一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ

「一般社団法人 仏教宗学研究会」とは任意団体として2005年から活動している会の名称。2018年5月に一般社団法人登記。当ブログ名を「仏教宗学研究会のブログ」から「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」に改名。 「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

Category:歴史上の人物・著名人・有名人の墓所・廟所 > 徳川家康・徳川将軍家の墓所・廟所・位牌

■日光山輪王寺・東照宮3(東照大権現・徳川家康の正墓)

 

□徳川家康を「東照大権現」として祀り、贅を極めた豪華絢爛な堂宇が建ち並ぶ日光東照宮

 

日光東照宮の祭神は「東照大権現」。すなわち徳川家康である。東照宮入り口の石塔には、徳川将軍家の家紋である葵の紋がある。「東照大権現」を祀る社は、個々の他に、久能山東照宮、仙波東照宮等々ある。しかし日光東照宮は、久能山東照宮、仙波東照宮と比べても、比較にならないくらい境内が広い。さらに東照宮の他に日光山には輪王寺、二荒山神社、大猷院があるわけだから、日光山全体として見れば、その境内はとてつもなく広い。そして堂宇のひとつひとつをとっても、贅を極めた堂宇が建ち並ぶ。輪王寺、二荒山神社は江戸時代以前からあったが、東照宮は徳川二代将軍・秀忠が造営し、さらに三代将軍・家光による「寛永の大造営」があった。そして四代将軍・家綱の代に大猷院が造営された。よって日光山をここまで大伽藍が建ち並ぶ寺社にしたのは、徳川幕府の秀忠、家光。家綱の三代の将軍だと言うことが出来る。それにしても、ここまで贅を極めた大伽藍の数々を造営した徳川幕府は、日光山造営にどれだけの費用をかけたのだろうか。江戸時代における徳川将軍家の直轄領である「天領」は約400万石。その他に幕府の「官僚」である旗本・御家人に与えている所領が約300万石。合計で約700万石もあった。これを他の大名の所領と比較すると、加賀・前田家が約102万石。薩摩・島津家が約75万石。仙台・伊達家が約65万石。ダントツで引き離している。

東照宮の表門は陽明門だが、現在、陽明門は修理中。陽明門には後陽成天皇の勅額がある。後陽成天皇、後水尾天皇の代は、京都の朝廷と江戸幕府の関係が非常にギクシャクした時代だった。徳川家康、秀忠を征夷大将軍に任命したのは、後陽成天皇だが、徳川家康、秀忠は、武力、経済力を以て天皇・公家を押さえつけ、幕府の意のままにコントロールしようとした。ところが天皇・公家は、身分は幕府・武家よりも自分たちのほうが上だという自負がある。ところが幕府のほうは、南北朝の戦争、室町時代の戦乱、応仁の乱からの戦国時代、豊臣秀吉没後の関ヶ原の合戦、大坂の陣と約二百年以上もつづいた戦乱の世を終わらせ、日本全国を統一して太平の世にしたのは徳川幕府であり、さらに全国統一した幕府が、天皇・朝廷・公家に所領を分け与えて安堵している。平たく言えば、天皇・公家は身分は上だが、幕府が朝廷にメシを食わせてやっているのだ、というわけである。だから幕府に言わせると、朝廷は幕府に従え、というわけである。そういう高圧的な幕府の態度に、天皇・公家が反発した。後陽成天皇は、どのような面もちで、東照宮・陽明門の勅額を認めたのだろうか。日光山の二社一寺の中でも、やはり東照宮が最も観光客、参拝客が多い。何と言っても東照宮は、徳川家康を「東照大権現」という神として祀り、東照宮本殿裏の奥宮には、徳川家康の正墓がある。東照宮は神道の神社なのだが、徳川家康の正墓は増上寺の徳川歴代将軍廟と同じく、仏式のように見える。

家康墓所2




















 

(徳川家康墓所)


陽明門1




















 

(日光東照宮・陽明門)

 

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■日光山輪王寺・東照宮2(徳川家光の廟所・大猷院)

 

□七階まで階段で登らなければ「平成の大修理」作業の見学が出来ない輪王寺三仏堂

 

東武日光駅に到着すると、駅前から世界遺産めぐり巡回バスに乗って日光山へ。かつて私は東武日光駅から日光山へ歩いて行ったこともありましたが、今はとても歩いて行く気がしない。というのは東武日光駅から日光山まで、かなり距離があること。そして日光山内の東照宮、輪王寺、大猷院等々の境内・敷地がものすごく広大なこと。日光山に着いてからも、かなり歩かなくてはならないのに、東武日光駅から日光山まで歩いて行ったら、それこそへばってしまう。まだ若かった頃、はじめて日光山輪王寺・東照宮に行った時、若さの馬力で東武日光駅から日光山まで歩いて行ったことがあった。ところがその後、広大な敷地の日光山内を歩いて参拝してまわったのち、帰路はそれこそ汗だくでクタクタになってしまっただけでなく、足腰にものすごい痛みが残った。その後、日光山に行くときは、東武日光駅前からバスに乗ってしまう。最近は、東武日光駅から日光山までバスで往復しても、広大な敷地の日光山内を歩いて参拝してまわるだけで、クタクタに疲れ果ててしまう。日光山拝観は、だいたい一番手前の輪王寺からはじめる。輪王寺三仏堂は現在、「平成の大修理」中。しかし修理中の作業も見学することができる。輪王寺受付窓口の女性の話によれば、「輪王寺」の名称は三仏堂の尊称であるとのこと。輪王寺窓口でもらった栞によれば、三仏堂のことを「日光山大本堂」と書いてある。そして徳川家光廟・大猷院は、輪王寺別院になっている。日光山の中は、輪王寺と大猷院が天台宗寺院で、東照宮と二荒山神社は神社ということになっているが、これは神仏分離令が出た明治維新以降のこと。それ以前は神仏習合であり、輪王寺、東照宮、二荒山神社、大猷院は全て日光山の境内であった。そのためか、今でも輪王寺、東照宮、二荒山神社の境界ははっきり定まっていないという。私はかつて「アンチ日蓮正宗」で、かつて輪王寺、東照宮、二荒山神社、大猷院は神仏習合で全て日光山だったという意味のことを書いたところ、あわててフリー百科事典・Wikipediaを検索した洗脳法華講員・龍神ひろしが、にわか知識をふりかざして「日光東照宮と輪王寺は別だ。Hideは勉強不足だ」などという、まぬけな誹謗中傷を書いたことがあったが、勉強不足は、何でもかんでもフリー百科事典・Wikipediaを検索して、にわか知識を取得すれば事足れりと思っている龍神ひろしのほうである。

「平成の大修理」で輪王寺三仏堂をすっぽりと覆っている素屋根は、7階建て。素屋根の七階まで上がって「平成の大修理」の作業を見学することができる。ところが七階までは、ひたすら階段を登って行かなくてはならない。これは体力的に、かなりへばりますね。私は数年前、姫路城の見学に行ったのですが、ここも「平成の大修理」中で素屋根にすっぽりと覆われていた。ところが姫路城の素屋根には、エレベーターがついていて、エレベーターに乗って難なく上まで登って、「平成の大修理」の見学ができた。なぜエレベーターを付けなかったのだろうか。日光山では高齢者の参拝客をたくさん見かけたのですが、高齢者が七階まで階段を登って行くというのは、かなりきびしいと思われる。私も七階まで登って作業を見学し、下まで降りてきたら、汗ぐっしょりになってしまった。三仏堂の中と、大護摩堂で祈祷受付があり、護摩祈祷を申し込んできました。

三仏堂1




















 

(輪王寺の素屋根)

 

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■成道山大樹寺2(徳川幕府歴代将軍・等身大の位牌2)

 

□徳川家康の遺命「位牌は三河大樹寺に祀るべきこと」により大樹寺に祀られる歴代将軍位牌

 

大樹寺は古来から松平家・徳川将軍家の菩提寺で、1475(文明7)年、松平家4代親忠(徳川家康から5代前の先祖)が創建した寺院である。ここで言う松平家とは、徳川将軍家の分家の松平家ではなく、徳川将軍家の祖先の松平家のことである。大樹寺の本尊は阿弥陀如来像。平安時代末期の作と伝承し、光背に千仏を宿するところから、別名、一光千体仏ともいわれる。

開山は勢誉愚底。永禄3年(1560年)、織田信長と今川義元の桶狭間の戦いで今川軍は敗走。今川義元の人質になっていた松平元康(徳川家康)は大樹寺に逃げ帰り、先祖の墓前で自害しようとしたが、13代住職・登誉に「厭離穢土欣求浄土」(おんりえど ごんぐじょうど)—戦国乱世を住みよい浄土にするのがお前の役目と諭されて思い留まった。それから徳川家康は、「厭離穢土欣求浄土」の八文字を終世、座右の銘とした。又、この時、徳川家康を追う野武士団が大樹寺を取り囲んだが、寺僧の一人、祖洞が寺門のカンヌキを引き抜いて打って出て、阿修羅の如く戦い、敵陣を退散せしめたとの伝承がある。後に徳川家康は、このカンヌキを「貫木神」と命名し、今も大樹寺に格蔵されている。徳川家康一代の人生観の確立と一代の危機を救った大樹寺は、慶長7年(1602年) 勅願寺となる。そしてさらに徳川家康の遺命「位牌は三河大樹寺に祀るべきこと」により、徳川歴代将軍の等身大の位牌が安置されている。毎年417日には御神忌法要が営まれ法要が勤修される。

大樹寺本堂は1475(文明7)年、松平家4代親忠が勢誉愚底を開山として創建。安政2(1855)の火災で焼失。安政4(1857)に徳川十三代将軍家定が再建。本堂は間口十五間、奥行十三間の大伽藍。その本堂に隣接するように松平家歴代当主の廟所がある。松平家4代親忠は大樹寺創建の際に、先祖三代の墓を移祭し廟所を創建。元和3(1617)の徳川家康一周忌の時、徳川二代将軍秀忠が、先祖松平八代の廟所を再建した。

位牌堂は宝物殿とよばれ、松平家、徳川将軍家の等身大の位牌が祭られている。

大樹寺山門は、寛永18(1641)、徳川三代将軍家光の建立。楼上に後奈良天皇御宸筆「大樹寺」の勅額(重要文化財)を掲げている。尚、大樹寺境内から山門、総門を通して、門の真ん中に岡崎城が見える。このため、大樹寺から岡崎城の直線上にマンション等の高層建築物を建てることはできない。この景観の保護は岡崎市の条例でも定められている。

大樹寺6














































大樹寺9
















 

(大樹寺)

 

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■成道山大樹寺1(徳川幕府歴代将軍・等身大の位牌1)

 

□初回の拝観で大石寺「板本尊」と中国伝来の位牌に関係があるのではと思った思い出の大樹寺

 

20142月、久しぶりに愛知県岡崎市の浄土宗寺院・大樹寺に行ってきました。正式には成道山松安院大樹寺と称する。この大樹寺という寺院は、徳川氏(松平氏)の菩提寺であり、松平家歴代当主の墓があり、徳川幕府歴代将軍(大樹公)・初代家康から十四代家茂までの等身大の位牌が祀られていることで有名。最初に大樹寺を知ったのは十年以上も前に、何かの本を読んで知った。井沢元彦氏のベストセラー・「逆説の日本史」にも、岡崎・大樹寺に徳川幕府歴代将軍の等身大の位牌が安置されていることが紹介されている。

歴代将軍の位牌を見てみようと、すぐに思い立って大樹寺に参詣。徳川幕府歴代将軍(大樹公)の巨大な等身大の位牌を拝観した。はじめて徳川歴代将軍の巨大な等身大の位牌を拝観した時、かなりの衝撃を受けた。もちろん、こんな巨大な位牌を拝観したのは、はじめてのこと。位牌そのものは、臨済宗・曹洞宗が中国から日本に伝来したことによって、位牌も中国から日本に伝来したものとは聞いていた。私は、日蓮正宗・冨士門流寺院によく見られる「板曼荼羅本尊」と、中国伝来の位牌に大きな関係があるのではないかと思ったのは、この時が最初である。

それから建仁寺、天龍寺、建長寺などの臨済宗寺院、永平寺、総持寺などの曹洞宗寺院を訪ね歩いた他、さまざまな本も読み、さまざまな関係者の方々からの話を伺った。そういう中で、永平寺や総持寺祖院で見た「板位牌」は、日蓮正宗・冨士門流寺院によく見られる「板曼荼羅本尊」とそっくりであった。法隆寺夢殿で数百年の長きにわたって絶対秘仏として眠っていた救世観音像が、古来から聖徳太子の等身大の像として法隆寺に伝承されていることがわかった。中国でも北魏で高宗文成帝が等身大の仏像を造らせた、ということがわかった。仏像を故人に見立てるというのは、位牌が日本に伝来する以前だったあったわけである。そして皇族、公家、武家等の将軍、高官位、位の高い人物の位牌は、等身大ないしは等身大に非常に近いくらい巨大に造立される慣習があることもわかった。こんな感じで、大樹寺に参拝してから、どんどん研究が深化していった。そういう意味で、私にとって大樹寺は、思い出深い寺院である。

初回の訪問の時も、何枚か写真を撮っていたのだが、その後、ここまで研究が深化するとは夢にも思っておらず、撮影したアナログ写真も、あまりいい写真ではない。そこで大樹寺を再訪して、参拝。徳川歴代将軍の等身大の位牌を再び拝観。御朱印ももらって、デジタルカメラで写真を撮影してきたという次第。初回拝観の時に、デジタル写真が撮れていなかったとか、いい写真が撮れなかったということで、再訪することは、よくあります。

 

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■東叡山寛永寺1(比叡山、東叡山、日光山の三山管領の宮)

 

東京・上野の寛永寺とは、天台宗関東総本山の寺院。正式には東叡山寛永寺円頓院と号する。

1622(元和8)、天海大僧正が徳川幕府二代将軍・秀忠と相談して、徳川家の安泰と天下の平安を祈る祈願寺として、江戸城の丑寅、鬼門の方向に創建が決められた。その三年後の1625(寛永2)10月に落慶した寺院。開基(創立者)は徳川幕府三代将軍・徳川家光。開山(初代住職)は天海大僧正。

山号の東叡山とは東の比叡山という意味。寺号の寛永寺は、比叡山延暦寺が朝廷の勅許を得て、延暦としいう元号を寺号にしたのと同様に、創建時の元号である寛永を寺号にしたもの。

本尊は薬師如来像で比叡山延暦寺根本中堂の中心本尊と同じ。寛永寺の中心堂宇も「根本中堂」という。

現在の上野公園中央噴水あたりに徳川幕府五代将軍綱吉が建てた根本中堂があり、ここは間口25(45.5m)、奥行き23(42m)、高さ32mもある大伽藍だったという。

徳川幕府八代将軍吉宗の代には、堂塔伽藍30余棟、子院36坊、境内地305000余坪(1006500m2100ha)、寺領11700石になった。1万石以上の領地を持つ武家を大名と言ったので、寛永寺の寺格は、まさに天下の大名と同格ということになる。

単純に面積だけで比較すると、大阪城公園(大阪) 106.7ha、紫禁城(北京) 72.5ha、大石寺(富士宮) 70haなので、江戸時代の寛永寺境内は、現在の大阪城公園とほぼ等しかったということになる。

 

天海大僧正の生前からの願いであった天皇家から皇子を山主(貫首)に迎えたいとの構想は、徳川幕府四代将軍家綱の代に実現した。

後水尾天皇の第三皇子・一品守澄法親王が寛永寺に入山。朝廷より輪王寺宮の称号が下賜それて、以降、幕末まで寛永寺山主(貫首)は、輪王寺宮(法親王)によって、受け継がれた。

寛永寺の末寺は、東日本、西日本から九州にまで及び、約1800余ヶ寺あったという。

輪王寺宮は、比叡山延暦寺、東叡山寛永寺、日光山の三山の山主(貫首)を兼任し、三山管領の宮とも言われた。

しかし慶応4年(1868年)の上野彰義隊戦争で全山を焼失。明治維新後、境内地は政府に没収され、輪王寺宮は還俗。明治6年(1873年)には寛永寺旧境内地が上野公園になり、寛永寺は廃止状態に追い込まれるが、明治8年(1875年)に再発足。

子院の大慈院の地が本坊の境内となり、川越・喜多院の本地堂を移築して根本本堂(中堂)として復興したが、寺の規模は大幅に縮小した。第二次世界大戦の東京空襲では徳川家霊廟の建物の大部分が焼失している。

現在の境内は約3万坪(99000m210ha)、山内子院は19ヶ坊になっている。

寛永寺33


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■三縁山増上寺7(六代将軍家宣の正室・天英院の正墓3)

 

□徳川幕府による大石寺三門供養の言い訳の為に建立された大石寺の天英院五輪塔

 

それでは、なぜ大石寺は、天英院を篤信の大外護者であるかのように祭り上げ、天英院の正墓があたかも大石寺にあるかのようなウソをついているのか。

歴史上の人物・偉人で二つ以上の墓がある人物は、それこそたくさんいる。例えば織田信長の墓・廟・供養塔と称するものは、全国に少なくとも13ヶ所ある。

1京都市中京区の本能寺にある「信長公廟」

2京都市上京区寺町の蓮台山阿弥陀寺にある「織田信長公本廟」

3高野山奥の院の五輪塔「織田信長墓所」

4 京都市北区の大徳寺塔頭・総見院の五輪塔。

5安土城二の丸跡「織田信長公本廟」

6富山県高岡市の高岡山瑞龍寺にある「織田信長公御分骨廟」

7岐阜県岐阜市の神護山崇福寺の「織田信長父子廟所」

8愛知県名古屋市中区の景陽山総見寺の「信長公廟」

9愛知県清須市の興聖山総見院 「織田信長供養塔」

10大阪府堺市の南宗寺本源院 「織田信長信忠公供養塔」

11福井県越前町(旧・織田町) 「越前二の宮 剣神社」

12 「信長を祀る神明造の小祠」愛知県清須市清洲古城跡

13 「伝織田信長の首塚」静岡県富士宮市西山本門寺

 

だから、複数の墓・廟・供養塔が存在すること自体、別に悪いことでも何でもない。問題はその建てられた動機・目的である。純粋に「弔いたい」「供養したい」ということで建てられたのならば、墓・廟・供養塔はいくあってもいいと思う。

しかし大石寺の場合は、天英院を「弔いたい」「供養したい」という純粋な動機・目的からの五輪塔ではないと思われるのである。

ではなぜ大石寺は、五重塔の傍らに天英院の五輪塔を建てたのか。

第一の動機は、徳川幕府による大石寺三門供養の言い訳である。

日蓮正宗の教義によれば、大石寺は未入信や退転者などの「謗法者」からの供養は受けない、という建前になっている。そうすると、浄土宗増上寺、天台宗寛永寺を菩提寺とする徳川将軍家から大石寺三門供養を受けたと言うことは、教義に矛盾することになる。

そこで大石寺が考え出した言い訳が

「実は当時の将軍家宣の正室・天英院が大石寺の信徒だったのだ」

というもの。教義上の矛盾に対する、苦し紛れのゴマカシである。

増上寺4家宣廟




















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■三縁山増上寺6(六代将軍家宣の正室・天英院の正墓2)

 

□天英院は将軍家菩提寺の増上寺に土葬されたのであって大石寺には絶対に分骨されていない

 

増上寺の説明によると、天英院は夫の六代将軍家宣とともに同じ徳川正廟に葬られているという。これがまさに天英院の正墓。

増上寺が発行している小冊子「浄土宗大本山増上寺」によれば、天英院の正墓は元々、独立した宝塔が建てられていた。ところが1945(昭和20)の東京大空襲で、増上寺は壊滅的な打撃を受け、堂宇、伽藍の大半を焼失。徳川正廟もほとんどを焼失してしまった。

1958(昭和33)、改めて文化財保護委員会による発掘調査が行われ、土葬されていた遺体は全て荼毘に付され、改めて徳川将軍家の正廟が再建された、ということである。

したがって、天英院は、最初から菩提寺の増上寺に土葬で葬られていた、ということになる。

六代将軍家宣の正室・天英院は、文昭院殿(家宣)の墓所の宝塔の中に、いっしょに葬られて眠っている。増上寺に葬られた六人の将軍の墓所は全て宝塔が建てられ、その中に、正室も入っている、というわけである。

ところが日蓮正宗は「天英院は大石寺門流の信者だった。大石寺に三門を供養した大石寺外護の大檀那」と言い張っていて、大石寺五重塔の脇に建てられている天英院の五輪塔が天英院の正墓であるなどと言い張っている。

日蓮正宗にとって、東京芝・増上寺に天英院の正墓がある、ということがわかるのは、まことに都合が悪いため、日蓮正宗の信者たちは、こう言って反論する。

「天英院の正墓は増上寺にあるのかも知れないが、大石寺には遺骨が分骨されたのだ」

 

日蓮正宗の信者は、「大石寺には日蓮・日興・日目の正墓はない」と批判・追及されたときも、「遺骨は大石寺に分骨された」などと、何の証拠もないのに、虚しい妄想にしがみつこうとする。

苦し紛れの「分骨」の言い訳である。

天英院の正墓の場合も、「大石寺への分骨」などという言い訳は、絶対に通らない。

なぜなら、天英院は、増上寺に葬られたときは、土葬されたのであり、火葬して荼毘に付されたのは、1958(昭和33)に増上寺の徳川正廟が再建されたときだからである。

これは、増上寺が発刊している小冊子「浄土宗大本山増上寺」に書いてある。

それとも日蓮正宗の信者は、天英院の遺体が荼毘に付された1958(昭和33)に増上寺から大石寺に遺骨が分骨された、とでも言うのだろうか。

1958(昭和33)に増上寺から大石寺に天英院の遺骨が分骨されるなどということは、絶対にあり得ない。

増上寺4家宣廟




















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■三縁山増上寺5(六代将軍家宣の正室・天英院の正墓1)

 

□新井白石・間部詮房が失脚した江戸時代大奥の一大事件・江島生島事件で有名な天英院

 

さて東京芝・増上寺でのもうひとつの研究課題は、徳川六代将軍正室・天英院の正墓についてである。

増上寺・徳川正廟に埋葬されているのは、二代将軍秀忠、六代将軍家宣、七代将軍家継、九代将軍家重、十二代将軍家慶、十四代将軍家茂の6人の将軍、5人の正室、5人の側室。

徳川六代将軍正室・天英院も、将軍家宣といっしょに埋葬されており、正墓もここ増上寺にある。

天英院とは本名を近衛熙子といい、父は近衛基熙、母は後水尾天皇の娘・品宮常子内親王。

夫・六代将軍家宣の死後落飾して天英院(てんえいいん)と名乗ったため、一般的に天英院と呼ばれている。

天英院という名は、一般的には江戸時代大奥の一大事件「江島生島事件」で有名である。

江島生島事件とは、江戸時代中期に江戸城大奥御年寄の江島(絵島)が歌舞伎役者の生島新五郎らを相手に遊興に及んだことが引き金となり、関係者多数が処罰された綱紀粛正事件。

家宣が六代将軍になった後、お喜世の方(のちの月光院)が側室に迎えられたことによって、夫婦関係は疎遠になっていったという。

お喜世の方(月光院)が産んだ家継が七代将軍宣下を受け、月光院とは不仲であったといわれている。御年寄にして月光院の腹心であった絵島が大奥の門限に遅れた江島生島事件では、老中や譜代大名と結託して、月光院と側用人・間部詮房と新井白石らの権威失墜を謀ったという天英院陰謀説がある。

当時の大奥には、7代将軍家継の生母月光院を中心とする勢力と前将軍家宣の正室天英院を中心とする勢力とがあった。月光院が家継の学問の師である新井白石や側用人の間部詮房らと親しい事から、大奥では月光院側が優勢。

この事件により天英院側が優勢となり、2年後の正徳6年(1716年)に七代将軍家継が亡くなると、若い家継に子がなかったため、天英院が推していた紀伊藩主徳川吉宗が8代将軍となった。

そのため、江戸幕府を牛耳っていた新井白石・間部詮房を追放するために天英院と譜代大名や老中がスキャンダルをでっち上げたのではないかという陰謀説が唱えられている。

増上寺7徳川家廟










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■三縁山増上寺4(寛永寺と交互に将軍霊廟が建てられた)

 

徳川将軍家の菩提寺は、天台宗本山・東叡山寛永寺と、浄土宗大本山・増上寺のふたつだった。

よって日光東照宮に祀られている徳川家康、徳川家光と、東京谷中霊園に葬られた最後の将軍・徳川慶喜の三人を除く12人の将軍の正墓が、寛永寺と増上寺のふたつに二分されて築かれている。将軍の他、正室もいっしょに菩提寺に葬られている。これは自明の理である。

徳川家康・徳川将軍家は、浄土宗に帰依したと言われているが、浄土宗一辺倒だったわけではなく、武田合戦の時は北山本門寺の「鉄砲曼荼羅」を守護本尊として陣中に持ち出しているし、川越・喜多院に天海大僧正を招いている。

後に、徳川秀忠は天海を招いて、江戸城の丑寅の方角に寛永寺を創建している。

しかし戦国時代ら安土桃山時代にかけて、最大級の武装仏教勢力だった真宗本願寺派を、東西本願寺に分裂させた分裂劇に関与しているのも徳川家康。

日蓮宗に対しては、豊臣秀吉の方広寺大仏殿の千僧供養時に、出仕を拒否した不受不施派を、公儀に従わぬ者として日蓮宗が他宗への攻撃色が強い事も合わせて危険視。不受不施派の日奥を対馬国に配流。家康死後も不受不施派は江戸時代を通じて弾圧され続けた。

日蓮宗に対しては、あまり好意的に見ていなかった、という見解も成り立つ。

浄土宗の知恩院を新たに門跡に加え、天台宗・真言宗の頂点として輪王寺に門跡を設けたことにより、知恩院・輪王寺は江戸幕府と強い繋がりを持ったことは事実のようだが、ただし、浄土宗に帰依していたかどうかについては、疑問符も残る。

増上寺の本殿・安国殿後方にある徳川将軍家の正廟は、普段は非公開になっている。しかし一年に数回、特別公開があり、私も一度、徳川正廟特別公開の日に見学に行ったことがあります。

徳川将軍家正廟は、本殿・安国殿の裏手にあるため、ここに行くには、三門から入って、安国殿の東側を通って裏手にぬける。

徳川将軍家正廟・特別公開の時は、正廟入り口の脇に、受付が設けられ、ここで拝観料を支払って、通用門をくぐり、正廟の中へ。正廟の中に入っていくと、巨大な塔が四隅に建てられていて、それぞれの塔の中に、将軍と正室が葬られている。

私がはじめて徳川正廟特別公開の見学に行ったときは、少々雨模様の日でしたが、年に数回の特別公開ということで、たくさんの見学客が来ていました。中高年の見学客が多かったように思います。

増上寺・徳川正廟に埋葬されているのは、二代将軍秀忠、六代将軍家宣、七代将軍家継、九代将軍家重、十二代将軍家慶、十四代将軍家茂の6人の将軍、5人の正室、5人の側室。

この5人の正室の中に、天英院がいる。

増上寺10徳川家廟
 

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■三縁山増上寺1(徳川将軍家の菩提寺として繁栄)

 

増上寺とは、東京・芝公園にある浄土宗大本山の寺院で、正式には三縁山広度院増上寺という。

浄土宗とは法然を開祖、本尊は阿弥陀如来。教義は専修念仏を中心とする宗旨で、浄土専念宗とも呼ばれる。

浄土宗は京都市東山区の知恩院(華頂山知恩教院大谷寺)を総本山とする浄土宗鎮西派、長岡京市の粟生光明寺を総本山とする西山浄土宗、京都市左京区の永観堂禅林寺を総本山とする浄土宗西山禅林寺派、京都市中京区の誓願寺を総本山とする浄土宗西山深草派がある。

増上寺は、知恩院を総本山とする浄土宗の大本山で、世間一般では、単に「浄土宗」と言うと、この宗派のことを指す場合が多い。

この増上寺は、江戸時代は上野・寛永寺と並んで徳川将軍家の菩提寺だったことで、あまりにも有名。増上寺には、徳川将軍15代のうち、6人の将軍(秀忠、家宣、家継、家重、家慶、家茂)が葬られている。もうひとつの菩提寺である寛永寺墓地には、徳川将軍15人のうち6人の将軍(家綱、綱吉、吉宗、家治、家斉、家定)が眠っている。

のこる3人の将軍のうち、初代徳川家康、三代徳川家光は日光東照宮に葬られ、十五代徳川慶喜は東京谷中霊園に葬られている。

増上寺の徳川将軍家霊廟は、普段は非公開。年に数回、限られた期間限定で「特別公開日」が決められ、その期間のみ、一般公開される。この徳川霊廟特別公開日には、一度、見学に行ったことがあります。

増上寺12徳川家廟公開
 

場所的にも、増上寺があるところは東京・芝公園で、東京タワーのすぐそば。東京都心にあり、アクセスもJR浜松町駅、地下鉄・大門駅、地下鉄・赤羽橋駅が歩いて行ける所にある。増上寺三門も、都心の幹線道路・日比谷通りに面している。というわけで、ここは普段から参拝客が多く、参拝客の中には、ビジネスマンやサラリーマン風の人も見かけます。

私も仕事等で増上寺近辺に来る機会がかなりあり、ここは何度も来ています。

新年の初詣にも、たくさんの人が参拝に来ています。

増上寺の開創は明徳4(1393)に西誉聖聰によって江戸貝塚(現東京都千代田区平河町)に開山されたこととしている。しかし増上寺が徳川将軍家の菩提寺になるまでの歴史、なぜ増上寺が徳川将軍家の菩提寺になったのか、については明瞭ではなく、増上寺が発刊している小冊子「浄土宗大本山増上寺」を紐解いても、増上寺が徳川将軍家の菩提寺になった縁由について

「天正18(1590)、徳川家康公が関東八カ国に封ぜられ江戸に入国すると、当時の住職、源譽存応上人と親しく交わり、増上寺を徳川家の菩提寺としました」

と記すのみ。

増上寺31三門
 

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