一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ

「一般社団法人 仏教宗学研究会」とは任意団体として2005年から活動している会の名称。2018年5月に一般社団法人登記。当ブログ名を「仏教宗学研究会のブログ」から「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」に改名。 「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

Category: 興門・日蓮宗(本)小泉久遠寺

■富士山久遠寺(小泉久遠寺)13(65代吉田日鋼貫首の晋山式)

 

日蓮宗宗務院からの辞令授与ののち、2005424日、小泉久遠寺にて65代吉田日綱貫首の晋山式が行われており、以下は新貫首晋山式の模様を伝える日蓮宗新聞の記事です。

 

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「富士宮市 本山小泉久遠寺 法灯継承晋山式」

「第六十五世吉田日綱貫首晋山『給仕第一を心に…』宗風宣揚に精進誓う」

静岡県富士宮市の本山小泉久遠寺で、424日、第65世吉田日綱貫首の法灯継承晋山式が営まれ、桜花爛漫の青空の下、僧侶檀信徒約600人が参列した。

午前11時半から晋山行列が行われ、稚児70人と共に式衆・檀信徒が撃鼓唱題しながら、久遠寺の黒門から本堂までを練り歩いた。

午後1時から富士駿河雅楽会による越天楽の調べに乗せて晋山法要が始まり、はじめに静岡県中部宗務所の武田真良所長から辞令伝達がなされた。続いて旭日重前貫首から吉田新貫首に法灯継承の証として法華経一部と久遠寺過去帳の相承が行われ、吉田新貫首発声のもと玄題三唱した。

式中、行列に参加した稚児による献香、献花、献灯が行われ、天童祭文が声高らかに読み上げられた。

吉田新貫首は奉告文の中で、久遠寺開山の宰相阿闍梨日郷上人から連綿と伝わる由来、宗門随一の大太鼓を納める太鼓堂の建立と参道整備を行った63世日隆上人の功績、64世日重上人の伝道布教等の偉業を称え、さらなる寺門興隆、宗風宣揚に精進していくことを誓った。

法要の後、武田所長、本間日諄大本山北山本門寺貫首、永倉日侃本山鎌倉本覺寺貫首、地元管区の遠藤是秀宗会議員が祝辞を述べた。

最後に吉田新貫首が、「法縁各聖ならびに総代各位の御推挙を受け、 63世日隆上人の育てた桜並木のもと、64世日重上人に導かれて65世の法統を継承するという不思議な仏縁を感じております。浅学非才の身ではありますが、給仕第一を心に刻み、この重責を全うしていく覚悟です。なにとぞご指導ご鞭撻を賜りますよう、お願い致します」と決意を延べ、法灯継承晋山式を終了した。

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この記事の内容も、なかなか興味深いものがあります。

吉田日綱氏の先代の貫首・旭日重氏は、この後、北山本門寺49代貫首に晋山しており、吉田日綱貫首の晋山式に、北山本門寺48代本間日諄貫首が祝辞を述べています。

この本間日諄貫首は、2009年(平成21年)1128日に93才で遷化(死去)していますので、この時は89才だったということになります。高齢を押しての出席だったということでしょうか。

小泉久遠寺13客殿


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■富士山久遠寺(小泉久遠寺)12(日蓮宗から本山貫首辞令)

 

2004年に、新しい小泉久遠寺65代貫首に吉田日綱(顕綱)氏が晋山しているのですが、2004517日に日蓮宗宗務院で行われた辞令授与式の模様を伝える「日蓮宗新聞」の記事がとても興味深いので、ここで紹介したいと思います。


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「本山小泉久遠寺貫首に吉田顕綱師」

『歴史と伝統を受け継いで護法護持に努めます』

静岡県富士宮市の本山小泉久遠寺の貫首に吉田顕綱師(静岡県長泉町圓蔵寺代務住職)が就任、517日、東京・大田区池上の宗務院で辞令交付式が行われた。

岩間湛正宗務総長から辞令を手渡された吉田新貫首は『歴史と伝統を受け継いで、護法護持に勤めて参ります』と抱負を語った。

久遠寺は、日蓮聖人の孫弟子にあたり六老僧日興上人の門下である宰相阿闍梨日郷上人が建武元年(1334)に開創したもので、日興上人を派祖とする富士門流の有力本山の一つとして発展した。山号に富士山と冠する通り、霊峰富士を仰ぐ景勝の地に建ち、山門と本堂と富士山が一直線に望める。山梨県の総本山身延山久遠寺と区別して富士山久遠寺とも称される。」

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小泉久遠寺13客殿


 

まず私が興味深いと思ったのは、日蓮宗本山貫首の晋山に際して、日蓮宗宗務院から辞令が交付されたということ。

日蓮宗総本山法主、大本山、本山貫首の人選は、その門流のやり方や時代性、状況等によって異なっていると聞いています。

仏教各宗派の中には、今でも総本山法主(座主・長吏)の専政体制になっていて、本山貫首や末寺住職は全て総本山法主が任命する体制になっている宗派もあります。日蓮正宗なんかはそうです。

しかし日蓮宗の場合はそうではなく、どちらかというと、各門流の連合体に近い体制になっていて、日蓮宗管長を身延山久遠寺法主が兼任する場合もあるし、兼任しない場合もある。法主専政の体制ではありません。

日蓮宗宗務院も、身延山久遠寺ではなく、大本山・池上本門寺にあります。

本山貫首も、各門流で選ぶ場合もあれば、人選が難航した場合は、宗務院で人事調整する場合もあると聞いています。

小泉久遠寺65代吉田日鋼貫首が、どういう経緯・手続きで選ばれたのかは知りませんが、こうして貫首として決まった場合は、日蓮宗宗務院が、辞令を出しているというのは、興味深く読みました。

 

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■富士山久遠寺(小泉久遠寺)11(寺跡調査にご協力を)

 

小泉久遠寺の客殿に隣接して、太鼓堂という堂宇が建っています。これは小泉久遠寺63世貫首・日隆氏の建立ということで、この中には、宗門随一の太鼓が納められていると言うことです。

ここもカギがかかって、中を見ることはできませんでした。

 

小泉久遠寺は、黒門を表門として、かつて旧塔中坊があったところを、全て境内として推定したとしても、そんなに広いという印象はないですね。

小泉久遠寺境内には、「富士宮市・歩く博物館コース」と題する、富士宮市教育委員会が建てた案内板が建っていて、そこには次のように書いてあります。

 

「富士五山(富士山麓日蓮宗五大寺)の一つに数えられる大きな寺で、広い山内と参道正面の本堂跡の礎石、南に真っ直ぐに延びた広い参道に、かつての大寺の面影を留めている。

また現在は、参道に沿って大乗坊があるだけだが、盛時には十二ヶ坊、八門が参道沿いに並んでいた」

小泉久遠寺17富士宮市


 

十二ヶ坊というと、今の大石寺の表塔中とほぼ同じと言うことになるが、大石寺旧境内、北山本門寺旧境内、西山本門寺よりも、こちらのほうが狭いと思われます。

「そんなに大きな寺院だったのかな」と思ってしまうくらいです。

 

小泉久遠寺の寺跡調査・訪問記は、最初の回に書きましたが、まだまだ途上です。

この寺院の寺跡調査に関し、皆様方のご協力をいただけたら、幸いです。

よろしくお願い申し上げます。

 

 

 

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■富士山久遠寺(小泉久遠寺)10(堂宇の並び方が共通)

 

黒門から境内の入り口までの間、かつて塔中坊があったところは、今は民家が密集しており、境内には入っていない。そのためか、小泉久遠寺の境内は、そんなに広く感じない。

 

小泉久遠寺の境内にある堂宇は、向かって左側から、庫裡、客殿、開山堂(旧本堂)というふうに並んで建っています。この並び方は、日蓮正宗大石寺、富士妙蓮寺、北山本門寺、伊豆実成寺、小泉久遠寺、讃岐本門寺に共通しています。

さらに客殿の裏手には、宝蔵が建っており、これも大石寺、西山本門寺と共通しています。

大石寺と小泉久遠寺は、蓮蔵坊紛争以来、同じ富士門流の中で対立関係にありながら、伽藍・堂宇の配置が、ほとんど同じであるというのは、なんとなく見ていて奇異に見えます。

 

境内の中央にあるのが、客殿。日蓮宗新聞社刊行「日蓮宗本山めぐり」という本によると、この客殿を「本堂」と紹介しています。

小泉久遠寺6客殿


本堂は火災で焼失しており、仮本堂はあるものの、今は客殿を、本堂として使用しているようです。中を見ようとしたのですが、内側からカギがかかっていました。

 

客殿を「本堂」と紹介しているのは、現在、小泉久遠寺が日蓮宗に所属していることが大きいと思われます。

日蓮宗寺院の伽藍・堂宇は、寺院の本尊を祀る本堂と、宗祖・日蓮像を祀る祖師堂の二堂建てるのが、本来の日蓮宗の化儀ということです。

これは総本山・身延山久遠寺、大本山・池上本門寺、小湊誕生寺、清澄寺、中山法華経寺、京都本圀寺、京都妙顕寺等、みなそうなっています。例外は富士門流の日蓮宗大本山・北山本門寺で、こちらは祖師堂(御影堂)と本堂がいっしょになっています。

小泉久遠寺の場合は、富士門流で、元来、本堂と客殿の二堂あったわけですが、本堂を焼失してしまったため、客殿が本堂になったということです。

しかし富士門流共通の堂宇の建て方からすると、小泉久遠寺の旧本堂は、日蓮像を祀る御影堂(祖師堂)だったと考えられます。そうすると、仮に旧本堂(祖師堂・御影堂)が今に残っていたとしても、小泉久遠寺の場合は、客殿が日蓮宗の「本堂」に相当するということになります。

これは、伊豆実成寺の場合も、同じです。伊豆実成寺の場合は、祖師堂と客殿の二堂あるわけですが、日蓮宗では、客殿を「本堂」と紹介しています。

 

さらに小泉久遠寺と富士門流本山との共通性を言うなら、鶴丸の紋です。

小泉久遠寺2鶴丸


これも日蓮正宗大石寺、富士妙蓮寺、西山本門寺、小泉久遠寺、伊豆実成寺、京都要法寺の他、法華宗の岡宮光長寺も共通しています。

 

さて小泉久遠寺は、日蓮宗本山という格付けになっているのですが、日蓮宗寺院に共通している日蓮の立像が見当たりません。富士門流は、北山本門寺以外は、日蓮の立像は建てていないのですが、そうするとここは、日蓮宗ながら、富士門流としての寺院のやり方を蹈襲していると言うことか。

 

 

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■富士山久遠寺(小泉久遠寺)9(黒門、参道、開山堂、富士山が一直線)

 

さて、小泉久遠寺の堂宇・伽藍について話を進めて、まいりたいと思います。

 

黒門から参道を歩いて境内に入り、そのまま石段を登ると、仮本堂があります。

小泉久遠寺11本堂


この仮本堂というのは、明治13(1880)に花火の災禍で、本堂が焼失したときに、富士宮市上野にある東光寺の本堂を譲り受けて建てた堂宇です。

日蓮宗新聞社発行の「日蓮宗本山めぐり」という本によると、この仮本堂は「開山堂」という名前で載っています。

東光寺というのは、ちょうど日蓮正宗大石寺のとなりにある寺で、北山本門寺の末寺です。

大石寺と北山本門寺、富士宮道路・北山インターを結ぶ国道469号線沿いで、大石寺の並びにある寺院です。

小泉久遠寺の本堂が焼失したからと言って、なぜ北山本門寺の末寺の本堂を小泉久遠寺に移したのか、理由がはっきりわかりません。

 

ただ小泉久遠寺と北山本門寺は、中古の時代から、交流があり、立場的には「反大石寺」で共通しているものがあります。

日蓮正宗大石寺9世法主・日有が死去する直前、1482(文明14)9月、大石寺で行われた血脈問答は、大石寺vs北山本門寺・小泉久遠寺・保田妙本寺の組み合わせで、行われています。

小泉久遠寺・保田妙本寺14代貫首・日我の代、小泉久遠寺の代官・日義が日我に無断で、日殿と改名して北山本門寺貫首として晋山したため、日我が怒って日殿を破門にしたということがありました。

近代でも、日蓮宗・本門宗・顕本法華宗の三派合同の後、戦後も北山本門寺と小泉久遠寺は、日蓮宗に残留したままになっているし、創価学会の折伏大進撃の時代も、小泉久遠寺・北山本門寺は、日蓮正宗への合同を最後まで拒絶している。

先代の小泉久遠寺貫首・旭日重氏は、もともと北山本門寺の門流の人で、一時的に小泉久遠寺貫首になっていたが、その後、北山本門寺に戻って、貫首に晋山している。

 

このように小泉久遠寺と北山本門寺は、古くから交流があり、その関係で、東光寺の本堂が移されたのではないかと考えられる。

 

開山堂(仮本堂)の中を見てみようとしたのでしたが、内側からカギがかかっていました。

 

さて黒門から見ると、黒門、参道、開山堂(仮本堂)、富士山が一直線になるように、建てられています。

「日蓮宗本山めぐり」という本によると、額縁から覗くように見えることから「山門の富士」と呼ばれていたそうです。

小泉久遠寺19黒門
 

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■富士山久遠寺(小泉久遠寺)8(盛時は十二ヶ坊あった塔中坊)

 

小泉久遠寺の訪問記は、前置きがずいぶん長くなってしまいました。

小泉久遠寺には、何度か訪問しているのですが、いずれも車で行きました。ここは富士宮駅、富士駅をはじめ、JRの駅からはかなり離れた所にあるため、電車で行く場合は、バスに乗り継がなくてはなりません。しかしながら、小泉久遠寺にバスで行くにはどの駅からどのバスに乗って良いのか、さっぱりわかりません。

車だったら東名高速道路・富士インターで降りて、そのまま西富士道路を走り、中小泉交差点からちょっと入った所なので、車で言ったほうがぜんぜんわかりやすいですね。

 

小泉久遠寺の表門は、黒門です。

小泉久遠寺19黒門


表門が黒門になっているのは、富士門流では、大石寺、西山本門寺、伊豆実成寺と同じです。

黒門という名前は、門が全て黒塗りになっているため、このように呼ばれているものですが、黒門の詳しい意味は、伊豆実成寺の黒門前にある伊豆市教育委員会の看板に書いてあり、伊豆実成寺訪問記の中で、書きました。

「伊豆実成寺(2)~伊豆実成寺・黒門前に建てられていた伊豆市教育委員会の看板」

http://bukkyoshugakukenkyukai.doorblog.jp/archives/4404697.html

 

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(実成寺の黒門と塁址)

…黒門は「緇門」(しもん)と同じで、僧侶、または僧侶の一門ということで、この門から寺域に入る、という意味である。……

伊豆市教育委員会

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何と言っても、教育委員会の見解ですから、間違いないでしょう。

 

さて車で西富士道路から中小泉交差点を右に曲がって、住宅街をくぐり抜けていくと、黒門と境内の真ん中あたりに、ひょっこりと出ます。なので、小泉久遠寺の黒門については、うっかり見逃してしまいがちになります。

この黒門から境内に向かって長い参道が伸びていますが、塔中坊は、大乗坊のひとつだけ。

参道から境内地の周辺には、民家や学校が密集して建ち並んでいます。

かつてこの参道のまわりには、小泉久遠寺の塔中坊が立ち並んでいたらしいのですが、以前に書いたように、戦国時代から江戸時代にかけての兵火やたび重なる火災で焼失し、再建されないまま今に至っていると言うことです。

 

それでは、往時の小泉久遠寺の参道には、どれだけの塔中坊があったのかというと、小泉久遠寺の境内に、富士宮市教育委員会が建てた「富士宮市・歩く博物館コース・久遠寺」と書かれた案内板が立っていて、その中に、こう書いてあります。

 

「現在は参道に沿って大乗坊があるだけだが、盛時には、十二ヶ坊、八門が参道沿いに並んでいた」

小泉久遠寺17富士宮市

 

この富士宮市教育委員会の見解によれば、かつて小泉久遠寺には、十二ヶ坊、八門があったということです。十二ヶ坊というと、今の大石寺の表塔中とほぼ同じくらいと言うことになります。

京都・要法寺の塔中は八院なので、これよりも大きいということになります。

 

しかし十二ヶ坊あった塔中坊も、今残っているのは大乗坊だけです。

 

 

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■富士山久遠寺(小泉久遠寺)7(江戸時代の火災の後に植えられた楠木)

 

「日蓮宗・静岡県中部宗務所」

http://www.myouhou.com/index.html

「本山 久遠寺」

http://www.myouhou.com/jiin/2008/09/post-71.html

 

さて「日蓮宗・静岡県中部宗務所」公式ウェブでは、小泉久遠寺の歴史について、次のような見解を載せています。

 

「沿革

天文十八年(1549)十四世・日我上人の時に今川氏真より朱印下附、以来将軍が替わるごとに必ず御朱印が下されている。元和八年(1622)に御影堂が建立される。寛政元年(1789)十一代将軍のとき、松平紀伊守を通じて国土安穏の祈祷を仰せつけられ、三月二日より十日までの間壽量品三百巻を読誦奉行している。記録によれば毎年正月六日、登城総礼の席に列し、且つ将軍の葬祭等には納経拝礼の儀についた。宝歴十一年、宝永十年、安永八年、天明六年、嘉永六年などの例がある。

 

回禄の厄

 当山は頻々と火炎に遭っているようで、他寺院にくらベでその回数が些か多い。天文六年に兵火で全焼、二十一世・日有師のとき木堂・天王堂が焼失し、次の日重師の代に塔中が全焼している。天明五年には寺領の民家が多く焼けているが、天保六年、四十六世・日諦師の時本堂・書院・塔中が全焼、明治元年四月、四十九世・日英師の代には客殿・書院・大庫裡・長屋門・玄間など五棟が焼失、大庫裡は同年六月直ちに再建したが、客殿は昭和二十七年に完成した。八十五年目のことである。尚、明胎十三年十一月九日、五十一世・日任師の代、小学校開校祝いの花火の災禍で本堂が焼け落ち、十七年に次代日霊師が上野・東光寺の本堂を譲り受けて仮本堂としたのが、現在も猶残っている。(山門の正面)」

 

 

これは、小泉久遠寺の歴史についての、日蓮宗の正式見解ということになります。

ここで注目すべき事は、火災の多さです。

近代以前においては、消防組織も消防技術も今ほど整っていなかったため、火災が実に多かったことは、少しでも歴史を研究すると出てくることです。

特に、史料においては、江戸時代の火災の多さがよく出てきます。「火事と喧嘩は江戸の華」と言われたように、江戸時代の政治の中心・江戸の街も火災が多かったことは知られていますし、富士地方でも、何度も火災に見舞われたのは小泉久遠寺だけではなく、日蓮正宗大石寺も、北山本門寺も同じです。

 

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■富士山久遠寺(小泉久遠寺)6(道郷紛争は史実である)

 

「日蓮宗・静岡県中部宗務所」

http://www.myouhou.com/index.html

「本山 久遠寺」

http://www.myouhou.com/jiin/2008/09/post-71.html

 

さて「日蓮宗・静岡県中部宗務所」公式ウェブでは、小泉久遠寺の創立について、次のような見解を載せています。

 

「創立

元亨四年(1324)十二月に、目師は興師から称徳本尊を賜り、これを郷師に譲って法統相続のことも興師から許されていたので問題はない筈であったが、天奏より戻った郷師が大石寺の支配を委嘱されたことを宣言すると、同門の日道師が真っ向から反対した。この係争は長い間続いたようであるが正慶元年(1332)に大檀那・南条時光が世を去り、間もなく興目両師が相次いで遷化され、関係者が皆、故人となってしまうと道師の方が郷師よりも十年も年長で、しかも郷師は蓮蔵坊の一グループを支配するに過ぎなかった為、大勢は郷師に利あらずと道師の方に傾いていった。正慶二年(1333)日興・日日両師が郷師に遺嘱した本尊と御影尊をまず佐野氏の館に入れ奉り、爰に越年して翌く、建武元年(1334)正月に小泉に遷座し、もと法華寺と言っていたのを久遠寺と改称した。」

小泉久遠寺7客殿
 

 

これはもちろん、日蓮宗が出している公式見解と言うことになりますが、ここの部分は、日蓮正宗大石寺4世法主・日道、5世日行、6世日時一門と、小泉久遠寺・保田妙本寺の開祖・日郷・5世日伝一門(日郷門流)との紛争。いわゆる道郷七十年紛争について述べている所です。

この中で、日蓮宗としても「道郷七十年紛争」を史実と認めています。当然ですね。

日蓮正宗大石寺59世法主・堀日亨が編纂した「富士宗学要集・史料類聚編」や「富士日興上人詳伝」においても、堀日亨は、「道郷七十年紛争」の史料として、たくさんの史料を載せています。

これが史実でないわけがありません。

 

最近、一部に、学者が書いた本の記述を元に「道郷七十年紛争は史実ではない」と言っている人がいると聞き及んでいますが、これは誤りです。

たとえば、日郷門流の本山・保田妙本寺が格蔵している膨大な史料や本尊、御影像等々の研究をしている千葉大学大学院・人文社会科学研究科教授・佐藤博信氏は、著書「安房妙本寺日我一代記」において、

 

「同坊地(大石寺蓮蔵坊)をめぐって、それ以前の大石寺日道と妙本寺日郷段階に『道郷論争』が展開されたとするのは、まったく歴史的事実に反する」(同書p18)

 

と書いていますが、これは大石寺・日道と妙本寺・日郷の対決・論争を否定しているのであって、大石寺一門と日郷門流の間の、蓮蔵坊の帰属をめぐっての紛争そのものは、史実として認めている。

ただし佐藤博信氏は、著書「安房妙本寺日我一代記」において、道郷紛争のあった期間を、70年ではなく、1365(貞治4)から1393(明徳4)の約30年間としています。

 


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■富士山久遠寺(小泉久遠寺)5(保田妙本寺と両山一寺制2)

 

これを見ると、日蓮・日興・日目から19代貫首までは、小泉久遠寺も保田妙本寺も全く同じです。

その後も多少の相違は見られるものの、昭和の時代に、小泉久遠寺と保田妙本寺の貫首が完全に別人になるまで、ほとんど同じになっています。

保田妙本寺のほうから見ると、39代貫首まで、全く小泉久遠寺の貫首と同一人です。

 

保田妙本寺は千葉県鋸南町保田にあり、小泉久遠寺は静岡県富士宮市小泉にあり、距離的にはかなり離れています。電話もファックスも電子メールもない時代に、こんな離れた本山の貫首が同時に務まるのだろうか、という疑問が沸きます。

 

全ての貫首の資料がないので、確定的なことは言えませんが、「東我西辰」で有名な保田妙本寺・小泉久遠寺14代日我は、普段は保田妙本寺にいて、小泉久遠寺には代官の日義がいたことが史料に残っています。

この日義が、日我に無断で北山本門寺10代貫首・日殿となって、北山本門寺に晋山したため、日我が破門にしたということが、文献に出てきます。

 

保田妙本寺に貫首が住していて、小泉久遠寺は代官がおり、小泉久遠寺の代官が、後に小泉久遠寺専任の貫首となったということかもしれませんが、確定的なことは言えません。

 

それにしても、小泉久遠寺と保田妙本寺の貫首が完全に別れた昭和に入り、保田妙本寺専任の50代貫首・富士日照氏が、日蓮正宗と合同してしまったというのは、なんとも皮肉な歴史です。

 

このあたりから、歴史的にも小泉久遠寺と保田妙本寺は、別々の道を歩んでいくことになります。

小泉久遠寺は、1941年の日蓮宗、本門宗、顕本法華宗の三派合同以来、今日に至るまで、日蓮宗本山として日蓮宗内に留まり、戦後の戸田城聖率いる創価学会の折伏大進撃による攻撃も跳ね返して、日蓮正宗との合同を拒絶しました。

 

一方、保田妙本寺は、創価学会の石田次男理事等の折伏、働きかけにより、50代貫首・富士日照氏の代の1956(昭和31)9月に、日蓮宗から離脱して単立宗派となる。

保田妙本寺1


その翌年の1957(昭和32)4月、保田妙本寺と末寺4ヶ寺が、日蓮正宗に合同・併合されてしまったのである。

日蓮正宗への合同から数えて38年後の1995(平成7)年、51代鎌倉日桜貫首の代に、保田妙本寺は日蓮正宗から離脱しますが、この時、保田妙本寺ととともに日蓮正宗を離脱した末寺は、顕徳寺、遠本寺の2ヶ寺のみで、鎌倉日桜貫首の長男が住職を務める本乗寺は、離脱を拒否して日蓮正宗に残留し、本顕寺は正信会系僧侶が住職を務めているため、法的には日蓮正宗に残留したままになっています。

保田妙本寺の末寺の中には、1956(昭和31)9月の、日蓮宗から離脱して単立宗派になることに単体して、保田妙本寺についてゆかずに、日蓮宗に残留した末寺が9ヶ寺(そのうち4ヶ寺は休眠法人)あります。

つまり、保田妙本寺の、日蓮宗離脱・日蓮正宗合同によって、今日に至るまで日郷門流が実質的にバラバラになってしまった感があります。

 

 

 

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■富士山久遠寺(小泉久遠寺)4(保田妙本寺と両山一寺制)

 

「日蓮宗・静岡県中部宗務所」

http://www.myouhou.com/index.html

「本山 久遠寺」

http://www.myouhou.com/jiin/2008/09/post-71.html

 

前回の日記で述べた「日蓮宗・静岡県中部宗務所」の見解の中に

 

「保田の妙本寺と小泉の久遠寺は、両山一寺の法脈として歴代の上人がその双方を監した。」

小泉久遠寺6客殿


 

とありますが、小泉久遠寺と保田妙本寺は、創建から江戸時代にいたる数百年という長い間、「両山一寺」とか「両山一首」と言われる、同じ人物が貫首として統していた時代がつづきました。

これは一覧表にしたほうが、わかりやすいのではないかと思います。

 

小泉久遠寺・歴代貫首一覧

 

代 小泉久遠寺 (19代貫首までは全く保田妙本寺歴代貫首と同一代・同一人)

1 日蓮

2 日興

3 日目

4 日郷

5 日伝

6 日周

7 日祐

8 日永

9 日安

10 日信

11 日要

12 日清

13 日継

14 日我

15 日侃

16 日珍

17 日東

18 日前

19 日応

20 日舜 ***************

21 日有 保田妙本寺20

22 日重 保田妙本寺21

23 日達 保田妙本寺22

24 日体 保田妙本寺23

25 日賢 保田妙本寺24

26 日壽 保田妙本寺25

27 日淳 保田妙本寺26

28 日忍 ***************

29 日甫 保田妙本寺27

30 日幽 保田妙本寺28

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■富士山久遠寺(小泉久遠寺)3(小泉近辺の信者に本尊授与していた日時)

 

「日蓮宗・静岡県中部宗務所」

http://www.myouhou.com/index.html

「本山 久遠寺」

http://www.myouhou.com/jiin/2008/09/post-71.html

 

前回の日記で述べた「日蓮宗・静岡県中部宗務所」の見解の中にある

 

「当所は富士の裾野でも稍々小高い地域に当つていて、日蓮聖人在世中より日興上人はこの土地を「小泉村は仏法有縁の地」と言われ嘱望し、弘長年間より開教に努められ小泉法華講ができていた。」

の中に出てくる「小泉法華講」の語句ですが、これを聞いてすぐに思い浮かぶのが、日蓮正宗大石寺6世法主・日時が1403(応永10)4月に書写した本尊の授与書に出てくる「大石寺檀那小泉講」です。

日蓮宗の見解では、「小泉法華講ができていた。」となっていますが、大石寺6世日時の本尊の授与書は、「大石寺檀那小泉講」であって、小泉法華講ではありません。

 

そうすると日蓮宗の見解は、間違った見解なのか、という疑問が沸くわけですが、そうとも言えません。

これはどういうことかと言うと、確かに1403(応永10)4月に日時が書写した本尊の授与書は「大石寺檀那小泉講」となっていますが、1404(応永11)6月に、日時が書写した本尊の授与書に

「奥州柳目法華講衆等達現当二世の為なり」(堀日亨編纂『富士宗学要集8巻』より)

と書いてあって、ここに「法華講衆」という単語が出てくるわけです。

日時の本尊に出てくる「法華講衆」という単語が、大石寺の法主が本尊の授与書で書いた、最初の「法華講衆」という単語ということになります。

「大石寺檀那小泉講」の「檀那」とは信者のことで、「小泉」とは、今の小泉久遠寺がある富士宮市小泉のあたりと推測され、すでに大石寺6世法主・日時の代には、大石寺周辺に信者を束ねる「講中」があったことがわかるわけです。

「大石寺檀那小泉講」の中には、「法華講衆」という単語は使われていませんが、大石寺法主が書写した本尊の授与書に「法華講衆」という単語が出てきているわけですから、「法華講衆」という単語は、大石寺や小泉久遠寺の富士地方でも使われていたと、考えられるわけです。

小泉久遠寺22石碑

 

日蓮正宗大石寺一門の信者である法華衆たちの「講」が、すでに大石寺6世法主・日時の時代においては、大石寺の周辺の信者たち・法華衆たちまでもが結んでいたということである。

日時の代ですでに「法華講」が存在していたということは、大石寺の本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が、日蓮正宗大石寺9世法主・日有によって偽作された傍証である、ということです。

ここのところは、「日蓮正宗大石寺の『本門戒壇の大御本尊』なる板本尊は日蓮正宗大石寺9世法主日有の偽作だ」PART2(検証81150)

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=42909387&comm_id=406970

 

ここの検証116で詳述しています。

 

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■富士山久遠寺(小泉久遠寺)2(静岡県中部宗務所の見解)

 

小泉久遠寺の歴史については、いつ会えるかわからない僧侶の話に期待するよりも、日蓮宗の見解を聞いた方が手っ取り早い気がします。

小泉久遠寺が所属する日蓮宗・静岡県中部宗務所のホームページに、小泉久遠寺の歴史の概略が載っていますので、そちらを引用します。これを見たほうが早いです。

「日蓮宗・静岡県中部宗務所」

http://www.myouhou.com/index.html

「本山 久遠寺」

http://www.myouhou.com/jiin/2008/09/post-71.html

「開創

後醍醐天皇の御代、建武元年(1344)正月、日蓮聖人の法孫・宰相阿闍梨日郷上人によって日興上人の遺志を鍵ぎ本門戒壇一連の道場がこの地に開かれた。当所は富士の裾野でも稍々小高い地域に当つていて、日蓮聖人在世中より日興上人はこの土地を「小泉村は仏法有縁の地」と言われ嘱望し、弘長年間より開教に努められ小泉法華講ができていた。

開山 日郷上人

 永仁元年(1293)八月十五日、越後の国 土岐源氏の嫡流・太田持氏の五男として生まれた。延慶三牛(1310)十八歳のとき日目上人の門に入った。その後は大石寺の日目、本門寺の日興両上人の間を常に往復して勉学に励まれ、得度二年目の正和元年(1312)僅か二十歳の時興師の命により北山大久保に本妙寺を創建した。「久遠寺創立緯起」にも「日郷上人、最初建立の寺なり」と明記されており如何に天稟の資質を具えておられたかがわかる。後に、建武二年(1335)七月、二十七歳の時安房・上総に弘教せられ保田吉浜の豪族・笹生左衛門左尉を教化して法華堂を創立、妙本寺として発展する。尚、保田の妙本寺と小泉の久遠寺は、両山一寺の法脈として歴代の上人がその双方を監した。」

小泉久遠寺13客殿

 

「小泉法華講」の名前は、日蓮正宗大石寺59世法主・堀日亨が編纂した「富士宗学要集」にも出てきます。有名な所では、大石寺6世法主・日時が書写した曼荼羅本尊の中に「小泉法華講」の名前が出てきます。

日時の代と言えば、大石寺と日郷門流の七十年紛争が終息した時の法主で、小泉法華講に大石寺法主が漫荼羅本尊を書写して授与したとなると、何やらいぶかしげに思ってしまいがちです。

しかしよく検証してみると、この時代では当たり前のことだと言うことがわかるわけです。

 

日本全国の庶民が、特定の仏教寺院の信者として固定化されたのは、江戸時代初期の「宗門改」によって、完成したものです。

それ以前は、どうだったかというと、僧侶は、所属する宗派、門流、寺院は決まっていたでしょうが、信者は、というと、実に曖昧で、浄土宗、浄土真宗、禅宗、律宗、日蓮宗という区分けはあったでしょうけども、日蓮宗の中では、信者は、小泉久遠寺にも行けば、北山本門寺にも行くし、大石寺にも行く。はたまた身延山久遠寺にも行く、というふうだった。

 

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■富士山久遠寺(小泉久遠寺)1(日郷門流で日蓮宗本山)

 

小泉久遠寺とは、富士門流八本山のひとつで、富士五山(富士大石寺、富士妙蓮寺、小泉久遠寺、北山本門寺、西山本門寺)のひとつでもあります。

小泉久遠寺6客殿


富士五山とは、富士地方にある富士門流本山のことで、他の三本山は、伊豆・実成寺、京都・要法寺、保田妙本寺です。富士五山はすべて静岡県富士宮市にあります。

本山とは言っても、小泉久遠寺の末寺の数は、塔中の大乗坊と妙円寺、円蔵寺、長遠寺の4ヶ寺。末寺の数は少ないですね。富士門流の中を見ても、大石寺以外では

北山本門寺が塔中・末寺が36ヶ寺

京都要法寺の現塔中・末寺が50ヶ寺の他に、日蓮宗に留まっている旧末寺が34ヶ寺、日蓮正宗に併合されてしまった末寺を入れると約100ヶ寺くらいの規模がある。

西山本門寺が現塔中・末寺が7ヶ寺の他に、日蓮宗に留まっている旧末寺が12ヶ寺あるので、合計すると19ヶ寺になる。

小泉久遠寺と同じ日郷門流の保田妙本寺は、現末寺が顕徳寺、遠本寺の2ヶ寺の他に、日蓮正宗に留まっている本乗寺、日蓮正宗正信会の住職が居座っている本顕寺、日蓮宗に留まっている4ヶ寺、他に塔頭4ヶ寺を入れると12ヶ寺になる。

これに対して、伊豆実成寺が末寺4ヶ寺、小泉久遠寺が末寺4ヶ寺だから、本山の規模としては小さい方と言うことになります。

 

しかし日郷門流というふうに考えれば、九州に本山・定善寺があり、ここの末寺が6ヶ寺。ちなみに定善寺の本末は、現在、日蓮正宗に併合されてしまっており、この他に、定善寺の日蓮正宗合同に反対して、日蓮宗に留まったり、大日蓮宗に参加したりした末寺が12:ヶ寺ある。

定善寺も、元々は小泉久遠寺、保田妙本寺の末寺という位置づけだったと聞きます。

 

小泉久遠寺、保田妙本寺は、大石寺と同じく、日蓮、日興、日目を宗祖・開山・三祖と立てていますが、実質的な開祖は、日興の新六僧第四位の日郷で、小泉久遠寺・保田妙本寺・日向定善寺は、元々は、この日郷門流と呼ばれている一門でした。

明治から1941(昭和16)年までは、富士門流八本山でつくる日蓮宗興門派、大石寺が独立した後は、本門宗をつくっていましたが、昭和16年の日蓮宗、本門宗、顕本法華宗の三派合同で日蓮宗に合同。戦後、保田妙本寺、西山本門寺、京都要法寺等々は日蓮宗から独立していきましたが、小泉久遠寺は、北山本門寺、伊豆実成寺らとともに日蓮宗に留まったまま、日蓮宗本山という格付けになっています。

 

正式名は富士山久遠寺といい、この山号は、妙蓮寺、北山本門寺、西山本門寺と同じ。大石寺は「多宝富士大日蓮華山」、京都要法寺は「多宝富士山」というように、富士山の頭に「多宝」の二文字がつきますが、小泉久遠寺、北山本門寺、西山本門寺、富士妙蓮寺は「多宝」の二文字がなく、単なる「富士山」の山号です。

 

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