一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ

「一般社団法人 仏教宗学研究会」とは任意団体として2005年から活動している会の名称。2018年5月に一般社団法人登記。当ブログ名を「仏教宗学研究会のブログ」から「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」に改名。 「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

Category: 高野山真言宗

■高野山金剛峯寺6(20145月の高野山旅紀行6)

 

835年に弘法大師空海が入定した真言宗の聖地・高野山奥の院・弘法大師御廟・灯籠堂

 

高野山奥之院の参道を延々と歩いて行くと、一番奥にあるのが弘法大師空海御廟と灯籠堂である。一の橋が弘法大師空海御廟の入り口になり、その橋の先が、弘法大師空海がおわします霊地になっている。奥之院は壇上伽藍と並んで高野山二大霊場のひとつになっている。高野山・奥之院(おくのいん)とは、高野山の信仰の中心であり、弘法大師空海が入定した聖地であることから、正式には一の橋から参拝するしきたりになっている。一の橋から御廟まで約2キロメートルの道のりには、おおよそ20万基を超える諸大名の墓石や、祈念碑、慰霊碑の数々が樹齢千年に及ぶ杉木立の中に立ち並んでいます。弘法大師空海が、奥之院参詣者を一の橋まで送り迎えをするという伝承があるため、橋の前で一礼してから、足を踏み入れるのが、しきたりになっている。

弘法大師空海は62歳の時、座禅を組み、手には大日如来の印を組んだまま禅定に入ったと伝承される。921(延喜21)年、醍醐天皇が空海に「弘法大師」の諡号を贈った際に、東寺長者・観賢が高野山に登り、奥之院の廟窟を開いたところ、禅定に入ったままの空海と対面。その姿は、生前の空海と変わりなく生き生きとしていたとの伝説から、弘法大師空海は、今も奥之院に生き続けているという「入定伝説」が生まれたという。弘法大師空海は、今も高野山奥の院で生きていると信じている人もいる。弘法大師空海の死を、「死去」「入寂」「寂滅」「入滅」「遷化」などといわず「入定」という。御廟橋から灯籠堂を見ていると、たくさんの参拝人が、橋を渡り、灯籠堂に入って行くのが見える。また灯籠堂、弘法大師御廟の参拝を終えて、灯籠堂から出てくる人の数も多い。広大な高野山金剛峯寺のエリアの中では、この奥の院が最も参拝人の数が多いように思う。奥の院で特に目立ったのが、団体参拝のグループを数十組以上、見かけた。お遍路さんの巡礼グループも多数参拝に来ているのを見かけた。お遍路さんとは、四国にある空海(弘法大師)ゆかりの88か所の寺院・四国八十八箇所を巡ることを「遍路」と言い、地元の人々は四国八十八箇所を巡る巡礼者を「お遍路さん」と呼ぶ。高野山金剛峯寺の広大なエリアには、四国遍路の巨大看板もあった。

奥の院では、日本人の団体参拝客を多く見かけたのだったが、逆に壇上伽藍や千手院橋、旧青厳寺の金剛峯寺等で多く見かけた外国人観光客は、奥の院ではほとんど見かけなかった。もちろん奥の院も、世界遺産エリアに入っているのだが、外国人観光客は弘法大師空海には、あまり関心がないのだろうか。御廟橋から先のエリアは、弘法大師空海入定の聖地ということで、参拝人は写真撮影禁止だと言う。しかしあたりを見渡しても、写真撮影禁止の立て看板がどこにも見あたらない。奥の院の中にある弘法大師御廟で、写真撮影していた観光客がいたが、団体参拝に来ていた参拝人が、「ここは写真撮影禁止ですよ」と、かなり強い口調で叱りつけていた。写真撮影禁止の立て看板はないが、御廟橋から先の弘法大師御廟・灯籠堂のエリアは、写真撮影禁止だと、高野山の慣習でそうなっているのだろうか。

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■高野山金剛峯寺5(20145月の高野山旅紀行5)

 

□弘法大師空海入定の地・御廟を中心に広がる墓苑に林立している大企業の慰霊碑・供養塔

 

高野山奥之院は、「(弘法)大師いまだにおわします」弘法大師空海入定の地・御廟を中心に、老杉や桧の大木が生い茂る中、20万基を超える墓や供養塔が並んでいる。弘法大師空海入定のあと、弟子たちは、弘法大師が希望していたとおり、足下に玉川の清流が流れる奥之院の地に廟を建てた。入定した弘法大師空海は、1150年後の今も、かわらない姿でいると信じられ、高野山を参詣する人は、必ずここ奥之院を訪れる。高野山駅前から奥之院前まで南海りんかんバスが出ているが、この間、約5キロもある。バスで約21分もかかる。いかに高野山エリアが広大な土地が窺い知れるところである。奥之院の参道は、奥之院前バス停の中の橋からと、一の橋からの二つの参道がある。どちらから入っても、最後は奥之院灯籠堂、御廟にたどり着くが、正式には一の橋から参拝するのが慣習となっているらしい。ただ私は、バスで奥之院に行きましたから、行きは奥之院前バス停の中の橋から歩いて参拝しました。奥之院は、弘法大師空海の御廟が一番奥にあり、その前には広大な墓地が広がっている。

まず奥之院参道入り口から歩いて行って、目に入るのは、東日本大震災の慰霊碑、関東大震災の供養塔、近衛兵など第二次世界大戦従軍兵の慰霊碑の他、有名企業の供養塔や慰霊碑である。ざっと見ても、UCC上島コーヒー、日産自動車、新明和工業、福助、ヤクルト、小松製作所、パナソニック、キリングループ、小林製薬等々の大企業、有名企業の慰霊碑や供養塔が並ぶ。仏教宗派の宗祖の廟の前に広がる墓苑に、これだけ有名企業の供養塔が林立している所は、他に見聞したことがない。これらの慰霊碑・供養塔を見ると、どれもこれも元気に活動している企業ばかり。倒産・破産した会社名は見あたらない。奥之院の墓苑に、供養塔・慰霊碑を建てた企業に、倒産した会社、破産した会社はないのだろうか。あるいは、倒産した会社の慰霊碑・供養塔は撤去されたということか??そのあたりは、定かではない。私も、過去に会社勤めの経験があるのだが、私が勤めた会社で、高野山奥之院の墓苑に慰霊碑や供養塔を建てた会社は、ひとつもなかった。高野山奥之院に来るまで、全く見聞したことがなかったのである。どんな会社でも、個人事業の業務中でも、会社の業務でも殉職した人は、多かれ少なかれいる。おそらく規模の大きい大企業ほど、殉職した人は数が多いのではないだろうか。特に中でも運輸関係、航空機、船舶、鉄道、バス、タクシー、トラック関連の企業は、多いのではないですかねえ。昭和の時代の昔は、航空機の墜落事故、船舶の沈没事故、鉄道事故が多かった。バスやタクシー、トラックの重大事故は今でもよくニュースに登場するし、人びとの脳裏から消えない重大事故も多々ある。その事故が多いはずの航空機、船舶、鉄道、バス、タクシー、トラック関連の企業の慰霊碑・供養塔が、なぜか奥之院墓苑には見あたらなかった。

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■高野山金剛峯寺4(20145月の高野山旅紀行4)

 

□電気もトラックも電話も何もなかった平安時代の高野山伽藍建立はかなりの至難の業だった

 

大門から高野山エリアにむかって0.7キロほど歩いて行くと、左手に金堂、御影堂、不動堂、根本大塔等々が建ち並ぶ一角、いわゆる壇上伽藍がある。高野山金剛峯寺の公式ウエブサイトや小冊子を見ると、壇上伽藍とも壇場伽藍とも大伽藍地区とも書いてある。この壇上伽藍は、奥之院と並んで高野山の二大聖地とよばれる。弘法大師空海が高野山を開創するときに、壇上伽藍の創建にとりかかったが、高野山の厳しい自然にはばまれて、伽藍建設は思うように進まず、弘法大師空海の入定前に落成したのは、御影堂(今の金堂)とその他の小堂だけ。壇上伽藍の中央にそびえ立つ根本大塔は、高野山で最初に着工した建造物だったが、弘法大師空海の入定前に完成せず、弟子の真然の代までかかって、887年ころ、ようやく完成した。弘法大師空海の入定は835(承和2)年だから、入定から約50年後ということになる。

ではなぜ壇上伽藍、根本大塔の建設が、かくも難工事になったのか。別冊宝島「高野山のすべて」によれば、国の援助を得ずして、人びとからの勧募した浄財による私寺建立をめざしたこと。官僧であり、密教の祖師として公務に多忙だった弘法大師空海が、建立の指揮をとりずらかったこと。寺院を建立するには、高野山という所はあまりに山深い場所だったこと、の三点を挙げている。

私が思うに、「寺院を建立するには、高野山という所はあまりに山深い場所だったこと」という点が一番大きかったのではないかと思う。弘法大師空海が生きた時代は、平安時代の初期。そのころの奈良・飛鳥地方の仏教寺院・南都六宗の寺院は、朝廷丸抱えの、いわゆる官立の寺院だった。そして寺院の僧侶は、東大寺、唐招提寺等の朝廷公認の戒壇で授戒した、いわば国家公務員だった。しかも飛鳥・奈良・平安時代の古の時代に、仏教を信仰していたのは、天皇、皇族、貴族、公家といった支配階級、上流階級のみ。一般庶民は、仏教とはほとんど無縁だった。そんな時代に私立の寺院を建立すること自体が、至難の業である。

今でこそ、現代人は南海特急「こうや」号やケーブルカーに乗って高野山に参詣するが、平安時代のころには、南海電車もケーブルカーもない。アスファルト舗装の道路もなければ、バイクも自動車もガソリンもない。電気も電話も携帯電話もファックスもインターネットもなければ、テレビもラジオも新聞もニュース番組もない。:建設会社も設計事務所もなければ、トラックもダンプカーも掘削機もコンクリートもショベルカーもない。しかも文字が読める人はほとんど皆無に近い。そんな時代に、山深い高野山に、仏教伽藍を建設することは、あまりにも至難の業であったはずだ。こうして造立された根本大塔も、何度か火災で焼失しており、現在の根本大塔は、1937(昭和12)年の再建である。高さは48m、四面はそれぞれ30m。大塔の塔内には、胎蔵界・大日如来を本尊として、金剛界の四仏(東方阿閦如来、南方宝生如来、西方阿弥陀如来、北方不空成就如来)がとりかこみ、堂内そのものが立体曼荼羅になっている。根本大塔内の立体曼荼羅は、周囲をぐねりと歩いて見学できるが、その巨大な迫力に圧倒されてしまう。

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■高野山金剛峯寺3(20145月の高野山旅紀行3)

 

□子院117ヶ寺・人口三千人の日本随一の巨大宗教都市・高野山真言宗総本山・高野山

 

女人堂の先に「高野山」「金剛峯寺」と書かれた巨大石碑のような門が建つ。ここからが広大な高野山金剛峯寺エリアに入る。もともと金剛峯寺という名前は、高野山真言宗の総本山である高野山の巨大な宗教都市全体を金剛峯寺と総称していた。現在は、明治2年(1869年)329日、興山寺(こうざんじ)と豊臣秀吉が建てた青厳寺(せいがんじ)を合併して金剛峯寺と改称した。今の金剛峯寺との名前の寺院は、江戸時代まで青厳寺(せいがんじ)と称していた寺院である。

豊臣秀吉は、当初は高野山に寺領の返還を迫るなど圧力をかけたが、当時、高野山にいた武士出身の僧・木食応其が仲介者となって高野山が豊臣秀吉に服従を誓ったため、石高は大幅に減らされたものの、高野山は存続することができた。のちに豊臣秀吉は木食応其に帰依するようになり、寺領を寄進し、亡母の菩提のため、山内に青巌寺を建てた。これが今の高野山真言宗総本山金剛峯寺の前身である。

もともと高野山とは、弘仁7(816)、弘法大師空海が嵯峨天皇に上奏して、この地を下賜され、金堂をはじめとする諸堂の建立に着手。高野山一山の宗教伽藍・堂宇一帯全てを「金剛峯寺」と号したのが、はじまりである。「金剛峯寺」という寺号は、元来は真言宗の総本山としての高野山全体と同義であった。明治2年にできた旧青厳寺(せいがんじ)の金剛峯寺は、高野山真言宗全国約3600余の末寺を統括する宗務を執る。高野山駅から南海りんかんバスで高野山に入っていくと、女人堂の先の門から高野山エリアに入るのだが、ここは正門ではない。高野山一山の正門は、大門とよばれる巨大な門で、ここが高野山一山の総門である。ここに行くには、高野山駅前から南海りんかんバスに乗って終点で下車。距離にして約3キロ。ただしバスに乗ると、高野山エリアに入り、千手院からまわっていくので4.5キロくらい走る遠回りになる。

大門には「高野山」の額が掲げられている。現在の大門は宝永2(1705)の再建。弘法大師入定1150年遠忌記念事業で、53ヶ月をかけて解体修理が行われ、1986(昭和61)年に完成した。

通称、高野山とよばれる所は、1000m級の8つの山々に囲まれた標高800mほどの盆地のこと。弘法大師空海が、ここを修行道場に選んだ理由は、8つの山々に囲まれた光景がまるで、巨大な蓮華の花の中にあるように見えたからだと伝承する。それ故か、高野山は八葉蓮華と称される。

高野山には、52ヶ所の宿泊施設・宿坊があり、人口は約3500人。そのうち、700人前後が僧侶だという。食事処は、金剛峯寺~千手院~奥之院の街中、奥之院中之橋近辺を中心に数多ある。コンビニも2軒あり、高野山の中を国道が走る。高野山のあっちこっちに観光バスや自家用車用の駐車場がある。高野山一帯は、和歌山県高野町という町になっており、高野山一山そのものが、巨大な宗教都市になっている。高野町町長に、高野山真言宗僧侶が就いていた時代もあった。

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■高野山金剛峯寺2(20145月の高野山旅紀行2)

 

20145月に高野山真言宗総本山・高野山金剛峯寺に行って参拝した時の旅紀行2

 

高野山参拝当日は、阪急十三駅から阪急電車に乗って阪急梅田駅へ。梅田駅からJR大阪駅をかすめて地下鉄梅田駅から地下鉄御堂筋線の電車に乗車。なんば駅で下車して南海電車なんば駅へ。なんば駅とは、南海なんば、近鉄なんば、地下鉄なんば等があるが、もともとは南海なんば駅が難波駅だった。南海電鉄がプロ野球・南海ホークスを持っていたころは、この近辺に大阪球場があったが、今はない。ちょうど野村克也氏が現役選手、現役兼監督だったころのことだ。そういえば、私が乗った阪急電車も、昔はプロ野球球団・阪急ブレーブスを持っていた。阪急ブレーブスや南海ホークスを知っている人は、今はもうだいぶ少なくなっているのではなかろうか。

南海なんば駅で、高野山行き「世界遺産きっぷフリー乗車券」を買う。これには南海電車往復乗車券、行きの特急券、バスフリーきっぷと割引券がついている、なかなか便利なきっぷで、3400円。これは便利です。私は過去に高野山金剛峯寺に行ったことがあるのだが、実は、南海電車に乗っていくのは、今回がはじめて。では、以前はどうやって高野山に行ったのかというと、自家用車で行っています。「終着駅で降りても、またバスを乗り継がなくてはいけないのかな」と思いつつ、南海なんば駅から、南海特急「こうや」号に乗る。ところがこの「こうや」号は、何とたったの4両編成。こんな短い編成の特急列車も、大変珍しい。乗車した日は土曜日ということもあり、特急「こうや」号は全席満席。列車の車内で「特急券は売り切れました。特急券をお持ちでないお客様は、ご乗車になれません」とのアナウンスが流れる。それにしても始発駅の南海なんば駅で、全席満席になってしまった特急「こうや」号。南海なんば駅から終着駅の極楽橋駅まで、停車駅がいくつもあるのだが、だれも乗降せず、ずっと満席のまま。「こんなに列車の中が混んで満席になっているのに、どうして4両編成なんだろうか。どうしてもっと車両を増結しないんだろうか」と、不思議に思って乗っていたところ、終点・高野山極楽橋駅に着いて、その理由がわかった。

南海高野線は、複線電化線なのだが、複線区間は途中の橋本駅まで。橋本~極楽橋は単線電化区間になる。それで高野下駅あたりから、高野線はものすごい山岳地帯に入り、線路は蛇行の連続。電車のスピードも著しくダウンする。切り立った山の中を、這うように走り、トンネルを出たり入ったりの連続。「こうや」号の終着駅・極楽橋駅は、高野山の切り立った山の中を切り開いて造成したかのような駅で、この駅のホームが辛うじて4両が限界。だから特急「こうや」号も4両編成だったというわけである。それにしても、車で高野山に登ったときは、それほど感じなかったが、こうして電車で高野山に登ると、何と高野山という所は、切り立った山岳地帯なんだろうかと思う。

現代人は電車・バス・車に乗って、やすやすと高野山に登るが、平安、鎌倉、室町、安土桃山の上古の時代は、徒歩が主な交通手段だった。平安時代に仏教を信仰していたのは、天皇、公家、貴族などの支配階級の人のみで、そういう人たちは、駕籠などに乗って高野山に登ったとは思うが、ほとんど徒歩しか交通手段がなかった平安時代に、こういう高野山に仏教大寺院を弘法大師空海がよく建立したものだと思う。大変な難工事だったのではないかと偲ばれる。

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■高野山金剛峯寺1(20145月の高野山旅紀行1)

 

20145月に高野山真言宗総本山・高野山金剛峯寺に行って参拝した時の旅紀行

 

この項では、201459日、東京を出発して高野山真言宗総本山・高野山金剛峯寺に行ったときのことを書きます。高野山には、これより以前に何度か行っているのですが、いかんせんブログにアップできる写真がない。というわけで、ブログにアップする写真を撮るため、久しぶりに弘法大師廟参拝のため、高野山に行ってきました。東京から日帰りで行けないこともないのですが、いかんせん大阪から高野山に行く移動手段は、南海電車になる。南海電車・難波駅から特急こうや号で行っても、ケーブル高野山駅に着くまで約1時間半はかかる。東京から早朝6時発の東海道新幹線「のぞみ」号で行ったとして、新大阪到着が8時半。難波駅9時発の特急「こうや」号に乗ったとして、高野山駅到着は11時半になる。東京からストレートに行けたとしても6時間弱はかかる。

それで23時に東京駅に到着できる新幹線に乗るには、どんなに遅くとも高野山を17時に出発しなければならない。これは旅の行程としては、いささか、きつすぎる。又、あの広大な高野山の境内を散策・見学・参拝するには、時間が短すぎる。というわけで、高野山参拝の前日に東京を出発。東海道新幹線で新大阪に到着。大阪市内のホテルに宿泊。翌朝、大阪から電車に乗って高野山に行くことにした。

私は、東京を拠点にして全国各地の寺院を巡る旅をしてきているが、電車・バス・航空機を使い、ホテルに宿泊する旅の場合、JTBのビジネスパック(出張応援価)を使うことが多い。この通称・ビジネスパックを使うと、旅費・宿泊費をかなり安く抑えることができる。今回の高野山行きも、もちろんビジネスパックである。今回は往復新幹線とホテル宿泊費で27500円。さらに1泊追加したので、追加宿泊費が6500円。かなりお得な金額である。今回は普通車指定席に乗ったが、グリーン車に乗る場合も、2500円の追加料金でグリーン車に乗れる。JRみどりの窓口で、乗車券・特急券を買い、ホテルを予約するよりも、大幅に安くなる。往復の交通手段として航空機を使うこともできるが、こちらも費用が大幅に安くなる。ただし航空機を使う場合、出発の7日前までにビジネスパックの予約をしなければならない。新幹線を使う場合は、出発の当日でもOKだが、ビジネスパック用の座席、ホテルの部屋が空いていることが条件。またホテルによっては、1200円とか1500円くらいする朝食券を、事前予約で1000円で買うことができるオマケ付きのところもある。

今回は東京発1633分の「ひかり」号に乗車。新大阪到着が1928分。所要時間は2時間55分である。私が子どもの頃は、東京発、名古屋と京都しか停車しない最高時速210キロの「ひかり」号で、新大阪までが3時間10分だった。ところが今は、最高速度が270キロになり、この他に品川、新横浜、豊橋、岐阜羽島、米原に停車し、岐阜羽島と米原で「のぞみ」の通過待ちをして、東京~新大阪が2時間55分。「のぞみ」号だったら、品川、新横浜、名古屋、京都に停車して2時間30分。かつての最速の「ひかり」号より停車駅が多くなったのに、所要時間が40分も短縮している。時代がかわったものである。

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■倶利伽羅不動寺3(平等院鳳凰堂の造りによく似ている西之坊鳳凰殿)

 

□京都宇治・平等院鳳凰堂の造りによく似ている倶利迦羅不動寺西之坊鳳凰殿

 

倶利伽羅不動尊は、誰が、どのような縁由で、開山したのか。これも津幡町の公式ウエブサイトにわかりやすく載っているので、こちらを引用してみたい。

「石川県と富山県にまたがる歴史国道「北陸道」が走る倶利伽羅峠には、約1300年の歴史を持つ倶利迦羅不動寺(山頂本堂)があります。成田不動尊(千葉県)、大山不動尊(神奈川県)と並び、日本三不動尊の一つとして知られ、縁日の28日には県内外から多数の参詣者が訪れます。地名にもなっている「倶利迦羅」は、「剣に黒い龍の巻きついた不動尊像」という意味のインドのサンスクリット語に由来します。倶利迦羅不動寺の創建は、718(養老2)年に元正天皇の勅願により、中国から渡来したインドの高僧、善無畏三蔵(ぜんむいさんぞう)法師が倶利迦羅不動明王の姿をそのまま彫刻し、奉安したのが始まりと伝えられています。この本尊が安置された奥之院は3年に1度開扉され、大法要が営まれます。それから約100年後の812(弘仁3)年に、弘法大師(こうぼうだいし)が諸国を巡る途中で、不動明王を拝まれ、あまりの有難さに扉を閉めると、本尊と同体の不動尊像を彫り、御前立(おまえだち)の不動尊として安置されました。この時、別当寺(べっとうじ)として長楽寺(ちょらくじ)が開山されたといわれています。その後、不動信仰の長楽寺と「手向(たむけ)の神」を祀(まつ)る手向神社が習合していったと考えられます。この「御前立不動尊」は現在、本堂に安置されています。1183(寿永2)年の倶利伽羅源平合戦の際、兵火に遭い、多くのお堂や寺宝、記録などが焼失しましたが、その後、源頼朝によって再興されました。戦国時代の天正年間(15731592年)には衰退し、廃寺同然となりましたが、江戸時代の寛永年間(16241644年)に秀雅上人(しゅうがしょうにん)が再興し、さらに加賀藩主前田家の祈願所や参勤交代の休憩所となったことから、社殿の再建や寺領の寄進が行われ、寺運が再び隆盛しました。

江戸末期の1836(天保7)年に門前の茶屋から出火し、山門や不動堂が焼失しました。再建されないまま明治維新を迎え、1899(明治2)年に明治政府の神仏分離令によって、長楽寺は廃され、手向(たむけ)神社となりました。その当時の仏像類は金沢市の宝集寺、小矢部市の医王院、津幡町倉見の専修庵などに譲渡されました。廃寺から50年後の1949(昭和24)年に、高野山の金山穆韶大僧正の尽力により、長楽寺跡に堂宇が再建され、倶利迦羅不動寺として復興されました。奥の院の不動堂は、旧高松小学校(現かほく市)の御真影奉安殿、本堂は旧金沢卯辰山忠魂祠堂を移築したものです。以後、次第に道路や寺観を整えて、現在に至っています。

1998(平成10)年1010日には、倶利迦羅不動寺の西之坊鳳凰殿(にしのぼうほうおうでん)が竹橋(たけのはし)地区に復興されました。平安時代の寝殿造りの様式を取り入れた、左右75メートルの壮大な木造建築となっています。」

(津幡町公式ウエブサイト「倶利伽羅不動寺」より)

倶利伽羅不動5 

(倶利伽羅不動寺・山頂本堂)

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■倶利伽羅不動寺2(交通不便な所にありながら参拝者が多い)

 

□倶利伽羅峠越え山頂付近の交通不便な所にありながら参拝者が多い倶利伽羅不動寺

 

倶利伽羅不動寺のある所は、石川県と富山県の県境付近の天田峠から、さらに奥に入ったところ。ここに行くには、電車ではとても無理で、自家用車かバスになる。とはいっても、倶利伽羅不動寺に行くには、倶利伽羅峠(天田峠)の曲がりくねった蛇行した道を登って行かなくてはならない。

近くには国道8号線・津幡バイパスや国道8号線旧道もあることはあるが、天田峠の麓を通っているだけ。国道8号線は天田峠を登らず、倶利伽羅トンネルで石川・富山県境を走り抜ける。

倶利伽羅不動寺の最寄り駅は、JR北陸線の倶利伽羅駅ということになるが、最寄り駅と言うには、倶利伽羅不動寺から、あまりにも遠い所にあるばかりか、倶利伽羅駅から倶利伽羅不動寺、古戦場跡までの交通手段は、ないに等しい。しかもJR北陸線の倶利伽羅駅は、無人駅で、北陸線の各駅停車(普通列車)しか停車しない。JR北陸線とJR七尾線が分岐する津幡駅からも、石川県のターミナル駅である金沢駅からも、倶利伽羅不動寺への交通アクセスはないに等しい。

これだけ交通不便な所なら、参詣者はいないのでは、と思ってしまいがちだが、ところがそんなことはない。縁日の28日には県内外から多数の参詣者が訪れる他、善無畏三蔵法師が倶利迦羅不動明王の姿をそのまま彫刻し、奉安したと伝えられる本尊が安置された奥之院は3年に1度開扉され、大法要が営まれ、多くの参詣者が訪れる。

私も平日の昼間に、何度か倶利伽羅不動寺に来ていますが、観光バス等を利用して、けっこうたくさんの人が参拝に訪れていた。もっとも中高年の人が大半ではあったが。駐車場には大型観光バスが数台停まっていたので、団体参拝の人ではないかと思われる。

倶利伽羅不動寺の創建は、718(養老2)年に元正天皇の勅願により、中国から渡来したインドの高僧、善無畏三蔵法師が倶利迦羅不動明王の姿をそのまま彫刻し、奉安したのが始まりと伝承される寺院であるが、今でもこれほど不便な所であるのに、上古の昔の倶利伽羅不動寺への交通は、どれほどだったのだろうか。津幡町の公式ウエブサイト「歴史国道『北陸道』」から引用してみたい。

「津幡町と富山県小矢部市にまたがる「倶利伽羅峠」を越える旧北陸道は、源平合戦の「火牛の計(かぎゅうのけい)」に関わる史跡や加賀藩の参勤交代(さんきんこうたい)のための往還道など、その歴史的、文化的価値が評価されて、1995(平成7)年6月に国土交通省が進める「歴史国道」の全国12箇所の1つとして認定されました。1996(平成8)年11月には、文化庁の「歴史の道百選」にも選ばれています。

712年(和銅5)年に、越中から加賀へ通じる加越国境の砺波山(倶利伽羅山)の麓に、越の三関(越前・越中・越後)の1つである砺波関(となみのせき)が設けられました。746(天平18)年に越中の国守(こくしゅ)として赴任した万葉集の歌人、大伴家持は、この地で多くの歌を残しました。」

倶利伽羅不動6

(倶利伽羅不動寺・山頂本堂)

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■倶利伽羅不動寺1(倶利伽羅峠源平合戦古戦場・天田峠の近く)

 

□昭和40年代ころまで国道8号線が通っていた天田峠越えの近くにある倶利伽羅不動寺

 

倶利伽羅不動寺(くりからふどうじ)とは、石川県と富山県の県境付近にある山頂本堂(山頂堂)と、石川県津幡町の西之坊鳳凰殿がある古刹寺院。寺格は高野山真言宗の別格本山。高野山真言宗は総本山・金剛峯寺(和歌山県高野町)、次に大本山・寳壽院(和歌山県高野町)、そして遺跡本山(ゆいせきほんざん) の神護寺(京都市右京区)、観心寺(大阪府)があり、その次が別格本山で高野山内に27ヶ寺、高野山以外の全国各地に33ヶ寺あるが、倶利伽羅不動寺はその中のひとつということになる。

成田不動尊(千葉県)、大山不動尊(神奈川県)と並び、日本三不動尊の一つと称される倶利伽羅不動尊とは、通常は約1300年の歴史がある山頂本堂を指す。倶利伽羅(くりから)とは、日本にあって日本ではないような地名であるが、これは「剣に黒い龍の巻きついた不動尊像」という意味のインドのサンスクリット語に由来するという。「倶利伽羅」の名前は、倶利伽羅峠、倶利伽羅そば、JR倶利伽羅駅など、地域の名前になっている。

この山頂本堂は、倶利伽羅峠と呼ばれる石川県と富山県の県境が複雑に入り組んでいる峠越えのてっぺんに近い所にある。正式にはこの峠の名前を「天田峠」という。天田峠の峠越えの道は、今、車で走っても、車がやっとすれ違いが出来るくらいの狭い道。しかも峠の山肌を這うように、曲がりくねって蛇行している山道である。私が子どもの頃は、この曲がりくねって蛇行している天田峠越えの道が、国道8号線の幹線道路であった。こんな狭い道を昭和40年代のころまで、排気ガスを思いっきりはき出して大型トラックやバスが走っていた。富山県に私の母親の実家があるので、子どもの頃、父親が運転する車に乗って、この天田峠を通った記憶がある。

これではあまりにも不便だというので、国道8号線の倶利伽羅トンネルが開通。天田峠越えの山道は、国道から県道に格下げになった。従来からの国道を走っていた大量の自動車交通は、倶利伽羅トンネルを走るようになり、天田峠越えは一気に静かになった。そんな天田峠の峠越えの頂上付近から、さらに奥に入ったところに倶利伽羅不動寺・山頂本堂がある。

今は北陸自動車道が全通しており、さらに国道8号線・津幡バイパスも開通しているので、倶利伽羅不動寺のすぐ近くまで、自動車輸送の波がおしよせることはなくなった。しかし倶利伽羅不動寺は、有名寺院であるためか、倶利伽羅不動寺の名前にちなんで、北陸自動車道には「不動寺パーキングエリア」がある。ただし名前は「不動寺パーキングエリア」とはなっているが、北陸自動車道のわりと倶利伽羅不動寺に近い所に設けられているだけで、ここが倶利伽羅不動寺と繋がっているわけではない。

倶利伽羅不動7



(倶利伽羅不動寺・山頂本堂)

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

↑このページのトップヘ