■身延山久遠寺7(西谷の日蓮草庵跡4)

 

日蓮の説法の折りには、百人を超える参詣者で賑わったという身延山の日蓮の草庵は、1277(建治3)年に一度、修理を加えているものの、常時四十人から百人近い日蓮の門弟たちが修行研鑽する道場としては、あまりにも手狭であっただろう。

この常時四十人から百人近い日蓮の門弟たちが草庵で修行研鑽していたというのは、日蓮正宗大石寺が1981年に発行した「日蓮大聖人正伝」という名前の、日蓮正宗が編纂した日蓮の伝記本に書いてある。

ただ身延山久遠寺の日蓮草庵跡に行ってみて、「常時四十人から百人」という数字は、にわかに信じがたいものがあると私は感じた。

日蓮・身延山草庵跡1


だいたい、こんなに多数の僧侶や信者たちが、身延山中の日蓮草庵にいたならば、日蓮が遺文に記しているように、身延山中で極貧の生活を送るはずがないと思う。

現在の日蓮草庵跡は、おそらく十間四面の大坊跡もふくめてのものだろうから、それ以前の日蓮草庵にこんなに多数の僧侶や信者がいたとは、とても考えにくい話しだ。

 

日蓮は、60歳の1281(弘安4)10月の半ば、新たに大坊の建設工事に着手した。大坊工事開始から落成までのことを、1281(弘安4)1125日に身延山の地頭・波木井実長に宛てた手紙「地引御書」(平成新編御書全集1577ページ・堀日亨編纂・御書全集1375ページ)に書き残している。

それによると1012日・13日に着工して111日には小坊と馬屋が完成し、118日には大坊の「柱だて」を、119日・10日には大坊の屋根の葺き終え、1123日・24日の両日・落成式を行っている。

完成した身延山の大坊は、日蓮が「地引御書」に

「坊は十間四面に、また庇さしてつくりあげ」(平成新編御書全集1577ページ・堀日亨編纂・御書全集1375ページより)

と書いているように、広さが十間四面あり、二重庇(また庇)の造りになっている、以前の草庵よりも、はるかに立派なものだった。

日蓮正宗大石寺が発行した「日蓮大聖人正伝」によると、大坊の工事は

「工事に携わった者は波木井氏一族や藤の兵衛、右馬の入道をはじめ、多くの弟子信徒たちであった。…全員が力を合わせて取り組んだ」(「日蓮大聖人正伝」403ページより)

という様子だったと書かれてある。

日蓮は、この大坊の完成をたいそう喜んでおり、前出の「地引御書」には

「坊は鎌倉にては一千貫にても大事とこそ申し候へ」

-----鎌倉においては一千貫の大金をかけても、このような立派な大坊はできないであろう---

と記しており、さらにこの大坊落成式における参詣者の賑わいを

「二十三日・四日は又、空晴れて寒からず。人の参る事、洛中、かまくらの町の申酉のごとし」

-----1123日と24日の大坊落成式は、空は晴れて、気温も寒くはなかった。身延山にはたんさんの人たちが参詣に訪れ、まるで京都や鎌倉の繁華街のようであった-----

と書いて喜んでいる。

 

 

身延山中の日蓮大坊の落成式は、ずいぶんと賑わったようである。あの山中深いところにある日蓮大坊のもとに、たくさんの人が参詣に訪れ、まるで京都や鎌倉の繁華街のようであったと日蓮が記しているのである。身延山中が本当に京都や鎌倉の繁華街のように賑わったかどうかはさておくとしても、たくさんの人が参詣に訪れたことは事実としよう。

それならば、もしこのときに、本当に身延山中に「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊が存在していたとすれば、大坊の工事に携わった信者や、落成式に参詣に来た信者の目につかないはずがない。

また旧草庵を取り壊して新たに大坊が新築・完成したとなれば、当然のことながら、「戒壇の大本尊」なる板本尊の遷座式も行われたはずで、あの巨大な板本尊は一人や二人では持ち運びが絶対にできないものだ。そうすれば、身延山の日蓮のもとで修行研鑽していた僧侶たち総出で遷座式を行わなければならず、日蓮の弟子・僧侶や信者たちが、その板本尊の存在を誰も知らないはずが絶対にない。

戒壇本尊・正本堂遷座2


しかも、日蓮自身が、大坊の工事にあたって「地引御書」には、「戒壇の大本尊」のことについて一言も書いていない。もしも自らが出世の本懐とする、末代万年まで大切に保管しなければならない巨大な板本尊が存在していたならば、大坊落成式の様子を書き記した「地引御書」に、一言も書かないはずがない。

どうだろうか。これらの事実は、そもそも身延山の日蓮の大坊に、「戒壇の大本尊」なる板本尊が存在していなかったという、何よりの証拠ではないか。