仏教宗学研究会のブログ

「仏教宗学研究会」とは会の名称。「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「仏教宗学研究会のブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

「仏教宗学研究会」とは「アンチ日蓮正宗」管理人が設立した会の名称。この会の中で、「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄。
「仏教宗学研究会のブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。富士門流執着軍団批判は「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄だが、「日蓮正宗系」以外の富士門流寺院の調査・研究は「仏教宗学研究会のブログ」の管轄。
「仏教宗学研究会」への誹謗中傷に対する反撃・糾弾は「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄。
さらに正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗」の公式サイト「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」から、カルト宗教対策、カルト宗教取締特別立法、カルト宗教拡散防止条約制定の活動部分を独立させたものが「国際カルト宗教対策委員会(Icat-Cult)」

□正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗」(アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ)
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興門・日蓮宗(大)北山本門寺

北山本門寺(21)~富士門流本山を甘い囁きで懐柔しようとしていた創価学会

■法華本門寺根源(北山本門寺)21(甘い囁きで懐柔)

 

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北山本門寺(20)~創価学会からの重圧をはねのけて日蓮正宗合流を拒絶した北山本門寺

■法華本門寺根源(北山本門寺)20(日蓮正宗合流を拒絶)

 

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北山本門寺(19)~室町時代から大石寺と厳しく対峙・対立してきた北山本門寺

■法華本門寺根源(北山本門寺)19(大石寺と厳しく対峙・対立)

 

北山本門寺が、自山を「大石寺を含む日興門流の祖山である」「本門戒壇建設運動発祥の根本道場」というふうに定義づけているということは、日蓮正宗大石寺が、日興門流の祖山・総本山であることを明確に否定しており、北山本門寺が、日興門流の祖山・総本山であると宣言しているということに他なりません。

これは、室町時代に大石寺と北山本門寺の関係が決裂してから、今日に至るまで全く変わっていないと言えます。

 

1445年、日蓮正宗大石寺9世法主・日有が「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を偽作、さらに「日興跡条条事」をはじめとする数々の相伝書を偽作して、大石寺が「事の戒壇」であり、大石寺こそ日蓮一門、日興門流の祖山・総本山であると言ったとき、これに激しく反発したのが、北山本門寺、小泉久遠寺、保田妙本寺であった。

中でも北山本門寺6代貫首・日浄は、日有の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊偽作を「未聞未見の板本尊彫刻」と言って告発した。

これ以降、大石寺と北山本門寺は、事ある毎に反目しています。

戒壇本尊1


 

江戸時代は、四国の讃岐本門寺がどちらの末寺かをめぐって争い、大石寺22世日俊が造仏読誦堕地獄と非難したことでも、大石寺と北山本門寺が揉めています。

 

明治時代になって、富士門流八本山は「日蓮宗興門派」となったが、大石寺と北山本門寺をはじめとする他の七本山の関係は険悪であり、明治初期に大石寺52世鈴木日霑と北山本門寺34代玉野日志が文書で論争する「霑志問答」を戦わせています。

その後、日蓮宗興門派が本門宗に衣替えしても、本門宗の宗務院が置かれたのは北山本門寺でした。

この日蓮宗興門派ができて興門派管長が設置されたとき、これに大石寺門流が反発して、最終的に大石寺が1900(明治33)年に本門宗を離脱して分離し、日蓮宗富士派として独立しています。

 

1910(明治43)年、北山本門寺の五重塔修理中の三層付近から出火して、五重塔を焼失したのみならず、本堂(御影堂)に飛び火して十間四面の本堂を焼失。

北山本門寺44代貫首・丹治日梁氏が、本堂跡地の隣に仮本堂を造立。

1931(昭和6)年、日蓮六百五十遠忌を記念して北山本門寺46代貫首・井上日光氏が本堂の再建を発願。この年の1121日に落慶法要を修しています。

北山本門寺13本堂3

これが現在の北山本門寺の本堂であり、仮本堂には日興の御影を祀って開山堂としています。

北山本門寺14開山堂2


 

昭和の代に入って北山本門寺47代片山日幹貫首の代に入って、客殿、仁王門、新書院、垂迹堂、重須大神社殿等々が新築造営されて、寺観が一新していますが、ここまでたどり着くのに、厳しい困難な歴史があったと聞いています。

 

 

 

北山本門寺(18)~自山こそ日興門流の祖山であると宣言している北山本門寺

■法華本門寺根源(北山本門寺)18(日興門流の祖山であると宣言)

 

北山本門寺仁王門の手前左側には、北山本門寺の案内図と並んで、「開創沿革」が書いてあります。これをここに抜き書きします。

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「開創沿革」

当山は山号を富士山と称し、今を距る七百年前、日蓮聖人六上足の第三・白蓮阿闍梨日興上人の開創したもう所、元本門宗の祖山であったが、今では日蓮宗の大本山に列している。

宗祖日蓮聖人の滅後、日興上人は宗祖の遺命に従い、輪次守塔の傍ら、身延山を本拠として、甲斐駿河の伝道をしていられたが、正応元年、宗祖七回忌の頃、事により地頭波木井実長と不和を生じ、仝年十二月、身延を下られて母方の駿河川合で年を越され、翌年三月、南条時光の屈請により上野に移り、十月には大石ヶ原に大石寺を草創され、止住し給うこと満二年、隣邑重須の風光を愛し、仝四年九月、重須丸山に法座を移し、重須石川能忠、上野南条時光の両地頭の施入と上野小泉法華講衆の協力を得て、上人五十三才の永仁六年(西紀1298)二月十五日、本堂、御影堂、垂迹堂の三堂なり、額を掲げて「法華本門寺根源」と称された。

「根源」の二字の意義誠に深く、日蓮聖人門下の行願としての勅命戒壇建立促進運動のここは中心であり、発祥地でもあるとの意であろう。

宜なる哉、爾来三十六年、上人は内に重須談所を興して後進の育成に努め、外哉は自ら、哉は弟子をして天奏国諫し、回方に伝道せしめ、元弘三年(西紀1333)二月七日、安祥として当山で遷化したまう。御年八十八歳なり。

されば当山は「日興上人棲神の法窟」であり、大石寺を含む日興門流の祖山であると同時に、日蓮聖人究極の願業たる本門戒壇建設運動発祥の根本道場でもある。

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こんな文が、北山本門寺・仁王門前の大きな看板に書いてあります。もちろんこれは北山本門寺の公式見解ということになります。

北山本門寺34仁王門



概ね、歴史的な内容については、日蓮正宗大石寺をはじめ富士門流本山、他山で言っている者と大差ないのだが、日興在世の時代から「法華本門寺根源」と称していた、となっていますが、これは違うんではないですかね。

ここが「本門寺」の寺号を正式に公称したのは、日興在世の時代ではありません。

1515(永正12)626日、北山本門寺が、駿河国の戦国大名・今川氏親に取り入って、今川氏親から重須本門寺の寺号証文等を安堵(あんど・公認)されたことによって、本門寺の寺号を公称したのであるから、開創沿革の記述は史実に反しています。

北山本門寺38案内図
 

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北山本門寺(17)~江戸時代の全盛期には寺域が六万坪もあった北山本門寺

■法華本門寺根源(北山本門寺)17(江戸時代の寺域が六万坪)

 

北山本門寺の三門跡地は、国道469号線の南側の塔中坊がある所から、さらに南側に下り、今は松林になっている所です。

塔中坊の参道をずーっと南側に下っていくと、たどり着くわけですが、私は車に乗って仁王門前から、本門寺周辺の狭い道を走りながら、たどり着きました。

北山本門寺の案内図によると、塔中坊のかなり南側に三門跡があり、さらにそのはるか南側に総門跡があるとなっています。

北山本門寺31三門跡



三門跡から南側にむかって参道跡みたいな道がのこっていまして、ずーっと南側につづいています。このあたりは、うっそうとした松林になっています。

このあたりは、北山本門寺の全盛時代には寺域・境内だったわけですから、全盛時代の寺域はそうとう広かった、ということになります。

日蓮宗新聞社発行の「日蓮宗本山めぐり」という本によると、往時の寺域は六万坪、境内16300坪、朱印五十余石の寺領があり、塔中支院25ヶ坊あったと記しています。

六万坪とは、19.83haですから、京都御所(20ha)とほぼ同じくらいです。

今の北山本門寺の寺域は約二万五千坪ということで、これは8.3haくらいです。

全盛期の半分以下になってしまったということです。なぜ縮小になってしまったかというと、明治維新の廃仏毀釈、太平洋戦争後の農地改革によるものだと、「日蓮宗本山めぐり」という本に書いてあります。

北山本門寺の全盛期の19.83haとは、今の日蓮正宗大石寺の面積70haよりかは狭いですが、とは言っても、今の大石寺の寺域は、半分以上が、昭和3040年代にかけての創価学会の勃興によって、創価学会の寄進で寺域が広がったものである。

元々の大石寺の境内といっても、今の三門から御影堂までであり、今の奉安堂がある所は、墓苑があった所である。

江戸時代の大石寺も北山本門寺も、寺域の広さはそんなに変わらないのではないか。大石寺の寺領は66石。北山本門寺は五十余石ということだから、大石寺のほうが若干広かったのかもしれないが。

 

 

 

 

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