした、東佑介氏の「百六箇抄」要法寺偽作説ならびに称徳符法本尊・附法の曼荼羅・室町時代存在説は全く根拠を失うのである。

 

こう言うと、「本是院日叶の『百五十箇条』は日尊門流時代の文献だ」と言うのだろうが、これも誤りである。「百五十箇条」については、追々明らかにしていくとして、「秘蔵抄」を真書であるという前提に立っている東佑介氏のさまざまな説の大半は、これで完全に崩壊したと言っても過言ではあるまい。

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「秘蔵抄」を真書であるという前提で、さまざまな説を組み立てている東佑介氏は、誤りであると断ずるのである。