一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ

「一般社団法人 仏教宗学研究会」とは任意団体として2005年から活動している会の名称。2018年5月に一般社団法人登記。当ブログ名を「仏教宗学研究会のブログ」から「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」に改名。 「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

Category:興門・日蓮本宗(京都要法寺門流) > 日蓮本宗(末)實報寺

日蓮本宗・鳥辺山實報寺10(禅寺に葬られ親鸞の隣りで眠る日目)

 

私は、實報寺住職との長時間に及ぶ単独会見を終えたのでしたが、私にとっては、大きな成果のある實報寺訪問と言うことになりました。實報寺住職は

□ここ鳥辺山にあった延年寺に、日目が葬られて正墓が建てられたこと

□延年寺とは禅宗の寺院であったこと

□その後、延年寺が鳥辺山から出て行くに当たって、富士門流で、日目の正墓がある墓域を延年寺から買い取ったこと

□その買い取った日目の正墓の墓域が、今の實報寺であること

□よって實報寺に日目の正墓があること

□大石寺に、日目の遺骨の分骨をしていないこと

以上のことを明確に認めました。つまり

□日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨が「富士宗学要集」8巻に収録し、堀日亨が「売券」と呼んでいる古文書に書いてある内容である、日目が京都・鳥辺山の延年寺に葬られて正墓が建てられ、その墓域がある延年寺成願の所領を富士門流が四回にわたって買い取った土地が、今の實報寺であること

□實報寺墓苑中央にある廟こそが、日目、日尊が眠る正墓であること

□實報寺のほうで、大石寺に日目の遺骨を分骨したという事実はなく、實報寺住職が分骨を全面否定したことで、大石寺・下之坊にあると日蓮正宗が自称している『日目上人の御正墓』なるものはニセモノであること

これらがここで確認されたと言うことです。

さらに注目すべき事は、かつて京都・鳥辺山にあった延年寺は、禅宗の寺院であったこと。つまり鳥辺山の延年寺墓地に日目が葬られた、ということは、とりもなおさず、禅宗の寺院の墓地に葬られた、ということになる。

さらにもうひとつ言うと、この實報寺の道路を挟んだ隣には、浄土真宗の開祖・親鸞の大谷本廟があり、とりもなおさず、ここには親鸞が葬られて、眠っている。つまり大石寺三祖日目は、京都の禅宗の寺院の墓地に葬られていたということであり、今は實報寺は富士門流の寺院ではあるものの、大石寺の末寺ではない。しかも浄土真宗の開祖・親鸞と隣同士になって日目は眠っている。

こういう真実の姿は、日蓮正宗としては、とても恥ずかしくて信者には言えないだろう。日目の正墓が、同じ富士門流とはいうものの、日蓮正宗と対立関係にある要法寺の末寺である實報寺にあるわけだから。日蓮正宗としても、日目の遺骨が京都・鳥辺山に葬られて日目の正墓が鳥辺山に建てられたことは、史実と認めているわけで、これは動かしがたい。

實報寺10日目正墓3


大石寺17世日精や59世堀日亨も、明確に日目の遺骨が京都・鳥辺山に葬られて、鳥辺山に日目の正墓が建てられたことは、史実と認めているし、日蓮正宗富士学林が発行している「富士年表」でも、鳥辺山の日目墓地の四回の土地買い取りを史実として、年表に載せています。

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日蓮本宗・鳥辺山實報寺9實報寺に日目の正墓があると断言2

 

一通りの住職からの回答があった後、私と住職の問答になった。

 

○「それでは、日目上人、日尊上人の正墓は、ここ実報寺さんにあるわけで、日蓮正宗大石寺にはない、ということで、よろしいわけですね」

□住職「正墓というのは、どういう概念で言っておられるのですか」

實報寺10日目正墓3


○「人が亡くなって、葬儀を執り行い、遺体を荼毘に付して、遺骨をどこかに葬る場合、通常は、その人の遺骨をお墓に納めますね。そこが正墓と言うことです。その後、分骨をして他にも墓を建てる場合がありますが、そこを正墓とはいいませんねえ。通常なら、正墓というのは一カ所しかありませんね。」

□住職「それならば、目師(もくし・日目のこと)の正墓は、ここ(實報寺)にあるということになります」

○「では、あそこ(實報寺の墓苑)にある正墓には、日目上人、日尊上人の真骨が納められている、ということですね」

□住職「日目上人は、こちらに葬られたことは史実ですが、しかし、それから何百年も経っていますので、今は土に還っているかもしれません」

○「こちらにある墓が、日目上人の正墓ということであれば、日蓮正宗が、大石寺・下之坊にあると自称している『日目上人の正墓』なるものは、ニセモノということになりますねえ」

□住職「ニセモノ?

○「それは、そうでしょう。日目上人は、ここ鳥辺山に葬られて、ここに正墓があるわけですから。正墓というのは、一カ所しかありませんですからねえ。ここ以外で、日目上人の正墓だと称している所は、ニセモノということになるでしょう。まあ、もっとも、要法寺さんや實報寺さんのほうで、大石寺に日目上人の遺骨を分骨していれば、話しはべつですが」

□住職「大石寺に分骨はしておりません」

○「ならば、日蓮正宗が大石寺・下之坊にあると称している『日目上人の正墓』なるものは、ニセモノということになるでしょう」

□住職「まあ、そういうことになるのかもしれませんけども、ただ、むこう(日蓮正宗)が、そういうことを言っているとしても、こちら(實報寺)は、それはちがうよ、ということも言いませんけどね」

 

こんな感じで、私と實報寺住職との間で、日目の正墓論争が延々とつづきました。

が、この中で、實報寺住職は

□ここ鳥辺山にあった延年寺に、日目が葬られて正墓が建てられたこと

□その後、延年寺が鳥辺山から出て行くに当たって、富士門流で、日目の正墓がある墓域を延年寺から買い取ったこと

□その買い取った日目の正墓の墓域が、今の實報寺であること

□よって實報寺に日目の正墓があること

□大石寺に、日目の遺骨の分骨をしていないこと

以上のことを明確に認めたわけです。

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日蓮本宗・鳥辺山實報寺8(實報寺に日目の正墓があると断言)

 

實報寺住職の方も、言いたいことを言って少し気持ちが晴れたのか、ようやく少しは心を開いて喋り始めました。

 

□住職「あなたはサイトを主宰しておられるのですか」

○「そうです。『アンチ日蓮正宗』という名前のサイトを主宰しています。立場的には、反日蓮正宗である他、反創価学会、反顕正会、反正信会で、日蓮正宗から派生した団体に対しても、すべて反対の立場で、これらの関連サイトが6つあります」

□住職「『アンチ日蓮正宗』ですか。それは日蓮正宗を叩くサイトということですね」

○「そのとおりです。しかし今、日蓮正宗・創価学会・顕正会・正信会はお互いがお互いを罵倒しあっており、中でも日蓮正宗と創価学会が『宗創戦争』で罵倒中傷しあい、信者の争奪合戦を展開しています。『アンチ日蓮正宗』の立場は、あくまでも反日蓮正宗・反創価学会・反顕正会・反正信会です。宗創戦争をはじめとする日蓮正宗系の団体同士の紛争のいずれにも与するものでもなく、これらの紛争による信者のカルトサーフィンそのものを止めさせることが第一義です」

□住職「そうですか。それで目師(日目)のお墓が大石寺にあると、日蓮正宗では言っているのですか」

○「そうです。『大石寺案内』という小冊子には、日目上人の正墓は、大石寺のすぐ近くにある大石寺末寺・下之坊にある、と書いてあります。又、日蓮正宗の僧侶は、自分の寺の信者には、大石寺墓苑の三師塔が日目上人の正墓だ、などと教えています」

□住職「そうですか。まあ、むこう(日蓮正宗)では、派手にいろいろな本を出したり、新聞を出したりしておりますからねー。それでむこう(日蓮正宗)は、むこうで、こちら(日蓮本宗・要法寺)のことを、いろいろと批判したり、いろいろ書いているようですが、だからといって、こちらは、むこうに反論する本を出すということは、しておりません。尋ねられれば、お答えはしておりますが」

○「では率直にお尋ねしますが、日目上人の正墓は、ここ京都・鳥辺山にあるのですか。それとも大石寺にあるのですか」

これだけ長々と、延々、住職と話を続けて、ようやく話題が本題に入っていったのでありました。

實報寺10日目正墓3
 

□住職「ご承知のように、目師(もくし・日目のこと)は、京都に天奏に出られた旅の途中、美濃国(岐阜県)垂井で御遷化になられました。それで目師のお供をしていた尊師(ぞんし・日尊のこと)と郷師(ごうし・日郷のこと)は、目師を荼毘に付されて、尊師は目師の御遺骨を奉じられて京都に来られました。郷師は、大石寺に帰られたわけです。

尊師は、京都の鳥辺山に来られたわけですが、このあたりに延年寺というお寺がありまして、その延年寺の墓地の一角に、目師の御遺骨を葬られたのです。その後、延年寺が鳥辺山から出て行ったため、尊師が目師の墓地の一角を買い取られたのです。そして尊師が御遷化になられた後、尊師もここに葬られました。延年寺というお寺は、禅宗のお寺で、今は大津にあるんですけれどもねー。その後、目師のお墓の周りに、墓地ができて、今日に至っているという次第です。まあ、京都での富士の門流と言っても、ウチ(要法寺)だけですけれども」

 

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日蓮本宗・鳥辺山實報寺7(嘉儀吉裕氏と受付で大激論)

 

私としても、實報寺住職が庫裡から受付に出てきたのには驚きましたが、しかしこれはまさに千載一遇のチャンス。何の前触れもなく、急遽、単独会見ということになったわけですが、しかし冒頭から實報寺住職の表情は険しく、実に刺々しい雰囲気ではじまりました。

實報寺4

 

□住職「先程から、表で、いろいろと話しておったのは、あなたですか」

○「あそこにいた、半被を着た男性と話していたのは私です」

□住職「何の用で、ここに来られたのですか」

○「私はサイトを主宰している者ですが、要法寺第三祖に当たる日目上人の正墓の所在についていろいろと調査を重ねていたところ、京都・鳥辺山に埋葬されたという古文書を複数見つけました。しかしこれらの古文書は、室町時代から江戸時代のもので、今の日目上人の正墓の所在を確認できる資料をいろいろと探したのですが、見つかりません。そこで実際に京都・鳥辺山に来て実地調査をすることにしました。ちょうど、所用で京都へ来たので、こちらの鳥辺山へ来たわけです」

□住職「それならば、どうして事前にこちらに連絡をしてくれなかったのですか」

○「私が、實報寺さんをお訪ねしようと思ったのは、こちらの鳥辺山に来て登り坂の道を歩いてきたところ、入り口に『要法寺開山本廟』と書いた石碑が建っていたからです。それまで私は、實報寺さんの名前や存在すら知りませんでした。ここ鳥辺山に来て、はじめてわかったわけです」

□住職「そんなことはないでしょう。東京から来られているということでしたら、あちらには、日目上人に関する資料はたくさんあるはずです」

○「今の日目上人の正墓の所在を示す資料は、何処にも見当たりませんでした。

日目上人は、日蓮正宗大石寺の第三祖でもあるわけですが、日蓮正宗では、日目上人の正墓は大石寺にあるとか、下之坊にあるとか書いた本を出しています。しかしこれは何の根拠も証拠もなく、全く信用できないものです。なぜなら、室町時代の古文書には、日目上人の遺骨が京都・鳥辺山に葬られたことが出ていますし、上代の記録は、いずれも鳥辺山説であって、大石寺・下之坊に葬られたという記述はありません」

□住職「それなら、鳥辺山にあるウチの寺のことを書いた資料があると思うんですがね-」

 

とにかく私がいくら説明しても、住職は

「東京には鳥辺山の日目上人の正墓に関する資料があるはずだ」

「ここに来るなら来るで、どうして事前に連絡しなかったのか」

の一点張りで、これを繰り返すだけ。私は、現在の日目の正墓に関する正確な資料がないからこそ、京都・鳥辺山の実地調査に来た旨を何度も説明しました。實報寺受付で、私と實報寺住職ーの間で、この点に関して、延々と論争がつづきました。

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日蓮本宗・鳥辺山實報寺6(實報寺住職が現る)

 

「要法寺開山本廟」という石碑が建っていた墓園の中に入っていくと、山門があり、さらに寺の庫裏のような建物もありました。山門や庫裡の棟札を見ると「實報寺」という名前が。

ここは鳥辺山墓地というのではなく、日蓮本宗本山で、日尊門流の祖山である京都・要法寺の末寺である實報寺の墓園という感じです。それにしてもこの山門、以前にインターネットのどこかのサイトで見た記憶がありましたが、その時は思い出せませんでした。

實報寺3


さて實報寺の墓園の中を見学してみたのですが、どこにでもある、何の変哲もない墓園。墓園の中は所狭しと、さまざまな墓石が建っていました。墓石の掃除・手入れもなかなか行き届いており、一見して、ちょっと高級な墓園に見えました。

墓園の中に、ただ一カ所、墓園の中央のような所に、大きな石塔が建った「廟」があった。

「これが日目の墓なのかな」と思いましたが、何の案内板も何の説明書もなし。しかし、實報寺の入り口に「要法寺開山本廟」という石碑が建っていることからして、これが日目・日尊の墓としか考えられない。しかし案内板も説明書もなく、何の表示もないことからして確認することが出来ない。

 

山門の近くには「詰め所」のような建物があり、初老の男性が、墓園の掃除や手入れをしているように見えた。ひょっとしたら、見知らぬ顔の男が一人、墓園に入ってきたことから、「何者か」と思って、出てきたのかも知れません。

私は、「ひょっとしてこの墓園の管理人か?」と思い、その男性に質問してみることにした。たしかこの男性は、「要法寺」だったか「實報寺」だったか、文字が入っている半被を着ていました。

 

○「ここの入り口に、『要法寺開山本廟』という石碑があったので、ここに入ってきたのですが、鳥辺山墓地とか、鳥辺野墓地という所は、こちらですか」

□男性「そういう名前は知りません。ここは實報寺というお寺の墓園です」

○「しかし私は、鳥辺山墓地に要法寺三祖日目上人が葬られたということを聞いて、ここにやってきたのですが。」

□男性「いや、そういう墓地は知りません」

○「知らないはずがないでしょう。入り口に『要法寺開山本廟』と書いた石碑が建っているじゃありませんか。日目上人というお方は、要法寺さんの第三祖に当たるお方でしょう」

□男性「…」

 

半被を着た初老の男性が、なんとなく内にこもって、私の質問をかわして追い返そうという感じに見えたので、ちょっと強い口調でこう言いました。

 

○「わからない、わからないじゃ話になりませんよ。わかる人はいないんですか。あなたがわからないんじゃ、すぐわかる人を呼んできて下さい」

 

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日蓮本宗・鳥辺山實報寺5(鳥辺山に要法寺開山本廟を発見)

 

私は、とにもかくにも京都に行って、自分の目と耳で確認する以外にないと思い、京都・東山五条の鳥辺山に行くことにしました。2009年秋のことです。

私は、それまで京都の東山や東山三条、三条大橋周辺も何度も行っていますし、国道一号線や東山五条も、何度も通っているのですが、この「鳥辺山」については、全く気づきませんでした。

この時は、東京・上野駅前から深夜高速バスに乗って京都駅前に降り立ち、食事をして後、京都市営バスに乗って東山五条へ。すると「鳥辺山」と地図に書いてあった場所に行ってみるとビックリ。なんとそこには、浄土真宗の開祖・親鸞の廟があったのである。

「大谷本廟 親鸞聖人七百五十回大遠忌法要」と書いた立て看板がありました。

正式名はここに書いて有るとおり「大谷本廟」というらしい。せっかくここまで来たついでに、大谷本廟の中に入ってみましたが、朝の速い時刻だったにもかかわらず、何人もの参詣の人の姿が見えました。

「親鸞聖人七百五十回大遠忌」と書いてあったので、2009年がその年に当たるのかと思っていたら、そうではなく、親鸞は12621128日に入滅しているので、「七百五十回大遠忌」に当たる年は、2011年ということになる。

 

それにしても、京都・東山五条の鳥辺山まで来て、見つかったのは延年寺ではなく、親鸞の大谷本廟というのは驚いた。

親鸞の曾孫で本願寺第三世の覚如の『御伝鈔』に「鳥部野の南の辺、延仁寺に葬したてまつる」

と記されているということからして、親鸞も京都・鳥辺野に葬られたと言うことのようです。

親鸞は、鳥辺山に葬られていたとしても、日目の墓や延年寺はどうなったのか。私はなんとしても情報を得ようとして、大谷本廟入り口の脇にある、みあげもの店兼仏具店に入ってみました。

少々、買い物をした後、店の主人に質問。

「このあたりに、鳥辺山墓地とか鳥辺野墓地という名前の所はありませんか」

これに対して、店の主人は

「あー、それでしたら、この前の道をずーっと登っていった左側にありますよ」

という気軽な返事。

 

「あー、やっぱりこのあたりにあるんだな」と思い、その主人に丁重なお礼を言って、大谷本廟の脇の道の登り坂を登って行きました。

「ひょっとしたら日目の正墓が残っているのかもしれない」と思い、けっこうむ期待に胸を膨らませて、登って行きました。しばらく登って行くと、左側に墓地の入り口を発見。

「ここかな」と思って、その入り口から入ってみると、入り口の脇に石碑が建っていて、そこには

「要法寺開山本廟」

と書かれていました。入り口には「實報寺」という石碑が建っていました。

實報寺14石塔


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日蓮本宗・鳥辺山實報寺4(鳥辺山から消えた延年寺)

 

鳥辺山實報寺については、要法寺発行の「私たちの要法寺」には

「鳥辺山御廟所

本山御歴代の貫首上人の墓所は、東山五条上ルの鳥辺山実報寺にあります。

鳥辺野は、すでに王朝時代から無常所として都の人々の墓地に使われていました。日目上人の御遺骨が埋葬されたのもここです。日尊上人はなくなる時、日目上人の御遺骨を頭上にいただく形にして葬るよう命ぜられ、師厳道尊の実を示されたということです。ここがのちに実報寺となりました」

と書いてある。「本山要法寺参詣案内」には

「鳥辺山御廟所

二祖日興上人、正慶二年二月七日寂滅せらるるに先んじて愛弟子日目上人を召して帝関奏聞を遺命し玉ふ(時に興師御年八十八)。日目上人かしこみて日尊、日郷の二上人を同伴せられ、天奏上洛の途次十一月俄然病ひ革まり、日尊上人に後事を托せられ、同月十五日、岐阜県不破郡垂井に於いて遂に遷化せらる。日尊上人は悲嘆止むかたなきも遺命を奉じて天聞奏上、遺骨を鳥辺の山野に納め玉ふ。康永二年四月実報寺を開創せらるるにあたり、逆修塔を建立し御自ら碑面の文字を揮毫し給ふ。爾来歴代上人遺骨此の地に納め奉り、本山御廟所として四時参詣者絶えず、先師の遺徳を偲び御報恩の誠を捧ぐ」

とあります。

私たちの要法寺1


いずれも、日蓮本宗本山要法寺が発行した公式文献として、鳥辺山実報寺に大石寺・要法寺三祖日目の遺骨が葬られたことを記している。

しかしこの文献を知ったのは、実報寺に行ったあとのこと。

鳥辺山に行く前は、資料も何も全くない状態でした。

 

私は、大石寺三祖日目の正墓探しの作業を、京都の鳥辺山墓地を探すことからはじめたのであったが、これがなかなか困難を極めた。

まず、京都に「鳥辺山」とか「鳥辺野」という地名が見つからない。そのような名前の住所も、京都にはない。探しに探したあげく、ようやく京都・東山五条に「鳥辺山」の名前を見つけた。

私が調査した中で、京都で「鳥辺山」ないしは「鳥辺野」の地名を載せていたのは、JTB発行のガイドブック「アイジャパン」である。

この「アイジャパン」の地図によると、京都・東山五条の国道一号線脇に「鳥辺山」と書いてあり、その中にある通妙寺のところに「鳥辺野墓地」と書いてある。

通妙寺とは、日蓮宗寺院となっていたが、詳細はわからなかった。「アイジャパン」の地図には實報寺も載っていたが、その時点では何の詳細もわからず、当初は私の眼中にはなかった。

 

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日蓮本宗・鳥辺山實報寺3(下之坊に日目の遺骨はない)

 

日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』8p6971に収録されている、京都・東山の延年寺墓地に葬られた日目の墓地を、富士門流が延年寺から墓地を四度にわたって買い取って、墓域を拡張した四通の文書(堀日亨は売券と呼んでいる)によって、日目が京都・鳥辺山の延年寺墓地に葬られたことは明らかである。

實報寺11日目墓4


この古文書を堀日亨は正文書と認めており、さらに上代の法主である大石寺17世日精も、「家中抄」で、日目は京都・東山・鳥辺野に葬られたと書いている。つまり日蓮正宗大石寺の上代の法主が、日目は京都・鳥辺山に葬られたと認めているのである。

それにも関わらず、今の大石寺は、日郷が日目の遺骨を持ち帰って富士に葬った、などと言っており、「仏教哲学大事典」には次のように書いてある。

「日尊は京都の鳥辺山(東山鳥辺野)に墓所をつくり、日郷は遺骨を持ち帰って富士大石寺に帰り、下之坊に納めた。日目上人の正墓は上野の下之坊の右手、富士を背にした景勝の地にあり、総本山富士大石寺を見守っているような位置にある」(『仏教哲学大辞典』p950)

 

これによると日尊は京都・鳥辺山に日目の墓所だけを造り、遺骨は日郷が富士に持ち帰ったと言うことになる。そんなバカな話しがあるだろうか、といいたくなる。

自らの師匠を葬る正墓を造るのに、遺骨のない墓所を造る弟子がどこの世界にいるだろうか。

しかも、遺骨がない墓所の墓域を拡張しようと、わざわざ大金を支払って墓域の土地を四回も買収するはずがないではないか。鳥辺山の日目の墓所に日目の遺骨が入っているからこそ、墓域を拡張しようと土地を買収したのではないか。

 

では日郷は、本当に富士に日目の遺骨を持ち帰ったのか。

これも道理や常識から考えると、日郷がそんなことをするはずがないのである。

日目は、1333年、京都天奏の旅路の途中、美濃国垂井で死去した。京都天奏の志を遂げることなく、道半ばで倒れたわけである。では日目の弟子は、師匠・日目の遺骨をどこに葬るだろうか。

日蓮正宗に言わせると、弟子の日郷は遺骨を大石寺に持ち帰ったというが、本当に日目の弟子は、そうするだろうか。

3祖日目1


日蓮正宗の発想だと、日蓮正宗大石寺には「血脈相承」なるものがあり、日目は日興から「日興跡条条事」で唯授一人の法主に選定されたのだから、大石寺に葬られたのだ、ということになる。

しかし「日興跡条条事」も「血脈相承」なるものも、後代の法主である大石寺9世日有が偽作したものであり、全くの嘘っぱちである。

ならば、血脈相承だの日興跡条条事なるものを除去して冷静に考えたら、どうだろうか。どういうことかというと、ここは常識で考えるべきである。

つまり師僧が志し半ばで倒れ、目的を果たせずに死去したら、弟子はどうするのか。よくよく考えてみるべきである。

 

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日蓮本宗・鳥辺山實報寺2(日目墓域を買収・拡張を記した古文書)

 

日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』8p6971に収録されている、京都・東山の延年寺墓地に葬られた日目の墓地を、富士門流が延年寺から墓地を四度にわたって買い取って、墓域を拡張した四通の文書(堀日亨は売券と呼んでいる)とは、以下の古文書である。

 

1 1340(暦応3)の文書

「売り渡す延年寺観音堂西寄の地の事。

合台所在、東西壱丈、南北壱丈

右件の地は成願が相伝の私領なり。然りといへども、用事あるによつて直の銭壱貫文に安房の国当住大田の宰相阿闍梨日郷に売り渡し奉る所実なり。若し此の地におき候いて向後違乱煩い出来て候はん時は売り主の沙汰として本銭壱壱倍をもちて十箇日の内に弁え申し候べく候。後の為に売り券の状件の如し。

暦応三年七月十五日                延年寺成願在り判」

 

2 1344(康永3)の文書

「売り渡しまいらせ候延年寺の地の事。

合東西六尺、南北一丈、定 日目上人御墓前なり。

右件の地は故成願が私領なり。用要あるによつて日向の国富田の庄内、日知屋寺の別当御房(薩摩阿闍梨日眷)に永年お限って用途六百文に永く売り渡しまいらせ候所実なり。若し此の地に子細候はば此の状を先として御沙汰候はんに子細あるまじく候。若し無沙汰なる事候はば本の用途にても候へ、又別の地にても候へ急ぎ急ぎ沙汰仕り候べく候。仍って後日の為に証文状件の如し。

康永三年太歳甲申潤二月廿八日   故成願が後家比丘尼明知在り判」

 

3 1347(貞和3)の文書

「売り渡す延年寺の地の事。

合一丈、四方□□一貫文

右件の地は成願が私領にて候なり。用あるによつておしてらのれんさう無く永く売り渡しまいらせ候所実なり。若し此の地に子細煩い候はん時は異地にても又本銭にても候へ。弁へ申し候間、此の証を先として御沙汰あるべく候に子細候まじく候。仍って後の為に売り券の状件の如し。

貞和三年七月十八日 売り主 成願後家在り判」

富士宗学要集9

 

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日蓮本宗・鳥辺山實報寺1(日目の正墓がある京都・鳥辺山御廟所)

 

實報寺(じっぽうじ)という寺院は、正式には多寶山實報寺といい、日蓮本宗本山・要法寺の末寺。つまり富士門流八本山・日尊門流の祖山である京都・要法寺の末寺。

實報寺3


要法寺が発行している小冊子「私たちの要法寺」の中では「鳥辺山御廟所」として載っていて、大石寺・要法寺・保田妙本寺・小泉久遠寺の三祖・日目の正墓がある他、要法寺歴代貫首の墓がある寺である。

場所は、京都・東山五条の鳥辺山にあり、便宜上、「鳥辺山實報寺」としました。

東山五条だから、東山三条の本山・要法寺から、そんなに遠くない所にある。

では、なぜこの寺に訪問することになったのかというと、三祖・日目の正墓探しをしている中で、訪問することになったわけですが、これが思わぬ形での訪問になった。

日蓮正宗大石寺に言わせると、日目の正墓は、日蓮正宗寺院・下之坊にあるということになっている。

大石寺が発行している「大石寺案内」という小冊子には、日目の正墓が下之坊にある旨、堂々と記載されているし、毎年の下之坊のお会式には、大石寺から法主が下向するのだが、法主は「墓参」と称して、下之坊の自称・日目の墓に墓参・読経・唱題する。

しかし、下之坊に日目の正墓があるというのは全くの虚偽であり、日目の正墓のある所は、下之坊でもなければ、日蓮正宗大石寺でもない。では日目の正墓はどこにあるのか。

 

富士門流の古文書を調査していくと、日目は京都・鳥辺山墓地に葬られたということになっており、日目の正墓は、京都・鳥辺山の延年寺にあることになっている。まず鳥辺山説を唱えているのは、日蓮正宗大石寺17世法主日精である。日精は自らの著書「家中抄・日目伝」の中で、次のように書いている。

「御骨を拾い頚にかけ涙に咽び遥々と京へ上り給ひて東山鳥辺野に御墓を築き給ふ、其の後日郷は哭く哭く御所持の道具御守り等取り持ちて富士にぞ下向し給ひける」

(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』5p191・日精著『富士門家中見聞』)

 

さらに堀日亨編纂『富士宗学要集』8p6971には、京都・東山の延年寺墓地に葬られた日目の墓地を、日郷門流が延年寺から墓地を四度にわたって買い取って、墓域を拡張した文書(堀日亨は売券と呼んでいる)が四通、収録されている。

日蓮正宗においても、この四通の文書を正文書と認め、日蓮正宗が発行している「富士年表」においても、この四通の文書(売券)が発行された1340年、1344年、1347年、1365年の四回の墓地買い取りを第1次~第4次の「日目墓地買い取り」として載せている。

59世日亨2

 

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