一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ

「一般社団法人 仏教宗学研究会」とは任意団体として2005年から活動している会の名称。2018年5月に一般社団法人登記。当ブログ名を「仏教宗学研究会のブログ」から「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」に改名。 「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

Category: 仏教寺院のジャポニズム

■倶利伽羅不動寺3(平等院鳳凰堂の造りによく似ている西之坊鳳凰殿)

 

□京都宇治・平等院鳳凰堂の造りによく似ている倶利迦羅不動寺西之坊鳳凰殿

 

倶利伽羅不動尊は、誰が、どのような縁由で、開山したのか。これも津幡町の公式ウエブサイトにわかりやすく載っているので、こちらを引用してみたい。

「石川県と富山県にまたがる歴史国道「北陸道」が走る倶利伽羅峠には、約1300年の歴史を持つ倶利迦羅不動寺(山頂本堂)があります。成田不動尊(千葉県)、大山不動尊(神奈川県)と並び、日本三不動尊の一つとして知られ、縁日の28日には県内外から多数の参詣者が訪れます。地名にもなっている「倶利迦羅」は、「剣に黒い龍の巻きついた不動尊像」という意味のインドのサンスクリット語に由来します。倶利迦羅不動寺の創建は、718(養老2)年に元正天皇の勅願により、中国から渡来したインドの高僧、善無畏三蔵(ぜんむいさんぞう)法師が倶利迦羅不動明王の姿をそのまま彫刻し、奉安したのが始まりと伝えられています。この本尊が安置された奥之院は3年に1度開扉され、大法要が営まれます。それから約100年後の812(弘仁3)年に、弘法大師(こうぼうだいし)が諸国を巡る途中で、不動明王を拝まれ、あまりの有難さに扉を閉めると、本尊と同体の不動尊像を彫り、御前立(おまえだち)の不動尊として安置されました。この時、別当寺(べっとうじ)として長楽寺(ちょらくじ)が開山されたといわれています。その後、不動信仰の長楽寺と「手向(たむけ)の神」を祀(まつ)る手向神社が習合していったと考えられます。この「御前立不動尊」は現在、本堂に安置されています。1183(寿永2)年の倶利伽羅源平合戦の際、兵火に遭い、多くのお堂や寺宝、記録などが焼失しましたが、その後、源頼朝によって再興されました。戦国時代の天正年間(15731592年)には衰退し、廃寺同然となりましたが、江戸時代の寛永年間(16241644年)に秀雅上人(しゅうがしょうにん)が再興し、さらに加賀藩主前田家の祈願所や参勤交代の休憩所となったことから、社殿の再建や寺領の寄進が行われ、寺運が再び隆盛しました。

江戸末期の1836(天保7)年に門前の茶屋から出火し、山門や不動堂が焼失しました。再建されないまま明治維新を迎え、1899(明治2)年に明治政府の神仏分離令によって、長楽寺は廃され、手向(たむけ)神社となりました。その当時の仏像類は金沢市の宝集寺、小矢部市の医王院、津幡町倉見の専修庵などに譲渡されました。廃寺から50年後の1949(昭和24)年に、高野山の金山穆韶大僧正の尽力により、長楽寺跡に堂宇が再建され、倶利迦羅不動寺として復興されました。奥の院の不動堂は、旧高松小学校(現かほく市)の御真影奉安殿、本堂は旧金沢卯辰山忠魂祠堂を移築したものです。以後、次第に道路や寺観を整えて、現在に至っています。

1998(平成10)年1010日には、倶利迦羅不動寺の西之坊鳳凰殿(にしのぼうほうおうでん)が竹橋(たけのはし)地区に復興されました。平安時代の寝殿造りの様式を取り入れた、左右75メートルの壮大な木造建築となっています。」

(津幡町公式ウエブサイト「倶利伽羅不動寺」より)

倶利伽羅不動5 

(倶利伽羅不動寺・山頂本堂)

 

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■法華宗本門流大本山・光長寺3(富士門流との共通点)

 

岡宮・光長寺の境内を歩いていて、非常に目立つのが、鶴丸の紋。これは日蓮正宗や富士門流の本山、日蓮本宗等で使われている鶴丸と全くといっていいほど同じものです。

塔中の門前や本堂、蓮鉢など、けっこうあっちこっちに鶴丸のマークがあるので、一瞬、日蓮正宗や富士門流の寺院にいるような錯覚になってしまいます。

光長寺18本堂


これについては、法華宗のご信者の方から「鶴丸の紋は、勝劣派の紋です」という指摘を受けました。鶴丸の紋については、いくつか説があるのですが、勝劣派の紋だという説は、初耳でした。

 

岡宮・光長寺は法華宗本門流の大本山ですが、境内をいろいろ見学して歩いていると、日蓮正宗や富士門流の本山に実によく似ていると思います。塔中が全て坊号になっていることや、境内の各所に鶴丸が見られるというだけではありません。

光長寺の墓苑に行ってみると、中央に三師塔が建っており、これも大石寺との共通点です。ただし大石寺の言う三師塔の三師とは、日蓮、日興、日目ですが、光長寺の三師とは、日蓮と、同時二祖の日法、日春ということでしょうか。

御廟所には、日法の正墓が、ひっそりと建てられています。墓苑の三師塔は立派ですが、同時二祖の日法の正墓は、なんとなく、みずぼらしく見えました。

 

本堂前には、毎月13日に御講が営まれている旨の立て札が出ていました。毎月13日の御講というのも、日蓮正宗との共通点です。今は、日蓮正宗では毎月13日に限らず、第二日曜日とかに御講を行っているようですが、日蓮正宗と創価学会の和合路線時代の1990年までは、日蓮正宗のどの末寺も、毎月13日に御講を営んでいました。

日蓮正宗に言わせると、「毎月13日の御講は、創価学会の願い出によるもの」ということだが、1991年の創価学会破門以降は、これにとらわれずに、月1回以上の御講を営んでいるのだとか。

しかし、今でも毎月13日に御講を営んでいる日蓮正宗末寺は、けっこうたくさんあります。

 

こういうふうに、岡宮・光長寺と日蓮正宗・富士門流との共通点が何点かあると、こういうものが生まれた元は、何だったのかな、と思うわけですが、そのひとつは、江戸時代、大石寺をはじめとする富士門流と、岡宮・光長寺らの日隆門流が、今の千葉県大網白里町にあった細草檀林を共同経営していたことが挙げられるのではないかと思います。

これだけが原因ではないと思いますが、少なくとも細草檀林では、富士門流と日隆門流の学僧が、机を並べて修学していたわけですから、共通点が生まれる素地はあったと思われます。

 

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■法華宗本門流大本山・光長寺2(光長寺の塔中坊名)

 

法華宗本門流大本山・岡宮・光長寺は、JR東海道線・沼津駅が最寄り駅になるのですが、沼津駅からは、かなり離れた所にあります。

沼津駅前から、光長寺方面にバスが運行されているのですが、本数があまりにも少なく、不便であるため、車で行った方がいいと思います。私はレンタカーで行ったときが一度、駅前からタクシーで行ったときもありました。ここに行く交通の便は、あまりいいとは言えないですねえ。

 

光長寺の門前には、境内図があり、おおよその堂宇・伽藍がわかるようになっています。

光長寺1


光長寺の伽藍・堂宇は

□昭和大本堂 □客殿 □御宝蔵 □寺務所 □日蓮の銅像 □方丈 □新書院

□仁王門 □霊園 □御廟所 □三光堂 □鐘楼堂

塔中坊は

□東之坊 □辻之坊 □山本坊 □西之坊 □南之坊

の五坊があります。

 

御廟所には、三師塔の他、日法の正墓があります。

 

塔中の名前は全て「○○坊」という坊号になっており、これは身延山久遠寺、日蓮正宗大石寺、富士妙蓮寺、北山本門寺、西山本門寺、小泉久遠寺、讃岐本門寺等と同じ。

これが京都に行くと、京都・要法寺、妙顕寺、本圀寺、妙伝寺、本能寺、頂妙寺、本満寺、本善寺、妙覚寺、本法寺、妙蓮寺、本隆寺等の本山は全て塔頭が「○○院」の院号になっています。

これは、日蓮宗、日蓮本宗(富士門流)、法華宗本門流、法華宗真門流、顕本法華宗、本門法華宗、法華宗陣門流の宗派の区別はなく、共通して全て「○○院」の院号です。

否、日蓮宗、法華宗関連のみならず、比叡山延暦寺(院号・寺号の混合)、東大寺、園城寺、法隆寺(院号・寺号の混合)、平等院、建仁寺(院号・庵号の混合)、大徳寺(院号・庵号の混合)、天龍寺(院号、庵号等の混合)等々、塔頭は「○○院」の院号になっています。

 

これが関東に来ると、日蓮宗大本山・池上本門寺の塔中は「○○院」の院号と「○○寺」の寺号の混在。大本山・中山法華経寺も、同じく「○○院」の院号と「○○寺」の寺号の混在になっています。塔中坊の名前は、宗派の区別ではなく、地域によって名前が違っているようです。

 

この「塔頭の寺号、院号、坊号については格の段階がある」というご指摘をいただいたことがありました。確かに格付けはあるとは思いますが、それだけではないと思われます。寺号、院号、坊号の格付けによって命名されているのなら、全国各地の寺院の塔頭は、寺号、院号、坊号が混在しているはず。ところがそうはなっていないわけですから、この説には説得力がありません。

 

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日蓮本宗本山・要法寺7(他の富士門流本山との類似点・相違点)

 

かくして要法寺を訪問したことで、嘉儀日有(かぎにちゆう)貫首をはじめて実見したのみならず、境内をいろいろと見学して、けっこういろんなことがわかりました。

まず嘉儀日有貫首をはじめ要法寺僧侶が着ていた僧衣は、日蓮正宗大石寺、北山本門寺など、他の富士門流と同じ薄墨色の衣に白袈裟。

貫首は、礼装用の僧衣を身につけていましたが、これも大石寺法主や末寺住職が着る礼装用の僧衣と全く同じ。さらにその僧衣、袈裟に、鶴丸のマークが入っているのも見えました。鶴丸の紋を使っているのも、他の富士門流本山と同じです。

この時、私の持っていた資料には、要法寺僧侶の僧衣は黒色の黒衣である、などと書いてあった物があったのだが、何のことはない。これは全くの間違いです。

私が、要法寺僧侶の僧衣を、直に見たのは、この1995(平成7)年の日尊650遠忌の年がはじめて。私はそれまで、要法寺の僧衣が大石寺の僧衣と全く同じとは全く知らず、かなり驚いた記憶があります。

 

さて境内を見渡してみると、堂宇・伽藍・塔頭等は、大石寺、富士妙蓮寺、北山本門寺、西山本門寺、小泉久遠寺、伊豆実成寺、保田妙本寺、讃岐本門寺等、他の富士門流本山とは、大きく異なっています。

要法寺の境内の中心に、本堂と開山堂という、大きな堂宇・伽藍が二堂建っており、その北側に、顕壽院・法性院・信行院・実成院、南側に真如院・本行院・本地院・妙種院が立ち並んでいます。

要法寺3本堂3


こういう境内は、日蓮正宗大石寺をはじめ、他の富士門流本山には見られない造りで、どちらかというと、奈良の法隆寺の境内の並びに似ている感じがする。

そして、本堂、開山堂の東側に、客殿、方丈、書院、庫裡、受付があります。

こういう堂宇・伽藍の造り方は、他の富士門流本山には、見られないものです。

 

富士門流では、多くの場合、本堂ないしは御影堂、客殿と、大きな堂宇がある場合が多いですが、要法寺の場合は、本堂(御影堂)・客殿という建て方とは異なっています。

境内に本堂と開山堂が並んで建っている寺院は、北山本門寺がありますが、北山本門寺の場合は、開山堂とは元の仮本堂であり、新しく本堂を新築したので、仮本堂を開山堂としたわけです。

要法寺の場合は、後に詳しく述べますが、北山本門寺のケースとは、異なっています。

 

それから、塔頭の名前が、大石寺、北山本門寺などの富士五山、讃岐本門寺、身延山久遠寺、岡宮・光長寺の塔頭のように、「○○坊」ではなく、真如院・本行院・本地院・妙種院・顕壽院・法性院・信行院・実成院、というふうに「○○院」という院号になっています。

これは、京都・奈良の本山寺院の塔頭は、宗派を問わず、おしなべて院号になっているのと、共通しています。東大寺、園城寺(三井寺)、比叡山延暦寺といった大寺院はもちろんのこと、京都にある他の日蓮宗系の本山寺院である妙蓮寺、頂妙寺、妙満寺、本満寺といった寺院の塔頭も全て「○○院」という院号になっています。

こういったところも、他の富士門流本山とは、大きく異なっています。

 

 

 

 

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■富士山久遠寺(小泉久遠寺)10(堂宇の並び方が共通)

 

黒門から境内の入り口までの間、かつて塔中坊があったところは、今は民家が密集しており、境内には入っていない。そのためか、小泉久遠寺の境内は、そんなに広く感じない。

 

小泉久遠寺の境内にある堂宇は、向かって左側から、庫裡、客殿、開山堂(旧本堂)というふうに並んで建っています。この並び方は、日蓮正宗大石寺、富士妙蓮寺、北山本門寺、伊豆実成寺、小泉久遠寺、讃岐本門寺に共通しています。

さらに客殿の裏手には、宝蔵が建っており、これも大石寺、西山本門寺と共通しています。

大石寺と小泉久遠寺は、蓮蔵坊紛争以来、同じ富士門流の中で対立関係にありながら、伽藍・堂宇の配置が、ほとんど同じであるというのは、なんとなく見ていて奇異に見えます。

 

境内の中央にあるのが、客殿。日蓮宗新聞社刊行「日蓮宗本山めぐり」という本によると、この客殿を「本堂」と紹介しています。

小泉久遠寺6客殿


本堂は火災で焼失しており、仮本堂はあるものの、今は客殿を、本堂として使用しているようです。中を見ようとしたのですが、内側からカギがかかっていました。

 

客殿を「本堂」と紹介しているのは、現在、小泉久遠寺が日蓮宗に所属していることが大きいと思われます。

日蓮宗寺院の伽藍・堂宇は、寺院の本尊を祀る本堂と、宗祖・日蓮像を祀る祖師堂の二堂建てるのが、本来の日蓮宗の化儀ということです。

これは総本山・身延山久遠寺、大本山・池上本門寺、小湊誕生寺、清澄寺、中山法華経寺、京都本圀寺、京都妙顕寺等、みなそうなっています。例外は富士門流の日蓮宗大本山・北山本門寺で、こちらは祖師堂(御影堂)と本堂がいっしょになっています。

小泉久遠寺の場合は、富士門流で、元来、本堂と客殿の二堂あったわけですが、本堂を焼失してしまったため、客殿が本堂になったということです。

しかし富士門流共通の堂宇の建て方からすると、小泉久遠寺の旧本堂は、日蓮像を祀る御影堂(祖師堂)だったと考えられます。そうすると、仮に旧本堂(祖師堂・御影堂)が今に残っていたとしても、小泉久遠寺の場合は、客殿が日蓮宗の「本堂」に相当するということになります。

これは、伊豆実成寺の場合も、同じです。伊豆実成寺の場合は、祖師堂と客殿の二堂あるわけですが、日蓮宗では、客殿を「本堂」と紹介しています。

 

さらに小泉久遠寺と富士門流本山との共通性を言うなら、鶴丸の紋です。

小泉久遠寺2鶴丸


これも日蓮正宗大石寺、富士妙蓮寺、西山本門寺、小泉久遠寺、伊豆実成寺、京都要法寺の他、法華宗の岡宮光長寺も共通しています。

 

さて小泉久遠寺は、日蓮宗本山という格付けになっているのですが、日蓮宗寺院に共通している日蓮の立像が見当たりません。富士門流は、北山本門寺以外は、日蓮の立像は建てていないのですが、そうするとここは、日蓮宗ながら、富士門流としての寺院のやり方を蹈襲していると言うことか。

 

 

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■日蓮宗本山・伊豆実成寺3(堂宇の並び方が富士門流本山と共通)

 

現在、実成寺は日蓮宗本山になっていますが、元々は富士門流八本山のひとつであることから、境内にある堂宇の並びが、正面から見て庫裡~客殿~祖師堂(御影堂)というふうに並んでいます。これは日蓮正宗大石寺、妙蓮寺、北山本門寺、小泉久遠寺、讃岐本門寺に共通した並び方です。

富士門流の中でも、大石寺、妙蓮寺、讃岐本門寺と北山本門寺、小泉久遠寺は中世の頃から仲が悪いのですが、仲が悪いにもかかわらず、堂宇の並び方が共通しているというのは、なんとも面白く見えます。

それと実成寺の黒門に、鶴丸の紋があるのが見えました。これも富士門流本山の共通項です。

 

ただし日蓮木像を祀る堂宇を祖師堂と呼んでいること、日蓮の銅像が建っているのは、日蓮宗寺院の特色ですね。富士門流では祖師堂とは言わずにむ御影堂と言いますし、日蓮の銅像が建っていません。

日蓮宗全国本山会監修・日蓮宗新聞社発刊の「日蓮宗本山めぐり」という本には、伊豆実成寺の祖師堂については、「祖師堂(御影堂)」と書いてあります。

 

実成寺の黒門から祖師堂まで一直線に参道が伸びています。

伊豆実成寺14祖師堂


祖師堂の入り口の戸は閉まっていてカギがかかっていましたが、入り口の戸の一部がガラス窓になっている部分があったため、阻止堂の中を見てみました。

すると祖師堂の須弥壇の扉は閉まったままになっており、内陣・外陣の造りは、大石寺や北山本門寺の御影堂の造りに似ていなくもないですが、大石寺や北山本門寺の御影堂ほど広くなく、こじんまりした感じに見えます。

 

境内には、伊豆実成寺祖師堂の彫刻が有形文化財に指定されていることを告知する看板がありました。それには次のように書いてあります。

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有形文化財 実成寺祖師堂の彫刻

 

この祖師堂には、立派な彫刻が保存されている。作者は、松崎町江奈出身で石田富治郎、号を希道斎永秀と称した。狩野派の画法を修め名人といわれた人物である。

彫刻は祖師堂向拝正面に鳳凰の舞う姿、左右の木鼻には獅子と象、そして内側の手狭みには牡丹の咲き乱れる様子が彫られている。

堂内正面欄間一面に見事な透かし彫りがあり、松、竹、梅の林が浮き出し、その林間には神仙と童児が巻物を広げて楽しそうに話し合っている。

両側の欄間には五彩の雲間に鶴の舞い遊ぶ姿が彫られている。なお希道斎永秀は三島大社拝殿向拝にも作品を残している。

 

有形文化財指定日 平成六年十一月六日

伊豆市教育委員会

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 伊豆実成寺13祖師堂彫刻案内

 

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■法華本門寺根源(北山本門寺)12(富士門流と日蓮宗の違い)

 

日蓮正宗を含む富士門流と、富士門流以外の日蓮宗の間には、伽藍・堂宇・化儀について、大きな違いがあります。

まず日蓮の木像を意味する御影(みえい)についてから。

日蓮正宗を含む富士門流では、日蓮の木像のことを「御影」ないしは「御影像」と呼んでおり、御影を祀っている堂宇のことを「御影堂」と呼んでいます。日蓮正宗や富士門流の信者も、御影像のことを「お御影さま」と呼んでいます。

日蓮正宗大石寺、北山本門寺の他、下条・妙蓮寺、小泉久遠寺、讃岐本門寺にも、日蓮の木像を祀っている堂宇がありますが、いずれも御影堂と呼んでいます。

北山本門寺13本堂3

 

これに対して、富士門流以外の日蓮宗では、日蓮の木像のことを御影とか御影像とは呼ばずに「祖師像」「祖師」と呼び、祖師像を祀っている堂宇を「祖師堂」と呼んでいます。日蓮宗の信者も、日蓮の木像のことを「お御影さま」とは呼んでおらず、「お祖師さま」と呼んでいます。

日蓮宗総本山・身延山久遠寺にも、大本山・池上本門寺、鎌倉・妙本寺、中山・法華経寺、京都・妙覚寺、京都・本隆寺、玉沢・妙法華寺、茂原・藻原寺、といった日蓮宗の各本山にも、日蓮の木像を祀る堂宇がありますが、いずれも「祖師堂」と呼んでいて、御影堂とは呼んでいません。

 

次に客殿ですが、日蓮正宗を含む富士門流寺院の客殿は、勤行、年忌法要、御講、大法会といった大きな行事を行う堂宇になっています。

特に、これは日蓮正宗において顕著になっており、大石寺、下条・妙蓮寺、讃岐本門寺の他、富士門流の西山本門寺、保田妙本寺などがそうです。

これに対して、身延山久遠寺、池上本門寺などの日蓮宗の客殿は、勤行や大法要を行う堂宇というより、重要な賓客をもてなすための堂宇になっています。

 

化儀の上でのことで言うと、にちれんしゅうでは「南無妙法蓮華経」を「なむみょう…」と発音しますが、日蓮正宗や富士門流では「なんみょう…」と発音します。

 

日興門流(富士門流)と、その他の日蓮門下の分離は、1289年の日興・身延離山にまでさかのぼるわけですが、身延離山からすでに722年が立っています。

この間に、両者の間には、さまざまな相違ができています。

この日蓮正宗を含む富士門流と、富士門流以外の日蓮宗の間における、伽藍・堂宇・化儀について、大きな違いについて、もうひとつ特徴的なことがあります。

 

 

 

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■法華本門寺根源(北山本門寺)11(ひと回り小さい御影堂)

 

さて北山本門寺の中心堂宇は、やはり御影堂でしょう。

北山本門寺13本堂3



この御影堂には、日蓮の孫弟子である和泉公日法が彫刻したと自称している「生御影」と呼ばれる日蓮の御影像が祀られている。

北山本門寺では「日蓮大聖人生御影尊像」とよんでいます。これについては、かつて彰往考来氏という人が、「富士教学研究会談義所」というサイトで、「北山本門寺蔵「生御影」について」と題する連載を執筆して、後世の偽作論を展開したことがあったということは、すでに書きました。

私も、どちらかというと、後世の偽作説を支持します。その理由の一つが「楠木」です。

 

北山本門寺の生御影は、楠木で彫られていると言うことですが、これは、日蓮正宗大石寺の「本門戒壇の大御本尊」後世偽作説の「楠木」と全く同じです。

鎌倉時代は小氷期であり、身延、富士一帯に楠木は生育していないこと。楠木は古くから神木であり、日蓮は神木を伐採したり彫刻することはあり得ないこと。

これについても、湯之奥金山が発見されて以降、大石寺が裕福になったように、北山本門寺が裕福になって以降、造立された可能性が高いと考えられます。

 

さて御影堂の中を見てみようと、御影堂の段を上って戸を開けてみると、御影堂の須弥壇の扉は閉まっていて、生御影を見ることはできませんでした。

御影堂や本堂の須弥壇の扉が普段、閉まったままになっているのは、何も北山本門寺だけに限った事ではありません。だいたい閉まっている寺院のほうが多いのではないでしょうか。

扉が閉まっているから秘仏というわけではありませんが、法要が行われる時は、開扉されます。

日蓮正宗大石寺・御影堂の須弥壇の扉も、普段は閉まったままになっていますが、大法会や御講が行われる時は、開扉されています。

北山本門寺の場合も、御影堂で何か法要が修されるときでないと、扉は開かれないようです。

 

ところで、北山本門寺の御影堂は、中も外も、日蓮正宗大石寺の御影堂に、そっくりなのです。

建物の大きさは、大石寺の御影堂のほうが、一回りか二回り大きいのではないかと思われます。

これについては、大石寺の御影堂は、1632(寛永9)年に敬台院日紹の莫大な財力による寄進で建てられたものですが、北山本門寺の御影堂は、江戸時代に何度も火災にあって再建されたものですから、比較にならないかもしれません。

 

御影堂の中も、内陣・外陣の仕切りがあり、太鼓もありました。

残念なのは、須弥壇の扉が閉まったままになっていたことですが、生御影を見るには、ここで法要があるときに来るしかないようです。

 

御影堂にむかって右側には、日蓮の銅像が建てられており、さらに開山堂という名前の堂宇が立っています。

私は、開山堂の中も見てみようと思ったのですが、こちらはカギがかかっていて戸が開きませんでした。

 

北山本門寺14開山堂2
 

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