一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ

「一般社団法人 仏教宗学研究会」とは任意団体として2005年から活動している会の名称。2018年5月に一般社団法人登記。当ブログ名を「仏教宗学研究会のブログ」から「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」に改名。 「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

Category: 仏教寺院の国宝・重要文化財・世界遺産

■真宗・西本願寺3(御影堂・阿弥陀堂・国宝指定)

 

□朝日新聞、時事通信社は単に「本願寺」と書くのではなく「西本願寺」と書くべきである

 

2014516日、17日、文化審議会が西本願寺の御影堂・阿弥陀堂について国宝指定を答申したというニュースが一斉に配信された。西本願寺御影堂・阿弥陀堂の国宝指定は確実と見られている。西本願寺御影堂・阿弥陀堂の国宝指定答申のニュースをここに引用してみたい。

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本願寺の御影堂・阿弥陀堂が国宝へ 文化審が答申 20145161709

 文化審議会は16日、一般に西本願寺と呼ばれる本願寺の御影堂と阿弥陀堂(いずれも京都市下京区)の2件を新たに国宝に指定するよう文部科学相に答申した。最高裁長官の公邸となっている旧馬場家牛込邸(東京都新宿区)など7件の建造物を重要文化財に新規指定することも答申した。本願寺は浄土真宗本願寺派本山。境内中央に、親鸞像を安置する御影堂と、阿弥陀堂が並んで建てられている。共に江戸時代の建築で、当時の高度な技法が使われている。真宗本山の象徴として文化史的に大きな意義があると評価された。

また文化審議会は、宮城県村田町村田、静岡県焼津市花沢の2地区を重要伝統的建造物群保存地区に選定することも答申した。 他の重文の新規指定は次の通り。

 旧真宗信徒生命保険株式会社本館(京都市下京区)▽富田林興正寺別院(大阪府富田林市)▽神戸女学院(兵庫県西宮市)▽浜口家住宅(和歌山県広川町)▽聖福寺(長崎市)▽旧成清家日出別邸(大分県日出町)

(朝日新聞デジタル20145161709分より)

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本願寺御影堂など国宝に=神戸女学院など9件重文―文化審 20140516 18:01  時事通信社

 文化審議会(宮田亮平会長)は16日、京都市下京区の本願寺にある御影堂と阿弥陀堂を国宝に、神戸女学院(兵庫県西宮市)や最高裁長官公邸となっている旧馬場家牛込邸(東京都新宿区)など7件を新たに重要文化財に指定するよう下村博文文部科学相に答申した。 また、本願寺と聖衆来迎寺(大津市)の建物計9棟を重文に追加し、宮城県村田町の村田地区と静岡県焼津市の花沢地区を重要伝統的建造物群保存地区に選定するよう求めた。近く答申通り告示され、重文の建造物は2419件(うち国宝220件)、保存地区は43道府県108地区となる。 

(時事通信社)

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■真宗本廟・東本願寺3(世界最大の木造建築・御影堂)

 

□東大寺大仏殿よりも面積が広い世界最大の木造建築・真宗本廟・東本願寺御影堂

 

1598年の豊臣秀吉の病没、1600年の関ヶ原の合戦で徳川家康が全国の覇権を掌握すると、1602(慶長7)年、徳川家康は京都烏丸六条に寺地を教如に寄進。さらに徳川家康の仲介によって、群馬県妙安寺伝来の親鸞座像(ご真影)が教如に寄進され、ここに東本願寺が造営された。真宗本廟・東本願寺の実質的な開基は徳川家康だと言うことができる。徳川家康の東本願寺寺域寄進が、本願寺の東西分立を固定化させた。徳川三代将軍家光のときに、東本願寺は新たに六条と七条の地を加増している。

しかし東本願寺は、江戸時代に合計四度の火災にあい、現在の御影堂、阿弥陀堂は、幕末の1864(元治元)年の禁門の変で焼失した後、明治28年(1895年)に再建が落成している。

教如が東本願寺を創建した当初の御影堂、阿弥陀堂は、現在の堂宇ほど大規模なものではなかった。「古寺巡礼・東本願寺」(淡交社)によれば、御影堂の間口で約三分の二、阿弥陀堂の間口でも約八割弱の大きさだったという。これが1661(寛文元)年の親鸞四百回忌を機に新たな御影堂、阿弥陀堂再建がはじまる。御影堂の再建は1652(承応元)年にはじまり、1658(明暦4)年に竣工している。「古寺巡礼・東本願寺」(淡交社)に載っている「歴代の御影堂・阿弥陀堂の規模」によれば、慶長度の創建時の御影堂は40.91m×32.72m。明暦・寛文度の再建の御影堂は61.81m×44.99m。単層入母屋造りから重層入母屋造りに改められている。明暦・寛文度の御影堂が、1788(天明8)年の大火で焼失。さらに1823(文政6)年には失火で焼失。さらに1858(安政5)年には安政の大火の類焼で焼失。さらに1864(元治元)年の禁門の変の兵火で焼失した。先の三度の焼失については、すぐに再建作業にとりかかり、短期間で竣工しているが、禁門の変の兵火での焼失からの再建は、幕末・明治維新の激動期でもあり、なかなか実施されなかった。これが1879(明治12)年になって、ようやく明治政府が再建を発令。全国末寺門徒の協力で再建資金と巨大な巨木が集められ、明治13年(1880年)に起工し、明治28年(1895年)の竣工。再建工事に携わった大工は、御影堂が延べ約128万人。阿弥陀堂が約56万人。再建工事での殉職者は105人。ケガをした人は292人。かなりの難工事だったようである。

現在の東本願寺は約93000m2という広大な寺域の中に、南北76m、東西58m(4408m2)、高さ38m、堂内927畳の御影堂。そして南北52m、東西47m、高さ29mの阿弥陀堂がある。

現在の東大寺大仏殿は高さ46.8m、間口57m(2667m2)、奥行50.5メートル。高さは東大寺大仏殿のほうが高いが、面積は東本願寺御影堂のほうが広い。よって世界最大の木造建築とは、東本願寺御影堂ということになる。ただし奈良時代、鎌倉時代の大仏殿は、高さは約50mと同じですが、広さは間口約86m×奥行約50m(4300m2)となっている。奈良時代、鎌倉時代の大仏殿と比較しても、現在の東本願寺御影堂(4408m2)のほうが、わずかに面積が広い。

御影堂1




















 

(真宗本廟・東本願寺御影堂)

 

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■真宗本廟・東本願寺1(御影堂・阿弥陀堂)

 

□阿弥陀如来像を祀る阿弥陀堂と親鸞御影を祀る御影堂が並んで建つ真宗本廟・東本願寺

 

京都市街地の中心部に広大な寺域を持つ浄土真宗の本山がふたつある。東側にあるのが通称・東本願寺で、西側にあるのが通称・西本願寺。東本願寺を本山とする宗派名を真宗大谷派という。この真宗大谷派の本山が、いわゆる「お東さん」つまり東本願寺。ただし東本願寺とは通称名であって、正式名を真宗本廟という。かつては、真宗大谷派本山の名前に「本願寺」名を使っていたのだが、昭和から平成にかけての、いわゆる「お東さん紛争」で、真宗大谷派は本願寺の名前を廃止。真宗大谷派に包括される宗教法人本願寺も解散して、真宗大谷派に法的に吸収合併にした。これで通称名・東本願寺の正式名が「真宗本廟」になった。ただし、正式名が「真宗本廟」だから、東本願寺に宗祖親鸞の本廟があると勘違いしている人がいるが、真宗大谷派の親鸞廟があるのは、ここではなく京都東山・大谷祖廟(東大谷)である。浄土真宗本願寺派(西本願寺派)の親鸞廟があるのは、京都東山・大谷本廟(西大谷)であり、浄土真宗仏光寺派の親鸞廟があるのは、京都東山・仏光寺本廟である。また新潟県高田市の浄土真宗浄興寺派本山・浄興寺は、親鸞の弟子・善性の上古の時代から親鸞真骨を格蔵し、東本願寺、西本願寺、興正寺、仏光寺、高田専修寺に分骨したと主張。東本願寺、西本願寺、興正寺からの分骨礼状を公開している。

浄土真宗には、主要宗派が十派あり、その十派の本山寺院の堂宇・伽藍の配置が非常に特徴的である。それは中心堂宇として、本尊である阿弥陀如来像を祀る阿弥陀堂と宗祖親鸞御影を祀る御影堂の二堂が並んで建っている。ここ真宗本廟・東本願寺も同じ。阿弥陀堂と御影堂が並んで建っている。真宗本廟・東本願寺の場合は、地理的に北側に位置している巨大堂宇が御影堂で、南側に位置している堂宇が、阿弥陀堂。現在、真宗本廟・東本願寺は、平成の大修理中で、すでに御影堂の修理が完成。ひきつづいて2015年には、阿弥陀堂と御影堂門の修理・修復が完成する予定である。この阿弥陀如来像を祀る阿弥陀堂と宗祖親鸞御影を祀る御影堂の二堂が並んで建っている伽藍の並びは、日蓮宗の寺院が本尊である釈迦如来像を祀る本堂と宗祖日蓮御影を祀る祖師堂(御影堂)の二堂が並んで建っているのによく似ている。

真宗本廟・東本願寺の御影堂は、世界最大の木造建築とされており、内部には畳が927畳敷になっている。世界最大の木造建築というと東大寺大仏殿を連想する人が多い。私も小学校か中学校で、東大寺大仏殿は世界最大の木造建築だと教わった記憶がある。しかし世界最大の木造建築とは、東大寺大仏殿ではなく真宗本廟・東本願寺の御影堂である。真宗本廟・東本願寺の御影堂は、東大寺大仏殿よりも巨大である。その御影堂だが、浄土真宗十派の本山には、いずれも阿弥陀堂と御影堂が並んで建っていると書いたが、「御影堂」を「みえいどう」と読む宗派と、「ごえいどう」と読む宗派に分かれる。真宗本廟・東本願寺は御影堂を「ごえいどう」と読む。

御影堂1


 


















(真宗本廟・東本願寺の御影堂)

 御影堂門4



















阿弥陀堂3



















(平成の大修理中の真宗本廟・東本願寺の阿弥陀堂)

 

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■京都知恩院2(御影堂・平成の大修理)

 

2019(平成31)年まで「平成の大修理」の素屋根に覆われている知恩院御影堂

 

知恩院の表玄関は、三門である。2002(平成14)年に知恩院の三門と御影堂が国宝に指定されている。今の三門は1621(元和7)年、徳川二代将軍秀忠の建立・寄進によるもの。起工が1619(元和5)年だから、造営に二年の歳月がかかっている。知恩院の見解によれば、三門は高さ24m、横幅50m、屋根瓦7万枚。木造の門としては世界最大級のスケールだという。見るからに巨大な門で、三門前には駐車場が広がり、浄土宗信徒用の和順会館がある。20141月に知恩院に行った時には、駐車場に数台の観光バスが停車していました。団体参拝の人を乗せてきた観光バスではないかと思われます。

この時は、京都東山のウェスティン都ホテルに宿泊し、ホテルから徒歩で三条神宮道の信号から神宮道を歩き、青蓮院の門前を通って知恩院に行ったのですが、このあたりは車や人通りの騒音が全く聞こえない静寂な所。知恩院三門の位置は、京都市街のメインストリート・東大寺通から、少し引っ込んだ所にある。にもかかわらず大通りの騒音は全然聞こえてこない静寂な空間である。三門をくぐって男坂を登り御影堂、法然上人御堂(集会所)、阿弥陀堂近辺まで来ると、参詣者の話し声しか聞こえてこない。法然上人御堂(集会所)で僧侶の読経がはじまると、読経の声がマイクを通して境内に聞こえてくる。こういう雰囲気を味わえるのは、いいですねえ。

巨大な三門をくぐると、その先には男坂と呼ばれる急な石段がある。男坂の横手には、ゆるやかな石段の女坂がある。男坂、女坂の名の坂は、日蓮宗総本山・身延山久遠寺にもあります。

知恩院のメインの堂宇は、男坂・女坂を登り切った所にある御影堂である。ちなみに知恩院「御影堂」は「みえいどう」と読む。これが浄土真宗大谷派本山・真宗本廟(東本願寺)の「御影堂」、浄土真宗本願寺派本山・西本願寺の「御影堂」は、「ごえいどう」と読む。

知恩院「御影堂」は浄土宗開祖・法然の尊像(御影像)を祀る堂宇。御影堂は、入母屋造り・本瓦葺きで奥行き35m、間口45m、瓦の数は約9万枚という巨大な堂宇。堂内には約4000人が収容できるという。ここは1639(寛永16)年、徳川三代将軍家光によって建立されたもの。これも造営に二年かかっており、落慶したのは1641(寛永18)年である。

知恩院は1517(永正14)年に火災にあっており、多くの堂宇が焼亡しているが、法然御影像は焼亡を免れたという。戦国時代の京都は、応仁の乱、天文法華の乱等、市街地が焦土と化す戦災があり、これにより知恩院も災禍を蒙ったものと思われる。その知恩院は1530(嘉禄3)年、後奈良天皇より宸翰「知恩教院」「大谷寺」の勅額を授与され、勢至堂が再興されている。

御影堂の法然像は毎年1225日に御身拭式が行われていたが、平成23年(2011年)1225日には御影堂大修理に伴い、御身拭式の後、御影堂から法然上人御堂(集会所)遷座式が執り行われ、御影堂修理の間、法然上人御堂(集会所)に祀られている。

 

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■宇治平等院3(阿弥陀如来像)

 

□光り輝く浄土の世界の象徴であり権威・権力の象徴でもあった「金」

 

次に私が興味深かったのは、平等院鳳凰堂に祀られている本尊・阿弥陀如来像。

その阿弥陀如来像があまりにも巨大であったことと、もうひとつ。この阿弥陀如来像に金箔が貼られていたこと。鳳凰堂見学を案内してくれた係員の説明によれば、鳳凰堂の阿弥陀如来像は寄木造りで、漆・金箔が貼ってあるとのことでした。

寄せ木造りとはなんぞや、という話になりますが、寄せ木造りと対照的なのが、一木造り。

一木造りとは、一本の木から仏像を彫り出す技法のことで、寄木造りとは、数本の木材を寄せ合わせて仏像を彫る技法のこと。

漆塗り・金箔貼りになっている仏像は、全国各地の大寺院にあることはある。

「金」とは、現世での富や豊かさの象徴であり、仏教の世界においては、古くから至高の存在として、仏の三十二相の「金色相」の如く、光り輝く浄土の世界として表現されてきた歴史がある。そして同時に「金」は権威・権力の象徴でもあった。

日本ではじめて自然金が確認されたのは奈良時代中期のことである。それ以前の弥生・古墳・飛鳥時代の金製品・金メッキ・金箔製品の金は、海外から輸入されたものである。弥生・古墳時代の金の装飾品は、まさに権力者の富の象徴だった。

日本では滋賀県野洲町の甲山古墳(6世紀前半)から日本最古の金糸が発見されている。

奈良県明日香村のキトラ古墳(7世紀末~8世紀はじめ)では、天文図の星が金箔で表現されていることが確認されている。仏教伝来後の飛鳥時代になって、仏の三十二相の中の「金色相」の考えに基づき、仏像・仏具で金が使われはじめた。

 

「日本書紀」によれば、仏教は552年に百済国から金銅の仏像や経典が日本に伝わり、飛鳥時代から造仏が盛んになった。当時の仏像・仏具は銅で鋳造され、金メッキが施された。仏像や仏殿での金の使用は、仏の三十二相の「金色相」があり、仏像は金色とされ、西方浄土の世界も金色と記されているため。現在も日本を含め仏像・仏具には金色が尊ばれ、金箔が張られている。

743(天平15)年、聖武天皇は奈良・東大寺の大仏造営を決定し、仏像に金箔を飾ろうとしたところ、749年に陸奥国(宮城県)で「金」が発見され、900両の金が天皇に献上された。

天皇は年号を天平感宝と改め、歌人・大伴家持は

「すめろぎの 御代栄えむと東なる みちのくの山に 黄金花咲く」

と詠んだ。

鳳凰堂8
 

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■宇治平等院2(導師席も信者が座るスペースもない)

 

□奈良・平安時代の寺院には僧侶の導師席も信者・参拝客が座るスペースも必要なかった

 

平等院鳳凰堂の中は、ほとんどが本尊・阿弥陀如来像が祀られているスペースで占められており、僧侶や参拝客が入るスペースがほとんどない。又、阿弥陀堂内には、僧侶が座る導師席など一切設置されていない。

ここで儀式や法要をやるとなったら、阿弥陀堂の中に入れるのは、導師の僧侶だけで、参拝者は全員、外に出て参拝しなくてはならくなると思われる。

そう考えると、何と都合の悪い造りにしたものだと考えがちだが、しかしながら、藤原頼通が創建した当時は、こういう造りのほうが都合が良かった、ということである。

藤原頼通が平等院を創建した時代というのは、平安時代。その時代は、一般庶民に仏教は弘まっておらず、もちろん当時の庶民は仏教信仰とはほとんど無縁に近かった。

奈良・平安時代に仏教を信仰していたのは、僧侶の他には天皇・皇族・公家・貴族といった上流階級のみ。一般庶民が仏教を信仰し始めたのは、「南無阿弥陀仏」、座禅、「南無妙法蓮華経」といった鎌倉仏教が弘まって以降のこと。

しかし、鎌倉時代以降、庶民が仏教信仰をするようになったとは言っても、大伽藍を持つ仏教寺院は一般大衆の信仰に支えられていたわけではなく、天皇・皇族・公家・貴族、将軍、大名、武家といった特定の上流階級によって経済的に支えられていた寺院が多かった。この平等院とて長い間、摂関家・藤原氏丸抱えの寺院だったのであり、藤原氏の供養によってのみ成り立っていた。当然、そのころは一般庶民とは無縁だったということ。

これは平等院のみならず、飛鳥・奈良・平安時代に建てられた大寺院の中を見れば、一目瞭然である。

日本に仏教が伝来した当初の飛鳥・奈良時代の寺院の金堂(仏殿)は、その寺院の中心本尊・根本本尊を祀るための堂宇であったので、金堂(仏殿)の建物の内部は、仏像本尊を安置する壇(須弥壇)がほとんどのスペースを占めている。

これは飛鳥・奈良・平安時代においては、仏教を信仰していたのは、天皇・皇族・貴族・公家ほんの一部の上流階級・支配階級のみであり、この当時の寺院も、ほとんどが天皇・皇族・貴族・公家の財力・経済力で建てられた官寺であり、この時代において、仏教を信仰していたのは、僧侶と皇族・公家・貴族といった上流階級のみであり、まだ仏教は一般庶民まで広く流布していなかった。金堂(仏殿)の建物に、たくさんの人を収容するスペースは不要だったのである。

これは、飛鳥・奈良・平安時代に建てられた東大寺、唐招提寺、興福寺、薬師寺の金堂、法隆寺の金堂、夢殿、平等院鳳凰堂の中は、皆そのようになっている。東大寺の大仏殿(金堂)も、中に祀られている大仏は巨大であるが、大仏殿の前に参詣者が入るスペースはほとんどない。

ただし、東大寺等、創建は飛鳥・奈良時代でも、戦乱等で焼失して再建された寺院も多い。

そういう意味で、飛鳥・奈良・平安時代に建てられた堂宇がそのまま残っている法隆寺や平等院鳳凰堂の存在はまことに貴重である。

 

鳳凰堂6
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■宇治平等院1(平安時代の創建当初の堂宇)

 

平等院とは、京都府宇治市にある摂関家・藤原氏ゆかりの寺院で、鳳凰堂が十円硬貨の表の絵柄として、あまりにも有名。私も寺跡調査で、何度か来ています。

平等院は、周書異記の末法初年説である1052(永承7)に、関白・藤原頼通が父親・藤原道長から譲り受けた別荘を寺院に改めて創建したのがはじまり。

平安貴族が夢見た極楽浄土を形にした鳳凰堂は、創建の翌年、1053(天喜元年)、阿弥陀如来像を安置する阿弥陀堂として建立されたもの。

当初、平等院は広大な境内と伽藍を持つ大寺院であったが、たび重なる戦火によって焼失。現在、残っている創建当初の堂宇は鳳凰堂のみ。観音堂は鎌倉時代の堂宇、塔中の浄土院は明応年間(1492 - 1501年)、最勝院は承応3年(1654年)の創建とされている。

平安時代の平等院には、阿弥陀堂の他、金堂、講堂、法華堂、宝蔵等があったとされる。

鳳凰堂は、正式には阿弥陀堂と言うが、なぜ鳳凰堂と言うかというと、まず阿弥陀堂の屋根に鳳凰が乗っていること。

そして建物全体が両翼と尾を伸ばしたような形になっているため、あたかも鳥が羽を広げたようにも見えることから、鳳凰堂と呼ばれるようになった、ということ。

阿弥陀如来像も阿弥陀堂も、堂内の壁画等もすべて、国宝に指定されている。本尊である阿弥陀如来像は、仏師定朝の最高傑作とされる。

 

平等院見学の大きなポイントは、鳳凰堂の見学であることは、言うまでもありません。鳳凰堂の見学に入ったのは、2010年に平等院参拝に行ったときのことです。

鳳凰堂の見学は、事前申し込み制で、501グループによる見学。つまり1回の見学で申し込みが50人を超えた段階で締め切りになり、次の時間の見学に回されてしまう。

鳳凰堂入り口のすぐ近くに見学受付があり、拝観料200円を支払って見学を申し込むと、○○時△△分と書いた見学券をくれる。

境内を見学した後、集合時間5分前に鳳凰堂入り口に行くと、すでに長蛇の列ができていました。

私は1550分からの見学。

見学開始に当たって、鳳凰堂に入る前に係員から注意事項の説明があった。内容は

○写真撮影、ビデオ撮影、スケッチ等はすべて禁止。ご遠慮くださいとのこと

○堂内の立ち入り禁止エリアには絶対に入らないでください、とのこと。

○鳳凰堂は国宝なので、柱や壁にもたれかかったり、物を置いたりしないでください。国宝、文化財保護のために、ご協力をお願いします。

とまあ、こんなような内容の注意事項。何か特別なお達しでもあるのかな、と思って聞いていましたが、きわめて当たり前の内容でした。

鳳凰堂8
 

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■比叡山延暦寺2(256世の歴代天台座主)

 

比叡山延暦寺は、日本天台宗の総本山寺院で、住職(貫主)は天台座主(てんだいざす)と呼ばれ、末寺を統括する。現天台座主は256世半田孝淳座主。

 

宗祖 最澄 義真(初世、修禪大師) 圓澄(第2世。寂光大師) 圓仁(第3世。慈覚大師)

天台座主3


安慧(第4世) 圓珍(第5世。智證大師) 惟首(第6世) 猷憲(第7世) 康済(第8世)

長意(第9世) 増命(第10世) 良勇(第11世) 玄鑑(第12世) 尊意(第13世) 義海(第14世)

延昌(第15世。慈念僧正) 鎮朝(第16世) 喜慶(第17世) 良源(第18世。慈恵大師。元三大師)

尋禅(第19世。慈忍和尚) 余慶(第20世。観音院僧正) 陽生 (僧侶)(第21世) 暹賀(第22世)

覚慶(第23世) 慶円(第24世) 明救(第25世) 院源(第26世) 慶命(第27世)

教円(第28世) 明尊(第29世) 源心(第30世) 源泉(第31世) 明快(第32世)

勝範(第33世) 覚円(第34世) 覚尋(第35世) 良真(第36世) 仁覚(第37世)

慶朝(第38世) 増誉(第39世) 仁源(第40世) 賢暹(第41世) 仁豪(第42世)

寛慶(第43世) 行尊(第44世) 仁実(第45世) 忠尋(第46世) 覚猷(第47世鳥獣戯画)

行玄(第48世) 最雲法親王(第49世) 覚忠(第50世) 重愉(第51世) 快修(第5254世)

俊円(第53世)明雲(第5557世)覚快法親王(第56世) 俊堯(第58世) 全玄(第59世)

公顕(第60世) 顕真(第61世) 慈圓(第62656971世『愚管抄』で知られる)

承仁法親王(第63世) 弁雅(第64世) 慈円 (第65世)實全(第66世) 眞性(第67世)

承円(第6872世) 公円(第70世) 円基(第73世。尊卑分脈によれば第74世)

尊性法親王(第7476世) 良快(第75世) 慈源(第7779世) 慈賢(第78世)

道覚法親王(第80世) 尊覚法親王(第81世) 尊助法親王(第82世。第859195世)

再仁法親王(第83世) 澄覚法親王(第8487世) 慈禅(第86世)

道玄(第88102世) 公豪(第89世) 再源(第90世) 再助法親王(第92世)

慈實(第93世) 慈助法親王(第9496世) 源恵(第97世) 慈基(第98世)

尊教(第99世) 良助法親王(第100世) 道潤(第101世) 覚雲法親王(第103107世)

公什(第104世) 慈道法親王(第105111115世) 仁澄法親王(第106世)

慈勝(第108世) 親源(第109世) 澄助(第110世) 性守(第112世) 承覚法親王(第113世)

承鎮法親王(第114世) 尊雲法親王(第116118世。後醍醐天皇皇子。還俗して護良親王)

桓守(第117世) 慈厳(第119132世) 尊澄法親王(第120123世。後醍醐天皇皇子)

尊圓法親王(第121126131133世。青蓮院流(御家流)を創始) 尊胤法親王(第122124世)

性慧(第125世) 祐助法親王(第127世) 承胤法親王(第128136139世)

亮性法親王(第129世) 尊道法親王(第134138145世) 桓豪(第135137世)

慈済(第140世) 道圓法親王(第141世) 堯仁法親王(第142149世)



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■比叡山延暦寺1(最澄以来約1200年の歴史)

 

比叡山延暦寺というと、京都にあるというイメージがあるのだが、実際は滋賀県大津市になる。ここは標高848mの比叡山全域を境内としている大寺院で、境内は東塔、西塔、横川と三つに大きく分けられ、延暦寺の総本堂にあたる根本中堂は東塔にある。

これら東塔、西塔、横川を総称して「三塔」と言い、さらに細分して「三塔十六谷二別所」と呼称している。このほか、滋賀県側の山麓の坂本地区には本坊の滋賀院、「里坊」と呼ばれる子院群、比叡山とは関係の深い日吉大社などがある。

比叡山延暦寺の創建は延暦7年(788年)。今年2010年で開創1222年になる。有名な大乗戒壇勅許は伝教大師最澄入滅の7日後の822年(弘仁13年)7月だから、これから数えても1188年になる。

比叡山延暦寺は、日本天台宗の総本山寺院で、住職(貫主)は天台座主(てんだいざす)と呼ばれ、末寺を統括する。現天台座主は256世半田孝淳座主。ハンパじゃなく歴史が長い。

 

ただし歴史が長いとは言っても、永享7年(1435年)、延暦寺武力制圧に失敗していた室町幕府6代将軍・足利義教は、謀略により延暦寺の有力僧を誘い出し斬首。これに反発した延暦寺の僧侶たちは、根本中堂に立てこもり義教を激しく非難したが、義教の姿勢はかわらず、絶望した僧侶たちは2月、根本中堂に火を放って焼身自殺した。

このときに円珍以来の本尊もほぼ全てが焼失している。宝徳2年(1450年)516日に、わずかに焼け残った本尊の一部から本尊を復元し、根本中堂に配置している。

根本中堂4


さらに元亀2年(1571年)、延暦寺の僧兵四千人が強大な武力と権力を持つ僧による仏教政治腐敗で戦国統一の障害になるとみた織田信長は、延暦寺に武装解除するよう再三通達をし、これを断固拒否されたのを受けて912日、延暦寺を取り囲み焼き討ちにした。これにより延暦寺の堂塔はことごとく炎上し、多くの僧兵や僧侶が殺害されている。

しかし、1200年という歴史の長さが評価されたのか、1994年(平成6年)、延暦寺は「古都京都の文化財」の一環としてユネスコの世界文化遺産に登録されている。

私は、調査・取材のために何度かここを訪れていまして、京都から車で登っていったこともありますし、比叡山坂本から比叡山鉄道線ロープウェイで登っていったこともあります。

境内はあまりにも広すぎるくらい広いので、とても1日や2日では、廻りきれません。しかも山の中に寺院・伽藍が建てられているため、坂道がとても多く、歩いているとなかなか疲れます。

 

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■奈良法隆寺1(ユネスコの世界遺産)

 

□推古天皇15年に日本仏教興隆の祖である聖徳太子が創建した奈良・法隆寺

 

奈良・法隆寺とは、現存する世界最古の木造建築物群で、法隆寺の建築物群は法起寺と共に、1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されたことで有名な、あの法隆寺である。

別名を斑鳩寺(いかるがでら)というらしいが、ここの町を斑鳩町(いかるがちょう)という。

創建は推古天皇15年(607年)とされる。金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられる。境内の広さは約187千平方メートルある。境内を歩くと、なかなか広く感じる。

法隆寺は聖徳太子ゆかりの寺院で、法隆寺は、「日本仏教興隆の祖である聖徳太子が創建した寺院である」とするのが、一般的・常識的理解、いわゆる通説である。

20世紀末頃からは「聖徳太子は実在しなかった」とする言説、いわゆる「聖徳太子架空人物説」が盛んに言われるようになっているが、これには反論も出されている。

『聖徳太子の誕生』の著者である大山誠一は、超人的人物として信仰の対象となっている「聖徳太子」は架空の存在だとしながらも、「聖徳太子」のモデルとなった厩戸王という人物の存在と、その人物が斑鳩宮及び斑鳩寺を建てたことは史実と認めている。

 

現存する法隆寺西院伽藍は聖徳太子在世時のものではなく、7世紀後半 - 8世紀初の建立であることは定説となっており、この伽藍が建つ以前に焼失した前身寺院(いわゆる若草伽藍)が存在したことも発掘調査で確認されている。

また、聖徳太子の斑鳩宮跡とされる法隆寺東院の地下からも前身建物の跡が検出されている。以上のことから、「聖徳太子」の人物像には後世の潤色が多く含まれているとしても、そのモデルとなった厩戸王によって7世紀の早い時期、斑鳩の地に仏教寺院が営まれたことは史実と認められている。

 

通説によれば、推古天皇9年(601年)、聖徳太子は斑鳩の地に斑鳩宮を建て、この近くに建てられたのが法隆寺であるとされる。

金堂「東の間」に安置される薬師如来坐像(国宝)の光背銘には

「用明天皇が自らの病気平癒のため伽藍建立を発願したが、用明天皇がほどなく亡くなったため、遺志を継いだ推古天皇と聖徳太子があらためて推古天皇15年(607年)、像と寺を完成した」

という趣旨の記述がある。しかし、正史である『日本書紀』には(後述の670年の火災の記事はあるが)法隆寺の創建については何も書かれていない。

法隆寺4夢殿


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■奈良東大寺5(東大寺大仏殿)

 

□写真撮影が禁止されていななかった東大寺大仏殿

 

今年の10月に東大寺に行ったときは、「光明皇后千二百五十年遠忌法要」の準備のため、正面から大仏殿には入れず、回廊を歩いて正面左側から入っていった。

資料に依れば、大仏殿は高さ46.8メートル、間口57メートル、奥行50.5メートルで、2,850平方メートル(約862坪)。

それに対し、奈良、鎌倉時代の大仏殿は、高さは約50メートルと同じですが、広さは間口約86メートル×奥行約50メートル=4,300平方メートル(約1,300坪)はあったという。

現在の大仏殿は、高さと奥行は創建時とほぼ変わりないが、東西の幅は奈良・鎌倉時代の大仏殿の約3分の2に縮小されているということになる。

この巨大な大仏殿の中に、巨大な大仏が座っている。

国宝指定名称は「銅造盧舎那仏坐像(金堂安置)1躯」。像高は14.7メートル。大仏は『華厳経』に説く盧舎那仏という名の仏という意味らしい。

東大寺17大仏

 

もちろん、この大仏は、東大寺の本堂である「金堂」すなわち大仏殿の中心本尊であることは言うまでもないが、面白いことに、この大仏殿の中は写真撮影が禁止されておらず、参拝客・観光客のほぼ全員と言っていいくらい、大仏の写真をパチパチと撮りまくっている。

かく言う私も、大仏の写真を何枚も撮影してきている。

 

だいたいどこの宗派の寺院の本堂も、中では撮影禁止というのが一般的で、本堂の中の本尊を撮影するなど、もってのほか。参拝者による本尊の写真撮影など厳禁というのが仏教界の常識みたいなものになっている。

実際、あっちこっちの大伽藍・大寺院を訪れると、「撮影禁止」の看板・立て札をよく目にする。

 

しかし東大寺大仏殿は、写真撮影が禁止されていない。

もっとも、元々はここも撮影禁止だったのかもしれないが、大仏殿に入った途端、大仏の威容に圧倒されて参拝客が写真を撮り始めてしまうため、大仏殿の中を撮影禁止にしても有名無実であり、意味がないのかも知れない。

ただ、大仏殿には行っていきなり撮影するのではなく、「大仏に手を合わせて参拝してから撮影して欲しい」旨の東大寺のコメントを見たが。

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西山本門寺という寺は、古くからの古文書、漫荼羅本尊が多数格蔵されており、平たく言うと、文化財の宝庫のようになっています。

客殿前に建っている「西山本門寺略縁起」と書かれた案内板の記述によれば

日蓮真筆本尊、日蓮生母頭髪、日蓮所持の念珠、日蓮消息文・和漢王代記、一代五時鶏図、高橋殿御返事、浄土九品釣物、法華証明抄、日興真筆本尊14幅、日興筆・日蓮遷化記録、日興所持念珠、日代真筆本尊8幅、歴代貫首筆本尊百数十幅、紺紙金泥法華経十巻、常子内親王筆・紙墨法華経八巻、等々が格蔵されている、となっています。

西山本門寺37縁起

 

「西山本門寺略縁起」は、西山本門寺が建てた案内板ですが、客殿の前には、富士宮市教育委員会が建てた重要文化財の看板がいくつも建っています。

ところで、西山本門寺のある所は、静岡県富士宮市西山ですが、元々は静岡県富士郡芝川町西山と言っていました。

芝川町というのは、日本の商用電源周波数の境界である富士川が縦断するため、同じ町で2つの電力会社(東京電力 (50Hz) と中部電力 (60Hz) の管轄エリアに分かれていることで有名だった町です。

 

つまり、西山本門寺のある所は、元々は芝川町だったのですが、20103月に富士宮市に編入合併されて芝川町が消滅。芝川町のエリアが丸ごと、富士宮市になったわけです。

ところが、面白いことに、これら重要文化財の案内板は、全て芝川町が富士宮市に編入合併される以前に建てられたものばかりなのですが、これらの案内板を建てたのは全て、富士宮市教育委員会になっています。

それとも合併後に建て直したんでしょうか。私は、芝川町合併以前にも、西山本門寺に何度も来ていますが、この案内板を建てた名前が、富士宮市教育委員会だったか、芝川町教育委員会だったか、記憶にありません。

 

さてその富士宮市教育委員会の案内板は

「静岡県指定文化財・本門寺の厨子」

「国指定重要文化財・紺紙金泥法華経十巻」

「国指定重要文化財・常子内親王筆・紙墨法華経八巻」

「国指定重要文化財・法華証明抄」

「国指定重要文化財・日蓮遷化記録」

と、客殿前にいくつも並んでいます。


西山本門寺34遷化記録


この中で最も注目されるのは、日興真筆の「日蓮遷化記録」が西山本門寺に格蔵されていて、これが国の重要文化財に指定されているという事実でしょう。

国の重要文化財に指定されているということは、「日蓮遷化記録」が偽書ということは絶対にあり得ません。これは、日興の真筆であることは、間違いないわけです。

 

この日蓮遷化記録には、日蓮正宗や創価学会が金科玉条にしている「二箇相承」を完全に否定する史実が書かれています。しかもそれは日興自らの手によって書かれているということ。

つまり、日興が書いた日蓮遷化記録に照らし合わせれば、「二箇相承」なる文書は、後世の偽書であることは、疑いないことであるわけです。

詳しくは、下記に書いております。

「『二箇相承書』は日蓮の真筆ではない。後世の偽作だ」

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=6472591&comm_id=406970

 

 

 

 

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