一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ

「一般社団法人 仏教宗学研究会」とは任意団体として2005年から活動している会の名称。2018年5月に一般社団法人登記。当ブログ名を「仏教宗学研究会のブログ」から「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」に改名。 「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

Category:興門・日蓮本宗(京都要法寺門流) > 日蓮本宗(本)京都要法寺

日蓮本宗本山・要法寺30(本山要法寺公式ウエブサイト)

 

□日蓮本宗本山要法寺公式ウエブサイトで確認された要法寺(ようぼうじ・yoboji)の読み方

 

私は京都要法寺には1990年代から足を運んでいるのだが、さてこの度、富士門流八本山のひとつである日蓮本宗本山要法寺が公式ウエブサイトをオープンさせていたことが判明しました。

□日蓮本宗本山要法寺公式ウエブサイト「師厳道尊に生きる」

http://www.honzanyoboji.or.jp/

本山要法寺公式ウエブサイトの開設日は201496日になっている。

公式ウエブサイトのアドレスは「ホンザンヨーボージ」。(honzanyoboji)これを見て思い出したのだが、「仏教宗学研究会」のブログでも、京都要法寺の訪問記・研究記事を載せているのだが、今から約3年前のこと、2012033112:04にアップした「京都要法寺(2)~大石寺以外の富士門流では最大寺院数の日尊門流祖山・要法寺」の中で、こう書いた。

「『要法寺』の名前なのだが、正式には「ようぼうじ」と読む。「ようほうじ」ではない。」

□「京都要法寺(2)~大石寺以外の富士門流では最大寺院数の日尊門流祖山・要法寺」

http://bukkyoshugakukenkyukai.doorblog.jp/archives/4808510.html

これは、実際に要法寺に足を運んで訪問すれば、要法寺を「ようぼうじ」と読むことぐらいはわかるのだが、ところが東京をはじめとする関東近県で、本や新聞、雑誌だけ読んで、京都要法寺のことを研究した気になってしまっている者たちは、どういうわけか「要法寺」を「ようほうじ」(yohoji)と読みたがるクセがある。特に日蓮正宗、創価学会、顕正会などの「日蓮正宗系」の信者たちは、一様に「要法寺」を「ようほうじ」(yohoji)と読みたがるのである。そこで私がこれらの者たちに

「そうじゃありませんよ。要法寺は「ようぼうじ」(yoboji)と読むんですよ」

と指摘しても、全く聞く耳を持たないのである。

ところが今回、日蓮本宗本山要法寺公式ウエブサイト「師厳道尊に生きる」のアドレスが「ホンザンヨーボージ」(honzanyoboji)になっていることで、はからずしも私の「要法寺は「ようぼうじ」(yoboji)と読む」との指摘が正しかったことが、公式に確認されることになった。まことに慶賀の至りである。

そこで「要法寺」を「ようほうじ」(yohoji)と読みたがる、東京をはじめとする関東近県の石頭の分からず屋の者たちに対して「勝利宣言」を宣告するものと致します。()

要法寺HP1
















 

(日蓮本宗本山要法寺公式ウエブサイト「師厳道尊に生きる」)

 

 

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日蓮本宗本山・要法寺29(本山要法寺新貫首に丹治日遠氏)

 

□丹治日遠氏が住職を勤めた日蓮本宗佛眼寺がある福島市で管長就任祝賀会が開催される

 

久しぶりに富士門流の記事になりますが、この度、日蓮本宗管長・本山要法寺第51祖貫首・嘉儀日有氏が退任され、新管長・本山要法寺新貫首に諸佛山佛眼寺住職の丹治日遠(にちおん)氏(73)が晋山し、福島市内で管長就任祝賀会が開催された。まずは管長就任祝賀会を伝える報道記事を引用してみたい。

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日蓮本宗最高位に 福島で丹治氏の管長就任祝賀会

 

 福島市の日蓮本宗・諸佛山佛眼寺(しょぶつざんふつげんじ)住職の丹治日遠(にちおん)氏(73)は29日までに、同宗の最高位・管長と、本山・要法寺(京都市)の貫首に就いた。同市で就任などを祝う祝賀会が開かれた。 関係者約300人が出席。丹治氏は「大勢の方々に感謝。懸命に任を全うしたい。今後もご支援いただきたい」などとあいさつした。

 高野伊左衛門佛眼寺責任役員総代長・祝賀委員会委員長があいさつし、小林香市長ら来賓が祝辞を述べた。鏡開きなどで丹治氏の就任を祝った。

 丹治氏は島根県出身。福島高、福島大短期大学部卒。1962(昭和37)年に佛眼寺住職となり、日蓮本宗総務部長などを歴任した。5月に管長就任儀式の晋山式を行った。

(福島民友新聞 630()1316分配信)

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日蓮本宗最高位に 福島で丹治氏の管長就任祝賀会

 

 福島市の日蓮本宗・諸佛山佛眼寺(しょぶつざんふつげんじ)住職の丹治日遠(にちおん)氏(73)は29日までに、同宗の最高位・管長と、本山・要法寺(京都市)の貫首に就いた。同市で就任などを祝う祝賀会が開かれた。 関係者約300人が出席。丹治氏は「大勢の方々に感謝。懸命に任を全うしたい。今後もご支援いただきたい」などとあいさつした。 高野伊左衛門佛眼寺責任役員総代長・祝賀委員会委員長があいさつし、小林香市長ら来賓が祝辞を述べた。鏡開きなどで丹治氏の就任を祝った。 丹治氏は島根県出身。福島高、福島大短期大学部卒。1962(昭和37)年に佛眼寺住職となり、日蓮本宗総務部長などを歴任した。5月に管長就任儀式の晋山式を行った。(2014年6月30日 福島民友トピックス)

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丹治日遠1















 

(丹治日遠氏の管長就任祝賀会を報道するインターネットニュース)

 

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日蓮本宗本山・要法寺28(本堂参拝を拒否した若手所化僧)

 

要法寺塔頭住職が、本尊への供養・合掌・読経を条件に本堂の本尊を拝ませても良い、という話しを出してきたのを断ったのは失敗だったなー、と後悔したのは、東京に帰ってだいぶ経ってからのことです。

あの住職の言葉は、ひょっとしたら入信しろ、という意味ではなかったのではないか。

どこの寺でも、「本尊を見せて欲しい」と言ったら、合掌・供養せよ、くらいのことは言うであろう。つまりあの時、塔頭住職が言ったのは、入信を条件にしたのではなく、極めて一般的なことを言っただけだったのではないか。だとしたら、住職の言葉を断ってしまったのは、大失敗である。

その後、要法寺の日尊六百五十回遠忌法要に行くといいながら、結局は、仕事の都合で行けなかったわけだから、ますます断ったことが悔やまれました。

しかし「後悔先に立たず」である。後で悔やんでみても、どうにもなりません。

 

しかし諦めきれない私は、どうにかして先の塔頭住職に再会して、要法寺本堂の本尊を拝見させてもらうわけにいかないだろうかと、考えるようになりました。

要法寺1本堂1


まあ十中八九は無理でしょうが、それでも何とかやってみて、だめならだめで諦めるしかないなと考えたわけです。

そこで再び、京都・要法寺行きを決行することにしました。

しかしそうはいっても、なかなか京都に行く機会に恵まれず、実際に再び京都・要法寺に行ったのは、日尊六百五十回遠忌法要から12年経った後のことでした。

私は再び自家用車をかっ飛ばして東名高速・名神高速を走って京都・東山三条へ。

この時は、だいぶ京都の道や地理を覚えていましたので、割と簡単に要法寺・駐車場にすべり込むことができました。

しかし要法寺へ行ったのはいいのですが、法要も行事も何もない日であったようで、境内・塔頭とも全く人影がない。人の気配が全く感じられないのです。

そこで私は寺務所の中に入り、無人の受付で人を呼んでみました。

要法寺33宗務院


すると、奥の方から一人、若い所化僧らしき僧侶が出てきました。その所化僧は、受付の係は、今はいない、という、これまた、まことにつっけんどんな答え。

「ずいぶん、つっけんどんな僧侶だな」と思いつつも、せっかく京都・要法寺まで来たのだから、前回、要法寺来訪の時の事情を説明して、本堂の中に入れてもらおうと交渉したのだったが

「信者以外の人には見せられません」

という、これまた頭ごなしの、高飛車な答えが返ってきた。

この一言にカチンときた私は

「なんだその言い方は」

と怒ったが、しかし本堂の中に入ることを正面切って断られてしまっては、もはやそれまで。

どうにかして、別の方法を考えるより外にありません。

 

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日蓮本宗本山・要法寺27(合掌礼拝を条件に参拝を認めた住職)

 

話題が本尊のことになったので、今の要法寺本堂、開山堂に祀られている本尊について、具体的に塔頭住職に質問。

 

○「本堂は日蓮大聖人の大曼荼羅、開山堂は日興上人の大曼荼羅ということですが、大曼荼羅にはそれぞれ図顕した年月日が入っているはずです。本堂、開山堂に祀られている大曼荼羅の図顕年月日は、いつになっているのでしょうか」

要法寺23鐘楼本堂

 

私は、要法寺本堂の本尊とは、日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨が編纂した「富士宗学要集」8巻に載っている「称徳符法の本尊」ではないのかな、と思っていた。堀日亨は、「称徳符法の本尊」を日蓮真筆としているが、偽筆の疑いが非常に強い曼荼羅で、立正安国会「御本尊集」には載っていない。立正安国会は、日蓮真筆とは認めていないと考えられる。

私としては、要法寺の朝の勤行に入ることに失敗してしまったことから、ここで塔頭住職公認の元に本堂の中に入って、どういう本尊が祀られているのか、確かめてみたいと思っていた。

この私の質問に対して、塔頭住職の回答は

「それは、わからないですね」

の一言。私が

「本堂の大曼荼羅本尊の図顕年月日が、わからないはずがないでしょう。わからないというのは、おかしいんじゃないですか」

というふうに私が押しても、なぜか塔頭住職は無言。それとも、隠そうとしていたのか。別に大曼荼羅の図顕年月日などというのは、隠す理由などないと思うのだが。私は、さらに押してみた。

 

○「では本堂の大曼荼羅本尊を拝見させていただけませんか。見たところ、本堂の扉も開いているようですし」

この私の質問というか要望に、塔頭住職はずいぶん驚いた様子を見せ、しばらく思案した後、こんな回答をしました。

□住職「あー、わかりました。それでは御本尊様に御供養を申し上げ、合掌・礼拝して読経・唱題をなさるということであれば、いいでしょう」

 

この塔頭住職の回答に、今度は私のほうが驚いてしまいました。「えーっ」という私の驚きに、塔頭住職は間髪を入れずに

□住職「当然でしょう。ここは寺院です。博物館や美術館で展示物を見学するのとは、ちがうんです」

要法寺1本堂1
 

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日蓮本宗本山・要法寺26(釈迦仏像本尊の歴史を否定)

 

話題は、要法寺の血脈、貫首、大石寺との関係から、要法寺の本尊の話題になった。

本堂での朝の勤行に入ることが出来なかったこともあったため、ここで私としては、要法寺本堂の本尊は、何が祀られているのかを確かめたいと思い、ここのところを塔頭住職に質問。

 

○「本堂には、何を本尊として祀られているのですか」

□住職「本堂は、宗祖日蓮大聖人の大曼荼羅です」

 

○「開山堂のほうは、何を本尊として祀られているのですか」

□住職「開山堂は、御開山日興上人の大曼荼羅です」

要法寺1本堂1
 



要法寺が本尊として祀っているのは、大曼荼羅であるという回答。大曼荼羅を本尊として祀っていること、日蓮のことを「大聖人」と呼んでいること、日興のことを「御開山」と呼んでいるのも、日蓮正宗大石寺と同じ。ただし、日蓮のことを「大聖人」と呼ぶのは、日蓮正宗や富士門流だけではなく、日蓮宗の寺院でも、日蓮を「大聖人」と呼称している本山はいくつかあります。身延山久遠寺や池上本門寺でも、日蓮を「大聖人」とよんでいる。

 

「本堂は、宗祖日蓮大聖人の大曼荼羅です」

「開山堂は、御開山日興上人の大曼荼羅です」

塔頭住職の答えは、胸を張って、いかにも自信に満ちた答えでした。

「富士門流なんだから、本尊は大曼荼羅本尊に決まっていますよ」という意味が込められていることは明らか。しかしそういう意味を込めているとしたら、こちらだって言いたいことがある。そのあと、私は多註住職に、少々、意地の悪い質問をぶつけてみました。

 

○「要法寺さんでは、昔から大曼荼羅を本尊とされていたのですか」

□住職「そうです。当山では開創以来、大曼荼羅を本尊としてきています」

 

塔頭住職は、語気を強めて、こう答えたのです。それはおかしいでしょう。

日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨が編纂した「富士宗学要集」には、中世のころ、要法寺が造仏読誦を容認した古文書がいくつも収録されているし、立正大学日蓮教学研究所が編纂した「日蓮宗宗学全書」には、要法寺13世貫首・広蔵院日辰の著書である「開迹顕本華ニ論議得意鈔」「造仏論義」「読誦論義」が収録されている。これらのものは、広蔵院日辰が造仏読誦を容認・推奨した証拠である。私はつづけて塔頭住職に質問した。

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日蓮本宗本山・要法寺25(選挙で選出されていた貫首)

 

要法寺貫首の話しが出て、そこからちょっとした歴史の話になった。

要法寺17表門


塔頭住職の話では、「日蓮大聖人、日興上人の仏法、法脈は要法寺に受け継がれている」という主旨の話しをしていた。それ、どこかで聞いたような話ですね。この塔頭住職の話は、日蓮正宗大石寺法主の血脈相承をそっくりそのまま、要法寺貫首にすり替えたような話しだった。

では要法寺の貫首はどんな選び方をしているのだろうか。大石寺のように現法主ないし前法主が、次期法主を選定・指名するというやり方なのだろうか。そこで、住職に質問。

 

「猊下はどのようにして選んでいるのですか」

住職は一瞬、間をおいたあと

「選挙で選んでいます」

との回答。つまり選挙で選んだ要法寺貫首が、要法寺の仏法を所持しているというむ感じになるのだろうか。無宗教の私には、どうもここのところが、何ともわかりにくい。

私にとっては、日蓮正宗大石寺と全く瓜二つの宗門がここにもある、という印象しかありませんでした。

いろいろ要法寺について調べたり、塔中住職と話しをしていると、大石寺との類似性を強く感じた。そこで私は、大石寺との共通性について質問してみた。

 

「猊下やご住職が着ておられる法衣は、大石寺の僧侶が着ている法衣と同じですね」

この質問に対する塔頭住職の答えは、「大石寺とは同じ日興上人の門流、富士門流ですから」というもの。しかしこの塔頭住職は、大石寺との共通性の話題になると、あまり歯切れが良くありませんでした。

かつて大石寺法主の中に、要法寺出身の法主がいること。室町時代から江戸時代にかけて、要法寺と大石寺は通用していたことに触れても、塔頭住職の答えは

「要法寺と大石寺は、同じ日興上人の門流ですから」

というステレオタイプ的な答えしか返ってこない。

つまり塔頭住職の答えは、かつて要法寺と大石寺が通用・交流していたのは、同じ日興門流・富士門流なんだから、通用・交流というものがあって当たり前。要法寺が交流していたのは、何も大石寺だけじゃなく、他の北山本門寺、西山本門寺、小泉久遠寺等々、他の富士門流の本山とも交流があったというような回答。確かに歴史的なことを言えば、そういうことになるのでしょう。

今は、要法寺と大石寺は断絶状態だが、これは大石寺側に責任があるということを言外に含ませているようです。

 

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日蓮本宗本山・要法寺24(加歴等で特殊な数え方)

 

思わぬ形で要法寺塔頭住職との単独会見が実現したわけだが、私としては、塔頭住職から、単なる見学者か参拝者と思われていると、質問をしても真っ当に答えてくれないのではないかという心配がありました。あの当時は、ネットもブログもSNSmixiもない時代で、もちろん「アンチ日蓮正宗」や「仏教宗学研究会」を立ち上げる前。

しかし学生時代から、様々な宗教被害の経験を通して、反骨的に日蓮正宗・創価学会・顕正会・正信会・富士門流のことを研究してきており、それなりの知識はすでに持っていた。それでも、塔頭住職には、若い頃から、富士門流や要法寺に関する書籍や古文書・史料等々をいろいろ調べていて、その関係で要法寺を訪ねたことは伝えました。そして前回の訪問の時に、要法寺の朝の勤行に入ろうとしたが、寝坊で遅れてしまい、本堂の中に入れなかったこと。勤行が終わった後、貫首が渡り廊下から庫裡に帰っていく姿が見えたと言うことも話した。

要法寺19渡廊下


私が「貫首」という言葉を使ったからか、住職は

「猊下ですか」

と一言。

要法寺でも貫首のことを猊下と呼称しているようで、この住職の「猊下ですか」のひと言は、実質的に私に「猊下と呼んで下さい」と言っているようなもの。まあここは、せっかく要法寺に来て塔頭住職の話を聞こうとしているわけですから、ここは要法寺貫首を「猊下」と呼ぶことにした。

 

○「猊下のお名前は、何とおっしゃるのですか」

□住職「嘉儀日有と言います。嘉儀とは『かぎ』。日有と書いて『にちゆう』とお読みします」

 

日有と聞くと、日蓮正宗大石寺9世法主日有を連想してしまいますが、大石寺法主のほうは日有と書いて「にちう」と読むが、要法寺貫首のほうは日有と書いて「にちゆう」と読むそうである。

同じ漢字名でも、読み方が違う例は他にもある。

日蓮正宗大石寺66世細井日達の「日達」は「にったつ」と読むが、日本山妙法寺開祖・藤井日達の「日達」は、にったつではなく、「にちだつ」と読む。Wikipedia・フリー百科事典は藤井日達(ふじい にったつ)と読み仮名を書いているが、これは誤りである。

 

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日蓮本宗本山・要法寺23(塔頭住職との単独会見)

 

以前に書きましたが、私がはじめて要法寺に行ったのは、1994(平成6)年の要法寺開祖・日尊650遠忌の年。私としては、日尊650遠忌法要の当日に要法寺に行くことを狙いたかったのだが、日尊の命日は58日。つまり、世間ではゴールデンウィーク明け。

この日に京都に行くというのは、まことに厳しいということになり、ゴールデンウィーク中に、要法寺に行ってみることにした。法要の当日ではなくても、ゴールデンウィーク中であれば、信者が参詣しているかも知れないし、要法寺貫首に会うというのは無理だとしても、僧侶・塔頭住職に会うぐらいはできるのではないかと考えたわけです。

 

それにしても、東京と京都は高速道路で移動しても約500キロ離れているが、あの当時の私は、500キロ離れている所へ高速道路で行くということについて、けっこう平気でした。今にして振り返って思うと、「よくあんなことをしたもんだな」と思うことが、いくつもあります。

さて、この時に要法寺に行ったのは早朝ではなく、日中。東京を朝6時に出て、東名高速~名神高速を飛ばして、途中、ゆっくり休憩したとしても、正午過ぎには京都に着きます。

さて、要法寺に行ってみると、表門や本堂前には、鶴丸のマークが入った白い横断幕のようなものが張られており、いよいよ日尊650遠忌法要が近づいているという雰囲気。

表門から境内の中に入ってみると、法衣を来たかっぷくのいい中年僧侶が、竹ほうきを手に持って、境内の落ち葉等を掃いているのが目に入りました。

法衣というのは、薄墨色の衣の上に、外出用の黒い衣みたいなものを着た姿で、このスタイルは日蓮正宗や富士門流の僧侶と全く同じ。しかも表門や本堂に鶴丸のマークが入った白い横断幕のようなものが張られていると、何か日蓮正宗の寺院に来たような錯覚になってしまいます。

しかしそこは、日蓮正宗ではなく、富士門流・日蓮本宗の本山・要法寺。

要法寺23鐘楼本堂

 

私は、この時を千載一遇のチャンスととらえ、早速、その竹ほうきで掃きそうじをしていた中年僧侶に声をかけ、話を聞きたい旨を申し伝えた。するとその僧侶は、特に拒否する様子もなく

「いやー、ようこそいらっしゃいました。あー、こんな格好で、大変失礼いたしますう」

という感じで、私の来訪を歓迎しますという風に迎えてくれた。

私は、この時、1994年当時、「富士宗学要集」をはじめ、さまざまな文献・史料で要法寺に関する知識を得ており、要法寺の僧侶に会って、直接話が聞けるというのは、またとないチャンスととらえました。

一方、僧侶のほうは、京都観光に来た見学者か、参詣者の一人が来たぐらいに思ったのでしょう。

要法寺の境内において、私とこの僧侶の単独会見と言うことになった。境内には、他に誰か人がけは見られませんでした。

 

○「要法寺さんの塔頭のご住職でいらっしゃるのでしょうか」

□僧「そうです。私は○○院の住職の△△と申します」

 

どの塔頭で、名前も聞いたのでしたが、この時は名刺をもらったわけでもなく、残念ながら名前は失念してしまった。

とにもかくにも、私はこの時、要法寺塔頭住職との単独取材会見に成功したのでありました。

要法寺18石塔
 

 

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日蓮本宗本山・要法寺22(紫宸殿の曼荼羅・天覧)

 

前号で書いた「勅使門がない」ことと深い関わりがある、要法寺の歴史とは、「紫宸殿の曼荼羅・天覧」の見解である。

日蓮本宗宗務院が発行した小冊子「私たちの要法寺」には、要法寺の歴史について、下記の見解が述べられている。

 

(日性上人は)その名が宮中にまで聞こえ、時の後陽成天皇のお召しをうけ、また本山要法寺の重宝である『紫宸殿の曼荼羅』を天覧に供しておられます」(『私たちの要法寺』p10)

 

そもそも要法寺の「紫宸殿の曼荼羅」そのものが、日蓮の真筆ではない、偽筆の疑いが非常に強いものであり、ここではあえて、「紫宸殿の曼荼羅」の真偽は論じないこととします。

仮に「紫宸殿の曼荼羅」が真筆だったとしても、要法寺の「紫宸殿の曼荼羅・天覧」の見解については、疑義を唱えたいと考えます。

要法寺17表門

 

後陽成天皇のお召しを受けて、『紫宸殿の曼荼羅』を天覧に供したということですが、

 

1 後陽成天皇が在位で日性が要法寺貫首だった時代とは、徳川幕府が大御所・家康、二代将軍・秀忠の時代だが、当時、家康・秀忠は、朝廷を実質的に幕府の支配下にしようとして、ありとあらゆる圧力をかけ、干渉し、武断政治を強いていた時代のこと。

天皇の僧正、門跡、院家の任命叙任や紫衣の授与等に至るまで、幕府は干渉していた。

2 この時代は、日蓮宗自体が「不受不施問題」で、どの門流も大揺れに揺れていた。すでに徳川幕府は、幕府の命に随わない不受不施派を禁圧し、日蓮宗の立場が非常に悪かった時代であること。

3 日蓮宗の唯一の勅願寺は、京都・妙顕寺であり、要法寺は勅願寺でも祈願寺でもないこと。

 

こういう歴史的な背景からして、後陽成天皇のお召しで、『紫宸殿の曼荼羅』を要法寺貫首・日性が天覧に供したということが、本当にあったのか、相当疑わしいと言える。

さらにその上に、要法寺には「勅使門がない」という事実があるわけである。

仮に、本当に天皇のお召しがあったとすれば、伝奏なり、それ相応の官位・職にある人物が、天皇の使者ないしは勅使として、要法寺に来ることになるのだが、天皇の門跡寺院や勅願寺、祈願寺、あるいは朝廷・幕府とむ縁が深い寺院では、勅使を迎える勅使門や、勅使を供応する堂宇が整備され、今に残っている寺院が多い。

よって歴史的な背景に加えて、要法寺に「勅使門がない」という事実も、後陽成天皇のお召しで、『紫宸殿の曼荼羅』を要法寺貫首・日性が天覧に供したということが、本当にあったのか疑わしい根拠の一つになる。

 

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日蓮本宗本山・要法寺21(勅使門がない要法寺)

 

さて要法寺境内にある数々の門について、日蓮本宗宗務院教学部の公式見解は、次のようになっています。

「表門(南門)

享保九年(1724)四脚門。伏見桃山城の遺構とも伝える。門外、三条通りに面して『本山要法寺』の大石柱があります。」

「その他

書院、書院の門(薬医門)、西門(高麗門)、庫裡、門番所、手水舎などがあります」

(『私たちの要法寺』p16)

 

「表門

伏見桃山城の旧聚楽門と伝えられ、享保九年(1724)に竣成したるものにて平素は固く閉ざされ、大法要の際にのみ通行が許される」

「薬医門

安永八年(1779)三月、上棟せられ、爾来、来賓客のみ之を向ふ」

(『本山要法寺参詣案内』より)

要法寺13


 

この中で注目されるのは、勅使門がないということです。

勅使とは、日本では天皇が出す使者のこと。

勅使は天皇の代理としての資格を以って宣旨・将軍宣下や勅令、叙任を伝達することから、勅使を迎える側が、たとえ官位において勅使よりも上位であったとしても、天皇への臣礼同様、敬意を払うこととされた。

たとえば、徳川家康、秀忠、家光の代の将軍宣下は、京都二条城で行われているが、その際には、勅使が上座、将軍が下座に座り、将軍宣下や勅令、叙任の伝達が行われている。

四代将軍・家綱の代以降、将軍宣下が江戸城内で行われるようになると、勅使は下座に坐し、将軍が上座に坐すという形式が常態化したが、しかし幕末になると尊王思想の浸透により公武の権威がふたたび逆転し、勅使が上座、将軍が下座となっている。

つまり勅使=天皇としてもてなしが行われたということであり、そのため、勅使を受け入れる施設や宿場、寺社には勅使専用の部屋や門を造られ、現在でも勅使の間、勅使門として残されているところがある。

この勅使門という伽藍も、京都や京都周辺の仏教大寺院でよく見かける伽藍である。その主なものを挙げてみると、

臨済宗建仁寺派大本山・建仁寺勅使門、京都市右京区嵯峨野の天台宗寺院・二尊院勅使門、臨済宗天龍寺派大本山・天龍寺勅使門、真言宗御室派総本山・仁和寺勅使門、臨済宗大徳寺派大本山・大徳寺勅使門、臨済宗妙心寺派本山・妙心寺勅使門、臨済宗東福寺派大本山・東福寺勅使門、日蓮宗大本山・妙顕寺勅使門、日蓮正宗大石寺勅使門(不開門)…などである。

 

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日蓮本宗本山・要法寺20(謎の本尊・附法の曼荼羅)

 

京都要法寺には、「称徳符法の曼荼羅」の他にも、「附法の曼荼羅」「付法第一の本尊」「大日本国護衛の本尊」といった、謎めいた本尊が格蔵されている。

中でも「建治二年(1276)正月元日」の日付がある「附法の曼荼羅」は、要法寺では日蓮から日興への「血脈付法の真印」と位置付けられている本尊ということである。これについては、富谷日震の著書『日興上人正伝』において、

「(三)付法の曼荼羅

建治二年(一二七六)正月元日、本尊を図し重ねて師に賜う。脇書に云く、付法沙門日興授与之 称徳付法の曼荼羅と共に両幅三元の本尊と称し奉る、これ血脈付法の真印として日尊上人相伝し、これまた京都・要法寺に蔵す。」(『日興上人正伝』p31

と書いている。「血脈付法の真印」という位置づけは、ここから来るようである。

 

「附法の曼荼羅」の曼荼羅の相については、かつて要法寺機関紙『要法』406号の2面に載ったという「附法の曼荼羅」の写真を、東佑介氏がブログに載せている。

附法漫荼羅1


「京都要法寺所蔵『附法漫荼羅』について」

http://blog.livedoor.jp/naohito_blog/search?q=%C9%ED%CB%A1%A4%CE%D2%D8%E8%B8%CD%E5

 

この写真を見る限り、曼荼羅の相はあまりにも不鮮明で、判読は不可能に近い。そういう不鮮明な曼荼羅の相から、東佑介氏は、強引に曼荼羅の相を判定して偽筆説を導き出そうとしているが、これはあまり説得力がない。

「仏教宗学研究会」も「建治二年(1276)正月元日」の日付がある「附法の曼荼羅」は偽筆であるという説には賛意を表するが、東佑介氏の偽筆説の組み立て方は、誤りであるという見解である。

「仏教宗学研究会」の「附法の曼荼羅」偽筆説は、以下の通りである。

 

1 日蓮は弘安5(1282)10月、死去の直前に六老僧を決め、その序列を「不次第」としている。少なくとも、日蓮は日興一人に附属しておらず、日蓮の死後を六老僧に託している。

この史実からすれば、建治二年(1276)の段階で、日興一人を日蓮が法を附属するなどということをするばずがない。

2康永3(1344)68日、日尊が日印に授与した付弟状、要法寺14世日賙、15世日性、16世日恩、18世日陽の要法寺相承目録の中に、称徳符法の本尊も附法の曼荼羅も出てこない。

附法の曼荼羅が「血脈付法の真印」であるならば、康永3年の付弟状、要法寺相承目録の中に、称徳符法の本尊も附法の曼荼羅も出てこないというのは、明らかな矛盾である。

3 要法寺中興の祖・13世広蔵院日辰の著書「祖師伝」の日蓮伝、日興伝をはじめ、いずれの僧の伝記にも、称徳符法の本尊も附法の曼荼羅も全く出てこない。もし本当に「血脈付法の真印」という重大な曼荼羅が実在していたならば、日辰が書き残さないはずがない。

 

この三点において、要法寺の附法の曼荼羅が、13世日辰、14世日賙、15世日性、16世日恩、18世日陽より後の時代、江戸時代に入ってからの偽筆曼荼羅であることが明らかである。

 

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日蓮本宗本山・要法寺19(謎の称徳符法の大本尊3)

 

日蓮本宗・本山要法寺の重宝・称徳符法の大本尊の伝承の経緯を調べていくと、さまざまな疑問点が噴出してきます。

称徳符法の大本尊が、日蓮、日興、日目、日尊から歴代要法寺貫首に相承されてきたというなら、上古の附属状に「称徳符法の大本尊」が出てきてしかるべきなのだが、これが全く出てこない。

康永3(1344)68日、日尊が日印に授与した付弟状には、次のように記されている。

 

「宰相禅師日印に授与する 本尊壱鋪 日興上人の御筆 元応三年正月十三日

大聖人の御影壱鋪

右付弟として授与する件の如し

康永三年甲申六月八日 法師日尊在判 日慧在判 日大在判 日堯在判 日禅在判 日従在判」

(日蓮正宗大石寺59世法主・堀日亨編纂『富士宗学要集』5p44)

 

この日尊付弟状は、要法寺13世広蔵院日辰が著書「祖師伝」の中で引用しているものであるが、正本が存在していないという。この中に、日尊から日印へ日興筆の曼荼羅と日蓮御影を授与するとは書いてありますが、称徳符法の本尊については、何も記されていない。

『富士宗学要集』を編纂した日蓮正宗大石寺59世法主・堀日亨も

「同山(要法寺)の重宝と称する称徳符法の本尊は何師が相伝を受けられしや未だ記文を見ず」

(『富士宗学要集』8p101)

と書いている。

富士宗学要集9

 

堀日亨は、『富士宗学要集』8巻の中で、日尊付弟状につづいて、天正14(1586)の聖主院日顕から要法寺14世日賙、慶長13(1608)の要法寺14世日賙から15世日性、16世日恩から18世日陽への要法寺相承目録を載せている。それを見ると

 

「日賙在判 天正十六戊子年五月初三日之を許可し了ぬ。

当流相承の諸大事 

嫡弟日陽に授与せしめ候

慶長十三戊申年六月十三日 日性在御判追って之を許す」

「一 授戒式法相承

 一 御本尊書写御代々の相承の如し 付り守符

 一 本因妙抄相伝 付り二箇御相承

 一 百六箇の本迹相伝

 一 五人所破抄相伝、興師御作日順御右筆

 一 八通の御切紙相伝

 一 廿六箇条の御遺誡相伝

時に天正十四丙戌年二月七日  日顕

大教坊日陽 謹んで授与し畢ぬ  十六代日恩 在御判」

(『富士宗学要集』8p101102)

 

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日蓮本宗本山・要法寺18(謎の称徳符法の大本尊2)

 

日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨が編纂した『富士宗学要集』8巻によれば、要法寺に格蔵されている「称徳符法の曼荼羅」の顕示年月日は、「文永九年太才壬申正月元日」。

授与書は「問答第一行戒智徳筆蹟符法沙門日興授与之」となっており、仏滅讃文は

「仏滅度後二千二百二十余年之間 一閻浮提之内 未曾有之大曼荼羅也」

となっている。授与書が日興に宛てられていることから、通称名は「称徳符法御本尊」と古来から言うようである。

東佑介氏は自らが所蔵しているという「称徳符法本尊」の形木本尊の写真を著書で公開している他、ブログで東佑介氏はオスカー氏から入手したという図版も公開している。

東佑介・称徳符法の本尊1

 

この「称徳符法の本尊」の最大の問題点は、これが本当に日蓮の直筆なのか、という点である。

この本尊の諸尊勧請の曼荼羅の相は、文永十年七月八日の佐渡始顕本尊以降の相であり、さらに仏滅讃文が入っている本尊は、文永十一年七月の本尊以降である。

文永九年に日蓮が図顕した本尊で、これだけの諸尊勧請の曼荼羅は、他に例がない。

東佑介氏は、ブログ「京都要法寺所蔵『称徳附法漫荼羅』について」において

「『称徳附法漫荼羅』が日蓮聖人の御筆と認められるかというとそうは思われない。日蓮聖人は文永八年十月九日より御本尊を図顕されるのであるが、この時期の御本尊とは根本的に相違している。下記に文永九年の御本尊を掲げよう。典拠は『御本尊集』第二番である。

安本No.2は文永九年六月十六日、つまり、『称徳附法漫荼羅』が図顕されたと伝わる五ヵ月後の御本尊である。にもかかわらず、安本No.2は『称徳附法漫荼羅』の如くになっていない。そもそも、文永初期の御本尊(~安本No.7)は①首題②釈迦多宝③不動愛染という特徴がある。けれども、『称徳附法漫荼羅』はこうした初期の御本尊の範疇に入らない。」

と書いて、「称徳符法本尊」を偽筆と断じている。

http://blog.livedoor.jp/naohito_blog/archives/51073585.html

 

これに対して真筆説は、日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨で、自らが編纂した『富士宗学要集』8巻に、日蓮真筆本尊として所収している。

東佑介氏が指摘しているように、曼荼羅の相について、数多くの疑義があるにもかかわらず、堀日亨が「真筆」としている根拠は、おそらく筆跡ではないかと思われる。形木本尊の写真で見る限り、この本尊の筆跡が日蓮のものに見えなくもない。

しかし筆跡が日蓮のものだと仮定しても、他の日蓮の本尊から模写した可能性もあるわけで、筆跡のみで真偽を判定することはできない。しかし現存する日蓮真筆本尊の中に、この「称徳符法本尊」の曼荼羅の図形と合致する本尊はない。

 

ちなみに、警察等の科学捜査では、東京高裁・平成121026日判決がきっかけになり、それまで行われてきた「鑑定人による勘と経験に頼る伝統的筆跡鑑定法」と決別し、調査や実験データなどを利用する客観的な鑑定法へ移行している。そして現在では、近代統計学に裏付けされた客観的判断基準となる数学的な数値解析法へと進化して行っているという。

「筆跡鑑定」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%86%E8%B7%A1%E9%91%91%E5%AE%9A

 

現在の所、筆跡を根拠にした偽筆説のほうが説得性が高いと考えられるが、筆跡のみで偽筆説で確定させることにも疑問符がつく。

さらなるこの本尊の鑑定が必要と思われる。

 

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日蓮本宗本山・要法寺17(謎の称徳符法の大本尊)

 

要法寺宝蔵には、「称徳符法の曼荼羅」が格蔵されているということですが、これは実に謎の多い本尊です。

要法寺本堂には、称徳符法の大本尊が祀られていますが、これはレプリカの板本尊であり、いわゆる「お前立」。

要法寺3本堂3


前立というのは、仏教界では特に珍しいものではなく、秘仏本尊を格蔵している仏教寺院では、必ずと言っていいほど、「前立本尊」があります。それくらい、広く前立本尊が全国各地の寺院にあります。その主なものを列挙してみると

 

□長野市の善光寺 絶対秘仏の前立本尊(阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩の「一光三尊阿弥陀如来」)

□比叡山延暦寺・根本中堂 秘仏・伝教大師最澄造立の薬師如来像の前立本尊

□石川県津幡町の倶利伽羅不動尊 弘法大師空海造立の前立本尊

□長野県松本市の金松寺 秘仏・聖観世音菩薩像の前立本尊

□東京・港区南麻布の臨済宗大徳寺派・天現寺 秘仏の毘沙門天の前立本尊

□東京・港区芝公園の浄土宗大本山増上寺 安国殿の秘仏・黒本尊の前立本尊

□東京・台東区浅草の浅草寺 本堂の秘仏・聖観世音菩薩像の前立本尊

□和歌山県紀の川市の天台宗・粉河寺 絶対秘仏・千手観音像の前立本尊(前立も秘仏)

□京都府宇治市の三室戸寺 秘仏・千手観音像の前立本尊 飛鳥様式の二臂の観音像

□愛知県犬山市の真言宗智山派・寂光院 本堂の秘仏・千手観音像の前立本尊

□京都市左京区の鞍馬寺 本殿金堂の秘仏・毘沙門天・千手観音像・護法魔王尊の前立本尊

□滋賀県長浜市の浄土真宗大谷派・向源寺 十一面観音立像(国宝像の旧お前立本尊)

□兵庫県加西市の天台宗・一乗寺 秘仏・観音菩薩立像のお前立像

□京都市中京区の天台宗・頂法寺 六角堂の秘仏本尊・如意輪観音像のお前立本尊

□京都市東山区の清水寺 本堂の秘仏・千手観音像の前立本尊

 

この他にもあると思います。

つまり要法寺宝蔵に称徳符法の曼荼羅を格蔵したまま、秘仏扱いにして、本堂には、レプリカの板本尊である称徳符法の大本尊を祀るというのは、仏教界で広く行われている「お前立」と同じということになります。要法寺の日々の勤行、法要、年中行事は、本堂で行われている、ということです。

宝蔵に格蔵されている称徳符法の曼荼羅は、いつ開扉されるのか。開扉されないとしたら、絶対秘仏ということになりますが、しかし、要法寺では、称徳符法の曼荼羅の形木本尊を信者等に下附しているようです。

東佑介氏が要法寺から下付されたという称徳符法の曼荼羅の形木本尊の写真を著書で公開していますし、この他にも、インターネット上に称徳符法の曼荼羅の形木本尊の写真が公開されています。

こういうのを見ていると、要法寺としても絶対秘仏にしているわけではないように思われますが、対外的には非公開というスタンスをとっているように思われます。

称徳符法本尊1
 

 

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日蓮本宗本山・要法寺16(宝蔵、客殿についての公式見解)

 

さて要法寺の宝蔵についての日蓮本宗宗務院教学部の公式見解を見てみたいと思います。

私たちの要法寺1


 

「宝蔵

天保13(1842)年再建。宝形造・唐破風・土蔵形式。紫宸殿の曼荼羅、称徳符法の曼荼羅など各種霊宝、仏像などを収納。錠は貫首上人の直封です」(『私たちの要法寺』p15)

 

「宝蔵

宗祖大聖人御付属をはじめ、御消息文、歴代の上人御直筆、その他門外不出の霊宝が蔵せられ、耐火、耐震最善の設備せられ、絶対安全に万遺漏なき注意されてある」(『本山要法寺参詣案内』)

 

「私たちの要法寺」の記述によると、宝蔵の中には、紫宸殿の曼荼羅、称徳符法の曼荼羅、仏像などを収納しているとなっています。つまり堀川綾小路時代、二条寺町時代に本堂に祀られていた釈迦牟尼仏像は、今は宝蔵の中に収められているようです。

要法寺31世日舒が書いた「百六対見記」には

「然るに日俊上の時、下谷(常在寺)の諸木像、両尊等土蔵に隠し、常泉寺の両尊を持仏堂へ隠したり。日俊上は予が法兄なれども其の所以を聞かず。元禄第十一の比、大石寺門流僧、要法の造仏を破す。一笑々々」(『富士宗学要集』9p70)

と、大石寺22世日俊が、大石寺末寺の常在寺、常泉寺の仏像を土蔵や持仏堂に隠したという記述を残していますが、要法寺の場合も、本堂に祀られていた仏像を宝蔵に収蔵したようです。

 

それから称徳符法の曼荼羅が宝蔵に収蔵されているということですが、ならば本堂の称徳符法の大本尊とは、宝蔵に収蔵されている曼荼羅のレプリカ板本尊ということになりますが、仏教界で広く使われている用語を用いれば、本堂の板本尊とは、称徳符法の曼荼羅の「お前立」ということになります。

宝蔵に収められている「称徳符法の曼荼羅」の開扉はしないのでしょうか。

もうひとつの日蓮本宗の公式文献「信仰のすすめー日蓮本宗の信心」には、記念すべき12の聖日が記載されていますが、その中にお風入れ・霊宝虫払いの日がありません。要法寺では、霊宝のお風入れ(虫払い)を行わないのでしょうか。それとも非公開でお風入れ(虫払い)を行っている、ということでしょうか。

非公式情報ながら、要法寺のお風入れ(虫払い)は、末寺住職や信者にも非公開で、要法寺のみで内々に行っているという情報が入っています。これが本当だとしたら、こういう閉鎖的・排他的体質は、外からは、あまりいい印象は持たれないでしょう。

 

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日蓮本宗本山・要法寺15(元は釈迦堂だった要法寺開山堂2)

 

以上のような検証から、サイト「要法寺」が取り上げている「新撰京都名所圖會 3 竹村俊則、昭和36年」に出ている要法寺古図の中で、現開山堂を釈迦堂と書いているのは、間違いではないと考えます。

要法寺古図1


この古図は間違ったことを書いているのではなく、要法寺本堂が落成した安永3(1774)から、要法寺が仏像を廃して大曼荼羅本尊を勧請し、日蓮宗・京都15本山との間に教義紛争が起こった寛政7(1795)までの21年間の間に書かれた古図であると考えられます。

つまり、要法寺開山堂は、元々は釈迦如来像が祀られた釈迦堂として建立されたのであり、要法寺が仏像を廃止した後は、新堂と改められ、さらにその後、開山堂と改められて現在に至っている、ということです。

ではいつ新堂から開山堂に改められたのか、というと、明治26(1893)年当時の要法寺の古図では、開山堂が新堂となっています。日蓮宗制作・日蓮聖人門下連合会監修の「日蓮聖人門下・京都十六本山めぐり」という小冊子の中では

「古来は新堂と呼ばれるお堂でしたが、大正4年以降に、大御本尊と開山の日尊上人の御影像を安置し開山堂と改めました」(『日蓮聖人門下・京都十六本山めぐり』p22)

と書いてありますので、1915(大正4)年以降、そうなったということのようです。

 

「要法寺 日蓮本宗の本山で根本道場」というサイトを見ると、次のような記述が見られます。

「要法寺 日蓮本宗の本山で根本道場」

http://blogs.yahoo.co.jp/masatake_ko/45632134.html

「重層の屋根をもつ開山堂は文政13 1830 )年に再建された。再建当時は開山堂を本堂と称していたが大正4 1915 )年、開祖 日尊上人を 祀り祖師堂を本堂とした」

 

要法寺の公式見解によれば、

「開山堂は正徳5(皇紀2375・西暦1715)11月、日眷上人の代、上棟せられ、当時、仮本堂とせられていたのを、後、本堂再建とともに、開山堂とせられたものである」(『本山要法寺参詣案内』)

となっています。

つまり現開山堂は、現本堂よりも一足先に落成して「仮本堂」だったが、新たに本堂が落成した後、開山堂になった、というものである。

「要法寺 日蓮本宗の本山で根本道場」の記述と要法寺の公式見解の間には、具体的な年については、食い違いが見られるものの、「再建当初は開山堂が本堂」「後に祖師堂が本堂になった」という大筋では食い違っていないと考えます。

 

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日蓮本宗本山・要法寺14(本堂=釈迦堂だった要法寺)

 

こりように要法寺13世日辰が要法寺を建立した堀川綾小路時代、14世日賙の代、豊臣秀吉の命によって移転・再建した二条寺町時代は、教義的に要法寺で造仏読誦が盛んだった時代であり、文献にも、当時の要法寺本堂に釈迦牟尼仏像が祀られていたことがわかります。

これが1788(寛政元年)7月、要法寺30世貫首・日良が、余仏不造二品読誦の規矩を定めて門下に発布したことにより、要法寺の造仏読誦が撤廃されていくことになります。

(安良日将「独一本門乃大観」より)

要法寺の公式見解によれば、今の東山三条の本堂は、1742年に起工式を行い、建築に32年の歳月をかけて1774年に落成させたということですから、1788年の30世日良の余仏不造二品読誦の規矩よりも14年前のことになります。

したがって、今の東山三条の地に要法寺の堂宇が再建された当初は、堂宇に釈迦牟尼仏像が祀られていたとするのが、自然だと考えられます。

 

さてサイト「要法寺」を見ると、堀川綾小路時代、二条寺町時代の本堂について、注目すべきことが書いてあります。

「要法寺」

http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/n_16_yoboji.htm

 

「 『近世京都日蓮宗妙顕寺・妙覚寺・要法寺の伽藍配置』丹羽博亨(日本建築学会計画系論文報告集 第402号所収)では以下の記載がある。

天正16年(1588)帰洛後の要法寺に於いて、漸く日辰13回忌に際し本堂(釈迦堂)が建立される。

寛永年中(1624-)本堂(釈迦堂)再興との記事があり、本堂(釈迦堂)が再興される。(退転理由は不明)

即ち伽藍中心は釈迦堂が南面し祖師堂は釈迦堂の前方東にあり西面する。  ※二条寺町時代の伽藍については下掲の「○二条寺町の伽藍(要法寺伽藍絵図)、山州名跡志」の項を参照」

 

「『近世京都日蓮宗妙顕寺・妙覚寺・要法寺の伽藍配置』丹羽博亨(日本建築学会計画系論文報告集 第402号 所収)

○二条寺町の伽藍◆要法寺伽藍絵図:『新編法華霊場記』享保3年(1686)刊:二条寺町の伽藍

 本堂・祖師堂・刹堂・番神堂・同拝殿(推定)・鐘楼(推定)・寺中などが描かれる。

・「山州名跡志」元禄15年(1702)では

要法寺ハ妙伝寺ノ南二条ノ北ニ在り 堂ハ南面、祖師堂ハ堂前ノ西南ニアリ、刹堂ハ堂前ノ東南ニアリ、番神社ハ祖師堂ノ東南ニアリ西面ナリ」

 

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日蓮本宗本山・要法寺13(富士門流で行われていた造仏読誦)

 

要法寺中興の祖・13世貫首・広蔵院日辰の著書「法華二論議得意抄」をはじめ、等身大の量があるといわれる膨大な著書に、日辰が造仏読誦の化儀を肯定していたことは明らかである。

ということは、要法寺に仏像が祀られていたと考えるのが普通であろう。

前回取り上げたサイト「要法寺」の中に、丹羽博亨著「近世京都日蓮宗妙顕寺・妙覚寺・要法寺の伽藍配置」の文を引いて

「天正16年(1588)帰洛後の要法寺に於いて、漸く日辰13回忌に際し本堂(釈迦堂)が建立される。」

との記述がある。

富谷日震「日宗年表」によれば

「天正16(1588)515日 要法寺本堂慶讃供養」

とだけ載っていて、造仏云々には触れていません。ところがその三年後の1591(天正19)6月、豊臣秀吉の命により、要法寺は堀川・綾小路から二条寺町に移転させられてしまう。

そしてその二年後の文禄2(1593)、要法寺は堂宇を新たに再建して、本堂に祀る諸尊を造立したという記述が、「日宗年表」に出てきます。「日宗年表」によれば

「要法寺日賙本堂安置諸尊造立(諸堂再興成る)

と書いてあります。諸尊とは、釈迦牟尼仏像の他、多宝如来像や四菩薩像のことと思われます。

二条寺町時代の要法寺には、本堂に釈迦牟尼仏像をはじめとする一尊四士、ないし二尊四士が祀られていたことがわかります。

要法寺造仏1

 

この要法寺13世・広蔵院日辰の教学は、富士門流ではものすごく大きい影響を与えています。

教学的には「反造仏読誦」である大石寺の末寺である、江戸常在寺、常泉寺、法詔寺、会津実成寺等で造仏読誦が行われていたことは注目に値します。当時の大石寺法主は、要法寺出身の17世日精。日精は、造仏読誦論を展開する「随宜論」という著書があり、その中で広蔵院日辰流の造仏読誦論を展開している。

さらに日精は著書「日蓮聖人年譜」でも日辰流の造仏読誦論を展開。日蓮正宗大石寺59世法主・堀日亨は自らが編纂した「富士宗学要集」に日精の著書「日蓮聖人年譜」を収録し、日精の造仏読誦論を指摘する頭注を書き記している。

又、日精が江戸の常在寺、常泉寺、法詔寺、会津実成寺などの末寺で造仏を行ったことは史実である。京都・要法寺僧侶・寿円日仁(後の要法寺25代貫首・日舒)1672(寛文12)611日、「百六箇対見記」を著して、この中で日精の造仏読誦について記している。

 

「寛永年中、江戸法詔寺の造仏千部あり。時の大石の住持は日盈上人、後、会津実成寺に移りて遷化す。法詔寺の住持は日精上人、鎌倉鏡台寺の両尊四菩薩御高祖の影、後に細草檀林本堂の像なり。牛島常泉寺、久米原等の五箇寺並に造仏す、又下谷常在寺の造仏は日精上人造立主、実成寺両尊の後響、精師御施主、又京都要法寺本堂再興の時、日精上人度々の助力有り。

然るに日俊上の時、下谷(常在寺)の諸木像、両尊等土蔵に隠し、常泉寺の両尊を持仏堂へ隠したり。日俊上は予が法兄なれども其の所以を聞かず。元禄第十一の比、大石寺門流僧、要法の造仏を破す。一笑々々」(『富士宗学要集』9p70)

 

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日蓮本宗本山・要法寺12(仏像本尊の過去を否定する要法寺)

 

前回のブログ日記で「『要法寺』という名前のサイトを参考にしてほしい」というご意見が寄せられましたので、こちらのサイトの記述から検証していきたいと思います。

「要法寺」

http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/n_16_yoboji.htm

 

このサイトの名前は「要法寺」となっていますが、ホームページは「がらくた置き場」となっており、日蓮宗系や仏教寺院など、けっこう詳しい情報を載せていながら、その一方で

「このサイトはある「老人」が暇つぶしに作ったもので、役に立つ情報はほとんどありません」

と書いて、責任逃れを示唆することも書いており、仏教や日蓮宗系に詳しい人が個人的に書いているサイトと思われます。もちろん、日蓮本宗・要法寺の公式サイトではありません。

 

そのサイト「要法寺」を見ると、要法寺開山堂について、下記の記載が見られます。

 

2010/10/21追加:

当ページでは要法寺「開山堂」を「釈迦堂」の名称で掲載していたケースがあったが、これを「開山堂」に変更する。

その理由は、現在本堂西の堂は「開山堂」と云う扁額が掲げられていること、諸記録からこの堂は開山堂として建立されたこと、現在地では釈迦堂は建立されなかったのが事実であろうと思われることである。 (この処置は要法寺に詳しい某氏より釈迦堂の名称は不適切との指摘を受けたことによるものである。要山に於いては釈迦堂か否か、開山堂かは化儀に関わる事であるから看過できないことである。)

▲参考1:

 某氏ご提供:平成1911日発行(第406号)「要法」では「元本山総代・本山本堂・開山堂屋根修復実行委員」云々の記事を認めることが出来る。

▲参考2:

 要法寺開山堂扁額:2009/11/05撮影、要法寺ではこの堂宇に開山堂の扁額を掲げる。

▲参考3:

 「近世京都日蓮宗妙顕寺・妙覚寺・要法寺の伽藍配置」丹羽博亨(日本建築学会計画系論文報告集 第402号所収)では以下の記載がある。

天正16年(1588)帰洛後の要法寺に於いて、漸く日辰13回忌に際し本堂(釈迦堂)が建立される。

寛永年中(1624-)本堂(釈迦堂)再興との記事があり、本堂(釈迦堂)が再興される。(退転理由は不明)

即ち伽藍中心は釈迦堂が南面し祖師堂は釈迦堂の前方東にあり西面する。」


要法寺7開山堂1
 

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日蓮本宗本山・要法寺11(元は釈迦堂だった要法寺開山堂)

 

さて、元の仮本堂が開山堂になったという見解を読むと、これは北山本門寺や小泉久遠寺と同じなのかな、と思ってしまいがちです。ところがこれは早計で、要法寺の堂宇・伽藍を研究するには、要法寺の歴史や教義との関連・研究が不可欠になります。

 

どういうことかというと、要法寺の歴史を具に紐解いていくと、要法寺13世日辰の開山から江戸時代中期のころまで、要法寺では釈迦如来の仏像が造立され、法華経一部読誦の化儀が行われていたことに言及しなくてはなりません。これを一般的に「造仏読誦」と言います。

現在の要法寺は、大漫荼羅本尊、方便品・寿量品読誦という、富士門流の化儀であり、造仏読誦は行われていません。この造仏読誦の化儀から、富士門流の化儀に転換したのは、江戸時代中期の寛政年間における日蓮宗本山との教義紛争がきっかけになっています。

したかべって、かつての要法寺の造仏読誦についての、今の日蓮本宗要法寺の見解を聞いてみたいところなのですが、ところがそう簡単に事は運ばないのです。

 

なぜかというと、今の日蓮本宗・要法寺は、かつての造仏読誦の化儀や寛政年間における日蓮宗本山との教義紛争について、実に歯切れが悪いのです。小冊子『私たちの要法寺』を読んでも、要法寺の歴史の項目では、造仏読誦の化儀については、一言も触れていません。

後に詳しく書きますが、今の要法寺僧侶に、かつての造仏読誦の化儀について質問しても、

「そんなことは行っていません」と否定してきます。

しかし、富士門流関係の膨大な古文書を研究していくと、要法寺13世日辰の開山から江戸時代中期のころまでの要法寺では、造仏読誦が行われていたことが明らかなのです。

 

そこで造仏読誦や、これに関連する堂宇について研究するには、古文書や古図・絵図等の史料を調べていくしかありません。

要法寺の本堂・開山堂に関する注目すべき史料としては、現在の要法寺の伽藍・堂宇が落成した頃の古図が挙げられます。その古図とは、以下のものです。

要法寺古図1


 

この古図を見ると、本堂、塔中、表門、西門、鐘楼、経蔵は今とかわらないのですが、一点、開山堂が「釈迦堂」となっています。これは注目すべき事です。

今の要法寺本堂が落成したのは、安永3(1774)

要法寺が仏像を廃して大曼荼羅本尊を勧請し、日蓮宗・京都15本山との間に教義紛争が起こったのが寛政7(1795)です。つまり今の本堂の落成から21年後のことです。

つまりこの古図は、安永3(1774)の本堂落成から、仏像を廃した寛政7(1795)21年の間に描かれたものと考えられます。

この古図を見れば、一目瞭然。今の開山堂は、かつて釈迦堂として、釈迦如来仏像が祀られていた堂宇であったことがわかります。

 

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日蓮本宗本山・要法寺10(要法寺開山堂についての公式見解)

 

さて、次に本堂の隣に、並んで建っている開山堂についての、日蓮本宗宗務院教学部の公式見解を見ていきたいと思います。小冊子「私たちの要法寺」「本山要法寺参詣案内」には、次のように書いてあります。

 

「開山堂

文政13(1830)再建。重層入母屋造り・唐破風・本瓦葺。御開山日尊上人をおまつりしてあります」(『私たちの要法寺』p15)

 

「開山堂

開基・日尊上人を安置す。上人、建武元年(1334)2月、二祖日興上人の遺命により大法を叡聞に達せしところ、後醍醐天皇叡感浅からず、二位法印の宣旨を降され玉ふた。開山堂は正徳5(皇紀2375・西暦1715)11月、日眷上人の代、上棟せられ、当時、仮本堂とせられていたのを、後、本堂再建とともに、開山堂とせられたものである」(『本山要法寺参詣案内』)

要法寺7開山堂1

 

現在の京都・東山三条にある要法寺の堂宇は、1708(宝永5)3月の類焼から、早速、建設工事がはじめられ、1716(享保1)年から1780(安永9)年まで、約60年の歳月をかけて、現在に近い堂宇が整えられたと言うのが、日蓮本宗の見解です。

開山堂は、1715(正徳5)年に上棟式を行ったということですから、東山三条の再建工事の一足先に、「仮本堂」として建てられ、正式に本堂が再建せられた後は、開山堂になったということのようです。

当初は仮本堂で、正式な本堂の再建後に、開山堂に改名されたという堂宇は、北山本門寺や小泉久遠寺でも、同様の例があります。

 

開山堂には何が本尊として祀られているのかというと、板本尊を背にした日尊の木像で、開山堂の板本尊とは、後の日記に出てきますが、私が要法寺を訪問したときに要法寺塔頭住職に聞いたところでは、二祖・日興の大曼荼羅を模刻したレプリカの板本尊ということです。

 

そうすると本堂は、称徳符法の大本尊を板に模写彫刻したレプリカの板本尊を背にした日蓮の木像が祀られ、開山堂は、日興の大曼荼羅を板に模写彫刻したレプリカの板本尊を背にした日尊の木像が祀られている、ということになります。

 

 

 

 

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日蓮本宗本山・要法寺9(要法寺本堂についての公式見解2)

 

要法寺本堂は、1742年に起工式、1774年に落成という、32年の歳月をかけて建築されたわけですが、「では、なぜこの時期に?」という疑問が沸きます。

それに対する答えも、小冊子『私たちの要法寺』の中に書いてあって、それは1708(宝永5)3月の京都の大火で、要法寺が類焼したことによるものです。

『私たちの要法寺』では、要法寺中興の祖・13世貫首・広蔵院日辰の要法寺建立以降の歴史を大きく三つに区切っています。

まず1548(天文17)年・日辰の要法寺建立から1591(天正19)年夏の移転までの約40余年を「堀川綾小路時代」

1591(天正19)年夏の豊臣秀吉による移転から1708(宝永5)3月の類焼までの約120年間を「二条寺町時代」

その後、現在の東山三条に移って再建されてから現在までを「東山三条時代」と区切っています。

これは1708(宝永5)3月の類焼から、早速、建設工事がはじめられ、1716(享保1)年から1780(安永9)年まで、約60年の歳月をかけて、今の東山三条の地に、現在に近い堂宇が整えられたと言うことです。

 

『私たちの要法寺』の中には、「本山要法寺全景」と題する明治26(1893)年当時の要法寺の古図が載っています。

要法寺全景1


それを見ると、本堂、開山堂(新堂となっている)、塔頭、客殿、宝蔵、方丈、書院、鐘楼、表門等は現在とかわり有りませんが、塔頭・信行院のとなりに、学寮らしき建物があり、さらにその置くに、檀林らしき校倉の建物が見られます。学僧や修行僧が数多くいたようすが窺えます。

さらに経蔵のとなりには、拝殿や垂迹堂の名のミニ神社らしき建物も見られます。

 

もっとも要法寺門流は、戦前までは、富士門流の中では、塔頭・末寺の数が最大だったところで、江戸時代から明治時代にかけて、大石寺や北山本門寺に要法寺出身の法主・貫首を出したくらいの一門ですから、こういう古図を見ていると、たくさんの学僧がいた繁栄ぶりが伺い知ることができます。

 

もうひとつの小冊子『本山要法寺参詣案内』にも、要法寺の絵図が載っていますが、こちらのほうは、本堂、開山堂、塔頭、客殿、宝蔵、方丈、書院、鐘楼、表門、通用門等、現在とかわり有りません。学寮、檀林、拝殿や垂迹堂は、絵図には載っていません。

こちらの絵図は、もっと後の時代の物と考えられます。

 

 

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日蓮本宗本山・要法寺8(要法寺本堂についての公式見解)

 

寺院の伽藍・堂宇について調査・研究するには、その宗派・寺院の公式見解がどうなっているのか、を知ることが重要なポイントになります。

日蓮本宗や要法寺の出版物というものは、見聞したことがなかったのですが、だいぶ後になってから、篤志の方から、「本山要法寺参詣案内」と「私たちの要法寺」という二冊の小冊子を見せて頂く機会に恵まれました。

「私たちの要法寺」は昭和58(1983)4月に第四刷として3000部出版されたものの中のひとつ。発行は「日蓮本宗宗務院」となっており、所在地は「本山要法寺内」となっています。

私たちの要法寺1


「本山要法寺参詣案内」のほうは、出版年月日はいつか書いてありませんが、皇紀の年代が記してあるので、相当古い小冊子なのではないかと思われます。発行についても、何も書いてありませんが、当然のことながら、日蓮本宗本山要法寺が発行した小冊子にちがいありません。

参詣案内1


したがってこの二冊に書いてある内容は、当然、日蓮本宗の公式見解ということになります。

要法寺の本堂について、二冊の小冊子には、次のように書いてあります。

 

「本堂

安永3(1774)落成。入母屋造り・本瓦葺き。前後に向拝。大御本尊と、日蓮大聖人の御尊像を奉安。建物は総欅(けやき)造りで、土壁を用いず。木材は全て島根県三瓶山志学より切り出され、江川を下し、海路運ばれ、飛騨の工匠の手により建築されたと伝えられます。志学の富屋が中心で、浄財を集めたということで、当時の信者たちの強信ぶりが察せられます。東西軒先の巴瓦の真ん中の一個の鏡に、それぞれ日・月の文様をつけ、西南の角の軒先に、災厄除けといわれるカスガイを残しております」(『私たちの要法寺』p15)

 

「本堂

寛保2(皇紀2402・西暦1742)に本堂建立起工式を挙げ、安永3(皇紀2434・西暦1774)に入仏法要を営む。時に本山三十世日良上人の代にして総欅材を用い、土一ヶ所の使用を見ない処が他の建築と異なったところ。木材は全て島根県三瓶山志学より搬出せられ、交通不便な当時の郷の川を下し、遠く日本海より運搬せられ、飛騨工匠の手によって建築せられたる斯界の好模範建築物なり。西南の突端に鎹(かすがい)を打って、災厄除とせらるる等、如何にこの建築に妙を得たるかを知るべきなり」(『本山要法寺参詣案内』)

 

つまり要法寺本堂は、1742年に起工式を行い、1774年に落成して入仏式を行ったということですから、何と建築に32年の歳月をかけて落成させたということになります。これからこの本堂が今日まで続いているということですから、2012年現在で、築238年の建物ということになります。

ずいぶん長期間にわたってつづいている建築物ということになります。

 

さて「私たちの要法寺」によれば、本堂の中には「大御本尊と、日蓮大聖人の御尊像を奉安」となっています。ここに書いてある「大御本尊」とはなんぞや、ということになりますが、「本山要法寺参詣案内」の中に、要法寺の「大聖人御直筆称徳大御本尊」という名前が出てきます。

要法寺の「大御本尊」とは、「称徳符法の曼荼羅」のことを指す、ということです。

 

ところが「私たちの要法寺」の「宝蔵」の欄を見ると、「称徳符法の曼荼羅」は宝蔵に格蔵されているとなっています。そうすると、本堂に祀られているのは、「称徳符法の曼荼羅」を模写彫刻したレプリカ、板本尊ということでしょうか。

 

 

 

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日蓮本宗本山・要法寺7(他の富士門流本山との類似点・相違点)

 

かくして要法寺を訪問したことで、嘉儀日有(かぎにちゆう)貫首をはじめて実見したのみならず、境内をいろいろと見学して、けっこういろんなことがわかりました。

まず嘉儀日有貫首をはじめ要法寺僧侶が着ていた僧衣は、日蓮正宗大石寺、北山本門寺など、他の富士門流と同じ薄墨色の衣に白袈裟。

貫首は、礼装用の僧衣を身につけていましたが、これも大石寺法主や末寺住職が着る礼装用の僧衣と全く同じ。さらにその僧衣、袈裟に、鶴丸のマークが入っているのも見えました。鶴丸の紋を使っているのも、他の富士門流本山と同じです。

この時、私の持っていた資料には、要法寺僧侶の僧衣は黒色の黒衣である、などと書いてあった物があったのだが、何のことはない。これは全くの間違いです。

私が、要法寺僧侶の僧衣を、直に見たのは、この1995(平成7)年の日尊650遠忌の年がはじめて。私はそれまで、要法寺の僧衣が大石寺の僧衣と全く同じとは全く知らず、かなり驚いた記憶があります。

 

さて境内を見渡してみると、堂宇・伽藍・塔頭等は、大石寺、富士妙蓮寺、北山本門寺、西山本門寺、小泉久遠寺、伊豆実成寺、保田妙本寺、讃岐本門寺等、他の富士門流本山とは、大きく異なっています。

要法寺の境内の中心に、本堂と開山堂という、大きな堂宇・伽藍が二堂建っており、その北側に、顕壽院・法性院・信行院・実成院、南側に真如院・本行院・本地院・妙種院が立ち並んでいます。

要法寺3本堂3


こういう境内は、日蓮正宗大石寺をはじめ、他の富士門流本山には見られない造りで、どちらかというと、奈良の法隆寺の境内の並びに似ている感じがする。

そして、本堂、開山堂の東側に、客殿、方丈、書院、庫裡、受付があります。

こういう堂宇・伽藍の造り方は、他の富士門流本山には、見られないものです。

 

富士門流では、多くの場合、本堂ないしは御影堂、客殿と、大きな堂宇がある場合が多いですが、要法寺の場合は、本堂(御影堂)・客殿という建て方とは異なっています。

境内に本堂と開山堂が並んで建っている寺院は、北山本門寺がありますが、北山本門寺の場合は、開山堂とは元の仮本堂であり、新しく本堂を新築したので、仮本堂を開山堂としたわけです。

要法寺の場合は、後に詳しく述べますが、北山本門寺のケースとは、異なっています。

 

それから、塔頭の名前が、大石寺、北山本門寺などの富士五山、讃岐本門寺、身延山久遠寺、岡宮・光長寺の塔頭のように、「○○坊」ではなく、真如院・本行院・本地院・妙種院・顕壽院・法性院・信行院・実成院、というふうに「○○院」という院号になっています。

これは、京都・奈良の本山寺院の塔頭は、宗派を問わず、おしなべて院号になっているのと、共通しています。東大寺、園城寺(三井寺)、比叡山延暦寺といった大寺院はもちろんのこと、京都にある他の日蓮宗系の本山寺院である妙蓮寺、頂妙寺、妙満寺、本満寺といった寺院の塔頭も全て「○○院」という院号になっています。

こういったところも、他の富士門流本山とは、大きく異なっています。

 

 

 

 

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日蓮本宗本山・要法寺6(要法寺54世嘉儀日有貫首をはじめて実見)

 

 

さて、その日の夜は、自家用車で野宿することにしたのだが、いくらなんでも京都の街中に堂々と車を停めて、野宿するわけにはいかない。京都市は、人口約147万人の大都市であり、京都の街中で野宿しようものなら、大変なことになってしまう。

かといって、要法寺からあまり離れた所で野宿しても、野宿する意味が無くなってしまう。おまけに、京都の道路や地理には、明るいほうではないし。

そこで、いろいろ考えたあげく、国道一号線から山科のほうへ入り、東山トンネル付近の、人里離れた山の中で、車を停めて、一晩、野宿することにしたわけです。まあ、ここだったら、東山三条からは、そんなに離れては居ないし、早朝、要法寺に急行できると考えたわけです。

 

ところが、である。

東山トンネル付近の山中で野宿をしたのはよかったのだが、その夜は、東京から車を約500キロ以上走らせた疲れからか、車の中で爆睡。目が覚めたのが何と朝6時。完全な朝寝坊です。

それであわてて車を飛ばして要法寺へ急行。駐車場に滑り込んで、あわてて本堂前に行ってみましたが、あとの祭り。

すでに要法寺本堂では、僧侶たちの勤行がはじまっており、私もあとから本堂の中に入ろうとしたのでしたが、入り口の戸が固く閉められていました。

各仏教宗派の寺院は、概ねそうなのだが、勤行などの法要がはじまると、堂宇の入り口の戸を閉めてしまうのである。それはここも同じ。ただ、法要がはじまって、入り口の戸は閉めても、カギまではしめない寺院もあるし、入り口の戸を一旦閉めても、後から中に入れる寺院もある。

しかしここは、勤行がはじまってしまった後からは、入れませんでした。まことに残念です。

そうなると、黙って本堂の外で待機している他になくなってしまうわけで、本堂の中からは、僧侶の読経の声が漏れ聞こえ、さらにボクボクボクという木魚の音?らしきものまで聞こえてきた。

読経の声は聞こえましたが、どこを読んでいるのかは、わかりませんでした。

 

僧侶が多人数集まって行う法要・勤行で木魚を鳴らす化儀は、仏教各宗派でよく見かけます。

木魚とは、読経や唱題などの調子をとるために用いる仏具で、昔はマイクもスピーカーもなかったわけですから、寺院の法要では、木魚は必需品だったと思われます。

そういえば、日蓮正宗大石寺・本末寺院の勤行・法要では木魚を使っているのを見たことがありません。

大石寺では木魚を使っていなかったということは、勤行や法要に出仕する僧侶は、まことに少人数で、木魚は必要なかったということか??

 

さて本堂での勤行が終了後、本堂に向かって右側の、庫裡(大坊)に通じる渡り廊下から、要法寺貫首を筆頭に僧侶たちがぞろぞろと、本堂から庫裡に帰っていく姿が見えました。

本堂の写真の右端に渡り廊下がわずか写っていますが、まさにそこです。

要法寺22本堂3


この時、要法寺貫首をはじめて実見したのですが、この人は日蓮本宗・本山要法寺54世・嘉儀日有(かぎ・にちゆう)貫首だったわけです。

 

この時は、要法寺・朝の勤行に参詣することには、見事に失敗してしまったわけですが、その数ヶ月後、ある情報筋の方から、要法寺の勤行に関する情報をいただきました。

それによると、要法寺・朝の勤行には、けっこういろんな人が来ているようです。面白いなと思ったのは、日蓮宗や法華宗の僧侶から、はては日蓮正宗の若手僧侶まで来ているとのこと。

「あれ、日蓮正宗の僧侶が要法寺の勤行に来て、いっしょに読経しているのかな」と思いきや、そうではなく、本堂の後方に座り込んで、読経も何もせず、腕組みしながら勤行の成り行きを見ているだけなのだという。さしずめ要法寺の偵察にでも来たのでしょうか。

けったいな人たちです。

 

 

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日蓮本宗本山・要法寺5(1994年の要法寺初訪問)

 

東京から京都まで、東名高速・名神高速を車で行くと約500キロ近くある。途中、休憩・食事をはさんだとして、時間にして約6時間半くらいだろうか。

早朝7時に車で出たとしても、京都に着くのは13時すぎになる。

私は東名高速を車でかっ飛ばして京都へ行くというのは、1993年の全国旅行で一度経験済み。

その時は、朝、東京を出て、途中、浜名湖、関ヶ原に寄り道をして、京都に行ったため、京都に着いたのは夕方を過ぎていました。

 

まあ、京都までは車で行けることは行けるが、問題は要法寺の朝6時の勤行である。これはいくら何でも時間が早すぎます。東京近郊だったら、早朝6時でも、なんとか行けないこともない。

しかし、東京から車をかっ飛ばして要法寺の早朝6時の勤行に滑り込むというのは、なかなか至難の業です。東京から京都へ行く道中に於いて、事故渋滞や工事渋滞にはまり込んでしまったら、たちまち間に合わなくなる。前夜、京都市内のホテルに泊まったとしても、要法寺の朝6時の勤行に駆け込むというのも、かなりむずかしい。

そもそも、それまで私は要法寺に行ったことがなく、場所すらも知らなかったため、要法寺の場所を把握しておく必要がありました。

 

それで私は、車で京都に着いた後、要法寺に直行して、場所等を掌握し、その日の夜は、ホテルに泊まらず、車の中で仮眠、というか野宿することにしました。

京都にたどり着いた私は、早速、要法寺に行って、下見をしてみました。この時が、要法寺の初訪問でありました。

要法寺は、京都の東山三条にあるのですが、JTBガイドブック等では、さも大通りに面しているように書いてあるが、実際には、大通りには面しておらず、少し引っ込んだところにある。駐車場が境内と隣接したところにあり、そこに車を停めて、要法寺境内を見学。

本堂、開山堂、庫裡、塔頭、寺務所等々が並んでおり、寺域としてはそんなに狭くはないのだが、しかし大石寺、東大寺、比叡山延暦寺、身延山久遠寺…といった大寺院ほど広くはない。

資料によると、要法寺の境内の面積は1.35haとなっています。大石寺が70haですから、51分の1。法隆寺の18.7haと比べても13分の1になります。

境内を一見して、信者を集めて法要・行事を行う堂宇としては、本堂と開山堂のみのように思える。寺務所が庫裡(大坊)と、くっついて建っていたので、中に入って僧侶の話を聞こうと思ったのですが、だれもいない。寺務所の受付には、特に何かの資料があるわけでもなく、中はガラーンとしていました。

要法寺10寺務所


今から16年前の1995年といえば、私も今以上に血気盛んでありましたので、

「ここまで来て誰も居ないというのでは納得できない」

と思いまして、受付の窓越しに「すいませーん」と大声で何度も呼んでみた。

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日蓮本宗本山・要法寺4(京都へ一直線に急行)

 

すでに「仏教宗学研究会」ブログやmixi日記で書いていることですが、私は20代のころから、日蓮正宗、日蓮宗、富士門流各本山の寺院、その他の宗派の寺院を訪問して、住職をはじめ、さまざまな僧侶と会って、話を聞いたり、取材してきています。

これらの寺院訪問のパターンとしては

1 寺の大きな法要・行事があったときに訪問

2 毎日行っている勤行の時間を見計らって訪問

3 行事や勤行と関係ない日時に訪問

3つのパターンに分けられます。

 

1995(平成7)年の日尊650遠忌の年の当時は、まだインターネットが一般に普及しておらず、もちろんmixiGREEもブログもホームページもない時代。

もちろん、当時の私は、要法寺が発行している文献や史料も持ち合わせていませんでした。

堀日亨編纂の「富士宗学要集」や関連史料は持っていましたが、それに当時の要法寺のことが書いてあったわけではない。要法寺の年中行事がどういうふうに行われているのかという情報も皆無でした。

 

どうしようかと思った私は、要法寺でも毎日、勤行が行われているはずだと考え、まず勤行の時間帯を狙ってみることにしました。

勤行というのは、一般的に、仏教各宗派、各門流においても、必ず日々の修行として、勤行を行っています。

身延山久遠寺でも祖師堂で毎日三時(三回)の勤行が行われているし、池上本門寺では午前530分から大堂(祖師堂)で勤行が行われている。

北山本門寺でも、午前6時から本堂(御影堂)で勤行が行われています。

大石寺の場合は、毎朝午前230分から客殿で丑寅勤行が行われています。

末寺では、地域によって本堂で行ったり、客殿で行ったり、勤行を寺院堂宇で行っている寺と行っていない寺があったり、ばらつきはある。

しかし要法寺は、日蓮本宗の本山を名乗る寺院であり、貫首・管長もここに住している寺院ですから、ここで勤行が行われていないはずがありません。

 

あの当時、下調べをする手段としては、とりあえず要法寺に電話をしてみるしかありませんでしたが、いざ電話をしてみると、毎朝6時から本堂で一山挙げて勤行を行っているということでした。

要法寺22本堂3


要法寺本堂で勤行を行っていると言うことであれば、当然、導師は貫首であるはず。ならば貫首にも会えるかも知れないと考えた私は、要法寺へ行くことを決断しました。

とは言っても、私は東京に住んでおり、要法寺は京都。

おいそれと行けるわけではないが、私は休日を見計らって、自家用車に乗り込み、東名高速道路に入って、一路、京都に向かったのでありました。

 

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日蓮本宗本山・要法寺3(日尊650遠忌)

 

さて富士門流八本山(大石寺、妙蓮寺、北山本門寺、西山本門寺、小泉久遠寺、保田妙本寺、京都要法寺、伊豆実成寺)の中では、要法寺と伊豆実成寺が日尊門流ということになっているが、知名度としては、要法寺が圧倒的なのではないだろうか。

伊豆実成寺は、日尊建立第一号の寺院で、日尊門流には入っていますが、要法寺の末寺ではなく、独立した本山になっています。

要法寺22本堂3

 

又、現在、日蓮正宗大石寺と、京都要法寺の関係は完全に断絶状態になってしまっているが、戦国時代から江戸時代にかけて、大石寺と要法寺は公式に「通用」しており、大石寺15世日昌から23世日啓までの9代の法主が要法寺出身であることは、あまりにも有名である。

要法寺出身の大石寺法主が出ているだけではなく、北山本門寺34代貫首・玉野日志は要法寺出身であるし、西山本門寺8代貫首・日眼も要法寺出身である。

日尊門流は、日興を祖とする富士門流の中では最大規模であったため、僧侶・人材は昔から豊富だったようです。

 

現在、京都要法寺と日蓮正宗大石寺は、鋭い対立関係にありますが、元は同じ富士門流(日興門流)であるから、曼荼羅本尊、日蓮本仏論、種脱勝劣、方便寿量読誦、薄墨衣・白袈裟といった教義は同じ。

それだけではなく、要法寺の山号は多宝富士山といって、大石寺と同じであるし、日興が日蓮から唯一人相承されたとする日興相承論も同じ。大石寺も要法寺も、明治から大正にかけて「日蓮宗興門派」「本門宗」として、同じ宗派であった。

これは、1900年の大石寺一門の「日蓮宗富士派」(日蓮正宗)独立で実質的に破綻するのだが、長く大石寺と要法寺は同一だったため、大石寺の末寺なのか、要法寺の末寺なのか、わからなくなり、仏眼寺や妙縁寺などの、大石寺・要法寺の帰属問題も起こっている。

 

そうなってくると、大石寺と要法寺の教義的な違いは何なのか、ということになってくる。

要法寺は、大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を認めておらず、大石寺法主の唯授一人血脈相承も認めていない。

そして要法寺は要法寺で、独自に「称徳符法本尊」「符法曼荼羅」なる本尊を立てて、さらに要法寺独自の血脈も唱えている。

とは言っても、大石寺と要法寺は長い歴史の中で、通用したり反目したりを繰り返しているので、教義的には共通性のほうが多い。

 

私も若い頃から、大石寺や富士門流の研究を重ねてきているので、ここ要法寺は、どうしても直接行って、調査しておきたい寺院であった。とはいっても、要法寺があるのは京都であり、おいそれと行ける所ではありません。

私がはじめて要法寺に行ったのは、1994(平成6)年の要法寺開祖・日尊650遠忌の年。今から約16年前。私も、今よりも、もっと血気盛んな時でした。

 

なぜこの年を覚えているかというと、この年が要法寺・日尊門流の開祖・日尊650遠忌の年だったからです。

 

 

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日蓮本宗本山・要法寺2(富士門流では最大寺院数)

 

京都・要法寺とは、京都の東山三条、正式な住所地で言うと、京都府京都市左京区新高倉通孫橋上ル法皇寺町という実に長い名前の住所地にある日蓮本宗本山寺院。こう言うと、なじみが薄く感じられるのだが、日蓮正宗大石寺と同じ日興門流の系統で、富士門流八本山のひとつであり、日興・日目の直弟として有名な日尊の系統である日尊門流の本山といったほうが、わかりやすいのではないだろうか。

日蓮正宗や創価学会、顕正会、正信会といった日蓮正宗系の団体に関わりがあった人、日蓮教学や富士門流宗学を研究している人、日蓮宗や法華宗、顕本法華宗の人でも、この要法寺という名前を聞いたことがない人はいないのではないだろうか。それくらい有名な寺院である。

要法寺12

 

「要法寺」の名前なのだが、正式には「ようぼうじ」と読む。「ようほうじ」ではない。

要法寺の名前の由来は、法華経の「四句の要法」と思われるが、「四句の要法」は「しくのようぼう」と読むのであって、「しくのようほう」ではない。

最近、要法寺の中世の造仏問題で論争している創価学会教学部と法華講員・樋田昌志氏の動画をユーチューブで見たのですが、樋田昌志氏に勝利宣言している創価学会教学部ですら、要法寺を「ようほうじ」と誤って読んでいるのには、驚きました。しかも勝利宣言した後の、「解説動画」の中でも、要法寺を「ようほうじ」と誤って読んでいる有様です。いい加減ですね。

「要法寺の読み方なんか、どうでもいいじゃないか」と思われるかもしれませんが、こういう誤った読み方をしているのは、一般会員ではなく、教学のスペシャリストであるはずの創価学会「教学部」ですよ。彼らは、教学や宗学の研究で、漢字の「正しい読み方」を教わらないんでしょうか。

動画を見ていて、まことに奇異な印象を受けました。

 

要法寺は、日興門流(富士門流)の中の日尊の系統である日尊門流の祖山・本山であり、現在、「日蓮本宗」の本山を名乗っていますが、末寺は、要法寺の塔頭8院を含めて全国に50ヶ寺ある。要法寺は、戦前、本門宗であり、1941年、日蓮宗、顕本法華宗、本門宗の三派合同で、日蓮宗に合同している。

そして1950年に、日蓮宗から独立して、日蓮本宗を新たに立ち上げたわけだが、この要法寺本末の日蓮宗からの独立に追随せずに、そのまま日蓮宗にとどまった旧末寺が34ヶ寺ある。

そのうちの28ヶ寺が島根県にある。

さらにこの他に、元々は日尊門流の寺院だったが、今は日蓮正宗等の他宗派に属している寺院が14ヶ寺ある。

したがって日尊門流としては、要法寺と塔頭・末寺で約100ヶ寺くらいの規模があるのだが、現在の日蓮本宗は、その半分くらいの規模になっている。したがって現在は日尊門流=日蓮本宗ではない。

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