仏教宗学研究会のブログ

「仏教宗学研究会」とは会の名称。「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「仏教宗学研究会のブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

「仏教宗学研究会」とは「アンチ日蓮正宗」管理人が設立した会の名称。この会の中で、「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄。
「仏教宗学研究会のブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。富士門流執着軍団批判は「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄だが、「日蓮正宗系」以外の富士門流寺院の調査・研究は「仏教宗学研究会のブログ」の管轄。
「仏教宗学研究会」への誹謗中傷に対する反撃・糾弾は「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄。
さらに正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗」の公式サイト「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」から、カルト宗教対策、カルト宗教取締特別立法、カルト宗教拡散防止条約制定の活動部分を独立させたものが「国際カルト宗教対策委員会(Icat-Cult)」

□正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗」(アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ)
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方広寺・豊国神社

京都方広寺・豊国神社(3)~二度の地震倒壊、三度の火災焼失、豊臣家滅亡の発端になった不吉・不運な方広寺大仏

■京都方広寺・豊国神社3(不吉・不運な方広寺大仏)

 

□日蓮宗不受不施派弾圧の発端になった方広寺大仏殿・千僧供養会の日奥の出仕拒否

 

そもそも京都・方広寺とは、1586(天正14)年に、永禄10年(1567年)の三好・松永の戦いの兵火により焼失した、東大寺大仏殿および大仏にかわるものとして、豊臣秀吉が発願。1588(天正16)年に、京都・渋谷に移転した真宗仏光寺の跡地に建造した。1591(天正19)年に立柱式、1593(文禄2)年に上棟式、1595(文禄4)年に落慶した。この時に建造された大仏は、六丈三尺(20メートル)で、東大寺の大仏が五丈三尺だったから東大寺大仏よりも巨大だった。ただし東大寺大仏は金銅仏だが、方広寺大仏は、刀狩りで没収した刀を再利用した釘も使われたが、大仏そのものは当初の銅造ではなく、木像漆箔の大仏として建造された。大坂城内に莫大な金銀を貯蔵するなど巨大な経済力を持つ豊臣秀吉が、なぜ当初の銅造ではなく、木像漆箔の大仏として建造したのかについて記した文献がどこにも見あたらない。単に安価に仕上げようとした「手抜き」だったということだろうか。しかしその後、方広寺大仏のまわりには、不運・不幸がまとわりつく。

1595(文禄4)年の方広寺大仏殿の落慶で、秀吉は亡父母の追善のために、天台宗、真言宗、律宗、禅宗、浄土宗、日蓮宗、時宗、真宗の各宗派の僧に出仕を命じ、千人の僧の出仕で千僧供養会を行った。この千僧供養会に、日蓮宗不受不施派の日奥が出仕を拒否。これが江戸時代の不受不施派弾圧の発端になった。千僧供養会は、仏教界が秀吉に臣従するのか、しないのかを見極めるために、秀吉が敷いた「踏み絵」ではなかったのかと思われる。千人の僧が出仕する大法要は、あまりにも巨大で、出仕する千人の僧の食事を準備した台所が今も妙法院に遺る。

ところが千僧供養会の翌年の1596(文禄5)年の慶長伏見地震により、方広寺大仏は倒壊。大仏殿は倒壊を免れた。

秀吉は、倒壊した大仏のかわりに、方広寺に善光寺如来を祀ることを計画。1597(慶長2)年に、善光寺如来が京都に到着。方広寺に遷座された。ところが秀吉は1598(慶長3)年に病に伏し、さらに厳暑の夏に雪が舞うという珍事が起こった。これが善光寺如来の祟りではないかと噂され、善光寺如来は817日に善光寺に戻される。がしかし秀吉は翌日の818日に死去する。

1599(慶長4)年に、淀君・豊臣秀頼母子が、金銅大仏の再興をはかるが、1602(慶長7)年に鋳造中の大仏から火災が発生。造営中の大仏と大仏殿が焼失してしまう。

今度は徳川家康の勧めで豊臣秀頼が三度、方広寺大仏の再興を志す。1608(慶長13)年に大仏再建の工がはじまり、1610(慶長15)年に立柱式、1612(慶長17)年に大仏金箔が完成。1614(慶長19)年に梵鐘が完成。創建時よりも大きな大仏殿も完成。あとは徳川家康の承認で落慶開眼法要を待つだけ、となったところで、家康は開眼供養の延期を命じる。南禅寺僧・清韓作の方広寺梵鐘の銘文に不吉の文言ありとて、家康が激怒する方広寺「国家安康」鐘銘事件がおこる。

 

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京都方広寺・豊国神社(2)~方広寺大仏殿等の寺社の修復・造営を行っても削がれていなかった豊臣家の巨大な経済力

■京都方広寺・豊国神社2(豊臣家の巨大な経済力)

 

□豊臣脅威説・豊臣討伐論に傾斜していた徳川家康に臣従する親藩・譜代大名や旗本

 

徳川家康は、なぜ豊臣秀頼を一大名として残そうとしていたのか。これは、まず織田家と豊臣秀吉の前例に則ったと思われる。豊臣秀吉は、もともとは織田信長の家臣で、本能寺の変・織田信長の死去後、山崎の合戦で明智光秀を破り、清洲会議で実質的に「ポスト織田信長」の主導権を握った。そして賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り、織田信雄・徳川家康の連合軍と対峙した小牧・長久手の戦いでは、織田信雄を臣従せしめた。その後、織田有楽斎をはじめ、織田家の武将をことごとく臣従させている。よってこれと同じように、徳川家康も、天下人になる野心がない豊臣秀頼を一大名として臣従させていく腹づもりだったと思われる。そうすれば豊臣恩顧の大名と摩擦も起こらなければ、秀頼の正妻になった孫娘・千姫の身を案じなければならなくなることもない。

しかし家康は、秀頼を一大名として残す腹づもりだったならば、なぜ家康は方広寺の「国家安康 君臣豊楽」の鐘銘を、「家康呪詛の鐘銘だ」と憤激して、大坂の陣で豊臣家を滅亡させたのか、ということになる。豊臣秀頼は天下人になる気は全くなかったが、実母の淀君があくまでも徳川家への臣従を拒否し、あくまでも天下人は秀頼だと譲らなかったからだ、という説が有力で、方広寺鐘銘事件も、当初は豊臣家を滅ぼすというよりも、淀君を懲罰する腹づもりだったという説である。

NHK大河ドラマ「葵徳川三代」も、この説を採っていて、家康が「あの女狐(めぎつね・淀君のこと)に灸をすえてやらんといかんな」と言うセリフを入れている。

これとは全く正反対に、徳川家康は虎視眈々と豊臣家を滅亡させるべくチャンスを窺っていたとする説もある。これは、このまま豊臣家を大坂城に存続させた場合、豊臣恩顧の大名をはじめ、関ヶ原の合戦で改易・減封・国替えになった徳川幕府に不満を持つ大名・武家が豊臣家のもとに集結し、今の野党的な存在になって、徳川幕藩体制を根幹から脅かす存在になることを、家康は怖れていたのではないか、とする。この説も一理あると思われる。

しかし私は、豊臣脅威説・豊臣討伐論の考えを持っていたのは徳川家康ではなく、徳川家康に臣従する親藩・譜代大名や旗本がそう考えていたのではないかと思われる。この時代は、まだ完全に戦国の世が完全に終わっておらず、戦(いくさ)で負ければ主君の改易はもちろん、家臣から一族郎党に至るまで失業。下手をすれば首を切られかねない。この時代の「失業」は、今の失業とはちがい、ハローワークもなければ求人広告があるわけじゃない。失業=死とほぼ同じ意味だった。

豊臣秀頼は、天下取りの野心はなかったとしても、実母の淀君が「天下人はあくまでも秀頼だ」と固執し、徳川幕府への臣従を拒否しつづけていた以上、徳川家康に臣従する親藩・譜代大名や旗本からすれば、これは脅威に映り、豊臣脅威説・豊臣討伐論に傾斜していくのは、必然だったのではないかと思われるからだ。

 

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京都方広寺・豊国神社(1)~大坂の陣の発端になった「国家安康 君臣豊楽」の鐘銘の釣り鐘が今も遺る京都・方広寺

■京都方広寺・豊国神社1(「国家安康 君臣豊楽」の鐘銘1)

 

□大坂の陣の発端になった「国家安康 君臣豊楽」の鐘銘の釣り鐘が今も遺る京都・方広寺

 

豊国神社(とよくにじんじゃ)とは、京都市東山区に鎮座する神社で、朝廷から神号「豊国大明神」を下賜された豊臣秀吉を祀る。豊臣家滅亡とともに徳川幕府の命により廃絶となったが、のちに明治天皇の指示により再興された。豊臣秀吉の遺骸は伏見城から密かに阿弥陀ヶ峰に運ばれて埋葬され、阿弥陀ヶ峰には豪壮な豊国神社が創建された。これが今の「豊国廟」で、朝廷からは「豊国(とよくに)大明神」の神号が与えられた。豊国神社を「ほうこくじんじゃ」、豊国大明神を「ほうこくだいみょうじん」と読む人、ふりがなを付けている文献もある。

方広寺とは、大坂の陣の発端になった「国家安康 君臣豊楽」の鐘銘がある釣り鐘があることで、あまりにも有名。方広寺は現在、天台宗寺院として、本堂と釣り鐘が遺っているのみ。かつて豊臣秀吉が造立し、地震で倒壊した方広寺大仏殿の跡地が、今の京都・豊国神社である。

方広寺の見所は、何と言っても「国家安康 君臣豊楽」の鐘銘がある釣り鐘。当時の釣り鐘がそのまま遺っていて、「国家安康 君臣豊楽」の鐘銘を間近に見学することができる。私が方広寺に行ったときも、平日の昼間にもかかわらず、数人の見学客が来ていて、釣り鐘を叩いたり、「国家安康」の鐘銘を、まざまざと見学していた。この釣り鐘は、現在、国の重要文化財に指定されている。

さて日本史の通説によれば、方広寺の「国家安康 君臣豊楽」の鐘銘を知った大御所(前将軍)・徳川家康が、これは家康の名を分断し呪詛するものだと激怒。大坂方は必死に弁明したが、徳川幕府からこの鐘銘について諮問された京都五山、林羅山は、いずれも「家康の諱を割ったことは良くないこと」「前代未聞」と批判的回答を示した。歴史学者の一部は、方広寺釣り鐘の鐘銘を、徳川家康を呪詛するものと解釈し、豊臣家攻撃の口実としたのは、徳川家康は、関ヶ原の合戦以降、豊臣家潰しの機会を虎視眈々と狙っており、方広寺鐘銘事件は、徳川家康にとっては願ってもない豊臣家攻撃のチャンス到来だったのだ、という説を唱えている。

1598年の豊臣秀吉の死後、豊臣家臣従の大名の中で250万石の最大の大名、五大老の筆頭で、筆頭官位・内大臣だった徳川家康が、政治の実務を取り仕切った。ところが徳川家康の執政を「家康の専横」と反発する大名と、石田三成に反発し徳川家康を支持する大名に分かれ、1600年に関ヶ原の合戦となる。この合戦に勝利した徳川家康は、全国の大名を臣従せしめ、実質的に天下人になった。1603年、徳川家康は天皇から征夷大将軍に任命され江戸幕府を開く。

この時点で、すでに徳川家康は関白職を公家に返上するとして、1601年、再び公家の九条兼孝が関白に任ぜられ、豊臣秀頼が関白になる可能性が実質的に消滅。1605年、徳川家康は将軍職を秀忠に譲って大御所となり、江戸幕府は代々、徳川将軍家が相続していくことを宣明する。

そうすると、大坂城の豊臣秀頼・淀君親子はどうなるんだ、ということになる。豊臣秀頼はまだ若かったが、実母の淀君が後ろ盾としており、淀君はあくまでも豊臣秀頼が天下人だと考えていた。

 

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