一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ

「一般社団法人 仏教宗学研究会」とは任意団体として2005年から活動している会の名称。2018年5月に一般社団法人登記。当ブログ名を「仏教宗学研究会のブログ」から「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」に改名。 「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

「一般社団法人 仏教宗学研究会」とは「アンチ日蓮正宗」管理人が2005年11月に設立した会の名称。2018年5月に一般社団法人登記。当ブログ名を「仏教宗学研究会のブログ」から「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」に改名。この会の中で、「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄。
「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。富士門流執着軍団批判は「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄だが、「日蓮正宗系」以外の富士門流寺院の調査・研究は「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」の管轄。
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さらに正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗」の公式サイト「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」から、カルト宗教対策、カルト宗教取締特別立法、カルト宗教拡散防止条約制定の活動部分を独立させたものが「国際カルト宗教対策委員会(Icat-Cult)」

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仏教寺院の年間参詣者数・行事参詣者数

高野山金剛峯寺(3)~子院117ヶ寺・人口三千人の日本随一の巨大宗教都市・高野山真言宗総本山・高野山

■高野山金剛峯寺3(20145月の高野山旅紀行3)

 

□子院117ヶ寺・人口三千人の日本随一の巨大宗教都市・高野山真言宗総本山・高野山

 

女人堂の先に「高野山」「金剛峯寺」と書かれた巨大石碑のような門が建つ。ここからが広大な高野山金剛峯寺エリアに入る。もともと金剛峯寺という名前は、高野山真言宗の総本山である高野山の巨大な宗教都市全体を金剛峯寺と総称していた。現在は、明治2年(1869年)329日、興山寺(こうざんじ)と豊臣秀吉が建てた青厳寺(せいがんじ)を合併して金剛峯寺と改称した。今の金剛峯寺との名前の寺院は、江戸時代まで青厳寺(せいがんじ)と称していた寺院である。

豊臣秀吉は、当初は高野山に寺領の返還を迫るなど圧力をかけたが、当時、高野山にいた武士出身の僧・木食応其が仲介者となって高野山が豊臣秀吉に服従を誓ったため、石高は大幅に減らされたものの、高野山は存続することができた。のちに豊臣秀吉は木食応其に帰依するようになり、寺領を寄進し、亡母の菩提のため、山内に青巌寺を建てた。これが今の高野山真言宗総本山金剛峯寺の前身である。

もともと高野山とは、弘仁7(816)、弘法大師空海が嵯峨天皇に上奏して、この地を下賜され、金堂をはじめとする諸堂の建立に着手。高野山一山の宗教伽藍・堂宇一帯全てを「金剛峯寺」と号したのが、はじまりである。「金剛峯寺」という寺号は、元来は真言宗の総本山としての高野山全体と同義であった。明治2年にできた旧青厳寺(せいがんじ)の金剛峯寺は、高野山真言宗全国約3600余の末寺を統括する宗務を執る。高野山駅から南海りんかんバスで高野山に入っていくと、女人堂の先の門から高野山エリアに入るのだが、ここは正門ではない。高野山一山の正門は、大門とよばれる巨大な門で、ここが高野山一山の総門である。ここに行くには、高野山駅前から南海りんかんバスに乗って終点で下車。距離にして約3キロ。ただしバスに乗ると、高野山エリアに入り、千手院からまわっていくので4.5キロくらい走る遠回りになる。

大門には「高野山」の額が掲げられている。現在の大門は宝永2(1705)の再建。弘法大師入定1150年遠忌記念事業で、53ヶ月をかけて解体修理が行われ、1986(昭和61)年に完成した。

通称、高野山とよばれる所は、1000m級の8つの山々に囲まれた標高800mほどの盆地のこと。弘法大師空海が、ここを修行道場に選んだ理由は、8つの山々に囲まれた光景がまるで、巨大な蓮華の花の中にあるように見えたからだと伝承する。それ故か、高野山は八葉蓮華と称される。

高野山には、52ヶ所の宿泊施設・宿坊があり、人口は約3500人。そのうち、700人前後が僧侶だという。食事処は、金剛峯寺~千手院~奥之院の街中、奥之院中之橋近辺を中心に数多ある。コンビニも2軒あり、高野山の中を国道が走る。高野山のあっちこっちに観光バスや自家用車用の駐車場がある。高野山一帯は、和歌山県高野町という町になっており、高野山一山そのものが、巨大な宗教都市になっている。高野町町長に、高野山真言宗僧侶が就いていた時代もあった。

 

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靖国神社(1)~8月15日の終戦の日の参拝者を上回るくらいの参拝者が訪れる靖国神社の初詣参拝(2011年の初詣)

■靖国神社1(靖国神社の初詣参拝)

 

815日の終戦の日の参拝者を上回るくらいの参拝者が訪れる靖国神社の初詣参拝

 

2011年の初詣は、東京・九段の靖国神社に参拝に行っています。この年は、12日の皇居の一般参賀の後、その足で地下鉄に乗り、九段下駅で降りて、靖国神社に初詣に行っています。

靖国神社は、815日の終戦の日ないしはその前後に参拝する所というイメージが強いのですが、正月の初詣には、終戦の日をはるかに上回るくらいの参拝の人が訪れています。

靖国神社正面の大鳥居から境内の中、参道の両側に、的屋の露店が所狭しと並んでいるのには驚きました。終戦の日には、こんなに的屋の露店が並んでいたかな??並んでいなかったような気がしましたが。正月には、ここに的屋の露店が並ぶんですね。

表の靖国通りには、いつもながら右翼団体の街宣車が停まっていましたが、境内には右翼関係者と思われる人たちは、終戦の日に比べると少なかったような気がします。

参拝ののち、靖国神社のおみくじを初めて引いたのですが、「吉」でした。

以下の写真は、2011年の初詣の時に撮影した靖国神社の様子です。

2011初詣・靖国神社1


2011初詣・靖国神社3


2011初詣・靖国神社4


2011初詣・靖国神社6


2011初詣・靖国神社7


2011初詣・靖国神社8 

明治神宮(1)~日本で最も多い初詣参拝客が訪れる東京原宿・明治神宮(2009年の初詣)

■明治神宮1(日本で最も多い初詣参拝客)

 

□日本で最も多い正月三が日・初詣参拝客が訪れる東京原宿・明治神宮

 

正月といえば初詣。 私の場合、毎年、違う寺社に初詣の参拝に出かけているのだが、明治神宮は2007年と2009年の初詣に行っており、それ以前にも何度か初詣に来ている所。今年の仏教宗学研究会のブログは、過去に参拝に行った初詣について、記していきたいと思う。

明治神宮とは、明治天皇と昭憲皇太后を祭神とする神宮で、JR原宿駅、JR代々木駅、小田急参宮橋駅に隣接する広大な敷地で、境内の広さは何と約73haもある。寺院の落慶入仏法要に該当する鎮座祭は、1920年(大正9年)111日に行われている。

明治神宮は、初詣では大晦日から正月三が日の間で約315万人前後にものぼる日本一の参拝者を集めることでも知られている神社。大晦日の深夜から、JR原宿駅・山手線外回りの臨時ホームが使用され、表参道から井の頭通りにかけて、交通規制が敷かれる。山手線、小田急線等も毎年、大晦日から元日にかけて終夜運転を行っているが、利用客の大半が初詣参拝客である。

毎年正月の初詣参詣者の関東地方の上位にランキングされるのは、明治神宮が約315万人、成田山新勝寺と川崎大師平間寺が約300万人、浅草寺が約275万人、鶴岡八幡宮が約250万人。

このランキングは、毎年、明治神宮がトップである。

毎年の明治神宮初詣はすごい人出。参道が参拝者で“渋滞”してしまっていて、なかなか前に進めません。明治神宮の境内に入ってから、本殿にたどり着くまで60分以上、かかったような気がします。しかし長蛇の行列の中、長時間待ち続けて、本殿にやっとたどり着いたと思ったら、参拝してお終い。参拝のインパクトとしては、あまり心に残るものが少ない気がする。

それだったら、まだ靖国神社は昇殿参拝ができるし、池上本門寺や中山法華経寺は祈祷をしてもらえる。善光寺だったら、内々陣参拝やお戒壇巡りがあり、大勧進では護摩祈祷をしてもらえる。

むしろ、そっちのほうが、心に残るものが大きいような気がする。

むしろ、明治神宮の初詣は、長蛇の行列を長時間、並んで参拝を待ち続けたことが、一番、心に残っているような気がするのだが…。

明治神宮初詣1


 












(明治神宮本殿)

明治神宮初詣2明治神宮初詣2


明治神宮初詣7


明治神宮初詣8 













































(長蛇の行列になっている明治神宮の初詣参拝)

 

 

 

諸宗山回向院(3)~60日間で約1603万人の参詣があった安永7年(1778)に回向院で行われた善光寺出開帳

■諸宗山回向院3(善光寺出開帳3)

 

□明暦の大火・地震・飢饉・噴火の犠牲者慰霊塔の中に戦没者の慰霊塔だけがない回向院

 

回向院が創立された起源は、1657年(明暦3年)に江戸の町に起こった「明暦の大火」までさかのぼる。この明暦の大火では、10万人以上の人命が失われたのだったが、その犠牲者の多くは、身元や身寄りのわからない人々。江戸幕府四代将軍・徳川家綱は、このような無縁の人々の亡骸を手厚く葬るように、隅田川の東岸に土地を与えて「万人塚」という墳墓を設け、無縁仏の冥福を祈る大法要を行った。このときに、念仏を行じる御堂が建てられたのが、回向院の歴史のはじまりである。回向院は正式名を「諸宗山無縁寺回向院」といい、火事や地震の犠牲者、溺死者、遊女、水子、刑死者、諸動物など、ありとあらゆる生命が供養されている。

回向院の境内には、明暦の大火の他、安政二年の大地震、天明三年の浅間山噴火、天明三年の信州・上州大地震、天明の奥羽飢饉、関東大震災等の供養塔・慰霊碑が並んでいる。このように様々な供養塔・慰霊碑が並んでいるが、戦没者・戦死者の供養塔がない。1853年(嘉永6年)のペリー来航以降の日本国内外の事変・戦争等、国事に殉じた軍人、軍属等の戦没者を「英霊」と称して祀るのは靖国神社であり、第二次世界大戦の戦没者の遺骨のうち、遺族に引き渡すことができなかった遺骨を安置しているのが千鳥ケ淵戦没者墓苑である。

靖国神社や千鳥ケ淵戦没者墓苑があるから、回向院では戦没者の供養塔や慰霊碑がないということなのだろうか。回向院は、火事や地震の犠牲者、溺死者、遊女、水子、刑死者、諸動物など、ありとあらゆる生命を供養する寺院ということだが、戦没者の供養塔がないのは「?」と思う。

回向院は浄土宗の寺院であるが、善導の『観経正宗分散善義』巻第四の中の、

「一心に弥陀の名号を専念して、行住坐臥に、時節の久近を問はず、念々に捨てざる者は、是を正定の業と名づく、彼の仏願に順ずるが故に」という文に影響されて、日本で専修念仏を唱道したのが浄土宗宗祖・法然。専修念仏とは、仏の救いは念仏を唱える「称名念仏」によって得られるという思想。即ち、ただひたすらに念仏をを唱えることで、いつでも、どこでも、誰でもが平等に阿弥陀仏によって救われて極楽浄土に往生できるという教えは、日本の大衆の心をとらえて、日本全土に弘まった。浄土宗・浄土真宗の教線拡大により、日本全土に「称名念仏」が弘まり、ここから「死んだ人は皆、仏様」という日本人の生死観が生まれた、というのが定説になっている。

日本人の生死観は「死んだ人は皆、仏様」だから、どんな極悪人でも死刑が執行されたら、それ以上は追及しない。実質的にその時点で免罪されてしまう。日本人の生死観は、日本の伝統文化として大衆に深く定着している。源流を法然・浄土宗とすれば少なくとも800年以上の歴史がある。

回向院が、火事や地震の犠牲者、溺死者、遊女、水子、刑死者、諸動物など、ありとあらゆる生命を供養するのは、やはり浄土宗の「死んだ人は皆、仏様」という思想・教え・生死観が源流にあることは、疑いのないところであろう。

回向院12 











(回向院境内に並ぶ明暦大火、安政大地震、浅間山噴火、天明飢饉、関東大震災等の慰霊碑)

回向院10 
















(海難事故犠牲者供養塔の案内板)

 

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京都・鹿苑寺金閣(2)~2008年、2010年は鹿苑寺に来る観光客の半分以上が中韓・台湾・欧米からの外国人観光客

■京都・鹿苑寺金閣2(金閣の絶景・外国人観光客)

 

□人工的な景観美としてはこれ以上のものは他にないと思える鹿苑寺金閣の絶景

 

鹿苑寺金閣の歴史について、鹿苑寺が発行した公式パンフレットによれば、次のようにある。

「お釈迦様のお骨をまつった舎利殿『金閣』が特に有名なため、金閣寺とよばれていますが、正しくは『鹿苑寺』と言い、臨済宗相国寺派の禅寺です。(1994年、世界文化遺産に登録されました。)

この地は、鎌倉時代に西園寺公経の別荘・北山第が在りましたが、足利三代将軍義満が大変気に入り、応永4(1397)に西園寺家から譲り受け、山荘北山殿を造りました。金閣を中心とした庭園・建築は極楽浄土をこの世に現したと言われ、後小松天皇(一休禅師の父)をお招きしたり、又、中国(明国)との貿易を盛んにして文化の発展に貢献した所で、この時代の文化を特に北山文化と言います。義満の死後、遺言通り夢窓国師を開山(初代の住職)とし、義満の法号・鹿苑院殿から二字をとり、鹿苑寺と名付けられました。」(鹿苑寺が発行した公式パンフレット)

舎利殿(金閣)についての鹿苑寺の見解は、以下の通りである。

「二層と三層は、漆の上から純金の箔が張ってあり、屋根は椹(さわら)の薄い板を何枚も重ねたこけら葺で、上には中国のめでたい鳥といわれる鳳凰が輝いています。一層は寝殿造で法水院、二層は武家造で潮音洞とよばれています。三層は、中国風の禅宗仏殿造で究竟頂とよばれ、三つの様式を見事に調和させた室町時代の代表的な建物と言えます。昭和62(1987)秋、漆の張り替えや金箔の張り替え、更に天井画と義満像の復元を行いました。又、平成15(2003)春、屋根の葺き替えを行いました」(鹿苑寺が発行した公式パンフレット)

 

金箔が張り巡らされた楼閣である舎利殿(金閣)は、外から拝観するだけで、中に入ることはできない。鹿苑寺を訪れた大勢の観光客は、あらかじめ決められたルートを歩いて見学するだけである。しかし、金箔が張り巡らされた建物を直に、間近で見ると、その金箔の迫力に圧倒されてしまう。間近で見ると、やはりすごいですね。金閣は、鹿苑寺の広大な日本庭園の大きな池・鏡湖池のほとりに建っており、遠くから見ると、池のほとりにポッカリと浮かんでいるかのように見える。遠くから見ても、近くで見ても、金閣の景観は、何度見てもまさに絶景。人工的な景観美としては、これ以上のものはないのではないかと思うくらいである。

私はこの鹿苑寺金閣には、何度も来ています。最初に来たのは、確か修学旅行の時だったと思うが、自分で旅費を支弁した個人旅行で最初に来たのは、確か1988(昭和63)年に四国旅行に行く途中、京都見学をしたとき。その後、1993(平成5)年の全国旅行でも鹿苑寺に来ているし、1994(平成6)年ころ、京都要法寺等に寺跡調査に来たときにも、ここ鹿苑寺金閣の見学に来ている。寺跡調査で京都に行ったときは、特に鹿苑寺金閣に来る予定はなかったのだが、つい自然に足が鹿苑寺金閣のほうに、向いて行ってしまった。その後は2008年と2010年に鹿苑寺金閣を拝観している。

鹿苑寺金閣3 

(鹿苑寺金閣)

 

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