一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ

「一般社団法人 仏教宗学研究会」とは任意団体として2005年から活動している会の名称。2018年5月に一般社団法人登記。当ブログ名を「仏教宗学研究会のブログ」から「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」に改名。 「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

Category:「日蓮」研究 > 日蓮遺跡

■川越・中院1(天台宗八箇檀林・日蓮伝法灌頂の寺)

 

□日蓮伝法灌頂の寺院にあった天台宗談義所で日蓮宗僧が修学していた、ということか

 

恵心流中古天台宗口伝法門や天台宗談義所に日蓮宗僧が入檀していたか、という謎を追って、喜多院の次に、となりの中院を訪ねました。堂宇は、喜多院、仙波東照宮、中院というふうに並んで建っている。中院の正式名は星野山無量寿寺中院で、今も無量寿寺の寺号を残している。

中院は、星野山無量寿寺の仏地院だった所で、ここに天台宗談義所が置かれていた。

ただは中院の場所は、当初から当地にあったのではなく、今の仙波東照宮があった所にあり、仙波東照宮ができるに当たって、今の地に移転したもの。

喜多院が栄えるようになったのは、江戸時代に天海大僧正が再興して以降であり、もともとの天台宗談義所は仏地院(中院)にあった。

そういうことから中院も訪問。

中院の三門には「元関東八箇檀林」「天台宗別格本山」という看板が出ている。

この関東八箇檀林なのですが、中世の天台宗檀林は

長野県・津金寺、埼玉県川越市・中院、埼玉県児玉郡・大光普照寺、千妙寺、茨城県桜川市・月山寺、茨城県稲敷市・江戸崎不動院、栃木県芳賀郡・宗光寺、茨城県水戸市・薬王院、逢善寺、千葉県長生郡・長福寿寺、群馬県前橋市・龍蔵寺、群馬県渋川市・真光寺、滋賀県米原市・円乗寺にあったとのこと。

関東八箇檀林というからには、八箇所の檀林だったと思われるのだが、しかし、埼玉県、茨城県、千葉県、栃木県、群馬県にあった天台宗檀林は少なくとも九箇所以上ある。

ということは、1ヶ寺が関東八箇檀林に入っていないと言うことになるが、どれが入っていないのか、不明。詳しい方、教えていただけたら幸いです。

 

さて中院の三門前には、「日蓮上人伝法灌頂之寺」と書いた石塔が建っています。

中院6 





















伝法灌頂とは、僧侶の阿闍梨号を授与する儀式のこと。

「伝法灌頂」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9D%E6%B3%95%E7%81%8C%E9%A0%82

「日本密教では、四度加行(しどけぎょう)という密教の修行を終えた人のみが受けられる。正しくは金胎両部伝法灌頂(こんたいでりょうぶ・でんぽうかんぢょう)という。ここで「金・胎」とは、中期密教の宇宙的世界観を表す金剛界(こんごうかい)と胎蔵界(たいぞうかい)を意味する。

インドに始まり、日本密教や中国密教、チベット密教においては、この灌頂によって、密教の奥義がすべて伝授され、弟子を持つこと(教師資格)が許される。また、密教においては仏典だけに捉われず、口伝や仏意などを以って弟子を指導することができることになる。更には、正式に一宗一派を開くことが出来るともいわれ、それ故、阿闍梨灌頂、または受職灌頂ともいう」

 中院1

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■小湊誕生寺2(真鯛の群泳と日蓮)

 

誕生寺は日蓮誕生の霊跡としてあまりにも有名で、日蓮宗七大本山のひとつになっている。

寺伝によれば、日蓮誕生の時、海辺には蓮華が咲き、鯛が群れ、館の庭に清泉がわき出たという。これが今の蓮華ヶ淵、妙の浦、誕生水井戸であるという。

つまり日蓮が産まれた時、庭から清水が湧きだした、海には鯛が群れ集まった、海岸には蓮の花が咲き乱れたという三奇瑞が起こったという伝説があり、鯛ノ浦の真鯛は、長い間、禁漁が守られ、手厚く地元の人たちによって保護されてきたのだという。

建治二年(1276)10月、中老僧・日家と日保が、日蓮父母の館跡地に一宇を建立し、日蓮自ら高光山日蓮誕生寺と命名した。

当時の誕生寺は、今の鯛ノ浦にあったが、明応七年(1498)8月の地震・津波で押し流され、再建堂宇も元禄十六年(1703)11月の大地震による津波で流失。日蓮の生家があったところは、大地震による津波で海中に没してしまっているということになる。

 

鯛ノ浦は、千葉県鴨川市内浦湾から入道ヶ崎にかけての沿岸部の海域で、ここに真鯛(マダイ)が群泳することて゛広く知られている。

ここの真鯛は、特別天然記念物に指定されていて、域内では釣り等が禁止されている。

本来、真鯛は水深1020mを回遊する魚であるらしいのだが、鯛ノ浦のような水深の浅い海域に根つきになることはまず有りえないという。

古来からここの真鯛は名物とされていて、手漕ぎの舟でタイ見物をさせていたが、今は鯛ノ浦遊覧船により、鯛ノ浦周辺海域を廻り、エサづけされた真鯛を見ることができる。

 

この鯛ノ浦の遊覧船はもともと、市議会議員によって運営されてきたのだったが、1954(昭和29)年、小湊鯛ノ浦遊覧船企業組合が設立され、ここが遊覧船を運営している。

遊覧船に乗ると鯛ノ浦会館を出て、鯛の群泳鑑賞と弁天島周辺の遊覧を案内してくれる。鯛ノ浦の浅瀬に、真鯛が群泳しているというのは、本当のようである。

真鯛も、日蓮の化身として信仰され、弁天島は海中に没してしまった日蓮の生家に近いせいか、弁天が祀られ、ここへも年中、参拝者が絶えないのだという。

鯛の浦1
 

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鎌倉・安国論寺2(御小庵の霊跡と認定)

 

鎌倉・安国論寺は、日蓮・松葉ヶ谷草庵跡地として、有名な寺院で、まずここには、戦前、神奈川県が建てた「松葉谷日蓮上人遺跡」と書かれた石碑が建っている。

安国論寺7御小庵

 

文中、紀元と書いてあるのは、西暦のことではなく、皇紀のこと。皇紀とは、神武天皇即位紀元といい、初代天皇である神武天皇が即位したとされる年を元年(紀元)とする、日本の紀年法のこと。紀元節(現在の建国記念の日)廃止までは、単に「紀元」と言った場合には、神武天皇即位紀元(皇紀)を指していた。

この石碑の漢字も、昔の字体になっていて、いかにも戦前に建てられた石碑という感じがします。

 

さてもうひとつ。安国論寺の門前には、鎌倉市教育委員会が建てた案内板があります。それには、次のように書かれています。

 

「当山は日蓮聖人松葉ヶ谷御小庵の霊跡です。御小庵の元となった岩窟(「御法窟」または「日蓮岩屋」という)が本堂の向かいにあります。この御法窟で日本国の安泰と人々の幸せを願って文応元年(1260)七月十六日、前執権北条時頼に建白した『立正安国論』が執筆されました。

翌八月二十七日に立正安国論に反感を持つ人々に庵が襲われました。これは「松葉ヶ谷の法難」といわれています。本堂の裏山に一時避難した「南面窟」があります。

境内は四季折々の花や紅葉で彩られています。なかでも御小庵の傍らの山桜は、日蓮聖人の桜の杖が根づいたといわれ、「妙法桜」と呼ばれています。サザンカやカイドウと共に、鎌倉市の天然記念物に指定されています。」

安国論寺15

 

このように鎌倉市教育委員会が建てた案内板があるということは、学術的に安国論寺が松葉ヶ谷御小庵の霊跡であることを認定されているということです。

日蓮が「立正安国論」を執筆したという御法窟とよばれる穴蔵は、外から見ると渡り廊下のような建物に覆われていて、中までは見えない。現在は非公開になっているとのこと。

保存のために、そうしているのでしょうか。理由はわかりません。

安国論寺1御法窟

 

現在、境内の一角に遺っている御小庵は、安国論寺の案内によると、尾張徳川家の寄進で、元禄年代に建立された堂宇。総欅造りになっている。

御小庵と言われるとおり、まことに小さな堂宇である。もちろん、日蓮在世当時の堂宇は、法難等で失われているのだろうが、しかし日蓮在世当時の御小庵は、こんな感じの堂宇だったのだろうか。続きを読む
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鎌倉・安国論寺1(立正安国論・松葉ヶ谷法難の霊跡)

 

安国論寺(あんこくろんじ)とは、神奈川県鎌倉市大町(名越)にある日蓮宗の寺院で、正式名称は妙法蓮華山安国論寺という、ちょっと長い名前である。

長勝寺と並び日蓮の鎌倉での布教の中心となった松葉ヶ谷草庵跡とされ、松葉ヶ谷霊跡・安国論寺とも言う。開山は日蓮とするが、弟子の日朗が文応元年(1260)に、日蓮が前執権北条時頼に建白した「立正安国論」を執筆した岩穴(法窟)の側に安国論窟寺を建てたのが始まりとされている。ここは、日蓮が北条時頼に提出した「立正安国論」を書いたという古刹寺院であり、日蓮は、ここに草庵を結び、布教活動の拠点にしたとされている。

またここは、日蓮の「松葉ヶ谷法難」の舞台になった所とされている。

日蓮・立正安国論の霊跡ということで、本堂には「立正安国」の扁額が掲げられており、境内には、立正安国論の墨筆を模写した石碑があります。

安国論寺13本堂

 

安国論寺の説明によると、日蓮が立教開宗して鎌倉に入った後、鎌倉・名越の松葉ヶ谷の岩屋に草庵を結んだ跡地が、現在の安国論寺の本堂の向かい側にある御小庵と、その奥に連なっている御法窟(御岩屋)であるという。

安国論寺10御小庵


しかし現在の御小庵は、日蓮が住んでいた庵ではなく、江戸時代・元禄のころに、尾張・徳川家の寄進によって建立された総欅造りのものということである。

御法窟という所が、日蓮が「立正安国論」を起草したところで、南面窟という所が、文応元年(1260)の「松葉ヶ谷法難」の時に、白猿に導かれて日蓮が避難した場所であるという。

安国論寺4南面窟

 

安国論寺の見解によれば、日蓮は、立宗宣言後の32才から龍口法難の50才のころまで、伊豆流罪・小松原法難前後中を除く約17年間、ここに草庵を結んでいたという。もしこれが本当だとすれば、身延山に滞在した9年よりも長く、日蓮が立宗宣言後、最も長く滞在した所になるのではないだろうか。

そうすると日蓮関連の霊跡としては、有数の霊跡になるはずなのだが、この安国論寺は日蓮宗本山には数えられていない。元は鎌倉比企谷・妙本寺の末寺であった。

 

境内には、日蓮の杖が根付いたとされる市原虎の尾という品種のヤマザクラである「妙法桜」というのがあり、鎌倉市の天然記念物になっている。

「市原虎の尾」という品種の桜は、非常に珍しい品種の桜であるという。

そこでちょっと「市原虎の尾」について調べてみたのだが、もともとこの品種は、京都の市原にあった桜で、小枝に花が密生してつくその様子が虎の尾に似ているところから、大谷光瑞という人物が「市原虎の尾」と名前をつけたという。

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片瀬・龍口寺1(日蓮・龍ノ口法難・刑場跡)

 

□日蓮・龍ノ口法難の時に本当に江ノ島方向から“光り物”は飛来したのか

 

龍口寺(りゅうこうじ)とは、神奈川県藤沢市片瀬の龍口刑場跡に建つ日蓮宗の本山(霊蹟寺院)で、正式名称は寂光山龍口寺。略字体を用いて「竜口寺」と称す場合もある。

場所的には、江ノ島電鉄の江ノ島駅から徒歩で3分ぐらいのところにあり、住所的に言うと、ここは鎌倉市ではなく、藤沢市になる。

この地はかつて刑場跡で、文永8年(1271年)912日に日蓮宗の宗祖・日蓮が処刑されそうになった事件、日蓮宗や日蓮正宗では、龍ノ口法難と呼ぶ事件の舞台になったところで、いわゆる龍ノ口刑場跡である。

私がここで見たかったのは「龍口刑場跡」。

龍口寺1


日蓮は、龍口の刑場に連行されたのだが、実際には首を切られなかった。突然、日蓮の処刑は中止になり、まさに九死に一生を得たのである。

日蓮の回想録とも言うべき遺文(御書)「種々御振舞御書」に、日蓮は

「江の島の方より『光り物』が現れ、それまで人の顔も見えないほどの暗闇だったのに、『光り物』の光によって月夜のように明るくなり、人々の顔が見えるくらいに明るくなった。太刀取りの目がくらんで倒れて臥し、兵士たちは恐れおののき、馬の上でうずくまってしまう者もいた」

等と書いている。ただしこれは日蓮が)「種々御振舞御書」にそう言っているだけの話しで、幕府の公式記録・歴史書の「吾妻鏡」等に、こういう記載は全くない。

 

歴史的な事実として確実に言えることは、日蓮は、判決にない不当な処刑で殺されかかったのだが、何らかの事情で命が助かった、ということである。その何らかの事情とは、江戸時代のころから、執権・北条時宗の夫人が懐妊中だったので、祟りを避けるために、「坊主殺し」を中止したのではないか、という説が囁かれている。しかし私はこの説に、いささか懐疑的である。

 

というのは、そもそも日蓮に対して、鎌倉幕府が下した判決は「佐渡流罪」なのであり、死刑ではない。それを平頼綱が深夜に日蓮を龍口で誅殺しようとしたわけで、元々の判決は死刑ではないわけです。であるならば、もし仮に執権・北条時宗が、日蓮が誅殺されかかっている、ということを知ったならば、「日蓮は佐渡流罪にはしたが、殺せとは言っていない」として、処刑は中止させるでしょう。当然です。そうしないと執権の威信が丸つぶれになってしまいまう。1979年に製作・公開された映画「日蓮」では、執権・北条時宗が日蓮の処刑を中止せしめるという場面を入れています。こちらのほうが的を得ている感じがします。

 

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■玉沢・妙法華寺2(註法華経と御義口伝は全く別)

 

「註法華経」が出たので、思い出しましたが、日蓮正宗は、1994(平成6)に出版した「平成新編・日蓮大聖人御書全集」の中で、従来から「御義口伝」(おんぎくでん)と呼ばれる文書に対して、

「就註法華経」なる名前を付けています。

御義口伝1

 

紛らわしいですね。

 

1951年に、日蓮正宗大石寺59世法主・堀日亨が編纂して創価学会が発刊した「御書全集」には、御義口伝に「就註法華経」なる名前は付いていません。この名前を付けたのは、「平成新編・日蓮大聖人御書編纂委員会」。なかんずく時の法主である阿部日顕なのでしょう。

 

しかし、これだと、何も知らない日蓮正宗の信者は、日蓮遷化記録の中に書いてある「註法華経」が、「御義口伝」のことだと錯覚してしまうのではないでしょうか。

というより、日蓮正宗では、最初から信者を錯覚に陥れるつもりで、御義口伝に「就註法華経」なる名前を付けたのではないかと思います。

それしか、考えられないでしょう。

 

当然のことながら、日蓮遷化記録の中に書いてある「註法華経」とは、玉沢・妙法華寺に格蔵されている「註法華経」であって、「御義口伝」なる文書のことではありません。

 

しかも「御義口伝」なる文書は、そもそも日蓮や日興とは全く無関係の後世の偽書です。これについては、下記のトピックで詳細を書いているので、そちらを参照していただければと思います。

「『御義口伝』は日蓮・日興とは全く無関係の後世の偽作である」

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=42735311&comment_count=4&comm_id=406970

 

 

 

 

 

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■身延山久遠寺7(西谷の日蓮草庵跡4)

 

日蓮の説法の折りには、百人を超える参詣者で賑わったという身延山の日蓮の草庵は、1277(建治3)年に一度、修理を加えているものの、常時四十人から百人近い日蓮の門弟たちが修行研鑽する道場としては、あまりにも手狭であっただろう。

この常時四十人から百人近い日蓮の門弟たちが草庵で修行研鑽していたというのは、日蓮正宗大石寺が1981年に発行した「日蓮大聖人正伝」という名前の、日蓮正宗が編纂した日蓮の伝記本に書いてある。

ただ身延山久遠寺の日蓮草庵跡に行ってみて、「常時四十人から百人」という数字は、にわかに信じがたいものがあると私は感じた。

日蓮・身延山草庵跡1


だいたい、こんなに多数の僧侶や信者たちが、身延山中の日蓮草庵にいたならば、日蓮が遺文に記しているように、身延山中で極貧の生活を送るはずがないと思う。

現在の日蓮草庵跡は、おそらく十間四面の大坊跡もふくめてのものだろうから、それ以前の日蓮草庵にこんなに多数の僧侶や信者がいたとは、とても考えにくい話しだ。

 

日蓮は、60歳の1281(弘安4)10月の半ば、新たに大坊の建設工事に着手した。大坊工事開始から落成までのことを、1281(弘安4)1125日に身延山の地頭・波木井実長に宛てた手紙「地引御書」(平成新編御書全集1577ページ・堀日亨編纂・御書全集1375ページ)に書き残している。

それによると1012日・13日に着工して111日には小坊と馬屋が完成し、118日には大坊の「柱だて」を、119日・10日には大坊の屋根の葺き終え、1123日・24日の両日・落成式を行っている。

完成した身延山の大坊は、日蓮が「地引御書」に

「坊は十間四面に、また庇さしてつくりあげ」(平成新編御書全集1577ページ・堀日亨編纂・御書全集1375ページより)

と書いているように、広さが十間四面あり、二重庇(また庇)の造りになっている、以前の草庵よりも、はるかに立派なものだった。

日蓮正宗大石寺が発行した「日蓮大聖人正伝」によると、大坊の工事は

「工事に携わった者は波木井氏一族や藤の兵衛、右馬の入道をはじめ、多くの弟子信徒たちであった。…全員が力を合わせて取り組んだ」(「日蓮大聖人正伝」403ページより)

という様子だったと書かれてある。

日蓮は、この大坊の完成をたいそう喜んでおり、前出の「地引御書」には

「坊は鎌倉にては一千貫にても大事とこそ申し候へ」

-----鎌倉においては一千貫の大金をかけても、このような立派な大坊はできないであろう---

と記しており、さらにこの大坊落成式における参詣者の賑わいを

「二十三日・四日は又、空晴れて寒からず。人の参る事、洛中、かまくらの町の申酉のごとし」

-----1123日と24日の大坊落成式は、空は晴れて、気温も寒くはなかった。身延山にはたんさんの人たちが参詣に訪れ、まるで京都や鎌倉の繁華街のようであった-----

と書いて喜んでいる。

 

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■身延山久遠寺6(西谷の日蓮草庵跡3)

 

現在、身延山久遠寺の山中に残されている日蓮草庵跡は、かなり木々が生い茂った山中にある。富士川のたもとにあるJR身延駅から身延山久遠寺の三門まではかなりの距離があるが、その三門から日蓮草庵跡まで、ちょっと歩かなければならない距離にある。

日蓮・草庵跡1

 

日蓮は書き残した遺文(御書)の各所で、身延山の日蓮のもとに参詣する信者が、たくさんいたことを書き残している。

たとえば日蓮55歳のときの1276(建治2)330日に日蓮が有力信者の一人・富木常忍にあてて書いた「忘持経事」には

「深洞に尋ね入りて一庵室を見るに、法華読誦の音、青天に響き、一乗談義の言、山中に聞こゆ」(平成新編御書全集957ページ・堀日亨編纂・御書全集977ページより)

と述べており、身延山の深い山の中にある、日蓮の草庵では、昼夜にわたって法華経を読誦し、弟子の僧侶たちや身延山に参詣してきた信者に、法華経を講義・説法するという、修行の毎日を過ごしていたことが記載されている。

日蓮58歳のときの1279(弘安2)811日に日蓮が有力信者の一人・曾谷教信にあてて書いた「曾谷殿御返事」には

「今年一百人の人を山中にやしなひて、十二時の法華経をよましめ談義して候ぞ」(平成新編御書全集1386ページ・堀日亨編纂・御書全集1065ページより)

と述べており、身延山の日蓮のもとに弟子入りした僧侶たちや身延山に参詣してきた信者が、なんと百人以上にもふくれあがったと書いているのである。

三間四方の質素な造りであった身延山中の日蓮の草庵に、日蓮が天台大師智顗の命日に営んでいた「大師講」での説法の折りなどに百人を超える人たちが参詣に訪れたとあっては、

「御制止ありて入れられず」 (日蓮56歳の建治36月の遺文(御書)『下山御消息』平成新編御書全集1137ページ・堀日亨編纂・御書全集343ページより)

と日蓮自らが記しているように、説法を聴聞する人たちを規制せざるをえないほどになっていた。

それでも日蓮が

「ものの様をも見候はんがために閑所より忍びて参り、御庵室の後にかくれ」(日蓮56歳の建治36月の遺文(御書)『下山御消息』平成新編御書全集1137ページ・堀日亨編纂・御書全集343ページより)

と書いているように、ひと目でも日蓮の説法の様子を見ようとして、草庵の便所に隠れて日蓮の説法を聴聞したり、あるいは草庵の後に隠れて日蓮の説法を聴聞していた人がいたという。

 

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■身延山久遠寺5(西谷の日蓮草庵跡2)

 

身延山久遠寺において現地調査をしていくと、さまざまなことがわかってくる。

日蓮草庵跡2

 

身延山久遠寺のはじまりは、日蓮が住んだ草庵だが、日蓮が身延山中に自ら結んだ草庵は、驚くほど質素な造りだったということを、日蓮自身が遺文(御書)の中で述べている。

1277(建治3)年冬、日蓮が56歳のときに書いた「庵室修復書」には

「去ぬる文永十一年六月十七日に、この山のなかに、木を打ち切りて、かりそめに庵室をつくりて候ひしが…」(平成新編御書全集1189ページ・堀日亨編纂・御書全集1542ページより)

と書いている。この草庵は、日蓮自身が「かりそめの庵室」と言っている。「かりそめ」(仮初)とは、「ほんの、その時だけの。一時的な」という意味だ。

その草庵は、「夜、火を灯さねども、月の光にて聖教を読みまいらせ」(庵室修復書・平成新編御書全集1189ページ)と日蓮が記しているように、草庵の屋根は天井がないほどの草葺であった。

さらに日蓮59歳の1280(弘安3)127日に書いた遺文(御書)である「秋元御書」には、身延山の草庵について

「ここに庵室を結んで天雨を脱れ、木の皮をはぎて四壁とし…」(平成新編御書全集1453ページ・堀日亨編纂・御書全集1078ページより)

と記していて、身延山に生育している樹木の皮で四方の壁を造ったというくらい、質素なものだった。

草庵の広さについては、日蓮が「庵室修復書」の中で「十二のはしら()」と書いていることから、三間四方であったということは想像できるが、鎌倉時代の一間は、現在の一間と違っているということで、はっきりとした広さは特定できない。

こうしてできあがった草庵に、日蓮は1274(文永11)617日より、十間四面の大坊が完成した1281(弘安4)1124日までの足掛け八年間、住んだ。

現在、身延山久遠寺の山中に残されている日蓮草庵跡は、初期の草庵跡というよりも十間四面の大坊があった跡のように見える。それとも草庵跡に十間四面の大坊を造営したのかもしれないが…。

 

ともかくも日蓮の草庵は簡単な造りであったために、数年もたたないうちに傷みが目立ちはじめ、そして草庵完成より四年後の1277(建治3)年冬にはついに、

「十二の柱、四方に頭をなげ、四方の壁は、一所に倒れぬ」(『庵室修復書』平成新編御書全集1189ページ・堀日亨編纂・御書全集1542ページより)

と、日蓮が嘆くほどのありさまとなり、修復せざるをえないような状況となった。

しかし草庵の修復とはいっても、当時、日蓮といっしょに身延山の草庵に住んでいたと思われる数人の弟子の僧侶による急ごしらえのもので、完成したとは言っても、日蓮が満足できるものではなかった。日蓮は、修復後の草庵について1278(弘安1)1129日に武州池上の池上兄弟にあてた「兵衛志殿御返事」(日蓮57)の中で

「坊は半作にて、風、雪たまらず、敷物はなし」((平成新編御書全集1295ページ・堀日亨編纂・御書全集1098ページより)

と、「坊はまだ半分しかできておらず、風や雪を防ぎきれず、草庵の中には床に敷いてある敷物もなにもない」と言っている。

また日蓮は、1280(弘安3)1216日に、四条金吾に宛てた手紙「四条金吾許御文」では

「処は山中の風はげしく、庵室は籠の目の如し」(平成新編御書全集1523ページ・堀日亨編纂・御書全集1195ページより)

と、草庵の壁は籠の目のように隙間だらけだと言っている。

 

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■身延山久遠寺4(西谷の日蓮草庵跡1)

 

身延山久遠寺の山門をくぐらず、麓の山道を歩いていくと、「西谷」と言われている山林の中に、鎌倉時代の昔、日蓮が住んだ草庵跡が残っている。

身延山久遠寺5・草庵跡


まさにここが、日蓮が起居していた草庵の跡であり、久遠寺発祥の地である

日蓮は足かけ9年にわたり、ここに自らがむすんだ草庵にて法華経の読誦と門弟の教育に終始したと言われている。

私がここの草庵跡を見た印象としては、そんなに広くもなく、さりとて狭くもなく、といった感じか。

ここには外側に囲いがしてあるが、この囲いいっぱいに、日蓮の草庵が建っていたとは思えない。

この日蓮草庵跡には、身延町教育委員会の立て看板が建てられています。

日蓮・草庵跡5


身延町教育委員会の見解では、この草庵跡は、18.18メートル四方となっています。

おそらくは、1281(弘安4)年に建てられた十間四面の堂宇も含めての広さなのではないか。

ただ、ここで日蓮が、多くの門弟たちを育成していたというが、日蓮を筆頭にたくさんの門弟が起居し、修行するには、ちょっと狭くはないかな、と思う。

草庵のたたずまいも、日蓮一門の当時の極貧状態の生活から推するに、かなり質素なものだったであろう。

 

又、ここには身延町教育委員会の看板よりも古い時代に建てられた石碑も建てられています。

日蓮・草庵跡4


当然のことながら、ここが日蓮の草庵跡として、学術的にも証明されているということである。

 

草庵跡全体は、石でできた囲いで囲まれているので、相当古い時代から、ここが「草庵跡」として保管されてきたことがうかがい知れます。

日蓮・草庵跡3

 

この草庵跡では、毎年617日午前11時から、身延山久遠寺法主大導師のもと、山内支院僧侶出仕のもと、身延山開闢会法要が営まれ、式中、日蓮遺文(御書)「身延山御書」が奉読される。

さらにこれに先んじて午前9時より、日蓮の身延入山を記念した身延山開闢の御入山行列が、総門から三門までの約1.5キロの門前町を練り歩くお祭りが行われる。

 

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■身延山久遠寺1(日蓮が9ヶ年の生活を送った祖山)

 

身延山久遠寺とは、山梨県身延町にある、あの日蓮宗総本山の大寺院である。

ここは、文永11年(1274年)、甲斐国波木井(はきい)郷の地頭・南部六郎実長(波木井実長)が佐渡での流刑を終えて鎌倉に戻った日蓮を招き、今の西谷の地に草庵を構えたのが、久遠寺の発祥とされている。

身延山久遠寺2


文永11年(1274年)512日、日蓮は鎌倉を出発。517日に身延山に到着。

その1ヶ月後の617日、波木井実長の寄進によって三間四面の草庵が完成。日蓮宗では、この日を以て身延山の開創・開闢の日としている。

弘安4(1281)11月には、十間四面の大坊が造営されて、日蓮自ら「身延山妙法華院久遠寺」と名付けたと伝承されている。

これから、文永11年(1274年)517日が身延山開闢。

弘安4(1281)1124日に、大坊落慶・身延山久遠寺の寺号公称としている。開基檀那は、南部六郎実長(波木井実長)である。

日蓮入滅後、「いづくにて死に候とも墓をばみのぶ澤にせさせ候べく候」(波木井殿御報)との日蓮の遺命により、日蓮の遺骨は身延山に葬られ、正墓が建てられた。

その後、六老僧を中心にして守塔輪番制が定められたが、次第にこの制度を維持することが困難になり、日興をはじめとする老僧の身延離山等もあり、六老僧の一人、民部阿闍梨日向が身延山久遠寺第二祖になった。

 

さらに身延山久遠寺第11世日朝の代の文明7(1475)、西谷にあった諸堂伽藍を、現在地に移転。

戦国時代には甲斐国の大名・武田氏や河内領主の穴山氏の庇護を受け、門前町が形成された。

江戸時代には日蓮宗が徳川氏はじめ諸大名の帰依を受け発展し、宗門中興三師と賞される日重・日乾・日遠のころ、身池対論を経て対立する不受不施派を排斥して地位を確立。

その後、日脱・日省・日亨の三師で壮大な伽藍を整えて身延山は全盛期を迎える。子院・塔中の開創数は153ヶ坊を数えている。

明治8年(1875年)1月に西谷本種坊からの出火で伽藍全部を焼き尽くすほどの大火にみまわれたが、74世日鑑の尽力とその後の法主の復興により現在に至っている。

 

私が取材・調査してみたかったところは、日蓮の草庵跡、日蓮の祖廟、本堂・祖師堂などの伽藍と本堂に祭られている本尊、本堂地下にある宝物館、身延山山頂の日蓮が父母を偲んで建立したと言われる奥之院思親閣、そして冬の身延山久遠寺…といったところでしょうか。

日蓮正宗大石寺の「戒壇の大本尊」偽作問題に関連しては、草庵跡をぜひとも調査してみたかったのと、もうひとつのポイントとして、冬の身延山はどういうものなのか、ということを調査して見たいと考えていた。これは冬の身延山久遠寺というのは、日蓮が遺文・消息文で、身延山での過酷な生活を記しているからだ。

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