一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ

「一般社団法人 仏教宗学研究会」とは任意団体として2005年から活動している会の名称。2018年5月に一般社団法人登記。当ブログ名を「仏教宗学研究会のブログ」から「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」に改名。 「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

Category: 興門(大)西山本門寺

■富士山本門寺(西山本門寺)22(妙円坊入寺式・日産上人本葬)

 

531日、西山本門寺塔頭・妙円坊にて、先代住職・岡田日産上人のご本葬・ならびにご子息の新住職入寺式が、西龍華・日蓮宗本山・立本寺97世・上田日瑞貫首猊下を来賓に迎えて行われた。

西山本門寺48妙円坊


この「仏教宗学研究会」ブログは、西山本門寺の公式ウエブサイトでもなんでもなく、全くの無関係のサイトです。よってここの記事は、仏教宗学研究会の視点で書いていることを念のため記しておきます。

 

以前に西山本門寺訪問記を書いたときに、「ミスター般若の面」こと浄円坊住職・山口亮祐氏が西山本門寺「貫首代務者」と名乗ったという記事を書きましたが、その山口亮祐氏、今度は西山本門寺「執事長」の肩書きで登場して、本葬で嘆徳文を読んだとのこと。読むのは結構ですが、「求道心」を「ぐどうしん」と読むべき所を「きゅうどうしん」と、あたかも浅学丸出しの創価学会員同様の読み方をして、列席者の人たちから顰蹙を買っていた、という情報が入っています。

さらに本葬の式次第には、「執事長」と書くべきところが「筆事長」と書いてあった、ということで、完全にこの人は、人格を疑われています。

般若の面2

 

(浄円坊住職・山口亮祐氏のそっくりさん・般若の面)



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■富士山本門寺(西山本門寺)21(51世・村田日敬貫首が遷化)

 

先日から西山本門寺・訪問記の日記を書いていましたが、ここで西山本門寺に関する大きなニュースが入りました。

複数の方から、メールにてお知らせいただきました。ありがとうございました。

西山本門寺28客殿

 

先月の末、227日に、西山本門寺51世・村田日敬貫首が行年96才にて遷化(死去)されたということです。私が西山本門寺に行ったときは、西山本門寺をすでに退去して、光栄寺に下り、老人ホームに入居しているとのことでした。

最晩年は、病院に入院して、そこで死去されたとのこと。

 

行年96才ということは、1916年か、1915年生まれということでしょうか。

先代の50世森本日正貫首が遷化したのが1995(平成7)9月ですから、村田日敬貫首が、森本日正貫首の後を承継したとき、すでに79才か、80才だったということになります。

一般的に、「僧侶は長生きする人が多い」と言われていますが、79才か、80才で貫首に晋山しても、法務執行はほとんど不可能でしょう。

日本全国各地の本山というわる寺院には、80才台、90才台まで貫首職を務めた僧侶は、たくさんいることはいます。決して、珍しいことではありません。

富士門流八本山の歴代法主、歴代貫首の顔ぶれを見ても、80才台、90才台の貫首は、見られますねえ。北山本門寺では47代・片山日幹貫首が99才。48代・本間日諄貫首が93才。小泉久遠寺でも62代・瀬戸日運貫首が90才でしたし、保田妙本寺の51代・鎌倉日桜貫首は101才の遷化まで貫首であった。

 

ただし、結果論から言うと、ここまで西山本門寺が荒廃・衰退してしまったのは、高齢貫首に原因のひとつがあったのではないでしょうか。西山本門寺の場合は、1960年代から70年代にかけての、日蓮正宗との紛争問題も大きかったとは思いますが。

 

次期貫首は、福正寺の森本日重氏が晋山する予定とのこと。この人も、かなりの高齢の人なのではないでしょうか。

そういうことを考えると、西山本門寺も、あのまんま、行くことになるのでしょうか。

 


 

 

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■富士山本門寺(西山本門寺)20(これでいいのか西山)

 

西山本門寺訪問の最後の最後になって、「般若の面」の形相の、とんでもない貫首代務者に遭遇してしまったわけでしたが、しかし、訪問したことで、西山本門寺の実態がようやく明らかになりました。

そこで、西山本門寺の現状をまとめてみたいと思います。

 

    西山本門寺51代貫首・村田日敬氏は、かなりの高齢の僧で、西山本門寺には住んでおらず、出身寺の伊豆・光栄寺に下っていて、すでに老人ホームに入居している。

    客殿・庫裡には、普段は誰もおらず、無住状態で、全て内側からカギがかけられている。

    本山・西山本門寺は実質的に無住で、塔頭・浄円坊住職が貫首代務者として、行事を取り仕切り、電話・郵便等も全て浄円坊に転送される。

    本山・西山本門寺の修行僧は一人もおらず、檀家も一軒もない

    西山本門寺の什宝類・重要文化財等は、ここにはなく、富士宮市の博物館に収蔵されていて、お風入れ法要の時のみ、西山本門寺に帰ってくる。

    西山本門寺境内の清掃は、セコム等の警備会社が行っている。

    西山本門寺の年中行事として行っているのは、418日のお風入れ(霊宝虫払い)法要と、1123日の御会式だけ。しかし御会式も、客殿にて浄円坊住職が読経するのみ。

    1115?の織田信長・首塚の祭りのときは、近隣からたくさんの人が来て、賑わっている。

    塔頭は浄円坊、大詮坊、妙円坊の三坊あるが、住職がいるのは浄円坊、大詮坊のみで、妙円坊は、いるのかいないのか、よくわからない状態。

 

こういう状態では、実質的に、西山本門寺は死に絶えているといっても過言ではないと思います。

いずれ、今の塔頭坊住職も死に絶えるときが来ると思いますが、修行僧もいない状態では、この先、どうするのでしょうね。

 

西山本門寺は、国の重要文化財に指定されている古文書等も多数有り、こんな状態では、重要文化財の保管も心配になってしまう状態です。

「富士宮市の博物館に入っているのだから、それでいいのだ」という問題ではないと思います。

西山本門寺34遷化記録

 

私も、ネットでいろいろ調べていたら、「日蓮宗に合同するしかないのでは」という意見も見られました。

西山本門寺も旧・本門宗から日蓮宗に合同して、西山本門寺の旧末寺の中にも、今でも日蓮宗に残留している寺院が数ヶ寺あります。富士門流でも、北山本門寺、小泉久遠寺、伊豆実成寺は、今も日蓮宗です。

日蓮宗の他門流の僧が北山本門寺貫首に晋山した例がありますし、今の北山本門寺・旭日重貫首は、以前、小泉久遠寺の貫首でした。

西山本門寺も、ここまで荒廃してしまったら、日蓮宗内の人的交流で打開するしかないのかもしれませんねえ。

西山本門寺が、本当にそうするのかどうかは別としても、しかし今の状態は、「これでいいのか、西山本門寺よ」と言いたくなるような状態であることは、事実です。

 

西山本門寺15客殿裏
 

 

 

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■富士山本門寺(西山本門寺)19(什宝は富士宮市博物館)

 

さて「般若の面」状態の西山本門寺貫首代務者・浄円坊住職・山口亮祐氏に、私が強く抗議すると、山口亮祐氏は、斜め前に、うつむき加減になり、目がうつろ状態になって、こんなことを言い始めました。

般若の面2

 

(浄円坊住職・山口亮祐氏のそっくりさん・般若の面)


山口氏「ここは、特に参詣の人が来ても、案内もいていないけど。もっとも、だれか僧侶の紹介で来たというのなら、別だけどな。まあでも、この寺、特に見るべきものは何にもないけどな」

 

西山本門寺の貫首代務者自ら、この寺には見るべきものは何もないという、何とも投げやりな返事。しかも口先では「僧侶の紹介云々」ということを言いますが、それだったら、誰の紹介で来ても、意味ないじゃないかということになりますねえ。

 

それと非常識な態度への私の抗議がこたえたのか、こんな言い訳を言い始めました。

 

山口氏「ここはねえ。昔、創価学会の者がわんさか押しかけてきて、裁判にまでなったんだよ。だから警戒しているんだ。普通の寺とは違う、特殊な寺なんだ」

 

そんなことは百も承知してますよ。しかし、だからと言って、山口氏の非常識な態度が許されるというものではないでしょう。

だいたい「警戒しているから」と言って、こんな非常識な態度をとり、西山本門寺をここまで寂れさせ、荒廃させているんでは、日蓮正宗や創価学会の完全な術中にはまっっているということに他ならないではありませんか。西山本門寺の僧侶の責任はまことに重いと言わざるを得ないでしょう。

さて、「行事はやっていないのですか」と質問してみたら、こんな答えが返ってきました。

 

山口氏「行事は、毎年418日にお風入れをやっている。このお風入れだけは一般公開でやっているが、他にはないねえ」

 

あれれ、それでは御会式はやっていないのですか。

 

山口氏「御会式は1123日にやっているが、坊で行事をした後、あっちの客殿で、オレが読経して、それでおしまいだよ」

 

「ここは貫首さんも修行僧もいないのですか」

 

山口氏「貫首はもうかなりの高齢で、光栄寺という寺に帰っていて、今は老人ホームに入っている。ここは、本山(西山本門寺)の檀家というのは、いないんだ。だから、普段は、客殿も庫裡も全部カギをかけて閉め切っているんだ。本山(西山本門寺)あての郵便物や電話も全部、ここ(浄円坊)へ転送されるんだ。本山の行事も、オレが仕切っているんだから。

境内の清掃は、清掃婦と、あとはセコムとか、警備会社が一切をやることになっているし、什宝は全部、富士宮市の博物館に収めてある」

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■富士山本門寺(西山本門寺)18(般若の面のような形相)

 

さて、私が浄円坊・庫裡のインターホンを鳴らしたと同時に、玄関口に現れた西山本門寺貫首代務者・浄円坊住職の山口亮祐氏。

ところがこの山口亮祐氏の態度たるや、「誰だ、オマエは」とばかりの、ものすごい剣幕。あたかも、人殺しかドロボウを、今にも捕まえようとするような態度に、私も、一瞬、面食らってしまいました。

 

この人、僧侶だから、日々読経で喉と声を鍛えているだけあって、「誰だ、オマエは」とばかりの剣幕も、なかなか迫力がありました。腹式呼吸で声を出しているとあって、なかなかドスが効いているわけです。

「この人は、元ヤクザの人なのかなあ」と、本気で思ってしまいました。

 

しかも、私をにらみつける表情たるや、ものすごい形相で、あたかも、能役者がかぶっている「般若の面」そっくりなのです。「般若の面」とはどういうものなのか、ご存じない方もいらっしゃるかもしれませんので、読者の方の便宜のため、「般若の面」の写真をUPしておきました。

般若の面2

般若の面1

 

この「般若の面」の形相で、声にドスを効かせ、頭ごなしの高飛車な態度で、「オマエは何者だ」との態度。しかし、寺院を訪ねてきた人に対して、会っていきなり、この態度はあまりにも、非常識すぎるものがあります。

私は、西山本門寺を訪ねてきただけのことであって、それ以外の何物でもないわけです。

私も、この住職の態度に黙っていたら、この住職の態度を容認したかのように解釈されてしまうのは心外であるため、ここは強く抗議しました。

 

「あなたのその態度は、一体、何ですかね。いかにも『何者だ』と言わんばかりですが、この寺に参詣に来た者ですよ。これが何か、いけないことですか。

さっき、客殿前にいた掃除の女性に話を聞いたところ、こちらの坊で話を聞かれたらいかがですか、と言われて、こちらに伺ったまでですよ」

 

こう言うと、般若の面のような形相だった住職は、急に玄関前の庭を、あっちに行ったり、こっちに行ったりしはじめ、急に下を向いて、うつむき加減になった。

 

「あなたは、ここの御住職さんですか」

 

山口氏「そう。私がこの坊の住職ですが」

 

それでもまだ、表情が、「般若の面」状態になっている住職。

 

「あそこの客殿前で掃除をしていた女性が、私に言うには、『何か聞きたいことがあったら、こちらの坊の住職に聞いたほうがいいです』というお話だったから、こちらに来たんじゃないですか」

 

私がこう言うと、「般若の面」状態の住職は、斜め前に、うつむき加減になり、目がうつろ状態になったわけです。

 

 

 

 

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■富士山本門寺(西山本門寺)17(ハプニング的に実現)

 

さて、客殿・庫裡の裏手にある「信長の首塚」の見学を終えて、再び、客殿前に戻ってくると、先程の掃除の中年女性がいて、こんなことを言ってきました。

 

「いろいろとここのお寺のことをお聞きになりたいのでしたら、一番手前の坊(浄円坊)の住職(山口亮祐氏)に、伺ったらいいですよ。山口さんという方です。今は、ここには貫首さんもいらっしゃいませんし、あそこの坊の住職にお話を聞くのがいいです。あそこの坊が、ここのお寺の行事を取り仕切っているんですから」

 

私はこれを、てっきりこの掃除の女性が、浄円坊の住職に話しを取り次いでいて、私が聞きに行ってもいい、という意味に解釈したわけです。

「この閉鎖的な寺院が、ずいぶん手回しのいいことをするんだな」

などと、自分で勝手に都合良く、こんな解釈をしてしまい、「それなら」と思って、客殿前から浄円坊にむかって、すたすたと歩いて行きました。

西山本門寺40浄円坊

 

西山本門寺の境内は、ほとんど廃虚に近い状態になっており、参道脇にはは廃坊跡がいくつもあったり、貫首無住の庫裡が、幽霊屋敷と化していたり、どこを見渡しても、寂れた光景だけが目に入るのですが、ところが塔頭の浄円坊と大詮坊だけは、表門、本堂、庫裡を普通に構えています。

塔頭はもうひとつ妙円坊という坊があり、ここも住職がいるようです。


西山本門寺41浄円坊

 

浄円坊、大詮坊の本堂、庫裡は、そんなに古い建物というわけではなく、ここ1020年の間に、建て直したもののように見えました。

私は、浄円坊の表門をくぐって、本堂前から庫裡に行き、庫裡のインターホンを押すと、ほぼ同時に庫裡の裏手から「どなたですか」と一声。

私がインターホンを押したと同時に、住職が現れたわけです。同時というのは、どういうことですか。

あたかも、私が浄円坊に来るのを待ち構えていたか、あるいは私が浄円坊に来るのを、何かで見ていて、監視?でもしていたのか。

「はー、やっぱりさっきの掃除の女性が、この住職に何か話しを通していたのかな」と思った私。

まあ、こんなハプニング的に、西山本門寺貫首代務者・浄円坊住職の山口亮祐氏との会見が実現したというわけでした。

しかし、この西山本門寺貫首代務者なる人物、とんでもない態度で接して来たのには、私もいささか面食らいました。

 

 

 

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■「富士山本門寺(西山本門寺)16(なぜ信長首塚を築いたのか)

 

□なぜ西山本門寺は「信長の首塚」を築いたのか

 

西山本門寺20信長首塚



では、なぜ西山本門寺は「信長の首塚」を築いたのか、ということになります。

これについて、織田信長と本能寺、法華宗との信仰上の繋がり、ないしは本能寺と西山本門寺の交流によるもの等の説・ご意見をご指摘いただきましたが、私はこの説を採りません。

 

なぜなら、先に述べたように、織田信長の廟・首塚・供養塔と称するものは、日本全国に十ヶ所以上あるわけですが、それらは本能寺や法華宗関連の寺のみならず、浄土宗、真言宗、臨済宗、曹洞宗の寺院から神道の神社まで、多岐にわたっています。

したがって、西山本門寺に「信長の首塚」が築かれた動機・目的を、織田信長と本能寺、法華宗との信仰上の繋がり、ないしは本能寺と西山本門寺の交流によるものとする説には、どう考えても無理があります。

 

そうではなく、江戸時代は、徳川幕府公認の宗派にならなくては、生きていけない時代であったが故、西山本門寺が徳川幕府公認の寺になるために、幕府に対してのアピールポイントのひとつとして、西山本門寺が「信長の首塚」を築いたのではないかというのが、私の説です。

この説は、私が今はじめて唱えるのではなく、すでに「日蓮正宗大石寺の『本門戒壇の大御本尊』なる板本尊は日蓮正宗大石寺九世法主・日有の偽作だ」PART2の検証142144において、書いています。

「日蓮正宗大石寺の『本門戒壇の大御本尊』なる板本尊は日蓮正宗大石寺9世法主日有の偽作だ」PART2(検証81150)

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=42909387&comm_id=406970

 

日有偽作論で私が書いたのは、「なぜ大石寺17世日精は御影堂に戒壇大本尊を祀って「本門戒壇堂」棟札を掲げたのか」ということの検証で書いたものですが、徳川時代に、仏教各宗の寺、特に総本山・本山の寺は、徳川幕府公認になるために、さまざまなことを行っています。

そのひとつが、織田信長の首塚ないしは供養塔を築くということです。

 

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■「富士山本門寺(西山本門寺)15(信長の首塚の真偽)

 

西山本門寺にある「信長の首塚」の記事を書いたところ、多数のご意見を頂戴しましたので、個別ではなく、一括し、まとめて見解を書きたいと思います。

 

□「信長の首塚」の真偽について

西山本門寺20信長首塚


 

首塚とは、合戦などにおいて討ち取られた者の首、捕虜に取られた者の首、あるいは斬首刑にされた罪人の首を供養するための「塚」の事。

塚とは、その周囲の地面より、こんもりと丸く盛り上がった場所を指し、具体的には何かが集積、堆積した盛り上がりや、小さな山や丘や古墳。または、それらの場所やに、建立された石造や木造などの祠や塔や碑などのこと。

西山本門寺にある「信長の首塚」が、本当に「本能寺の変」で戦死した織田信長の首を葬った塚であるという意味ならば、私は「否」であると思います。

インターネット・フリー百科事典・Wikipediaは、西山本門寺の「信長の首塚」について

「本因坊算砂の指示で信長の首を本門寺まで持ち帰り柊を植え首塚に葬ったという」

と書いており、織田信長の首を葬った塚であるという意味での伝承であると書いています。

「富士宮市教育委員会の案内板がないことから、これは、「信長の首塚」として認められていない」

「インターネット・フリー百科事典・Wikipediaの記事も、「伝織田信長の首塚」としており、「伝」の一文字がついていることに注目すべき」

と私が書いているのは、「織田信長の首を葬った塚とは考えられない」という意味です。

 

しかし、そうではなく、織田信長の首を供養するために造られた「塚」という意味ならば、それは「供養塔」に近い意味ですから、それだったら、江戸時代初期ぐらいに建てられたということはあり得ると言っているわけです。

供養塔だったら、それこそ全国各地にあるわけですから、あえて偽作とか贋作という必要はないと思っています。

 

次に、西山本門寺の「信長の首塚」は、織田信長の首を葬った塚ではないとする根拠ですが、私はインターネット・フリー百科事典・Wikipediaの記事を証拠にしているわけではなく、「本能寺の変」で戦死した織田信長の首を持ち帰るということは、現実的に不可能だということです。

 

「本能寺の変」というのは、京都・本能寺を舞台にした深夜の明智光秀軍による襲撃戦であり、そういう中、たとえ本能寺の僧侶であっても、織田信長の首を持ち帰るということはできません。

そういうことをすれば、明智光秀が引き渡しを要求するのは確実であるし、これを拒めば誅殺されてしまいます。

だから、常識的に、あり得ないと言うことで、インターネット・フリー百科事典・Wikipediaの記事も富士宮市教育委員会の案内板がないというのも、それを証する傍証ではないかと言っているわけです。

富士宮市教育委員会に、専属の学者がいないというのは、そのとおりだと思いますが、学者がいなくとも、西山本門寺の信長首塚を認めるなどということは、常識的にありえないと考えられます。

 

西山本門寺と京都・本能寺になんらかの交流があり、織田信長と法華宗・本能寺が信仰的な繋がりがあったとしても、本能寺関係者か、誰かの指示で、織田信長の首を本能寺から持ち出して、西山本門寺まで持ち帰り、首塚に葬ると言うことは、あり得ないと言うことです。

 

100歩譲って、仮に本能寺の僧侶か関係者が織田信長の首を、焼けただれた本能寺から発見して保管していたとしても、それを西山本門寺ではなく、本能寺か、安土城か、あるいは京都のいずこかに葬ると考えるのが定石ではないでしょうか。

 


 

 

 

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客殿前で掃除をしていた女性の話しを聞いた後、私は、庫裡・客殿の裏側にある「信長の首塚」のあるところに行ってみることにしました。

「なんで西山本門寺に、信長の首塚があるのか」という疑問があり、「教育委員会が建てた、何らかの案内板でもあるのかな」と思いつつ、その首塚に向かって歩いて行きました。

庫裡の前には、「庫裡の裏手に、信長の首塚がある」という西山本門寺の案内板がありました。

西山本門寺25首塚案内


インターネット・フリー百科事典・Wikipediaでも、「その他、各地に供養塔・伝承を持つ旧跡」のひとつとして、「伝織田信長の首塚」として、西山本門寺の信長の首塚を紹介していることから、本当に信長の首塚なのかどうかという点については、疑わしいものではないかと思われます。

「織田信長」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7#.E5.A2.93.E6.89.80.E3.83.BB.E9.9C.8A.E5.BB.9F.E3.83.BB.E5.AF.BA.E7.A4.BE

 

インターネット・フリー百科事典・Wikipediaの記事に依れば、織田信長の廟・供養塔と称する建物は、京都・本能寺をはじめ全国に十ヶ所以上あり、その中では、京都市上京区寺町の蓮台山阿弥陀寺の「織田信長公本廟」が、豊臣秀吉から遺骨の差し出しを求められていることから、信憑性が高いとしています。

 

さて庫裡・客殿の裏手にまわってみると、大きな柊の木があり、これは静岡県の天然記念物に指定されている旨の、富士宮市教育委員会の案内板が建てられていました。

その柊の木のすぐそばに、「信長の首塚」と称する建物がありますが、これについては、富士宮市教育委員会の案内板はありません。西山本門寺が建てた首塚の由来を書いた案内板があるだけでした。


西山本門寺20信長首塚

 

西山本門寺の境内には、富士宮市教育委員会の案内板がいくつも建てられていることから、ここに富士宮市教育委員会の調査が入っていることは明らかで、国が文化財と認定した古文書については富士宮市教育委員会の案内板が建てられています。

 

しかし、「信長の首塚」と伝承される建物には、富士宮市教育委員会の案内板がないことから、これは、「信長の首塚」として認められていないということに他ならない。

インターネット・フリー百科事典・Wikipediaの記事も、「伝織田信長の首塚」としており、「伝」の一文字がついていることに注目すべきです。


西山本門寺23首塚由来

 

歴史的な経緯からしても、そもそも西山本門寺に信長の首塚かあること、本能寺の変の最中に、信長の首を持ち出した、などとする伝承そのものに疑義があります。

 

さて、この「信長の首塚」と伝承される建物は、庫裡・客殿の裏側にあるのですが、こちらから庫裡を見ても、固く窓は閉じられ、内側からカーテンが閉まったまま。

誰も住んでいない、完全な幽霊屋敷と化している感じが見て取れました。

 

 

 

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西山本門寺12客殿


西山本門寺の境内を散策していると、一人の中年女性が、境内の掃き掃除をしているのを見つけました。「これはちょうどいい、あの人に聞いてみよう」

と思い、その中年女性にいろいろ聞いてみることにしました。

この掃除をしていた中年女性は、私からの質問に、割と快く応じてくれました。

 

「ここのお寺の年中行事は、どういうふうになっているのですか」

女性「年中行事ですかあ??そうですねえ。毎年418日にお風入れがあるのと、1123日に御会式があるのと。あとは大晦日に、鐘楼で除夜の鐘を鳴らしますねえ。あと、信長の首塚がありますから、それにちなんだイベントがあって、そのときは、たくさんの人がお寺に来ます」

 

「それだけですか。毎月の定例の行事はないのですか。例えば御講とか」

女性「そういうのは、ないですねえ」

 

「ここは本山のお寺と聞いているんですが、僧侶の姿がぜんぜん見えないんですが、どこにいらっしゃるのですか」

女性「そうですねえ。ここね昔は、ずいぶんと繁栄した、大きなお寺だったようですけども。でも今はねえ-。今の若い人たちは、昔と違って、お葬式にしても、法事にしても、生活スタイルが違ってきていますでしょう。昔からの風習とか、習慣とかを大事にしようという人は、いなくなってきてますでしょう。そういうことが大きいんじゃないかと思いますけどねえ。」

 

「そうは言っても、こちらは歴史ある本山のお寺でしょう。それなのに、客殿はカギがかかっていて中に入れないし、あそこの庫裡も人が住んでいる様子が見えないし、どうなってるの、と思ったのですが」

女性「ここの貫首さんは、もう高齢の方で、ここには住んでいらっしゃらないんです。下の塔頭には住職さんがいますが、修行僧という方は、いないと思いますけどねえ」

 

「えっ、貫首はここに住んでいないのですか」

女性「そうです。貫首さんは、ここではなく、伊豆の光栄寺というお寺にいます。ここには、住んでいないんです。お風入れの時も、いらっしゃいませんねえ。副住職さん(光栄寺副住職・村田彰俊氏のことか?)は、お見えになりますが」

 

「本山のお寺なのに、貫首が住んでいないお寺というのは、他に聞いたことがないですねえ」

女性「ここに住んでいてもダメなんですよ。だって、西山本門寺さんの檀家はいないんですから。下の塔頭には、住職さんがいらっしゃって、檀家さんもいますけども、本山の檀家はいないんです。だから、ここに住んでいてもダメなのですよ。だって、人間として最低限、食べていかなくちゃいけませんから」

 

「本山の檀家さんがいないのですか」

女性「本山の西山本門寺の檀家がいないんです。下の塔頭には、檀家さんはいますよ。

そこの、一番手前の浄円坊の住職の山口さんという方が、ここのお寺の法要を取り仕切っていますから、そちらでお聞きになったらいかがですか」

西山本門寺40浄円坊

 

私が驚いたのは、西山本門寺の貫首は、ここに住んでいないこと。所化僧や修行僧も全くいないこと。さらに西山本門寺の、本山の檀家がいないことです。三つある塔頭坊の檀家はいるということですが。

本山の檀家がいないというのは、由比日光貫首の代にあった、日蓮正宗合同問題にまつわる内紛が原因なのか、そのあたりのところは、定かではありませんが、貫首不在で、しかも檀家も一軒もない本山なんて、聞かないですねえ。

 

 

 

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西山本門寺は、庫裡と客殿が並んでいて、渡り廊下で繋がっている様子でした。

西山本門寺26庫裡


しかし、庫裡とは言っても、受付もなければ書院もない。年中行事の案内もなければ、僧侶がいる気配が全くない。

西山本門寺の庫裡といったら、本山貫首の住居であるはずなのだが、外から見ると、そのへんの一軒家というか、民家と変わらないように見えます。

しかも、窓や戸は全て閉められ、ガラス戸も内側から全てカーテンが閉められていて、人が住んでいる気配が全くない。言葉は悪いが、まるで幽霊屋敷のようです。

 

庫裡の表札は、「村田政明 近藤恵正」となっていました。


西山本門寺14表札庫裡


村田政明とは、西山本門寺51代貫首・村田恵妙坊日敬氏のことだから、貫首が住む住居であることは間違いありません。

しかしまがりなりにも本山を名乗る寺院であるのに、庫裡はカーテンが閉まったままの幽霊屋敷同然。それどころか、山内に僧侶がいる気配が全く感じられないわけです。

貫首については、このあとわかったのですが、西山本門寺には住んでいないということでした。

 

塔頭の大詮坊と妙円坊には、門前に案内板のようなものはありましたが、年中行事の案内はなし。

しかし塔頭から客殿のまわりは、たんねんな清掃は行き届いている様子です。

そうして境内を散策していると、一人の中年女性が、境内の掃き掃除をしているのを見つけました。「これはちょうどいい、あの人に聞いてみよう」

と思い、その中年女性にいろいろ聞いてみることにしました。

 

まあ何度来ても、西山本門寺の僧侶に話を聞く機会には恵まれないし、それどころか人の気配すらないというのでは、話にならない。

仮に、僧侶に話を聞けたとしても、これだけ閉鎖的体質では、あまり期待できないな、と思った私は、むしろこの人から、いろんな話しが聞けるのではないかと期待を持ちました。

他の寺院を訪問したときも、僧侶には会えなかったが、信者に会えて、話を聞けたというケースもいくつかありました。

 

この掃除をしていた中年女性は、私からの質問に、割と快く応じてくれました。

(具体的な内容については、次回)

 

 

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西山本門寺という寺は、古くからの古文書、漫荼羅本尊が多数格蔵されており、平たく言うと、文化財の宝庫のようになっています。

客殿前に建っている「西山本門寺略縁起」と書かれた案内板の記述によれば

日蓮真筆本尊、日蓮生母頭髪、日蓮所持の念珠、日蓮消息文・和漢王代記、一代五時鶏図、高橋殿御返事、浄土九品釣物、法華証明抄、日興真筆本尊14幅、日興筆・日蓮遷化記録、日興所持念珠、日代真筆本尊8幅、歴代貫首筆本尊百数十幅、紺紙金泥法華経十巻、常子内親王筆・紙墨法華経八巻、等々が格蔵されている、となっています。

西山本門寺37縁起

 

「西山本門寺略縁起」は、西山本門寺が建てた案内板ですが、客殿の前には、富士宮市教育委員会が建てた重要文化財の看板がいくつも建っています。

ところで、西山本門寺のある所は、静岡県富士宮市西山ですが、元々は静岡県富士郡芝川町西山と言っていました。

芝川町というのは、日本の商用電源周波数の境界である富士川が縦断するため、同じ町で2つの電力会社(東京電力 (50Hz) と中部電力 (60Hz) の管轄エリアに分かれていることで有名だった町です。

 

つまり、西山本門寺のある所は、元々は芝川町だったのですが、20103月に富士宮市に編入合併されて芝川町が消滅。芝川町のエリアが丸ごと、富士宮市になったわけです。

ところが、面白いことに、これら重要文化財の案内板は、全て芝川町が富士宮市に編入合併される以前に建てられたものばかりなのですが、これらの案内板を建てたのは全て、富士宮市教育委員会になっています。

それとも合併後に建て直したんでしょうか。私は、芝川町合併以前にも、西山本門寺に何度も来ていますが、この案内板を建てた名前が、富士宮市教育委員会だったか、芝川町教育委員会だったか、記憶にありません。

 

さてその富士宮市教育委員会の案内板は

「静岡県指定文化財・本門寺の厨子」

「国指定重要文化財・紺紙金泥法華経十巻」

「国指定重要文化財・常子内親王筆・紙墨法華経八巻」

「国指定重要文化財・法華証明抄」

「国指定重要文化財・日蓮遷化記録」

と、客殿前にいくつも並んでいます。


西山本門寺34遷化記録


この中で最も注目されるのは、日興真筆の「日蓮遷化記録」が西山本門寺に格蔵されていて、これが国の重要文化財に指定されているという事実でしょう。

国の重要文化財に指定されているということは、「日蓮遷化記録」が偽書ということは絶対にあり得ません。これは、日興の真筆であることは、間違いないわけです。

 

この日蓮遷化記録には、日蓮正宗や創価学会が金科玉条にしている「二箇相承」を完全に否定する史実が書かれています。しかもそれは日興自らの手によって書かれているということ。

つまり、日興が書いた日蓮遷化記録に照らし合わせれば、「二箇相承」なる文書は、後世の偽書であることは、疑いないことであるわけです。

詳しくは、下記に書いております。

「『二箇相承書』は日蓮の真筆ではない。後世の偽作だ」

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=6472591&comm_id=406970

 

 

 

 

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西山本門寺客殿は、とても大きな建物であり、江戸時代に権力の庇護のもとに栄えた西山本門寺の繁栄ぶりがうかがえます。

私としては、ぜひともこの客殿の中を見てみたいのですが、いつ来ても、この客殿の入り口の戸は閉まったまま、内側からカギがかけられています。そうなると、何かの法要の時に来るしかないのですが、この法要も毎月、定例の年中行事が行われているわけではないので、この中に入るというのは、なかなか至難の業です。

あとで、貫首代務者の山口亮祐氏と話した時に、4月のお風入れと11月の御会式しか行われていないと云うことなので、この時に来るしかないようです。


西山本門寺9客殿


 

ところで、いつ客殿の中に入るチャンスが巡ってくるのか、わからないので、私もいろいろと調べたところ、ずいぶん昔の西山本門寺・客殿訪問記として

「日目上人正嫡の由緒と本因妙大本尊(万年救護本尊)の発見」

と題するものを発見しました。これは昭和3839年ころ、由比日光貫首の代のときに、本門正宗・小野寺直(日了)氏が西山本門寺客殿を訪れたときのものです。この当時は、由比日光貫首が、独断で日蓮正宗に合同しようと画策し、塔頭・末寺・檀家と大きな紛争になっていた最中のころのことです。

この小野寺という人物も、謎めいた人物で、一説によると、日蓮正宗の元信者・創価学会の元信者ということなので、日蓮正宗・創価学会の信者として訪れたのではないかと思われます。

この「日目上人正嫡の由緒と本因妙大本尊の発見」という文が、近年、ブログとしてインターネット上に流れているようですが、小野寺氏が書いているものなのかどうかかは、不明です。

 

この「日目上人正嫡の由緒と本因妙大本尊(万年救護本尊)の発見」によると、西山本門寺客殿の脇に、「尊霊殿」という小堂の内陣があり、ここに北朝の後水尾院や、新広義門院、明治陛下並びに、歴代徳川将軍、武田信玄や勝頼の霊牌とともにその中央に、保田妙本寺に格蔵される「万年救護大本尊」を板に模刻したレプリカ、いわゆる模刻板本尊が祀られている、ということです。

そして西山本門寺客殿の御宮殿の須弥壇に上ってみたところ、日蓮が「建治二年太才丙子二月五日」の日付が入った大漫荼羅本尊を板に模刻したレプリカ、いわゆる板本尊であったといいます。

面白いのは、西山本門寺では、日蓮が「建治二年太才丙子二月五日」の日付が入った大漫荼羅本尊のことを「万年救護の本尊」と呼んでいるということです。

 

さらに「万年救護の大本尊」のレプリカ板本尊が西山本門寺客殿の「尊霊殿」という小堂の内陣に祀られている縁由について、静岡県文化財調査員の山口稔氏の話しを紹介しています。

これによると西山本門寺・客殿の尊霊殿にある万年救護の大本尊は

「江戸時代の初めの頃、小泉・久遠寺、保田・妙本寺両山の住職に日濃と称した人がいて檀家と争いを起こし、その訴訟費用を捻出の為に文永十一年(1274)十二月に身延山中で紙本に認められた「万年救護大本尊」を江戸市中の金貸しに入質して金五百両を借用した結果、「万年救護大本尊」は質流れして売りに出された。それを西山本門寺の住職が勧進元となり、拠金の寺寺に「万年救護大本尊」を板に摸刻して、勧請せしめる条件で金子を集め質受けした。その時の質請証文は現在も西山本門寺に保存されている。」

というものです。

 

保田妙本寺・日濃事件は、富士門流を巻き込んだ事件として有名ですが、客殿の中の様子が、果たして「日目上人正嫡の由緒と本因妙大本尊の発見」という文のとおりなのかどうかは、入ってみないとわかりません。

 

 

 

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西山本門寺・黒門から、石段を登って、延々と参道を登っていくと、塔頭坊の前を通り過ぎて、ようやく客殿の前にたどり着きます。客殿は、参道の西側にありますが、参道の石段は、さらに客殿の北側へと延々と続いています。

西山本門寺の中心堂宇は、客殿です。かなり大きな堂宇で、巨大な建物の風格は堂々たるものです。どことなく日蓮正宗大石寺の客殿に似ている感じがします。

 

インターネットを検索していると、この建物を「本堂」と書いてあるサイトがいくつもあります。西山本門寺の本尊を研究している京都・要法寺僧侶・柳沢宏道氏の著書「西山本門寺本尊の考察」という本を見ても、客殿のことを「西山本門寺本堂」と書いてあります。

が、私は敢えて本堂とは書かずに、客殿と書きました。というのは、今回の訪問記の前に

「西山本門寺の現本堂は、元々は客殿であり、本堂は別にあったのですが、火災で焼失したまま、本堂は再建されず、客殿を本堂かわりに使っている」

という情報をいただいたからです。

 

「では、もともとの本堂はどこにあったのか」という疑問が沸いてくるわけですが、西山本門寺の古図を見ると、客殿からさらに石段を上がって行ったところに、大きな伽藍があるのがわかります。これが旧本堂のようです。

 

西山本門寺の客殿は、表の戸の内側からカギがかかっていて、中に入れないため、中の様子がわかりません。が、外から見た感じとしては、やはり本堂というより、「客殿」に見えます。

西山本門寺の中心堂宇は、この客殿であり、これと隣り合わせに、庫裡があり、庫裡の後方には、「織田信長の首塚」と称する堂宇が建っています。

客殿の正面には、鐘楼があり、大晦日には、除夜の鐘が鳴らされるとのこと。

 


西山本門寺29客殿


客殿の入り口の戸の上には、「本門寺 五十世日正」と書かれた額が掲げられています。五十世日正とは、西山本門寺50世貫首・森本日正氏のことですが、これは森本日正氏が貫首になってから、掲げられたということになります。

ちなみに、日蓮正宗の信者・原進氏が発刊した写真集「正法の日々」に、西山本門寺が日蓮正宗に合同していた時代に撮影された客殿の写真が載っていますが、当然のことながら、この扁額は映っていません。

 

客殿の入り口の戸は、いつ行っても内側からカギがかかっているため、中の様子が伺いしれないわけですが、前出の写真集「正法の日々」に、西山本門寺客殿須弥壇を正面から撮った写真が載っており、柳沢宏道氏の著書「西山本門寺本尊の考察」には、須弥壇の図解と解説文が載っています。須弥壇の正面から撮った写真は、まことに注目されますが、御宮殿の中には、日蓮の木像が映っていて、後ろには漫荼羅本尊が見えません。

「西山本門寺本尊の考察」の図解によると、「御影尊」(日蓮の木像)の左側には、日蓮絵像、右側には日興絵像があり、「御影尊」の後ろには、板本尊があると記されていますが、

「前よりは板本尊は見えない」(西山本門寺本尊の考察・p8)

と注記がしてあります。

 

なぜ見えないんでしょうね??わざと見えないように、配置しているということでしょうか。

 

ちなみにこの板本尊とは、西山本門寺に格蔵されている「建治二年太才丙子二月五日」の日付が入った大漫荼羅本尊を板に模刻した本尊であるとのこと。

しかし「建治二年太才丙子二月五日」の大漫荼羅は、立正安国会の「日蓮大聖人御真蹟御本尊集」には載っていませんが、日蓮正宗大石寺59世法主・堀日亨は、「富士宗学要集」第8巻に、西山本門寺の「建治二年太才丙子二月五日」の大漫荼羅本尊を、日蓮真筆だとして、載せています。私は、真偽未決だと考えていますが、首題の下、日興添書の部分がとても不自然に見えることなどから、限りなく偽筆に近い曼荼羅であると考えています。

 

 

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西山本門寺39


西山本門寺の境内は、とてつもなく広々とした境内なのですが、延々と長い階段がつづく参道のまわりは、鬱蒼とした木々が生い茂っていて、境内の大半は、山林と化してしまっているのではないかと思ってしまうほど。

黒門から客殿に向かって参道を歩いていると、かつて塔頭坊が建っていたと思われる跡が見られます。かつての西山本門寺には、多くの塔頭坊が建っていたものと思われます。

しかし今の西山本門寺・塔頭は、下から妙円坊、大詮坊、浄円坊の三つだけ。

あとはどうなったんでしょうか。火災で焼失したままなのか、廃仏毀釈の打撃によるものなのか。あるいは何らかの理由で廃坊になったものなのか。わかりません。

 

参道のまわりは、木々が生い茂っていますが、参道は雑草が生え放題というわけではなく、雑草は刈り取られた跡があり、落ち葉は散らばってはいますが、荒れ放題というわけではありません。

誰かが、雑草を刈り取り、落ち葉を掃いたりしているようなのです。

さらに、塔頭坊があるあたりから、庫裡・客殿の周辺が、最も清掃が行き届いているように見えました。「清掃はやっているんだな」という印象は受けました。

 

私は、今まで何度も西山本門寺に来たのですが、いつ来ても僧侶がいる気配もなければ、行事が行われている気配もない。何度来ても、これは同じ。

年中行事予定の看板もなければ、客殿は戸を固く閉じて、全く人を寄せ付けないという印象である。「どーなってんの、このお寺は」という印象を持ってしまう。

一度だけ、僧侶らしき? (坊主頭だが僧衣を着ていない)若い人を見つけて質問したことがあるが、今にして思うと、この人は、西山本門寺の僧侶ではなかったのではないかと思います。

この訪問記に記している西山本門寺訪問のときも、僧衣を着ていない坊主頭の中年男性1人と若い人2人が、車で乗り付けてきて、境内の中を散策していました。

どうやら、この3人は、僧侶は僧侶のようですが、他宗他山の僧侶のようで、西山本門寺の見学をしていたように思いました。

 

ところが、何度、西山本門寺に来ても、西山本門寺の僧侶に会えないわけです。しかも会うどころか、普通の寺院にある、対外的な受付があるようすも見られない。

このように、まことに奇怪な寺院であるわけですが、このあたりの謎も、今回の訪問記に記す訪問で、ようやく真相が明らかになったわけです。

 

 

 

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西山本門寺6参道


さて、下馬の禁札が立っている西山本門寺・黒門から客殿にむかって一直線に、参道が伸びているのですが、この参道が、西山本門寺独特の参道なのです。

参道は、黒門から客殿方面に向かって、延々と登り坂になっていて、おそらくは1キロ以上はつづいていると思います。しかも、段差の大きい石段が連なる階段になっていて、これが延々と続いているわけです。

階段のつづく参道の斜面は、とてもなだらかな、ゆっくりとした斜面になっているのですが、石段の段差が大きいのと、階段の斜面が延々と続いているのには、驚かされます。

黒門から入って階段を登り始めると

「この階段、いったいどこまで続いているんだろうか」

と思ってしまいます。

 

参道は、階段がつづいたあと、砂利道になり、さらに客殿の先まで参道があって、そこは再び、階段になっています。資料を見ると、西山本門寺境内の端から端まで、約゜2キロ以上あると書いてあります。長い参道も2キロくらい続いているということでしょうか。

大きな寺院の階段というと、日蓮宗関係では、身延山久遠寺の菩提悌、池上本門寺の此経難持坂が有名ですが、西山本門寺の参道は、他の寺院の参道とはちがい、一種独特です。

しかしこの参道、黒門から登っていくと、延々と続く階段がなかなかきつく感じます。夏場にこの階段を登っていったら、薄着をしていたのに、それこそ汗びっしょりになってしまいました。

 

西山本門寺は、鬱蒼とした雑木林の中にあるのですが、西山本門寺の東側を外周を走る県道に

「西山本門寺入口」と書いた、大きな看板が立っていて、そこから境内に、いわば裏道が延びています。

ここから車で入っていくと、客殿のすぐ近くに出ることができるわけで、こうすれば、黒門から続く、長い階段を登らなくてもすみます。

西山本門寺58裏口


今から20年以上前のことですが、はじめて私が西山本門寺に来たとき、この「裏口」が、てっきり表玄関だと勘違いして、ここから入っていった記憶があります。

 

しかし、黒門からの長く延々とつづいている階段を登らないで、西山本門寺客殿に行こうとすれば、この「裏口」からつづく裏道は、まことに便利です。

 

 

 

 

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□富士門流・西山本門寺の近年の歴史と西山本門寺僧侶・松本修明氏(2)

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□富士門流・西山本門寺の近年の歴史と西山本門寺僧侶・松本修明氏



今、日蓮正宗や創価学会の元信者筋では、ちょっと有名な松本修明氏が西山本門寺僧侶を名乗っています。

住職をしている滋賀県大津市の富士山蓮華寺、松本修明氏が主管をしている東京・世田谷区の東京布教所は、西山本門寺とは本末関係にはないという。

しかし、1992(平成4) 713日、西山本門寺・森本日正貫首から松本修明氏に「東京布教所」安置の大漫荼羅本尊が、授与されているのだが、西山本門寺との本末関係はないというのは、なんともわかりにくい話しである。しかも松本修明氏は、大日蓮宗から西山本門寺・50代森本日正貫首の弟子になり、西山本門寺の僧侶だというのにである。

松本修明氏の経歴は、概ね、以下の通りだと言われている。

 

■松本修明(まつもと・しゅうみょう・1938)

 

法華宗興門流(西山本門寺)の僧侶

 

俗名・松本勝弥

僧名・玄義阿闍梨修明・恵照坊日照

戸籍上の名前は、今も俗名のままになっているとのことである。

1957(昭和32)12月、日蓮正宗・創価学会に入信。

創価学会民音職員。創価学会青年部参謀理事をつとめる。

1971(昭和46)9月、妻が創価学会を脱会。

1972(昭和47)1111日、「正本堂御供養金返還訴訟」を東京地方裁判所に起こす。

同年1125日、夫婦で日蓮正宗から信徒除名になる。

著書「訴訟された創価学会」を俗名・松本勝弥名で執筆。

「正本堂御供養金返還訴訟」は、最高裁判所まで争われて約十年の歳月を費やし、最終的には、

「裁判に適さない訴訟である」という双方却下の判決を以て決着している。

その後、大阪・尼崎の本門流檀林で修学。

大日蓮宗管長・上行寺住職・工藤日吼氏の許にて出家・得度。

大日蓮宗が日蓮宗に転派したために、西山本門寺50世貫首・森本日正氏に師事と称している。

しかし大日蓮宗が日蓮宗に合同を決議したのは1988年(昭和63年)、実際に大日蓮宗が解散して日蓮宗に復帰したのは1989年(平成元年)のこと。

 

 

 

 

 

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森本日正1
(西山本門寺第五十世貫首・森本日正氏)


1975(昭和50)年、裁判は、檀家側の勝訴で最終決着。これにより吉田義誠(日勇)氏は、西山本門寺から退出。旧門末・福正寺の森本正明(日正)氏が正式に50代貫首として晋山。西山本門寺は、日蓮正宗から再び離脱し、法華宗興門流を公称。吉田義誠(日勇)氏は歴代貫首からは除歴され、森本日正氏が50代貫首となっている。

その森本日正貫首は、1995(平成7)921日、85才で遷化(死去)し、後任の51代貫首には、村田日敬氏が晋山している。この村田日敬貫首の現在については、後の訪問記に出てきますので、そちらで詳しく書きます。

 

現在の西山本門寺の末寺は、塔頭の妙円坊、浄円坊、大詮坊の他に、千葉・福正寺、伊東・光栄寺、富士宮・本妙寺、富士宮・代世寺の7ヶ寺。

千葉・福正寺は、50代森本日正貫首の出身寺で、伊東・光栄寺は51代村田日敬貫首の出身寺である。

 

西山本門寺の旧末寺で、現在、日蓮宗に留まったままになっている寺院が12ヶ寺あります。現末寺とあわせてると、19ヶ寺。

ところが、1786(天明7)年に江戸幕府に提出した末寺帳によると、西山本門寺の末寺数は21になっている。

天明8年(1788)の『法華宗勝劣派西山本門寺寺院本末帳』によると、この中の末寺には、西山本門寺塔中坊は含まれておらず、末寺だけで21

西山本門寺の境内を歩くと、旧塔中坊の跡地らしきところが、いくつも見えます。旧塔中坊も含めると、末寺数はもっと多くなると思います。

 

「富士おさんぽ見聞録・西山本門寺」によると、盛時は30余坊を数えたといい、天明8年(1788)『法華宗勝劣派西山本門寺寺院本末帳』には26か坊と載っているという。

又、江戸後期の地誌『駿河記』には次の12か坊が列記されている。

 

妙圓坊

洗因坊(廃坊)

本泉坊(廃坊)

臨唱坊(廃坊)

大詮坊

本能坊(廃坊)

浄圓坊

常照坊(廃坊)

代信坊(廃坊)

圓信坊(廃坊)

恵林坊(廃坊)

行善坊(廃坊)

これらの多くは、明治初期までに廃された。こんにち、本能坊や本泉坊、行善坊などいつくかの坊は、その跡を確認できると書いてあります。。

http://iiduna.blog49.fc2.com/blog-entry-496.html

 

「富士おさんぽ見聞録・西山本門寺」は、18世紀の西山本門寺を次のように書き記しています。

 

久遠山本妙寺(末頭) 駿州富士郡西山村

良水山興代寺 駿州富士郡西山村

興出山代世寺 駿州富士郡西山村

興立山代行寺 駿州富士郡馬見塚村

上行山安立寺 駿州富士郡青木村

深澤山上行寺 駿州富士郡大宮村

野中山善能寺 駿州富士郡野中村

興起山代立寺 駿州富士郡小泉村

興流山代通寺 駿州富士郡曾比奈村

瀧戸山代信寺 駿州富士郡山本村

富士山上行寺 武州江戸芝弐本榎

富士山上行寺 京都一条通堀川端

富士山上行院 京都北野老松町

富士山上行院 甲州府中愛宕町

大見山上行院 豆州大見地蔵堂村

霊場山光栄寺 豆州伊東吉田村

恵日山広宣寺 豆州伊東芝村

富士山上行院 阿州河内郡額田村

久遠山本因寺 肥州熊本元家町

上行山寿光寺 摂州大坂山小橋村

富士山福正寺 下総千葉郡今井村

 

http://iiduna.blog49.fc2.com/blog-entry-497.html

 

いずれにせよ、末寺の数が減っていると言うことは、廃寺があるということですが、富士地区だけで、西山本門寺末寺で少なくとも3ヶ寺が廃寺になっているといいます。

 

 

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西山本門寺という寺院は、富士宮市芝山の雑木林というか、鬱蒼とした松林の中にあり、山林の中に隠れてしまっているため、外からは西山本門寺の堂宇は見えません。

しかし西山本門寺の境内は、ものすごい広さで、資料によると360町歩あるといいます。

1町=99aなので、単純に計算すると西山本門寺の境内は356haということになります。

日蓮正宗大石寺の境内が、墓苑等々も含めて約70haということだから、西山本門寺の境内は、大石寺の約5倍弱ぐらいあるということになります。本当にこんなにあるんですかね。

ちなみに□モナコ公国195ha□皇居(東京) 142ha□大阪城公園(大阪) 106.7ha□紫禁城(北京) 72.5haですから、西山本門寺の境内が、モナコや東京の皇居、大阪の大阪城公園よりも数倍広いとは、ちょっと考えにくい。

西山本門寺の境内は、広いことは広いのですが、皇居や大阪城公園よりも広いとは、思えない。

よって360町歩という資料の記述は、信憑性が薄いと思われます。

 

西山本門寺53黒門


西山本門寺の表門は、立派な黒門で、小泉久遠寺の黒門とよく似ています。

黒門が表門になっているのは、富士門流では、大石寺、伊豆実成寺、小泉久遠寺と共通しています。

西山本門寺の黒門前には、「下馬の禁札」が立っています。


西山本門寺55下馬


「下馬」(げば)とは、馬から降りることですが、特に貴人の家の前を通り過ぎるとき、道で貴人に出会ったとき、社寺の境内に入ったときに、敬意を表して馬から降りることを言います。

「下馬札」とは、それより奥は乗馬のままでの通行を禁止することを示した立て札のこと。貴人の邸宅・神社仏閣・将軍屋形・城などに立てられた。これが、西山本門寺の黒門前にあるわけです。

 

西山本門寺・黒門前には、「下馬札の由来」について、次のように書いてあります。

 

「当山十八代日順上人が、京都において布教せられた折り、偶々後水尾天皇の姫君常子内親王の御帰依を得ました。朝夕勤行相勤むるようにと、御父君・後水尾天皇、御母君・新広義門院の両御尊牌を常子内親王が御施主となって当山にお納めになり、よって下馬・下乗の禁札を建てることを許されました」

 

こういうものを見ていると、江戸時代のころの西山本門寺の繁栄ぶりが、なんとなく窺えます。

しかし今の西山本門寺には、昔の栄華は、見る影もないですね。

 

 西山本門寺56下馬礼由来

 

 

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西山本門寺12客殿


■「富士山本門寺(西山本門寺)2(昭和以降の複雑怪奇な歴史)



西山本門寺とは静岡県富士宮市西山671(旧富士郡芝川町)にある法華宗興門流の本山。西山本門寺とは、通称名で、正式には「富士山本門寺根源」といい、これは北山本門寺の正式名と全く同じ。
そもそも西山本門寺とは、北山本門寺貫首だった日代が、北山を擯出されて後、創建した寺院で、「我こそが、本門寺根源だ」という意味で建てたことから、北山本門寺と全く同じ名前にしたのではないかと思われます。
それは、日代が命名した由来だが、外から見ると「富士山本門寺根源」という寺院が、富士山麓に二つあるのは、紛らわしいので、それぞれ、北山本門寺(重須本門寺)、西山本門寺という通称名で呼ばれていたものと考えられる。
富士宮市内にある西山本門寺の案内標識も、正式名の富士山本門寺根源ではなく、「富士山西山本門寺」となっています。
西山本門寺57入口看板
西山本門寺61行き先案内


西山本門寺も、日蓮の六老僧・日興の法脈を継承する日興門流(富士門流)に属し、静岡県の駿東地方に所在する 日蓮正宗大石寺、下条妙蓮寺、北山(重須)本門寺、小泉久遠寺とともに「富士五山」を構成する。
さらに 京都要法寺、伊豆実成寺、保田妙本寺とあわせて「興門八本山」のひとつにも数えられる。明治期には富士門流の統一教団日蓮宗興門派(のち本門宗)の結成に参加。本門宗、日蓮宗、顕本法華宗の三派合同で、日蓮宗に合同。
ところが1957(昭和32)年に、西山本門寺49代・由比日光貫首の独断で、日蓮宗から離脱して単立となり、その後、なんと日蓮正宗に合同してしまうという暴挙に出た。
これが塔中・末寺・檀家の承認なく、貫首の独断で行ったことから、日蓮正宗宗門・由比日光貫首と、日蓮正宗合同に反対する檀家・塔中・末寺で大紛争になり、最終的にこの紛争は、裁判の場に持ち込まれた。
さらに由比日光49代貫首は、後継者として、何と日蓮正宗宗務院渉外部長の吉田義誠(日勇)氏を指名。吉田義誠(日勇)氏は、西山本門寺大学頭・副住職として赴任。
1965(昭和40)年4月、由比日光49代貫首が遷化(死去)し、吉田義誠(日勇)氏が50代貫首として晋山した。由比日光貫首の葬儀は、西山本門寺客殿で、日蓮正宗大石寺66世細井日達法主が下向して行われている。
西山本門寺貫首と、日蓮正宗合同に反対する檀家との裁判は、最高裁判所まで持ち込まれ、1975(昭和50)年、檀家側の勝訴で最終決着した。
これにより吉田義誠(日勇)氏は、西山本門寺から退出。旧門末・福正寺の森本正明(日正)氏が正式に後任貫首として晋山。
西山本門寺は、日蓮正宗から再び離脱し、法華宗興門流を公称。吉田義誠(日勇)氏は歴代貫首からは除歴され、森本日正氏が50代貫首となっている。
このように、昭和以降、まことに複雑な歴史をたどった寺院であり、ここの寺跡調査も、まことに困難を極めました。
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西山本門寺29客殿


■「富士山本門寺(西山本門寺)1(大石寺と同じ閉鎖的体質)


西山本門寺(にしやまほんもんじ)とは、1343年(康永2年)日代の開山として静岡県富士郡芝川町西山671にある法華宗興門流の本山で、日蓮正宗大石寺、重須(北山)本門寺、日蓮正宗妙蓮寺、小泉久遠寺とともに富士門流の「富士五山」を構成し、また、京都要法寺、伊豆実成寺、保田妙本寺とあわせて「興門八本山」のひとつにも数えられる。

この西山本門寺は、戦後のある時期、というか一時的に日蓮正宗に合同していた時があった。

1957(昭和32)年、西山本門寺が本山単独で日蓮宗を離れ檀家の承諾を得ないまま日蓮正宗に合流したのである。旧末寺の一部は日蓮宗に残留したが、これに檀家側が猛反発して裁判となり、檀家側が勝訴する。それによって再び西山本門寺は日蓮正宗から独立し、現在まで単立の宗教法人であるが法華宗興門流と宗名を公称している。

 

西山本門寺28客殿

この西山本門寺は、最寄り駅はJR身延線・芝川駅ということになるが、かなり駅からは遠く離れた、山の中にある。芝川駅から町営バスが出ているとはいうものの、電車・バスを乗り継いでここへ行くというのは、まことに困難である。

どちらかというと、富士宮方面から車で行ったほうが便利だと思う。

 


県道を走っていると「西山本門寺」の大きな看板が見えてくるが、ここから車では入れない。ここから大きく回り込んで、切り立った杉林の中を抜けていかなくてはならない。なんか本当に不便なところにある寺院である。

黒門をくぐり、参道の石段を上がっていくと広大な境内が広がっている。しかし参道の周りには、たくさんの木が生い茂っているのだが、かつてはもっとここには塔中坊がたくさんあったのだろうか。西山本門寺の境内を見ていると、なんとなくそんな気がした。

境内地は実に静寂で、シーンと静まり返っている。薄気味悪いくらい人っ気がほとんどない。

 西山本門寺1参道石段


境内地の一角には、織田信長の首を収めたと伝えられている首塚と称するものまであった。なんで西山本門寺に織田信長の首塚があるのか。歴史学的研究によると、本能寺の変の後、明智光秀の武将たちが信長の遺体を探したが見つからなかったといわれているが…。

 


本堂の前には、大銀杏の木が一本あった。本堂の扉は固く閉められており、ここも何かすごく閉鎖的な所という印象である。ぜんぜん中を窺い知ることができない。本堂の正面には「本門寺」と書かれた表札が掲げられていた。この本堂には、一体、なにが祀られているのだろうか。

そこで僧侶らしき? (坊主頭だが僧衣を着ていない)人を見つけて質問してみると、日蓮真筆の漫荼羅本尊であるという。日蓮がいつ書いた本尊かと聞くと、「わからない」という返事。本尊を見せてほしいと言うと、「今、他に人がいないので、手続きが出来ない」との返事。

ただ毎年418日には西山本門寺所蔵の重要文化財の虫干しが行われ、重要な品の数々が一般公開されるとのこと。

それからここ西山本門寺には、元創価学会幹部で民音職員の僧侶・松本修明氏がいると聞いていたので、会わせてほしいと言うと、「ここにはそんな僧侶はいない」との返事。

これについては、よく調べてみると、この松本修明氏という人は、九州にて、出家したが、得度して正式僧侶となる前に自主独立し、師僧より僧侶認定を受けていないので、正確に言うと、勝手に僧侶を名乗っている私度僧であるという。ただ私度僧なのに、どういうわけか富士山蓮華寺という寺の住職に収まっているとのこと。何か不可解な人である。

西山本門寺は、今は日蓮正宗大石寺から独立してはいるものの、こと「閉鎖性」に関して言えば、大石寺と実によく似ている。それともこういう体質は、富士門流の各本山に共通した体質なのかもしれない。

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