一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ

「一般社団法人 仏教宗学研究会」とは任意団体として2005年から活動している会の名称。2018年5月に一般社団法人登記。当ブログ名を「仏教宗学研究会のブログ」から「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」に改名。 「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

Category: 興門・日蓮本宗(京都要法寺門流)

日蓮本宗本山・要法寺30(本山要法寺公式ウエブサイト)

 

□日蓮本宗本山要法寺公式ウエブサイトで確認された要法寺(ようぼうじ・yoboji)の読み方

 

私は京都要法寺には1990年代から足を運んでいるのだが、さてこの度、富士門流八本山のひとつである日蓮本宗本山要法寺が公式ウエブサイトをオープンさせていたことが判明しました。

□日蓮本宗本山要法寺公式ウエブサイト「師厳道尊に生きる」

http://www.honzanyoboji.or.jp/

本山要法寺公式ウエブサイトの開設日は201496日になっている。

公式ウエブサイトのアドレスは「ホンザンヨーボージ」。(honzanyoboji)これを見て思い出したのだが、「仏教宗学研究会」のブログでも、京都要法寺の訪問記・研究記事を載せているのだが、今から約3年前のこと、2012033112:04にアップした「京都要法寺(2)~大石寺以外の富士門流では最大寺院数の日尊門流祖山・要法寺」の中で、こう書いた。

「『要法寺』の名前なのだが、正式には「ようぼうじ」と読む。「ようほうじ」ではない。」

□「京都要法寺(2)~大石寺以外の富士門流では最大寺院数の日尊門流祖山・要法寺」

http://bukkyoshugakukenkyukai.doorblog.jp/archives/4808510.html

これは、実際に要法寺に足を運んで訪問すれば、要法寺を「ようぼうじ」と読むことぐらいはわかるのだが、ところが東京をはじめとする関東近県で、本や新聞、雑誌だけ読んで、京都要法寺のことを研究した気になってしまっている者たちは、どういうわけか「要法寺」を「ようほうじ」(yohoji)と読みたがるクセがある。特に日蓮正宗、創価学会、顕正会などの「日蓮正宗系」の信者たちは、一様に「要法寺」を「ようほうじ」(yohoji)と読みたがるのである。そこで私がこれらの者たちに

「そうじゃありませんよ。要法寺は「ようぼうじ」(yoboji)と読むんですよ」

と指摘しても、全く聞く耳を持たないのである。

ところが今回、日蓮本宗本山要法寺公式ウエブサイト「師厳道尊に生きる」のアドレスが「ホンザンヨーボージ」(honzanyoboji)になっていることで、はからずしも私の「要法寺は「ようぼうじ」(yoboji)と読む」との指摘が正しかったことが、公式に確認されることになった。まことに慶賀の至りである。

そこで「要法寺」を「ようほうじ」(yohoji)と読みたがる、東京をはじめとする関東近県の石頭の分からず屋の者たちに対して「勝利宣言」を宣告するものと致します。()

要法寺HP1
















 

(日蓮本宗本山要法寺公式ウエブサイト「師厳道尊に生きる」)

 

 

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

日蓮本宗本山・要法寺29(本山要法寺新貫首に丹治日遠氏)

 

□丹治日遠氏が住職を勤めた日蓮本宗佛眼寺がある福島市で管長就任祝賀会が開催される

 

久しぶりに富士門流の記事になりますが、この度、日蓮本宗管長・本山要法寺第51祖貫首・嘉儀日有氏が退任され、新管長・本山要法寺新貫首に諸佛山佛眼寺住職の丹治日遠(にちおん)氏(73)が晋山し、福島市内で管長就任祝賀会が開催された。まずは管長就任祝賀会を伝える報道記事を引用してみたい。

--------------------------------------------------------------

日蓮本宗最高位に 福島で丹治氏の管長就任祝賀会

 

 福島市の日蓮本宗・諸佛山佛眼寺(しょぶつざんふつげんじ)住職の丹治日遠(にちおん)氏(73)は29日までに、同宗の最高位・管長と、本山・要法寺(京都市)の貫首に就いた。同市で就任などを祝う祝賀会が開かれた。 関係者約300人が出席。丹治氏は「大勢の方々に感謝。懸命に任を全うしたい。今後もご支援いただきたい」などとあいさつした。

 高野伊左衛門佛眼寺責任役員総代長・祝賀委員会委員長があいさつし、小林香市長ら来賓が祝辞を述べた。鏡開きなどで丹治氏の就任を祝った。

 丹治氏は島根県出身。福島高、福島大短期大学部卒。1962(昭和37)年に佛眼寺住職となり、日蓮本宗総務部長などを歴任した。5月に管長就任儀式の晋山式を行った。

(福島民友新聞 630()1316分配信)

---------------------------------------------------------------

日蓮本宗最高位に 福島で丹治氏の管長就任祝賀会

 

 福島市の日蓮本宗・諸佛山佛眼寺(しょぶつざんふつげんじ)住職の丹治日遠(にちおん)氏(73)は29日までに、同宗の最高位・管長と、本山・要法寺(京都市)の貫首に就いた。同市で就任などを祝う祝賀会が開かれた。 関係者約300人が出席。丹治氏は「大勢の方々に感謝。懸命に任を全うしたい。今後もご支援いただきたい」などとあいさつした。 高野伊左衛門佛眼寺責任役員総代長・祝賀委員会委員長があいさつし、小林香市長ら来賓が祝辞を述べた。鏡開きなどで丹治氏の就任を祝った。 丹治氏は島根県出身。福島高、福島大短期大学部卒。1962(昭和37)年に佛眼寺住職となり、日蓮本宗総務部長などを歴任した。5月に管長就任儀式の晋山式を行った。(2014年6月30日 福島民友トピックス)

------------------------------------------------------------

丹治日遠1















 

(丹治日遠氏の管長就任祝賀会を報道するインターネットニュース)

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

日蓮本宗・鳥辺山實報寺10(禅寺に葬られ親鸞の隣りで眠る日目)

 

私は、實報寺住職との長時間に及ぶ単独会見を終えたのでしたが、私にとっては、大きな成果のある實報寺訪問と言うことになりました。實報寺住職は

□ここ鳥辺山にあった延年寺に、日目が葬られて正墓が建てられたこと

□延年寺とは禅宗の寺院であったこと

□その後、延年寺が鳥辺山から出て行くに当たって、富士門流で、日目の正墓がある墓域を延年寺から買い取ったこと

□その買い取った日目の正墓の墓域が、今の實報寺であること

□よって實報寺に日目の正墓があること

□大石寺に、日目の遺骨の分骨をしていないこと

以上のことを明確に認めました。つまり

□日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨が「富士宗学要集」8巻に収録し、堀日亨が「売券」と呼んでいる古文書に書いてある内容である、日目が京都・鳥辺山の延年寺に葬られて正墓が建てられ、その墓域がある延年寺成願の所領を富士門流が四回にわたって買い取った土地が、今の實報寺であること

□實報寺墓苑中央にある廟こそが、日目、日尊が眠る正墓であること

□實報寺のほうで、大石寺に日目の遺骨を分骨したという事実はなく、實報寺住職が分骨を全面否定したことで、大石寺・下之坊にあると日蓮正宗が自称している『日目上人の御正墓』なるものはニセモノであること

これらがここで確認されたと言うことです。

さらに注目すべき事は、かつて京都・鳥辺山にあった延年寺は、禅宗の寺院であったこと。つまり鳥辺山の延年寺墓地に日目が葬られた、ということは、とりもなおさず、禅宗の寺院の墓地に葬られた、ということになる。

さらにもうひとつ言うと、この實報寺の道路を挟んだ隣には、浄土真宗の開祖・親鸞の大谷本廟があり、とりもなおさず、ここには親鸞が葬られて、眠っている。つまり大石寺三祖日目は、京都の禅宗の寺院の墓地に葬られていたということであり、今は實報寺は富士門流の寺院ではあるものの、大石寺の末寺ではない。しかも浄土真宗の開祖・親鸞と隣同士になって日目は眠っている。

こういう真実の姿は、日蓮正宗としては、とても恥ずかしくて信者には言えないだろう。日目の正墓が、同じ富士門流とはいうものの、日蓮正宗と対立関係にある要法寺の末寺である實報寺にあるわけだから。日蓮正宗としても、日目の遺骨が京都・鳥辺山に葬られて日目の正墓が鳥辺山に建てられたことは、史実と認めているわけで、これは動かしがたい。

實報寺10日目正墓3


大石寺17世日精や59世堀日亨も、明確に日目の遺骨が京都・鳥辺山に葬られて、鳥辺山に日目の正墓が建てられたことは、史実と認めているし、日蓮正宗富士学林が発行している「富士年表」でも、鳥辺山の日目墓地の四回の土地買い取りを史実として、年表に載せています。

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

日蓮本宗・鳥辺山實報寺9實報寺に日目の正墓があると断言2

 

一通りの住職からの回答があった後、私と住職の問答になった。

 

○「それでは、日目上人、日尊上人の正墓は、ここ実報寺さんにあるわけで、日蓮正宗大石寺にはない、ということで、よろしいわけですね」

□住職「正墓というのは、どういう概念で言っておられるのですか」

實報寺10日目正墓3


○「人が亡くなって、葬儀を執り行い、遺体を荼毘に付して、遺骨をどこかに葬る場合、通常は、その人の遺骨をお墓に納めますね。そこが正墓と言うことです。その後、分骨をして他にも墓を建てる場合がありますが、そこを正墓とはいいませんねえ。通常なら、正墓というのは一カ所しかありませんね。」

□住職「それならば、目師(もくし・日目のこと)の正墓は、ここ(實報寺)にあるということになります」

○「では、あそこ(實報寺の墓苑)にある正墓には、日目上人、日尊上人の真骨が納められている、ということですね」

□住職「日目上人は、こちらに葬られたことは史実ですが、しかし、それから何百年も経っていますので、今は土に還っているかもしれません」

○「こちらにある墓が、日目上人の正墓ということであれば、日蓮正宗が、大石寺・下之坊にあると自称している『日目上人の正墓』なるものは、ニセモノということになりますねえ」

□住職「ニセモノ?

○「それは、そうでしょう。日目上人は、ここ鳥辺山に葬られて、ここに正墓があるわけですから。正墓というのは、一カ所しかありませんですからねえ。ここ以外で、日目上人の正墓だと称している所は、ニセモノということになるでしょう。まあ、もっとも、要法寺さんや實報寺さんのほうで、大石寺に日目上人の遺骨を分骨していれば、話しはべつですが」

□住職「大石寺に分骨はしておりません」

○「ならば、日蓮正宗が大石寺・下之坊にあると称している『日目上人の正墓』なるものは、ニセモノということになるでしょう」

□住職「まあ、そういうことになるのかもしれませんけども、ただ、むこう(日蓮正宗)が、そういうことを言っているとしても、こちら(實報寺)は、それはちがうよ、ということも言いませんけどね」

 

こんな感じで、私と實報寺住職との間で、日目の正墓論争が延々とつづきました。

が、この中で、實報寺住職は

□ここ鳥辺山にあった延年寺に、日目が葬られて正墓が建てられたこと

□その後、延年寺が鳥辺山から出て行くに当たって、富士門流で、日目の正墓がある墓域を延年寺から買い取ったこと

□その買い取った日目の正墓の墓域が、今の實報寺であること

□よって實報寺に日目の正墓があること

□大石寺に、日目の遺骨の分骨をしていないこと

以上のことを明確に認めたわけです。

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

日蓮本宗・鳥辺山實報寺8(實報寺に日目の正墓があると断言)

 

實報寺住職の方も、言いたいことを言って少し気持ちが晴れたのか、ようやく少しは心を開いて喋り始めました。

 

□住職「あなたはサイトを主宰しておられるのですか」

○「そうです。『アンチ日蓮正宗』という名前のサイトを主宰しています。立場的には、反日蓮正宗である他、反創価学会、反顕正会、反正信会で、日蓮正宗から派生した団体に対しても、すべて反対の立場で、これらの関連サイトが6つあります」

□住職「『アンチ日蓮正宗』ですか。それは日蓮正宗を叩くサイトということですね」

○「そのとおりです。しかし今、日蓮正宗・創価学会・顕正会・正信会はお互いがお互いを罵倒しあっており、中でも日蓮正宗と創価学会が『宗創戦争』で罵倒中傷しあい、信者の争奪合戦を展開しています。『アンチ日蓮正宗』の立場は、あくまでも反日蓮正宗・反創価学会・反顕正会・反正信会です。宗創戦争をはじめとする日蓮正宗系の団体同士の紛争のいずれにも与するものでもなく、これらの紛争による信者のカルトサーフィンそのものを止めさせることが第一義です」

□住職「そうですか。それで目師(日目)のお墓が大石寺にあると、日蓮正宗では言っているのですか」

○「そうです。『大石寺案内』という小冊子には、日目上人の正墓は、大石寺のすぐ近くにある大石寺末寺・下之坊にある、と書いてあります。又、日蓮正宗の僧侶は、自分の寺の信者には、大石寺墓苑の三師塔が日目上人の正墓だ、などと教えています」

□住職「そうですか。まあ、むこう(日蓮正宗)では、派手にいろいろな本を出したり、新聞を出したりしておりますからねー。それでむこう(日蓮正宗)は、むこうで、こちら(日蓮本宗・要法寺)のことを、いろいろと批判したり、いろいろ書いているようですが、だからといって、こちらは、むこうに反論する本を出すということは、しておりません。尋ねられれば、お答えはしておりますが」

○「では率直にお尋ねしますが、日目上人の正墓は、ここ京都・鳥辺山にあるのですか。それとも大石寺にあるのですか」

これだけ長々と、延々、住職と話を続けて、ようやく話題が本題に入っていったのでありました。

實報寺10日目正墓3
 

□住職「ご承知のように、目師(もくし・日目のこと)は、京都に天奏に出られた旅の途中、美濃国(岐阜県)垂井で御遷化になられました。それで目師のお供をしていた尊師(ぞんし・日尊のこと)と郷師(ごうし・日郷のこと)は、目師を荼毘に付されて、尊師は目師の御遺骨を奉じられて京都に来られました。郷師は、大石寺に帰られたわけです。

尊師は、京都の鳥辺山に来られたわけですが、このあたりに延年寺というお寺がありまして、その延年寺の墓地の一角に、目師の御遺骨を葬られたのです。その後、延年寺が鳥辺山から出て行ったため、尊師が目師の墓地の一角を買い取られたのです。そして尊師が御遷化になられた後、尊師もここに葬られました。延年寺というお寺は、禅宗のお寺で、今は大津にあるんですけれどもねー。その後、目師のお墓の周りに、墓地ができて、今日に至っているという次第です。まあ、京都での富士の門流と言っても、ウチ(要法寺)だけですけれども」

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

日蓮本宗・鳥辺山實報寺7(嘉儀吉裕氏と受付で大激論)

 

私としても、實報寺住職が庫裡から受付に出てきたのには驚きましたが、しかしこれはまさに千載一遇のチャンス。何の前触れもなく、急遽、単独会見ということになったわけですが、しかし冒頭から實報寺住職の表情は険しく、実に刺々しい雰囲気ではじまりました。

實報寺4

 

□住職「先程から、表で、いろいろと話しておったのは、あなたですか」

○「あそこにいた、半被を着た男性と話していたのは私です」

□住職「何の用で、ここに来られたのですか」

○「私はサイトを主宰している者ですが、要法寺第三祖に当たる日目上人の正墓の所在についていろいろと調査を重ねていたところ、京都・鳥辺山に埋葬されたという古文書を複数見つけました。しかしこれらの古文書は、室町時代から江戸時代のもので、今の日目上人の正墓の所在を確認できる資料をいろいろと探したのですが、見つかりません。そこで実際に京都・鳥辺山に来て実地調査をすることにしました。ちょうど、所用で京都へ来たので、こちらの鳥辺山へ来たわけです」

□住職「それならば、どうして事前にこちらに連絡をしてくれなかったのですか」

○「私が、實報寺さんをお訪ねしようと思ったのは、こちらの鳥辺山に来て登り坂の道を歩いてきたところ、入り口に『要法寺開山本廟』と書いた石碑が建っていたからです。それまで私は、實報寺さんの名前や存在すら知りませんでした。ここ鳥辺山に来て、はじめてわかったわけです」

□住職「そんなことはないでしょう。東京から来られているということでしたら、あちらには、日目上人に関する資料はたくさんあるはずです」

○「今の日目上人の正墓の所在を示す資料は、何処にも見当たりませんでした。

日目上人は、日蓮正宗大石寺の第三祖でもあるわけですが、日蓮正宗では、日目上人の正墓は大石寺にあるとか、下之坊にあるとか書いた本を出しています。しかしこれは何の根拠も証拠もなく、全く信用できないものです。なぜなら、室町時代の古文書には、日目上人の遺骨が京都・鳥辺山に葬られたことが出ていますし、上代の記録は、いずれも鳥辺山説であって、大石寺・下之坊に葬られたという記述はありません」

□住職「それなら、鳥辺山にあるウチの寺のことを書いた資料があると思うんですがね-」

 

とにかく私がいくら説明しても、住職は

「東京には鳥辺山の日目上人の正墓に関する資料があるはずだ」

「ここに来るなら来るで、どうして事前に連絡しなかったのか」

の一点張りで、これを繰り返すだけ。私は、現在の日目の正墓に関する正確な資料がないからこそ、京都・鳥辺山の実地調査に来た旨を何度も説明しました。實報寺受付で、私と實報寺住職ーの間で、この点に関して、延々と論争がつづきました。

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

日蓮本宗・鳥辺山實報寺6(實報寺住職が現る)

 

「要法寺開山本廟」という石碑が建っていた墓園の中に入っていくと、山門があり、さらに寺の庫裏のような建物もありました。山門や庫裡の棟札を見ると「實報寺」という名前が。

ここは鳥辺山墓地というのではなく、日蓮本宗本山で、日尊門流の祖山である京都・要法寺の末寺である實報寺の墓園という感じです。それにしてもこの山門、以前にインターネットのどこかのサイトで見た記憶がありましたが、その時は思い出せませんでした。

實報寺3


さて實報寺の墓園の中を見学してみたのですが、どこにでもある、何の変哲もない墓園。墓園の中は所狭しと、さまざまな墓石が建っていました。墓石の掃除・手入れもなかなか行き届いており、一見して、ちょっと高級な墓園に見えました。

墓園の中に、ただ一カ所、墓園の中央のような所に、大きな石塔が建った「廟」があった。

「これが日目の墓なのかな」と思いましたが、何の案内板も何の説明書もなし。しかし、實報寺の入り口に「要法寺開山本廟」という石碑が建っていることからして、これが日目・日尊の墓としか考えられない。しかし案内板も説明書もなく、何の表示もないことからして確認することが出来ない。

 

山門の近くには「詰め所」のような建物があり、初老の男性が、墓園の掃除や手入れをしているように見えた。ひょっとしたら、見知らぬ顔の男が一人、墓園に入ってきたことから、「何者か」と思って、出てきたのかも知れません。

私は、「ひょっとしてこの墓園の管理人か?」と思い、その男性に質問してみることにした。たしかこの男性は、「要法寺」だったか「實報寺」だったか、文字が入っている半被を着ていました。

 

○「ここの入り口に、『要法寺開山本廟』という石碑があったので、ここに入ってきたのですが、鳥辺山墓地とか、鳥辺野墓地という所は、こちらですか」

□男性「そういう名前は知りません。ここは實報寺というお寺の墓園です」

○「しかし私は、鳥辺山墓地に要法寺三祖日目上人が葬られたということを聞いて、ここにやってきたのですが。」

□男性「いや、そういう墓地は知りません」

○「知らないはずがないでしょう。入り口に『要法寺開山本廟』と書いた石碑が建っているじゃありませんか。日目上人というお方は、要法寺さんの第三祖に当たるお方でしょう」

□男性「…」

 

半被を着た初老の男性が、なんとなく内にこもって、私の質問をかわして追い返そうという感じに見えたので、ちょっと強い口調でこう言いました。

 

○「わからない、わからないじゃ話になりませんよ。わかる人はいないんですか。あなたがわからないんじゃ、すぐわかる人を呼んできて下さい」

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

日蓮本宗・鳥辺山實報寺5(鳥辺山に要法寺開山本廟を発見)

 

私は、とにもかくにも京都に行って、自分の目と耳で確認する以外にないと思い、京都・東山五条の鳥辺山に行くことにしました。2009年秋のことです。

私は、それまで京都の東山や東山三条、三条大橋周辺も何度も行っていますし、国道一号線や東山五条も、何度も通っているのですが、この「鳥辺山」については、全く気づきませんでした。

この時は、東京・上野駅前から深夜高速バスに乗って京都駅前に降り立ち、食事をして後、京都市営バスに乗って東山五条へ。すると「鳥辺山」と地図に書いてあった場所に行ってみるとビックリ。なんとそこには、浄土真宗の開祖・親鸞の廟があったのである。

「大谷本廟 親鸞聖人七百五十回大遠忌法要」と書いた立て看板がありました。

正式名はここに書いて有るとおり「大谷本廟」というらしい。せっかくここまで来たついでに、大谷本廟の中に入ってみましたが、朝の速い時刻だったにもかかわらず、何人もの参詣の人の姿が見えました。

「親鸞聖人七百五十回大遠忌」と書いてあったので、2009年がその年に当たるのかと思っていたら、そうではなく、親鸞は12621128日に入滅しているので、「七百五十回大遠忌」に当たる年は、2011年ということになる。

 

それにしても、京都・東山五条の鳥辺山まで来て、見つかったのは延年寺ではなく、親鸞の大谷本廟というのは驚いた。

親鸞の曾孫で本願寺第三世の覚如の『御伝鈔』に「鳥部野の南の辺、延仁寺に葬したてまつる」

と記されているということからして、親鸞も京都・鳥辺野に葬られたと言うことのようです。

親鸞は、鳥辺山に葬られていたとしても、日目の墓や延年寺はどうなったのか。私はなんとしても情報を得ようとして、大谷本廟入り口の脇にある、みあげもの店兼仏具店に入ってみました。

少々、買い物をした後、店の主人に質問。

「このあたりに、鳥辺山墓地とか鳥辺野墓地という名前の所はありませんか」

これに対して、店の主人は

「あー、それでしたら、この前の道をずーっと登っていった左側にありますよ」

という気軽な返事。

 

「あー、やっぱりこのあたりにあるんだな」と思い、その主人に丁重なお礼を言って、大谷本廟の脇の道の登り坂を登って行きました。

「ひょっとしたら日目の正墓が残っているのかもしれない」と思い、けっこうむ期待に胸を膨らませて、登って行きました。しばらく登って行くと、左側に墓地の入り口を発見。

「ここかな」と思って、その入り口から入ってみると、入り口の脇に石碑が建っていて、そこには

「要法寺開山本廟」

と書かれていました。入り口には「實報寺」という石碑が建っていました。

實報寺14石塔


続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

日蓮本宗・鳥辺山實報寺4(鳥辺山から消えた延年寺)

 

鳥辺山實報寺については、要法寺発行の「私たちの要法寺」には

「鳥辺山御廟所

本山御歴代の貫首上人の墓所は、東山五条上ルの鳥辺山実報寺にあります。

鳥辺野は、すでに王朝時代から無常所として都の人々の墓地に使われていました。日目上人の御遺骨が埋葬されたのもここです。日尊上人はなくなる時、日目上人の御遺骨を頭上にいただく形にして葬るよう命ぜられ、師厳道尊の実を示されたということです。ここがのちに実報寺となりました」

と書いてある。「本山要法寺参詣案内」には

「鳥辺山御廟所

二祖日興上人、正慶二年二月七日寂滅せらるるに先んじて愛弟子日目上人を召して帝関奏聞を遺命し玉ふ(時に興師御年八十八)。日目上人かしこみて日尊、日郷の二上人を同伴せられ、天奏上洛の途次十一月俄然病ひ革まり、日尊上人に後事を托せられ、同月十五日、岐阜県不破郡垂井に於いて遂に遷化せらる。日尊上人は悲嘆止むかたなきも遺命を奉じて天聞奏上、遺骨を鳥辺の山野に納め玉ふ。康永二年四月実報寺を開創せらるるにあたり、逆修塔を建立し御自ら碑面の文字を揮毫し給ふ。爾来歴代上人遺骨此の地に納め奉り、本山御廟所として四時参詣者絶えず、先師の遺徳を偲び御報恩の誠を捧ぐ」

とあります。

私たちの要法寺1


いずれも、日蓮本宗本山要法寺が発行した公式文献として、鳥辺山実報寺に大石寺・要法寺三祖日目の遺骨が葬られたことを記している。

しかしこの文献を知ったのは、実報寺に行ったあとのこと。

鳥辺山に行く前は、資料も何も全くない状態でした。

 

私は、大石寺三祖日目の正墓探しの作業を、京都の鳥辺山墓地を探すことからはじめたのであったが、これがなかなか困難を極めた。

まず、京都に「鳥辺山」とか「鳥辺野」という地名が見つからない。そのような名前の住所も、京都にはない。探しに探したあげく、ようやく京都・東山五条に「鳥辺山」の名前を見つけた。

私が調査した中で、京都で「鳥辺山」ないしは「鳥辺野」の地名を載せていたのは、JTB発行のガイドブック「アイジャパン」である。

この「アイジャパン」の地図によると、京都・東山五条の国道一号線脇に「鳥辺山」と書いてあり、その中にある通妙寺のところに「鳥辺野墓地」と書いてある。

通妙寺とは、日蓮宗寺院となっていたが、詳細はわからなかった。「アイジャパン」の地図には實報寺も載っていたが、その時点では何の詳細もわからず、当初は私の眼中にはなかった。

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

日蓮本宗・鳥辺山實報寺3(下之坊に日目の遺骨はない)

 

日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』8p6971に収録されている、京都・東山の延年寺墓地に葬られた日目の墓地を、富士門流が延年寺から墓地を四度にわたって買い取って、墓域を拡張した四通の文書(堀日亨は売券と呼んでいる)によって、日目が京都・鳥辺山の延年寺墓地に葬られたことは明らかである。

實報寺11日目墓4


この古文書を堀日亨は正文書と認めており、さらに上代の法主である大石寺17世日精も、「家中抄」で、日目は京都・東山・鳥辺野に葬られたと書いている。つまり日蓮正宗大石寺の上代の法主が、日目は京都・鳥辺山に葬られたと認めているのである。

それにも関わらず、今の大石寺は、日郷が日目の遺骨を持ち帰って富士に葬った、などと言っており、「仏教哲学大事典」には次のように書いてある。

「日尊は京都の鳥辺山(東山鳥辺野)に墓所をつくり、日郷は遺骨を持ち帰って富士大石寺に帰り、下之坊に納めた。日目上人の正墓は上野の下之坊の右手、富士を背にした景勝の地にあり、総本山富士大石寺を見守っているような位置にある」(『仏教哲学大辞典』p950)

 

これによると日尊は京都・鳥辺山に日目の墓所だけを造り、遺骨は日郷が富士に持ち帰ったと言うことになる。そんなバカな話しがあるだろうか、といいたくなる。

自らの師匠を葬る正墓を造るのに、遺骨のない墓所を造る弟子がどこの世界にいるだろうか。

しかも、遺骨がない墓所の墓域を拡張しようと、わざわざ大金を支払って墓域の土地を四回も買収するはずがないではないか。鳥辺山の日目の墓所に日目の遺骨が入っているからこそ、墓域を拡張しようと土地を買収したのではないか。

 

では日郷は、本当に富士に日目の遺骨を持ち帰ったのか。

これも道理や常識から考えると、日郷がそんなことをするはずがないのである。

日目は、1333年、京都天奏の旅路の途中、美濃国垂井で死去した。京都天奏の志を遂げることなく、道半ばで倒れたわけである。では日目の弟子は、師匠・日目の遺骨をどこに葬るだろうか。

日蓮正宗に言わせると、弟子の日郷は遺骨を大石寺に持ち帰ったというが、本当に日目の弟子は、そうするだろうか。

3祖日目1


日蓮正宗の発想だと、日蓮正宗大石寺には「血脈相承」なるものがあり、日目は日興から「日興跡条条事」で唯授一人の法主に選定されたのだから、大石寺に葬られたのだ、ということになる。

しかし「日興跡条条事」も「血脈相承」なるものも、後代の法主である大石寺9世日有が偽作したものであり、全くの嘘っぱちである。

ならば、血脈相承だの日興跡条条事なるものを除去して冷静に考えたら、どうだろうか。どういうことかというと、ここは常識で考えるべきである。

つまり師僧が志し半ばで倒れ、目的を果たせずに死去したら、弟子はどうするのか。よくよく考えてみるべきである。

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

日蓮本宗・鳥辺山實報寺2(日目墓域を買収・拡張を記した古文書)

 

日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』8p6971に収録されている、京都・東山の延年寺墓地に葬られた日目の墓地を、富士門流が延年寺から墓地を四度にわたって買い取って、墓域を拡張した四通の文書(堀日亨は売券と呼んでいる)とは、以下の古文書である。

 

1 1340(暦応3)の文書

「売り渡す延年寺観音堂西寄の地の事。

合台所在、東西壱丈、南北壱丈

右件の地は成願が相伝の私領なり。然りといへども、用事あるによつて直の銭壱貫文に安房の国当住大田の宰相阿闍梨日郷に売り渡し奉る所実なり。若し此の地におき候いて向後違乱煩い出来て候はん時は売り主の沙汰として本銭壱壱倍をもちて十箇日の内に弁え申し候べく候。後の為に売り券の状件の如し。

暦応三年七月十五日                延年寺成願在り判」

 

2 1344(康永3)の文書

「売り渡しまいらせ候延年寺の地の事。

合東西六尺、南北一丈、定 日目上人御墓前なり。

右件の地は故成願が私領なり。用要あるによつて日向の国富田の庄内、日知屋寺の別当御房(薩摩阿闍梨日眷)に永年お限って用途六百文に永く売り渡しまいらせ候所実なり。若し此の地に子細候はば此の状を先として御沙汰候はんに子細あるまじく候。若し無沙汰なる事候はば本の用途にても候へ、又別の地にても候へ急ぎ急ぎ沙汰仕り候べく候。仍って後日の為に証文状件の如し。

康永三年太歳甲申潤二月廿八日   故成願が後家比丘尼明知在り判」

 

3 1347(貞和3)の文書

「売り渡す延年寺の地の事。

合一丈、四方□□一貫文

右件の地は成願が私領にて候なり。用あるによつておしてらのれんさう無く永く売り渡しまいらせ候所実なり。若し此の地に子細煩い候はん時は異地にても又本銭にても候へ。弁へ申し候間、此の証を先として御沙汰あるべく候に子細候まじく候。仍って後の為に売り券の状件の如し。

貞和三年七月十八日 売り主 成願後家在り判」

富士宗学要集9

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

日蓮本宗・鳥辺山實報寺1(日目の正墓がある京都・鳥辺山御廟所)

 

實報寺(じっぽうじ)という寺院は、正式には多寶山實報寺といい、日蓮本宗本山・要法寺の末寺。つまり富士門流八本山・日尊門流の祖山である京都・要法寺の末寺。

實報寺3


要法寺が発行している小冊子「私たちの要法寺」の中では「鳥辺山御廟所」として載っていて、大石寺・要法寺・保田妙本寺・小泉久遠寺の三祖・日目の正墓がある他、要法寺歴代貫首の墓がある寺である。

場所は、京都・東山五条の鳥辺山にあり、便宜上、「鳥辺山實報寺」としました。

東山五条だから、東山三条の本山・要法寺から、そんなに遠くない所にある。

では、なぜこの寺に訪問することになったのかというと、三祖・日目の正墓探しをしている中で、訪問することになったわけですが、これが思わぬ形での訪問になった。

日蓮正宗大石寺に言わせると、日目の正墓は、日蓮正宗寺院・下之坊にあるということになっている。

大石寺が発行している「大石寺案内」という小冊子には、日目の正墓が下之坊にある旨、堂々と記載されているし、毎年の下之坊のお会式には、大石寺から法主が下向するのだが、法主は「墓参」と称して、下之坊の自称・日目の墓に墓参・読経・唱題する。

しかし、下之坊に日目の正墓があるというのは全くの虚偽であり、日目の正墓のある所は、下之坊でもなければ、日蓮正宗大石寺でもない。では日目の正墓はどこにあるのか。

 

富士門流の古文書を調査していくと、日目は京都・鳥辺山墓地に葬られたということになっており、日目の正墓は、京都・鳥辺山の延年寺にあることになっている。まず鳥辺山説を唱えているのは、日蓮正宗大石寺17世法主日精である。日精は自らの著書「家中抄・日目伝」の中で、次のように書いている。

「御骨を拾い頚にかけ涙に咽び遥々と京へ上り給ひて東山鳥辺野に御墓を築き給ふ、其の後日郷は哭く哭く御所持の道具御守り等取り持ちて富士にぞ下向し給ひける」

(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』5p191・日精著『富士門家中見聞』)

 

さらに堀日亨編纂『富士宗学要集』8p6971には、京都・東山の延年寺墓地に葬られた日目の墓地を、日郷門流が延年寺から墓地を四度にわたって買い取って、墓域を拡張した文書(堀日亨は売券と呼んでいる)が四通、収録されている。

日蓮正宗においても、この四通の文書を正文書と認め、日蓮正宗が発行している「富士年表」においても、この四通の文書(売券)が発行された1340年、1344年、1347年、1365年の四回の墓地買い取りを第1次~第4次の「日目墓地買い取り」として載せている。

59世日亨2

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

日蓮本宗本山・要法寺28(本堂参拝を拒否した若手所化僧)

 

要法寺塔頭住職が、本尊への供養・合掌・読経を条件に本堂の本尊を拝ませても良い、という話しを出してきたのを断ったのは失敗だったなー、と後悔したのは、東京に帰ってだいぶ経ってからのことです。

あの住職の言葉は、ひょっとしたら入信しろ、という意味ではなかったのではないか。

どこの寺でも、「本尊を見せて欲しい」と言ったら、合掌・供養せよ、くらいのことは言うであろう。つまりあの時、塔頭住職が言ったのは、入信を条件にしたのではなく、極めて一般的なことを言っただけだったのではないか。だとしたら、住職の言葉を断ってしまったのは、大失敗である。

その後、要法寺の日尊六百五十回遠忌法要に行くといいながら、結局は、仕事の都合で行けなかったわけだから、ますます断ったことが悔やまれました。

しかし「後悔先に立たず」である。後で悔やんでみても、どうにもなりません。

 

しかし諦めきれない私は、どうにかして先の塔頭住職に再会して、要法寺本堂の本尊を拝見させてもらうわけにいかないだろうかと、考えるようになりました。

要法寺1本堂1


まあ十中八九は無理でしょうが、それでも何とかやってみて、だめならだめで諦めるしかないなと考えたわけです。

そこで再び、京都・要法寺行きを決行することにしました。

しかしそうはいっても、なかなか京都に行く機会に恵まれず、実際に再び京都・要法寺に行ったのは、日尊六百五十回遠忌法要から12年経った後のことでした。

私は再び自家用車をかっ飛ばして東名高速・名神高速を走って京都・東山三条へ。

この時は、だいぶ京都の道や地理を覚えていましたので、割と簡単に要法寺・駐車場にすべり込むことができました。

しかし要法寺へ行ったのはいいのですが、法要も行事も何もない日であったようで、境内・塔頭とも全く人影がない。人の気配が全く感じられないのです。

そこで私は寺務所の中に入り、無人の受付で人を呼んでみました。

要法寺33宗務院


すると、奥の方から一人、若い所化僧らしき僧侶が出てきました。その所化僧は、受付の係は、今はいない、という、これまた、まことにつっけんどんな答え。

「ずいぶん、つっけんどんな僧侶だな」と思いつつも、せっかく京都・要法寺まで来たのだから、前回、要法寺来訪の時の事情を説明して、本堂の中に入れてもらおうと交渉したのだったが

「信者以外の人には見せられません」

という、これまた頭ごなしの、高飛車な答えが返ってきた。

この一言にカチンときた私は

「なんだその言い方は」

と怒ったが、しかし本堂の中に入ることを正面切って断られてしまっては、もはやそれまで。

どうにかして、別の方法を考えるより外にありません。

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

日蓮本宗本山・要法寺27(合掌礼拝を条件に参拝を認めた住職)

 

話題が本尊のことになったので、今の要法寺本堂、開山堂に祀られている本尊について、具体的に塔頭住職に質問。

 

○「本堂は日蓮大聖人の大曼荼羅、開山堂は日興上人の大曼荼羅ということですが、大曼荼羅にはそれぞれ図顕した年月日が入っているはずです。本堂、開山堂に祀られている大曼荼羅の図顕年月日は、いつになっているのでしょうか」

要法寺23鐘楼本堂

 

私は、要法寺本堂の本尊とは、日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨が編纂した「富士宗学要集」8巻に載っている「称徳符法の本尊」ではないのかな、と思っていた。堀日亨は、「称徳符法の本尊」を日蓮真筆としているが、偽筆の疑いが非常に強い曼荼羅で、立正安国会「御本尊集」には載っていない。立正安国会は、日蓮真筆とは認めていないと考えられる。

私としては、要法寺の朝の勤行に入ることに失敗してしまったことから、ここで塔頭住職公認の元に本堂の中に入って、どういう本尊が祀られているのか、確かめてみたいと思っていた。

この私の質問に対して、塔頭住職の回答は

「それは、わからないですね」

の一言。私が

「本堂の大曼荼羅本尊の図顕年月日が、わからないはずがないでしょう。わからないというのは、おかしいんじゃないですか」

というふうに私が押しても、なぜか塔頭住職は無言。それとも、隠そうとしていたのか。別に大曼荼羅の図顕年月日などというのは、隠す理由などないと思うのだが。私は、さらに押してみた。

 

○「では本堂の大曼荼羅本尊を拝見させていただけませんか。見たところ、本堂の扉も開いているようですし」

この私の質問というか要望に、塔頭住職はずいぶん驚いた様子を見せ、しばらく思案した後、こんな回答をしました。

□住職「あー、わかりました。それでは御本尊様に御供養を申し上げ、合掌・礼拝して読経・唱題をなさるということであれば、いいでしょう」

 

この塔頭住職の回答に、今度は私のほうが驚いてしまいました。「えーっ」という私の驚きに、塔頭住職は間髪を入れずに

□住職「当然でしょう。ここは寺院です。博物館や美術館で展示物を見学するのとは、ちがうんです」

要法寺1本堂1
 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

日蓮本宗本山・要法寺26(釈迦仏像本尊の歴史を否定)

 

話題は、要法寺の血脈、貫首、大石寺との関係から、要法寺の本尊の話題になった。

本堂での朝の勤行に入ることが出来なかったこともあったため、ここで私としては、要法寺本堂の本尊は、何が祀られているのかを確かめたいと思い、ここのところを塔頭住職に質問。

 

○「本堂には、何を本尊として祀られているのですか」

□住職「本堂は、宗祖日蓮大聖人の大曼荼羅です」

 

○「開山堂のほうは、何を本尊として祀られているのですか」

□住職「開山堂は、御開山日興上人の大曼荼羅です」

要法寺1本堂1
 



要法寺が本尊として祀っているのは、大曼荼羅であるという回答。大曼荼羅を本尊として祀っていること、日蓮のことを「大聖人」と呼んでいること、日興のことを「御開山」と呼んでいるのも、日蓮正宗大石寺と同じ。ただし、日蓮のことを「大聖人」と呼ぶのは、日蓮正宗や富士門流だけではなく、日蓮宗の寺院でも、日蓮を「大聖人」と呼称している本山はいくつかあります。身延山久遠寺や池上本門寺でも、日蓮を「大聖人」とよんでいる。

 

「本堂は、宗祖日蓮大聖人の大曼荼羅です」

「開山堂は、御開山日興上人の大曼荼羅です」

塔頭住職の答えは、胸を張って、いかにも自信に満ちた答えでした。

「富士門流なんだから、本尊は大曼荼羅本尊に決まっていますよ」という意味が込められていることは明らか。しかしそういう意味を込めているとしたら、こちらだって言いたいことがある。そのあと、私は多註住職に、少々、意地の悪い質問をぶつけてみました。

 

○「要法寺さんでは、昔から大曼荼羅を本尊とされていたのですか」

□住職「そうです。当山では開創以来、大曼荼羅を本尊としてきています」

 

塔頭住職は、語気を強めて、こう答えたのです。それはおかしいでしょう。

日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨が編纂した「富士宗学要集」には、中世のころ、要法寺が造仏読誦を容認した古文書がいくつも収録されているし、立正大学日蓮教学研究所が編纂した「日蓮宗宗学全書」には、要法寺13世貫首・広蔵院日辰の著書である「開迹顕本華ニ論議得意鈔」「造仏論義」「読誦論義」が収録されている。これらのものは、広蔵院日辰が造仏読誦を容認・推奨した証拠である。私はつづけて塔頭住職に質問した。

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

日蓮本宗本山・要法寺25(選挙で選出されていた貫首)

 

要法寺貫首の話しが出て、そこからちょっとした歴史の話になった。

要法寺17表門


塔頭住職の話では、「日蓮大聖人、日興上人の仏法、法脈は要法寺に受け継がれている」という主旨の話しをしていた。それ、どこかで聞いたような話ですね。この塔頭住職の話は、日蓮正宗大石寺法主の血脈相承をそっくりそのまま、要法寺貫首にすり替えたような話しだった。

では要法寺の貫首はどんな選び方をしているのだろうか。大石寺のように現法主ないし前法主が、次期法主を選定・指名するというやり方なのだろうか。そこで、住職に質問。

 

「猊下はどのようにして選んでいるのですか」

住職は一瞬、間をおいたあと

「選挙で選んでいます」

との回答。つまり選挙で選んだ要法寺貫首が、要法寺の仏法を所持しているというむ感じになるのだろうか。無宗教の私には、どうもここのところが、何ともわかりにくい。

私にとっては、日蓮正宗大石寺と全く瓜二つの宗門がここにもある、という印象しかありませんでした。

いろいろ要法寺について調べたり、塔中住職と話しをしていると、大石寺との類似性を強く感じた。そこで私は、大石寺との共通性について質問してみた。

 

「猊下やご住職が着ておられる法衣は、大石寺の僧侶が着ている法衣と同じですね」

この質問に対する塔頭住職の答えは、「大石寺とは同じ日興上人の門流、富士門流ですから」というもの。しかしこの塔頭住職は、大石寺との共通性の話題になると、あまり歯切れが良くありませんでした。

かつて大石寺法主の中に、要法寺出身の法主がいること。室町時代から江戸時代にかけて、要法寺と大石寺は通用していたことに触れても、塔頭住職の答えは

「要法寺と大石寺は、同じ日興上人の門流ですから」

というステレオタイプ的な答えしか返ってこない。

つまり塔頭住職の答えは、かつて要法寺と大石寺が通用・交流していたのは、同じ日興門流・富士門流なんだから、通用・交流というものがあって当たり前。要法寺が交流していたのは、何も大石寺だけじゃなく、他の北山本門寺、西山本門寺、小泉久遠寺等々、他の富士門流の本山とも交流があったというような回答。確かに歴史的なことを言えば、そういうことになるのでしょう。

今は、要法寺と大石寺は断絶状態だが、これは大石寺側に責任があるということを言外に含ませているようです。

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

日蓮本宗本山・要法寺24(加歴等で特殊な数え方)

 

思わぬ形で要法寺塔頭住職との単独会見が実現したわけだが、私としては、塔頭住職から、単なる見学者か参拝者と思われていると、質問をしても真っ当に答えてくれないのではないかという心配がありました。あの当時は、ネットもブログもSNSmixiもない時代で、もちろん「アンチ日蓮正宗」や「仏教宗学研究会」を立ち上げる前。

しかし学生時代から、様々な宗教被害の経験を通して、反骨的に日蓮正宗・創価学会・顕正会・正信会・富士門流のことを研究してきており、それなりの知識はすでに持っていた。それでも、塔頭住職には、若い頃から、富士門流や要法寺に関する書籍や古文書・史料等々をいろいろ調べていて、その関係で要法寺を訪ねたことは伝えました。そして前回の訪問の時に、要法寺の朝の勤行に入ろうとしたが、寝坊で遅れてしまい、本堂の中に入れなかったこと。勤行が終わった後、貫首が渡り廊下から庫裡に帰っていく姿が見えたと言うことも話した。

要法寺19渡廊下


私が「貫首」という言葉を使ったからか、住職は

「猊下ですか」

と一言。

要法寺でも貫首のことを猊下と呼称しているようで、この住職の「猊下ですか」のひと言は、実質的に私に「猊下と呼んで下さい」と言っているようなもの。まあここは、せっかく要法寺に来て塔頭住職の話を聞こうとしているわけですから、ここは要法寺貫首を「猊下」と呼ぶことにした。

 

○「猊下のお名前は、何とおっしゃるのですか」

□住職「嘉儀日有と言います。嘉儀とは『かぎ』。日有と書いて『にちゆう』とお読みします」

 

日有と聞くと、日蓮正宗大石寺9世法主日有を連想してしまいますが、大石寺法主のほうは日有と書いて「にちう」と読むが、要法寺貫首のほうは日有と書いて「にちゆう」と読むそうである。

同じ漢字名でも、読み方が違う例は他にもある。

日蓮正宗大石寺66世細井日達の「日達」は「にったつ」と読むが、日本山妙法寺開祖・藤井日達の「日達」は、にったつではなく、「にちだつ」と読む。Wikipedia・フリー百科事典は藤井日達(ふじい にったつ)と読み仮名を書いているが、これは誤りである。

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

日蓮本宗本山・要法寺23(塔頭住職との単独会見)

 

以前に書きましたが、私がはじめて要法寺に行ったのは、1994(平成6)年の要法寺開祖・日尊650遠忌の年。私としては、日尊650遠忌法要の当日に要法寺に行くことを狙いたかったのだが、日尊の命日は58日。つまり、世間ではゴールデンウィーク明け。

この日に京都に行くというのは、まことに厳しいということになり、ゴールデンウィーク中に、要法寺に行ってみることにした。法要の当日ではなくても、ゴールデンウィーク中であれば、信者が参詣しているかも知れないし、要法寺貫首に会うというのは無理だとしても、僧侶・塔頭住職に会うぐらいはできるのではないかと考えたわけです。

 

それにしても、東京と京都は高速道路で移動しても約500キロ離れているが、あの当時の私は、500キロ離れている所へ高速道路で行くということについて、けっこう平気でした。今にして振り返って思うと、「よくあんなことをしたもんだな」と思うことが、いくつもあります。

さて、この時に要法寺に行ったのは早朝ではなく、日中。東京を朝6時に出て、東名高速~名神高速を飛ばして、途中、ゆっくり休憩したとしても、正午過ぎには京都に着きます。

さて、要法寺に行ってみると、表門や本堂前には、鶴丸のマークが入った白い横断幕のようなものが張られており、いよいよ日尊650遠忌法要が近づいているという雰囲気。

表門から境内の中に入ってみると、法衣を来たかっぷくのいい中年僧侶が、竹ほうきを手に持って、境内の落ち葉等を掃いているのが目に入りました。

法衣というのは、薄墨色の衣の上に、外出用の黒い衣みたいなものを着た姿で、このスタイルは日蓮正宗や富士門流の僧侶と全く同じ。しかも表門や本堂に鶴丸のマークが入った白い横断幕のようなものが張られていると、何か日蓮正宗の寺院に来たような錯覚になってしまいます。

しかしそこは、日蓮正宗ではなく、富士門流・日蓮本宗の本山・要法寺。

要法寺23鐘楼本堂

 

私は、この時を千載一遇のチャンスととらえ、早速、その竹ほうきで掃きそうじをしていた中年僧侶に声をかけ、話を聞きたい旨を申し伝えた。するとその僧侶は、特に拒否する様子もなく

「いやー、ようこそいらっしゃいました。あー、こんな格好で、大変失礼いたしますう」

という感じで、私の来訪を歓迎しますという風に迎えてくれた。

私は、この時、1994年当時、「富士宗学要集」をはじめ、さまざまな文献・史料で要法寺に関する知識を得ており、要法寺の僧侶に会って、直接話が聞けるというのは、またとないチャンスととらえました。

一方、僧侶のほうは、京都観光に来た見学者か、参詣者の一人が来たぐらいに思ったのでしょう。

要法寺の境内において、私とこの僧侶の単独会見と言うことになった。境内には、他に誰か人がけは見られませんでした。

 

○「要法寺さんの塔頭のご住職でいらっしゃるのでしょうか」

□僧「そうです。私は○○院の住職の△△と申します」

 

どの塔頭で、名前も聞いたのでしたが、この時は名刺をもらったわけでもなく、残念ながら名前は失念してしまった。

とにもかくにも、私はこの時、要法寺塔頭住職との単独取材会見に成功したのでありました。

要法寺18石塔
 

 

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

日蓮本宗本山・要法寺22(紫宸殿の曼荼羅・天覧)

 

前号で書いた「勅使門がない」ことと深い関わりがある、要法寺の歴史とは、「紫宸殿の曼荼羅・天覧」の見解である。

日蓮本宗宗務院が発行した小冊子「私たちの要法寺」には、要法寺の歴史について、下記の見解が述べられている。

 

(日性上人は)その名が宮中にまで聞こえ、時の後陽成天皇のお召しをうけ、また本山要法寺の重宝である『紫宸殿の曼荼羅』を天覧に供しておられます」(『私たちの要法寺』p10)

 

そもそも要法寺の「紫宸殿の曼荼羅」そのものが、日蓮の真筆ではない、偽筆の疑いが非常に強いものであり、ここではあえて、「紫宸殿の曼荼羅」の真偽は論じないこととします。

仮に「紫宸殿の曼荼羅」が真筆だったとしても、要法寺の「紫宸殿の曼荼羅・天覧」の見解については、疑義を唱えたいと考えます。

要法寺17表門

 

後陽成天皇のお召しを受けて、『紫宸殿の曼荼羅』を天覧に供したということですが、

 

1 後陽成天皇が在位で日性が要法寺貫首だった時代とは、徳川幕府が大御所・家康、二代将軍・秀忠の時代だが、当時、家康・秀忠は、朝廷を実質的に幕府の支配下にしようとして、ありとあらゆる圧力をかけ、干渉し、武断政治を強いていた時代のこと。

天皇の僧正、門跡、院家の任命叙任や紫衣の授与等に至るまで、幕府は干渉していた。

2 この時代は、日蓮宗自体が「不受不施問題」で、どの門流も大揺れに揺れていた。すでに徳川幕府は、幕府の命に随わない不受不施派を禁圧し、日蓮宗の立場が非常に悪かった時代であること。

3 日蓮宗の唯一の勅願寺は、京都・妙顕寺であり、要法寺は勅願寺でも祈願寺でもないこと。

 

こういう歴史的な背景からして、後陽成天皇のお召しで、『紫宸殿の曼荼羅』を要法寺貫首・日性が天覧に供したということが、本当にあったのか、相当疑わしいと言える。

さらにその上に、要法寺には「勅使門がない」という事実があるわけである。

仮に、本当に天皇のお召しがあったとすれば、伝奏なり、それ相応の官位・職にある人物が、天皇の使者ないしは勅使として、要法寺に来ることになるのだが、天皇の門跡寺院や勅願寺、祈願寺、あるいは朝廷・幕府とむ縁が深い寺院では、勅使を迎える勅使門や、勅使を供応する堂宇が整備され、今に残っている寺院が多い。

よって歴史的な背景に加えて、要法寺に「勅使門がない」という事実も、後陽成天皇のお召しで、『紫宸殿の曼荼羅』を要法寺貫首・日性が天覧に供したということが、本当にあったのか疑わしい根拠の一つになる。

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

日蓮本宗本山・要法寺21(勅使門がない要法寺)

 

さて要法寺境内にある数々の門について、日蓮本宗宗務院教学部の公式見解は、次のようになっています。

「表門(南門)

享保九年(1724)四脚門。伏見桃山城の遺構とも伝える。門外、三条通りに面して『本山要法寺』の大石柱があります。」

「その他

書院、書院の門(薬医門)、西門(高麗門)、庫裡、門番所、手水舎などがあります」

(『私たちの要法寺』p16)

 

「表門

伏見桃山城の旧聚楽門と伝えられ、享保九年(1724)に竣成したるものにて平素は固く閉ざされ、大法要の際にのみ通行が許される」

「薬医門

安永八年(1779)三月、上棟せられ、爾来、来賓客のみ之を向ふ」

(『本山要法寺参詣案内』より)

要法寺13


 

この中で注目されるのは、勅使門がないということです。

勅使とは、日本では天皇が出す使者のこと。

勅使は天皇の代理としての資格を以って宣旨・将軍宣下や勅令、叙任を伝達することから、勅使を迎える側が、たとえ官位において勅使よりも上位であったとしても、天皇への臣礼同様、敬意を払うこととされた。

たとえば、徳川家康、秀忠、家光の代の将軍宣下は、京都二条城で行われているが、その際には、勅使が上座、将軍が下座に座り、将軍宣下や勅令、叙任の伝達が行われている。

四代将軍・家綱の代以降、将軍宣下が江戸城内で行われるようになると、勅使は下座に坐し、将軍が上座に坐すという形式が常態化したが、しかし幕末になると尊王思想の浸透により公武の権威がふたたび逆転し、勅使が上座、将軍が下座となっている。

つまり勅使=天皇としてもてなしが行われたということであり、そのため、勅使を受け入れる施設や宿場、寺社には勅使専用の部屋や門を造られ、現在でも勅使の間、勅使門として残されているところがある。

この勅使門という伽藍も、京都や京都周辺の仏教大寺院でよく見かける伽藍である。その主なものを挙げてみると、

臨済宗建仁寺派大本山・建仁寺勅使門、京都市右京区嵯峨野の天台宗寺院・二尊院勅使門、臨済宗天龍寺派大本山・天龍寺勅使門、真言宗御室派総本山・仁和寺勅使門、臨済宗大徳寺派大本山・大徳寺勅使門、臨済宗妙心寺派本山・妙心寺勅使門、臨済宗東福寺派大本山・東福寺勅使門、日蓮宗大本山・妙顕寺勅使門、日蓮正宗大石寺勅使門(不開門)…などである。

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

日蓮本宗本山・要法寺20(謎の本尊・附法の曼荼羅)

 

京都要法寺には、「称徳符法の曼荼羅」の他にも、「附法の曼荼羅」「付法第一の本尊」「大日本国護衛の本尊」といった、謎めいた本尊が格蔵されている。

中でも「建治二年(1276)正月元日」の日付がある「附法の曼荼羅」は、要法寺では日蓮から日興への「血脈付法の真印」と位置付けられている本尊ということである。これについては、富谷日震の著書『日興上人正伝』において、

「(三)付法の曼荼羅

建治二年(一二七六)正月元日、本尊を図し重ねて師に賜う。脇書に云く、付法沙門日興授与之 称徳付法の曼荼羅と共に両幅三元の本尊と称し奉る、これ血脈付法の真印として日尊上人相伝し、これまた京都・要法寺に蔵す。」(『日興上人正伝』p31

と書いている。「血脈付法の真印」という位置づけは、ここから来るようである。

 

「附法の曼荼羅」の曼荼羅の相については、かつて要法寺機関紙『要法』406号の2面に載ったという「附法の曼荼羅」の写真を、東佑介氏がブログに載せている。

附法漫荼羅1


「京都要法寺所蔵『附法漫荼羅』について」

http://blog.livedoor.jp/naohito_blog/search?q=%C9%ED%CB%A1%A4%CE%D2%D8%E8%B8%CD%E5

 

この写真を見る限り、曼荼羅の相はあまりにも不鮮明で、判読は不可能に近い。そういう不鮮明な曼荼羅の相から、東佑介氏は、強引に曼荼羅の相を判定して偽筆説を導き出そうとしているが、これはあまり説得力がない。

「仏教宗学研究会」も「建治二年(1276)正月元日」の日付がある「附法の曼荼羅」は偽筆であるという説には賛意を表するが、東佑介氏の偽筆説の組み立て方は、誤りであるという見解である。

「仏教宗学研究会」の「附法の曼荼羅」偽筆説は、以下の通りである。

 

1 日蓮は弘安5(1282)10月、死去の直前に六老僧を決め、その序列を「不次第」としている。少なくとも、日蓮は日興一人に附属しておらず、日蓮の死後を六老僧に託している。

この史実からすれば、建治二年(1276)の段階で、日興一人を日蓮が法を附属するなどということをするばずがない。

2康永3(1344)68日、日尊が日印に授与した付弟状、要法寺14世日賙、15世日性、16世日恩、18世日陽の要法寺相承目録の中に、称徳符法の本尊も附法の曼荼羅も出てこない。

附法の曼荼羅が「血脈付法の真印」であるならば、康永3年の付弟状、要法寺相承目録の中に、称徳符法の本尊も附法の曼荼羅も出てこないというのは、明らかな矛盾である。

3 要法寺中興の祖・13世広蔵院日辰の著書「祖師伝」の日蓮伝、日興伝をはじめ、いずれの僧の伝記にも、称徳符法の本尊も附法の曼荼羅も全く出てこない。もし本当に「血脈付法の真印」という重大な曼荼羅が実在していたならば、日辰が書き残さないはずがない。

 

この三点において、要法寺の附法の曼荼羅が、13世日辰、14世日賙、15世日性、16世日恩、18世日陽より後の時代、江戸時代に入ってからの偽筆曼荼羅であることが明らかである。

 

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

日蓮本宗本山・要法寺19(謎の称徳符法の大本尊3)

 

日蓮本宗・本山要法寺の重宝・称徳符法の大本尊の伝承の経緯を調べていくと、さまざまな疑問点が噴出してきます。

称徳符法の大本尊が、日蓮、日興、日目、日尊から歴代要法寺貫首に相承されてきたというなら、上古の附属状に「称徳符法の大本尊」が出てきてしかるべきなのだが、これが全く出てこない。

康永3(1344)68日、日尊が日印に授与した付弟状には、次のように記されている。

 

「宰相禅師日印に授与する 本尊壱鋪 日興上人の御筆 元応三年正月十三日

大聖人の御影壱鋪

右付弟として授与する件の如し

康永三年甲申六月八日 法師日尊在判 日慧在判 日大在判 日堯在判 日禅在判 日従在判」

(日蓮正宗大石寺59世法主・堀日亨編纂『富士宗学要集』5p44)

 

この日尊付弟状は、要法寺13世広蔵院日辰が著書「祖師伝」の中で引用しているものであるが、正本が存在していないという。この中に、日尊から日印へ日興筆の曼荼羅と日蓮御影を授与するとは書いてありますが、称徳符法の本尊については、何も記されていない。

『富士宗学要集』を編纂した日蓮正宗大石寺59世法主・堀日亨も

「同山(要法寺)の重宝と称する称徳符法の本尊は何師が相伝を受けられしや未だ記文を見ず」

(『富士宗学要集』8p101)

と書いている。

富士宗学要集9

 

堀日亨は、『富士宗学要集』8巻の中で、日尊付弟状につづいて、天正14(1586)の聖主院日顕から要法寺14世日賙、慶長13(1608)の要法寺14世日賙から15世日性、16世日恩から18世日陽への要法寺相承目録を載せている。それを見ると

 

「日賙在判 天正十六戊子年五月初三日之を許可し了ぬ。

当流相承の諸大事 

嫡弟日陽に授与せしめ候

慶長十三戊申年六月十三日 日性在御判追って之を許す」

「一 授戒式法相承

 一 御本尊書写御代々の相承の如し 付り守符

 一 本因妙抄相伝 付り二箇御相承

 一 百六箇の本迹相伝

 一 五人所破抄相伝、興師御作日順御右筆

 一 八通の御切紙相伝

 一 廿六箇条の御遺誡相伝

時に天正十四丙戌年二月七日  日顕

大教坊日陽 謹んで授与し畢ぬ  十六代日恩 在御判」

(『富士宗学要集』8p101102)

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

日蓮本宗本山・要法寺18(謎の称徳符法の大本尊2)

 

日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨が編纂した『富士宗学要集』8巻によれば、要法寺に格蔵されている「称徳符法の曼荼羅」の顕示年月日は、「文永九年太才壬申正月元日」。

授与書は「問答第一行戒智徳筆蹟符法沙門日興授与之」となっており、仏滅讃文は

「仏滅度後二千二百二十余年之間 一閻浮提之内 未曾有之大曼荼羅也」

となっている。授与書が日興に宛てられていることから、通称名は「称徳符法御本尊」と古来から言うようである。

東佑介氏は自らが所蔵しているという「称徳符法本尊」の形木本尊の写真を著書で公開している他、ブログで東佑介氏はオスカー氏から入手したという図版も公開している。

東佑介・称徳符法の本尊1

 

この「称徳符法の本尊」の最大の問題点は、これが本当に日蓮の直筆なのか、という点である。

この本尊の諸尊勧請の曼荼羅の相は、文永十年七月八日の佐渡始顕本尊以降の相であり、さらに仏滅讃文が入っている本尊は、文永十一年七月の本尊以降である。

文永九年に日蓮が図顕した本尊で、これだけの諸尊勧請の曼荼羅は、他に例がない。

東佑介氏は、ブログ「京都要法寺所蔵『称徳附法漫荼羅』について」において

「『称徳附法漫荼羅』が日蓮聖人の御筆と認められるかというとそうは思われない。日蓮聖人は文永八年十月九日より御本尊を図顕されるのであるが、この時期の御本尊とは根本的に相違している。下記に文永九年の御本尊を掲げよう。典拠は『御本尊集』第二番である。

安本No.2は文永九年六月十六日、つまり、『称徳附法漫荼羅』が図顕されたと伝わる五ヵ月後の御本尊である。にもかかわらず、安本No.2は『称徳附法漫荼羅』の如くになっていない。そもそも、文永初期の御本尊(~安本No.7)は①首題②釈迦多宝③不動愛染という特徴がある。けれども、『称徳附法漫荼羅』はこうした初期の御本尊の範疇に入らない。」

と書いて、「称徳符法本尊」を偽筆と断じている。

http://blog.livedoor.jp/naohito_blog/archives/51073585.html

 

これに対して真筆説は、日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨で、自らが編纂した『富士宗学要集』8巻に、日蓮真筆本尊として所収している。

東佑介氏が指摘しているように、曼荼羅の相について、数多くの疑義があるにもかかわらず、堀日亨が「真筆」としている根拠は、おそらく筆跡ではないかと思われる。形木本尊の写真で見る限り、この本尊の筆跡が日蓮のものに見えなくもない。

しかし筆跡が日蓮のものだと仮定しても、他の日蓮の本尊から模写した可能性もあるわけで、筆跡のみで真偽を判定することはできない。しかし現存する日蓮真筆本尊の中に、この「称徳符法本尊」の曼荼羅の図形と合致する本尊はない。

 

ちなみに、警察等の科学捜査では、東京高裁・平成121026日判決がきっかけになり、それまで行われてきた「鑑定人による勘と経験に頼る伝統的筆跡鑑定法」と決別し、調査や実験データなどを利用する客観的な鑑定法へ移行している。そして現在では、近代統計学に裏付けされた客観的判断基準となる数学的な数値解析法へと進化して行っているという。

「筆跡鑑定」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%86%E8%B7%A1%E9%91%91%E5%AE%9A

 

現在の所、筆跡を根拠にした偽筆説のほうが説得性が高いと考えられるが、筆跡のみで偽筆説で確定させることにも疑問符がつく。

さらなるこの本尊の鑑定が必要と思われる。

 

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

日蓮本宗本山・要法寺17(謎の称徳符法の大本尊)

 

要法寺宝蔵には、「称徳符法の曼荼羅」が格蔵されているということですが、これは実に謎の多い本尊です。

要法寺本堂には、称徳符法の大本尊が祀られていますが、これはレプリカの板本尊であり、いわゆる「お前立」。

要法寺3本堂3


前立というのは、仏教界では特に珍しいものではなく、秘仏本尊を格蔵している仏教寺院では、必ずと言っていいほど、「前立本尊」があります。それくらい、広く前立本尊が全国各地の寺院にあります。その主なものを列挙してみると

 

□長野市の善光寺 絶対秘仏の前立本尊(阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩の「一光三尊阿弥陀如来」)

□比叡山延暦寺・根本中堂 秘仏・伝教大師最澄造立の薬師如来像の前立本尊

□石川県津幡町の倶利伽羅不動尊 弘法大師空海造立の前立本尊

□長野県松本市の金松寺 秘仏・聖観世音菩薩像の前立本尊

□東京・港区南麻布の臨済宗大徳寺派・天現寺 秘仏の毘沙門天の前立本尊

□東京・港区芝公園の浄土宗大本山増上寺 安国殿の秘仏・黒本尊の前立本尊

□東京・台東区浅草の浅草寺 本堂の秘仏・聖観世音菩薩像の前立本尊

□和歌山県紀の川市の天台宗・粉河寺 絶対秘仏・千手観音像の前立本尊(前立も秘仏)

□京都府宇治市の三室戸寺 秘仏・千手観音像の前立本尊 飛鳥様式の二臂の観音像

□愛知県犬山市の真言宗智山派・寂光院 本堂の秘仏・千手観音像の前立本尊

□京都市左京区の鞍馬寺 本殿金堂の秘仏・毘沙門天・千手観音像・護法魔王尊の前立本尊

□滋賀県長浜市の浄土真宗大谷派・向源寺 十一面観音立像(国宝像の旧お前立本尊)

□兵庫県加西市の天台宗・一乗寺 秘仏・観音菩薩立像のお前立像

□京都市中京区の天台宗・頂法寺 六角堂の秘仏本尊・如意輪観音像のお前立本尊

□京都市東山区の清水寺 本堂の秘仏・千手観音像の前立本尊

 

この他にもあると思います。

つまり要法寺宝蔵に称徳符法の曼荼羅を格蔵したまま、秘仏扱いにして、本堂には、レプリカの板本尊である称徳符法の大本尊を祀るというのは、仏教界で広く行われている「お前立」と同じということになります。要法寺の日々の勤行、法要、年中行事は、本堂で行われている、ということです。

宝蔵に格蔵されている称徳符法の曼荼羅は、いつ開扉されるのか。開扉されないとしたら、絶対秘仏ということになりますが、しかし、要法寺では、称徳符法の曼荼羅の形木本尊を信者等に下附しているようです。

東佑介氏が要法寺から下付されたという称徳符法の曼荼羅の形木本尊の写真を著書で公開していますし、この他にも、インターネット上に称徳符法の曼荼羅の形木本尊の写真が公開されています。

こういうのを見ていると、要法寺としても絶対秘仏にしているわけではないように思われますが、対外的には非公開というスタンスをとっているように思われます。

称徳符法本尊1
 

 

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

日蓮本宗本山・要法寺16(宝蔵、客殿についての公式見解)

 

さて要法寺の宝蔵についての日蓮本宗宗務院教学部の公式見解を見てみたいと思います。

私たちの要法寺1


 

「宝蔵

天保13(1842)年再建。宝形造・唐破風・土蔵形式。紫宸殿の曼荼羅、称徳符法の曼荼羅など各種霊宝、仏像などを収納。錠は貫首上人の直封です」(『私たちの要法寺』p15)

 

「宝蔵

宗祖大聖人御付属をはじめ、御消息文、歴代の上人御直筆、その他門外不出の霊宝が蔵せられ、耐火、耐震最善の設備せられ、絶対安全に万遺漏なき注意されてある」(『本山要法寺参詣案内』)

 

「私たちの要法寺」の記述によると、宝蔵の中には、紫宸殿の曼荼羅、称徳符法の曼荼羅、仏像などを収納しているとなっています。つまり堀川綾小路時代、二条寺町時代に本堂に祀られていた釈迦牟尼仏像は、今は宝蔵の中に収められているようです。

要法寺31世日舒が書いた「百六対見記」には

「然るに日俊上の時、下谷(常在寺)の諸木像、両尊等土蔵に隠し、常泉寺の両尊を持仏堂へ隠したり。日俊上は予が法兄なれども其の所以を聞かず。元禄第十一の比、大石寺門流僧、要法の造仏を破す。一笑々々」(『富士宗学要集』9p70)

と、大石寺22世日俊が、大石寺末寺の常在寺、常泉寺の仏像を土蔵や持仏堂に隠したという記述を残していますが、要法寺の場合も、本堂に祀られていた仏像を宝蔵に収蔵したようです。

 

それから称徳符法の曼荼羅が宝蔵に収蔵されているということですが、ならば本堂の称徳符法の大本尊とは、宝蔵に収蔵されている曼荼羅のレプリカ板本尊ということになりますが、仏教界で広く使われている用語を用いれば、本堂の板本尊とは、称徳符法の曼荼羅の「お前立」ということになります。

宝蔵に収められている「称徳符法の曼荼羅」の開扉はしないのでしょうか。

もうひとつの日蓮本宗の公式文献「信仰のすすめー日蓮本宗の信心」には、記念すべき12の聖日が記載されていますが、その中にお風入れ・霊宝虫払いの日がありません。要法寺では、霊宝のお風入れ(虫払い)を行わないのでしょうか。それとも非公開でお風入れ(虫払い)を行っている、ということでしょうか。

非公式情報ながら、要法寺のお風入れ(虫払い)は、末寺住職や信者にも非公開で、要法寺のみで内々に行っているという情報が入っています。これが本当だとしたら、こういう閉鎖的・排他的体質は、外からは、あまりいい印象は持たれないでしょう。

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

日蓮本宗本山・要法寺15(元は釈迦堂だった要法寺開山堂2)

 

以上のような検証から、サイト「要法寺」が取り上げている「新撰京都名所圖會 3 竹村俊則、昭和36年」に出ている要法寺古図の中で、現開山堂を釈迦堂と書いているのは、間違いではないと考えます。

要法寺古図1


この古図は間違ったことを書いているのではなく、要法寺本堂が落成した安永3(1774)から、要法寺が仏像を廃して大曼荼羅本尊を勧請し、日蓮宗・京都15本山との間に教義紛争が起こった寛政7(1795)までの21年間の間に書かれた古図であると考えられます。

つまり、要法寺開山堂は、元々は釈迦如来像が祀られた釈迦堂として建立されたのであり、要法寺が仏像を廃止した後は、新堂と改められ、さらにその後、開山堂と改められて現在に至っている、ということです。

ではいつ新堂から開山堂に改められたのか、というと、明治26(1893)年当時の要法寺の古図では、開山堂が新堂となっています。日蓮宗制作・日蓮聖人門下連合会監修の「日蓮聖人門下・京都十六本山めぐり」という小冊子の中では

「古来は新堂と呼ばれるお堂でしたが、大正4年以降に、大御本尊と開山の日尊上人の御影像を安置し開山堂と改めました」(『日蓮聖人門下・京都十六本山めぐり』p22)

と書いてありますので、1915(大正4)年以降、そうなったということのようです。

 

「要法寺 日蓮本宗の本山で根本道場」というサイトを見ると、次のような記述が見られます。

「要法寺 日蓮本宗の本山で根本道場」

http://blogs.yahoo.co.jp/masatake_ko/45632134.html

「重層の屋根をもつ開山堂は文政13 1830 )年に再建された。再建当時は開山堂を本堂と称していたが大正4 1915 )年、開祖 日尊上人を 祀り祖師堂を本堂とした」

 

要法寺の公式見解によれば、

「開山堂は正徳5(皇紀2375・西暦1715)11月、日眷上人の代、上棟せられ、当時、仮本堂とせられていたのを、後、本堂再建とともに、開山堂とせられたものである」(『本山要法寺参詣案内』)

となっています。

つまり現開山堂は、現本堂よりも一足先に落成して「仮本堂」だったが、新たに本堂が落成した後、開山堂になった、というものである。

「要法寺 日蓮本宗の本山で根本道場」の記述と要法寺の公式見解の間には、具体的な年については、食い違いが見られるものの、「再建当初は開山堂が本堂」「後に祖師堂が本堂になった」という大筋では食い違っていないと考えます。

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

日蓮本宗本山・要法寺14(本堂=釈迦堂だった要法寺)

 

こりように要法寺13世日辰が要法寺を建立した堀川綾小路時代、14世日賙の代、豊臣秀吉の命によって移転・再建した二条寺町時代は、教義的に要法寺で造仏読誦が盛んだった時代であり、文献にも、当時の要法寺本堂に釈迦牟尼仏像が祀られていたことがわかります。

これが1788(寛政元年)7月、要法寺30世貫首・日良が、余仏不造二品読誦の規矩を定めて門下に発布したことにより、要法寺の造仏読誦が撤廃されていくことになります。

(安良日将「独一本門乃大観」より)

要法寺の公式見解によれば、今の東山三条の本堂は、1742年に起工式を行い、建築に32年の歳月をかけて1774年に落成させたということですから、1788年の30世日良の余仏不造二品読誦の規矩よりも14年前のことになります。

したがって、今の東山三条の地に要法寺の堂宇が再建された当初は、堂宇に釈迦牟尼仏像が祀られていたとするのが、自然だと考えられます。

 

さてサイト「要法寺」を見ると、堀川綾小路時代、二条寺町時代の本堂について、注目すべきことが書いてあります。

「要法寺」

http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/n_16_yoboji.htm

 

「 『近世京都日蓮宗妙顕寺・妙覚寺・要法寺の伽藍配置』丹羽博亨(日本建築学会計画系論文報告集 第402号所収)では以下の記載がある。

天正16年(1588)帰洛後の要法寺に於いて、漸く日辰13回忌に際し本堂(釈迦堂)が建立される。

寛永年中(1624-)本堂(釈迦堂)再興との記事があり、本堂(釈迦堂)が再興される。(退転理由は不明)

即ち伽藍中心は釈迦堂が南面し祖師堂は釈迦堂の前方東にあり西面する。  ※二条寺町時代の伽藍については下掲の「○二条寺町の伽藍(要法寺伽藍絵図)、山州名跡志」の項を参照」

 

「『近世京都日蓮宗妙顕寺・妙覚寺・要法寺の伽藍配置』丹羽博亨(日本建築学会計画系論文報告集 第402号 所収)

○二条寺町の伽藍◆要法寺伽藍絵図:『新編法華霊場記』享保3年(1686)刊:二条寺町の伽藍

 本堂・祖師堂・刹堂・番神堂・同拝殿(推定)・鐘楼(推定)・寺中などが描かれる。

・「山州名跡志」元禄15年(1702)では

要法寺ハ妙伝寺ノ南二条ノ北ニ在り 堂ハ南面、祖師堂ハ堂前ノ西南ニアリ、刹堂ハ堂前ノ東南ニアリ、番神社ハ祖師堂ノ東南ニアリ西面ナリ」

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

日蓮本宗本山・要法寺13(富士門流で行われていた造仏読誦)

 

要法寺中興の祖・13世貫首・広蔵院日辰の著書「法華二論議得意抄」をはじめ、等身大の量があるといわれる膨大な著書に、日辰が造仏読誦の化儀を肯定していたことは明らかである。

ということは、要法寺に仏像が祀られていたと考えるのが普通であろう。

前回取り上げたサイト「要法寺」の中に、丹羽博亨著「近世京都日蓮宗妙顕寺・妙覚寺・要法寺の伽藍配置」の文を引いて

「天正16年(1588)帰洛後の要法寺に於いて、漸く日辰13回忌に際し本堂(釈迦堂)が建立される。」

との記述がある。

富谷日震「日宗年表」によれば

「天正16(1588)515日 要法寺本堂慶讃供養」

とだけ載っていて、造仏云々には触れていません。ところがその三年後の1591(天正19)6月、豊臣秀吉の命により、要法寺は堀川・綾小路から二条寺町に移転させられてしまう。

そしてその二年後の文禄2(1593)、要法寺は堂宇を新たに再建して、本堂に祀る諸尊を造立したという記述が、「日宗年表」に出てきます。「日宗年表」によれば

「要法寺日賙本堂安置諸尊造立(諸堂再興成る)

と書いてあります。諸尊とは、釈迦牟尼仏像の他、多宝如来像や四菩薩像のことと思われます。

二条寺町時代の要法寺には、本堂に釈迦牟尼仏像をはじめとする一尊四士、ないし二尊四士が祀られていたことがわかります。

要法寺造仏1

 

この要法寺13世・広蔵院日辰の教学は、富士門流ではものすごく大きい影響を与えています。

教学的には「反造仏読誦」である大石寺の末寺である、江戸常在寺、常泉寺、法詔寺、会津実成寺等で造仏読誦が行われていたことは注目に値します。当時の大石寺法主は、要法寺出身の17世日精。日精は、造仏読誦論を展開する「随宜論」という著書があり、その中で広蔵院日辰流の造仏読誦論を展開している。

さらに日精は著書「日蓮聖人年譜」でも日辰流の造仏読誦論を展開。日蓮正宗大石寺59世法主・堀日亨は自らが編纂した「富士宗学要集」に日精の著書「日蓮聖人年譜」を収録し、日精の造仏読誦論を指摘する頭注を書き記している。

又、日精が江戸の常在寺、常泉寺、法詔寺、会津実成寺などの末寺で造仏を行ったことは史実である。京都・要法寺僧侶・寿円日仁(後の要法寺25代貫首・日舒)1672(寛文12)611日、「百六箇対見記」を著して、この中で日精の造仏読誦について記している。

 

「寛永年中、江戸法詔寺の造仏千部あり。時の大石の住持は日盈上人、後、会津実成寺に移りて遷化す。法詔寺の住持は日精上人、鎌倉鏡台寺の両尊四菩薩御高祖の影、後に細草檀林本堂の像なり。牛島常泉寺、久米原等の五箇寺並に造仏す、又下谷常在寺の造仏は日精上人造立主、実成寺両尊の後響、精師御施主、又京都要法寺本堂再興の時、日精上人度々の助力有り。

然るに日俊上の時、下谷(常在寺)の諸木像、両尊等土蔵に隠し、常泉寺の両尊を持仏堂へ隠したり。日俊上は予が法兄なれども其の所以を聞かず。元禄第十一の比、大石寺門流僧、要法の造仏を破す。一笑々々」(『富士宗学要集』9p70)

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

日蓮本宗本山・要法寺12(仏像本尊の過去を否定する要法寺)

 

前回のブログ日記で「『要法寺』という名前のサイトを参考にしてほしい」というご意見が寄せられましたので、こちらのサイトの記述から検証していきたいと思います。

「要法寺」

http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/n_16_yoboji.htm

 

このサイトの名前は「要法寺」となっていますが、ホームページは「がらくた置き場」となっており、日蓮宗系や仏教寺院など、けっこう詳しい情報を載せていながら、その一方で

「このサイトはある「老人」が暇つぶしに作ったもので、役に立つ情報はほとんどありません」

と書いて、責任逃れを示唆することも書いており、仏教や日蓮宗系に詳しい人が個人的に書いているサイトと思われます。もちろん、日蓮本宗・要法寺の公式サイトではありません。

 

そのサイト「要法寺」を見ると、要法寺開山堂について、下記の記載が見られます。

 

2010/10/21追加:

当ページでは要法寺「開山堂」を「釈迦堂」の名称で掲載していたケースがあったが、これを「開山堂」に変更する。

その理由は、現在本堂西の堂は「開山堂」と云う扁額が掲げられていること、諸記録からこの堂は開山堂として建立されたこと、現在地では釈迦堂は建立されなかったのが事実であろうと思われることである。 (この処置は要法寺に詳しい某氏より釈迦堂の名称は不適切との指摘を受けたことによるものである。要山に於いては釈迦堂か否か、開山堂かは化儀に関わる事であるから看過できないことである。)

▲参考1:

 某氏ご提供:平成1911日発行(第406号)「要法」では「元本山総代・本山本堂・開山堂屋根修復実行委員」云々の記事を認めることが出来る。

▲参考2:

 要法寺開山堂扁額:2009/11/05撮影、要法寺ではこの堂宇に開山堂の扁額を掲げる。

▲参考3:

 「近世京都日蓮宗妙顕寺・妙覚寺・要法寺の伽藍配置」丹羽博亨(日本建築学会計画系論文報告集 第402号所収)では以下の記載がある。

天正16年(1588)帰洛後の要法寺に於いて、漸く日辰13回忌に際し本堂(釈迦堂)が建立される。

寛永年中(1624-)本堂(釈迦堂)再興との記事があり、本堂(釈迦堂)が再興される。(退転理由は不明)

即ち伽藍中心は釈迦堂が南面し祖師堂は釈迦堂の前方東にあり西面する。」


要法寺7開山堂1
 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote