■身延山久遠寺6(西谷の日蓮草庵跡3)

 

現在、身延山久遠寺の山中に残されている日蓮草庵跡は、かなり木々が生い茂った山中にある。富士川のたもとにあるJR身延駅から身延山久遠寺の三門まではかなりの距離があるが、その三門から日蓮草庵跡まで、ちょっと歩かなければならない距離にある。

日蓮・草庵跡1

 

日蓮は書き残した遺文(御書)の各所で、身延山の日蓮のもとに参詣する信者が、たくさんいたことを書き残している。

たとえば日蓮55歳のときの1276(建治2)330日に日蓮が有力信者の一人・富木常忍にあてて書いた「忘持経事」には

「深洞に尋ね入りて一庵室を見るに、法華読誦の音、青天に響き、一乗談義の言、山中に聞こゆ」(平成新編御書全集957ページ・堀日亨編纂・御書全集977ページより)

と述べており、身延山の深い山の中にある、日蓮の草庵では、昼夜にわたって法華経を読誦し、弟子の僧侶たちや身延山に参詣してきた信者に、法華経を講義・説法するという、修行の毎日を過ごしていたことが記載されている。

日蓮58歳のときの1279(弘安2)811日に日蓮が有力信者の一人・曾谷教信にあてて書いた「曾谷殿御返事」には

「今年一百人の人を山中にやしなひて、十二時の法華経をよましめ談義して候ぞ」(平成新編御書全集1386ページ・堀日亨編纂・御書全集1065ページより)

と述べており、身延山の日蓮のもとに弟子入りした僧侶たちや身延山に参詣してきた信者が、なんと百人以上にもふくれあがったと書いているのである。

三間四方の質素な造りであった身延山中の日蓮の草庵に、日蓮が天台大師智顗の命日に営んでいた「大師講」での説法の折りなどに百人を超える人たちが参詣に訪れたとあっては、

「御制止ありて入れられず」 (日蓮56歳の建治36月の遺文(御書)『下山御消息』平成新編御書全集1137ページ・堀日亨編纂・御書全集343ページより)

と日蓮自らが記しているように、説法を聴聞する人たちを規制せざるをえないほどになっていた。

それでも日蓮が

「ものの様をも見候はんがために閑所より忍びて参り、御庵室の後にかくれ」(日蓮56歳の建治36月の遺文(御書)『下山御消息』平成新編御書全集1137ページ・堀日亨編纂・御書全集343ページより)

と書いているように、ひと目でも日蓮の説法の様子を見ようとして、草庵の便所に隠れて日蓮の説法を聴聞したり、あるいは草庵の後に隠れて日蓮の説法を聴聞していた人がいたという。

 

 

日蓮の説法の折りには、これだけの百人を超える参詣者で賑わっていた日蓮の草庵である。

1279(弘安2)10月当時、日蓮が身延山中の草庵で楠木の大木に大漫荼羅本尊を図顕し、日法が板本尊を彫刻したとすれば、身延山に参詣に来た弟子・僧侶や信者たちの目につかないはずがない。

日蓮正宗や創価学会が言うように、本当に弘安210月当時、身延山の日蓮の草庵に「一閻浮提総与の大御本尊」「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊が存在していたならば、日蓮の弟子・僧侶や信者たちが、その板本尊の存在を誰も知らないはずが絶対にない。

日蓮の草庵には、こんなにも参詣者がいたにもかかわらず、日蓮の弟子の僧侶や信者が誰も「戒壇の大本尊」を知らないというのは、そもそも日蓮の草庵に、そのような「戒壇の大本尊」なる板本尊が存在していなかったという、何よりの証拠と言えよう。