■身延山久遠寺5(西谷の日蓮草庵跡2)

 

身延山久遠寺において現地調査をしていくと、さまざまなことがわかってくる。

日蓮草庵跡2

 

身延山久遠寺のはじまりは、日蓮が住んだ草庵だが、日蓮が身延山中に自ら結んだ草庵は、驚くほど質素な造りだったということを、日蓮自身が遺文(御書)の中で述べている。

1277(建治3)年冬、日蓮が56歳のときに書いた「庵室修復書」には

「去ぬる文永十一年六月十七日に、この山のなかに、木を打ち切りて、かりそめに庵室をつくりて候ひしが…」(平成新編御書全集1189ページ・堀日亨編纂・御書全集1542ページより)

と書いている。この草庵は、日蓮自身が「かりそめの庵室」と言っている。「かりそめ」(仮初)とは、「ほんの、その時だけの。一時的な」という意味だ。

その草庵は、「夜、火を灯さねども、月の光にて聖教を読みまいらせ」(庵室修復書・平成新編御書全集1189ページ)と日蓮が記しているように、草庵の屋根は天井がないほどの草葺であった。

さらに日蓮59歳の1280(弘安3)127日に書いた遺文(御書)である「秋元御書」には、身延山の草庵について

「ここに庵室を結んで天雨を脱れ、木の皮をはぎて四壁とし…」(平成新編御書全集1453ページ・堀日亨編纂・御書全集1078ページより)

と記していて、身延山に生育している樹木の皮で四方の壁を造ったというくらい、質素なものだった。

草庵の広さについては、日蓮が「庵室修復書」の中で「十二のはしら()」と書いていることから、三間四方であったということは想像できるが、鎌倉時代の一間は、現在の一間と違っているということで、はっきりとした広さは特定できない。

こうしてできあがった草庵に、日蓮は1274(文永11)617日より、十間四面の大坊が完成した1281(弘安4)1124日までの足掛け八年間、住んだ。

現在、身延山久遠寺の山中に残されている日蓮草庵跡は、初期の草庵跡というよりも十間四面の大坊があった跡のように見える。それとも草庵跡に十間四面の大坊を造営したのかもしれないが…。

 

ともかくも日蓮の草庵は簡単な造りであったために、数年もたたないうちに傷みが目立ちはじめ、そして草庵完成より四年後の1277(建治3)年冬にはついに、

「十二の柱、四方に頭をなげ、四方の壁は、一所に倒れぬ」(『庵室修復書』平成新編御書全集1189ページ・堀日亨編纂・御書全集1542ページより)

と、日蓮が嘆くほどのありさまとなり、修復せざるをえないような状況となった。

しかし草庵の修復とはいっても、当時、日蓮といっしょに身延山の草庵に住んでいたと思われる数人の弟子の僧侶による急ごしらえのもので、完成したとは言っても、日蓮が満足できるものではなかった。日蓮は、修復後の草庵について1278(弘安1)1129日に武州池上の池上兄弟にあてた「兵衛志殿御返事」(日蓮57)の中で

「坊は半作にて、風、雪たまらず、敷物はなし」((平成新編御書全集1295ページ・堀日亨編纂・御書全集1098ページより)

と、「坊はまだ半分しかできておらず、風や雪を防ぎきれず、草庵の中には床に敷いてある敷物もなにもない」と言っている。

また日蓮は、1280(弘安3)1216日に、四条金吾に宛てた手紙「四条金吾許御文」では

「処は山中の風はげしく、庵室は籠の目の如し」(平成新編御書全集1523ページ・堀日亨編纂・御書全集1195ページより)

と、草庵の壁は籠の目のように隙間だらけだと言っている。

 

 

これだけ日蓮の草庵の造りは質素なものだったようなのである。

こういう質素な草庵には、丈が人間の身長とほぼ同じくらいあり、総重量が200キロ前後もあるほど巨大で、黒漆塗りに金箔加工を施した豪華絢爛な「戒壇の大本尊」の丈と重量に耐えられる建築ではなかったことが明らかではないか。こんな質素な草庵に総重量が200キロ前後もある板本尊を安置すれば、たちまちのうちに底が抜け、草庵そのものが壊滅してしまうだろう。

したがって、広さ的にも、高さ的にも、重量的にも、日蓮の草庵に、日蓮正宗や創価学会が「一閻浮提総与の大御本尊」「本門戒壇の大御本尊」なる名前で呼んでいる巨大な「戒壇の大本尊」なる板本尊を安置できなかったことは明白だと言えよう。

戒壇本尊1