一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ

「一般社団法人 仏教宗学研究会」とは任意団体として2005年から活動している会の名称。2018年5月に一般社団法人登記。当ブログ名を「仏教宗学研究会のブログ」から「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」に改名。 「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

Category: 日蓮宗(総)身延山久遠寺

■身延山久遠寺18(身延駅としょうにん通り)

 

身延駅とは、JR東海・身延線の駅で、山梨県南巨摩郡身延町のターミナル駅。特急「ふじかわ」を含む身延線の全列車が停車する。駅舎に接する単式ホーム11線と、奥に島式ホーム12線と23線の駅で、駅舎は、しょうにん通り商店街がある西側にのみ設置されている。

後続の特急待避による長時間停車を行う普通列車や、特急の普通列車追い抜きもある。特急ふじかわのほとんどは、上下とも1番線から発着。待合所には売店や立ち食いそば屋もある。

身延駅2

 

ここは日蓮宗総本山・身延山久遠寺への表玄関の駅として有名で、久遠寺への参拝客や観光客で賑わう。身延山久遠寺は身延駅から4キロメートルほどのところにある。

身延駅から身延山久遠寺までは路線バスの便があるが、本数が少ない。このため、この駅から久遠寺までタクシーで行く参拝客が多い。久遠寺の参拝客以外に南アルプスへの登山客なども身延駅を利用し、春の花見シーズンには久遠寺のシダレザクラを目当てにした観光客も訪れる。

 

しかし身延駅は、特急ふじかわ号を利用したとしても、利便のいい所ではない。特急ふじかわ号で、静岡から身延まで約1時間20分。甲府からでも約50分かかる。特急ふじかわ号は、17往復運転されているが、身延駅のダイヤで見ると、下りは12時から17時のあいだに1本だけ。上りは2本しかなく、昼間に大きなダイヤのブランクがある。

身延山久遠寺に参拝する人は、朝早い列車で身延駅に到着し、バスかタクシーで久遠寺に参拝。

法要・行事に参列したり、山内を散策したり、門前町で食事をしたりして、夕方に下山して帰宅する。参拝客からしてみたら、今のダイヤのほうが便がいいのかもしれません。

 

JR身延線・身延駅前から、富士川・身延橋までの間に並ぶ、飲食店、おみあげ品店、ホテル、旅館がある通りを「しょうにん通り」と呼んでいます。ここに並ぶ店は、飲食店、おみあげ品店、ホテル、旅館であり、漆工芸の店とか金箔加工の店といったものは、ありませんでした。

 

地元では、「しょうにん通り商店街」と呼んでいるようですが、一般的に商店街というと、「商店街」と書いたアーチが入り口に立っていて、アーケードになった商店街を連想するのですが、ここはそういう雰囲気の所ではありません。

「しょうにん通り」の「しょうにん」とは、身延山久遠寺の開祖・日蓮にちなんだ名前。

身延町は日蓮宗総本山である身延山久遠寺を擁する門前町であり、その玄関口である身延駅周辺の商店街も、車社会になる以前は、身延山久遠寺の参拝客でおおいに賑わっていたようです。

 

しかしその後、急速に車社会になり、国道52号線の身延バイパスが開通して、車が身延駅前を通らなくなったためか、車や人通りは少なく、そんなに賑わった町並みには見えませんでした。

むしろ身延山久遠寺の門前町のほうが、賑わっている感じがします。

 

 

 

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■身延山久遠寺17(ものすごい積雪になる思親閣)

 

私は、冬の2月に身延山久遠寺に行ったとき、身延山ロープウエイに乗って身延山頂の思親閣に行きました。ここは、日蓮が身延山の草庵で生活していたころ、毎日のようにここへ登山して、故郷の両親を偲び、孝養をつくしたというところで、思親閣はその身延山頂にある。

身延山ロープウエイ1


本堂のすぐ裏手にあるロープウエイ乗り場・久遠寺駅はまだ、ほとんど積雪がなかったのだったが、ロープウエイで山頂まで来てみると、瞬く間に一面、雪景色。奥の院駅でロープウエイを降りて思親閣に行ってみると、かなりの積雪になっていました。

 

今は身延山久遠寺本堂から奥の院思親閣に行くには、身延山ロープウエイに乗っていくのが便利ですが、山道を延々と登っていく奥の院参道もあります。

1本は、ロープウエイの久遠寺駅前からロープウエイの東側を登って行く参道で、鬼子母神堂や大光坊の近くを通って奥の院にたどり着く参道。

もう1本は、身延山久遠寺三門前から日蓮御廟所の近くを通って洗心洞を通り、高座石、千本杉を通って、山道を登っていき、朗師腰掛け石を通って、奥の院にたどり着く参道です。

参道を登っていくとしたら、東側の参道のほうが距離が短いような気がします。

 

日蓮が毎日、奥の院に登山して故郷の両親を偲んでいたという寺伝が本当だとしたら、おそらく日蓮は、今の身延山の西側の奥の院参道を登って行っていたと考えられます。

しかしこの参道を毎日上り下りするというのは、大変です。私は本堂上のロープウエイで登山したが、西谷の日蓮の草庵跡から、この思親閣までは、かなりの距離があるだけではなく、かなり険しい山を登っていかねばならない。徒歩で、草庵から身延山頂まで登山するとなると、それこそ大変な時間と労力がかかるだろう。

 

奥の院思親閣という所は、一個の寺院のようになっています。別当は七面山敬慎院とともに久遠寺法主が任命するということだから、身延山久遠寺の子院のようです。

奥の院駅で降りると、展望台がある。身延山頂は1153mもあるといいますから、眺めはなかなかいいです。お天気がよければ、富士山が見えることもあるといいます。

大孝殿、開基堂、育恩殿、祖師堂、日蓮聖人立像、日蓮聖人お手植杉、仁王門、手水舎、鐘楼、常護堂、元政上人埋髪塚、釈迦像等があります。

 

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■身延山久遠寺16(御真骨堂の日蓮遺骨)

 

本堂、祖師堂、報恩閣、仏殿などの堂宇の並びに、御真骨堂がある。今はここに日蓮の真骨が奉安されている。

日蓮祖廟は、西谷の地にあるが、身延山久遠寺が11世日朝の代の文明六年(1478)に、西谷の地から現在地に移転・増築されたとき、久遠寺法主の守塔の任から、日蓮の真骨も祖廟から御真骨堂に移された。

御真骨堂は、拝殿と八角堂から成っていて、74世日鑑の代の明治十四年(1881)に再建されたものである。

御真骨堂1

 

祖師堂と御真骨堂の間に建てられている堂宇が「報恩閣」。ここはいわば身延山久遠寺の総合受付である。ここは日蓮立宗七百五十年慶讃事業として、91世日光の発願により、平成十四年(2002)3月に落成。正面入り口には91世日光の筆による「報恩閣」と書かれた扁額が掲げられています。

受付の他、参詣者休憩室もあり、日蓮宗新聞も備えつけられています。

報恩閣の前にある、樹齢四百年と言われている「しだれ桜」が有名。毎年3月下旬~4月上旬にかけ境内に樹齢400年ともいわれる枝垂桜と久遠寺周辺の数百本の桜が咲き乱れる。この時期は、多くの観桜の見物客やカメラマンが身延山久遠寺に押し寄せてきて、周辺道路も渋滞する。

 

御真骨堂のとなりの仏殿は、昭和六年(1931)の日蓮六百五十遠忌を記念して81世日布の代に建立された堂宇で、朝、昼12時、夕方3時からの勤行と特別法要を営む建物となっている。

 

御真骨堂拝殿の広場をはさんだ向かい側にある地上六階建ての建物が新納牌堂で、六階が釈迦殿になっている。本堂建立により釈迦堂をここに移したもの。納牌堂は1階から5階までで、全国信徒の先祖の遺骨を安置してある建物。

 

現在の久遠寺五重塔は3代目で2008年竣工。2009年に落慶法要が行われた。初代の塔は加賀前田利家の側室寿福院の建立によるもの。

 

開基堂とは、日蓮を身延に招いた波木井実長を祀っている堂宇。身延町指定文化財になっている。

 

水鳴楼とは、久遠寺歴代法主の住居で、一番奥の大奥が法主の居所。

身延山久遠寺は、日蓮宗の祖山・総本山になっているが、久遠寺法主がかならずしも日蓮宗管長になるとは限らない。久遠寺法主が日蓮宗管長を兼ねる時もあれば、そうでない時もある。

久遠寺法主が日蓮宗管長を兼ねない時は、池上本門寺・京都妙顕寺などの大本山貫首が日蓮宗管長になる場合が多い。

 

本堂・祖師堂・御真骨堂の周辺は、数多くの堂宇・伽藍が建ち並んでいます。

 

 

 

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■身延山久遠寺15(身延山久遠寺の楠木調査3)

 

身延山久遠寺における楠木の調査によって、身延山久遠寺にある楠木は、久遠寺祖師堂前の楠木だけであって、久遠寺の伽藍のある場所や身延山周辺には、現在でも楠木は何本も生息していないということが判明した。

ただ、徳川時代以降における植樹された楠木であるにしろ、楠木が身延山久遠寺にあることはある。ただ、身延山久遠寺に現在も楠木があることだけをとって

「身延山周辺は、楠木や樫木などの暖地性植物と杉や欅などの温帯性植物の生息域の中間点にあり、身延山には現に楠木が何本も生息している」(日蓮正宗系の某ウエブサイト)

などという説を唱えている日蓮正宗信者もいる。

 

そこで暖地性植物の生息域の問題であるが、身延町教育委員会の役職者であるA氏にこの点を直接取材した。

すると、身延町教育委員会のA氏の回答は、暖地性植物にしろ温帯性植物にしろ、植物の生息域には、自生の植物の生息域の他に、それこそ数百年前に人工的な植樹・植林によるところの樹木が現在でも生息していれば、それら人工植樹による樹木の生息域も含まれている、という回答を得た。

身延山久遠寺の楠木1


したがって、暖地性植物の生息域に含まれているからといって、そのこと自体が、楠木などの暖地性植物が自然繁茂し、自生しているという証明なのではない。

むしろ、身延山久遠寺や大野山本遠寺などの神社仏閣にある人工植樹による楠木が生息しているからこそ、身延山周辺が暖地性植物の生息域に入っているということなのである。

 

さらに暖地性植物の生息域と温暖性植物の生息域の中間点の問題についても、身延町教育委員会のA氏に直接取材している。

するとA氏からは、この暖地性植物の生息域と温帯性植物の生息域の中間点は、近年の地球温暖化によって徐々に北上してきているという回答を得た。

つまり現在のところ、暖地性植物の生息域と温帯性植物の生息域の中間点は身延山周辺にあるけれども、地球温暖化がはじまる以前においては、現在よりももっと南側にあったというのである。

したがって、日蓮が生きていた時代である鎌倉時代においては、身延山周辺は楠木などの暖地性植物の生息域には入っていなかったということなのである。であるならば、日蓮が生きていた時代に、身延山周辺には自生の楠木というものは、存在していなかったということだ。

 

このように実際に現地に行って、いろいろ取材・調査を重ねていくと、次から次へと、面白いように、日蓮正宗、創価学会、顕正会、正信会といった日蓮正宗系カルト宗教団体の信者たちが言っているウソが暴かれて行ったのである。

やっぱり、現地調査をするに限りますね。

 

 

 

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■身延山久遠寺14(身延山久遠寺の楠木調査2)

 

三門前の案内所の係員の人が渡してくれた地図をたよりに、三門前からしだれ桜の周辺、日蓮草庵跡、日蓮祖廟、千本杉…と、くまなく散策してみたが、楠木は見つからなかった。そこで、最後に案内所の係員の人が「祖師堂前」といい、「慧妙」は「本堂付近」という、楠木を探して、身延山久遠寺の本堂・祖師堂前に行ってみることにした。

祖師堂前には、身延山久遠寺でも有名なしだれ桜があるのですが、楠木が見当たらない。

「どれだろうか」と思って、ひとつひとつの木を探してみたところ、祖師堂前の広場を挟んで、祖師堂の向かえ側に、楠木らしき木を発見。

しかしここの楠木は、私が見てきた西日本、四国、九州地方に繁茂している楠木から比べると、かなり「か細い」感じがする。楠木という木は、本来的に、ものすごい大木で、根本から隆々とした木が空に向かって生い茂っているという感じがするものだが…。

一見すると、杉の木と見間違えてしまうかもしれないくらい、か細い感じがする楠木だ。

身延山久遠寺の楠木4

 

そこで、身延山久遠寺の僧侶に確認を要すると考えた私は、祖師堂のとなりにある身延山久遠寺報恩閣の受付に入って行った。

中には、たくさんの僧侶たちが、ムスッとした表情で、机に向かって執務している。

僧侶たちが来ている僧衣は、大石寺の僧侶たちが来ている薄墨色の僧衣に白色の袈裟ではなく、茶色というか、ねずみ色の僧衣を身にまとっていた。しかしここの身延山久遠寺の受付にいる大半の僧侶たちも、見ていると、どこかぶっきらぼうで、愛想も笑顔もなく、どこかつっけんどんな印象を受ける。私は、どうもこういうタイプの人が苦手である。

 

廊下に出てみると、何人かの僧侶が歩いている姿が見えたのでしたが、その中に、ようやく一人、愛想のいい僧侶を見つけた。小柄な尼さん(女性の僧侶)であった。

そこで早速、この僧侶に「身延山久遠寺の中にある楠木はどれですか」という質問をしたところ、「祖師堂前にありますよ」「大きい楠木はここだけですね」

という明確な回答を得ることができたのである。

 

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■身延山久遠寺13(身延山久遠寺の楠木調査1)

 

まだ季節的に温暖な秋ごろ、身延山久遠寺に「楠木」の調査に行ったことがありました。

それは私が取り組んでいる「戒壇の大本尊」関連の研究・調査課題のひとつだったわけですが、具体的にいいますと、日蓮正宗や創価学会、顕正会、正信会が「一閻浮提総与の大御本尊」「本門戒壇の大御本尊」という名前で呼んでいる大石寺の「戒壇の大本尊」なる板本尊の日蓮真筆説の根拠のひとつに、現在の身延山久遠寺に楠木があるということがある。

2005(平成17)516日付け日蓮正宗謀略機関紙『慧妙』には、次のような記事を載せて、大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊の日蓮真筆説を唱えている。

 

「楠(くすのき)が生育する適地は、暖温帯湿潤気候の、標高500メートル以下の場所であるが、山梨県甲府市から身延を通って駿河湾に流れる富士川の沿線は、まさに、この暖温帯湿潤気候に属しており、また日蓮大聖人がお住まいになった草庵(身延山久遠寺)は標高300数十メートルの地である」

「そして事実、今日でも身延には、楠が生育しているのである。

例えば、身延の入り口にある日蓮宗大野山本遠寺の境内には、町で天然記念物と指定された巨木(通称「大楠」)をはじめ、複数の楠が生えているし、他ならぬ身延山久遠寺の本堂付近にも、楠の大木が何本も生育しているではないか。 これをもって『身延に楠は生育せず』との疑難は根底から崩壊している、といえよう。」。

 

「慧妙」は、身延山久遠寺の本堂付近には楠木の大木が何本も生育しているというのである。こういうのは、自らの足で身延山久遠寺に行き、本当にそんな楠木の大木が何本もあるのか、自らの目で確認し、調査しなければならない。

 

身延山久遠寺に着いた私は、まず三門前の案内所の係員に、身延山久遠寺の山内における楠木について取材してみた。するとこの係員の人、身延山久遠寺の祖師堂前には楠木があるという答えをしてくれた。

身延山久遠寺3・山門


私は「それでは祖師堂前のほかに、楠木はありますか??」と尋ねてみたら、その係員の人は「あるかもしれない」という。

私は「では具体的に、どこにあるのですか」と尋ねたら、係員の人は「その三門のそばにある、あの木は楠木じゃありませんか」と言って、私をその木のそばへ案内してくれた。

その木の所へ行ってみたが、それは楠木ではなく、ちょっと大きめな杉の木であった。

いろいろ話してみると、実際、この係員の人も、楠木自体にあまり詳しいわけではなく、楠木もあまり見たことがないようのである。

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■身延山久遠寺12(立正の扁額と祖師堂の内陣・外陣の造り)

 

本堂と隣り合わせに建っているのが、棲神閣(せいしんかく)祖師堂。ここは日蓮祖師像を祀る堂宇。ここの須弥壇の扉は、普段は閉扉されていて、申し込みにより開帳が行われる。

日蓮祖師堂3


身延山久遠寺の場合は、寺院の中心本尊を祀る本堂と、日蓮祖師像を祀る祖師堂という二堂が、並んで建っている、ということになります。

祖師堂の入り口には「棲神閣」と書かれた74世日鑑の筆による扁額が掲げられているが、これは、祖師・日蓮の御魂が住んでいる堂宇という意味とのこと。

以前の祖師堂は、明治八年(1875)の大火で焼失。74世日鑑の代の明治十四年(1881)に再建されたものである。

中央の御宮殿には、日蓮祖師像が祀られており、内陣に掲げられている「立正」の扁額は、日蓮の立正大師号にちなんで、1931(昭和6)101日、日蓮六百五十遠忌の年に、昭和天皇から日蓮宗総本山身延山久遠寺に降賜された「勅額」である。

これは日蓮650遠忌を前にして、日蓮宗管長・酒井日慎が勅額を天皇から降賜してもらうために、各方面に活発に運動した結果によるもの。勅額降賜の請願は1931(昭和6)4月、身延山久遠寺法主・岡田日帰より文部大臣・田中隆三宛てに行われ、この請願書上奏よりほどなくして、文部省より日蓮宗に対して、日蓮宗各派管長から身延山久遠寺に勅額を降賜することについて各宗派の承諾をもらうように、との通達が発せられた。

日蓮宗宗務院庶務部長・妙立英寿はすぐさま日蓮宗各派を訪ね歩き、各派管長から身延山久遠寺に勅額が降賜されることに異義がないとの念書に署名させることに成功している。念書には以下の文が書かれてあった。

「 念書

宗祖立正大師六百五十年遠忌に際し、御廟所在地、山梨県身延山久遠寺住職岡田日帰より請願に及び候。立正大師勅額御下賜の件は本宗()に於いても異議無し…」

 

立正大師というのは日蓮のことで、1922(大正11)1013日、大正天皇より「立正大師」号が宣下されたことにちなんでいる。日蓮の「御廟」(正墓)のある身延山久遠寺に「勅額」が下賜されることについて、本宗としては異議がないという内容の念書である。

この念書には、当時の日蓮正宗大石寺第60世阿部日開法主も署名。「念書」は日蓮宗各派管長から文部大臣・田中隆三宛てに提出されている。

日蓮正宗としては公式には、1931(昭和6)年に勅額下賜の「念書」に署名した時点において、日蓮の「御廟」つまり「正墓」は身延山久遠寺にあるということを認めている他、「立正」の勅額が身延山久遠寺に降賜されることについても認めているのである。

 

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■身延山久遠寺11(本堂下にある身延山宝物館)

 

本堂の階下は「宝物館」になっていて、さまざまな身延山久遠寺の重宝類が展示されている。

身延山宝物館1


かつての身延山久遠寺には、日蓮真筆の大曼荼羅本尊や遺文等の重宝をはじめ、財宝・什器など、げんぞんしていれば国宝や重要文化財級の宝物を多数格蔵していた。

身延山久遠寺12世日意の「大聖人御自筆目録」、21世日乾の「身延山久遠寺御霊寶記録」、33世日亨の「西土蔵寶物録」などの記録によれば、大曼荼羅本尊や遺文等、50点は下らないほど多数、所蔵されていた。

ところが、明治8(1875)1月の大火により、ことごとく灰燼になる。このときに焼失した重宝の中には、「佐渡始顕本尊」や「開目抄」があった。

現在、身延山久遠寺が所蔵する重宝は、その火災をまぬがれたものか、大火の後に身延山久遠寺に奉納されたものか、いずれかとのこと。

この明治の大火で、類焼を免れたのが、東蔵と西蔵の二つの収蔵庫で、現存している身延山久遠寺歴代法主の著述、記録や書籍など、多くの書物の他、書画、工芸品などを収蔵している庫蔵を身延文庫とよんでいる。

これらの宝物を展覧する施設として、大正15(1926)年に、境内西端の一角に地下一階・地上二階の宝物館が完成している。

さらに昭和56(1981)年の日蓮七百遠忌記念事業として、宝物館が本堂の地階に移転されることになり、昭和58(1983)年より、現在地に新施設として完成している。

 

身延文庫所蔵品としては、日蓮関係では、弘安三年卯月の曼荼羅本尊、九郎太郎殿御返事、波木井の御影、住吉如慶の日蓮聖人画像等がある。

身延山久遠寺歴代法主関係の物では、2祖日向以来の曼荼羅本尊、著述、記録、書状、画像、所持品等多くあり、日昭、日朗、日興、日像など日蓮高弟の筆による曼荼羅本尊や日持の中国宣化出土御遺物などがある。

写経では、光明皇后、後光厳天皇のものと伝承される古写経の法華経のほかに、徳川宗直、松平定信、本阿弥光益、身延山久遠寺歴代法主の日朝、日乾などの書写による法華経など。

国宝、重要文化財関係では、北宋徽宗皇帝の筆と伝承される「夏景山水図」(国宝)、「宋版礼記正義」(重要文化財)、「本朝文枠」(重要文化財)、「仏伝図」(重要文化財)等がある。

 

身延山久遠寺31世日脱は、蔵の管理を厳重にするため、東西両蔵にそれぞれ掟書を定め、厳しい管理を行ってきた。そのため、所蔵の宝物が散逸せずに済んだのだったが、門戸を固く閉じたことによって、その内容がわからないままになってきた。

昭和48(1973)年より、文化庁、山梨県教育委員会、身延山短期大学、立正大学の合力により、大がかりな調査が行われ、昭和51(1976)年に「身延文庫所蔵文書絵画目録」として、まとめられた。

その後も、身延文庫に所蔵されている膨大な古文書、書籍等の研究がつづけられているという。

 

 

 

 

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■身延山久遠寺10(2500人の法要ができる本堂)

 

身延山久遠寺の本尊を祀る中心堂宇が本堂。

身延山久遠寺1


ここの本尊は日蓮真筆大曼荼羅本尊を立体化した木像形式にしたものである。

一塔両尊四士と一般的に言われるが、中央に南無妙法蓮華経の宝塔があり、その両隣に釈迦如来像、多宝如来像が立つ。さらにその両隣に、上行、無辺行、浄行、安立行の四菩薩像が立つ。

そして宝塔の下には、日蓮祖師像が座る。

そして四隅には、毘沙門天、増長天、持国天、広目天の四天王像が立つ。さらに四衆の像が立ち並ぶという、まさに日蓮が図顕した曼荼羅を、立体像化した本尊である。

久遠寺本堂本尊1


日蓮宗の僧侶に話しを聞いたところでは、身延山久遠寺本堂のような立体化した本尊が理想的なのだという。しかし所判の都合で、ここまでできない場合は、一塔両尊四士に日蓮祖師像、あるいは一塔両尊四士、または両尊四士というような本尊形式になっている寺院が多い、とのこと。

日蓮宗の本尊としては、身延山久遠寺本堂にあるような曼荼羅を立体像化した本尊、ないしは一塔両尊四士、または両尊四士。ということである。

 

現在の本堂は、明治八年(1875)の大火で焼失後、日蓮七百遠忌記念事業として、88世日滋(にちじ)の代に建立発願。90世日勇の代の昭和六十年(1985)5月に落慶入仏法要が営まれている。

総面積は970(3201m2)、間口17間半(32m)、奥行き28(51m)もある巨大な堂宇。

冬季6時、夏季530分より朝の勤行が執り行われている。

これは、今の本堂の概要なのですが、明治の大火で焼失する以前の本堂が、いつ創建されたかについて、日蓮宗や久遠寺が発行する文献に記述が見当たりません。

現本堂の前は、本堂に該当する堂宇として、釈迦殿があったということです。身延山久遠寺は、明治八年(1875)の大火で、本堂も祖師堂も焼失してしまったわけですが、祖師堂は、明治十四年(1881)に再建されているが、本堂の再建は昭和六十年(1985)5月。祖師堂は焼失から六年後に再建されているが、本堂の再建は何と110年後。つまり本堂再興以前は、釈迦殿が本堂の代用をしていたということのようです。

 

私が冬の2月に身延山久遠寺に行ったとき、本堂に行ってみると、ちょうど節分会が行われていて、中に満堂になるほどの信者で賑わっていました。東京から身延山久遠寺の信者の某有名人も来ていて、見ていると、他の信者から爆雷の拍手歓迎を受けていた。

たしかに本堂の中は、参詣の信者さんで、ぎっしり満員になっていました。久遠寺の見解によれば、久遠寺本堂は2500人の参詣人を集めて法要ができるとのこと。

節分会の参詣者数は、ここよりも池上本門寺の節分会のほうが多いように思いました。

 

ここは大人数を収容できるからか、釈尊御降誕会、開闢会天童音楽大法要、天台大師会、法主本葬儀、宗祖御会式など、多くの僧侶が出仕し、数多くの参詣人を集める法要が本堂にて執り行われています。

 

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■身延山久遠寺9(287もある菩提梯)

 

身延山久遠寺の表玄関は「総門」。バスで久遠寺に行くと、この総門をくぐって行きます。

これは28世日奠(にちでん)の代である寛文五年(1665)に建立された門で、門に掲げられている「開会関」の扁額は、36世日潮の筆によるもの。

 

久遠寺境内の表玄関は、「三門」。

三門という名の巨大な門は、大きな寺院に行くと、どこでも見かける門です。これは空・無相・無願の三つの門を経て覚りに至ることから、身延山久遠寺本堂を覚りに見立て、本堂に至る正面の門を三門という名前の門になっているということです。

この門は26世日暹(にっせん)の代である寛永十九年(1642)に建立されたが、明治八年(1875)の大火で焼失したため、78世日良の代である明治四十年(1907)に再建されたもの。三門に掲げられている「身延山」の扁額は、79世日慈の筆によるものだという。

間口5間、奥行2間、高さ7丈。日本三大門の1つに数えられることもある。

 

三門前には、観光協会の案内所があり、ここに行くと、身延山久遠寺のしおりや案内書などを、もらうことができます。

 

さてその三門から本堂へ行くには、「菩提梯」(ぼだいてい)と呼ばれる287段の石段を登っていかねばならない。

菩提悌1


これは26世日暹の代である寛永九年(1632)に、佐渡島の住人・仁蔵の発願によって起工・完成したもの。高さは104メートルで、三門と本堂を結ぶ一直線の石の階段の数は287段。

「南無妙法蓮華経」になぞらえて7区画に別れている。

しかしこれがまた急な石段になっていて、なかなかきついものがある。プロスポーツの選手が、この急な石段を走って昇り降りするというトレーニングをしていると聞いたのを思い出しました。

この石段を登ったり降りたりするのは、相当きついです。

手すりが備えつけられていますが、それでも相当きついです。今日までの間で、この急な石段を上り下りするときに、足を踏み外して転げ落ちた人とかは、いなかったのでしょうか。

 

ただ、この急な石段を昇り降りしなくても、本堂と三門を行き来できるように「男坂」「女坂」という迂回路も設置されている。こちらを通った方がいいと思いますね。

なので、菩提梯の急な階段を登り降りしなければ、三門と本堂・祖師堂の往来が出来ないというわけではない。男坂・女坂の他にも、武井坊、林蔵坊のほうから迂回する方法や東谷の甘露門から本堂・祖師堂に入ることもできます。

武井坊、林蔵坊のほうから迂回する道を使えば、歩かなくても、車に乗ったまま、本堂・祖師堂のほうに登って行くこともできますし、本堂周辺には駐車場もあります。

 

 

 

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■身延山久遠寺8(西谷の日蓮祖廟)

 

この草庵跡からすこし歩を進めると、日蓮の「祖廟」(そびょう)、いわゆるここが日蓮の正墓である。塔内には日蓮の死去時に建立された五輪の墓を収め、地下の龕室に日蓮の霊骨を安置しているのだという。

日蓮・祖廟2


日蓮宗では、ここを「御廟所」と呼んでいる。この御廟所に関する身延山久遠寺の正式見解は、以下の通りになっている。

 

「御廟所

 

西谷の地にあり、杉の麿丸太づくりの拝殿、奥の八角塔は日蓮聖人の『いづくにて死に候とも墓をば身延澤にせさせ候べく候』との御遺言にしたがって建立された日蓮聖人の廟墓です。八角塔の塔中には、日蓮聖人の入滅時に建立された五輪の墓が収められ、右手には身延山歴代のお墓が並び、左手には富木常忍の母、阿仏房日得上人、南部実長公の墓があります。日蓮聖人の廟墓ですので祖廟とも称し、恋慕渇仰する信者の参詣がたえません」

(身延山参拝のしおり)

 

拝殿は、経机と鐘が備えられているので、ここで読経・法要ができるようになっています。

拝殿の上には「立正」と書かれた扁額が掲げられています。「立正」の扁額は、日蓮の立正大師号にちなんで、昭和天皇から下賜された勅額である。

日蓮・祖廟1

 

さて身延山久遠寺の見解によれば、祖廟に向かって右側の奥に歴代墓所があり、第二祖・佐渡阿闍梨日向以来の身延山久遠寺歴代法主の墓がある。

さらに祖廟に向かって左側の奥に直弟子直檀廟があり、ここには、白蓮阿闍梨日興、南部(波木井)実長、阿仏坊日得、富木常忍公の母・常日尼の4人の納骨塔・供養塔がある、となっている。

直弟子とは、日蓮より直接おしえをうけた弟子のこと、直檀とは、日蓮から直に教化をこうむった檀越すなわち信徒のこと。久遠寺の見解によれば、この中で実際に納骨されているのは、波木井実長、阿仏坊日得、常日尼の3人で、日興は供養塔のみであることを示唆している。

しかし日蓮の直弟子となると、六老僧は全員これに該当するはずだが、日向は歴代墓所に葬られているとしても、なぜここに日興の供養塔だけがあるのか。日昭、日朗、日頂、日持の供養塔は、なぜここにないのか、という疑問が沸く。

 

さて上古の時代の本弟子六老僧輪番給仕の古例にならって、今も祖廟へ輪番奉仕が行われており、日蓮宗全寺院住職・檀信徒の大事な務めとして日蓮宗宗制にうたわれている。その規定にしたがって、全国の日蓮宗寺院住職・信徒が日々、祖廟に参拝・奉仕しているということです。

 

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■身延山久遠寺7(西谷の日蓮草庵跡4)

 

日蓮の説法の折りには、百人を超える参詣者で賑わったという身延山の日蓮の草庵は、1277(建治3)年に一度、修理を加えているものの、常時四十人から百人近い日蓮の門弟たちが修行研鑽する道場としては、あまりにも手狭であっただろう。

この常時四十人から百人近い日蓮の門弟たちが草庵で修行研鑽していたというのは、日蓮正宗大石寺が1981年に発行した「日蓮大聖人正伝」という名前の、日蓮正宗が編纂した日蓮の伝記本に書いてある。

ただ身延山久遠寺の日蓮草庵跡に行ってみて、「常時四十人から百人」という数字は、にわかに信じがたいものがあると私は感じた。

日蓮・身延山草庵跡1


だいたい、こんなに多数の僧侶や信者たちが、身延山中の日蓮草庵にいたならば、日蓮が遺文に記しているように、身延山中で極貧の生活を送るはずがないと思う。

現在の日蓮草庵跡は、おそらく十間四面の大坊跡もふくめてのものだろうから、それ以前の日蓮草庵にこんなに多数の僧侶や信者がいたとは、とても考えにくい話しだ。

 

日蓮は、60歳の1281(弘安4)10月の半ば、新たに大坊の建設工事に着手した。大坊工事開始から落成までのことを、1281(弘安4)1125日に身延山の地頭・波木井実長に宛てた手紙「地引御書」(平成新編御書全集1577ページ・堀日亨編纂・御書全集1375ページ)に書き残している。

それによると1012日・13日に着工して111日には小坊と馬屋が完成し、118日には大坊の「柱だて」を、119日・10日には大坊の屋根の葺き終え、1123日・24日の両日・落成式を行っている。

完成した身延山の大坊は、日蓮が「地引御書」に

「坊は十間四面に、また庇さしてつくりあげ」(平成新編御書全集1577ページ・堀日亨編纂・御書全集1375ページより)

と書いているように、広さが十間四面あり、二重庇(また庇)の造りになっている、以前の草庵よりも、はるかに立派なものだった。

日蓮正宗大石寺が発行した「日蓮大聖人正伝」によると、大坊の工事は

「工事に携わった者は波木井氏一族や藤の兵衛、右馬の入道をはじめ、多くの弟子信徒たちであった。…全員が力を合わせて取り組んだ」(「日蓮大聖人正伝」403ページより)

という様子だったと書かれてある。

日蓮は、この大坊の完成をたいそう喜んでおり、前出の「地引御書」には

「坊は鎌倉にては一千貫にても大事とこそ申し候へ」

-----鎌倉においては一千貫の大金をかけても、このような立派な大坊はできないであろう---

と記しており、さらにこの大坊落成式における参詣者の賑わいを

「二十三日・四日は又、空晴れて寒からず。人の参る事、洛中、かまくらの町の申酉のごとし」

-----1123日と24日の大坊落成式は、空は晴れて、気温も寒くはなかった。身延山にはたんさんの人たちが参詣に訪れ、まるで京都や鎌倉の繁華街のようであった-----

と書いて喜んでいる。

 

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■身延山久遠寺6(西谷の日蓮草庵跡3)

 

現在、身延山久遠寺の山中に残されている日蓮草庵跡は、かなり木々が生い茂った山中にある。富士川のたもとにあるJR身延駅から身延山久遠寺の三門まではかなりの距離があるが、その三門から日蓮草庵跡まで、ちょっと歩かなければならない距離にある。

日蓮・草庵跡1

 

日蓮は書き残した遺文(御書)の各所で、身延山の日蓮のもとに参詣する信者が、たくさんいたことを書き残している。

たとえば日蓮55歳のときの1276(建治2)330日に日蓮が有力信者の一人・富木常忍にあてて書いた「忘持経事」には

「深洞に尋ね入りて一庵室を見るに、法華読誦の音、青天に響き、一乗談義の言、山中に聞こゆ」(平成新編御書全集957ページ・堀日亨編纂・御書全集977ページより)

と述べており、身延山の深い山の中にある、日蓮の草庵では、昼夜にわたって法華経を読誦し、弟子の僧侶たちや身延山に参詣してきた信者に、法華経を講義・説法するという、修行の毎日を過ごしていたことが記載されている。

日蓮58歳のときの1279(弘安2)811日に日蓮が有力信者の一人・曾谷教信にあてて書いた「曾谷殿御返事」には

「今年一百人の人を山中にやしなひて、十二時の法華経をよましめ談義して候ぞ」(平成新編御書全集1386ページ・堀日亨編纂・御書全集1065ページより)

と述べており、身延山の日蓮のもとに弟子入りした僧侶たちや身延山に参詣してきた信者が、なんと百人以上にもふくれあがったと書いているのである。

三間四方の質素な造りであった身延山中の日蓮の草庵に、日蓮が天台大師智顗の命日に営んでいた「大師講」での説法の折りなどに百人を超える人たちが参詣に訪れたとあっては、

「御制止ありて入れられず」 (日蓮56歳の建治36月の遺文(御書)『下山御消息』平成新編御書全集1137ページ・堀日亨編纂・御書全集343ページより)

と日蓮自らが記しているように、説法を聴聞する人たちを規制せざるをえないほどになっていた。

それでも日蓮が

「ものの様をも見候はんがために閑所より忍びて参り、御庵室の後にかくれ」(日蓮56歳の建治36月の遺文(御書)『下山御消息』平成新編御書全集1137ページ・堀日亨編纂・御書全集343ページより)

と書いているように、ひと目でも日蓮の説法の様子を見ようとして、草庵の便所に隠れて日蓮の説法を聴聞したり、あるいは草庵の後に隠れて日蓮の説法を聴聞していた人がいたという。

 

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■身延山久遠寺5(西谷の日蓮草庵跡2)

 

身延山久遠寺において現地調査をしていくと、さまざまなことがわかってくる。

日蓮草庵跡2

 

身延山久遠寺のはじまりは、日蓮が住んだ草庵だが、日蓮が身延山中に自ら結んだ草庵は、驚くほど質素な造りだったということを、日蓮自身が遺文(御書)の中で述べている。

1277(建治3)年冬、日蓮が56歳のときに書いた「庵室修復書」には

「去ぬる文永十一年六月十七日に、この山のなかに、木を打ち切りて、かりそめに庵室をつくりて候ひしが…」(平成新編御書全集1189ページ・堀日亨編纂・御書全集1542ページより)

と書いている。この草庵は、日蓮自身が「かりそめの庵室」と言っている。「かりそめ」(仮初)とは、「ほんの、その時だけの。一時的な」という意味だ。

その草庵は、「夜、火を灯さねども、月の光にて聖教を読みまいらせ」(庵室修復書・平成新編御書全集1189ページ)と日蓮が記しているように、草庵の屋根は天井がないほどの草葺であった。

さらに日蓮59歳の1280(弘安3)127日に書いた遺文(御書)である「秋元御書」には、身延山の草庵について

「ここに庵室を結んで天雨を脱れ、木の皮をはぎて四壁とし…」(平成新編御書全集1453ページ・堀日亨編纂・御書全集1078ページより)

と記していて、身延山に生育している樹木の皮で四方の壁を造ったというくらい、質素なものだった。

草庵の広さについては、日蓮が「庵室修復書」の中で「十二のはしら()」と書いていることから、三間四方であったということは想像できるが、鎌倉時代の一間は、現在の一間と違っているということで、はっきりとした広さは特定できない。

こうしてできあがった草庵に、日蓮は1274(文永11)617日より、十間四面の大坊が完成した1281(弘安4)1124日までの足掛け八年間、住んだ。

現在、身延山久遠寺の山中に残されている日蓮草庵跡は、初期の草庵跡というよりも十間四面の大坊があった跡のように見える。それとも草庵跡に十間四面の大坊を造営したのかもしれないが…。

 

ともかくも日蓮の草庵は簡単な造りであったために、数年もたたないうちに傷みが目立ちはじめ、そして草庵完成より四年後の1277(建治3)年冬にはついに、

「十二の柱、四方に頭をなげ、四方の壁は、一所に倒れぬ」(『庵室修復書』平成新編御書全集1189ページ・堀日亨編纂・御書全集1542ページより)

と、日蓮が嘆くほどのありさまとなり、修復せざるをえないような状況となった。

しかし草庵の修復とはいっても、当時、日蓮といっしょに身延山の草庵に住んでいたと思われる数人の弟子の僧侶による急ごしらえのもので、完成したとは言っても、日蓮が満足できるものではなかった。日蓮は、修復後の草庵について1278(弘安1)1129日に武州池上の池上兄弟にあてた「兵衛志殿御返事」(日蓮57)の中で

「坊は半作にて、風、雪たまらず、敷物はなし」((平成新編御書全集1295ページ・堀日亨編纂・御書全集1098ページより)

と、「坊はまだ半分しかできておらず、風や雪を防ぎきれず、草庵の中には床に敷いてある敷物もなにもない」と言っている。

また日蓮は、1280(弘安3)1216日に、四条金吾に宛てた手紙「四条金吾許御文」では

「処は山中の風はげしく、庵室は籠の目の如し」(平成新編御書全集1523ページ・堀日亨編纂・御書全集1195ページより)

と、草庵の壁は籠の目のように隙間だらけだと言っている。

 

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■身延山久遠寺4(西谷の日蓮草庵跡1)

 

身延山久遠寺の山門をくぐらず、麓の山道を歩いていくと、「西谷」と言われている山林の中に、鎌倉時代の昔、日蓮が住んだ草庵跡が残っている。

身延山久遠寺5・草庵跡


まさにここが、日蓮が起居していた草庵の跡であり、久遠寺発祥の地である

日蓮は足かけ9年にわたり、ここに自らがむすんだ草庵にて法華経の読誦と門弟の教育に終始したと言われている。

私がここの草庵跡を見た印象としては、そんなに広くもなく、さりとて狭くもなく、といった感じか。

ここには外側に囲いがしてあるが、この囲いいっぱいに、日蓮の草庵が建っていたとは思えない。

この日蓮草庵跡には、身延町教育委員会の立て看板が建てられています。

日蓮・草庵跡5


身延町教育委員会の見解では、この草庵跡は、18.18メートル四方となっています。

おそらくは、1281(弘安4)年に建てられた十間四面の堂宇も含めての広さなのではないか。

ただ、ここで日蓮が、多くの門弟たちを育成していたというが、日蓮を筆頭にたくさんの門弟が起居し、修行するには、ちょっと狭くはないかな、と思う。

草庵のたたずまいも、日蓮一門の当時の極貧状態の生活から推するに、かなり質素なものだったであろう。

 

又、ここには身延町教育委員会の看板よりも古い時代に建てられた石碑も建てられています。

日蓮・草庵跡4


当然のことながら、ここが日蓮の草庵跡として、学術的にも証明されているということである。

 

草庵跡全体は、石でできた囲いで囲まれているので、相当古い時代から、ここが「草庵跡」として保管されてきたことがうかがい知れます。

日蓮・草庵跡3

 

この草庵跡では、毎年617日午前11時から、身延山久遠寺法主大導師のもと、山内支院僧侶出仕のもと、身延山開闢会法要が営まれ、式中、日蓮遺文(御書)「身延山御書」が奉読される。

さらにこれに先んじて午前9時より、日蓮の身延入山を記念した身延山開闢の御入山行列が、総門から三門までの約1.5キロの門前町を練り歩くお祭りが行われる。

 

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■身延山久遠寺3(180万人以上の参拝人)

 

身延町という町自体が、身延山久遠寺の門前町であるわけですが、特に久遠寺の総門から三門まで、約1キロにわたってつづいている門前町のことを、「身延山門前街」というふうに呼ぶそうです。

民家もけっこう密集しているのですが、その中に、食堂、喫茶、寿司や、食事処、書店、写真館、菓子店、数珠店、仏具店、製麺や、魚や、呉服店、生花店、畳店、みあげ物店、旅館…等々が、ひしめいています。

大きな寺院の周辺には、こういう門前街、売店街があるのは、似たり寄ったりで、食堂、喫茶、食事処、書店、数珠店、仏具店、みあげ物店、旅館があるのも、似ています。

 

それでは、身延山久遠寺の参拝者を含めて、一年間でどれくらいの人が身延町を訪れるのか、という統計が気になるところだが、身延町商工会によると、

「参拝者等の年間来町者は180 万人とも200 万人」

としている。

「身延町商工会」

http://www.syoutengai.or.jp/pdf/12/12/minobecyo_s.pdf#

 

年間で180万人~200万人という数は、大変な数です。

では日蓮宗の信者は、全国でどれくらい居るのか、ということになりますが、週刊「ダイヤモンド」201172日号に載った統計によると、信者数3853616人。寺院数4649寺。教師僧侶数7297人。ということは、日蓮宗信者の参詣が180 万人としても、全信者の半数の人が身延山久遠寺に参詣していることになる。

ではなぜこんなに多くの人が身延山久遠寺に参詣しているのか、というと、まず、上古の時代の本弟子六老僧輪番給仕の古例にならって、今も祖廟へ輪番奉仕が行われており、日蓮宗全寺院住職・檀信徒の大事な務めとして日蓮宗宗制にうたわれている、ということがある。

これにより、全国の日蓮宗寺院住職・信徒が日々、祖廟に参拝・奉仕している、ということがあるので、日蓮宗の僧俗が身延山久遠寺に参詣する、ということになる。

日蓮・祖廟1

 

それから年間で180万人~200万人の参詣ということは、これは197080年代の宗創和合時代における創価学会員の日蓮正宗大石寺登山者の数とほぼ同じくらいである。

1980年代というのは、「昭和五十二年路線」の創価学会と日蓮正宗の第1次紛争が終結したあとから、1991年の宗創戦争開戦前の間です。

年間で180万人~200万人の参詣とは言っても、年間平均しているわけではなく、新年祝祷会、宗祖御降誕会、釈尊御降誕会、千部会、開闢会、七面山大祭、宗祖御会式といった大きな法要・行事のときに、参詣者が多く集まるのだろうけども、身延町の場合は、南アルプス登山者や下部温泉への入湯等々をも含めた数ですが、それにしてもこれは大変な数です。

身延山門前街も、久遠寺で大きな法要があるときなどは、参拝者で大いに賑わうようです。

身延山門前街2

 

旅館が、この門前街や身延駅前のしょうにん通りにあるということは、泊まりがけで久遠寺に参拝する人が、かなりいるということなんでしょう。

 

 

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■身延山久遠寺2(古式ゆかしい門前町)

 

はじめて身延山久遠寺に寺跡調査をしようと行ったのは、今から10年以上前のことですが、わざわざ冬の2月を選んで、久遠寺を訪ねたことを憶えています。

あの当時はまだ、東京静岡の間に、東海道線を走る特急・東海号が運行されており、私は、東京からJR特急・東海号に乗って富士駅で下車。そのまんま連絡通路を通って、接続しているJR特急・ふじかわ号に乗って、一路身延へ。

身延駅7


ちなみに、今は特急東海号という列車は廃止されたようで、身延線の列車に乗って身延に行くには、東海道新幹線で三島駅で下車して、一旦、東海道線の列車に乗り換え、さらに富士駅で身延線の列車に乗り換えなくてはなりません。特急東海が廃止になって、かえって不便になりました。

 

一度だけ、静岡市内で一泊してから、静岡駅で特急ふじかわ号に乗って身延山に行ったこともありました。

しかし今は、電車で行くのであれば、新宿駅から中央線特急スーパーあずさ号に乗って甲府駅で下車し、ここで特急ふじかわ号に乗り換えて、身延山に行くルートが便利なのではないでしょうか。

ちなみに、昔は、どういうわけか中央線特急スーパーあずさ号・あずさ号と、身延線特急ふじかわ号は、全く接続しておらず、超不便なルートであったのです。まあこれは、JR中央線がJR東日本、JR身延線がJR東海の管轄下だからではないか、とか、いろいろ言われていましたが、利用者からすれば、こんな迷惑な話はありません。

今は、甲府駅で中央線特急と身延線特急は、接続していますので、割と便利なルートに生まれ変わっています。

 

あとは新宿駅西口バスターミナルから身延山久遠寺前直通のバスが運行されています。運賃は、やはりバスで行くルートが最も割安になるようです。

 

さて特急東海号の話しに戻しますが、東海号は6両編成で、グリーン車なしのモノクラス編成。もっともルート的には東海道新幹線とかぶっていますし、新幹線が停車しない大船駅、平塚駅、湯河原駅、沼津駅では乗降が多かったようでしたが、乗車率はそんなに多いとは感じませんでした。

一方、富士駅で乗り換えた3両編成のふじかわ号は指定席・自由席ともほぼ満席状態。富士駅を出て、富士宮駅に着くと、ドカドカと中高年客が下車して行くのが見えた。

富士宮駅で中高年客が大量下車…これはおそらく大石寺に参詣しに行く日蓮正宗の信者たちではないでしょうか。

この時は、すでに宗創戦争以降のことでしたが、宗創和合時代は、創価学会員の団体専用列車が富士宮駅まで運行されていました。そういうことを考えると、隔世の感があります。

 

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■身延山久遠寺1(日蓮が9ヶ年の生活を送った祖山)

 

身延山久遠寺とは、山梨県身延町にある、あの日蓮宗総本山の大寺院である。

ここは、文永11年(1274年)、甲斐国波木井(はきい)郷の地頭・南部六郎実長(波木井実長)が佐渡での流刑を終えて鎌倉に戻った日蓮を招き、今の西谷の地に草庵を構えたのが、久遠寺の発祥とされている。

身延山久遠寺2


文永11年(1274年)512日、日蓮は鎌倉を出発。517日に身延山に到着。

その1ヶ月後の617日、波木井実長の寄進によって三間四面の草庵が完成。日蓮宗では、この日を以て身延山の開創・開闢の日としている。

弘安4(1281)11月には、十間四面の大坊が造営されて、日蓮自ら「身延山妙法華院久遠寺」と名付けたと伝承されている。

これから、文永11年(1274年)517日が身延山開闢。

弘安4(1281)1124日に、大坊落慶・身延山久遠寺の寺号公称としている。開基檀那は、南部六郎実長(波木井実長)である。

日蓮入滅後、「いづくにて死に候とも墓をばみのぶ澤にせさせ候べく候」(波木井殿御報)との日蓮の遺命により、日蓮の遺骨は身延山に葬られ、正墓が建てられた。

その後、六老僧を中心にして守塔輪番制が定められたが、次第にこの制度を維持することが困難になり、日興をはじめとする老僧の身延離山等もあり、六老僧の一人、民部阿闍梨日向が身延山久遠寺第二祖になった。

 

さらに身延山久遠寺第11世日朝の代の文明7(1475)、西谷にあった諸堂伽藍を、現在地に移転。

戦国時代には甲斐国の大名・武田氏や河内領主の穴山氏の庇護を受け、門前町が形成された。

江戸時代には日蓮宗が徳川氏はじめ諸大名の帰依を受け発展し、宗門中興三師と賞される日重・日乾・日遠のころ、身池対論を経て対立する不受不施派を排斥して地位を確立。

その後、日脱・日省・日亨の三師で壮大な伽藍を整えて身延山は全盛期を迎える。子院・塔中の開創数は153ヶ坊を数えている。

明治8年(1875年)1月に西谷本種坊からの出火で伽藍全部を焼き尽くすほどの大火にみまわれたが、74世日鑑の尽力とその後の法主の復興により現在に至っている。

 

私が取材・調査してみたかったところは、日蓮の草庵跡、日蓮の祖廟、本堂・祖師堂などの伽藍と本堂に祭られている本尊、本堂地下にある宝物館、身延山山頂の日蓮が父母を偲んで建立したと言われる奥之院思親閣、そして冬の身延山久遠寺…といったところでしょうか。

日蓮正宗大石寺の「戒壇の大本尊」偽作問題に関連しては、草庵跡をぜひとも調査してみたかったのと、もうひとつのポイントとして、冬の身延山はどういうものなのか、ということを調査して見たいと考えていた。これは冬の身延山久遠寺というのは、日蓮が遺文・消息文で、身延山での過酷な生活を記しているからだ。

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