一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ

「一般社団法人 仏教宗学研究会」とは任意団体として2005年から活動している会の名称。2018年5月に一般社団法人登記。当ブログ名を「仏教宗学研究会のブログ」から「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」に改名。 「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

Category: 仏教と平和・戦争遺跡・負の遺産・戦争と平和を考える

□太平洋戦争末期に日本の政府中枢機能移転のために松代地区に建設された松代大本営跡

 

2015年の長野善光寺・前立本尊御開帳に参詣した後、日本の戦争遺跡のひとつである長野市松代地区にある松代大本営跡(松代象山地下壕)を訪問した。松代象山地下壕とは、太平洋戦争末期、日本の政府中枢機能移転のために長野県埴科郡松代町(現長野市松代地区)などの山中に掘られた松代大本営跡の地下坑道跡のひとつ。地下坑道は、象山、舞鶴山、皆神山の3箇所あり、このうちの象山地下壕が一般公開されている。

早朝、タクシーで長野バスターミナルへ。ターミナルの窓口でチケットを購入。バスに乗って松代に行く。実は、201511日の善光寺初詣の後に松代に行くつもりでいた。かつて松代には長野電鉄河東線が通っていて、松代駅があった。しかし河東線は2002年に廃止になっていたにもかかわらず、その時に私が持っていたハンドブックの地図には、まだ河東線・松代駅が存続しているように載っていた。それで間違えて長野電鉄の電車の乗ってしまい、結局、松代にはたどり着けなかった。そこで今回は、事前に入念にいろいろ下調べを行い、計画を立てた。バスに延々とゆられて乗り続け、旧松代駅前バス停で下車。駅前で着け待ちをしていたタクシーに乗車して松代象山地下壕へ。地下壕とはいえ、つまり延々とつづくトンネルである。私が地下坑道入り口前に到着したとき、すでに多くの観光客・見学客が来ていた。松代象山地下壕は、延々とつづくトンネルであるが、そのトンネルは行き止まりになる。つまり、入り口から入っていって、トンネルの行き止まりにたどり着き、そこで折り返して、出入り口に戻る。トンネルは実に長く、トンネルの中にほとんど人がいない。トンネルの中に入ってみると、なかなか不気味なトンネルである。トンネルそのものは、佐渡金山や土肥金山の坑道とよく似ている。ただし佐渡金山の坑道も私は入って行ったとき、他の見学客としょっちゅう遭遇したが、松代象山地下壕の坑道の中では、たまに他の見学客と遭遇しただけ。あれだけたくさんの観光客がトンネルの中に入っていったのに、あの観光客はどこに言ってしまったのか、と思ってしまうくらい。松代象山地下壕の坑道は、途中からトンネルが大きくなる。ただし、トンネルの中にあった人が住む小屋などは、解体されたまま復元されていない。こういったところは佐渡金山の坑道とは違っている。トンネル入り口前にある掲示板には、地下壕の坑道建設に駆り出された、当時の朝鮮人労働者の徴用についての記述がある。

松代象山地下壕の資料館が、坑道入り口の近くにあり、中に入って見学。管理者の方から、話を聞く。約6000人が地下壕建設にたずさわり、その中の約3000人が朝鮮人の徴用だったという。

そしてそれらの人の中には、いわゆる「慰安婦」もいたとの展示があった。朝鮮人の徴用(強制)を認めるパネルの証拠があるのが印象的。さて松代象山地下壕の建設費はどれだけかかったのか。当時のカネで建設費は1億円とも2億円とも言われたとのこと。ということは、はっきりとした金額は、わからないということなのだろう。当時の2億円は、今の約2000億円ぐらいに相当するという。

それだけ膨大なカネをつぎ込んで、建設されたということである。

松代2

















 松代4














松代5
















(松代大本営跡・松代象山地下壕)

 

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■長崎県2・長崎2・「長崎平和公園」2(平和公園・爆心公園2)

 

□東京から航空機・博多からJR特急かもめ号を乗り継いで行った長崎平和公園・爆心公園2

 

長崎駅は、長崎県の県庁所在地・長崎市の中心駅であると同時に、長崎本線の終着駅にして、ホームには車止めが設置されている。つまりここで「終着・行き止まりの駅」ということ。こういうJR駅は、全国に稚内駅、根室駅、函館駅、青森駅、久里浜駅、城端駅、氷見駅、高松駅、門司港駅、枕崎駅、長崎駅…とけっこうあるが、県庁所在地・市の中心駅としては、長崎駅、高松駅、青森駅だけである。長崎駅の駅舎は、2000年に改装された新しい雰囲気のある駅舎で、今のもので4代目。長崎駅前でまず目につくのは、長崎電気軌道長崎駅前電停。電停とは路面電車の発着場所のことで、停留所と呼ばれるか、電停と呼ばれるかは地域によってちがう。東京では、かつて都電が頻繁に走っていた頃には「電車の停留所」と呼ばれた。現在は「都電の停留所」が一般的な呼び方になっている。逆に長崎では、○○電停と呼ぶのが普通な地域のようである。長崎市内の移動には、この長崎電気軌道の路面電車がとても便利。地下鉄よりも、路面電車のほうがとても利用しやすく、便利に感じました。「長崎電気軌道」というのは、長崎市内で路面電車を運行している会社。路面電車というと、他都市では「市電」と呼ばれていたりするが、市電というと、いかにも長崎市が経営しているかのように聞こえてしまうが、この「長崎電気軌道」は、公営企業でも長崎市経営でもなく、れっきとした株式会社であり、私企業である。現在、5路線4系統を営業しており、通称は電鉄、長崎電鉄。地元住民の間ではJRを「JR」、「列車」または「汽車」と呼び、路面電車を「電車」と呼んで区別している。しかも長らく運賃が100円で据え置かれていて、私が20081月に長崎市内に行って、この路面電車に乗ったときも運賃は100円だった。2009101日より25年ぶりに運賃を値上げし、1乗車120円としたという。その後、消費増税があったので、さらに運賃値上げになっているとは思いますが…。長崎市内の路面電車は、運賃は安いし、とても利用しやすいし、長崎市内の主要地点を移動するには、まことに便利な乗り物である。地下鉄やバスよりも、路面電車のほうがはるかに便利である。ちなみに長崎市の人口は約45万人くらいだが、石川県金沢市の人口が約40万人前後。金沢市にも、私の子どものころには、路面電車が元気に走っていたのだが、道路に車が増えてくるにつれて、どんどん路面電車が廃止になり、今では金沢市内に路面電車はひとつも残っていない。まことに残念なことである。それと比べたら、長崎市の路面電車の元気ぶりは、私にとっては驚きに見える。まあ、もっとも金沢市の場合は、第二次世界大戦の戦災が全くなかった都市なので、昔ながらの家や道路がそのまま残っていて、とても狭い道路が多い。だから車の増加によって、路面電車がたちどころに身動きがとれなくなってしまい、どんどん廃止されて行ってしまった。長崎市の場合は、戦災・復興によって広い道路が多くなり、そのために車が増えても、路面電車が身動きがとれなくなってしまうということがなかったということなのだろうか。私としては、長崎市内を元気に走り回っている路面電車に、エールを送りたい気持ちです。

 

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■長崎県1・長崎1・「長崎平和公園」1(平和公園・爆心公園)

 

□東京から航空機・博多からJR特急かもめ号を乗り継いで行った長崎平和公園・爆心公園

 

毎年8月になると89日の長崎・原爆の日がやってくる。私も長崎には何度か行っており、そのたびに長崎平和公園、爆心公園を訪れている。長崎の地は、東京からはあまりにも遠い所にありますね。「どれくらいの距離があるのだろうか」と、グーグルマップで検索したところ、私の東京の自宅から長崎平和公園まで、道路の距離にして何と1221キロもある。1993年の全国旅行で長崎に行った時は自家用車で行きましたが、2008年初頭に長崎に行ったときは、羽田~福岡までが航空機、博多~長崎は特急かもめ号で往復。JR長崎駅という玄関口から長崎市内に入った。2008年はすでに四十代後半になっていたので、車で東京~長崎を走破する馬力は残っていなかったですね。羽田~福岡まで航空機を利用したのは、航空機の便数の関係だった。

かつて長崎駅からは、東京駅・京都駅・新大阪駅・大阪駅などへの 長距離寝台特急の「さくら」・「みずほ」・「あかつき」があり、 「さくら」と「みずほ」は東京駅まで、「あかつき」は京都駅〈または新大阪駅〉まで1日各1往復走っていたが、今は全て廃止になっている。長距離の移動の主流は、航空機と新幹線になった今の時代、寝台特急が元気だった時代は終わったということだろうか。

東京から長崎に行くには、羽田~長崎を航空機で行くか、ないしは羽田~福岡を航空機で、博多~長崎を特急かもめ号で行くか、どちらかだろう。ちなみに羽田~長崎は航空機で約2時間。長崎駅~長崎空港までバスで約1時間。羽田~福岡は航空機で1時間40分。福岡空港~博多駅まで地下鉄で約10分ほど。博多~長崎を特急かもめ号を利用すると約2時間。東京~長崎駅までは約4時間というところか。東京~博多を新幹線のぞみ号、博多~長崎を特急かもめ号で、というコースもあるが、東京~博多を新幹線のぞみ号で約5時間かかるため、東京~長崎は特急かもめ号乗り継ぎで約7時間以上かかる。これで行く人はほとんどいないのではないだろうか。

福岡空港からJR博多駅までは、電車で10分とかからないくらい便利な所にある。JR博多駅前のホテルで一泊。翌朝、JR博多駅始発の特急かもめ号に乗って長崎に向かう。

かもめとは、JR九州が博多駅~長崎駅間を鹿児島本線・長崎本線を経由して運行している特急電車で、JR九州の看板列車のひとつになっている。かもめ号は、通称「白いかもめ」とハイパーサルーンの「かもめ」と二種類あって、1日に25往復が運行されており、九州の首都・福岡市(博多)と主要都市・長崎を結ぶ大動脈になっている。私が乗車した日は、下り長崎行きも上り博多行きも、普通車指定席には、かなりのお客さんが乗っていた。見るからに、ほとんどのお客さんが、ビジネスマン風の人たちでしたが。博多~長崎は、九州新幹線の西九州ルートが計画されている区間であり、この区間の建設計画と並行在来線問題は、時折、全国ニュースになったりして私の耳に入ったりしてきていた。この問題がけっこう長い間、佐賀県・長崎県とJR九州の間で揉めていたようでしたが、200712月、合意に達したという情報が入ってきた。

「九州新幹線西九州ルート着工に向けた三者合意について」

http://www.jrkyushu.co.jp/071217_news_release.jsp

 

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■広島県1・広島1・「広島平和公園」1(原爆戦没者慰霊碑・原爆ドーム)

 

□確認できなかった広島平和記念公園・原爆戦没者慰霊碑にあるとされるWe」が入る英文碑文

 

毎年8月になると86日の広島・原爆の日、89日の長崎・原爆の日、815日の終戦の日がやってくる。86「原爆の日」は、アメリカ軍が広島に原子爆弾を投下した日。昔は「原爆記念日」なんて言っていたが、原爆が投下された日「記念日」と言っていいものかどうか、という疑問はある。今は「原爆忌」とか「原爆の日」と言うようである。海外では「ヒロシマ」というふうに、原爆投下の日とともに、広島の名前が広く知れ渡っている。

その広島・原爆の日のニュースを聞くと、何度か広島に旅行したときに、広島市の「広島平和記念公園」を訪れたときのことを思い出す。ここへ行ったときは、原爆戦没者慰霊碑の前で、鎮魂の祈りをささげていますが、原爆投下という一瞬の出来事のために、あっと言う間に命を奪われてしまった人たちのことをここで思うと、ホントにいたたまれない気持ちになった。「広島平和記念公園」に何度も行ったが、いずれのときも、原爆戦没者慰霊碑の前に、たくさんの花が添えられていたのは印象に残ります。

「広島平和記念公園」原爆戦没者慰霊碑には「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」という碑文が刻まれている。これは1990年代の頃、「朝まで生テレビ」という番組を見て知った。おそらく19906月の広島ホームテレビでの収録した「激論! 地球新時代の戦争と平知と核」のときではないかと思う。そのテレビ番組やいろんな場で、原爆投下をしたのはアメリカであり、広島をはじめ日本全国の主要都市が焼け野原になるまで戦争をしたのは日本政府なのだから、この「過ちは 繰返しませぬから」という碑文が、「不適切ではないか」という批判を何度も聞いた。

それに対して広島の平和団体からの反論は、たしかに日本文の碑文は主語がない文体になっているが、英語の碑文は主語が「We」となっていて、人類全体が過ちを犯さないことを誓ったものだ、というものだった。これを聞いて知っていたので、「広島平和記念公園」に行った時、原爆戦没者慰霊碑にあるとされる英語の碑文を探してみた。しかし日本文の碑文は確認できたのですが、その「We」が入った英文の碑文は、どこに書いてあるのか、確認できませんでした。この英文の碑文って、どこに書いてあるんですか??碑文の内容はともかく、何度ここへ行っても、ここへたたずんだ瞬間に、ホントに気持ちが厳粛になり、原爆投下で亡くなられた方々の心を思う場所です。

その広島平和記念公園の中にあるのが、広島平和記念資料館。ここは、広島市への原子爆弾投下の惨状を今に伝える資料を展示する資料館である。この広島平和記念資料館の中の展示を見ていると、まさに胸を締めつけられる思いがします。原爆投下によって、凄まじいばかりの放射線、熱線、爆風が発生し、これがさまざまな地獄絵図を地上にもたらした。石段に人の跡が影のように残った人影の石、原爆投下時刻で停止してしまった腕時計、ケロイドの標本…など、原爆投下に関する、いろいろな資料が展示されている。これらひとつひとつの展示を見ていると、原爆・核兵器というものが、いかに悲惨な結果をもたらすのか、いかに悲惨な大量破壊兵器であるか、ということが、ストレートに伝わってきます。

 

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■倶利伽羅不動寺1(倶利伽羅峠源平合戦古戦場・天田峠の近く)

 

□昭和40年代ころまで国道8号線が通っていた天田峠越えの近くにある倶利伽羅不動寺

 

倶利伽羅不動寺(くりからふどうじ)とは、石川県と富山県の県境付近にある山頂本堂(山頂堂)と、石川県津幡町の西之坊鳳凰殿がある古刹寺院。寺格は高野山真言宗の別格本山。高野山真言宗は総本山・金剛峯寺(和歌山県高野町)、次に大本山・寳壽院(和歌山県高野町)、そして遺跡本山(ゆいせきほんざん) の神護寺(京都市右京区)、観心寺(大阪府)があり、その次が別格本山で高野山内に27ヶ寺、高野山以外の全国各地に33ヶ寺あるが、倶利伽羅不動寺はその中のひとつということになる。

成田不動尊(千葉県)、大山不動尊(神奈川県)と並び、日本三不動尊の一つと称される倶利伽羅不動尊とは、通常は約1300年の歴史がある山頂本堂を指す。倶利伽羅(くりから)とは、日本にあって日本ではないような地名であるが、これは「剣に黒い龍の巻きついた不動尊像」という意味のインドのサンスクリット語に由来するという。「倶利伽羅」の名前は、倶利伽羅峠、倶利伽羅そば、JR倶利伽羅駅など、地域の名前になっている。

この山頂本堂は、倶利伽羅峠と呼ばれる石川県と富山県の県境が複雑に入り組んでいる峠越えのてっぺんに近い所にある。正式にはこの峠の名前を「天田峠」という。天田峠の峠越えの道は、今、車で走っても、車がやっとすれ違いが出来るくらいの狭い道。しかも峠の山肌を這うように、曲がりくねって蛇行している山道である。私が子どもの頃は、この曲がりくねって蛇行している天田峠越えの道が、国道8号線の幹線道路であった。こんな狭い道を昭和40年代のころまで、排気ガスを思いっきりはき出して大型トラックやバスが走っていた。富山県に私の母親の実家があるので、子どもの頃、父親が運転する車に乗って、この天田峠を通った記憶がある。

これではあまりにも不便だというので、国道8号線の倶利伽羅トンネルが開通。天田峠越えの山道は、国道から県道に格下げになった。従来からの国道を走っていた大量の自動車交通は、倶利伽羅トンネルを走るようになり、天田峠越えは一気に静かになった。そんな天田峠の峠越えの頂上付近から、さらに奥に入ったところに倶利伽羅不動寺・山頂本堂がある。

今は北陸自動車道が全通しており、さらに国道8号線・津幡バイパスも開通しているので、倶利伽羅不動寺のすぐ近くまで、自動車輸送の波がおしよせることはなくなった。しかし倶利伽羅不動寺は、有名寺院であるためか、倶利伽羅不動寺の名前にちなんで、北陸自動車道には「不動寺パーキングエリア」がある。ただし名前は「不動寺パーキングエリア」とはなっているが、北陸自動車道のわりと倶利伽羅不動寺に近い所に設けられているだけで、ここが倶利伽羅不動寺と繋がっているわけではない。

倶利伽羅不動7



(倶利伽羅不動寺・山頂本堂)

 

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■京都本能寺4(京都本能寺の約450年で五度の災禍)

 

□京都本能寺が約450年で五度の災禍を受けたのは、はたして本当に多いのか

 

本能寺の「能」の字は右側の2つの「ヒ」が「去」のような字に替えられている。これは本能寺が度重なって焼き討ちに遭い、だいたい70年に一度の割合で火災になっているため、1928(昭和3)年の第七次建立のさいに、貫首が本能寺の「能」の字にヒヒとついていることから、今度こそ火災にあうことがないようにと、現在の「去」に変えたのだという。

本能寺は創建以来、地を転ずること4度、その間、他宗派によって伽藍を破脚・焼き討ちされること二度(京都妙顕寺宗徒による焼き討ちと比叡山延暦寺宗徒の焼き討ち・天文法華の乱)

戦災による類焼が二度(本能寺の変と蛤御門の変)。京都大火による類焼が一度(天明の大火)

五度も災禍を蒙っている。が、よくよく考えてみると、約450年間で、五度の災禍を受けたことは、果たして多いのか、という疑問もわく。

たとえば、天台宗総本山・比叡山延暦寺と天台寺門宗総本山・園城寺が、古くから抗争以上の戦争を繰り広げてきたことは、あまりにも有名。この延暦寺vs園城寺の戦争が、日蓮の遺文に出てくる。それは「報恩抄」と呼ばれている日蓮の遺文で、それには次のように書かれている。

「智証の門家園城寺と慈覚の門家叡山と、修羅と悪竜と合戦ひまなし。園城寺をやき叡山をやく。智証大師の本尊慈氏菩薩もやけぬ。慈覚大師の本尊、大講堂もやけぬ。現身に無間地獄を感ぜり。但中堂計りのこれり」(御書全集10171018)

 

□平安時代から中世末期までに比叡山延暦寺宗徒から50回以上も焼き討ちされた園城寺

 

園城寺という寺院は、天台寺門宗総本山で、866年に比叡山延暦寺の天台宗5世座主・円珍がここを伝法灌頂の道場とし、諸堂を整備して寺域を拡大。そして多くの高僧を輩出して、東大寺・興福寺・延暦寺とともに四箇大寺に数えられた。円珍の没後、天台宗は円珍門流(寺門派)と慈覚大師円仁門流(山門派)の対立が激化。993年に円珍門流1000人余りはついに延暦寺を下山して、園城寺に一大勢力を形成した。

比叡山延暦寺の戒壇建立後、延暦寺、園城寺の諍論により、園城寺の宗徒は比叡山延暦寺の戒壇で受戒できなくなる。そこで永保元年(1081)に白河院の綸旨により園城寺に建壇されたのが三麻耶戒壇である。

しかし天台宗の山門・寺門の2派に分裂して抗争により、延暦寺は園城寺の建壇を認めず、1081(永保1)年には山門(延暦寺)宗徒が園城寺に乱入し、伽藍・堂宇のほとんどを焼き払ってしまう。以後、比叡山延暦寺宗徒の園城寺焼き討ちは中世末期までに大規模なものだけで10回、小規模なものまで含めると50回にも上るという。いわば比叡山延暦寺は、既得の特権を死守しようとしたわけで、園城寺の三麻耶戒壇の建壇に猛反対したのである。

本能寺41 

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■京都本能寺3(創建から幕末までの450年間に五度の災禍)

 

1536(天文5)の「天文法華の乱」にて、比叡山延暦寺僧兵・宗徒により本能寺の堂宇はことごとく焼失し、堺・顕本寺に避難した。1418(応永25)、本応寺(本能寺)は妙本寺(京都妙顕寺)5世月明や妙本寺宗徒による焼き討ちにつづく二度目の災禍である。

この天文法華の乱にては、本能寺では二万人以上の本能寺宗徒が集結して、比叡山延暦寺の僧兵・山法師と対決。京都の法華21本山の中でも、比叡山延暦寺からの弾圧に最も強く抵抗したのが本能寺だったという。

その後、日蓮宗、法華宗に帰洛が許されて、154748(天文1617)ころ、本能寺宗徒は京都に帰洛。伏見宮第5代邦高親王の子・日承が本能寺第8代貫首として晋山。

1545(天文14)に京都四条西洞院に四町四面の広大な寺域を得て子院30ヶ坊の大伽藍を復興した。これが第四次建立である。

本能寺は日隆の開山以来、尼崎・本興寺とともに山号がなく、両山一首制だった。

歴代本能寺貫首は、地方に布教して、本能寺8代日承の代には末寺が近畿、北陸、瀬戸内から九州、種子島まで布教。本能寺を頂点とした法華宗本門流教団が成立していた。

本能寺は早くから種子島に布教していたことから、鉄砲や火薬の入手につき、織田信長や戦国大名との関係が深かった。織田信長は、本能寺を上洛中の止宿としていた。

1582(天正10)621日、本能寺の変によって織田信長が自刃し、本能寺も焼失した。これが本能寺の三度目の災禍である。

1587(天正15)、本能寺の変から5年後、豊臣秀吉の命で寺町通り御池の現在地に移転している。この時、豊臣秀吉は全国平定までは至っていなかったが、朝廷から関白、太政大臣に任命にはなっていた。

1592(天正20)、本能寺14代日衍の代に、寺町通り御池の現在地に、本堂、開山堂、大書院、客殿の他、子院27院、多宝塔、祖師堂、総門の七堂伽藍を建立した。これが第五次建立になる。

本能寺の変による焼失からわずか10年後に本能寺が再建されている。

江戸時代、本能寺は1615(元和元年)、幕府から朱印領地40石を与えられ、末寺は92ヶ寺になっていた。これを他門流と比較すると、1786(天明6)に江戸幕府に提出した末寺帳によれば、京都要法寺の末寺83 北山本門寺の末寺43 保田妙本寺の末寺40 大石寺の末寺40 西山本門寺の末寺21 となっている。本能寺を頂点とした法華宗教団は、かなり大規模な教団だったことがうかがい知れる。

1788(天明8)の京都・天明の大火で本能寺が焼失してしまう。これが本能寺四度目の災禍である。次の再建はこれから52年後になる。

1840(天保11)、本能寺77代日恩の代に、本能寺本堂の落慶入仏式が行われた。これが第六次建立である。ところがその24年後、本能寺はまたしても災禍を蒙る。

本能寺37石塔

 

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