一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ

「一般社団法人 仏教宗学研究会」とは任意団体として2005年から活動している会の名称。2018年5月に一般社団法人登記。当ブログ名を「仏教宗学研究会のブログ」から「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」に改名。 「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

Category: 興門・日蓮宗(大)北山本門寺

■法華本門寺根源(北山本門寺)21(甘い囁きで懐柔)

 

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■法華本門寺根源(北山本門寺)20(日蓮正宗合流を拒絶)

 

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■法華本門寺根源(北山本門寺)19(大石寺と厳しく対峙・対立)

 

北山本門寺が、自山を「大石寺を含む日興門流の祖山である」「本門戒壇建設運動発祥の根本道場」というふうに定義づけているということは、日蓮正宗大石寺が、日興門流の祖山・総本山であることを明確に否定しており、北山本門寺が、日興門流の祖山・総本山であると宣言しているということに他なりません。

これは、室町時代に大石寺と北山本門寺の関係が決裂してから、今日に至るまで全く変わっていないと言えます。

 

1445年、日蓮正宗大石寺9世法主・日有が「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を偽作、さらに「日興跡条条事」をはじめとする数々の相伝書を偽作して、大石寺が「事の戒壇」であり、大石寺こそ日蓮一門、日興門流の祖山・総本山であると言ったとき、これに激しく反発したのが、北山本門寺、小泉久遠寺、保田妙本寺であった。

中でも北山本門寺6代貫首・日浄は、日有の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊偽作を「未聞未見の板本尊彫刻」と言って告発した。

これ以降、大石寺と北山本門寺は、事ある毎に反目しています。

戒壇本尊1


 

江戸時代は、四国の讃岐本門寺がどちらの末寺かをめぐって争い、大石寺22世日俊が造仏読誦堕地獄と非難したことでも、大石寺と北山本門寺が揉めています。

 

明治時代になって、富士門流八本山は「日蓮宗興門派」となったが、大石寺と北山本門寺をはじめとする他の七本山の関係は険悪であり、明治初期に大石寺52世鈴木日霑と北山本門寺34代玉野日志が文書で論争する「霑志問答」を戦わせています。

その後、日蓮宗興門派が本門宗に衣替えしても、本門宗の宗務院が置かれたのは北山本門寺でした。

この日蓮宗興門派ができて興門派管長が設置されたとき、これに大石寺門流が反発して、最終的に大石寺が1900(明治33)年に本門宗を離脱して分離し、日蓮宗富士派として独立しています。

 

1910(明治43)年、北山本門寺の五重塔修理中の三層付近から出火して、五重塔を焼失したのみならず、本堂(御影堂)に飛び火して十間四面の本堂を焼失。

北山本門寺44代貫首・丹治日梁氏が、本堂跡地の隣に仮本堂を造立。

1931(昭和6)年、日蓮六百五十遠忌を記念して北山本門寺46代貫首・井上日光氏が本堂の再建を発願。この年の1121日に落慶法要を修しています。

北山本門寺13本堂3

これが現在の北山本門寺の本堂であり、仮本堂には日興の御影を祀って開山堂としています。

北山本門寺14開山堂2


 

昭和の代に入って北山本門寺47代片山日幹貫首の代に入って、客殿、仁王門、新書院、垂迹堂、重須大神社殿等々が新築造営されて、寺観が一新していますが、ここまでたどり着くのに、厳しい困難な歴史があったと聞いています。

 

 

 

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■法華本門寺根源(北山本門寺)18(日興門流の祖山であると宣言)

 

北山本門寺仁王門の手前左側には、北山本門寺の案内図と並んで、「開創沿革」が書いてあります。これをここに抜き書きします。

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「開創沿革」

当山は山号を富士山と称し、今を距る七百年前、日蓮聖人六上足の第三・白蓮阿闍梨日興上人の開創したもう所、元本門宗の祖山であったが、今では日蓮宗の大本山に列している。

宗祖日蓮聖人の滅後、日興上人は宗祖の遺命に従い、輪次守塔の傍ら、身延山を本拠として、甲斐駿河の伝道をしていられたが、正応元年、宗祖七回忌の頃、事により地頭波木井実長と不和を生じ、仝年十二月、身延を下られて母方の駿河川合で年を越され、翌年三月、南条時光の屈請により上野に移り、十月には大石ヶ原に大石寺を草創され、止住し給うこと満二年、隣邑重須の風光を愛し、仝四年九月、重須丸山に法座を移し、重須石川能忠、上野南条時光の両地頭の施入と上野小泉法華講衆の協力を得て、上人五十三才の永仁六年(西紀1298)二月十五日、本堂、御影堂、垂迹堂の三堂なり、額を掲げて「法華本門寺根源」と称された。

「根源」の二字の意義誠に深く、日蓮聖人門下の行願としての勅命戒壇建立促進運動のここは中心であり、発祥地でもあるとの意であろう。

宜なる哉、爾来三十六年、上人は内に重須談所を興して後進の育成に努め、外哉は自ら、哉は弟子をして天奏国諫し、回方に伝道せしめ、元弘三年(西紀1333)二月七日、安祥として当山で遷化したまう。御年八十八歳なり。

されば当山は「日興上人棲神の法窟」であり、大石寺を含む日興門流の祖山であると同時に、日蓮聖人究極の願業たる本門戒壇建設運動発祥の根本道場でもある。

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こんな文が、北山本門寺・仁王門前の大きな看板に書いてあります。もちろんこれは北山本門寺の公式見解ということになります。

北山本門寺34仁王門



概ね、歴史的な内容については、日蓮正宗大石寺をはじめ富士門流本山、他山で言っている者と大差ないのだが、日興在世の時代から「法華本門寺根源」と称していた、となっていますが、これは違うんではないですかね。

ここが「本門寺」の寺号を正式に公称したのは、日興在世の時代ではありません。

1515(永正12)626日、北山本門寺が、駿河国の戦国大名・今川氏親に取り入って、今川氏親から重須本門寺の寺号証文等を安堵(あんど・公認)されたことによって、本門寺の寺号を公称したのであるから、開創沿革の記述は史実に反しています。

北山本門寺38案内図
 

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■法華本門寺根源(北山本門寺)17(江戸時代の寺域が六万坪)

 

北山本門寺の三門跡地は、国道469号線の南側の塔中坊がある所から、さらに南側に下り、今は松林になっている所です。

塔中坊の参道をずーっと南側に下っていくと、たどり着くわけですが、私は車に乗って仁王門前から、本門寺周辺の狭い道を走りながら、たどり着きました。

北山本門寺の案内図によると、塔中坊のかなり南側に三門跡があり、さらにそのはるか南側に総門跡があるとなっています。

北山本門寺31三門跡



三門跡から南側にむかって参道跡みたいな道がのこっていまして、ずーっと南側につづいています。このあたりは、うっそうとした松林になっています。

このあたりは、北山本門寺の全盛時代には寺域・境内だったわけですから、全盛時代の寺域はそうとう広かった、ということになります。

日蓮宗新聞社発行の「日蓮宗本山めぐり」という本によると、往時の寺域は六万坪、境内16300坪、朱印五十余石の寺領があり、塔中支院25ヶ坊あったと記しています。

六万坪とは、19.83haですから、京都御所(20ha)とほぼ同じくらいです。

今の北山本門寺の寺域は約二万五千坪ということで、これは8.3haくらいです。

全盛期の半分以下になってしまったということです。なぜ縮小になってしまったかというと、明治維新の廃仏毀釈、太平洋戦争後の農地改革によるものだと、「日蓮宗本山めぐり」という本に書いてあります。

北山本門寺の全盛期の19.83haとは、今の日蓮正宗大石寺の面積70haよりかは狭いですが、とは言っても、今の大石寺の寺域は、半分以上が、昭和3040年代にかけての創価学会の勃興によって、創価学会の寄進で寺域が広がったものである。

元々の大石寺の境内といっても、今の三門から御影堂までであり、今の奉安堂がある所は、墓苑があった所である。

江戸時代の大石寺も北山本門寺も、寺域の広さはそんなに変わらないのではないか。大石寺の寺領は66石。北山本門寺は五十余石ということだから、大石寺のほうが若干広かったのかもしれないが。

 

 

 

 

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■法華本門寺根源(北山本門寺)16(日興手植えの題目杉)

 

北山本門寺には、今まで何度も行っていまして、事跡調査を重ねています。しかしながら、いずれも行事がない日に行っているため、仁王門より北側の境内には、人の姿が見当たりませんでした。

2009年春に行ったときは、国道469号線の南側にある塔中坊では、法事でもあったようで、坊の出入り口に、喪服を着た中高年男女が出入りしている姿が見られ、北山本門寺の駐車場に、法事参加者送迎用のマイクロバスが停まっていました。

この北山本門寺の駐車場は、国道469号線に面しているのですが、北山本門寺の境内に隣接するように、国道469号線沿いに、駐車場や民宿、仏具店等々が並んでいます。

ここも大きな法要があるときは、けっこう大勢の参詣者が来ているようです。

 

私は、北山本門寺の僧侶の話が聞けないかと思って、大庫裡玄関に入って、「すいませーん」と人を呼んでみましたが、この時は、誰も出てきませんでした。

大庫裡とは言っても、日蓮正宗大石寺の大坊や内事部から比べたら、小さな建物ですが、建物自体は、真新しいものでした。

その大庫裡と客殿が渡り廊下で繋がっていて、客殿は大庫裡よりも、もっと真新しい建物でした。ここ近年に再建されたようです。

北山本門寺に、それより以前に何度も来たときに、当然、大庫裡や客殿を見ているのですが、以前の大庫裡や客殿がどうだったかについて、記憶も残っていませんし、メモも残っていません。

 

客殿とは言っても、そんなに大きな建物ではありません。

勤行や大きな儀式・法要を行っている大石寺、下条・妙蓮寺、西山本門寺、讃岐本門寺の客殿と比べたら、北山本門寺の客殿は、はるかに小さな建物に見えます。

 

さて大庫裡に隣接する地には、日興手植えと伝承されている「題目杉」がある。

この題目杉というのは、北山本門寺の公式見解によると、次のようになる。

 

「日興上人お手植え七本杉  題 目 杉

当山開創の砌、日興上人が南無妙法蓮華経の七字にあやかり、お手植えになられた巨杉(幹周り約七m)。七百有余年の風雪に耐え、度重なる落雷、台風、あるいは枯死により、現在は三本を遺すのみとなりました。 」

(北山本門寺公式サイト『日蓮宗大本山富士山法華本門寺根源』より)

 

本当に日興手植えなのかどうかは別にして、当初は7本あった杉の木が、度重なる落雷、台風、枯死により、現在は3本のみになってしまったということです。

北山本門寺32杉

 

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■法華本門寺根源(北山本門寺)15(廃仏毀釈を免れた垂迹堂)

 

北山本門寺には、他の日蓮宗や富士門流の本山には見られない堂宇があります。それは何かというと、御影堂の後方に建っている垂迹堂という堂宇です。

垂迹堂というのは略名で、北山本門寺の正式名は、「本化垂迹天照大神宮」といいます。

北山本門寺21垂迹堂1



なんだか、まどろっこしい名前なんですが、つまり神社ということです、これは。北山本門寺の境内に、神社があるわけです。

「なんで、北山本門寺に神社があるのか」ということになりますが、北山本門寺の垂迹堂はいつ創建されたのかというと、鎌倉時代後期の本門寺創建時であるという。

「富士おさんぽ見聞録」

http://iiduna.blog49.fc2.com/blog-entry-370.html

 

このブログの筆者は。

「縁起によれば、八幡神は延宝4年(1676)2月16日、重須本門寺の垂迹堂から遷座した。垂迹堂とは本化垂迹天照大神宮のことで、鎌倉後期の本門寺創建時に建てられた堂宇。」

と書いており、本門寺創建時説を唱えています。

 

日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨が編纂した「富士宗学要集」に収録されている古文書を見ると、北山本門寺には、創建当初から、御影堂と垂迹堂があったという記述があり、そうであるならば、この垂迹堂は、大石寺・本門寺の開祖・日興が創建したことになります。

垂迹堂を創建したのは日興なのか、あるいは後の本門寺貫首なのか、いまひとつはっきりしない所があり、北山本門寺自身も、公式には垂迹堂の創建については、触れていません。

 

垂迹堂の創建が、日興にしろ、後の本門寺貫首であるにしろ、北山本門寺自身の手によって創建されたこと自体は間違いないところです。ではなぜ垂迹堂という堂宇を建てたのか、ということになりますが、これは日興門流における「神天上法門」によるものと思われます。

「神天上法門」というのは、簡単に言うと、

「天下に謗法(日蓮正宗で言う他宗のこと)が充満していると、諸天善神は愛想を尽かして天に登って行ってしまい、衆生を守護しない。しかし日蓮に帰依する寺院・僧侶・信者には諸天善神が降りてきて守護する」

などという、日興門流の独善性がよく顕れた、まことに手前勝手な思想です。

 

こう言うと「北山本門寺は、今は日蓮宗に入っている邪宗だから」などという日蓮正宗の信者の声が聞こえてきそうです。

しかしながら、日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨が編纂した「富士宗学要集」に収録されている古文書「富士大石寺明細誌」によれば、江戸時代の大石寺にも、「天王堂」という名前の神社、つまの大石寺版の垂迹堂があったのです。

そしてその天王堂に祀られていた本尊というのが、日蓮正宗大石寺9世法主日有が「本門戒壇の大御本尊」偽作を隠蔽するために、「本門戒壇の大御本尊」偽作と同時に御宝蔵で造立した、あの「紫宸殿本尊」を模写彫刻した板本尊だったのです。

その後、大石寺の天王堂は廃堂になり、「紫宸殿本尊」を模写彫刻した板本尊は、大石寺の御宝蔵に納められています。

(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂「富士宗学要集」8巻・日蓮正宗大石寺観行坊住職・能勢順道氏(故人)編纂「諸記録」より)

 

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■法華本門寺根源(北山本門寺)14(山本門寺の日興正墓)

 

北山本門寺の開山堂の前を通って納骨塔に突き当たり、左に曲がって狭い道を歩いて行くと、「御廟所」にたどり着きます。ここに、日興の正墓、日蓮正墓遙拝廟、本門寺歴代貫首廟所があります。北山本門寺では、日興の正墓のことを、「日興上人御廟所」ないしは「日興上人御正所」と呼んでいます。

 

かつて北山本門寺には、本門宗総本山宗務院が置かれていましたが、これも日興の正墓がここにあったことが大きかったのではないか。

北山本門寺は、本門寺棟札や日蓮・生御影を表に出して言うが、本門寺棟札も日蓮・生御影も、富士門流八本山が共通して認めているものではない。

するとはやり富士門流八本山が共通して認めているものとなると、はやり日興の正墓ということになります。北山本門寺には、日興門流の開祖・日興の正墓があるからこそ、本門宗宗務院が置かれ、本門宗総本山と呼称されたということであろう。

 

そうすると、さぞや北山本門寺としては、日興の正墓を自山の権威付けに利用して、さも立派な廟に仕立て上げていることだろうと思うのだが、実際は、ぜんぜん違うのだから、驚いてしまいます。

北山本門寺の日興正墓というのは、それこそ数百年前からのままという感じになっていて、特に立派にしているとか、きちんと整備しているとか、そういう痕跡は全く見られません。

それどころか、墓掃除すらやっているんだろうかとすら思えてしまうくらいなのです。

北山本門寺2日興正墓2



少なくとも、日興という人物は、北山本門寺をはじめ、日蓮正宗大石寺、日興門流の開祖であるのに、こんなにも荒れ果てたというか、みずぼらしい墓のままにしておいているというのは、無宗教の私から見ても、まことに不思議というか、不審に見えます。

むしろ日興の正墓の周辺にある本門寺歴代廟のほうが、立派に見えてしまうくらいです。

 

それでも整備が行き届いていないとは言っても、日興の正墓であることには、変わりはない。

日興は北山本門寺で死去し、北山本門寺で葬儀が行われて荼毘に付され、北山本門寺に葬られた。

したがって、日蓮正宗の信者が、大石寺に日興の正墓があるなどと自称しているのは、真っ赤なウソである。日蓮正宗の信者は、日興が北山本門寺で死去したことすら知らず、大石寺で死去して、大石寺で葬られたなどと思っているのではないだろうか。

日興が北山本門寺で死去して、北山本門寺で荼毘に付されて、葬られたと言うことは、北山本門寺にある日興の墓が、正墓ということになります。当たり前のことです。

日蓮正宗の信者は、このことについて、疑問に想わないのだろうか。

 

しかも日蓮正宗の場合は、それにとどまらず、日興が北山本門寺で死去して、北山本門寺で荼毘に付されて、葬られたことを日蓮正宗の信者が知らないことをいいことに、日蓮正宗の僧侶が御講等々で、大石寺に日興の正墓があるかのような説法をして、信者を騙しているのである。


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■法華本門寺根源(北山本門寺)13(日蓮銅像がある北山)

 

日蓮正宗を含む富士門流と、富士門流以外の日蓮宗の間における、伽藍・堂宇・化儀について、大きな違いについて、もうひとつ特徴的なことというのは、日蓮の銅像です。

日蓮の銅像というのは、日蓮宗の寺院に行くと、あっちこっちの寺にあります。例えば…

千葉・清澄寺、鎌倉・妙本寺、池上・本門寺、佐渡・根本寺、京都・本能寺、鎌倉・霊光寺、鎌倉・長勝寺、岡宮・光長寺、等々、といった具合で、日蓮宗や法華宗の寺院では、それこそあっちこっちでよく見かける日蓮の銅像なのですが、これがどういうわけか、富士門流の本山・寺院に来ると、日蓮の銅像というものがないわけです。

 

日蓮正宗大石寺やその末寺、下条・妙蓮寺、讃岐本門寺、日向定善寺、さらに西山本門寺、保田妙本寺、京都要法寺等々にも、日蓮の銅像というものを見たことがありませんでした。

つまり、富士門流の本山・寺院には、日蓮の銅像がないのですが、ところが、例外的に、この北山本門寺には、日蓮の銅像が雄々しくそびえ立っているわけです。

北山本門寺27日蓮銅像


 

この日蓮の銅像の謎というのも、なかなか面白いものがあります。日蓮正宗では、大石寺にも末寺にも、日蓮の銅像というものが、ひとつもありません。これは、大石寺にないわけですから、末寺も造らないのだと思われます。

では、富士門流では、なぜ日蓮の銅像を閉てないのか。これは別に、建てた方がいいと言っているわけではありません。

 

まあ、教義上、日蓮本仏論を立てている日蓮正宗や富士門流に、日蓮の銅像が無く、日蓮本仏論を立てていない日蓮宗の寺院に、日蓮の銅像が立っているのを見ると、なんとなく面白く見えます。

 


 

 

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■法華本門寺根源(北山本門寺)12(富士門流と日蓮宗の違い)

 

日蓮正宗を含む富士門流と、富士門流以外の日蓮宗の間には、伽藍・堂宇・化儀について、大きな違いがあります。

まず日蓮の木像を意味する御影(みえい)についてから。

日蓮正宗を含む富士門流では、日蓮の木像のことを「御影」ないしは「御影像」と呼んでおり、御影を祀っている堂宇のことを「御影堂」と呼んでいます。日蓮正宗や富士門流の信者も、御影像のことを「お御影さま」と呼んでいます。

日蓮正宗大石寺、北山本門寺の他、下条・妙蓮寺、小泉久遠寺、讃岐本門寺にも、日蓮の木像を祀っている堂宇がありますが、いずれも御影堂と呼んでいます。

北山本門寺13本堂3

 

これに対して、富士門流以外の日蓮宗では、日蓮の木像のことを御影とか御影像とは呼ばずに「祖師像」「祖師」と呼び、祖師像を祀っている堂宇を「祖師堂」と呼んでいます。日蓮宗の信者も、日蓮の木像のことを「お御影さま」とは呼んでおらず、「お祖師さま」と呼んでいます。

日蓮宗総本山・身延山久遠寺にも、大本山・池上本門寺、鎌倉・妙本寺、中山・法華経寺、京都・妙覚寺、京都・本隆寺、玉沢・妙法華寺、茂原・藻原寺、といった日蓮宗の各本山にも、日蓮の木像を祀る堂宇がありますが、いずれも「祖師堂」と呼んでいて、御影堂とは呼んでいません。

 

次に客殿ですが、日蓮正宗を含む富士門流寺院の客殿は、勤行、年忌法要、御講、大法会といった大きな行事を行う堂宇になっています。

特に、これは日蓮正宗において顕著になっており、大石寺、下条・妙蓮寺、讃岐本門寺の他、富士門流の西山本門寺、保田妙本寺などがそうです。

これに対して、身延山久遠寺、池上本門寺などの日蓮宗の客殿は、勤行や大法要を行う堂宇というより、重要な賓客をもてなすための堂宇になっています。

 

化儀の上でのことで言うと、にちれんしゅうでは「南無妙法蓮華経」を「なむみょう…」と発音しますが、日蓮正宗や富士門流では「なんみょう…」と発音します。

 

日興門流(富士門流)と、その他の日蓮門下の分離は、1289年の日興・身延離山にまでさかのぼるわけですが、身延離山からすでに722年が立っています。

この間に、両者の間には、さまざまな相違ができています。

この日蓮正宗を含む富士門流と、富士門流以外の日蓮宗の間における、伽藍・堂宇・化儀について、大きな違いについて、もうひとつ特徴的なことがあります。

 

 

 

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■法華本門寺根源(北山本門寺)11(ひと回り小さい御影堂)

 

さて北山本門寺の中心堂宇は、やはり御影堂でしょう。

北山本門寺13本堂3



この御影堂には、日蓮の孫弟子である和泉公日法が彫刻したと自称している「生御影」と呼ばれる日蓮の御影像が祀られている。

北山本門寺では「日蓮大聖人生御影尊像」とよんでいます。これについては、かつて彰往考来氏という人が、「富士教学研究会談義所」というサイトで、「北山本門寺蔵「生御影」について」と題する連載を執筆して、後世の偽作論を展開したことがあったということは、すでに書きました。

私も、どちらかというと、後世の偽作説を支持します。その理由の一つが「楠木」です。

 

北山本門寺の生御影は、楠木で彫られていると言うことですが、これは、日蓮正宗大石寺の「本門戒壇の大御本尊」後世偽作説の「楠木」と全く同じです。

鎌倉時代は小氷期であり、身延、富士一帯に楠木は生育していないこと。楠木は古くから神木であり、日蓮は神木を伐採したり彫刻することはあり得ないこと。

これについても、湯之奥金山が発見されて以降、大石寺が裕福になったように、北山本門寺が裕福になって以降、造立された可能性が高いと考えられます。

 

さて御影堂の中を見てみようと、御影堂の段を上って戸を開けてみると、御影堂の須弥壇の扉は閉まっていて、生御影を見ることはできませんでした。

御影堂や本堂の須弥壇の扉が普段、閉まったままになっているのは、何も北山本門寺だけに限った事ではありません。だいたい閉まっている寺院のほうが多いのではないでしょうか。

扉が閉まっているから秘仏というわけではありませんが、法要が行われる時は、開扉されます。

日蓮正宗大石寺・御影堂の須弥壇の扉も、普段は閉まったままになっていますが、大法会や御講が行われる時は、開扉されています。

北山本門寺の場合も、御影堂で何か法要が修されるときでないと、扉は開かれないようです。

 

ところで、北山本門寺の御影堂は、中も外も、日蓮正宗大石寺の御影堂に、そっくりなのです。

建物の大きさは、大石寺の御影堂のほうが、一回りか二回り大きいのではないかと思われます。

これについては、大石寺の御影堂は、1632(寛永9)年に敬台院日紹の莫大な財力による寄進で建てられたものですが、北山本門寺の御影堂は、江戸時代に何度も火災にあって再建されたものですから、比較にならないかもしれません。

 

御影堂の中も、内陣・外陣の仕切りがあり、太鼓もありました。

残念なのは、須弥壇の扉が閉まったままになっていたことですが、生御影を見るには、ここで法要があるときに来るしかないようです。

 

御影堂にむかって右側には、日蓮の銅像が建てられており、さらに開山堂という名前の堂宇が立っています。

私は、開山堂の中も見てみようと思ったのですが、こちらはカギがかかっていて戸が開きませんでした。

 

北山本門寺14開山堂2
 

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■法華本門寺根源(北山本門寺)10(本堂はなかった)

 

北山本門寺の御影堂には、日蓮の孫弟子である和泉公日法が彫刻したとされる日蓮の御影像が祀られています。この御影堂は、本堂に相当する堂宇ということになっているが、本来の意味から言うと、御影堂と本堂は、本来、別個の堂宇である。

 

そもそも日蓮正宗大石寺をはじめとする富士門流には、「本堂」という堂宇は存在しなかったのである。

こう言うと驚くかもしれないが、日蓮正宗大石寺9世法主日有以前の大石寺、大石寺門流の寺院、さらには富士門流の寺院には「本堂」というものがなかった。住職や僧侶の持仏堂はあったが、本堂はなかったのである。

持仏堂というのは、持仏や先祖の位牌(いはい)を安置しておく堂、または室。仏間のことで、仏壇をいうこともある。つまり住職や僧侶個人の本尊を祀っている仏間のことである。

日蓮正宗では、住職や僧侶個人授与の本尊、ないしは個人授与の本尊を祀っている仏間のことを「御内仏」と呼んでいるが、持仏堂とはまさにこの御内仏を祀る仏間ということである。

 

これに対して本堂とは、仏教寺院において、本尊仏を安置する建物。寺院で中心本尊を祀っている堂宇のこと。寺院の中心的な堂を指して「本堂」ということが多い。ただし「本堂」という名称は、宗派によって名前が異なっている。

「金堂」が、南都六宗や真言宗など飛鳥時代から平安時代前半にかけての古代創建の寺院で多く使われているのに対し、「本堂」は宗派にかかわらず、古代以降も含め広く使用される。

ただし、奈良時代創建の寺院でも、新薬師寺、西大寺のように「本堂」という名称を使用している寺院もある。比叡山延暦寺など天台宗寺院では「根本中堂」もしくは「中堂」と呼称し、禅宗寺院においては「仏殿」と呼称することが多い。しかし、禅宗にあっても特に方丈形式の中心堂宇を指して「本堂」と称する場合もある。

根本中堂4



一般的に南都六宗や真言宗など大陸より初期に渡来した系統の伽藍においては「金堂」、禅宗にあっては「仏殿」、天台宗では「根本中堂」もしくは「中堂」、日本的発展を遂げた寺院では「本堂」と称する場合が多い。室生寺や當麻寺のように「金堂」と「本堂」が別個に存在する寺院もある。

呼称は宗派によって違うが、本堂とは、寺院において、中心本尊を祀っている堂宇のことを指すわけであり、これは住職や僧侶個人の本尊を祀っている仏間である持仏堂とは区別される。

 

そもそも「本堂」という堂宇ができた起源というのは、飛鳥・奈良時代の寺院の金堂(仏殿)は、仏(仏像)のための建物であり、建物の内部は仏像を祀る須弥壇が大きなスペースを占めていた。

しかしその後、仏教が広い階層に広まり、参詣者が増えると、そんな狭い堂宇では参詣者を収容しきれなくなる。そこで仏殿の前に、礼拝するための建物である礼堂が建てられるようになった。

やがて、この仏殿と礼堂がひとつの建物として建てられるようになり、これが「本堂」の原型です。

仏殿と礼堂がひとつの建物になると、これが内陣・外陣とよばれるようになったものです。

(一個人201110月号/日本のお寺入門・渋谷申博監修)


 

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■法華本門寺根源(北山本門寺)9(日尊腰掛け石)

 

北山本門寺の仁王門をくぐって一直線に参道を歩いて二天門をくぐると、本堂(御影堂)に突き当たります。御影堂前には「日尊上人腰掛け石」があります。

北山本門寺17日尊腰掛石2



「日尊上人腰掛け石」とは、かつて日興が、北山本門寺の前身である重須談所にて、弟子たちを前に説法・講義をしていた時、聴聞していた弟子の日尊が、舞い散る梨の葉に一瞬記を取られてよそ見していたところ、これが日興に咎められて「勘気」を蒙った。日蓮正宗では、破門と言っていますが、古文書では「勘気」と呼んでいます。

勘気とは、主君・親などの目上の人からの咎め。勘当のこと。

日蓮正宗や創価学会に言わせると、「今風に言うと、これは破門だ」ということになるのでしょうが、私の考えでは、日尊の受けた「勘気」は、今の破門とは、ニュアンスが違うように思います。

 

とにかく日興から「勘気」を蒙った日尊は、その後、全国行脚・布教の旅に出る。そして北関東から西日本に至るまで36ヶ寺を建立するという布教の実績を上げているわけですが、この36ヶ寺のうち、28ヶ寺が確認されています。

 

山形県 妙国寺、妙円寺、

福島県 一円寺、実成寺、満願寺、願成寺、仏眼寺、妙福寺、

栃木県 浄円寺、那須・法華堂、石田・法華堂、

茨城県 富久成寺

埼玉県 妙本寺

東京都 妙縁寺

静岡県 伊豆・実成寺

京都府 長福寺、要法寺、

兵庫県 上興寺、

島根県 安養寺、妙剛寺、妙吉寺、金言寺、妙伝寺、東満寺、本妙寺、菩提寺、妙興寺、

鳥取県 法蔵寺、

 

この28ヶ寺のうち、8ヶ寺が日蓮正宗寺院、5ヶ寺が日蓮本宗本山要法寺本末、9ヶ寺が日蓮宗・興統法縁会の寺院です。

 

この28ヶ寺を見ると、日尊が日興から勘気を蒙った間に限定されているわけではなく、日興から勘気を蒙る前、勘気を許された後に建立された寺院も含まれているため、日尊が生涯で建立した寺院が36ヶ寺あるという意味と思われる。

 

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■法華本門寺根源(北山本門寺)8(共通する堂宇の並び方)

 

北山本門寺の境内は、実質的に国道469号線によって南北に分断されているということになります。

これは、北山本門寺の約2キロ先にある日蓮正宗大石寺も同じで、国道469号線によって、三門から北側の開創以来の旧境内と、総一坊、総二坊、広布坊、総門などがある昭和以降開墾された新境内が分断されたようになっています。

新境内とは言っても、総門(黒門)は、日蓮正宗大石寺12世法主日鎮の建立なので、室町時代からあったということになります。

国道469号線も、国道だから、国が建設・管理する道路ということですが、大寺院の境内のど真ん中を、国道が平気で横切っているのを垣間見ますと、国家権力のすさまじさをまざまざと実感してしまいます。

 

さて北山本門寺の仁王門に向かって左側には、北山本門寺の開創・沿革・縁起・境内の案内図等々を記した案内板が立っています。

北山本門寺9本門寺根源

「本門寺根源」と書いた本門寺棟札がむ掲げられている仁王門をくぐると、階段を上がって二天門があり、そのまま参道は御影堂(本堂)に直結しています。

仁王門をくぐって左側に行くと、法喜門があり、法喜門をくぐると、大庫裡玄関につながっています。この大庫裡とは、大石寺で言うと大坊に相当する建物で、受付や貫首住居もここにあります。

 

ところで北山本門寺の堂宇・伽藍は、西から東に向かって、庫裡(大坊)、客殿、御影堂というふうに並んでいます。庫裡(大坊)と客殿は渡り廊下でつながっていて、御影堂は一歩奥に引っ込んだように建っています。

この堂宇の並び方は、北山本門寺の他、日蓮正宗大石寺、下条妙蓮寺、讃岐本門寺に共通しています。西山本門寺の場合は、かつて御影堂があったのですが、火災で焼失して再建されずに、客殿を本堂の代わりに使っていると言うことですから、この堂宇の並び方は、西山本門寺にも共通していることになります。

反目している日蓮正宗大石寺、下条妙蓮寺、讃岐本門寺と、北山本門寺、西山本門寺の堂宇の並び方が共通している、というのは、何とも面白く見えます。なんで、こうなっているのか。

昔は、富士門流の本山の堂宇の並び方は、こういう並び方にする、という「常識」か「不文律」でもあったということなんでしょうか。

 

ただし富士門流で共通とはいっても、京都・要法寺の堂宇は、こういう並び方になっていませんし、あとは保田妙本寺、日向定善寺は、こういう並び方ではなかったと思います。

 

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■法華本門寺根源(北山本門寺)7(本門寺塔中坊開基)

 

国道469号線は、北山本門寺の仁王門前を通っていて、あたかも仁王門が北山本門寺の表玄関のようになっていますが、正確に言うと、かつて北山本門寺には三門や総門があり、そちらが表玄関であったわけです。

現在、三門や総門は失われており、三門跡、総門跡が残っているだけです。

 

さて仁王門の参道から国道469号線を横断して南側に歩いて行くと、いくつかの塔中坊が並んでいます。

まず仁王門のすぐ横に養仙坊があり、国道469号線を横断して南に行くと、行泉坊、西之坊、そして向かい側に蓮行坊、養運坊、東陽坊という坊が並んで建っています。

北山本門寺35塔頭



養仙坊の開基は、日蓮正宗大石寺寂日坊、富士下条妙蓮寺の開基でもある寂日坊日華。

蓮行坊の開基は、日国。

行泉坊の開基は、日蓮正宗大石寺4世法主で、大石寺浄蓮坊の開基でもある日道。

養運坊の開基は、新六僧筆頭で、日興の滅後に北山本門寺貫首になった日代。しかしその後、日代は、北山本門寺檀那・石川能忠によって北山本門寺から擯出されて、西山本門寺の開祖になっています。

西之坊の開基は、日助。東陽坊の開基は、日恩である。

北山本門寺塔中坊の開基に、日華、日道という、大石寺塔中坊の開基と共通する人名が出てくるのも、何とも面白い。

 

さて東陽坊からさらに南に下ろうとすると森林になってしまうのですが、この先に北山本門寺の三門跡、総門跡、冠木門跡、土手門跡があり、さらに五重塔跡があります。


北山本門寺29三門跡


かつての北山本門寺の全盛期には、北山本門寺の境内は、今の東陽坊からさらに南側にむかって大きく広がっていたことがわかります。

したがって、北山本門寺の参道は、かつては南側の三門跡、総門跡から行泉坊、西之坊、蓮行坊、養運坊、東陽坊の前を通って、仁王門前につながっていたわけで、全盛期の北山本門寺の境内は、今の大石寺くらいに、そうとう広大な面積があったのではないかと思われます。

これだけ広大な境内だったということは、塔中坊も、もっとたくさんあったのではないかと思われます。

 

ではなぜ、北山本門寺の三門、総門、冠木門、土手門、塔中坊等々が失われ、境内が狭くなってしまったのか、ということですが、はっきりしたことは判明しません。

おそらくは、まず江戸時代に、北山本門寺住僧の放火による火災に何度も遭遇して伽藍・堂宇を焼失しています。

それから明治維新のときの廃仏毀釈。この廃仏毀釈によって日本全国各地の仏教寺院が大きな打撃を被っています。

まあ、こういったこと等々が影響したのではないかと思われるのですが。

 

 

 

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■法華本門寺根源(北山本門寺)6(大石寺・本門寺を結ぶ国道469号線)

 

北山本門寺には、何度も行っているのですが、今回の日記は、北山本門寺で寺跡調査をしたときのものを記していきたいと思います。

北山本門寺にはじめて行ったのは、今から約20年くらい前のことで、その後も何度か北山本門寺に行っています。昔は、インターネットも携帯もパソコンもない時代でしたので、年中行事をはじめとする詳しい情報がなかなかわからず、なにか一つ調査するにしても、いろいろと苦心した記憶があります。

 

北山本門寺は、富士宮道路の北山インターから国道469号線を西へ、日蓮正宗大石寺方面へ向かうと、ほどなくの所にあります。

この国道469号線を北山本門寺からそのまま西にむかって車を走らせていくと、大石寺の三門前に着きます。したがってこの国道469号線は、北山本門寺と日蓮正宗大石寺をむすんでいるということになります。

かつて宗創和合時代における創価学会の団体登山バスや、現今の法華講の団体登山バスが、北山インターから大石寺三門付近の駐車場に向かったケースも多かったと思うのですが、そのルートで行くと、これらの登山バスは、北山本門寺の仁王門前を通っていったことになります。

北山本門寺39仁王門


 

今から2030年も前のことですが、日蓮正宗大石寺に登山参詣した創価学会員や法華講員たちの口から

「登山バスが大きな邪宗の寺院の前を通っていった。こんなところにも邪宗の寺院があったんだ」

などという話しをよく聞かされたものだったが、創価学会員や法華講員たちが言う「大きな邪宗の寺院」とは、北山本門寺のことを言っていたと思われます。

それにしても創価学会員や法華講員たちは、富士宮市にある寺院は、みんな日蓮正宗の寺院だとでも思っているんだろうか。彼らの浅識・浅学ぶりには、ただあきれ果てるばかりです。

 

大石寺と北山本門寺は、国道469号線で約2キロぐらいしか離れていません。こういうことから、昭和20年代後半から昭和30年代のころにかけて、特に戸田城聖が創価学会会長のころ、創価学会が「折伏大進撃」と称して、超強引・超執拗な折伏・入信勧誘を大々的に展開していた時代、この北山本門寺にも、連日連夜、創価学会員たちが押し寄せて、「折伏」「布教」に名を借りた乱暴狼藉を行っていたという話しを聞きました。

当時の北山本門寺貫首は、1943(昭和18)から1997年(平成9年)5月まで、約54年の永きにわたって貫首職を務めた47代貫首・片山日幹氏の時代。片山日幹貫首は、連日連夜押し寄せる創価学会員と論戦して、ことごとく論破したと聞き及んでいます。

昭和20年代後半から昭和30年代といえば、富士門流では、讃岐本門寺、下条妙蓮寺の日蓮正宗との合同にはじまって、保田妙本寺本末、日向定善寺本末、西山本門寺が次々と、創価学会員たちの猛折伏によって、次々と日蓮正宗の軍門に下っていきました。

北山本門寺の末寺でも、妙泉寺が日蓮正宗の軍門に下っていますし、法華宗本門流の寺院だった静岡県伊豆の国市の大仁山本門寺(今の本円寺)も、日蓮正宗の軍門に下っています。

 

そういう時代で、北山本門寺が、創価学会員たちの非常識な折伏・入信勧誘・乱暴狼藉にも負けずに、日蓮正宗の軍門に下ることなく、独立を貫いたというのは、特筆すべき事ではないかと思います。

 

 

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■法華本門寺根源(北山本門寺)5

 

北山本門寺は公式サイト『日蓮宗大本山富士山法華本門寺根源』において

 

「○日蓮大聖人御真筆御本尊

   万年救護御本尊

   鉄砲御本尊

   御大事本尊

   子安御本尊    他有余幅」

 (北山本門寺公式サイト『日蓮宗大本山富士山法華本門寺根源』より)

 

と書いていますが、この中で、立正安国会が鑑定して「日蓮真筆」であると、公式に確認している本尊は、鉄砲本尊ただ一幅のみです。鉄砲本尊は、立正安国会・御本尊集に載っていますが、他の本尊は載っていません。

本尊033-鉄砲曼荼羅1


したがって、「本門寺棟札」「生御影」「日禅授与本尊」(北山本門寺が万年救護本尊と呼んでいる本尊)といった「重宝」は、後世の偽作である疑いが非常に強いのであり、公式に本物と認定されている権威ある重宝は、「鉄砲本尊」「日興正墓」「日頂正墓」ということになる。

こちらのほうが、本来、北山本門寺随一の重宝であるべきはずなのに、北山本門寺が重宝として対外的にアピールしているのは、「本門寺棟札」「生御影」「日禅授与本尊」(北山本門寺が万年救護本尊と呼んでいる本尊)のほう。

何とも矛盾した話しです。

 

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■法華本門寺根源(北山本門寺)4

 

北山本門寺には、「本門寺棟札」と並ぶ重宝として、御影堂に祀られている日蓮の御影像があるとしています。これは、日蓮宗や富士門流では「生御影」(しょうみえい)と呼ばれている木像で、これも日蓮正宗大石寺と同じく、和泉公日法が彫刻したと自称しているものです。

北山本門寺では、この「生御影」を重宝のトップに据えています。

 

http://park16.wakwak.com/~honmonji/

「御 霊 宝」

「日蓮大聖人の御真筆を始め百有余幅の御曼荼羅並びに、国・県重要文化財指定等の貴重な書類等を格護しています。

 なお、御霊宝は年に一度四月十三日「御霊宝御風入会法要」にて、御曼荼羅及び聖教類等の一部を御開帳し、一般公開しております。祖師・興師の御心に触れる千載一遇の機会です。是非御参拝下さい。   御霊宝の一部をご紹介致します。

○日蓮大聖人生御影尊像

○日蓮大聖人御真筆御本尊

   万年救護御本尊

   鉄砲御本尊

   御大事本尊

   子安御本尊    他有余幅

○日興上人御真筆御本尊 他有余幅

○日蓮大聖人御真筆 貞観政要二巻

○紺紙金泥法華経一軸

○本門寺棟札

○白蓮弟子本尊分与帳

○十世日殿上人筆 曽我物語

 他多数」

(北山本門寺公式サイト『日蓮宗大本山富士山法華本門寺根源』より)

 

この中にある「生御影尊像」というのが、それです。

しかし、この生御影については、かつて彰往考来氏という人が、「富士教学研究会談義所」というサイトで、「北山本門寺蔵「生御影」について」と題する連載を執筆して、後世の偽作論を展開したことがありました。

現在、この記事はサイト上から削除されているようですが、私は画面コピーを保管しています。

北山本門寺13本堂3

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■法華本門寺根源(北山本門寺)3

 

重須法華本門寺根源、すなわち北山本門寺は、日蓮宗大本山という格付けになっていますが、元々は富士門流八本山のひとつとして、創建以来、末寺を持っています。

現在の所、北山本門寺の末寺は、塔中6ヶ坊を含めて36ヶ寺あります。この中には、1292(正応5)年開創の東光寺(静岡県富士宮市下条)があります。

東光寺6


東光寺とは、同じ富士門流八本山のひとつである京都・要法寺(日蓮本宗本山)13代貫首・広蔵院日辰が富士に下向した折り、その日辰の元に、東光寺の僧侶がやって来て、日蓮正宗大石寺9世法主日有が癩病になっていたという、いわゆる「日有癩病説」をふかし込んだことが、日辰の著書「祖師伝」に出てくることで有名です。

ただし、「日有癩病説」そのものは、誤りであり、「日蓮正宗大石寺の『本門戒壇の大御本尊』なる板本尊は日蓮正宗大石寺9世法主日有の偽作だ」PART1にて詳しく論証しています。

「日蓮正宗大石寺の『本門戒壇の大御本尊』なる板本尊は日蓮正宗大石寺9世法主日有の偽作だ」PART1(検証180)

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=66689819&comm_id=406970

 

この東光寺は、富士宮市下条ですから、日蓮正宗本山・富士妙蓮寺の近所と言うことになります。1292(正応5)年開創ですから、大石寺開創の2年後に開創した寺院ということになりますが、北山本門寺の末寺になっています。

 

この他に、元々、北山本門寺の末寺だった寺院である、1577年開創の妙泉寺という寺院が、富士宮市にありますが、1956(昭和31)に日蓮宗を離脱して、日蓮正宗に合同しています。

 

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■法華本門寺根源(北山本門寺)2

 

「法華本門寺根源」というと、「何のことですか」と首をかしげる方がいらっしゃるかもしれません。

この法華本門寺根源とは、通称名を「北山本門寺」といい、こちらの名前のほうが一般に知られています。正式名は、「日蓮宗大本山・富士山法華本門寺根源」と言います。

この寺院の住所が、静岡県富士宮市北山4965にあるので、通称、北山本門寺と呼ばれていると言うことである。あるいは、このあたり一帯をかつて重須と呼んでいたことから「重須本門寺」という通称名もあります。

 

この北山本門寺という寺は、あの日蓮正宗・大石寺から東へ約2キロほど離れた地にあり、大石寺と同じ日興が開祖になっている富士門流八本山のうちのひとつ。

今は、日蓮宗大本山に数えられています。

 

なぜここが日蓮宗大本山になっているかというと、1941(昭和16)3月の日蓮宗、顕本法華宗、本門宗の三派合同で日蓮宗に合同したまま、日蓮宗にとどまっているので、そうなっているもの。

元は、北山本門寺は、本門宗総本山だったとこころで、ここ北山本門寺に、本門宗宗務院が置かれていた。

本門宗とは、日興門流が1876年(明治9年)に結成し、 1941年の日蓮宗、顕本法華宗との三派合同によって発展解消した、日蓮系の宗派。

1876年(明治9年) 富士門流に所属する8本山(富士大石寺、北山本門寺、西山本門寺、小泉久遠寺、富士妙蓮寺、伊豆実成寺、保田妙本寺、京都要法寺)とその末寺により、日蓮宗興門派として発足。 1899年(明治33年)本門宗と改称したもの。

この中には、今の日蓮正宗である富士大石寺、妙蓮寺および末寺が入っていた。

1900年(明治34年)大石寺とその末寺が離脱し、日蓮宗富士派として独立、1912年(明治45)には日蓮正宗と改称。

1941年(昭和16年)、本門宗は勝劣派の顕本法華宗、一致派の日蓮宗とともに三派合同を行い、勝劣派、一致派の諸門流の本山末寺からなる日蓮宗に発展解消した。

 

ではなぜ、この北山本門寺が、本門宗総本山で、本門宗宗務院が置かれていたのか、というと、ここに日興門流の開祖・日興の正墓がある、ということが、何と言っても決め手であろう。

現在の北山本門寺は、公式に「日興・日頂二上足御正廟」と銘打っており、日興の正墓は

「日興上人御正廟」ないしは「日興上人御正所」と称しており、公式サイトでも

「日興上人は元弘三年(1333)二月七日、当山に於いて遷化。翌八日荼毘に付され、当地に御正廟が建立されました。」

と発表しています。

http://park16.wakwak.com/~honmonji/

 

日興は、元弘3年(133327日、北山本門寺で入滅し、北山本門寺で荼毘に付され、葬送の儀が行われ、北山本門寺に葬られて、正墓が建てられている。これは古文書にも明らかな史実である。

したがって、日興の正墓がある所は、北山本門寺なのであって、大石寺ではない。当たり前のことです。

 

北山本門寺2日興正墓2
 

 

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■日蓮宗大本山・重須法華本門寺根源(北山本門寺)1

 

北山本門寺(きたやまほんもんじ)は、静岡県富士宮市北山にある日蓮宗の七大本山の1つで、正式名称は富士山重須法華本門寺根源。通称として重須本門寺とも呼ばれることがあります。

この北山本門寺は、西山本門寺、 日蓮正宗大石寺、 日蓮正宗下条妙蓮寺、 日蓮宗小泉久遠寺とともに富士門流の「富士五山」を構成。また、さらに 京都要法寺、伊豆実成寺、保田妙本寺とあわせて「興門八本山」のひとつにも数えられています。

北山本門寺のルーツは、日興が1293年(永仁元年)に石川能忠の寄進をうけて北山に重須談所を設け、同時に、本堂・御影堂・垂迹堂の建設にとりかかり、5年後の1298年(永仁6年)に落成したことが発端だという。明治時代に興門八本山で構成されていた旧本門宗時代は、本門宗の総本山、宗務院がここ北山本門寺におかれていた。

 

場所的にはJR身延線富士宮駅よりバスで25分、本門寺入口下車徒歩5分のところにある。しかし電車・バスを乗り継いでここへ行くというのは、まことに不便で、車のほうが便利である。

北山本門寺の境内地そのものは、すごく広いのであるが、ちょうど国道469号線が真ん中を突き抜けるように走っていて、北山本門寺の境内地がこの国道によって南北に分割されたような形になっている。

国道469号線から本堂に向かう道に建っている大きな門は、山門ではなく仁王門という門です。

この仁王門には「法華本門寺根源」という看板が掲げられている。北山本門寺の説明によると、これは日蓮が将来の本門寺建立の時のために、「本門寺の額」だけを先に造ったものであるという。

ただし日蓮筆のものは、武田の兵乱の時に紛失してしまって、今、仁王門に掲げているものは、それ以前に本門寺貫首の写本を基にしたものだという。

北山本門寺39仁王門


大石寺の「戒壇の大本尊」なる板本尊も後世の偽作なら、大石寺に対抗してきた北山本門寺の「本門寺の額」やら「二箇相承」も後世の偽作である。富士門流の歴史を少しでも研究したことがある人なら、誰でも気づくはずだが、大石寺、北山本門寺、京都要法寺の覇権紛争・偽作競争は凄まじいものがあります。

私は、北山本門寺の仁王門の「本門寺の額」なるものを見上げて、ため息が出てしまった。

 

北山本門寺の本堂は御影堂と呼ばれ、ここには日蓮が生きていた時代に、弟子の日法が造立したという、「生御影」と呼ばれる日蓮の木像が祀られているというが、これも後世の偽作の疑いが限りなく強い。

 

これに対して、本門寺の廟所にある開祖日興の正墓というのは、どういうわけかぜんぜん目立たないところにある。身延山久遠寺が日蓮の正墓を荘厳して自分の寺の権威付けに利用しているのとは、とても対照的です。

要するに自分の寺を荘厳して権威付けに利用するためには「日興」ではダメで「日蓮」でなくてはならないと、言わんばかりであるかのように見えます。

 

 

 

 

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