仏教宗学研究会のブログ

「仏教宗学研究会」とは会の名称。「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「仏教宗学研究会のブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

「仏教宗学研究会」とは「アンチ日蓮正宗」管理人が設立した会の名称。この会の中で、「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄。
「仏教宗学研究会のブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。富士門流執着軍団批判は「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄だが、「日蓮正宗系」以外の富士門流寺院の調査・研究は「仏教宗学研究会のブログ」の管轄。
「仏教宗学研究会」への誹謗中傷に対する反撃・糾弾は「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄。
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仏教寺院・仏教遺跡

ネパールで世界最古の仏教寺院発見のニュース

□釈迦如来の生誕年が従来の主流学説から約100年ほどさかのぼる可能性も

 

1126日、mixiニュースで、久しぶりに仏教遺跡に関するニュースが流れた。まずはここにニュース配信記事を引用します。

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「世界最古の仏教寺院発見、ネパール」20131126 19:10

世界最古の仏教寺院がネパールで発掘された。紀元前550年ごろの遺跡で、釈迦(しゃか)の生年が従来の主流学説から100年ほど遡る可能性があるという。発掘現場のネパール中南部、ルンビニ村は、釈迦(ゴータマ・シッダールタ)の生誕地として知られている。

研究チームのリーダーで、イギリスにあるダラム大学の考古学者ロビン・カニンガム(Robin Coningham)氏は、「分析の結果、世界最古の仏教寺院と判明した」と話す。

古代の木造遺跡は、毎年数十万規模の巡礼者が訪れる寺院のレンガ構造の地下に埋もれていた。後年その上部に建立されたレンガ造りの仏教寺院は、古代のレイアウトを複製している。「つまり、仏教の聖地としての連続性を示している」とカニンガム氏は解説する。「釈迦の生年については論争が絶えないが、とりあえず紀元前6世紀には仏教寺院が存在していたことが確定した」。

◆釈迦の生誕地

 仏教は世界三大宗教の1つで、信者は東アジアを中心に35000万人以上に及ぶ。

 開祖である釈迦の生年は不明で、ネパール当局は「紀元前623年」説を支持するが、ほかにもさまざまな伝承があり、「紀元前400年前後」とする説も有力だ。いずれにせよ、古代インドのアショーカ王が巡礼を行った紀元前249年の段階で、ルンビニが仏教の聖地として尊ばれていたことは誰もが認めている。その後に寂れてしまうが、釈迦の母マーヤー・デーヴィーの名を冠したマーヤー・デーヴィー寺院などの遺跡が1896年に発見され再び表舞台に登場、現在は世界遺産(文化遺産)に登録されている。巡礼者や観光客による損傷を懸念したユネスコは、ネパール政府や日本政府の協力の下、カニンガム氏を中心とする国際的な研究チームを結成してルンビニ遺跡の状態を調査。今回の地下遺跡の発掘につながった。

◆古代の木造寺院

カニンガム氏は、「レンガ造りの寺院の地下に、柱穴が見つかった。欄干が木造寺院を囲んでいた証拠だ。また、地上よりも古いレンガ構造も埋もれていた」と語る。

柱穴から採取した木炭を、複数の年代測定法(放射性炭素法と光ルミネセンス法(OSL))で調査したところ、紀元前550年前後に遡ると判明。

「さまざまな発掘品から判断すると、この地で耕作が興ったのが紀元前1000年前後で、紀元前6世紀までには仏教僧のコミュニティーが出来上がっていたと考えられる」。

◆学界の反応

イギリスのレスター大学の考古学者ルース・ヤング(Ruth Young)氏は、「非常に興味深い成果で、アショーカ王の時代よりも数世紀前に仏教が勃興していたことになる」と評価する。

 

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身延山久遠寺(7)~身延山西谷の山林の中にあった日蓮草庵跡4

■身延山久遠寺7(西谷の日蓮草庵跡4)

 

日蓮の説法の折りには、百人を超える参詣者で賑わったという身延山の日蓮の草庵は、1277(建治3)年に一度、修理を加えているものの、常時四十人から百人近い日蓮の門弟たちが修行研鑽する道場としては、あまりにも手狭であっただろう。

この常時四十人から百人近い日蓮の門弟たちが草庵で修行研鑽していたというのは、日蓮正宗大石寺が1981年に発行した「日蓮大聖人正伝」という名前の、日蓮正宗が編纂した日蓮の伝記本に書いてある。

ただ身延山久遠寺の日蓮草庵跡に行ってみて、「常時四十人から百人」という数字は、にわかに信じがたいものがあると私は感じた。

日蓮・身延山草庵跡1


だいたい、こんなに多数の僧侶や信者たちが、身延山中の日蓮草庵にいたならば、日蓮が遺文に記しているように、身延山中で極貧の生活を送るはずがないと思う。

現在の日蓮草庵跡は、おそらく十間四面の大坊跡もふくめてのものだろうから、それ以前の日蓮草庵にこんなに多数の僧侶や信者がいたとは、とても考えにくい話しだ。

 

日蓮は、60歳の1281(弘安4)10月の半ば、新たに大坊の建設工事に着手した。大坊工事開始から落成までのことを、1281(弘安4)1125日に身延山の地頭・波木井実長に宛てた手紙「地引御書」(平成新編御書全集1577ページ・堀日亨編纂・御書全集1375ページ)に書き残している。

それによると1012日・13日に着工して111日には小坊と馬屋が完成し、118日には大坊の「柱だて」を、119日・10日には大坊の屋根の葺き終え、1123日・24日の両日・落成式を行っている。

完成した身延山の大坊は、日蓮が「地引御書」に

「坊は十間四面に、また庇さしてつくりあげ」(平成新編御書全集1577ページ・堀日亨編纂・御書全集1375ページより)

と書いているように、広さが十間四面あり、二重庇(また庇)の造りになっている、以前の草庵よりも、はるかに立派なものだった。

日蓮正宗大石寺が発行した「日蓮大聖人正伝」によると、大坊の工事は

「工事に携わった者は波木井氏一族や藤の兵衛、右馬の入道をはじめ、多くの弟子信徒たちであった。…全員が力を合わせて取り組んだ」(「日蓮大聖人正伝」403ページより)

という様子だったと書かれてある。

日蓮は、この大坊の完成をたいそう喜んでおり、前出の「地引御書」には

「坊は鎌倉にては一千貫にても大事とこそ申し候へ」

-----鎌倉においては一千貫の大金をかけても、このような立派な大坊はできないであろう---

と記しており、さらにこの大坊落成式における参詣者の賑わいを

「二十三日・四日は又、空晴れて寒からず。人の参る事、洛中、かまくらの町の申酉のごとし」

-----1123日と24日の大坊落成式は、空は晴れて、気温も寒くはなかった。身延山にはたんさんの人たちが参詣に訪れ、まるで京都や鎌倉の繁華街のようであった-----

と書いて喜んでいる。

 

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身延山久遠寺(6)~身延山西谷の山林の中にあった日蓮草庵跡3

■身延山久遠寺6(西谷の日蓮草庵跡3)

 

現在、身延山久遠寺の山中に残されている日蓮草庵跡は、かなり木々が生い茂った山中にある。富士川のたもとにあるJR身延駅から身延山久遠寺の三門まではかなりの距離があるが、その三門から日蓮草庵跡まで、ちょっと歩かなければならない距離にある。

日蓮・草庵跡1

 

日蓮は書き残した遺文(御書)の各所で、身延山の日蓮のもとに参詣する信者が、たくさんいたことを書き残している。

たとえば日蓮55歳のときの1276(建治2)330日に日蓮が有力信者の一人・富木常忍にあてて書いた「忘持経事」には

「深洞に尋ね入りて一庵室を見るに、法華読誦の音、青天に響き、一乗談義の言、山中に聞こゆ」(平成新編御書全集957ページ・堀日亨編纂・御書全集977ページより)

と述べており、身延山の深い山の中にある、日蓮の草庵では、昼夜にわたって法華経を読誦し、弟子の僧侶たちや身延山に参詣してきた信者に、法華経を講義・説法するという、修行の毎日を過ごしていたことが記載されている。

日蓮58歳のときの1279(弘安2)811日に日蓮が有力信者の一人・曾谷教信にあてて書いた「曾谷殿御返事」には

「今年一百人の人を山中にやしなひて、十二時の法華経をよましめ談義して候ぞ」(平成新編御書全集1386ページ・堀日亨編纂・御書全集1065ページより)

と述べており、身延山の日蓮のもとに弟子入りした僧侶たちや身延山に参詣してきた信者が、なんと百人以上にもふくれあがったと書いているのである。

三間四方の質素な造りであった身延山中の日蓮の草庵に、日蓮が天台大師智顗の命日に営んでいた「大師講」での説法の折りなどに百人を超える人たちが参詣に訪れたとあっては、

「御制止ありて入れられず」 (日蓮56歳の建治36月の遺文(御書)『下山御消息』平成新編御書全集1137ページ・堀日亨編纂・御書全集343ページより)

と日蓮自らが記しているように、説法を聴聞する人たちを規制せざるをえないほどになっていた。

それでも日蓮が

「ものの様をも見候はんがために閑所より忍びて参り、御庵室の後にかくれ」(日蓮56歳の建治36月の遺文(御書)『下山御消息』平成新編御書全集1137ページ・堀日亨編纂・御書全集343ページより)

と書いているように、ひと目でも日蓮の説法の様子を見ようとして、草庵の便所に隠れて日蓮の説法を聴聞したり、あるいは草庵の後に隠れて日蓮の説法を聴聞していた人がいたという。

 

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身延山久遠寺(5)~身延山西谷の山林の中にあった日蓮草庵跡2

■身延山久遠寺5(西谷の日蓮草庵跡2)

 

身延山久遠寺において現地調査をしていくと、さまざまなことがわかってくる。

日蓮草庵跡2

 

身延山久遠寺のはじまりは、日蓮が住んだ草庵だが、日蓮が身延山中に自ら結んだ草庵は、驚くほど質素な造りだったということを、日蓮自身が遺文(御書)の中で述べている。

1277(建治3)年冬、日蓮が56歳のときに書いた「庵室修復書」には

「去ぬる文永十一年六月十七日に、この山のなかに、木を打ち切りて、かりそめに庵室をつくりて候ひしが…」(平成新編御書全集1189ページ・堀日亨編纂・御書全集1542ページより)

と書いている。この草庵は、日蓮自身が「かりそめの庵室」と言っている。「かりそめ」(仮初)とは、「ほんの、その時だけの。一時的な」という意味だ。

その草庵は、「夜、火を灯さねども、月の光にて聖教を読みまいらせ」(庵室修復書・平成新編御書全集1189ページ)と日蓮が記しているように、草庵の屋根は天井がないほどの草葺であった。

さらに日蓮59歳の1280(弘安3)127日に書いた遺文(御書)である「秋元御書」には、身延山の草庵について

「ここに庵室を結んで天雨を脱れ、木の皮をはぎて四壁とし…」(平成新編御書全集1453ページ・堀日亨編纂・御書全集1078ページより)

と記していて、身延山に生育している樹木の皮で四方の壁を造ったというくらい、質素なものだった。

草庵の広さについては、日蓮が「庵室修復書」の中で「十二のはしら()」と書いていることから、三間四方であったということは想像できるが、鎌倉時代の一間は、現在の一間と違っているということで、はっきりとした広さは特定できない。

こうしてできあがった草庵に、日蓮は1274(文永11)617日より、十間四面の大坊が完成した1281(弘安4)1124日までの足掛け八年間、住んだ。

現在、身延山久遠寺の山中に残されている日蓮草庵跡は、初期の草庵跡というよりも十間四面の大坊があった跡のように見える。それとも草庵跡に十間四面の大坊を造営したのかもしれないが…。

 

ともかくも日蓮の草庵は簡単な造りであったために、数年もたたないうちに傷みが目立ちはじめ、そして草庵完成より四年後の1277(建治3)年冬にはついに、

「十二の柱、四方に頭をなげ、四方の壁は、一所に倒れぬ」(『庵室修復書』平成新編御書全集1189ページ・堀日亨編纂・御書全集1542ページより)

と、日蓮が嘆くほどのありさまとなり、修復せざるをえないような状況となった。

しかし草庵の修復とはいっても、当時、日蓮といっしょに身延山の草庵に住んでいたと思われる数人の弟子の僧侶による急ごしらえのもので、完成したとは言っても、日蓮が満足できるものではなかった。日蓮は、修復後の草庵について1278(弘安1)1129日に武州池上の池上兄弟にあてた「兵衛志殿御返事」(日蓮57)の中で

「坊は半作にて、風、雪たまらず、敷物はなし」((平成新編御書全集1295ページ・堀日亨編纂・御書全集1098ページより)

と、「坊はまだ半分しかできておらず、風や雪を防ぎきれず、草庵の中には床に敷いてある敷物もなにもない」と言っている。

また日蓮は、1280(弘安3)1216日に、四条金吾に宛てた手紙「四条金吾許御文」では

「処は山中の風はげしく、庵室は籠の目の如し」(平成新編御書全集1523ページ・堀日亨編纂・御書全集1195ページより)

と、草庵の壁は籠の目のように隙間だらけだと言っている。

 

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身延山久遠寺(4)~身延山西谷の山林の中にあった日蓮草庵跡1

■身延山久遠寺4(西谷の日蓮草庵跡1)

 

身延山久遠寺の山門をくぐらず、麓の山道を歩いていくと、「西谷」と言われている山林の中に、鎌倉時代の昔、日蓮が住んだ草庵跡が残っている。

身延山久遠寺5・草庵跡


まさにここが、日蓮が起居していた草庵の跡であり、久遠寺発祥の地である

日蓮は足かけ9年にわたり、ここに自らがむすんだ草庵にて法華経の読誦と門弟の教育に終始したと言われている。

私がここの草庵跡を見た印象としては、そんなに広くもなく、さりとて狭くもなく、といった感じか。

ここには外側に囲いがしてあるが、この囲いいっぱいに、日蓮の草庵が建っていたとは思えない。

この日蓮草庵跡には、身延町教育委員会の立て看板が建てられています。

日蓮・草庵跡5


身延町教育委員会の見解では、この草庵跡は、18.18メートル四方となっています。

おそらくは、1281(弘安4)年に建てられた十間四面の堂宇も含めての広さなのではないか。

ただ、ここで日蓮が、多くの門弟たちを育成していたというが、日蓮を筆頭にたくさんの門弟が起居し、修行するには、ちょっと狭くはないかな、と思う。

草庵のたたずまいも、日蓮一門の当時の極貧状態の生活から推するに、かなり質素なものだったであろう。

 

又、ここには身延町教育委員会の看板よりも古い時代に建てられた石碑も建てられています。

日蓮・草庵跡4


当然のことながら、ここが日蓮の草庵跡として、学術的にも証明されているということである。

 

草庵跡全体は、石でできた囲いで囲まれているので、相当古い時代から、ここが「草庵跡」として保管されてきたことがうかがい知れます。

日蓮・草庵跡3

 

この草庵跡では、毎年617日午前11時から、身延山久遠寺法主大導師のもと、山内支院僧侶出仕のもと、身延山開闢会法要が営まれ、式中、日蓮遺文(御書)「身延山御書」が奉読される。

さらにこれに先んじて午前9時より、日蓮の身延入山を記念した身延山開闢の御入山行列が、総門から三門までの約1.5キロの門前町を練り歩くお祭りが行われる。

 

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