一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ

「一般社団法人 仏教宗学研究会」とは任意団体として2005年から活動している会の名称。2018年5月に一般社団法人登記。当ブログ名を「仏教宗学研究会のブログ」から「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」に改名。 「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

Category: 旅紀行

■長野善光寺5(2015年初詣)

 

□北陸新幹線・金沢開業以前にJR東日本の新型車両E7系に乗車した2015年善光寺初詣

 

2015年の初詣は、2014年と同じ長野・善光寺。2014年は、15日に長野に行ったのだったが、今回は1231日の夕方、東京駅から長野新幹線・あさま号に乗って出発した。この当時は、北陸新幹線・金沢延伸開業以前のことであり、名称は「長野新幹線」だった。東京駅構内は、旅行カバンやキャリーバッグを持った人が大勢いて、大混雑。私は一週間前に、JTBのビジネスパック(出張応援価)で、長野往復新幹線の乗車券・特急券と2泊分のホテル宿泊券を予約していたのだが、当日の混雑状況がどうしても気になる。そこで東京駅新幹線乗り換え改札前にある「みどりの窓口」の電光板を見ると、東海道新幹線のひかり号・こだま号は全て×で満席。東北新幹線は、やまびこ、はやぶさ、はやて、こまち、つばさ号が軒並み×で満席。上越新幹線は、MAXとき号が、軒並み×で満席。ところが長野新幹線は、×印はひとつもなく、全て○印。かなり空席が残っている様子。これは、北陸新幹線・金沢開業後は、有り得ない話しで、年末になれば、東京~金沢のかがやき、はくたか号は、軒並み×印になっている。こういう情況を鑑みると、やはり北陸新幹線・金沢開業によって、乗客は大幅に増加したのは、なんとなくわかる。北陸新幹線・金沢開業以前のときに、東京から富山・金沢に行く人で、長野新幹線を使っていた人は皆無。上越新幹線の越後湯沢駅で、在来線特急・はくたか号に乗り継いでいた。JR東日本・東京駅の新幹線ホームは、年末ということもあり、東北・上越・長野新幹線は、臨時列車を増発していて、ホームにはひっきりなしに新幹線電車が入線してくる。そしてホームには、溢れんばかりの乗客が、自分が乗る新幹線列車の入線を待っている。私が乗車した長野新幹線・あさま号は、JR東日本の新型車両E7系。これは2015314日に北陸新幹線・金沢延伸開業に併せてJR東日本が新たに製造した新型車両。北陸新幹線は、金沢~上越妙高がJR西日本。上越妙高~長野~東京がJR東日本になるが、JR西日本の新型車両がW7系。E7系もW7系も車両は全く同じ形で、所属がJR東日本とJR西日本に分かれているだけである。しかしながら、W7系の営業運転は、2015314日の北陸新幹線・金沢延伸開業以降だが、E7系はすでに2014年後半から東京~長野で営業運転をしていた。というわけで、私は北陸新幹線の開業を前にして、一足先にJR東日本の新型車両E7系に乗車したというわけである。E7系は全て12両編成で、普通車10両、グリーン車1両、グランクラス1両。私は普通車指定席に乗車。東京を出てから、上野、大宮と停車して、どんどん乗客が乗ってきたが、普通車指定席は80%ぐらいの乗車率。意外と空席が残っていた。東京から長野までの所要時間は、約1時間半くらい。このとき、JR長野駅に降りたのは約1年ぶりだった。長野駅善光寺口は工事中。長野駅前から乗車したタクシーの運転手の話では、314日の北陸新幹線開業にちなんだ駅前整備工事で、314には完成しているとの話しであった。長野新幹線の終着駅として、長野駅を利用するのは、2015年の善光寺初詣が最後になる。長野駅の新幹線改札の電光板も、富山・金沢方面が「調整中」になっている。次回の「御開帳」や初詣で長野駅に来るときは、当然のことながら、北陸新幹線・長野駅になっている。富山・金沢方面の電光板にも、しっかり列車名・行き先が明示される。

長野駅26
















 

(北陸新幹線開業以前の長野駅新幹線改札の電光板「富山・金沢方面」は調整中)


長野4
















 

(北陸新幹線開業以後の長野駅新幹線改札の電光板「富山・金沢方面」に列車名・行き先が明示されている)

 

 

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■高野山金剛峯寺2(20145月の高野山旅紀行2)

 

20145月に高野山真言宗総本山・高野山金剛峯寺に行って参拝した時の旅紀行2

 

高野山参拝当日は、阪急十三駅から阪急電車に乗って阪急梅田駅へ。梅田駅からJR大阪駅をかすめて地下鉄梅田駅から地下鉄御堂筋線の電車に乗車。なんば駅で下車して南海電車なんば駅へ。なんば駅とは、南海なんば、近鉄なんば、地下鉄なんば等があるが、もともとは南海なんば駅が難波駅だった。南海電鉄がプロ野球・南海ホークスを持っていたころは、この近辺に大阪球場があったが、今はない。ちょうど野村克也氏が現役選手、現役兼監督だったころのことだ。そういえば、私が乗った阪急電車も、昔はプロ野球球団・阪急ブレーブスを持っていた。阪急ブレーブスや南海ホークスを知っている人は、今はもうだいぶ少なくなっているのではなかろうか。

南海なんば駅で、高野山行き「世界遺産きっぷフリー乗車券」を買う。これには南海電車往復乗車券、行きの特急券、バスフリーきっぷと割引券がついている、なかなか便利なきっぷで、3400円。これは便利です。私は過去に高野山金剛峯寺に行ったことがあるのだが、実は、南海電車に乗っていくのは、今回がはじめて。では、以前はどうやって高野山に行ったのかというと、自家用車で行っています。「終着駅で降りても、またバスを乗り継がなくてはいけないのかな」と思いつつ、南海なんば駅から、南海特急「こうや」号に乗る。ところがこの「こうや」号は、何とたったの4両編成。こんな短い編成の特急列車も、大変珍しい。乗車した日は土曜日ということもあり、特急「こうや」号は全席満席。列車の車内で「特急券は売り切れました。特急券をお持ちでないお客様は、ご乗車になれません」とのアナウンスが流れる。それにしても始発駅の南海なんば駅で、全席満席になってしまった特急「こうや」号。南海なんば駅から終着駅の極楽橋駅まで、停車駅がいくつもあるのだが、だれも乗降せず、ずっと満席のまま。「こんなに列車の中が混んで満席になっているのに、どうして4両編成なんだろうか。どうしてもっと車両を増結しないんだろうか」と、不思議に思って乗っていたところ、終点・高野山極楽橋駅に着いて、その理由がわかった。

南海高野線は、複線電化線なのだが、複線区間は途中の橋本駅まで。橋本~極楽橋は単線電化区間になる。それで高野下駅あたりから、高野線はものすごい山岳地帯に入り、線路は蛇行の連続。電車のスピードも著しくダウンする。切り立った山の中を、這うように走り、トンネルを出たり入ったりの連続。「こうや」号の終着駅・極楽橋駅は、高野山の切り立った山の中を切り開いて造成したかのような駅で、この駅のホームが辛うじて4両が限界。だから特急「こうや」号も4両編成だったというわけである。それにしても、車で高野山に登ったときは、それほど感じなかったが、こうして電車で高野山に登ると、何と高野山という所は、切り立った山岳地帯なんだろうかと思う。

現代人は電車・バス・車に乗って、やすやすと高野山に登るが、平安、鎌倉、室町、安土桃山の上古の時代は、徒歩が主な交通手段だった。平安時代に仏教を信仰していたのは、天皇、公家、貴族などの支配階級の人のみで、そういう人たちは、駕籠などに乗って高野山に登ったとは思うが、ほとんど徒歩しか交通手段がなかった平安時代に、こういう高野山に仏教大寺院を弘法大師空海がよく建立したものだと思う。大変な難工事だったのではないかと偲ばれる。

 

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■高野山金剛峯寺1(20145月の高野山旅紀行1)

 

20145月に高野山真言宗総本山・高野山金剛峯寺に行って参拝した時の旅紀行

 

この項では、201459日、東京を出発して高野山真言宗総本山・高野山金剛峯寺に行ったときのことを書きます。高野山には、これより以前に何度か行っているのですが、いかんせんブログにアップできる写真がない。というわけで、ブログにアップする写真を撮るため、久しぶりに弘法大師廟参拝のため、高野山に行ってきました。東京から日帰りで行けないこともないのですが、いかんせん大阪から高野山に行く移動手段は、南海電車になる。南海電車・難波駅から特急こうや号で行っても、ケーブル高野山駅に着くまで約1時間半はかかる。東京から早朝6時発の東海道新幹線「のぞみ」号で行ったとして、新大阪到着が8時半。難波駅9時発の特急「こうや」号に乗ったとして、高野山駅到着は11時半になる。東京からストレートに行けたとしても6時間弱はかかる。

それで23時に東京駅に到着できる新幹線に乗るには、どんなに遅くとも高野山を17時に出発しなければならない。これは旅の行程としては、いささか、きつすぎる。又、あの広大な高野山の境内を散策・見学・参拝するには、時間が短すぎる。というわけで、高野山参拝の前日に東京を出発。東海道新幹線で新大阪に到着。大阪市内のホテルに宿泊。翌朝、大阪から電車に乗って高野山に行くことにした。

私は、東京を拠点にして全国各地の寺院を巡る旅をしてきているが、電車・バス・航空機を使い、ホテルに宿泊する旅の場合、JTBのビジネスパック(出張応援価)を使うことが多い。この通称・ビジネスパックを使うと、旅費・宿泊費をかなり安く抑えることができる。今回の高野山行きも、もちろんビジネスパックである。今回は往復新幹線とホテル宿泊費で27500円。さらに1泊追加したので、追加宿泊費が6500円。かなりお得な金額である。今回は普通車指定席に乗ったが、グリーン車に乗る場合も、2500円の追加料金でグリーン車に乗れる。JRみどりの窓口で、乗車券・特急券を買い、ホテルを予約するよりも、大幅に安くなる。往復の交通手段として航空機を使うこともできるが、こちらも費用が大幅に安くなる。ただし航空機を使う場合、出発の7日前までにビジネスパックの予約をしなければならない。新幹線を使う場合は、出発の当日でもOKだが、ビジネスパック用の座席、ホテルの部屋が空いていることが条件。またホテルによっては、1200円とか1500円くらいする朝食券を、事前予約で1000円で買うことができるオマケ付きのところもある。

今回は東京発1633分の「ひかり」号に乗車。新大阪到着が1928分。所要時間は2時間55分である。私が子どもの頃は、東京発、名古屋と京都しか停車しない最高時速210キロの「ひかり」号で、新大阪までが3時間10分だった。ところが今は、最高速度が270キロになり、この他に品川、新横浜、豊橋、岐阜羽島、米原に停車し、岐阜羽島と米原で「のぞみ」の通過待ちをして、東京~新大阪が2時間55分。「のぞみ」号だったら、品川、新横浜、名古屋、京都に停車して2時間30分。かつての最速の「ひかり」号より停車駅が多くなったのに、所要時間が40分も短縮している。時代がかわったものである。

 

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■石山本願寺跡(大阪城公園)4(大阪旅紀行2)

 

□かつては大渋滞の名所で大幅な時間がかかっていた京都~大阪の名神高速・国道1号線

 

私が大阪の交通が不便だな、と感じるのは、東海道新幹線のターミナル駅であるJR新大阪駅からJR大阪環状線に乗れないこと。JR大阪環状線に乗るには、新大阪駅で在来線電車に乗り、1駅となりのJR大阪駅に出て、そこでJR大阪環状線に乗り換えなくてはならない。これが私にとって、とても不便に感じる。東京の場合、新幹線駅がある東京、品川、上野のどの駅からもJR山手線に乗れるのとは対照的に見える。JR新大阪駅もJR大阪駅も、近年、リニューアル工事が行われ、みちがえるようにきれいになり、美化され、便利になった。2045年開業をめざして東京~大阪に中央リニア新幹線を通す計画が進んでおり、2015年から東京~名古屋の工事がはじまる。東京都内のリニア駅は、品川駅にできることが決まっている。大阪府内のリニア駅は、どこになるのだろうか。品川も名古屋も、リニア駅は大深度地下に建設されるというのだが、大阪府内のリニア駅も大深度地下に建設するのなら、JR大阪駅に建設したほうが利便性が高いと思うが、どうなのだろうか。しかしリニア大阪開業の2045年のころは、私も優に80才を超えているから、実際に私がリニアに乗れるかどうか、リニアに乗って大阪に行けるかどうかもわからないのだが…。

今は、私は東京~大阪の移動は、もっぱら東海道新幹線「のぞみ」号での移動なのだが、若い頃は自家用車に乗って、東名・名神高速道路をかっ飛ばして大阪に行っていた。あの当時は、ETCもなく、全て現金払いで高速料金を支払っていた。1990年代のころは、高速道路用のプリペイドカードを買って、使ったこともあった。東京から東名高速道路を大阪方面に向かってかっ飛ばして行くと、米原JCTで北陸高速道路と名神高速が合流する。1990年代のころは、名神高速の米原JCTから大阪市内まで大渋滞だった。あのころは、東名阪道も新名神も名神・京滋バイパスもなし。名古屋~京都~大阪の大動脈は、名神高速だけだった。しかも名神高速は、片側2車線の上下4車線道路で、そこへ米原JCTで北陸高速道路と合流して、北陸道から大量の乗用車、バス、トラックが流入してくるわけだから、米原JCT~大阪が渋滞しないはずがない。米原JCTから名神高速はノロノロ運転。深夜に東名・名神をかっ飛ばして行ったこともあったが、深夜の時間帯でも、名神高速の米原JCTから大阪方面は渋滞していた。

特に昼間の渋滞はひどく、高速道路がなかなか進まないのに、しびれをきらし、「この渋滞はひどいな」と思って、京都東ICで名神高速を出て、国道1号線に入ったこともあったが、その国道1号線もまた大渋滞。あの当時は、京都~大阪の間は、名神高速も国道1号線も両方が大渋滞だった。そういうことを思えば、今は名神高速の他に、東名阪道、新名神、名神・京滋バイパスが開通していて、車でもスムーズに大阪に行けるようになった。20102014年にかけて、私は北陸の実家から、自家用車に乗って北陸道~米原JCT~名神・京滋バイパスで京都・大阪へ行ったことが何度かあるが、昔のような渋滞は全くなく、実にスムーズに車が流れていた。

 

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■石山本願寺跡(大阪城公園)3(大阪旅紀行1)

 

□東京からかなりの割安価格で旅行が出来るJTB「出張応援価」(ビジネスパック)の旅行プラン

 

大阪城公園に行くには、JR大阪環状線・大阪城公園駅が玄関口だが、大阪城天守閣に行くには、地下鉄のほうが便利である。私は大阪城公園も大阪城天守閣も、修学旅行をはじめ、個人旅行でも何度も来ている。2011年の東日本大震災前のころは、中国人、台湾人、韓国人の観光客が大勢来ていた。天守閣の中は写真撮影禁止なのだが、それでも、おかまいなしに、あっちこっちでパチパチとデジカメで写真撮影している中国人旅行者。それを訝しげに見ている日本人旅行者が、とても印象に残った。

私が大阪に行くときは、例によってJTB「出張応援価」(ビジネスパック)などの旅行プランを使う。これは、まともに往復の新幹線乗車券・指定席特急券とホテルの宿泊券を買うよりも、かなりの安上がりになる。12日の旅費・宿泊費で比較して見ると、ビジネスパックを使ったときは、おおむね1泊の宿泊代がタダになる計算になる。また1泊プラスして23日にしても、プラス1泊の宿泊代が割安価格になる。またプラス1000円ないし2000円でグリーン車に乗ることも出来る。まともにグリーン券を買うよりは、はるかに割安であり、私はビジネスパック旅行の帰路は、よくグリーン車に乗る。だからかなりお得な料金で旅が出来る。この他、JTBではポイントカードがあり、JTBを使うと、1年間有効なポイントが貯まる。そのポイントは、次回の旅行の時に割引きになる。ビジネスパックは、人気が高いため、23日前くらいになると、ビジネスパックに割り当てられたホテルの部屋やJR列車の座席が満席になっているというときがある。そういう場合は、ビジネスパック以外の旅行プランを使うが、ビジネスパックよりも割高になる。私は、東京~大阪を移動するときは、若い頃は自家用車に乗って、東名・名神高速道路をかっ飛ばして走っていたが、近年は全て東海道新幹線を利用している。JTB「出張応援価」(ビジネスパック)を使う場合、新幹線か航空機利用になり、自家用車使用のプランはない。東京~新大阪は、56分間隔で、新幹線列車が運転されており、「のぞみ」号もかなり多くの本数が運行されているため、私は東京~大阪の移動は、東海道新幹線が最も便利だと思う。

東京駅から東海道新幹線「のぞみ」号に乗ると、品川、新横浜でどんどん乗客が乗ってきて、普通車指定席はほぼ満席になる。かつては品川、新横浜を通過する列車が設定されていた時代もあったが、新幹線車両がどんどんスピードアップしていくにつれて、逆に品川、新横浜は全列車が停車している。東京始発の「のぞみ」号には、新大阪行き、広島行き(一部、岡山行き)、博多行きの3タイプがある。新大阪行き「のぞみ」号に乗ると、名古屋でドーッと乗客が下車。逆に乗る人はわずかである。京都でも乗客が下車して、車内はどんどん空席が増えていく。ところが広島行き、博多行きの「のぞみ」号に乗ると、名古屋でドーッと乗客が降車しても、逆にドーッと乗客が乗ってくる。だから名古屋を発車する時も、満席状態はほぼ変わらない。これは京都でも同じ。

 

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■長崎県2・長崎2・「長崎平和公園」2(平和公園・爆心公園2)

 

□東京から航空機・博多からJR特急かもめ号を乗り継いで行った長崎平和公園・爆心公園2

 

長崎駅は、長崎県の県庁所在地・長崎市の中心駅であると同時に、長崎本線の終着駅にして、ホームには車止めが設置されている。つまりここで「終着・行き止まりの駅」ということ。こういうJR駅は、全国に稚内駅、根室駅、函館駅、青森駅、久里浜駅、城端駅、氷見駅、高松駅、門司港駅、枕崎駅、長崎駅…とけっこうあるが、県庁所在地・市の中心駅としては、長崎駅、高松駅、青森駅だけである。長崎駅の駅舎は、2000年に改装された新しい雰囲気のある駅舎で、今のもので4代目。長崎駅前でまず目につくのは、長崎電気軌道長崎駅前電停。電停とは路面電車の発着場所のことで、停留所と呼ばれるか、電停と呼ばれるかは地域によってちがう。東京では、かつて都電が頻繁に走っていた頃には「電車の停留所」と呼ばれた。現在は「都電の停留所」が一般的な呼び方になっている。逆に長崎では、○○電停と呼ぶのが普通な地域のようである。長崎市内の移動には、この長崎電気軌道の路面電車がとても便利。地下鉄よりも、路面電車のほうがとても利用しやすく、便利に感じました。「長崎電気軌道」というのは、長崎市内で路面電車を運行している会社。路面電車というと、他都市では「市電」と呼ばれていたりするが、市電というと、いかにも長崎市が経営しているかのように聞こえてしまうが、この「長崎電気軌道」は、公営企業でも長崎市経営でもなく、れっきとした株式会社であり、私企業である。現在、5路線4系統を営業しており、通称は電鉄、長崎電鉄。地元住民の間ではJRを「JR」、「列車」または「汽車」と呼び、路面電車を「電車」と呼んで区別している。しかも長らく運賃が100円で据え置かれていて、私が20081月に長崎市内に行って、この路面電車に乗ったときも運賃は100円だった。2009101日より25年ぶりに運賃を値上げし、1乗車120円としたという。その後、消費増税があったので、さらに運賃値上げになっているとは思いますが…。長崎市内の路面電車は、運賃は安いし、とても利用しやすいし、長崎市内の主要地点を移動するには、まことに便利な乗り物である。地下鉄やバスよりも、路面電車のほうがはるかに便利である。ちなみに長崎市の人口は約45万人くらいだが、石川県金沢市の人口が約40万人前後。金沢市にも、私の子どものころには、路面電車が元気に走っていたのだが、道路に車が増えてくるにつれて、どんどん路面電車が廃止になり、今では金沢市内に路面電車はひとつも残っていない。まことに残念なことである。それと比べたら、長崎市の路面電車の元気ぶりは、私にとっては驚きに見える。まあ、もっとも金沢市の場合は、第二次世界大戦の戦災が全くなかった都市なので、昔ながらの家や道路がそのまま残っていて、とても狭い道路が多い。だから車の増加によって、路面電車がたちどころに身動きがとれなくなってしまい、どんどん廃止されて行ってしまった。長崎市の場合は、戦災・復興によって広い道路が多くなり、そのために車が増えても、路面電車が身動きがとれなくなってしまうということがなかったということなのだろうか。私としては、長崎市内を元気に走り回っている路面電車に、エールを送りたい気持ちです。

 

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■長崎県1・長崎1・「長崎平和公園」1(平和公園・爆心公園)

 

□東京から航空機・博多からJR特急かもめ号を乗り継いで行った長崎平和公園・爆心公園

 

毎年8月になると89日の長崎・原爆の日がやってくる。私も長崎には何度か行っており、そのたびに長崎平和公園、爆心公園を訪れている。長崎の地は、東京からはあまりにも遠い所にありますね。「どれくらいの距離があるのだろうか」と、グーグルマップで検索したところ、私の東京の自宅から長崎平和公園まで、道路の距離にして何と1221キロもある。1993年の全国旅行で長崎に行った時は自家用車で行きましたが、2008年初頭に長崎に行ったときは、羽田~福岡までが航空機、博多~長崎は特急かもめ号で往復。JR長崎駅という玄関口から長崎市内に入った。2008年はすでに四十代後半になっていたので、車で東京~長崎を走破する馬力は残っていなかったですね。羽田~福岡まで航空機を利用したのは、航空機の便数の関係だった。

かつて長崎駅からは、東京駅・京都駅・新大阪駅・大阪駅などへの 長距離寝台特急の「さくら」・「みずほ」・「あかつき」があり、 「さくら」と「みずほ」は東京駅まで、「あかつき」は京都駅〈または新大阪駅〉まで1日各1往復走っていたが、今は全て廃止になっている。長距離の移動の主流は、航空機と新幹線になった今の時代、寝台特急が元気だった時代は終わったということだろうか。

東京から長崎に行くには、羽田~長崎を航空機で行くか、ないしは羽田~福岡を航空機で、博多~長崎を特急かもめ号で行くか、どちらかだろう。ちなみに羽田~長崎は航空機で約2時間。長崎駅~長崎空港までバスで約1時間。羽田~福岡は航空機で1時間40分。福岡空港~博多駅まで地下鉄で約10分ほど。博多~長崎を特急かもめ号を利用すると約2時間。東京~長崎駅までは約4時間というところか。東京~博多を新幹線のぞみ号、博多~長崎を特急かもめ号で、というコースもあるが、東京~博多を新幹線のぞみ号で約5時間かかるため、東京~長崎は特急かもめ号乗り継ぎで約7時間以上かかる。これで行く人はほとんどいないのではないだろうか。

福岡空港からJR博多駅までは、電車で10分とかからないくらい便利な所にある。JR博多駅前のホテルで一泊。翌朝、JR博多駅始発の特急かもめ号に乗って長崎に向かう。

かもめとは、JR九州が博多駅~長崎駅間を鹿児島本線・長崎本線を経由して運行している特急電車で、JR九州の看板列車のひとつになっている。かもめ号は、通称「白いかもめ」とハイパーサルーンの「かもめ」と二種類あって、1日に25往復が運行されており、九州の首都・福岡市(博多)と主要都市・長崎を結ぶ大動脈になっている。私が乗車した日は、下り長崎行きも上り博多行きも、普通車指定席には、かなりのお客さんが乗っていた。見るからに、ほとんどのお客さんが、ビジネスマン風の人たちでしたが。博多~長崎は、九州新幹線の西九州ルートが計画されている区間であり、この区間の建設計画と並行在来線問題は、時折、全国ニュースになったりして私の耳に入ったりしてきていた。この問題がけっこう長い間、佐賀県・長崎県とJR九州の間で揉めていたようでしたが、200712月、合意に達したという情報が入ってきた。

「九州新幹線西九州ルート着工に向けた三者合意について」

http://www.jrkyushu.co.jp/071217_news_release.jsp

 

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■広島県1・広島1・「広島平和公園」1(原爆戦没者慰霊碑・原爆ドーム)

 

□確認できなかった広島平和記念公園・原爆戦没者慰霊碑にあるとされるWe」が入る英文碑文

 

毎年8月になると86日の広島・原爆の日、89日の長崎・原爆の日、815日の終戦の日がやってくる。86「原爆の日」は、アメリカ軍が広島に原子爆弾を投下した日。昔は「原爆記念日」なんて言っていたが、原爆が投下された日「記念日」と言っていいものかどうか、という疑問はある。今は「原爆忌」とか「原爆の日」と言うようである。海外では「ヒロシマ」というふうに、原爆投下の日とともに、広島の名前が広く知れ渡っている。

その広島・原爆の日のニュースを聞くと、何度か広島に旅行したときに、広島市の「広島平和記念公園」を訪れたときのことを思い出す。ここへ行ったときは、原爆戦没者慰霊碑の前で、鎮魂の祈りをささげていますが、原爆投下という一瞬の出来事のために、あっと言う間に命を奪われてしまった人たちのことをここで思うと、ホントにいたたまれない気持ちになった。「広島平和記念公園」に何度も行ったが、いずれのときも、原爆戦没者慰霊碑の前に、たくさんの花が添えられていたのは印象に残ります。

「広島平和記念公園」原爆戦没者慰霊碑には「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」という碑文が刻まれている。これは1990年代の頃、「朝まで生テレビ」という番組を見て知った。おそらく19906月の広島ホームテレビでの収録した「激論! 地球新時代の戦争と平知と核」のときではないかと思う。そのテレビ番組やいろんな場で、原爆投下をしたのはアメリカであり、広島をはじめ日本全国の主要都市が焼け野原になるまで戦争をしたのは日本政府なのだから、この「過ちは 繰返しませぬから」という碑文が、「不適切ではないか」という批判を何度も聞いた。

それに対して広島の平和団体からの反論は、たしかに日本文の碑文は主語がない文体になっているが、英語の碑文は主語が「We」となっていて、人類全体が過ちを犯さないことを誓ったものだ、というものだった。これを聞いて知っていたので、「広島平和記念公園」に行った時、原爆戦没者慰霊碑にあるとされる英語の碑文を探してみた。しかし日本文の碑文は確認できたのですが、その「We」が入った英文の碑文は、どこに書いてあるのか、確認できませんでした。この英文の碑文って、どこに書いてあるんですか??碑文の内容はともかく、何度ここへ行っても、ここへたたずんだ瞬間に、ホントに気持ちが厳粛になり、原爆投下で亡くなられた方々の心を思う場所です。

その広島平和記念公園の中にあるのが、広島平和記念資料館。ここは、広島市への原子爆弾投下の惨状を今に伝える資料を展示する資料館である。この広島平和記念資料館の中の展示を見ていると、まさに胸を締めつけられる思いがします。原爆投下によって、凄まじいばかりの放射線、熱線、爆風が発生し、これがさまざまな地獄絵図を地上にもたらした。石段に人の跡が影のように残った人影の石、原爆投下時刻で停止してしまった腕時計、ケロイドの標本…など、原爆投下に関する、いろいろな資料が展示されている。これらひとつひとつの展示を見ていると、原爆・核兵器というものが、いかに悲惨な結果をもたらすのか、いかに悲惨な大量破壊兵器であるか、ということが、ストレートに伝わってきます。

 

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■日光山輪王寺・東照宮1(乗り換えなしの直通・外国人観光客)

 

1990年に世界文化遺産に登録されて外国人観光客が大幅に増えた日光山輪王寺・東照宮

 

日光山とは、輪王寺、東照宮、大猷院、二荒山神社等、日本で十番目に世界遺産に登録された21寺、国宝9棟、重要文化財94棟を含む建造物一帯をさす。21寺とは輪王寺、東照宮、二荒山神社で、現在は21寺で別々になっているが、明治維新以前は「神仏習合」で「日光山」として一体であった。今の堂宇が大規模整備された江戸時代、「神仏習合」の地であったため、今でも21寺のはっきりとした境界線はなく、輪王寺所管の堂宇は山内一円に散在している。

日光山の創建は766(天平神護2)年までさかのぼり、勝道上人が輪王寺の前身である四本龍寺を建立したのが、はじまり。勝道上人は二荒山神社本宮を建立。平安時代に二荒山と改称。朝廷から一山の名前として満願寺の名を授かる。後に円仁の来山で天台宗になる。鎌倉時代に天皇家から門跡を招く皇族座主の制度がはじまった。かくして日光山は神仏習合の一大霊地になった。

江戸時代、徳川家康、秀忠、家光の三代将軍に仕えた天海大僧正が座主になり、日光東照宮を造営した。1617(元和3)年、徳川幕府2代将軍秀忠が、家康の遺言により、徳川家康・「東照大権現」を祭神として創建したもの。そして家康を深く尊敬していた徳川3代将軍家光が、莫大な費用と時間をかけて大改築を行った。いわゆる「寛永の大造営」で、現在の豪華絢爛な日光東照宮が生まれた。江戸時代には、皇族法親王の輪王寺宮が天台座主として、比叡山延暦寺、東叡山寛永寺、日光山の貫首を兼任。天台宗三山になる。

東照宮の建物には、驚くほどの細密な彫刻、漆、金箔が使われ、まさに豪華絢爛そのもの。権力者が漆、金箔を貼りめぐらせた建造物としては、日光東照宮の他、平泉中尊寺金色堂、宇治平等院鳳凰堂といったものがある。いずれも権力者が威信をかけて造営したものだから、いずれも豪華絢爛な建造物である。神仏習合だったためか、神社建築と寺院建築が混在したような建物になっていて、漆、金箔を貼りめぐらせた堂宇はすごいの一言ですが、数百年の歳月が経過しているせいか、漆、金箔が色あせてしまって見える。

明治維新の神仏分離令によって、一時、名前が満願寺になったが、1883(明治16)年に寺号復活が許されて輪王寺になる。慈眼堂の境内の一角には歴代法親王の墓所がある。

私は今まで何度か日光東照宮・輪王寺に行っているのですが、いずれも東武特急で行っている。東武特急も昔と比べて、ずいぶん様変わりしたと思う。東武日光線が東武スカイツリーラインと改名。すつては東武線内だけを走っていた東武特急スペーシアの一部が東武日光~JR新宿を走行。新宿~栗橋はJR線内を走る。かくして昔の通り東武線内だけを走る東武特急とJR線・東武線を走る東武特急の二本立てになっている。

 

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■京都府2・京都2・「民宿・松井本館・花やしき浮舟園」1(宿泊)

 

□食事中に主人がトイレの汲み取りをはじめ部屋の中が糞尿の悪臭で充満した京都の民宿

 

京都に行って寺跡調査・寺院巡りをすれば、少なくとも京都で1泊ないしは2泊ぐらいはすることになる。私はそれこそ日本全国各地に寺院巡りの旅に行っているが、私にとっての寺院巡りの旅は、自宅を出た瞬間にはじまっている。だから私にとっては、寺院の中の出来事のみならず、電車やバス、車、航空機の旅からホテルの宿泊、食事、入浴からセックス、スナックやレストランに入ったことまで、全てが寺院巡りの旅の出来事に入ってしまう。これらの全てが、寺院巡りの旅の1ページになっているのである。

寺跡調査・寺院巡りの旅は一人旅ないしは二人旅。宿泊先は、大半がビジネスホテルやシティホテルになる。格安のビジネスホテルやシティホテルもJTBで予約が出来る。ビジネスホテルやシティホテルは、京都駅周辺や寺院仏閣が多い東山周辺でよく宿泊した。この場合は食事は、夕食は外のレストランで朝食はホテルのバイキングというパターンが大半。入浴は大浴場があるホテルと大浴場がないホテルがあり、大浴場がないホテルだと、部屋にある風呂に入らなければならない。男と女の二人旅だったら、この他にセックスが加わる。()

ここでは、食事付きの民宿、ホテル、料亭旅館に宿泊した時のことを書いてみたい。

私がまだ三十代のころの全国旅行で京都に来たとき、京都東山の慈照寺銀閣にほど近い民宿に宿泊したことがあった。ここは、二十年以上経っても、とても印象に残っている民宿。

というのは、車で民宿に着いた後、「さあ、どうぞどうぞ」とばかりに、部屋に案内された。民家の中にある狭い風呂に入った後、部屋で食事。料理が次々とテーブルの上に並べられ、ビールは何と大瓶のキリンビール。大瓶のビールが出てきたというのも珍しかった。

この民宿がもうひとつ特徴的だったのは、トイレが水洗式トイレではなく、昔ながらの汲み取り式トイレだったこと。私の実家もそうだが、昔からつづく民家は、みな汲み取り式のトイレだった。これが市町村の下水道事業が推進され、徐々に水洗式トイレに変わっていった。この時、すでに私の実家ですら、地元T町の下水道事業で水洗式トイレになっていたのに、京都市内にあるこの民宿が、まだ汲み取り式トイレだったので、「あれ、まだ汲み取り式トイレなの」と思ったくらい。

さらにこれには、オマケ話しがついた。私たちが部屋でビールをのみながら食事をしていた最中、何とこの民宿の主人が、汲み取り式トイレの糞尿の汲み取りをはじめたのである。これにより、汲み取り式トイレから糞尿のものすごいクサイ臭いが、食事をしていた部屋の中にまで立ちこめてきた。しかも主人の汲み取りが長時間にわたったため、食事をしていた部屋の中は、糞尿の悪臭で充満してきた。これではとてもビールや食事どころではない。二人で早々に部屋で寝たのだが、もちろん糞尿の悪臭が充満する中で寝ることになり、とてもゆっくり寝るどころではなかった。

 

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■「京都国立博物館2(日蓮と法華の名宝展の見学2)

 

□日蓮真筆曼荼羅・日蓮真筆遺文の拝観で開催の意義が大きかった「日蓮と法華の名宝展」

 

「日蓮と法華の名宝展」では、注目される展示が多数あったため、私も、館内で見学していたとき、一生懸命、メモ帳にメモをとっていました。すると館内にいた係員から「ポールペンでのメモは遠慮して下さい」とのこと。じゃあ、鉛筆でメモをとるしかないじゃないか、ということで、鉛筆を係員から借りてメモをとっていました。

「日蓮と法華の名宝展」見学が終わった後、京都国立博物館のミュージアムショップに入ったのですが、そこに、「日蓮と法華の名宝展」に出展された全展示物の写真と解説が載っている分厚い本「日蓮と法華の名宝」が売られていましたので、それを買いました。これに私が館内で懸命にメモっていた解説文が全部載っていた。

日蓮真筆の大漫荼羅本尊や遺文は、各々格蔵している寺院の虫払法要や宝物館の展示で拝観できるケースが結構ある。千葉県市川市・中山法華経寺の聖教殿のお風入れでは、国宝の「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」「立正安国論」及び、重要文化財61巻他の日蓮真筆遺文が拝観できるし(---ただし近年は中止されている---)、静岡県の岡宮・光長寺や北山本門寺等々の御虫払い法要では、日蓮真筆本尊数点が拝観できる。しかし、複数の寺院に格蔵されている日蓮真筆の大漫荼羅本尊や遺文が展示されるのは、こういう企画展での展示のみでしょうね。

しかも寺院のお風入れや虫払い法要と言うことになると、参詣者が制限されたりしますが、企画展は、広く一般に公開されるものです。そういう意味で、京都国立博物館で開催された「日蓮と法華の名宝展」の意義は、まことに大きかったと思います。「日蓮と法華の名宝展」の主催者の方、後援の方々に対して、甚々の感謝の意を表したいと思います。

ただ、2003年に東京国立博物館で行われた「大日蓮展」、そして2009年に京都国立博物館で行われた「日蓮と法華の名宝展」もそうですが、出展された展示は、そのいずれもが日蓮宗系の寺院に格蔵されている大漫荼羅、遺文、坐像、画像等々ばかりで、日蓮正宗の寺院に格蔵されているものがひとつもないばかりか、富士門流の寺院に格蔵されている物すら、ひとつもありません。

日蓮聖人門下連合会には、唯一、富士門流の日蓮本宗(要法寺門流)が加盟していますが、今回、日蓮本宗から出展されたものは、ひとつもありませんでした。日蓮正宗に至っては、過去の日蓮に関する企画展で、自らが格蔵している大漫荼羅、遺文、坐像、画像等を出展したというのを、見たことがありません。否、出展どころか、日蓮聖人門下連合会にも加盟していません。自ら加盟しないのか、加盟できないのかは、わかりませんが。

日蓮正宗は、というより、創価学会、顕正会を含めて日蓮正宗系は、同じ日蓮門下の他宗と交流を持とうとしない。わずかに、正信会系の興風談所や創価学会系の元日蓮正宗僧侶・松岡幹夫氏、元日蓮正宗僧侶の花野充道氏あたりが、他宗と交流を持っているだけですね。

興風談所は、教学誌「興風」を発行するなどして、他宗と交流しており、日蓮正宗大石寺を離脱した松岡幹夫氏も、東京大学の博士号をとって、各所で講演するなどしている。

 

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■「京都国立博物館1(日蓮と法華の名宝展の見学)

 

2009年の日蓮・立正安国論奏進750年記念で京都で開催された「日蓮と法華の名宝展」

 

日本の国立博物館は、東京、京都、奈良、九州と四カ所あるのですが、このうちの京都国立博物館には、2009年の日蓮・立正安国論奏進750年「日蓮と法華の名宝展」が開催された時に行ってきました。ちょうど、私が日蓮本宗本山・要法寺末寺・實報寺の住職との単独会見と實報寺墓苑墓苑にある日目正墓等々の写真撮影を終えて、このまま京都国立博物館に足を運んだ。この京都国立博物館のある所は、京都・東山七条で、東山五条の鳥辺山・實報寺からは、そんなに遠くない所にある。この地は、近世までは方広寺の境内の一部だったところで、1870年から1876年までは恭明宮(明治の神仏分離後、それまで御所の御黒戸に安置されていた仏像や歴代天皇の位牌を安置していた施設)があった所。方広寺・豊国神社とは、となりあわせになっている。

日蓮に関する展示は、今までも何度か博物館で開催されてきており、私も見学に行っていますが、京都で行われた展示に見学に行ったのは、この時がはじめて。20031月~2月にかけて東京国立博物館で、日蓮・立教開宗750年記念「大日蓮展」があり、私も見学に行っている。この時の展示で印象に残っているのは、日蓮真筆の観心本尊抄、立正安国論、臨滅度時の本尊等でした。こういう企画展で、なにが印象に残るかというと、こういう日蓮真筆の展示である。有名な画家の誰それが描いた画とか壺が出展されていましたが、そういうのよりも、日蓮真筆の大漫荼羅であり、日蓮真筆の遺文(御書)です。ただし、日蓮真筆の観心本尊抄、立正安国論については、千葉県小湊の誕生寺で、日蓮真筆のレプリカが拝観できますけどね。

さて「大日蓮展」の主催者のひとつに、日蓮聖人門下連合会というのがありましたが、京都国立博物館の「日蓮と法華の名宝展」の主催者に、日蓮聖人門下連合会が名前を連ねていました。これに加入しているのは、日蓮宗、顕本法華宗、日蓮本宗、法華宗陣門流、法華宗真門流、法華宗本門流、本門法華宗、本門仏立宗、日本山妙法寺、国柱会、京都日蓮聖人門下連合会の11団体。これは、1960年(昭和35年)、国柱会が日蓮門下の連携を目指して主催、発足させたもので、各法華宗と多くの共同事業に携わっています。

主なものでは日蓮聖人降誕750年慶讃「聖伝劇日蓮」明治座公演(昭和46年)。

《日蓮聖人700遠忌記念事業》として 日蓮聖人劇・日蓮聖人展(昭和56年)。

1988年(昭和62年)、比叡山開創1200年記念法要、2003年(平成15年)、立教開宗750年記念事業「大日蓮展」、2009年(平成21年)、立正安国論奏進750年記念事業「日蓮と法華の名宝展」等があります。この日蓮聖人門下連合会には、富士門流の日蓮本宗(要法寺)が加入しているのが、目を引きます。現在、京都国立博物館では、平常展示館の解体と、平常展示機能を持つ百年記念館の建設工事が進捗中で、南門ミュージアムショップは完成していました。これによって、「日蓮と法華の名宝展」は、レンガ造りの特別展示館(旧・本館)で行われていました。

 

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■京都府1・京都1・「京都駅」1(西日本最大級のターミナル駅)

 

私はほぼ1年に1回、ないしは2年に1回くらいのペースで京都に行っている。もちろん主な目的は、仏教関連の寺跡調査だが、古都・京都には仏教寺院がそれこそ無数にあるばかりか、歴史史跡等も山のようにたくさんある。とてもじゃないが、1日や2日で全てを見学するなど不可能である。又、せっかく寺院に行っても、誰もいなかったり、充分な見学や調査ができないこともある。だから同一寺院を、何度も訪ねることだってある。

その京都へは、東京からは何十回と行っているが、実は実家のある北陸からも何度も行っている。東京から行く場合は東海道新幹線を利用することが一番多いが、自家用車を運転して東名・名神高速をかっ飛ばして行ったことも何度もある。上野駅入谷口、東京駅八重洲口から深夜バスを利用して行ったこともある。北陸から京都に行った時は、特急サンダーバード号(昔は特急雷鳥号)を利用したときと、自家用車で北陸道・名神高速をかっ飛ばしたときも何度かある。

新幹線、特急電車、深夜バスで京都に行くと、降り立つ所はJR京都駅。古都・京都のメインターミナルである。現在の京都駅の駅舎は、ものすごくモダンで立派な駅舎に生まれ変わっている。京都駅は、京都市街の南のはずれにあるが、駅のターミナルは北側と南側にある。北側は烏丸口。南側は八条口。烏丸口は主にバスターミナル、八条口は主にタクシー乗り場になっている。

東京から深夜バスで京都駅に着いたときも、烏丸口に停まりました。東京を24時ころ出た深夜バスは、京都駅に6時半ころ到着。運賃もなかなか手頃。かつて東海道線に「銀河」という寝台列車が走っていましたが、これも利用客が減少して廃止になった。単に運賃だけだと「銀河」も深夜バスもさほど変わらないのだが、「銀河」は運賃の他に特急券・寝台券を買わなくてはならないため、割高になった。

電車・深夜バスで京都に行き、さて京都市内を廻る交通手段として、京都駅烏丸口で1日乗車券を買ってバスを利用したことも何度もあった。たしかに1日バス乗車券は安いのだが、いかんせん、私は京都市内の路線バスがどうなっているのか、さっぱりわからない。だから例えば最初に京都御所に行き、次に金閣に行こうとすれば、どのバスにどうやって乗り継いで行っていいのか、さっぱりわからない。だからどうしたかというと、京都御所からバスで京都駅前に一旦もどり、それで京都駅烏丸口から金閣に向かうバスに乗ったという次第。さらに金閣から次の見学地に行く場合も同じ。だから1日バス乗車券を使って京都市内を廻ると、料金的には安いが、時間がえらくかかってしまう。「それじゃあ、京都御所に行ったのなら、その近くを見てまわればいいじゃないか」となるかもしれないが、そうすると、自分が行きたい寺院や旧跡に行けなくなる。だから京都市内の寺院巡りをするときは、京都駅近辺でレンタカーを借りるか、あるいはタクシーを乗り継いで寺院巡りになったこともかなりある。軽自動車をレンタカーで12時間借りても、ガソリン代や保険代、駐車料金を入れて8000円くらいかかってしまう。これだったら、タクシーを乗り継いだほうが安上がりになったケースが多々あった。

 

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■長野善光寺1(2014年初詣)

 

□マイナス5度の厳寒の長野市内の街中を歩いて参詣した2014年・善光寺初詣

 

2014年の初詣は、長野・善光寺に行ってきました。善光寺に行ったのは2003年の御開帳以来のこと。久しぶりに荘厳な善光寺の雰囲気を肌で感じることができた、私にとってはまことに有意義な初詣になった。今回は、東京駅1924分発の長野新幹線「あさま号」に乗って長野へ。21時かぎに長野駅に到着。長野市内のビジネスホテルに宿泊。東京からは長野新幹線「あさま号」を利用すれば、約1時間3040分前後で長野駅に到着する。長野新幹線は、もともとは北陸新幹線の一部区間で、2015年春には、長野から金沢が開通し、いよいよ「北陸新幹線」としてスタートすることが決まっている。長野新幹線開業以前は、JR信越線経由で在来線特急あさま号が上野~直江津、在来線特急白山号が上野~金沢を運行していた。名古屋方面からは、昔も今もかわらず、中央西線、篠ノ井線経由で在来線特急しなの号が長野駅に乗り入れている。

長野には空港がないため、長野市に行くには電車、バスを利用するか、ないしは自分で車を運転して行くしかない。善光寺の最寄り駅は、新幹線や特急が停車する長野駅で、しかも長野駅から徒歩で行ける距離にあるので、割とアクセスは便利だと思う。ただし長野新幹線の開業で、上野~直江津を走る在来線特急あさま号が廃止になり、新潟・富山・金沢方面から長野への交通が不便になってしまった。がしかしこれも2015年春の北陸新幹線の開業で不便さも解消するものと思われる。長野駅も、長野新幹線開業によって、駅舎が新築され、ずいぶんモダンな駅舎になった。

長野新幹線「あさま号」が関東平野を走り抜け、高崎駅を過ぎた所で上越新幹線と分岐。碓氷峠のトンネルを抜けると長野県に入る。長野駅新幹線ホームに降り立つと、寒さに思わず身が震えてしまう。夜21時の長野市の気温は、マイナス2度。寒いですね。しかし長野市内にほとんど積雪はない。雪無しの状態で気温が低いのである。翌朝の気温はもっと低く、何とマイナス5度。思わず「寒いなあ」と言うと、ホテルマンは「長野で、これくらいの気温は、当たり前ですよ」と言う。

東京でマイナス5度まで気温が下がったことは、私の記憶の中にはない。マイナス2度になったら、それこそ「異常低温だ」「寒波到来だ」と大騒ぎになるだろう。

朝は、ホテルのレストランで、バイキング式の朝食。ホテルから善光寺までは、徒歩で参詣しました。長野駅周辺から善光寺までは、歩いて行ける距離にある。長野市という街自体が、古刹寺院・善光寺の門前街と言うことができる。しかし気温はマイナス5度。吐く息が白い。寒さに震えながら、足早に善光寺へ歩いて行った。

善光寺大門から三門の間には、「仲見世」と呼ばれる売店街がある他、長野駅から善光寺に行く表参道の両脇にも、参拝客をあてこんだ飲食店や商店が建ち並ぶ。仲見世や表参道で目立つのは、手打ちそば店。長野は信州そばの本場ということもあり、そば店が軒を並べている。

正月初詣客が多い時期には、参道にテキ屋の露店も軒を並べる。

 

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■佐野妙顕寺2(猊下から庫裡の応接間の座敷に通される)

 

□斉藤日軌貫首猊下から佐野妙顕寺庫裡の応接間の座敷に通される

 

佐野市とは栃木県南西部に位置する市で、一説によれば、日本列島の中心に位置しているとも言われている都市。関東近県にある都市ですが、東京から行くと、かなり遠く感じました。

まず東京地下鉄を乗り継いで北千住駅へ。ここで東武特急りょうもう号に乗車。東武伊勢崎線・館林駅で、東武佐野線の各駅停車に乗り換え。ところが特急と各駅停車がぜんぜん時間的に接続しておらず、約30分くらい、ホームで待たされてしまう。

東武佐野線の電車に乗って佐野駅で下車。佐野妙顕寺へは佐野駅から徒歩1520分くらいと書いてありましたが、方向が全くわからず、佐野駅前からタクシーに乗って佐野妙顕寺へ。タクシーで56分くらいで着きました。

佐野妙顕寺に到着後、本堂前にて拝礼した後、「天目上人御墓所」と書かれた大きな看板が目に入ったので、そっちへ。佐野妙顕寺に来た目的のひとつが、大石寺の偽書「本尊七箇相承」に書いてある天目命名の真偽を確かめる、ということがあったので、天目墓所に何かヒントがあるのではないかと思い、墓所後方にあった案内板の記述を読んでみました。

案内板の記述には、天目の生い立ちについては書かれていたが、命名の謂われについての記述はなし。しかしこの案内板の記述、私が一見しただけでも、「熱原甚四郎」「永仁二年、時の将軍足利義教より寺領三百石を寄進され…」等の誤った記述が見られる。「熱原甚四郎」は熱原神四郎の間違い。「永仁二年」は、1432年(永享4年)の間違いだと思われる。

これは、どうも天目命名の謂われは、貫首猊下に聞くしかないかな、と思い、天目墓所から庫裡受付へ行ってみることにした。

境内に目を遣ると、数人の僧侶が私のほうを注目しているのが見えました。

私が庫裡に入ろうとすると、庫裡の入り口は何と自動ドア。私がドアに近づくと、開き戸が一気に両側に開いたので、私のほうがビックリ。庫裡の玄関ドアが自動ドアというのも、珍しいのではないだろうか。

庫裡の玄関の中には受付があり、若い僧侶と寺族の女性がおり、私が「昨日、電話をした者です」と告げると、「あーあー」という感じ。受付にて斉藤日軌貫首猊下の著書「日蓮宗の戒壇-その現代的意義」を購入。早速、若い僧侶に、日蓮宗の戒壇についての見解等を尋ねると「今、貫首を呼んでまいります」と言って外へ。しばらく待っていると、外から斉藤日軌貫首猊下が若い僧侶と中に入ってきました。

斉藤日軌猊下は、ずいぶん体格の大きな人で、身長も私より高い。私も体格が大きいと言われることがあるのですが、斉藤日軌猊下は、私よりもひとまわり体格が大きな人。私は佐野妙顕寺に来た目的を説明すると、猊下から「あなたは、誰なのか」との質問。そこで来訪先で見せている「アンチ日蓮正宗」の名刺を手渡す。佐野妙顕寺に行ったのは、「アンチ日蓮正宗」をブログ化する前で、「仏教宗学研究会」ブログもなかったころのこと。

妙顕寺5 

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■正倉院展1(63回正倉院展を見学1)

 

20111112日に父と二人で奈良国立博物館の第63回正倉院展の見学に行き、mixiボイスでつぶやきを書いたところ、たくさんの方からイイネをいただきましたのと、この正倉院展の具体的な内容について、いくつかの質問・問い合わせをいただきました。それで、正倉院展見学に行ったときのことを書こうと思います。

正倉院展2

 

東大寺・正倉院に収蔵されている宝物は通常時、非公開。正倉院そのものは東大寺の境内にあるが、正倉院の管理は宮内庁が行っており、正倉院の中に一般は入れず、もちろん、見学もできない。その正倉院展に収蔵されている宝物が毎年、年1回、奈良国立博物館で一般公開される。

しかし管理する宮内庁が整理済みの正倉院宝物だけで約9000点に上るが、このうち正倉院展で公開される宝物の品目は毎年変更され約70点のみであるとのこと。

フリー百科事典・Wikipediaによれば、正倉院宝物が一般公開される最初は、1875年~1880年、毎年開催された奈良博覧会の一環として、東大寺大仏殿回廊で、一部が一般に公開されたことだという。1889年~1940年には、正倉院の曝涼(宝物の「虫干し」のこと)の際に、限られた人々に拝観を許していたのが、正倉院展のはじまりと言われている。

「正倉院」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%80%89%E9%99%A2

 

正倉院展という催しは毎年、奈良国立博物館で行われているが、第63回正倉院展は20111029()1114()まで無休で開催され、私は1112()に行ってきました。今回の最大の見所は、14年ぶりに出展されたという「蘭奢待」(らんじゃたい)です。

蘭奢待とは香木の一種で、正式名称は黄熟香(おうじゅくこう)。「蘭奢待」という名は、その文字の中に"東・大・寺"の名を隠した雅名です。

これは元々、東南アジアで産出される沈香と呼ばれる高級香木で、日本には9世紀頃に中国より伝えられたとされる説が有力。一説には『日本書紀』や聖徳太子伝暦の推古天皇3年記述を云う説もあります。

普段は、奈良市の正倉院・中倉薬物棚に納められており、これまで足利義満、足利義教、足利義政、土岐頼武、織田信長、明治天皇らが切り取って、この高木の香りを楽しんだと伝えられており、古くから日本の権力者にとても重宝がられた香木として有名。

足利義政、織田信長、明治天皇が切り取った跡には、紙箋がありますが、学者の研究によれば、もっとたくさんの人物によって、数百箇所以上、切り取られているといいます。

蘭奢待2
 

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日蓮本宗・鳥辺山實報寺5(鳥辺山に要法寺開山本廟を発見)

 

私は、とにもかくにも京都に行って、自分の目と耳で確認する以外にないと思い、京都・東山五条の鳥辺山に行くことにしました。2009年秋のことです。

私は、それまで京都の東山や東山三条、三条大橋周辺も何度も行っていますし、国道一号線や東山五条も、何度も通っているのですが、この「鳥辺山」については、全く気づきませんでした。

この時は、東京・上野駅前から深夜高速バスに乗って京都駅前に降り立ち、食事をして後、京都市営バスに乗って東山五条へ。すると「鳥辺山」と地図に書いてあった場所に行ってみるとビックリ。なんとそこには、浄土真宗の開祖・親鸞の廟があったのである。

「大谷本廟 親鸞聖人七百五十回大遠忌法要」と書いた立て看板がありました。

正式名はここに書いて有るとおり「大谷本廟」というらしい。せっかくここまで来たついでに、大谷本廟の中に入ってみましたが、朝の速い時刻だったにもかかわらず、何人もの参詣の人の姿が見えました。

「親鸞聖人七百五十回大遠忌」と書いてあったので、2009年がその年に当たるのかと思っていたら、そうではなく、親鸞は12621128日に入滅しているので、「七百五十回大遠忌」に当たる年は、2011年ということになる。

 

それにしても、京都・東山五条の鳥辺山まで来て、見つかったのは延年寺ではなく、親鸞の大谷本廟というのは驚いた。

親鸞の曾孫で本願寺第三世の覚如の『御伝鈔』に「鳥部野の南の辺、延仁寺に葬したてまつる」

と記されているということからして、親鸞も京都・鳥辺野に葬られたと言うことのようです。

親鸞は、鳥辺山に葬られていたとしても、日目の墓や延年寺はどうなったのか。私はなんとしても情報を得ようとして、大谷本廟入り口の脇にある、みあげもの店兼仏具店に入ってみました。

少々、買い物をした後、店の主人に質問。

「このあたりに、鳥辺山墓地とか鳥辺野墓地という名前の所はありませんか」

これに対して、店の主人は

「あー、それでしたら、この前の道をずーっと登っていった左側にありますよ」

という気軽な返事。

 

「あー、やっぱりこのあたりにあるんだな」と思い、その主人に丁重なお礼を言って、大谷本廟の脇の道の登り坂を登って行きました。

「ひょっとしたら日目の正墓が残っているのかもしれない」と思い、けっこうむ期待に胸を膨らませて、登って行きました。しばらく登って行くと、左側に墓地の入り口を発見。

「ここかな」と思って、その入り口から入ってみると、入り口の脇に石碑が建っていて、そこには

「要法寺開山本廟」

と書かれていました。入り口には「實報寺」という石碑が建っていました。

實報寺14石塔


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■身延山久遠寺2(古式ゆかしい門前町)

 

はじめて身延山久遠寺に寺跡調査をしようと行ったのは、今から10年以上前のことですが、わざわざ冬の2月を選んで、久遠寺を訪ねたことを憶えています。

あの当時はまだ、東京静岡の間に、東海道線を走る特急・東海号が運行されており、私は、東京からJR特急・東海号に乗って富士駅で下車。そのまんま連絡通路を通って、接続しているJR特急・ふじかわ号に乗って、一路身延へ。

身延駅7


ちなみに、今は特急東海号という列車は廃止されたようで、身延線の列車に乗って身延に行くには、東海道新幹線で三島駅で下車して、一旦、東海道線の列車に乗り換え、さらに富士駅で身延線の列車に乗り換えなくてはなりません。特急東海が廃止になって、かえって不便になりました。

 

一度だけ、静岡市内で一泊してから、静岡駅で特急ふじかわ号に乗って身延山に行ったこともありました。

しかし今は、電車で行くのであれば、新宿駅から中央線特急スーパーあずさ号に乗って甲府駅で下車し、ここで特急ふじかわ号に乗り換えて、身延山に行くルートが便利なのではないでしょうか。

ちなみに、昔は、どういうわけか中央線特急スーパーあずさ号・あずさ号と、身延線特急ふじかわ号は、全く接続しておらず、超不便なルートであったのです。まあこれは、JR中央線がJR東日本、JR身延線がJR東海の管轄下だからではないか、とか、いろいろ言われていましたが、利用者からすれば、こんな迷惑な話はありません。

今は、甲府駅で中央線特急と身延線特急は、接続していますので、割と便利なルートに生まれ変わっています。

 

あとは新宿駅西口バスターミナルから身延山久遠寺前直通のバスが運行されています。運賃は、やはりバスで行くルートが最も割安になるようです。

 

さて特急東海号の話しに戻しますが、東海号は6両編成で、グリーン車なしのモノクラス編成。もっともルート的には東海道新幹線とかぶっていますし、新幹線が停車しない大船駅、平塚駅、湯河原駅、沼津駅では乗降が多かったようでしたが、乗車率はそんなに多いとは感じませんでした。

一方、富士駅で乗り換えた3両編成のふじかわ号は指定席・自由席ともほぼ満席状態。富士駅を出て、富士宮駅に着くと、ドカドカと中高年客が下車して行くのが見えた。

富士宮駅で中高年客が大量下車…これはおそらく大石寺に参詣しに行く日蓮正宗の信者たちではないでしょうか。

この時は、すでに宗創戦争以降のことでしたが、宗創和合時代は、創価学会員の団体専用列車が富士宮駅まで運行されていました。そういうことを考えると、隔世の感があります。

 

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■大津・富士山蓮華寺1(あの松本修明氏が住職の寺)

 

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日蓮本宗本山・要法寺5(1994年の要法寺初訪問)

 

東京から京都まで、東名高速・名神高速を車で行くと約500キロ近くある。途中、休憩・食事をはさんだとして、時間にして約6時間半くらいだろうか。

早朝7時に車で出たとしても、京都に着くのは13時すぎになる。

私は東名高速を車でかっ飛ばして京都へ行くというのは、1993年の全国旅行で一度経験済み。

その時は、朝、東京を出て、途中、浜名湖、関ヶ原に寄り道をして、京都に行ったため、京都に着いたのは夕方を過ぎていました。

 

まあ、京都までは車で行けることは行けるが、問題は要法寺の朝6時の勤行である。これはいくら何でも時間が早すぎます。東京近郊だったら、早朝6時でも、なんとか行けないこともない。

しかし、東京から車をかっ飛ばして要法寺の早朝6時の勤行に滑り込むというのは、なかなか至難の業です。東京から京都へ行く道中に於いて、事故渋滞や工事渋滞にはまり込んでしまったら、たちまち間に合わなくなる。前夜、京都市内のホテルに泊まったとしても、要法寺の朝6時の勤行に駆け込むというのも、かなりむずかしい。

そもそも、それまで私は要法寺に行ったことがなく、場所すらも知らなかったため、要法寺の場所を把握しておく必要がありました。

 

それで私は、車で京都に着いた後、要法寺に直行して、場所等を掌握し、その日の夜は、ホテルに泊まらず、車の中で仮眠、というか野宿することにしました。

京都にたどり着いた私は、早速、要法寺に行って、下見をしてみました。この時が、要法寺の初訪問でありました。

要法寺は、京都の東山三条にあるのですが、JTBガイドブック等では、さも大通りに面しているように書いてあるが、実際には、大通りには面しておらず、少し引っ込んだところにある。駐車場が境内と隣接したところにあり、そこに車を停めて、要法寺境内を見学。

本堂、開山堂、庫裡、塔頭、寺務所等々が並んでおり、寺域としてはそんなに狭くはないのだが、しかし大石寺、東大寺、比叡山延暦寺、身延山久遠寺…といった大寺院ほど広くはない。

資料によると、要法寺の境内の面積は1.35haとなっています。大石寺が70haですから、51分の1。法隆寺の18.7haと比べても13分の1になります。

境内を一見して、信者を集めて法要・行事を行う堂宇としては、本堂と開山堂のみのように思える。寺務所が庫裡(大坊)と、くっついて建っていたので、中に入って僧侶の話を聞こうと思ったのですが、だれもいない。寺務所の受付には、特に何かの資料があるわけでもなく、中はガラーンとしていました。

要法寺10寺務所


今から16年前の1995年といえば、私も今以上に血気盛んでありましたので、

「ここまで来て誰も居ないというのでは納得できない」

と思いまして、受付の窓越しに「すいませーん」と大声で何度も呼んでみた。

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