一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ

「一般社団法人 仏教宗学研究会」とは任意団体として2005年から活動している会の名称。2018年5月に一般社団法人登記。当ブログ名を「仏教宗学研究会のブログ」から「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」に改名。 「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

Category: 日蓮宗(大)池上本門寺

■池上本門寺40(2012年初詣)

 

□多くの参拝客をあてこんで池上本門寺参道にぎっしり並んでいたテキ屋の露店(2012年初詣)

 

2012年の初詣は、池上本門寺に参詣しています。この時も12日の午前中に、皇居の一般参賀に行き、帰りに池上本門寺に参詣しています。ですので初詣は12日ですねえ。

しかし12日とはいえ、池上本門寺にはものすごい数の参拝客が訪れていました。ここも東京都内有数の初詣のメッカのひとつ。参道は参拝客でぎっしりです。ただし此経難事坂を登り、仁王門をくぐって大堂前まで来ると、スペースが広いせいか、ぎっしりの状態ではなかったのですが、それでも大堂前には、かなりの数の参拝客がいました。

その参拝客をあてこんで、テキ屋の露店も池上本門寺参道にぎっしりと並んでいました。人が集まる所、参詣人が多い寺社の前に、テキ屋の露店が並ぶのは世の常である。池上本門寺の行事で、最も多くテキ屋の露店が並ぶのは、何といっても毎年10月に行われる御会式である。御会式の時ほど、数は多くありませんでしたが、それでも正月も池上本門寺参道は、テキ屋の露店がぎっしりと並ぶ。又、池上駅前の商店街も、池上本門寺初詣客をあてこんで、12日にもかかわらず、開店している店もかなり見られました。

池上本門寺の本殿では、大きく扉が開けられていて、ここにもたくさんの人が参詣。本殿では、古いお札・お守りの返納・お焚き上げを受け付けていました。普段の日は、本殿に参詣する人はほとんど見られないのですが、正月の初詣は、たくさんの人が本殿に参詣していました。

大堂は、普段とかわらずそれこそたくさんの人が参詣。ここは普段の日も参詣人が多い堂宇ですが、普段よりも増して大堂の賽銭箱の前は、満員になるほどの人が詰めかけている。

大堂前の広場の一角では、猿回しの猿の曲芸が行われていて、参詣人の目を引き、周囲にはたくさんの人が見物していました。これもたくさんの初詣客をあてこんで行われているのでしょう。

仁王門前では、献血の呼びかけが行われていました。さらに大堂前では、菊の花の展示があり、初詣客をなごませてくれていました。菊の花の展示は、これ以前にどこかの寺院でも、何度か見かけていますね。

池上初詣1



池上初詣2大堂


池上初詣5本殿


池上初詣6本殿


池上初詣10大堂


池上初詣11大堂


池上初詣12仁王門


池上初詣13的屋


池上初詣15的屋


池上初詣18総門


池上初詣19総門


 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■池上本門寺39(大石寺常唱堂は池上本門寺常唱堂のパクリ)

 

□自然に参詣者が多くなり常に題目を唱える道場として知られるようになった池上本門寺常唱堂

 

池上本門寺の仁王門をくぐったすぐ左側の子院に「日朝堂」という堂宇がある。日朝堂は、身延山久遠寺第11世・行学院日朝を祀る堂宇。別名を「常唱堂」と言い、堂宇入り口には「常唱堂」と書かれた額が掲げられている。常唱堂とか題目堂と呼ばれ、須弥壇には大曼荼羅本尊と行学院日朝像を祀っている。現在の日朝堂は昭和48(1973)年に再建されたもの。

日朝堂2












池上本門寺刊行の古写真集「撮された戦前の本門寺」によれば、もともと池上本門寺の日朝堂は、池上本門寺第22世日玄が元禄年間(1688-1704)に創立。戦前まであった日朝堂は、寛保年間(1741-43)に加藤甲斐守納泰の寄進によって建立されたもの。第二次世界大戦の焼失の後、昭和48(1973)年に再建された。

一方、池上本門寺の寺伝によれば、日朝堂の縁起は次のようになっている。

 

日朝は1422(応永29)年、伊豆宇佐美で誕生。8才で出家。行学修行を積み重ね、苦修練行、昼夜精進行を行った。41才のとき、身延山久遠寺第11世法主となり、今の身延山隆昌の基を築いた。

関東の布教では新寺40余ヶ寺を建立した。

61才の時、永年にわたる止暇断眠の苦行と教化精進の過労から両眼失明の厄にあったが、それを自らの不徳として、ますます懺悔精進したところ、眼病が全快したという。

61才のとき、眼病消滅の本尊を書写。教化と著述七百余巻に専念。1500(明応9)年、79才で遷化した。池上本門寺では日朝の徳を讃え、日朝像を祀ったところ、日を追って参詣者が多くなり、常に題目を唱える道場として知られるようになった。

日朝堂5 











これが常唱堂とよばれる縁由とのこと。

この縁由によれば、元禄年間(1688-1704)の日朝堂創建以前から、池上本門寺で日朝像を祀っていたことが、窺われるが確定的なことは言えない。日朝堂創建で、日朝像を祀った、というようにも読める。

日朝堂7 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■池上本門寺38(2013節分会2)

 

特設ステージがある池上本門寺大堂前は、それこそ立錐の余地もないくらい満員にならんばかりの大勢の参詣人が詰めかけている。そういう中を池上警察署の他、警視庁の車が停まっていて、警察官が交通整理を行っている。警察官が

「肩車をしているお父さん、ここで肩車は危険です。事故を防止するため、ご協力をお願いします」

というアナウンスをしている。子どもを肩車していた「お父さん」は子どもを降ろした様子。すると警察官が「ご協力ありがとうございました」と、アナウンス。たしかに、こんな超満員状態の中での肩車は危険かも。バランスを崩して転倒でもしたら、それこそけが人が出るでしょうから。

節分会33 











池上本門寺・節分会の豆まきは、タレントやプロレスラー、格闘家等々が大勢やってきて、福豆をまく。これらの著名人の数は30人以上。大堂前特設ステージには、タレントやプロレスラーが豆をまく位置があらかじめ決まっていて、大きな名札がかかっている。その名前を見ると

田中健、平将明、松本伊与、松本なつ子、西島三重子、宇梶剛士、春風亭一之輔、てんちむ、すがはらやすのり、朝崎郁恵、藤崎奈々子…

プロレスラー、格闘家、ボクサーの名前は

輪島大士、佐々木健介、中島勝彦、小橋建太、山本KID徳郁、KENTA、棚橋弘志、武藤敬司、鈴木みのる、高山善広、天龍源一郎、竹原慎二…

節分会41

 











ずいぶん懐かしい名前、昔の名前で出ていますタレントも見える。

池上本門寺・節分会に大勢のプロレスラーが来るのは、1977(昭和52)年に、ジャンパ鶴田が力道山の墓参を兼ねて節分会に参詣したことから、毎年、多くのプロレスラーや格闘家が節分会に参詣しているのだという。

豆まきは15時から。約10分ぐらい前から池上本門寺第82世貫首・酒井日慈猊下を先頭に、福豆をまくタレントやプロレスラーが特設ステージに入場。酒井日慈猊下はゆっくりとした足どり。

特設ステージには、豆まきの福豆が大量に用意され、ステージにはタレントやプロレスラーがズラリ。「タレントの紹介でもあるのかな」と思っていたら、そういうのは一切なく、いきなり豆まきがスタート。特設ステージからタレントやプロレスラーが、超満員になっている参詣人のほうにむかって、次々と福豆を投げる。参詣人のほうは、先を争って福豆を取ろうとする。たくさんの福豆が投げ込まれ、全部投げ終わったところで終了。あれだけ多くの福豆が投げられたのに、福豆をもらえなかった参詣人も、かなりいた様子。もっとも福豆は、大堂前で僧侶が売っていましたけどね。

私も福豆を一袋、もらってきました。豆まきが終わって参詣人は帰途へ。

総門から仁王門への此経難事坂から大堂への参道は、帰りの参詣人でいっぱい。

節分会47 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■池上本門寺37(2013節分会1)

 

201323日は、池上本門寺の節分会に参詣しました。

日蓮宗大本山・池上本門寺は、法要が行われるときは、大勢の参拝人がつめかける寺院で特に有名。池上本門寺の最大の行事は、毎年1011日~13日に行われる御会式である。中でも1012日の万灯練り供養には、毎年30万人を超える参拝人があり、深夜まで練り行列が行われる巨大行事になっている。

池上本門寺の巨大行事は、何も御会式だけではない。毎年23日に行われる節分会もまたそのひとつ。日蓮宗新聞社刊行本「日蓮宗本山めぐり」の中でも紹介されていますが、池上本門寺節分会のときは、大堂前には、それこそ立錐の余地もないくらいの参詣人が詰めかけ、池上本門寺境内は超満員の状態に膨れあがる。そういう中、有名タレントやプロレスラーなどが、特設舞台の上から福豆をまく、豆まきが行われる。

23日といえば、どこの仏教寺院でも節分会が行われるが、池上本門寺の節分会は、特に多くの参詣人が集まることで有名。池上本門寺・大堂前は、節分会の数日前から豆まき用の特設ステージが設けられ、準備万端である。

節分会12 











池上本門寺節分会は、13時からの池上太鼓からはじまる。大堂前の特設ステージには、いくつもの太鼓が設定されており、20人以上の中年女性と23人の男性が出てきて、太鼓を叩く。

見ていると、かなりの練習を積み重ねてきているのが、わかります。男性も女性も、太鼓を叩く時の表情が、まことに生き生きとしている。

その後、福男福女の練り行列が仁王門から入ってきて、大堂の中へ。

節分会25 











宗教行事の中で行われるイベントというと、若い頃、イヤと言うほど見せられた創価学会の文化祭ビデオというものがあった。あれを見ていると、文化大革命時代の中国や北朝鮮のマスゲームそっくり。創価学会のビデオによれば、創価学会の文化祭には、知事、市長、県議会議長、著名人などが多数招かれ、祝辞や賛辞を送っていたというが、私なんかは、あんな創価学会の文化祭ビデオを見せられても、面白くもなんともなかった。それどころか多大な嫌悪感を感じたことを鮮明に覚えている。

 

しかし池上本門寺御会式の万灯練り供養、節分会の池上太鼓、片瀬龍口寺御難会の万灯練り行列等々の行事を見ていても、行事そのものが地域社会の中に密着していて、全く違和感を感じない。池上太鼓は、もちろん近年、はじまった行事なのだろうが、しかし地域行事としてピッタリとマッチしていて、これも全く違和感がない。

 節分会19

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■池上本門寺36(日本プロレスの祖・力道山の墓)

 

池上本門寺の墓苑の中には、日本プロレスの祖である力道山の墓があります。

力道山墓6


力道山とは、今さら言うまでもなく、大相撲の力士出身で第二次世界大戦終了後に日本のプロレス界の礎を築き、日本プロレス界の父と呼ばれている人物。当時始まったプロレスのテレビ放送もあり絶大な人気があったスーパースター。

力道山墓4

 

力道山の墓に参拝する人は、かなりたくさんいるようで、墓苑の中には案内板が立てられていました。

力道山墓1


墓は綺麗に整備され、墓碑が新しくなっていました。

力道山墓3


池上本門寺には、著名人の墓がいくつかありますが、その代表格がこれです。

 力道山墓2

 

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■池上本門寺35(日蓮廟所)

 

□室町時代の応仁元年(1467)頃に造立された池上本門寺日蓮廟所の石塔

 

池上本門寺本殿の奥には、日蓮の廟所がある。

日蓮廟所4


廟所というと、身延山久遠寺の御真骨堂のように、日蓮の真骨を収蔵し祀っているのか、と思うが、池上本門寺・日蓮廟所の立て看板を見ても、ここに日蓮の真骨が納められている、という文は書いてない。日蓮廟所の立て看板には、次のように書いてある。

「中央廟屋内に宗祖日蓮聖人(弘安51282〕年1013日御遷化)、左廟屋内に第二祖日朗聖人(元応元年〔1319〕正月21日御遷化)、右廟屋内に第三祖日輪聖人(延文41359〕年44日御遷化)の墓塔をお奉りしています。

なかでも、日朗聖人墓塔は室町時代の応仁元年(1467)頃に第8世日調聖人によって造立されたと考えられる古い石塔です。形は日蓮宗に特有の宝塔で、高さ1.6m(失われている反花座を補うと1.9m)の大きなものです。塔身の正面には一塔両尊(南無妙法蓮華経、南無釈迦牟尼仏、南無多宝如来)を、基礎の背面には日朗聖人の没年や造立願主の名が刻まれています。石材は伊豆石(安山岩)です。この型式の宝塔は、室町時代に南関東の日蓮宗寺院において多く造立されましたが、日朗聖人塔はその中でも特に大きいものとして注目されます。信仰的、歴史的な重要性から大田区の文化財にも指定されています」

日蓮廟所1

 

つまり廟屋の中に石塔型式の墓塔がある、ということです。というより、元々、石塔型式の墓塔が建てられていて、これを後年に建てられた廟屋で覆われている、ということのようです。

ということは、ここには日蓮の真骨・灰骨はないものと思われます。

では池上本門寺に日蓮の真骨・灰骨はないのかというと、そうではない。大堂に祀られている日蓮祖師像の胎内に、日蓮の灰骨が収蔵されている。

大堂の中にある説明書きには、次のようにあります。(大堂内は写真撮影禁止であるため、文章を書き出します)

「日蓮大聖人御尊像

日蓮大聖人第七回忌に当たる正応元年(1288)に造立されたもので、気魄に満ちた御顔は、ご生前の真容をよく伝え、肖像彫刻としても鎌倉時代の傑作の一つに挙げられている。像高二尺八寸三分の木彫寄木造り、ご胎内には御聖骨を納めた銅筒があり、右手には母君妙蓮尼の遺髪を加えて作られたものと伝えられる払子を、左手には紺紙金泥の法華経経巻を捧持。

昭和二十年四月の大空襲にも難を免れた御尊像は、永遠に格護されるべき人類の至宝である。」

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■池上本門寺34(南谷檀林・照栄院2)

 

□池上本門寺照栄院に板頭寮のみが残る南谷檀林

 

池上本門寺塔中・照栄院は、江戸時代は南谷檀林が置かれていた子院。そうすると多くの学僧が修学していたわけですから、かなり大きな塔頭なのかな、と思ってしまうのですが、現在の照栄院の堂宇の大きさは、池上本門寺の他の塔頭の堂宇の大きさと、大差はない。

これは一見して不思議に思えます。今の堂宇に、多くの学僧が修学していた南谷檀林があったとは思えない。

ところが、この謎を解明するヒントが、照栄院前にある大田区教育委員会の立て看板「南谷檀林『板頭寮』遺構」に書いてありました。そこには、こんなことが書いてある。

 

「大田区文化財 南谷檀林『板頭寮』遺構 (非公開)

南谷檀林は、池上本門寺に付属する僧侶の学校として、元禄期(16881704)に、本門寺の南方(寺窪、南窪と称せられる地)に開創された。

『新編武蔵風土記稿』によれば、檀林は、講堂、方丈、玄寮、板頭寮、首座寮、所化寮、談合場、食堂、妙見堂等の施設を備えていた。

現存している建物は、檀林の事務所に当たる『板頭寮』で、板頭(事務経営の長)の居室でもあったとされる。江戸後期の天保7(1836)、池上山内の木を用いて建てられたと伝えられる。

当院の庫裡(寺の台所、居室)、書院として利用されてきたため、増改築が行われているが、屋根は昭和50(1975)、保護のため銅板で覆う工事が行われるまで、茅葺きであった。

昭和50319日指定  大田区教育委員会」

南谷檀林6

 

これによれば、南谷檀林は、本門寺の南方、寺窪、南窪と称せられる地に開創されたとある。

現存しているのは、『板頭寮』のみ。かつては講堂、方丈、玄寮、板頭寮、首座寮、所化寮、談合場、食堂、妙見堂等の施設を備えていたというから、かなり大規模な檀林だったことが、うかがえる。

ではなぜ、講堂、方丈、玄寮、首座寮、所化寮、談合場、食堂等の施設がなくなってしまったのか。もっとも檀林が廃止になって学僧が来なくなれば、檀林の堂宇も必然的に消滅してしまう運命にあるのかもしれないが、檀林の施設が今日に遺っていないというのは、残念なことである。

今の照栄院は、江戸時代の南谷檀林の面影はほとんど残っていない。

照栄院4
 

 

 

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■池上本門寺33(南谷檀林・照栄院)

 

□江戸時代にはたくさんの日蓮宗学僧が出入りしていた池上本門寺南谷檀林

 

池上本門寺の塔頭子院の中で、私が注目したのは照栄院。ここは呑川の川沿いにあります。

照栄院という塔頭は、元々は日蓮六老僧・池上本門寺二祖・日朗の草庵だったところで、日朗入滅後に衰退。これが江戸時代に入って再興し、僧侶の学校である南谷檀林が置かれ、これが明治維新までつづいた。照栄院の境内には、こんな立て札が建てられています。

「照栄院

縁起

正応4(1291)、日朗聖人の庵室として開創。日朗聖人没後、荒廃したが、嘉吉年間(14411444)に再興された。元禄2(1689)、南谷檀林という僧侶教育の学校を開設。明治2(1869)に廃されるまで、多くの高僧を送り出した。本門寺の役寺としての三院家の一。山上の妙見堂に祀られている妙見菩薩立像は寛文4(1664)、加藤清正の娘・瑶林院が夫の紀州徳川頼宣の現世安穏後生善処を祈念して奉納したもの」

 

檀林というのは、中世から仏教各宗派でつくっていた僧侶教育の学校のことで、日蓮宗系の檀林も、安土桃山時代ぐらいから建ちはじめ、江戸時代に檀林の隆盛期を迎える。

江戸時代のころにあった日蓮宗系の檀林とは、以下のようになっている。

 

□飯高檀林  千葉県匝瑳市飯高 日蓮宗 飯高寺 立正大学発祥の地

□小西檀林  千葉県千葉県山武郡大網白里町 日蓮宗 正法寺

□中村檀林  千葉県香取郡多古町 日蓮宗 日本寺

□野呂檀林  千葉県千葉市若林区野呂 日蓮宗 妙興寺

□玉造檀林  千葉県香取郡多古町 日蓮宗 蓮華寺

□三昧堂檀林  茨城県常陸太田市 日蓮宗 久昌寺

□南谷檀林  東京都大田区池上 日蓮宗大本山 池上本門寺照栄院

□西谷檀林  山梨県南巨摩郡身延町身延 日蓮宗総本山 身延山久遠寺

□松ヶ崎檀林  京都府京都市左京区松ヶ崎堀町 日蓮宗 涌泉寺

□求法檀林  京都府京都市山科区御陵大岩 日蓮宗大本山 本圀寺

□東山檀林  京都府京都市左京区岡崎東福ノ川町 日蓮宗 善正寺

□鷹峯檀林  京都府京都市北区鷹峯北鷹峯町 日蓮宗 常照寺

□山科檀林  京都府京都市山科区竹鼻竹ノ街道町 日蓮宗 護国寺

□鶏冠井檀林  京都府向日市鶏冠井町御屋敷  日蓮宗 北真経寺

照栄院3


続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■池上本門寺32(塔頭子院の院号・寺号・坊号)

 

□かつては坊号の塔頭子院があったが何らかの理由で坊号の塔頭をなくしていった池上本門寺

 

池上本門寺の場合、本門寺境内の周辺に塔頭子院が立ち並ぶという、独特の伽藍配置になっています。

池上本門寺の塔頭子院は、中道院、常仙院、本成院、本妙院、理境院、大坊本行寺、南之院、覚源院、厳定院、西之院、真性寺、実相寺、本光寺、善慶寺、長勝寺、東之院、安立院、法養寺、心浄院、妙雲寺、養源寺、照栄院、永寿院の23院・寺です。

大半の塔頭支院は池上本門寺に隣接していますが、池上本門寺から離れた所にある子院もあります。池上本門寺発行の小冊子「池上の寺めぐり」によれば、池上本門寺の塔頭支院の言われについて、次のように書いてある

「日蓮聖人が亡くなった御入滅の霊場である池上本門寺の周辺には、参拝者が宿泊するためにいくつかの宿坊があった。宿坊のはじまりは、日蓮聖人の弟子たちが日蓮聖人の塔所(墓所、廟)に給仕するために建てた小庵であった。当初は支院とよばれ、多いときは36あった塔頭寺院も移転・合併・廃寺などで、現在は本門寺を加えた24ヶ寺が『朗師講』とよばれて残っている。『朗師講』とは本門寺2世日朗聖人の日蓮聖人への奉仕に対する徳を偲び、その恩に報いるための講会という意味で、今でも毎月1回、24ヶ寺の住職が集まって報恩法要を行っている」

(小冊子「池上の寺めぐり」p4)

 

塔頭子院の23院・寺に池上本門寺を加えた24ヶ寺が『朗師講』とよばれて残っている、ということです。こう見てみると、池上本門寺の塔頭支院の名前は、院号と寺号の混在になっている。

私が見聞した限りでは、仏教大寺院や本山クラスの寺院の塔頭支院の院号、坊号は、地域的に別れているように思います。

京都に行くと、京都・要法寺、妙顕寺、本圀寺、妙伝寺、本能寺、頂妙寺、本満寺、本善寺、妙覚寺、本法寺、妙蓮寺、本隆寺等の本山は全て「○○院」の院号になっています。

これは、日蓮宗、日蓮本宗(富士門流)、法華宗本門流、法華宗真門流、顕本法華宗、本門法華宗、法華宗陣門流の宗派の区別はなく、共通して全て「○○院」の院号です。

臨済宗の本山に「○○庵」の庵号が一部にありました。

 

これが東海・甲信越地方になると、院号はなく、全て坊号になっている。

身延山久遠寺、日蓮正宗大石寺、富士妙蓮寺、北山本門寺、西山本門寺、小泉久遠寺、岡宮光長寺等、全て同じです。

本成院1
 

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■池上本門寺31(池上「本門寺」寺号の由来)

 

□池上「本門寺」寺号は富士門流の「本門寺」思想とは全くの無関係である

 

池上本門寺の研究課題として、「本門寺」の寺号ということがある。

現在、日蓮入滅から200年くらいの間に創建された寺院の中で「本門寺」の寺号を名乗る寺院としては、北山本門寺、西山本門寺、讃岐本門寺と池上本門寺。北山本門寺の場合は、「法華本門寺根源」とか「富士山本門寺根源」と呼んでいる。

西山本門寺は「富士山西山本門寺」とか「富士山本門寺根源」を自称している。これは、「二箇相承」(偽書)にある「富士山本門寺」の寺号を名乗っていると考えられる。

讃岐本門寺は、正式には高永山本門寺というが、江戸時代から戦前にかけて、北山本門寺の末寺だったときは、法華寺を名乗っていた。

日蓮正宗大石寺も、将来的には「本門寺」の寺号を名乗るとしている。

そうすると、大石寺を含めても本門寺の寺号を名乗るのは、池上本門寺のみが日朗門流で、他は全て日興門流(冨士門流)ということになる。

日興門流には、古くから本門寺思想というものがあり、日蓮曼荼羅に「本門寺の重宝たるべきなり」との日興の加筆が散見される。

その他の本門寺思想からみの文献としては、百六箇抄、二箇相承、日順文書等があるが、百六箇抄、二箇相承は後世の偽作であり、日順文書についても日蓮正宗大石寺59世堀日亨が疑義を呈している。

本門寺思想の真偽はさておくとし、日興門流の寺院の「本門寺」寺号は本門寺思想から来ているとしても、そうすると日朗門流の池上本門寺の「本門寺」寺号は、どうして付けられたのか。いつから「本門寺」寺号を名乗っているのか、という疑問が出てくる。

この点、池上本門寺の公式ウエブサイトを見ても、

「長栄山本門寺という名前の由来は、『法華経の道場として長く栄えるように』という祈りを込めて日蓮聖人が名付けられたものです。そして大檀越の池上宗仲公が、日蓮聖人御入滅の後、法華経の字数(69,384)に合わせて約7万坪の寺域を寄進され、お寺の礎が築かれましたので、以来『池上本門寺』と呼びならわされています」

として、本門寺の寺号は日蓮聖人が命名された、とは書いてある。そこで、池上本門寺の「本門寺」寺号について、池上本門寺の僧侶に質問したところ、下記のような見解であった。

大堂3
 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■池上本門寺30(日蓮の歯を格蔵する本殿・日蓮像)

 

□毎年6月に池上本門寺霊寶殿で公開される、かつて日蓮の歯骨を収蔵していた厨子

 

あまり知られていないことだが、池上本門寺本殿の釈迦如来像といっしょに祀られている日蓮像の胎内には、日蓮の歯が格蔵されている。

池上本門寺大堂の日蓮像の胎内には、日蓮灰骨が格蔵されていることが、大堂の案内板に書いてある。しかし本殿の案内板には、日蓮の歯のことはどこにも書いていないが、池上本門寺刊行「妙玄院日等聖人」という本の中に、千葉県勝浦市の本行寺釈迦殿に、池上本門寺が格蔵していた日蓮歯骨が分骨されたことが載っている。

 

「当山(池上本門寺)祖師堂の完成を半年後に控えた享保83月に、日等聖人は、弟子で後に両山25世に晋む守玄院日顗聖人を、自身の名代として上総国夷隅地方に遣わし、百日に及ぶ勧財を行った。日顗聖人は当山重宝の宗祖御肉牙の一部を奉じて上総に赴き、百日の内の大半を勝浦の本行寺に滞在し、五十日に及ぶ説法を行った。…この時の御肉牙は、日顗聖人の記念碑と共に現在も本行寺に格護されている」(『妙玄院日等聖人』p16)

 

これは間接表現ながら、池上本門寺として日蓮歯骨の存在を文献にて表明している。

この他に、池上本門寺霊寶殿の毎年6月の展示で、かつて日蓮の歯骨を収蔵していた厨子の展示が行われる。これは「かつて」日蓮の歯骨を収蔵していた、というもので、現在は池上本門寺本殿の日蓮像の胎内に収蔵されている。

毎年6月の池上本門寺霊寶殿の展示の中に、江戸時代のもので「四大天王扉絵厨子」というのがある。これはもともと、日蓮御肉牙(歯骨)を格蔵していた厨子で、展示の説明書きには

「もと宗祖(日蓮)御肉牙(歯骨)奉安  今 御肉牙は本殿祖師像内に納骨」

とありました。

展示の厨子の頭部を見ると、宗宝調査会が発行した「宗宝」と書いた貼り紙が貼り付けてありました。この「宗宝」と書いた貼り紙を判読すると

 

「番号 第十六号 品名 御肉牙 ○○ 本門寺 調査日 大正十四年○月二十一日 」

 

とあり、さらに宗宝調査会の委員五人の押印がありました。

つまりこの貼り紙は、宗宝調査会という団体が、池上本門寺の御肉牙を調査して、宗宝として認定した認定証のようなもの。池上本門寺霊寶殿の中の展示は、写真撮影禁止なので、これを写真でお見せできないのは残念である。

霊宝殿1


続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■池上本門寺29(加藤清正が寄進した大堂・此経難事坂)

 

□間口25間、奥行き23間と極めて大規模な堂宇であった加藤清正が寄進した大堂

 

池上本門寺刊行の「古写真集~撮された戦前の本門寺」という題名の写真集によれば、正応元年(1288)造立の日蓮祖師像を祀っている大堂は、日蓮祖師像の他に二祖・日朗像、三祖・日輪像を祀っているという。日朗像、日輪像は一見して気づかない。

ここは、慶長年間(15961615)に、熊本城主・加藤清正が寄進し、宝永7(1710)に焼失した祖師堂が、間口25間、奥行き23間と極めて大規模な堂宇であったことから「大堂」と呼ばれたという。

さて加藤清正の大堂焼失後、享保8(1723)、第24世日等の代に徳川幕府8代将軍・吉宗の資助を得て、13間四方の規模で再建された。加藤清正の大堂が間口25間、奥行き23間だったわけだから、半分以下の面積である。

この祖師堂は、昭和20(1945)の東京大空襲で焼失。昭和39(1964)に再建された。

今の大堂は、間口18間、奥行き19間半だから、加藤清正の大堂よりも規模は小さくなっている。

今の身延山久遠寺本堂の大きさは、間口17間半、奥行き28間ある巨大堂宇で、今の池上本門寺大堂よりも、身延山久遠寺本堂のほうが大きいが、加藤清正の大堂と比較すると、加藤清正の大堂のほうが面積は大きい。

こう考えると、加藤清正の大堂が、いかに大規模な堂宇だったかということである。

大堂3

 

ではなぜ、加藤清正がこれほど大きな大堂を池上本門寺に寄進したのか、ということになるが、戦国~江戸時代はじめに活躍した武将・加藤清正は、熱心な法華の信者だったということである。

池上本門寺には大堂の他、此経難事坂の石段も加藤清正の寄進。

没後には「清正公(せいしょうこう)」の名前で呼ばれ、人々の信仰を集めている。

かつて池上本門寺・大堂の付近に、加藤清正の銅像(清正公銅像)があった。これは、清正公三百遠忌を記念して、博多の日蓮銅像の制作で知られる竹内久一が制作し、第70世藤原日迦の代の明治45(1912)年に序幕開眼式が行われた。

しかしこの銅像は、第二次世界大戦で軍部に供出されてしまって、現存していない。「古写真集~撮された戦前の本門寺」には、明治・大正・昭和初期に撮影された加藤清正の銅像(清正公銅像)の写真が載っている。

 

同じく加藤清正が池上本門寺に寄進したのが、「此経難事坂」の石段。この石段は96段あり、名前は法華経宝塔品の「此経難事」にはじまる96文字の偈文による。

上り・下りを仕切る柵は、明治38(1893)年に横浜の鋼鉄商人・中原庄三郎が寄進したもの。

此経難持坂2
 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■池上本門寺28(誤った日蓮本尊説)

 

□日蓮宗寺院祖師堂に祀られている日蓮祖師像は本尊として祀られているのではない

 

池上本門寺は、お会式に約30万人もの人が参詣するなど、東京都民にとっては、わりと身近な寺院であると言えます。しかしその一方で、まことに奥深さがある寺院でもあります。

池上本門寺の総門をくぐって此経難事坂とよばれる長い石段を登り、三門をくく゜ると、日蓮祖師像を祀る大堂につきあたります。

池上本門寺のお会式等、大きな法要はこの大堂で営まれることが多く、池上本門寺の参拝客も大堂に参拝し、賽銭箱にお賽銭を入れて帰る人が多い。

日蓮宗の大きな寺院に行くと、中心堂宇が二堂建てられていて、一堂には一塔両尊四士(ないしは釈迦如来像・釈迦・多宝如来像等)が祀られていて、もう一堂には日蓮祖師像が祀られている。

これは池上本門寺も同じになっている。

総門、三門からの参道の突き当たりに建っている大堂には、正応元年六月造立の日蓮祖師像が、板曼荼羅を背にして祀られている。

もう一堂は、大堂の奥にある「本殿」で、こちらには久遠実成の釈迦如来像をはじめとする両尊四士と日蓮像が祀られている。

では、日蓮宗寺院の場合、一塔両尊四士が祀られている堂宇と、日蓮祖師像が祀られている堂宇のどちらが本堂に該当するのか、ということになりますが、本堂に該当するのは、一塔両尊四士が祀られている堂宇のほうである。つまり本尊として祀っているのは両尊四士のほうで、日蓮祖師像は本尊として祀っているということではない。

御会式22大堂 


続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■池上本門寺27(池上本門寺の本殿・御影堂・本尊3)

 

□池上本門寺の本尊・堂宇・本堂に関する池上本門寺僧侶の見解

 

日蓮宗の本尊、本堂、堂宇の問題というのは、外から見ていると、実にわかりにくい話しである。そこで、かつて私は、池上本門寺僧侶に、この点について質問をしたことがある。以下は、私の質問に対する池上本門寺僧侶の回答です。

 

僧「池上本門寺としての御本尊、お寺の御本尊は、お祖師様(日蓮)のお像ではなく、法華経如来寿量品の久遠実成の釈迦如来であり、池上本門寺では本殿に一尊四士としてお祀りしています」

僧「大堂にお祖師様(日蓮)のお像をお祀りしているのは、お寺の御本尊としてお祀りしているのではなく、あくまでも日蓮宗一門の宗祖として、末法に法華経を弘通された開祖として崇めて、お祀りしているということです」

僧「たしかに大堂にお祖師様(日蓮)のお像をお祀りしていますから、御本尊としてお祀りしているように見えますが、そうではありません。お堂にお祖師様(日蓮)のお像をお祀りすることと、御本尊としてお祀りすることは別個のことなのです。

例えば、浄土真宗のお寺に行くと、御影堂には親鸞聖人のお像をお祀りしていますね。あれはお寺の御本尊として崇めているのではなく、浄土真宗の開祖として崇めているわけです。

あれと同じ事です」

僧「だから池上本門寺の堂宇の中で『本堂』に該当する堂宇は、大堂ではなく、大堂の奥にある本殿ということになります。戦前は釈迦堂と呼ばれていたのですが、戦後再建した時に本殿と改名されました」

僧「大曼荼羅のことを大曼荼羅本尊とおよびするのは、あくまでも日蓮宗僧侶・信者の日々の信行の本尊として崇めている、ということです。ですから御本尊には違いありませんが、池上本門寺のお寺としての中心本尊ということではありません」

僧「日蓮宗の寺院では、通常は釈迦如来像をお祀りする堂宇と、お祖師様(日蓮)の像をお祀りする堂宇の二堂建てるのが正しいとされています。お寺の御本尊は、あくまでも久遠実成の釈尊像であり、これは共通しています。

池上本門寺では、戦前までは釈尊を祀るお堂とお祖師様(日蓮)を祀る大堂が並んで建っていました。戦前までは釈尊を祀るお堂を『釈迦堂』とよんでいました。しかし東京大空襲で釈迦堂も大堂も焼失してしまいましたが、お祖師様のお像は救出されました。戦後は先に大堂が再建され、その後に、大堂の奥に釈迦堂が本殿として再建されています」

池上初詣4本殿
 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■池上本門寺26(池上本門寺の本殿2)

 

□日蓮宗寺院の堂宇の建て方と浄土真宗寺院の堂宇の建て方が実によく似ている

 

池上本門寺の本殿は、戦後、再興された堂宇で、戦前は、今の大堂の隣に釈迦堂が並んで建っていた。池上本門寺発刊の写真集「撮された戦前の本門寺」を見ると、大堂と釈迦堂が並んで建っている写真が掲載されている。

ちょうど今、霊宝殿が建っているあたりに釈迦堂が建てられていたと考えられる。

戦前の釈迦殿は、1710(宝永7)年の焼失後、1730(享保15)年に江戸幕府八代将軍・徳川吉宗の援助を得て再建。間口11間、奥行き10間で、扁額「釈迦殿」は、伏見宮親王の筆だった。

戦前の池上本門寺は、釈迦如来像と四菩薩像を祀る釈迦堂が、本堂に該当する堂宇だったのであり、この釈迦堂が1945(昭和20)年の東京大空襲で焼失したため、1969(昭和44)年に再建された堂宇が、今の本殿である。

池上初詣4本殿


だからあくまでも池上本門寺の大堂は、祖師像(日蓮像)を祀る堂宇で、日蓮宗寺院の祖師堂・御影堂に該当する堂宇である。

大堂3

 

日蓮宗寺院の場合、本山級の寺院に行くと日蓮祖師像を祀る祖師堂(御影堂)と釈迦如来像を祀る本堂(釈迦堂)が並んで建っている光景を目にする。実質的に中心堂宇が二つある、という言い方もできる。

面白いのは、こういう日蓮宗寺院の堂宇の建て方と浄土真宗寺院の堂宇の建て方が実によく似ているということ。

浄土真宗の本山級寺院に行くと、阿弥陀如来像を祀る阿弥陀堂と開祖・親鸞像を祀る御影堂の二堂が並んで建っている光景を目にする。浄土真宗は十派あるが、こういう堂宇の建て方は派を問わずに共通している。

浄土真宗でも御影堂で勤行や法要を行っているが、あくまでも寺院の本尊は阿弥陀如来像であり、本堂に該当する堂宇は阿弥陀堂。御影堂は、親鸞像を祀っているが、本尊として祀っているのではなく、あくまでも浄土真宗の開祖として祀っている。

では、日蓮宗は堂宇の建て方を浄土真宗の堂宇の建て方を模倣したのか、ということになるが、そこまでは言い切れないのではないか。

ただし、日蓮正宗大石寺で言う「唯授一人の血脈相承」なるものは、浄土真宗仏光寺派の「相承」を模倣したものである、という見解はかつて「アンチ日蓮正宗」に書いています。

□大石寺9世日有が浄土真宗仏光寺派から輸入した「唯授一人の血脈相承」

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/10720663.html

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/10721453.html

 

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■池上本門寺25(池上本門寺の本殿)

 

池上本門寺の「本堂」に該当する堂宇は、大堂ではなく、本殿である。

本殿は、戦後、再興された堂宇であり、戦前は「釈迦堂」という堂宇で、釈迦堂と大堂が二堂並んで建っていた。池上本門寺刊行の「古写真集~撮された戦前の本門寺」という題名の写真集にも、「釈迦堂(本堂)」として載っている。

すなわち、釈迦堂は池上本門寺の本尊である釈迦牟尼如来の仏像を祀っている堂宇だから、釈迦堂が本堂に該当することになる。

釈迦堂は、宝永7(1710)に火災焼失後、第25世日顗の代の享保15(1730)に徳川幕府8代将軍・吉宗の資助を得て再建された。堂宇の規模は間口11間、奥行き10間。

扁額「釈王殿」は、伏見宮親王の筆であったという。釈迦堂の前には、清正公銅像が建っていた。

この釈迦堂は、昭和20(1945)の東京大空襲で焼失。昭和44(1969)に、「本殿」として再建された。

「本殿」の意味は、池上本門寺の説明板によれば、「本師のおわします殿堂」という意味とのこと。

かつて釈迦堂があった場所には、平成15(2003)開館の霊寶殿と、移築された経蔵が建っている。

池上本門寺刊行の「古写真集~撮された戦前の本門寺」の写真によれば、戦前まで建っていた釈迦堂の内陣の宮殿には、久遠実成の釈迦牟尼如来像と四菩薩像が祀られていたという。

現在の本殿の内陣には、久遠実成の釈迦牟尼如来像と四菩薩像、そして日蓮祖師像が祀られている。

 

さて池上本門寺は、江戸時代から桜の名所だったようで、池上本門寺刊行の「古写真集~撮された戦前の本門寺」の写真によれば、大正812年ころの釈迦堂前や大堂前に、桜が咲き乱れている写真が載っている。

客殿、書院、玄関等を含めた本院は、池上本門寺の中枢で、鎌倉妙本寺と両山一首制だった貫首が、江戸時代のころから池上本門寺に常住するようになってから整備が行われてきた。

江戸時代の正徳年中(171116)に第23世日潤によって再建された本院は、明治34(1901)に焼失。その後、第68世久保田日亀、第70世藤原日迦貫首の代に再建が進められたが、昭和20(1945)の東京大空襲で焼失。

かつて本院があった場所に、釈迦堂が本殿として再建され、さらに昭和53(1978)には、本殿に隣接して、大客殿・本院寺務所が再建されている。

池上初詣4本殿
 

 

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■池上本門寺24(2011年・池上本門寺お会式紀行17)

 

池上本門寺総門前から、住宅街の路地裏をぬけて十中通りに出たのですが、この通りは、池上本門寺から池上駅方面へ帰る参詣者で、足の踏み場もないほど、ごったがえし状態。道路が人で超満員状態になり、その状態でゆっくりと池上駅方面に人の塊が移動しているような感じです。

こちらの通りにも、道路の両サイドには、テキ屋の露店が所狭しと立ち並んでいました。

御会式48的屋・本門寺通り


本門寺の参道は、池上駅前から本門寺方向への一方通行なら、十中通りは本門寺から池上駅方向への一方通行。この一方通行というのは、車ではありません。

車は通行止めになっていいて、人の一方通行です。

人の一方通行ですが、十中通りはものすごい人だかりで大混雑していて、とても露店で何かを買うどころではありません。

やっとの思いで池上駅前にたどり着いたものの、今度は駅前ロータリーが、池上商店街から本門寺参道へ向かう万灯練り供養の行列の通り道になっていて、池上駅前にいながら、駅までたどり着けない。

そこで再び、住宅街の路地裏をぬけて、池上商店街に出ました。ここはまさに万灯練り供養の通り道になっていて、行列が笛を吹き、鼓を叩きながら歩いていました。

御会式47万灯池上駅前


池上商店街から池上駅ロータリーは、万灯練り供養の行列と、見物客・参拝客で、深夜の襲い時刻まで、人でぎっしり。

御会式45万灯池上駅前商店街


御会式43万灯池上駅前商店街


御会式41万灯池上駅前商店街


御会式42万灯池上駅前商店街

大勢の警察官も出ていましたが、参拝客と万灯練り供養の交通整理だけで手が一杯という感じに見えました。

この池上本門寺お会式の万灯練り供養の行列は、深夜23時から24時ころまでつづいているとのこと。

御会式40万灯池上駅前


御会式37万灯池上駅前


続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■池上本門寺23(2011年・池上本門寺お会式紀行16)

 

お会式の万灯練り供養の行列は、どんどん間断なくつづいて、此経難事坂を登って三門をくぐり、大堂前に進んでいきます。

私も約2時間くらい、大堂~三門付近で写真を取っていましたが、さて此経難事坂の下へ降りようとしたところ、いつの間にやら池上通りの参道入り口~総門~此経難事坂~三門は、池上本門寺に行く方向のみの一方通行になっていました。

御会式56総門一方通行


やはり万灯練り供養がはじまったあたりから、参詣者の数が激増。参道は、池上本門寺に参詣に行く参詣客と、万灯練り供養を見物する見物客で、まさにごったがえし状態。

御会式61万灯仁王門前


御会式58万灯仁王門前


一方通行じゃあ、どうやって総門前に降りていけばいいのか、と警察官に聞くと

「五重塔の方向から下に降りていって下さい」

とのこと。そこで大堂前の参道から、墓地をぬけ、五重塔の脇を通って、大田区民会館の屋上に出て、そのまま会館のエレベーターに乗って1階へ。

それで朗子会館、日蓮宗宗務院前を通って総門前にやっとたどり着きました。

御会式55万灯参道
 


 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■池上本門寺22(2011年・池上本門寺お会式紀行15)

 

池上本門寺三門前で、万灯練り供養を見学していたら、次々と万灯の行列が此経難事坂を登ってきました。

御会式74万灯仁王門前

御会式73万灯仁王門前


桜の花や五重塔を形取ったものが多かったですが、中には日蓮像を形取った万灯もありました。

御会式66万灯仁王門前


そして万灯練り供養の行列に参加している人たちの年代が実に幅広いことです。

小学生のボーイスカウトから、20代、30代とおぼしき若い人たち。

それから中高年、老人の男女が大勢で鼓を叩いたり、笛を吹きながら行列に参加。

事前に練習をしていたのでしょうか。

御会式70万灯仁王門前

 

それと、この万灯練り供養の行列で、笛を吹く人、鼓を叩く人、万灯を持ち上げている人、ドラムを叩く人、…

この人たちの表情がとても生き生きしていることです。どの人も、万灯練り供養を楽しみながら参加しているように見えました。

ホントに楽しそうでした。

御会式62万灯仁王門前


見物客のほうも、そういう生き生きとした行列を見て、楽しんでいるように見えました。

御会式61万灯仁王門前
 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■池上本門寺21(2011年・池上本門寺お会式紀行14)

 

万灯練り供養に出てきた、各寺院・教会・結社で作られた万灯は、桜の木を形取ったものが多かったですね。

御会式75万灯仁王門前

御会式74万灯仁王門前


大半の練り行列は、鼓を叩いたり、笛を吹いたり。中にはドラムを叩いていた行列もありました。

御会式100万灯仁王門前

御会式103万灯仁王門前

基本的にこれらは在家信者の人たちが、鼓を叩いたりしていましたが、中には住職が鼓を叩いて参加していた行列もありました。

御会式109万灯仁王門前


御会式78万灯仁王門前


私が注目したのは、この万灯練り供養の行列の参加者は、実に年齢層が幅広いことです。

年代は、小さな子ども、小学生から20代、30代の若い人、中高年から60代、70代とおぼしき人たちまで。

ありとあらゆる年代の人たちが参加していることです。

御会式77万灯仁王門前


 御会式117万灯大堂前

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■東京201・大田区池上・「池上本門寺」20(2011年・池上本門寺お会式紀行13)

 

万灯練り供養の万灯は、池上本門寺の末寺の寺院・教会・結社毎につくって、行列を行っているようです。

御会式134万灯仁王門前

御会式127万灯仁王門前


御会式124万灯仁王門前


参加している人は、それこそ若い人から、年配の男女まで、実にさまざま。

御会式115万灯大堂前


御会式114万灯仁王門前



若い人の表情が生き生きしているのが、印象的です。


御会式119万灯仁王門前

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■池上本門寺19(2011年・池上本門寺お会式紀行12)

 

私は、池上本門寺大堂~三門前の参道脇で、万灯練り供養の行列を見守っていたのですが、ここは練り供養の行列を見ようという参拝客でいっぱい。

御会式146大堂前


それでも、人の輪をかき分けて、写真を撮っていました。

御会式144万灯大堂前


おそらく、万灯練り供養の行列がはじまってから、2時間以上は、大堂~三門前にいたと思います。

御会式138万灯仁王門前


見ていると、此経難事坂を登って三門~大堂前に、万灯練り供養の行列が次々と進んできました。それぞれ、鼓を叩きながら「南無妙法蓮華経」(なむみょうほうれんげきょう)と唱えて、歩いています。万灯は、どれも台車の上に乗っていて、此経難事坂の石段を登るときは、男性が数人で万灯を台車ごと持ち上げて、登っていました。

御会式126万灯仁王門前



万灯練り供養の行列は、さまざまです。

中年男性・女性から白髪の老人、妊娠した身重の女性、若い男女、小学生風の小さな子どもの行列もありました。

御会式133万灯仁王門前
 

 

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■池上本門寺18(2011年・池上本門寺お会式紀行11)

 

池上本門寺三門付近で、テキ屋の露店で買った焼き鳥やらフランクフルトを食べていると、参道のほうから「南無妙法蓮華経」(なむみょうほうれんげきょう)と唱えながら、鼓を叩く音が聞こえてきました。

時刻は午後650分くらい。

「あれ、もう万灯練り供養の行列がはじまったのかな」

と思い、参道のほうに歩いて行ってみると、三門からぞくぞくと「南無妙法蓮華経」(なむみょうほうれんげきょう)と唱えながら、鼓を叩くサラリーマン風の男性の行列が歩いている姿が見えました。

これが、万灯練り供養の行列のトップバッターのようです。

御会式145万灯大堂前

 

この男性たちは、けっこう見た感じ、若い人が多かったように思います。人数は、何十人はいたでしょう。かなりたくさんの人数でした。

しかも全員、スーツにネクタイ姿で、信者用の袈裟?を左肩からかけていました。

「南無妙法蓮華経」(なむみょうほうれんげきょう)と唱えながら、此経難事坂を上がってきて、三門をくぐり、大堂前へ。

中には、汗ぐっしょりになっている男性もいました。

 

「この人たちは、普段は丸の内や大手町のビジネスマンなのだろうか。本日は仕事を休んできたというわけか」

と思いました。有給休暇をとって、万灯練り供養に参加したと言うことなのでしょう。仕事を休まないと、この時刻に池上本門寺の万灯練り供養に間に合わないと思います。

まあ、行列参加のためとはいえ、大変なことです。

御会式146大堂前
 

 

 

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■池上本門寺17(2011年・池上本門寺お会式紀行10)

 

神社仏閣の大きなお祭りになると、たくさんの人が参詣にやって来て、テキ屋の露店が並ぶというのは、日本のお祭りの風物詩になっています。

まあ、日本全国各地の大きなお祭りになると、だいたいテキ屋の露店が並ぶのではないでしょうか。私の実家の近所の夏祭り、秋祭りでも、やはりテキ屋の露店が並んでいました。こういうのも、日本の祭りの一部であり、日本文化として定着しているものではないかと思います。

 

そのテキ屋の露店も、最近は少し様変わりしてきているように思います。

金魚すくい、トウモロコシ焼き、綿菓子の露店が影を潜めました。金魚すくいは、池上本門寺お会式に一軒ぐらいは、あったかもしれませんが。トウモロコシ焼きは、売れないんでしょうね。どうしても、焼きそばとか、フランクフルトとか、焼き鳥とか、お好み焼きとかに、目が行きます。

金魚すくいも、経費がかかるわりに、売り上げが上がらないのでしょう。

 

それともうひとつ。池上本門寺お会式に来ていたテキ屋の露店で、目立ったのが、トルコの○○という、実に聞き慣れない名前の料理を売っていた露店。褐色のトルコ人のテキ屋さんでした。

テキ屋も、このごろは国際的になってきているようです。

しかし、池上本門寺のお会式に参詣に来ている人で、トルコ料理を食べる人って、いるのだろうか。ちょっと、気になりました。

 

あともうひとつ、気になるのが、ヤクザとの関係。

テキ屋全員が、ヤクザと関係ある人ではないでしょうけども、東京でも暴力団排除条例が施行されました。これで排除されたテキ屋って、いるんだろうか。こちらも気になります。

 

さて万灯練り供養がはじまる前から、池上本門寺境内は、多くの参拝客で参道はごった返す状態になり、焼き矢の露店で買った焼きそば、フランクフルト、お好み焼き等を食べる人であふれかえっています。

三門の脇に、椅子とテーブルが用意されたテントがあり、ここでたんさんの人が座って、焼きそばやおでんを食べたり、ビールやワンカップ酒を呑んでいます。

テントの椅子に座りきれなかった人は、日蓮立像や五重塔の付近に座って、焼きそばやおでんを食べている人もたくさんいました。

万灯練り供養がはじまる前から、こんな状態になっていました。

御会式151的屋
 

 

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■池上本門寺16(2011年・池上本門寺お会式紀行9)

 

私は、夕方、再び大堂の中に入りましたが、午前中とはうってかわって、たくさんの参拝客が大堂の中に詰めかけていました。参詣者の数は、時刻が夜に近づくにつれて、徐々に増えてきているのが、わかりました。

さて本門寺通り、本門寺参道、本門寺境内、本門寺周辺道路、十中通りなどの道路脇には、テキ屋の露店が所狭しと並んでいます。参拝客が増えるにしたがって、テキ屋の露店もがぜん盛り上がってきました。テキ屋の露店で目立ったのは、フランクフルト、焼き鳥、バナナチョコ、焼きそば、ソフトクリーム、おもちゃのピストルゲーム、ウルトラマンや仮面ライダーのお面、広島焼き・大阪焼きのお好み焼き、おでん、ラーメン…等々です。

昔、テキ屋の露店でよく見かけた、金魚すくい、とうもろこし焼き、綿菓子等は影を潜めました。

相変わらず、食べ物やさんが多いのは変わりません。

テキ屋の露店が出している料理は、フランクフルト、焼き鳥、焼きそば、お好み焼きといったふうに「焼く」料理が得意なようです。得意なだけあって、テキ屋の「焼く」料理は、なかなかおいしい。

たとえば、フランクフルト。

私も、フランクフルトは何十年も前から、高速道路のサービスエリア、テーマパーク、コンビニ、各地のお祭りのテキ屋等々、いろんな所で食べましたが、テキ屋の露店が焼くフランクフルトが一番おいしいですし、一番安い。テキ屋の露店のフランクフルトは、ものすごく太くて、長さも長く、これが200円。コンビニだと、太いフランクフルトは1300円~350円くらいします。といっても、コンビニのフランクフルトは大半が細いもので、これは150円くらいで買えますが、太さと長さがぜんぜんちがいます。

それから、コンビニのフランクフルトは、こげてもいないのに、表皮がパスパスになっているものが多い。セブンイレブンのフランクフルトは、こういうのが多いですね。ローソンの場合は、逆に表皮が焦げてしまっていて、皮が固くなりすぎているものが多い。こういうのは、焼き方がとてもいい加減なんだと思われます。

ところがテキ屋の露店のフランクフルトは、焼き方がとてもうまい。少々焦げていても、表皮が固くなっておらず、パスパスにもなっていない。ちょうどいい具合に焼けているわけです。

焼き鳥は、おいしいのと同時に、焼き鳥の肉がとてつもなく大きい。コンビニや焼き鳥屋、居酒屋で出てくる焼き鳥より、倍以上、肉が大きいですね。こんな大きな肉を使った焼き鳥というのは、あまり見たことがないですね。

こうして「焼く」料理を出すテキ屋の露店があっちこっちにあり、それぞれの露店から、勢いよく煙が上がっている。

おいしいフランクフルトや焼き鳥が食べられるというのは、まことに結構なことですが、警備に出ていた東京消防庁の消防官が、心配そうな表情で、テキ屋の露店から上がる煙を見つめていたのが、とても印象的でした。

御会式152的屋
 

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■池上本門寺15(2011年・池上本門寺お会式紀行8)

 

私は、昼に池上本門寺大堂で行われた「宗祖御更衣法要」に出た後、一端休憩し、午後4時すぎに、再び池上本門寺へ。午後7時前後ぐらいから、池上本門寺・毎年恒例の行事である万灯練り供養がはじまります。この万灯練り供養の行列が行われている時間帯が、池上本門寺に参拝客・見物客が集中するピークになる。

すでに午後4時の段階で、池上本門寺を訪れる参拝客の数は、普段の日の参拝客の数よりも、明らかに多くなっていました。

本門寺通りは、歩行者天国になっていて、通りの両サイドには、すでにテキ屋の露店が所狭しと並んでいた。本門寺総門につながる参道は、総門にむかって左側にテキ屋の露店が並ぶ。

なぜ右側にはなく、左側に露店が並んでいるのか。

それは、参道はすでに真ん中で仕切られていて、右側は万灯練り供養の行列が通る通路。左側が、本門寺に参詣する人が通る通路として確保されているため、それに併せて、テキ屋の露店も、参詣者用の通路に露店を構えていた、というわけです。

本門寺参道も、本門寺通りも、午後4時すぎの段階で、たくさんの参拝客が通っていましたが、まだ万灯練り供養の行列がはじまっていないため、一方通行にはまだなっていません。

本門寺総門から此経難事坂を登って三門をくぐって大堂につきあたり、さらに大堂の西側をぬけて、本門寺寺務所前の公道にぬけるまで、すでに参拝者用の通路と、万灯練り供養の行列が通る通路に、赤いコーンなどで区切られています。

 

大堂に向かって西側には、警視庁の大きな警備車両が…。

さらに大堂裏手の駐車場には、警察車両の他に、大きな消防車、化学消防車が所狭しと停まっていました。さらに此経難事坂から大堂までの間には、たくさんの警察官やら消防官の姿が…。

警視庁池上警察署、東京消防庁挙げて、池上本門寺のお会式は厳重な警備が敷かれているもようです。これは、お会式にVIPが来るから、というような理由ではなく、お会式に約30万人という膨大な参詣者が集まるから、という理由からだと思います。

これだけ多くの参拝客が集中する地域行事で、何かの失火で火災が起こったら、それこそ大惨事になってしまうことでしょう。

現に、本門寺境内の中や大堂のすぐ近く、三門脇の参道にまで並んでいるテキ屋の露店が、焼き鳥や焼きそば、フランクフルト、お好み焼き等々を焼くために火を使っています。だからといって、テキ屋の露店に火を使うな、とも言えないでしょうし、テキ屋の露店とて、池上本門寺のお会式の一部になっています。

そういうわけで、警察、消防も総動員体制で警備に当たっているようです。が、雰囲気は、かなりものものしい雰囲気に見えます。

御会式147大堂前警察
 

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■池上本門寺14(2011年・池上本門寺お会式紀行7)

 

池上本門寺御会式の中日・1012日の行事のメインは、何と言っても万灯練り供養の行列である。これは、東京の地域行事の中でも、指折りの大規模行事で、地域の盛大なお祭りとして、すっかり定着している。この御会式が行われている1011日から13日の3日間で、何と約30万人もの人が、池上本門寺に参拝に訪れると言いますから、いかにその規模が巨大かということです。おそらく1012日の夕方から深夜にかけての万灯練り供養が行われる時間帯に、30万人の参詣のうちの三分の二以上が集中しているのではないかと思われる。

これだけ大規模なお祭りですから、東急池上線は、お会式の万灯練り供養に併せて、臨時電車が何本も運行される特別ダイヤで運行されます。

万灯練り供養がはじまると、池上駅から池上本門寺周辺は、全面車両通行止めの歩行者天国になります。池上通り、池上商店街、本門寺通り、十中通り等、全て歩行者天国。池上駅から池上本門寺周辺、境内の中まで、池上警察署の警察官が多数繰り出して、交通整理に当たっています。交通整理とは言っても、車は通行止めであるわけですから、実質的な参拝客の交通整理です。

万灯練り供養の行列がはじまると、池上本門寺への参拝客、万灯練り供養の見物客などで、池上駅から池上本門寺周辺は、身動きが取れなくなるほどの大勢の人が集まり、それこそ前になかなか歩けなくなるほどです。

そういうわけで、池上駅前から池上本門寺への交通は、一方通行になる。

行きは、本門寺通り・本門寺参道から総門をくぐり、此経難事坂を登り、三門をくぐり大堂へ。

帰りは、五重塔から池上会館を通って日蓮宗宗務院前を通って総門へ。

総門から池上駅に帰るには、呑川沿いを歩いて十中通りへ出て、そこから池上駅前に出るというルートになります。

 

これは私が見た感じですが、30万人もの人が訪れる大規模な地域行事であるわりには、大した混乱もなく、整然と交通整理が行われ、大勢の見物客が見守る中を万灯練り供養が行われているように見えました。しかも場所は東京都大田区という住宅・商店街が密集している地区である。

これだけ大規模な地域行事が、丸一日、しかも深夜の時間帯まで、住宅や商店が密集している東京都心の池上本門寺で行われているというのは、特筆すべき事だと思う。

しかもこの万灯練り供養が行われている間、誰一人「うるさい」と文句を言う人がいない。そんな人が居たとは聞いたことがない。つまり池上本門寺御会式が地域行事として完全に定着しているわけである。

もっとも池上本門寺お会式も万灯練り供養も、毎年行われている行事であり、地元の人たちも、警察官も、慣れているのかもしれませんが。

御会式78万灯仁王門前
 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■池上本門寺13(2011年・池上本門寺お会式紀行6)

 

さて、池上本門寺の法要でも、読経が終わると、次は唱題がはじまる。つまり「南無妙法蓮華経」(なむみょうほうれんげきょう)を反復的に繰り返し唱えるわけですが、内陣の左右両サイドに、大きな太鼓があり、若い僧侶が、それぞれ、唱題の声にあわせて、太鼓を叩いていた。

日蓮宗では、行道僧や万灯行列で、鼓を叩きながら唱題して歩くのは有名ですが、寺院の法要では、大きな太鼓がしつらえてあって、僧侶が太鼓を叩いていました。これは、日蓮宗の寺院における他の法要でも同じですねえ。もちろん太鼓を叩くのは、唱題の声をそろえるためなのでしょう。

ところで、南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)と唱える日蓮正宗の寺院の法要や勤行でも、唱題するときは、僧侶が太鼓を叩きます。住職しかいない寺院では、住職夫人や有力信者が太鼓を叩いていたのを見たこともある。太鼓を叩くのは、日蓮宗も日蓮正宗も共通している。

ただし太鼓を叩くのは共通していますが、太鼓を叩くフシ(音調)がちがっています。それでは「どうちがうのか説明せよ」と言われても、このちがいを文章で書くのは、むずかしい。

 

読経のとき、日蓮宗では僧侶が木魚を叩いて読経の声をそろえますが、日蓮正宗では、木魚という仏具を全く使いません。「では日蓮正宗では、どうやって読経の声をそろえるのか」というと、副導師がマイクを使って、僧侶・信者の読経をリードする、というやり方をする。

日蓮正宗の法要の読経では、導師のみが声を出す箇所がありますが、その時のためか、導師席にマイクがしつらえてあります。これは大石寺も末寺も同じ。

よって導師席にマイクがあり、さらに副導師席にも、信者の読経をリードするためのマイクがしつらえてあります。これは大石寺の正本堂、奉安殿、奉安堂、客殿、御影堂、広布坊などの諸堂宇、塔中から末寺に至るまで全て同じです。

 

池上本門寺の法要で、マイクを使うのは、注意事項や法要の説明をする、マイクの司会者のみで、それ以外は、全くマイクを使いません。池上本門寺大堂の大導師席や副導師席にも、マイクは備えつけられていません。

こういうふうに、仏教各宗派や各寺院の法要に出てみると、日蓮正宗寺院の法要や勤行の読経で、木魚を叩かない、というのは、まことに不思議に思えます。昔、マイクやスピーカーがなかった時代、読経の声を唱和させるのに、どうしていたのかということになるわけです。

昔は、勤行にしても法要にしても、ほんの少人数の僧侶のみが読経していただけだったから、木魚は必要なかった、ということだろうか。

 

今の大石寺は日興門流。池上本門寺は日朗門流。今の日蓮宗には、日昭門流、日朗門流、日向門流、中山門流の他、日興門流の一部、日什門流の一部等々が混在している。

日興門流と他門流が別れてから七百年以上が経過しているわけだが、それだけの長い年月が経過する中で、化儀・化法というものは、ずいぶんと相違がでてしまうものだと感じた。

大堂3
 

 

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■池上本門寺12(2011年・池上本門寺お会式紀行5)

 

池上本門寺御会式・「宗祖御更衣法要」の読経は、実に長い。正確な時間は計っていませんでしたが、延々と約1時間以上はつづいていたように思った。

さて寿量品の読経がはじまると、両サイドの外陣に座っていたご信者が、僧侶に案内されて、内陣にしずしずと歩き、ご焼香。信者の人達の焼香は、寿量品の読経から、さらにそれにつづく品の読経。さらに唱題に入ってからも延々とつづき、唱題が終わってからも、まだ焼香がつづいていました。それだけ、焼香する信者の人達の人数が多かったということでしょうか。

寿量品の読経がはじまってから信者が焼香する、というのは、日蓮宗の他の法要でも同じです。

日蓮正宗の法要や勤行でも、寿量品の読経がはじまると、焼香がはじまる。こういう化儀は、日蓮宗も日蓮正宗も共通しているようです。

というか、法要の読経・護摩の最中に焼香をするという化儀は、日蓮宗、日蓮正宗にとどまらず、

真言宗、曹洞宗、浄土宗、浄土真宗などの仏教各宗派の法要でよく見られる光景である。

 

さて大堂須弥壇中央に祀られている「日蓮聖人御尊像」(祖師像)の更衣なのですが、読経がはじまって、あるところで須弥壇の扉が閉められ、それから延々と閉扉されたままの状態で読経。

読経が終わって唱題がはじまったころに、ようやく須弥壇の扉が開けられ、日蓮祖師像が冬服の僧衣に更衣していた、という感じ。つまり、須弥壇の扉を閉めた中で、僧侶が更衣の作業を行っていたようです。

 

それと、日蓮宗の法要を見ていて面白いのは、マイクの司会者がいること。私も、日蓮宗の全ての法要に立ち会ったわけではありませんが、マイクの司会者がいる法要は何度もあった。

池上本門寺・お会式の各法要にも、マイクの司会者が居て、僧侶入場前にだいたいの法要の流れの説明や、携帯電話の電源を切るように等々の、注意事項の説明をする。

さらに僧侶の入場が完了したあとも、マイクの司会者が

「大導師は当山82世・酒井日慈山主、副導師は○○…」

という、説明がありました。

日蓮宗の法要の場合、内輪の僧侶、信者のみならず、大勢の一般世間の参拝客も訪れるから、こういうふうにしているんでしょうか。内輪の僧侶・信者だけだったら、大導師はだれそれ等々の説明は不要のはず。信者だったら、池上本門寺貫首の顔は百も承知でしょうから。

しかし一般世間の参拝客は、池上本門寺貫首の顔は知らない人が大半でしょう。

かく言う私も、池上本門寺の法要に出て、はじめて酒井日慈貫首の顔を知ったくらいで

「ああ、この人が池上本門寺の貫首猊下か」

と、わかったくらいです。

一般世間の側から見れば、「本日の大導師は○○、副導師は△△」という説明があったほうが、わかりやすくていいですけどね。

御会式21大堂
 

 

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■池上本門寺11(2011年・池上本門寺お会式紀行4)

 

池上本門寺・お会式二日目の「宗祖御更衣法要」は、内陣は多数の僧侶が座って、ほぼ満席状態。内陣の両サイドにある外陣には、壇信徒席が設けられ、ほぼいっぱいの信者が座っていた。この法要でも、私が見聞した限りでは、実際に読経をしていたのは、内陣に座っていた僧侶のみ。外陣に座っていた信者は、読経している様子はなく、ただ合掌して座っているのみ。

仏教寺院の勤行や法要なんて、こんなものじゃないかと思います。浄土真宗本山の法要で満堂の参詣信者が、正信偈を読む声に唱和していたのを見たことがあったが、浄土真宗でよく読んでいる正信偈は、お経とよく似ているが、正確に言うと、仏典ではない。正信偈とは「正信念仏偈」といい、親鸞の著書『教行信証』の「行巻」の末尾に所収の偈文のこと。これは読経とよく似ているのだが、読経とはやや違う。

さて日蓮宗寺院の法要に出ると、熱心な信者さんが、経本を見ながら読経している姿をごくたまに見かけますが、そういう人は、法要の中に居ても1人か2人くらい。

こういう話しを書くと、日蓮正宗や創価学会の信者は、目くじらを立てて「それではダメだ。実際に読経が出来なければ、ダメなのだ」などと言い出しそうですが、私は、全くそんなことはないと思う。

つまり、「在家は無理して読経ができるようにならなくてもOK」という考え方なのである。

前にも書きましたが、池上本門寺のお会式は、それこそ数百年前から今日に至るまで、地域の文化として、地域行事として、完全に根を下ろして定着しているものです。もちろんこれは、「在家・信者は読経せず合掌しているだけ」という形で定着している。これで充分ではないでしょうか。

これが、日蓮正宗や創価学会のように、「在家も読経ができなければダメだ」式に、在家に読経を強制していたら、池上本門寺のお会式は、こんな数百年の間、地域文化として定着しなかったのではないか。

 

それでは、日蓮正宗や創価学会の信者が、毎日欠かさず朝夕の勤行を行っているのかというと、決してそうではない。実際、信者自身が、勤行をよく休んでいることを認めている。こういうのを、定着しているとは言わない。私は、「在家の読経は、文化として根付かない」という説に立っている。

実際は勤行をよく休んでいるのに、さも毎日欠かさず勤行をしているかのように偽るよりも、読経しないという、ありのままの姿で、大衆文化として定着している方が、よほど人間らしいと思う。

誤解のないように附言すると、私は「在家は読経するな」と言っているのではない。それは、在家の方で、読経がおできになる方は、それは素晴らしいと思いますし、そういう方は、読経をおやりになられるのは、結構なことだと思います。

でも、仏教寺院の法要で見聞する限り、そういう方は、非常に少ないです、今でも。

御会式2立て札


続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote