一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ

「一般社団法人 仏教宗学研究会」とは任意団体として2005年から活動している会の名称。2018年5月に一般社団法人登記。当ブログ名を「仏教宗学研究会のブログ」から「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」に改名。 「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

Category: 日蓮正宗vs富士門流本山の紛争史

■中谷山妙本寺(保田妙本寺)4(保田妙本寺・松本勝弥グループ潰しの謀略戦争2)

 

□室町時代の頃から大石寺9世日有偽作教学のお追従をしてきた保田妙本寺歴代貫首

 

保田妙本寺では、室町時代に11世日要、14世日我等の学者貫首を輩出して、冨士門流でも独自の妙本寺教学を展開したが、その内容は、保田妙本寺11世日要による大石寺9世日有が唱えた「事の戒壇」へのお追従、さらには百六箇抄、本因妙抄等を中心に日蓮本仏義を立てるもので、大石寺教学とほとんど同じと言える。保田妙本寺14世日我も、自らの著書で「久遠寺の板本尊、今大石寺に在り。大聖人存日の時の造立なり」などと、大石寺の「戒壇の大本尊」を肯定してしまっている。よって保田妙本寺歴代貫首の教学となると、「万年救護の大本尊・日蓮本懐説」どころか、少なくとも室町時代には、大石寺9世日有の教学と、ほとんど大差ないものになっている。

又、江戸時代の17世紀後半、保田妙本寺貫首・日濃により「万年救護の大本尊」が寺外に持ち出され、質入れされるという重大事件が起きている。「万年救護の大本尊」は上古の昔から保田妙本寺が格蔵してきた重宝本尊ではあったが、保田妙本寺の歴代貫首は「万年救護の大本尊・日蓮本懐説」までは誰も唱えてはいない。

その保田妙本寺は50世富士日照貫首の代、昭和32(1957)4月、本山妙本寺と末寺・本顕寺、本乗寺、顕徳寺、遠本寺の本山末寺4ヶ寺が日蓮正宗に合同した。時の大石寺法主は第65世堀米日淳であり、戸田城聖が在世の「折伏大進撃」で信徒数を急激に増加させていた時代である。

千葉・本顕寺住職・佐野知道氏が平成791日付け「継命」に寄せた寄稿論文によれば、保田妙本寺は日蓮正宗との合同当初から、大石寺とはかつて冨士門流八本山で日蓮宗興門派を造った経緯もあり、法的立場とは別に、寺格は大石寺と同等とされた、とする。この佐野知道氏の「大石寺・保田妙本寺対等寺格説」は、あながち間違いだとは言えない。なぜならば、昭和32(1957)830日、日向本山定善寺で執り行われた「日蓮正宗帰一奉告法要」にて、保田妙本寺50世富士日照貫首が列席して、「奉告文」を奉読しているが、その中で保田妙本寺50世富士日照貫首は、最後の一文に「日蓮正宗本山妙本寺第五十世嗣法日照」と記している。

「嗣法」とは日本国語大辞典によれば「仏語。法統を受けつぐこと。弟子が師の法をつぐこと。また、その弟子。禅家でいう。」と載っている。日蓮正宗でも「嗣法」という語句を使うが、通例は大石寺法主のみが使う仏語である。また富士日照貫首は「奉告文」の中で、「本因妙の教主南無日蓮大聖人、御開山日興上人日目上人、久妙両山開基日郷上人等来臨影響知見照覧の御宝前に於いて謹んで言さく…」と述べており、大石寺歴代法主の法系譜ではなく、保田妙本寺・小泉久遠寺の法系譜を述べている。つまり保田妙本寺・小泉久遠寺の法系譜の「嗣法」という意味を述べていると思われるが、この日向本山定善寺の「日蓮正宗帰一奉告法要」には大石寺65世堀米日淳法主が下向して「慶讃文」を自ら奉読している。つまり堀米日淳法主来臨の法要で、富士日照貫首は保田妙本寺・小泉久遠寺の法系譜を奉告文で読み上げて「嗣法」と称しているわけだから、大石寺も実質的に保田妙本寺に対して、同格の寺格を黙認していたものと思われる。

 

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■中谷山妙本寺(保田妙本寺)3(保田妙本寺・松本勝弥グループ潰しの謀略戦争1)

 

□創価学会・山崎師団による保田妙本寺・松本勝弥グループ潰しの『謀略戦争』の顛末1

 

元創価学会顧問弁護士・山崎正友氏が池田大作に反旗を翻した後に執筆した告発本「闇の帝王・池田大作をあばく」の中で、1972(昭和47)当時、「山崎師団」が全力で「松本潰し」の謀略活動を展開した具体的な内容について、詳しく執筆している。

「ショッキングな学会批判書

昭和47(1972)10月、“蓮悟空”なるペンネームで、『変質した創価学会』という題名の学会批判書が出版された。調査の結果、筆者は、ルポライターのI氏とわかったが、情報提供者は当時民音職員であった松本勝弥氏夫妻、東洋物産社員梶谷氏、それに聖教新聞記者数名であると確認できた。創価学会にとっては、大幹部で、本部職員でもある人たちの、まことにショッキングな、造反であり、内部告発であった。引きつづいて、松本勝弥氏らは集団で、“正本堂御供養金返還訴訟”を提起した。公然と反旗を翻したわけである。この松本勝弥氏夫妻は、(日蓮正宗)総本山大石寺の戒壇の大御本尊はにせものであり、保田妙本寺の“万年救護の御本尊”こそ、ほんものである、という信仰上の立場をとり、創価学会にとっては、まさに異端であった。(松本勝弥氏の)夫人のほうは、すでに1年前に創価学会を退会している。創価学会の中枢である本部の職員(民音など、外郭団体も本部職員と考えられており、本社や事務所にはそれぞれ仏間があり、池田専用室があり、朝礼のときは、池田大作の指導が伝えられ、信仰の指導が行われていた)が、宗教上、異端をとなえていて、なおかつ、職場に居座っていられるものか。それを許していて良いものか。少なくとも、本部全体の士気に重大な影響を及ぼし、かつ会員に不信と動揺を与えることだけは事実だった。とにかく

『学会の内情をすっぱ抜く男を本部職員で置いていたら何をされるかわからない。信心指導もできない』というのが本部側の悩みなら、

『民音といっても、我々(創価学会員)が御供養の精神で歌謡ショウなどの券を買って支えている。その金で、謗法の人間を養って良いのか』というのが、学会員の不満だった。結局、何としてでも(松本勝弥氏を民音から)追い出そうということになった。その作戦と行動すべてについて私(※山崎正友氏)が指揮をとった。松本氏の側は、これを見越して、何とか居座って内部攪乱をしようとの作戦に来た」(山崎正友氏の著書『闇の帝王・池田大作をあばく』p186188)

 

松本勝弥氏は「大石寺の『戒壇の大本尊』はニセ物であり、保田妙本寺に格蔵されている『万年救護本尊』が日蓮の出世の本懐であるから、正本堂の供養金を返還せよ」と主張し、正本堂供養金返還訴訟を裁判所に提起。保田妙本寺51代貫首・鎌倉日桜氏を抱き込んで、保田妙本寺を日蓮正宗から独立させ、保田妙本寺を「反大石寺・反創価学会」の拠点にしようとした。

松本勝弥告発1 

(山崎正友氏の著書『闇の帝王・池田大作をあばく』)

 

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■中谷山妙本寺(保田妙本寺)2(鎌倉日桜貫首と檀徒の会話を電話盗聴)

 

□保田妙本寺51代鎌倉日桜貫首と檀徒の会話を電話盗聴していた創価学会・山崎師団

 

1970(昭和45)1972(昭和47)年にかけて、松本勝弥氏は「大石寺の『戒壇の大本尊』はニセ物であり、保田妙本寺に格蔵されている『万年救護本尊』が日蓮の出世の本懐であるから、正本堂の供養金を返還せよ」と主張し、正本堂供養金返還訴訟を裁判所に提起。保田妙本寺51代貫首・鎌倉日桜氏を抱き込んで、保田妙本寺を日蓮正宗から独立させ、保田妙本寺を「反大石寺・反創価学会」の拠点にしようとする運動をはじめた。

これに日蓮正宗大石寺・創価学会が神経をとがらせ、松本勝弥氏らを日蓮正宗信徒・創価学会会員から除名して対抗。創価学会は、顧問弁護士・山崎正友氏をリーダーとする「山崎師団」が、全力で「松本潰し」の謀略活動を展開し、保田妙本寺51代貫首・鎌倉日桜氏と松本勝弥氏らの反日蓮正宗・反創価学会グループの分断をはかった。このあたりの創価学会側の経緯を、当時の「山崎師団」を率いていた山崎正友氏が、著書「盗聴教団」の中で次のように告発している。

「昭和47(1972)10月、正本堂落慶法要終了直後、松本勝弥氏らの、いわゆる“蓮悟空事件”がおこった。“蓮悟空”というペンネームで、生々しい内部告発書が出版され、同時に“正本堂御供養金返還訴訟”が提起された。これと関連して、保田妙本寺(千葉県)という寺院が、檀徒をつのって日蓮正宗より離脱しようとする動きを見せた。その背後に、他宗派の扇動や脱退者の動きが見られた。さらに、昭和45(1970)以来、反学会運動をつづけてきた“創対連”(創価学会対策連盟)が、好機到来とばかり、やはり、全国的に“御供養金返還運動”を起こすべく、積極的な運動に乗り出した。…

保田妙本寺には、昭和48(1973)ごろから、数ヶ月間、門前の栄光建設株式会社(学会外郭企業)の飯場の二階の一室をアジトとし、電話盗聴、発信器による盗聴、見張り、追跡などを行った。飯場を借りることは、北条副会長(※北条浩四代会長・当時は副会長)が手を打ってくれた。そこに竹岡、北条の両名が盗聴器と録音機材とともに自炊道具を持ち込み、住み込んでことに当たった。電話盗聴は、宮本顕治宅とまったく同じ手口を用いた。すなわち、門前の電柱にある端子取り付け器に発信機を取り付けた。盗聴した内容は、まとめてカセットテープにダビングされ、私のもとに送られるが、重要な内容のときは、ただちに電話で直接、私のところに送られた。

このときは、失敗はなかった。盗聴され、録音された内容は、住職(※保田妙本寺51代貫首・鎌倉日桜氏のこと)と松本勝弥氏夫人の会話、その他、反学会的人物で、妙本寺(※保田妙本寺)に集まっていた人物との会話など、多岐にわたった。住職(※保田妙本寺51代貫首・鎌倉日桜氏)が北条副会長や私たちと会い、懐柔工作に応じるむね返事をして帰った後の会話などは、特に興味深かった」(山崎正友氏の著書『盗聴教団』p5354)

盗聴教団1 

((山崎正友氏の著書『盗聴教団』)

 

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■中谷山妙本寺(保田妙本寺)1(松本勝弥・万年講事件)

 

1995(平成7)年に再び日蓮正宗から離脱独立して単立になった保田妙本寺と末寺2ヶ寺

 

東京駅からJR内房線の特急さざなみ号に乗り、JR保田駅で下車。国道を2キロほど道沿いに南下。JR内房線の妙本寺踏切をわたると、すぐに大本山妙本寺の山門がある。

もともとこの寺院は、日興の弟子・新六僧の一人である日郷を開祖とした日郷門流の寺院で、日興門流(富士門流)八本山のひとつであるが、1957(昭和32)4月、50代貫首・富士日照氏のときに旧末寺4ケ寺とともに、日蓮宗を離れ、日蓮正宗に合同した。

その後、51代貫首・鎌倉日桜氏の代になり、松本勝弥氏の正本堂供養金返還訴訟、万年講問題を経て、1995(平成7)年、再び日蓮正宗から独立して、単立の寺院になった。日蓮正宗の時には、「日蓮正宗本山妙本寺」という看板を出し、中谷山妙本寺と名乗っていたが、独立後は「大本山妙本寺」という看板を出している。

この保田妙本寺という寺院は、切り立った山肌の斜面を開拓したような土地になっていて、境内地には客殿、御影堂と二つの大きな堂宇が建っている。一角には宝物庫もある。背後の山の斜面や谷間の上のほうには、墓地が造成されている。墓地に入ってみると「南無妙法蓮華経 日蓮在御判」と書かれた墓石も見られる。建物には鶴丸の紋が見える。これは日蓮正宗の紋かと思っていたら、そうではなく、日興門流の紋ということらしい。

保田妙本寺は、日郷が開創して以来、660年の歳月が経っているが、境内地の建物は、どれもこれも、長年の風雨に耐えた跡がよく見えるものばかり。それだけ、歴史を感じさせてくれる。

保田妙本寺では毎年1015日に、宝物のお風入れ、虫払い法要が行われる。日蓮真筆の万年救護本尊や日興、日目、日郷の本尊、古文書などを拝観することができる。妙本寺には開創以来の膨大な量の古文書が眠っており、千葉県史の研究家、学者も、妙本寺文書の研究をつづけている。そういった関係から、1015日の虫払い法要には、保田妙本寺の信者以外の研究家、学者たちが多数、妙本寺を訪れるという。保田妙本寺の古文書・重宝類の調査・研究を手がけている学者の一人が、千葉大学大学院人文社会科学研究科教授・文学博士の佐藤博信氏である。

保田妙本寺は、長く51代貫首・鎌倉日桜氏(19082009)が貫首職を務めていたが、鎌倉日桜貫首の晩年は対外的な応対は息子の鎌倉日誠氏が代行していた。鎌倉日桜氏は2009年に101才で死去。現在は52代貫首・鎌倉日誠氏の代になっている。

 

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■天母山2(日教の天生ヶ原戒壇説と日辰の天母山戒壇説)

 

□なぜ大石寺僧・左京阿闍梨日教の文書「類聚翰集私」にはじめて「天生原」が出てくるのか

 

日蓮、日興の教説にない天母山戒壇説を、なぜ大石寺僧侶・左京阿闍梨日教(本是院日叶)や京都・要法寺13世貫首・広蔵院日辰が唱えたのか。

左京阿闍梨日教の場合は、天母山ではなく、「天生原」と言っている。その「天生原」を、天母山を中心にした麓の平原、というふうに解釈すれば、そこには大石寺や北山本門寺が含まれる。

左京阿闍梨日教(本是院日叶)は、「天生原に六万坊を立て、法華本門の戒壇を立つべきなり」 (日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』2p323)と言っているわけですが、広宣流布の暁に建立される本門戒壇がどこに建立されるのか、ということについて、日蓮門下や富士門流では、長い間、論争があった。

左京阿闍梨日教(本是院日叶)は、元々は、京都の日尊門流の出身であり、1472(文明4)年ころ、日蓮正宗大石寺9世法主日有の門下に会下した(堀日亨の言)人物。そして大石寺9世日有門下になった左京阿闍梨日教は、大石寺僧侶として、三大秘法、日蓮本仏論、血脈相承といった大石寺9世日有教学、というより大石寺9世日有が偽作した教学を大石寺門流のみならず、富士門流に広めることに絶大な貢献をした僧侶である。

そうすると、左京阿闍梨日教(本是院日叶)としては、「大石寺に六万坊を立て、法華本門の戒壇を立つべきなり」とか「大石ヶ原に六万坊を立て、法華本門の戒壇を立つべきなり」とか書きそうなものだが、そうは書かずに、なぜ「天生原に六万坊を立て、法華本門の戒壇を立つべきなり」と書いたのか、ということになる。

それは、大石寺9世日有が死去する直前の1482(文明14)97日、大石寺と北山本門寺、小泉久遠寺、保田妙本寺の宗徒の間で血脈論争が起こり、大石寺の「戒壇の大本尊」や「百六箇抄」「日興跡条条事」等々による「大石寺戒壇説」に対抗して、北山本門寺が「本門寺額」を根拠にした「重須本門寺戒壇説」を出してきたからである。

左京阿闍梨日教(本是院日叶)は、三大秘法、日蓮本仏義、血脈相承といった大石寺9世日有偽作教学を徹底的に宣揚してきたわけですが、大石寺と北山本門寺、小泉久遠寺、保田妙本寺の血脈論争で北山本門寺から「本門寺額」が出てきたことで衝撃を受ける。「戒壇の大御本尊」や「百六箇抄」「日興跡条条事」等々からすると「大石寺戒壇説」になるが、「本門寺額」からすると「北山本門寺戒壇説」ということになる。そうすると、戒壇建立の地は大石寺なのか、北山本門寺なのか、という問題に左京阿闍梨日教(本是院日叶)は直面することになる。

そこで左京阿闍梨日教(本是院日叶)は、「百六箇抄」の「四大菩薩同心して六万坊を建立せしめよ」の六万坊を建立するには、相当広大な土地が必要であることからして、敢えて大石が原とか大石寺とか書かずに、大石寺も北山本門寺も含まれる「天生原」という言葉を使って、「天生原に六万坊を立て、法華本門の戒壇を立つべきなり」と書いたと言うことである。

つまり将来、大石寺に本門戒壇が建立されても、北山本門寺に戒壇が建立されても、天生原には大石寺も北山本門寺も含まれるわけだから、「天生原に六万坊を立て、法華本門の戒壇を立つべきなり」と書いておけば間違いはないと言うことである。

だから、大石寺と北山本門寺、小泉久遠寺、保田妙本寺の血脈論争後の1488(長享2)年、日蓮正宗大石寺9世法主日有の門下であった左京阿闍梨日教の著書「類聚翰集私」にはじめて、

「天生原に六万坊を立て、法華本門の戒壇を立つべきなり」の言葉が出てくるのです。

天母山1 

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■天母山1(戒壇論争で登場する天母山)

 

日蓮正宗、創価学会、顕正会、正信会の関係者であれば、この「天母山」という名前は、一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。これは天母山と書いて、「あんもやま」と読みますが、これは日蓮正宗、創価学会、顕正会の間で激しい論争が行われた、あの「天母山戒壇説」で、あまりにも有名な所である。

天母山戒壇説というのは、日蓮正宗の仏法が広宣流布した暁には「三大秘法抄」に説かれている戒壇が、富士宮市の天母山に建立されるという説で、この天母山戒壇説に熱心なのは、浅井昭衛が率いる冨士大石寺顕正会である。顕正会は今でも、将来、天母山に国立戒壇が建立される、という天母山戒壇説を唱えています。

では、いつ、天母山戒壇説が出てきたのか、ということになりますが、天母山戒壇説が、はじめて文献に登場するのは、日蓮の入滅から200年以上経った1488(長享2)年、日蓮正宗大石寺9世法主日有の門下であった左京阿闍梨日教の著書「類聚翰集私」に出てくる。そこには、次のように書いてあります。

「天生原に六万坊を立て、法華本門の戒壇を立つべきなり」

(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』2p323)

 

これが天母山戒壇説が文献に出た最初と言われています。この左京阿闍梨日教の著書では、天母山ではなく、天生原と言っている。しかし、昔も今も富士山麓や富士宮周辺に「天生原」という地名はなく、左京阿闍梨日教が具体的にどこを差して天生原と言っていたかは不明である。

「天母山」という名前がはじめて富士門流の文献に登場するのは、さらに時代が下った1567(永禄10)年、京都・要法寺13代貫首・広蔵院日辰の著書「御書抄・報恩抄下」においてである。

「富士山の西南に当たりて山あり。名をば天生山と号す。この上において本門寺の本堂、御影堂を建立し…」

という文で、ここにはじめて天生山(天母山)の名前が登場する。

顕正会では、「大石寺大坊棟札」の裏書きに天母山戒壇が登場するとしている。それは

「天母原に三堂並びに六万坊を造営すべきものなり」

とあるから、大石寺二祖日興の時代から天母山戒壇説が存在するとしている。

しかしこの「大石寺大坊棟札」については、日興の名前を間違えて書いている、日興の花押がない、徳川時代の御家流の書体になっている、裏書きの日付が大石寺大坊の完成から半年後になっている、という理由から、堀日亨、細井日達といった大石寺歴代法主自らが、この「大石寺大坊棟札」が、徳川時代に造られた贋作であることを認めている。

59世日亨2 

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■上井出・御穴3・大石寺52世鈴木日霑と北山本門寺34代玉野日志の霑志問答に出てくる御穴調査3

 

私は、車で人穴から富士宮市役所に行き、市役所の駐車場にすべり込んで車を停め、市庁舎の中に入っていきました。入っていったのはいいのですが、さて、どの係の、誰に聞いたらいいのかさっぱりわからない。そこで、まずは玄関先にあった市庁舎の総合案内に行き、係の女性に事情を説明。

「実は、私は、人穴の調査で東京から来たのですが、実際に人穴に行ってみたところ、狭い穴らしきものはありましたが、中には入れませんでした。人穴の入り口には、富士宮市の看板が立てられていて、源頼家の富士の巻狩や富士講の千日行について、簡単に触れられていただけでした。

富士宮市の看板が立てられていたので、富士宮市の係の人に、人穴の詳しい話を聞きたいのですが…」

 

こう話すと、総合案内の女性から「少々お待ち下さい」と言われ、富士宮市役所玄関の片隅にあった椅子に座らされ、延々と2030分くらい、待たされました。

「いつまで待たされるんだろうか」と待ちくたびれはじめてきたところ、そこに何と富士宮市教育委員会に勤務する男性2名が現れ、この二人に、いろいろと話を聞くことができた。

富士宮市教育委員会に勤務する二人の男性の説明は、概略、以下のようなものでした。

「人穴とは、江戸時代に冨士信仰の修行の場になった聖地で、1558(永禄1)年ころ、富士講の開祖・長谷川角行がここに来て修行をした」

「人穴の洞窟の中には、その時代にできたとされる石仏が祀られている」

私も二人の男性にいろいろと質問をし、二人の男性も私の質問に対して、かなり懇切丁寧に回答してくれましたが、人穴とは、あくまでも富士講の修行の場であった、というもので、日蓮正宗大石寺の御穴伝説なるものとは、全くの無関係である、というのが結論。

富士宮市教育委員会では、富士講の関連史跡であるとして、人穴を「史跡人穴」と呼んでいるということである。

そうすると日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨が「冨士日興上人詳伝」で書いているように、御穴伝説そのものが、デタラメ極まりない伝説だった、ということになります。堀日亨の師匠で、堀日亨より先代の大石寺52世法主鈴木日霑は、霑志問答で、「御穴は明治時代まであった」などと述べているが、その信憑性は極めて低いと言える。まあ、大石寺の伝説なるものの正体とは、所詮、そんなものなのかもしれませんが。

 人穴1

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■上井出・御穴2・大石寺52世鈴木日霑と北山本門寺34代玉野日志の霑志問答に出てくる御穴調査2

 

日蓮正宗大石寺が「戒壇の大本尊」偽作を秘匿・隠蔽するためにデッチ上げた「御身代わり板本尊」の「御穴伝説」を、日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨が、否定しているから面白い。

「御穴伝説」を認めた鈴木日霑の見解を載せた「霑志問答」を収録している「富士宗学要集」を編纂した堀日亨は、自らの著書「富士日興上人詳伝」の中で、こんなことを言っている。

 

「ここに加上した伝説が、いまから二百年くらい前に、家中抄以後百年後ぐらいに出来しておる。駿河国駿東郡井出の御穴(伝説)がそれである。身延山が波木井一家を総動員して、大石寺の戒壇本尊を略奪に来る風聞で、大石では南条一家総がかりで、これを防ぎ止めた云々との文献があるといえる御僧があったから、その書を請求したが見せてくれずに死亡した。…

日有上人御時代には、身延の波木井家本家が八戸に移りし後が衰微し、上野の南条家もまたふるわず、たがいに百、二百の軍勢を繰り出すほどの力はない。…

井出某の屋敷内に御穴といって信徒が詣る時代があった明治年中まで--。その御穴に隠匿して盗難を防ぐこと長かりしかば、本山では御身代わりと称して、日有上人代御彫刻の紫宸殿本尊を安置したともいうが、御写の年代も異にして、大聖の授与書もなく、有師(日有)より日伝に授与したもので、また、だいぶ小形のものである。

その幾年かの間に、穴中の湿気のために四隅が朽欠したるを、雲形をもって巧みに隠してありともいっており、裏に種々の縁起が彫刻されてあると、真実(まこと)しやかに密告する役僧があったので、自分(堀日亨)が貫首(法主)代に役僧を立ち会わせて密査したのに、以上の伝説は真っ赤な虚説(うそ)であり、全面堅石のごとき楠板で、少しの瑕瑾(きず)もない。

これをもって房州(保田妙本寺)系の古記に、建武初年の争いに、大石寺の正御影を持ち出す時、戒壇本尊に手を掛けたが、大石の大衆、鎹(かすがい)を打っていたから持ち出せなかったと書いておる。…これも拝見の序に虚説(うそ)が顕れた。以上の馬鹿気(ばかげ)た伝説は一掃しておいて…」(堀日亨の著書「富士日興上人詳伝・上」p287289)

 

堀日亨は、「御穴伝説」並びに「御穴伝説」に付随して起こったさまざまな伝説を全て「真っ赤な虚説(うそ)」「馬鹿気(ばかげ)た伝説」と言って、全面否定しているのである。

そもそも「御身代わり本尊」も「御穴伝説」も、日蓮正宗大石寺9世法主日有が「戒壇の大本尊」偽作の事実を秘匿・隠蔽するためにデッチ上げたもの。

日蓮正宗史、富士門流史をくまなく精査していけば、どこをどうつついても、日蓮正宗大石寺のデッチ上げは明らかになる。日蓮正宗・富士門流の古文書等々を綿密に調査した堀日亨と雖も、「御穴伝説」は否定せざるを得ない。

しかし、そういう立場にある堀日亨が「御穴伝説」を否定したということは、暗に「戒壇の大本尊」なる板本尊が後世の偽作であることを実質的に認めたようなものだ。そういう意味で、この堀日亨の「御穴伝説」否定は、とても重みがあるものである。

59世日亨2 

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■上井出・御穴1・大石寺52世鈴木日霑と北山本門寺34代玉野日志の霑志問答に出てくる御穴調査1

 

富士宮市の「人穴」と言うと、「何ですか、それは」と言われてしまいそうですが、この人穴は、日蓮正宗大石寺の「戒壇の大本尊」偽作問題に関連する調査活動の一環として、「戒壇の大本尊」の「御穴伝説」の調査として、ここを訪れたものです。

「御穴伝説」というのは、明治時代初期のころ、日蓮正宗大石寺52世鈴木日霑法主と北山本門寺34代玉野日志貫首の間で行われた「霑志問答」の中に出てくる。

「蓋し日有の彫刻せる本尊とは、宗祖の御真筆・紫宸殿の本尊と称する者之れを模写して彫刻せし事あり。伝え言ふ、其の時乱離の世に乗じ身延の群徒来りて戒壇の本尊及び其の他の諸霊宝を占掠せんとの説あるによって、日有計って真の本尊及び諸霊宝をば駿東郡東井出村井出某氏の窖(あなぐら)に蔵し、---此の家の子孫今に連綿し村内一之旧家で今の家主は弥平治と号す。此の窖今に存し御穴と称し常に香花を供すと云々---日有彫刻の本尊を仮立して且らく戒壇の本尊に擬せしとなり。事鎮静の後、日有自判を加え是れを鳥窪の住僧日伝に授与するの文字あり。是れ則方今天王堂に安置せる板本尊是れなり。惟ふに後世之れを訛伝して、日有、真の戒壇の本尊を彫刻するの説あるか知るべからず」(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』第7巻問答部「両山問答」p101102より)

------ただし、日有が彫刻した板本尊というのは別に存在している。それは宗祖日蓮大聖人の御真筆の本尊である「紫宸殿の本尊」と称する本尊を板に模写して彫刻した板本尊がそれである。

日蓮正宗大石寺には、古来からの言い伝えとして、次のような話しがある。

日有の時代、戦乱の世に乗じて身延山久遠寺の群徒が大石寺に押し寄せて「本門戒壇の大御本尊」の他、大石寺の霊宝を強奪しようとしているとの説が流れたので、日有が「本門戒壇の大御本尊」とその他の霊宝を一時的に駿東郡東井出村井出某氏の穴蔵に隠した。---この井出家の子孫は現在まで大石寺の根檀家として連綿していて、大石寺のある上野村では随一の旧家である。今の井出家の当主は弥平治と言い、その時の穴蔵は今でもあり、常日頃から線香とシキミの花を供えている---そして大石寺には日有が彫刻した板本尊を仮に立てて、しばらくの間、「本門戒壇の大御本尊」に擬していたのである。身延の群徒たちの動きが鎮静化した後、この板本尊に日有が自らの判形を加えて、鳥窪の寺の住職日伝に授与したとの日有がその板本尊に書いた文字が残っている。この板本尊とは、今の大石寺の天王堂に安置している板本尊のことである。私が思うに、後世の者がこの話しを誤って伝えて日有が「本門戒壇の大御本尊」を彫刻したとの説が出たのではないか----

戒壇本尊1 

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■富士山久遠寺(小泉久遠寺)9(黒門、参道、開山堂、富士山が一直線)

 

さて、小泉久遠寺の堂宇・伽藍について話を進めて、まいりたいと思います。

 

黒門から参道を歩いて境内に入り、そのまま石段を登ると、仮本堂があります。

小泉久遠寺11本堂


この仮本堂というのは、明治13(1880)に花火の災禍で、本堂が焼失したときに、富士宮市上野にある東光寺の本堂を譲り受けて建てた堂宇です。

日蓮宗新聞社発行の「日蓮宗本山めぐり」という本によると、この仮本堂は「開山堂」という名前で載っています。

東光寺というのは、ちょうど日蓮正宗大石寺のとなりにある寺で、北山本門寺の末寺です。

大石寺と北山本門寺、富士宮道路・北山インターを結ぶ国道469号線沿いで、大石寺の並びにある寺院です。

小泉久遠寺の本堂が焼失したからと言って、なぜ北山本門寺の末寺の本堂を小泉久遠寺に移したのか、理由がはっきりわかりません。

 

ただ小泉久遠寺と北山本門寺は、中古の時代から、交流があり、立場的には「反大石寺」で共通しているものがあります。

日蓮正宗大石寺9世法主・日有が死去する直前、1482(文明14)9月、大石寺で行われた血脈問答は、大石寺vs北山本門寺・小泉久遠寺・保田妙本寺の組み合わせで、行われています。

小泉久遠寺・保田妙本寺14代貫首・日我の代、小泉久遠寺の代官・日義が日我に無断で、日殿と改名して北山本門寺貫首として晋山したため、日我が怒って日殿を破門にしたということがありました。

近代でも、日蓮宗・本門宗・顕本法華宗の三派合同の後、戦後も北山本門寺と小泉久遠寺は、日蓮宗に残留したままになっているし、創価学会の折伏大進撃の時代も、小泉久遠寺・北山本門寺は、日蓮正宗への合同を最後まで拒絶している。

先代の小泉久遠寺貫首・旭日重氏は、もともと北山本門寺の門流の人で、一時的に小泉久遠寺貫首になっていたが、その後、北山本門寺に戻って、貫首に晋山している。

 

このように小泉久遠寺と北山本門寺は、古くから交流があり、その関係で、東光寺の本堂が移されたのではないかと考えられる。

 

開山堂(仮本堂)の中を見てみようとしたのでしたが、内側からカギがかかっていました。

 

さて黒門から見ると、黒門、参道、開山堂(仮本堂)、富士山が一直線になるように、建てられています。

「日蓮宗本山めぐり」という本によると、額縁から覗くように見えることから「山門の富士」と呼ばれていたそうです。

小泉久遠寺19黒門
 

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■富士山久遠寺(小泉久遠寺)6(道郷紛争は史実である)

 

「日蓮宗・静岡県中部宗務所」

http://www.myouhou.com/index.html

「本山 久遠寺」

http://www.myouhou.com/jiin/2008/09/post-71.html

 

さて「日蓮宗・静岡県中部宗務所」公式ウェブでは、小泉久遠寺の創立について、次のような見解を載せています。

 

「創立

元亨四年(1324)十二月に、目師は興師から称徳本尊を賜り、これを郷師に譲って法統相続のことも興師から許されていたので問題はない筈であったが、天奏より戻った郷師が大石寺の支配を委嘱されたことを宣言すると、同門の日道師が真っ向から反対した。この係争は長い間続いたようであるが正慶元年(1332)に大檀那・南条時光が世を去り、間もなく興目両師が相次いで遷化され、関係者が皆、故人となってしまうと道師の方が郷師よりも十年も年長で、しかも郷師は蓮蔵坊の一グループを支配するに過ぎなかった為、大勢は郷師に利あらずと道師の方に傾いていった。正慶二年(1333)日興・日日両師が郷師に遺嘱した本尊と御影尊をまず佐野氏の館に入れ奉り、爰に越年して翌く、建武元年(1334)正月に小泉に遷座し、もと法華寺と言っていたのを久遠寺と改称した。」

小泉久遠寺7客殿
 

 

これはもちろん、日蓮宗が出している公式見解と言うことになりますが、ここの部分は、日蓮正宗大石寺4世法主・日道、5世日行、6世日時一門と、小泉久遠寺・保田妙本寺の開祖・日郷・5世日伝一門(日郷門流)との紛争。いわゆる道郷七十年紛争について述べている所です。

この中で、日蓮宗としても「道郷七十年紛争」を史実と認めています。当然ですね。

日蓮正宗大石寺59世法主・堀日亨が編纂した「富士宗学要集・史料類聚編」や「富士日興上人詳伝」においても、堀日亨は、「道郷七十年紛争」の史料として、たくさんの史料を載せています。

これが史実でないわけがありません。

 

最近、一部に、学者が書いた本の記述を元に「道郷七十年紛争は史実ではない」と言っている人がいると聞き及んでいますが、これは誤りです。

たとえば、日郷門流の本山・保田妙本寺が格蔵している膨大な史料や本尊、御影像等々の研究をしている千葉大学大学院・人文社会科学研究科教授・佐藤博信氏は、著書「安房妙本寺日我一代記」において、

 

「同坊地(大石寺蓮蔵坊)をめぐって、それ以前の大石寺日道と妙本寺日郷段階に『道郷論争』が展開されたとするのは、まったく歴史的事実に反する」(同書p18)

 

と書いていますが、これは大石寺・日道と妙本寺・日郷の対決・論争を否定しているのであって、大石寺一門と日郷門流の間の、蓮蔵坊の帰属をめぐっての紛争そのものは、史実として認めている。

ただし佐藤博信氏は、著書「安房妙本寺日我一代記」において、道郷紛争のあった期間を、70年ではなく、1365(貞治4)から1393(明徳4)の約30年間としています。

 


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■富士山久遠寺(小泉久遠寺)5(保田妙本寺と両山一寺制2)

 

これを見ると、日蓮・日興・日目から19代貫首までは、小泉久遠寺も保田妙本寺も全く同じです。

その後も多少の相違は見られるものの、昭和の時代に、小泉久遠寺と保田妙本寺の貫首が完全に別人になるまで、ほとんど同じになっています。

保田妙本寺のほうから見ると、39代貫首まで、全く小泉久遠寺の貫首と同一人です。

 

保田妙本寺は千葉県鋸南町保田にあり、小泉久遠寺は静岡県富士宮市小泉にあり、距離的にはかなり離れています。電話もファックスも電子メールもない時代に、こんな離れた本山の貫首が同時に務まるのだろうか、という疑問が沸きます。

 

全ての貫首の資料がないので、確定的なことは言えませんが、「東我西辰」で有名な保田妙本寺・小泉久遠寺14代日我は、普段は保田妙本寺にいて、小泉久遠寺には代官の日義がいたことが史料に残っています。

この日義が、日我に無断で北山本門寺10代貫首・日殿となって、北山本門寺に晋山したため、日我が破門にしたということが、文献に出てきます。

 

保田妙本寺に貫首が住していて、小泉久遠寺は代官がおり、小泉久遠寺の代官が、後に小泉久遠寺専任の貫首となったということかもしれませんが、確定的なことは言えません。

 

それにしても、小泉久遠寺と保田妙本寺の貫首が完全に別れた昭和に入り、保田妙本寺専任の50代貫首・富士日照氏が、日蓮正宗と合同してしまったというのは、なんとも皮肉な歴史です。

 

このあたりから、歴史的にも小泉久遠寺と保田妙本寺は、別々の道を歩んでいくことになります。

小泉久遠寺は、1941年の日蓮宗、本門宗、顕本法華宗の三派合同以来、今日に至るまで、日蓮宗本山として日蓮宗内に留まり、戦後の戸田城聖率いる創価学会の折伏大進撃による攻撃も跳ね返して、日蓮正宗との合同を拒絶しました。

 

一方、保田妙本寺は、創価学会の石田次男理事等の折伏、働きかけにより、50代貫首・富士日照氏の代の1956(昭和31)9月に、日蓮宗から離脱して単立宗派となる。

保田妙本寺1


その翌年の1957(昭和32)4月、保田妙本寺と末寺4ヶ寺が、日蓮正宗に合同・併合されてしまったのである。

日蓮正宗への合同から数えて38年後の1995(平成7)年、51代鎌倉日桜貫首の代に、保田妙本寺は日蓮正宗から離脱しますが、この時、保田妙本寺ととともに日蓮正宗を離脱した末寺は、顕徳寺、遠本寺の2ヶ寺のみで、鎌倉日桜貫首の長男が住職を務める本乗寺は、離脱を拒否して日蓮正宗に残留し、本顕寺は正信会系僧侶が住職を務めているため、法的には日蓮正宗に残留したままになっています。

保田妙本寺の末寺の中には、1956(昭和31)9月の、日蓮宗から離脱して単立宗派になることに単体して、保田妙本寺についてゆかずに、日蓮宗に残留した末寺が9ヶ寺(そのうち4ヶ寺は休眠法人)あります。

つまり、保田妙本寺の、日蓮宗離脱・日蓮正宗合同によって、今日に至るまで日郷門流が実質的にバラバラになってしまった感があります。

 

 

 

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■富士山久遠寺(小泉久遠寺)4(保田妙本寺と両山一寺制)

 

「日蓮宗・静岡県中部宗務所」

http://www.myouhou.com/index.html

「本山 久遠寺」

http://www.myouhou.com/jiin/2008/09/post-71.html

 

前回の日記で述べた「日蓮宗・静岡県中部宗務所」の見解の中に

 

「保田の妙本寺と小泉の久遠寺は、両山一寺の法脈として歴代の上人がその双方を監した。」

小泉久遠寺6客殿


 

とありますが、小泉久遠寺と保田妙本寺は、創建から江戸時代にいたる数百年という長い間、「両山一寺」とか「両山一首」と言われる、同じ人物が貫首として統していた時代がつづきました。

これは一覧表にしたほうが、わかりやすいのではないかと思います。

 

小泉久遠寺・歴代貫首一覧

 

代 小泉久遠寺 (19代貫首までは全く保田妙本寺歴代貫首と同一代・同一人)

1 日蓮

2 日興

3 日目

4 日郷

5 日伝

6 日周

7 日祐

8 日永

9 日安

10 日信

11 日要

12 日清

13 日継

14 日我

15 日侃

16 日珍

17 日東

18 日前

19 日応

20 日舜 ***************

21 日有 保田妙本寺20

22 日重 保田妙本寺21

23 日達 保田妙本寺22

24 日体 保田妙本寺23

25 日賢 保田妙本寺24

26 日壽 保田妙本寺25

27 日淳 保田妙本寺26

28 日忍 ***************

29 日甫 保田妙本寺27

30 日幽 保田妙本寺28

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■日蓮宗本山・実成寺7(日蓮せいしゅうと発音した檀家老人)

 

伊豆実成寺の旧檀家の老人は、まあいろんなことを私に話してくれました。

昭和5年に大きな地震があり、客殿は半壊になり、祖師堂は柱が傾いてしまったという。そこで客殿は、一旦、取り壊して新しく建て直したが、祖師堂は、傾いた柱の修復で復旧したという。

伊豆実成寺14祖師堂


祖師堂と客殿は、元々は屋根が茅葺きだったが、それからトタン屋根になり、さらに銅葺きの屋根になったのだという。

伊豆実成寺7客殿

 

私は、昭和2030年代に巻き起こった、富士門流本山の日蓮正宗併合問題について、この檀家の老人に質問してみました。

この時期、創価学会の強引・執拗な折伏活動により、富士門流本山が次々と日蓮正宗に併合されていきました。まず、四国の讃岐本門寺が、つづいて富士の下条・妙蓮寺が日蓮正宗に合流・併合される。さらに日郷門流の日向・定善寺が、千葉の保田・妙本寺が日蓮正宗に合流・併合になり、さらに富士の西山本門寺まで、日蓮正宗に合流。

北山本門寺と小泉久遠寺は、合流しなかったものの、北山本門寺の末寺である妙泉寺が日蓮正宗に合流・併合されている。

西山本門寺の場合は、塔中・末寺・檀家の承認を得ないで、勝手に貫首が日蓮正宗に合流したとして、裁判になり、最終的に日蓮正宗が敗訴しています。

 

こういう動きの中で、伊豆実成寺の名前は全く出てこないわけです。これに関連する騒動はなかったのか、檀家の老人に質問しました。

すると、この界隈の実成寺檀家でも創価学会に入った家はないし、伊豆実成寺にも創価学会は来なかったといいます。

下条妙蓮寺・北山本門寺・西山本門寺・小泉久遠寺・保田妙本寺であったような創価学会絡みのトラブルも何もなかったといいます。

ところでこの老人は

「この寺は、日尊上人の建立の寺で、創価学会と同じ系統だからねー」

と言います。富士門流の寺だから、日蓮正宗・創価学会とは同じ系統だと言うわけです。

私が、「あれっ」と思ったのは、この老人が「日蓮正宗」のことを「日蓮しょうしゅう」とは発音せずに、「日蓮せいしゅう」と発音していたこと。

 

これは、昔の人、というか老人で「日蓮しょうしゅう」とは発音せずに、「日蓮せいしゅう」と発音する人をごくたまに見かけます。

私は、30年以上昔のことになりますが、創価学会員の勧誘で、創価学会の座談会に無理矢理引っ張り出されたときに、戸田城聖が指導しているのを録音したレコードを聴いたことがあるのですが、戸田城聖が「日蓮しょうしゅう」とは発音せずに、「日蓮せいしゅう」と発音していたことを鮮明に覚えています。

戸田城聖が「日蓮せいしゅう」と発音していたので、戸田城聖の質問会に来ていた創価学会員が

「日蓮しょうしゅうが正しいのですか。日蓮せいしゅうが正しいのですか」と質問していましたから。

それに対して戸田城聖がいろいろ答えていましたが、内容は忘れてしまいました。

 

今の若い人で、「日蓮せいしゅう」と発音している信者は、見かけないですね。なのでこの檀家の老人が、「日蓮せいしゅう」と発音していたのが、私にとっては、ちょっぴり懐かしいなと思いました。

 

 

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■法華本門寺根源(北山本門寺)21(甘い囁きで懐柔)

 

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■法華本門寺根源(北山本門寺)20(日蓮正宗合流を拒絶)

 

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■法華本門寺根源(北山本門寺)19(大石寺と厳しく対峙・対立)

 

北山本門寺が、自山を「大石寺を含む日興門流の祖山である」「本門戒壇建設運動発祥の根本道場」というふうに定義づけているということは、日蓮正宗大石寺が、日興門流の祖山・総本山であることを明確に否定しており、北山本門寺が、日興門流の祖山・総本山であると宣言しているということに他なりません。

これは、室町時代に大石寺と北山本門寺の関係が決裂してから、今日に至るまで全く変わっていないと言えます。

 

1445年、日蓮正宗大石寺9世法主・日有が「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を偽作、さらに「日興跡条条事」をはじめとする数々の相伝書を偽作して、大石寺が「事の戒壇」であり、大石寺こそ日蓮一門、日興門流の祖山・総本山であると言ったとき、これに激しく反発したのが、北山本門寺、小泉久遠寺、保田妙本寺であった。

中でも北山本門寺6代貫首・日浄は、日有の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊偽作を「未聞未見の板本尊彫刻」と言って告発した。

これ以降、大石寺と北山本門寺は、事ある毎に反目しています。

戒壇本尊1


 

江戸時代は、四国の讃岐本門寺がどちらの末寺かをめぐって争い、大石寺22世日俊が造仏読誦堕地獄と非難したことでも、大石寺と北山本門寺が揉めています。

 

明治時代になって、富士門流八本山は「日蓮宗興門派」となったが、大石寺と北山本門寺をはじめとする他の七本山の関係は険悪であり、明治初期に大石寺52世鈴木日霑と北山本門寺34代玉野日志が文書で論争する「霑志問答」を戦わせています。

その後、日蓮宗興門派が本門宗に衣替えしても、本門宗の宗務院が置かれたのは北山本門寺でした。

この日蓮宗興門派ができて興門派管長が設置されたとき、これに大石寺門流が反発して、最終的に大石寺が1900(明治33)年に本門宗を離脱して分離し、日蓮宗富士派として独立しています。

 

1910(明治43)年、北山本門寺の五重塔修理中の三層付近から出火して、五重塔を焼失したのみならず、本堂(御影堂)に飛び火して十間四面の本堂を焼失。

北山本門寺44代貫首・丹治日梁氏が、本堂跡地の隣に仮本堂を造立。

1931(昭和6)年、日蓮六百五十遠忌を記念して北山本門寺46代貫首・井上日光氏が本堂の再建を発願。この年の1121日に落慶法要を修しています。

北山本門寺13本堂3

これが現在の北山本門寺の本堂であり、仮本堂には日興の御影を祀って開山堂としています。

北山本門寺14開山堂2


 

昭和の代に入って北山本門寺47代片山日幹貫首の代に入って、客殿、仁王門、新書院、垂迹堂、重須大神社殿等々が新築造営されて、寺観が一新していますが、ここまでたどり着くのに、厳しい困難な歴史があったと聞いています。

 

 

 

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■法華本門寺根源(北山本門寺)18(日興門流の祖山であると宣言)

 

北山本門寺仁王門の手前左側には、北山本門寺の案内図と並んで、「開創沿革」が書いてあります。これをここに抜き書きします。

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「開創沿革」

当山は山号を富士山と称し、今を距る七百年前、日蓮聖人六上足の第三・白蓮阿闍梨日興上人の開創したもう所、元本門宗の祖山であったが、今では日蓮宗の大本山に列している。

宗祖日蓮聖人の滅後、日興上人は宗祖の遺命に従い、輪次守塔の傍ら、身延山を本拠として、甲斐駿河の伝道をしていられたが、正応元年、宗祖七回忌の頃、事により地頭波木井実長と不和を生じ、仝年十二月、身延を下られて母方の駿河川合で年を越され、翌年三月、南条時光の屈請により上野に移り、十月には大石ヶ原に大石寺を草創され、止住し給うこと満二年、隣邑重須の風光を愛し、仝四年九月、重須丸山に法座を移し、重須石川能忠、上野南条時光の両地頭の施入と上野小泉法華講衆の協力を得て、上人五十三才の永仁六年(西紀1298)二月十五日、本堂、御影堂、垂迹堂の三堂なり、額を掲げて「法華本門寺根源」と称された。

「根源」の二字の意義誠に深く、日蓮聖人門下の行願としての勅命戒壇建立促進運動のここは中心であり、発祥地でもあるとの意であろう。

宜なる哉、爾来三十六年、上人は内に重須談所を興して後進の育成に努め、外哉は自ら、哉は弟子をして天奏国諫し、回方に伝道せしめ、元弘三年(西紀1333)二月七日、安祥として当山で遷化したまう。御年八十八歳なり。

されば当山は「日興上人棲神の法窟」であり、大石寺を含む日興門流の祖山であると同時に、日蓮聖人究極の願業たる本門戒壇建設運動発祥の根本道場でもある。

-------------------------------------------------------------

 

こんな文が、北山本門寺・仁王門前の大きな看板に書いてあります。もちろんこれは北山本門寺の公式見解ということになります。

北山本門寺34仁王門



概ね、歴史的な内容については、日蓮正宗大石寺をはじめ富士門流本山、他山で言っている者と大差ないのだが、日興在世の時代から「法華本門寺根源」と称していた、となっていますが、これは違うんではないですかね。

ここが「本門寺」の寺号を正式に公称したのは、日興在世の時代ではありません。

1515(永正12)626日、北山本門寺が、駿河国の戦国大名・今川氏親に取り入って、今川氏親から重須本門寺の寺号証文等を安堵(あんど・公認)されたことによって、本門寺の寺号を公称したのであるから、開創沿革の記述は史実に反しています。

北山本門寺38案内図
 

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森本日正1
(西山本門寺第五十世貫首・森本日正氏)


1975(昭和50)年、裁判は、檀家側の勝訴で最終決着。これにより吉田義誠(日勇)氏は、西山本門寺から退出。旧門末・福正寺の森本正明(日正)氏が正式に50代貫首として晋山。西山本門寺は、日蓮正宗から再び離脱し、法華宗興門流を公称。吉田義誠(日勇)氏は歴代貫首からは除歴され、森本日正氏が50代貫首となっている。

その森本日正貫首は、1995(平成7)921日、85才で遷化(死去)し、後任の51代貫首には、村田日敬氏が晋山している。この村田日敬貫首の現在については、後の訪問記に出てきますので、そちらで詳しく書きます。

 

現在の西山本門寺の末寺は、塔頭の妙円坊、浄円坊、大詮坊の他に、千葉・福正寺、伊東・光栄寺、富士宮・本妙寺、富士宮・代世寺の7ヶ寺。

千葉・福正寺は、50代森本日正貫首の出身寺で、伊東・光栄寺は51代村田日敬貫首の出身寺である。

 

西山本門寺の旧末寺で、現在、日蓮宗に留まったままになっている寺院が12ヶ寺あります。現末寺とあわせてると、19ヶ寺。

ところが、1786(天明7)年に江戸幕府に提出した末寺帳によると、西山本門寺の末寺数は21になっている。

天明8年(1788)の『法華宗勝劣派西山本門寺寺院本末帳』によると、この中の末寺には、西山本門寺塔中坊は含まれておらず、末寺だけで21

西山本門寺の境内を歩くと、旧塔中坊の跡地らしきところが、いくつも見えます。旧塔中坊も含めると、末寺数はもっと多くなると思います。

 

「富士おさんぽ見聞録・西山本門寺」によると、盛時は30余坊を数えたといい、天明8年(1788)『法華宗勝劣派西山本門寺寺院本末帳』には26か坊と載っているという。

又、江戸後期の地誌『駿河記』には次の12か坊が列記されている。

 

妙圓坊

洗因坊(廃坊)

本泉坊(廃坊)

臨唱坊(廃坊)

大詮坊

本能坊(廃坊)

浄圓坊

常照坊(廃坊)

代信坊(廃坊)

圓信坊(廃坊)

恵林坊(廃坊)

行善坊(廃坊)

これらの多くは、明治初期までに廃された。こんにち、本能坊や本泉坊、行善坊などいつくかの坊は、その跡を確認できると書いてあります。。

http://iiduna.blog49.fc2.com/blog-entry-496.html

 

「富士おさんぽ見聞録・西山本門寺」は、18世紀の西山本門寺を次のように書き記しています。

 

久遠山本妙寺(末頭) 駿州富士郡西山村

良水山興代寺 駿州富士郡西山村

興出山代世寺 駿州富士郡西山村

興立山代行寺 駿州富士郡馬見塚村

上行山安立寺 駿州富士郡青木村

深澤山上行寺 駿州富士郡大宮村

野中山善能寺 駿州富士郡野中村

興起山代立寺 駿州富士郡小泉村

興流山代通寺 駿州富士郡曾比奈村

瀧戸山代信寺 駿州富士郡山本村

富士山上行寺 武州江戸芝弐本榎

富士山上行寺 京都一条通堀川端

富士山上行院 京都北野老松町

富士山上行院 甲州府中愛宕町

大見山上行院 豆州大見地蔵堂村

霊場山光栄寺 豆州伊東吉田村

恵日山広宣寺 豆州伊東芝村

富士山上行院 阿州河内郡額田村

久遠山本因寺 肥州熊本元家町

上行山寿光寺 摂州大坂山小橋村

富士山福正寺 下総千葉郡今井村

 

http://iiduna.blog49.fc2.com/blog-entry-497.html

 

いずれにせよ、末寺の数が減っていると言うことは、廃寺があるということですが、富士地区だけで、西山本門寺末寺で少なくとも3ヶ寺が廃寺になっているといいます。

 

 

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西山本門寺12客殿


■「富士山本門寺(西山本門寺)2(昭和以降の複雑怪奇な歴史)



西山本門寺とは静岡県富士宮市西山671(旧富士郡芝川町)にある法華宗興門流の本山。西山本門寺とは、通称名で、正式には「富士山本門寺根源」といい、これは北山本門寺の正式名と全く同じ。
そもそも西山本門寺とは、北山本門寺貫首だった日代が、北山を擯出されて後、創建した寺院で、「我こそが、本門寺根源だ」という意味で建てたことから、北山本門寺と全く同じ名前にしたのではないかと思われます。
それは、日代が命名した由来だが、外から見ると「富士山本門寺根源」という寺院が、富士山麓に二つあるのは、紛らわしいので、それぞれ、北山本門寺(重須本門寺)、西山本門寺という通称名で呼ばれていたものと考えられる。
富士宮市内にある西山本門寺の案内標識も、正式名の富士山本門寺根源ではなく、「富士山西山本門寺」となっています。
西山本門寺57入口看板
西山本門寺61行き先案内


西山本門寺も、日蓮の六老僧・日興の法脈を継承する日興門流(富士門流)に属し、静岡県の駿東地方に所在する 日蓮正宗大石寺、下条妙蓮寺、北山(重須)本門寺、小泉久遠寺とともに「富士五山」を構成する。
さらに 京都要法寺、伊豆実成寺、保田妙本寺とあわせて「興門八本山」のひとつにも数えられる。明治期には富士門流の統一教団日蓮宗興門派(のち本門宗)の結成に参加。本門宗、日蓮宗、顕本法華宗の三派合同で、日蓮宗に合同。
ところが1957(昭和32)年に、西山本門寺49代・由比日光貫首の独断で、日蓮宗から離脱して単立となり、その後、なんと日蓮正宗に合同してしまうという暴挙に出た。
これが塔中・末寺・檀家の承認なく、貫首の独断で行ったことから、日蓮正宗宗門・由比日光貫首と、日蓮正宗合同に反対する檀家・塔中・末寺で大紛争になり、最終的にこの紛争は、裁判の場に持ち込まれた。
さらに由比日光49代貫首は、後継者として、何と日蓮正宗宗務院渉外部長の吉田義誠(日勇)氏を指名。吉田義誠(日勇)氏は、西山本門寺大学頭・副住職として赴任。
1965(昭和40)年4月、由比日光49代貫首が遷化(死去)し、吉田義誠(日勇)氏が50代貫首として晋山した。由比日光貫首の葬儀は、西山本門寺客殿で、日蓮正宗大石寺66世細井日達法主が下向して行われている。
西山本門寺貫首と、日蓮正宗合同に反対する檀家との裁判は、最高裁判所まで持ち込まれ、1975(昭和50)年、檀家側の勝訴で最終決着した。
これにより吉田義誠(日勇)氏は、西山本門寺から退出。旧門末・福正寺の森本正明(日正)氏が正式に後任貫首として晋山。
西山本門寺は、日蓮正宗から再び離脱し、法華宗興門流を公称。吉田義誠(日勇)氏は歴代貫首からは除歴され、森本日正氏が50代貫首となっている。
このように、昭和以降、まことに複雑な歴史をたどった寺院であり、ここの寺跡調査も、まことに困難を極めました。
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