■京都知恩院1(浄土宗元祖・法然が開山)

 

□歴史上はじめて庶民に仏教を流布した浄土宗元祖・法然が開山した浄土宗総本山知恩院

 

知恩院とは、正式には華頂山知恩教院大谷寺(かちょうざん・ちおんきょういん・おおたにでら)というが、一般では「知恩院」という通称名で呼ばれている。三門にも「総本山知恩院」と書かれている。総本山と書かれているのは、浄土宗総本山という意味である。

いかなる者も一心に阿弥陀如来の名を唱えれば極楽浄土に往生できるという「専修念仏」(せんじゅねんぶつ)の教えを説き、浄土宗を開いたのが法然である。その浄土宗開祖・法然が布教の拠点とした草庵を起源とするのが、この浄土宗総本山知恩院である。

法然は平安時代末期、1133(長承2)47日、美作国(みまさかのくに・今の岡山県)久米南条稲岡庄の押領使・漆間時国の長子として生まれた。幼名は勢至丸。勢至丸が9才の時、漆間時国の館が夜襲され、不意打ちに倒れた時国は、枕辺で勢至丸に遺言を遺す。

「恨みをはらすのに恨みをもってするならば、人の世に恨みのなくなるときはない。恨みを超えた広い心を持って、すべての人が救われる仏の道を求めよ」

ところで、この漆間時国の遺言を読んで、かつて中華民国(台湾)・蒋介石総統が戦後、「以徳報怨」(徳を以って怨みを報ず)と言い、日本兵の復員に最大限の便を図ったり、日本への戦後賠償を放棄したことを思い出しました。蒋介石総統の言葉は、漆間時国の遺言とは関係ないのだろうが、この漆間時国の遺言は、だれかに聞かせてあげたいくらいの名言ではなかろうか。恨みつらみでテロや戦争を繰り返す人たち、過去の歴史がどうのこうのとアラ探しばかりする某国の人たち。日本の琵琶湖畔にも恨みつらみから抜け出せない人もいますね。

さて勢至丸はこの父の遺言に従い、菩提寺で修学した後、15才で比叡山に登って剃髪授戒。はじめは円明房善弘と名乗るが、1150(久安6)年、18才のとき、比叡山延暦寺西塔黒谷の慈眼房叡空の弟子となり、法然房源空となる。島田裕巳氏監修の「はっきりわかる日本の仏教宗派」(成美堂出版)によれば、法然の黒谷での約二十年の修行の中で、二つの転機があったとする。

ひとつは源信の著書「往生要集」との出会い。「往生要集」には、厳しい修行に耐えられない者は念仏を唱えるべきと記されていた。ふたつめは中国浄土教の僧・善導の著書「観経疏」との出会い。「観経疏」には「一心に口で念仏を唱えれば往生が叶う」と記されていた。善導の言葉を知った法然は、衆生が救いを得るためには、誰もが出来る称名念仏のほかにないとの答えを得る。(「はっきりわかる日本の仏教宗派」p63)

法然は1175(承安5)年、比叡山を下り、西山広谷を経て吉水の禅房、現在の知恩院御影堂の近くに移り住み、浄土宗を開宗。法然43才の時である。1186(文治2)年、大原談議において旧仏教高僧の前で法然の教説が披露されると、その教えは瞬く間に人々の信仰を集め、法然の教団は急速に拡大した。1190(文治6)年、法然は東大寺にて「浄土三部経」の講説を行う。1198(建久9)年、法然は「選択本願念仏集」を著す。

 

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