仏教宗学研究会のブログ

「仏教宗学研究会」とは会の名称。「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「仏教宗学研究会のブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

「仏教宗学研究会」とは「アンチ日蓮正宗」管理人が設立した会の名称。この会の中で、「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄。
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法華宗本門流(大)京都本能寺

京都本能寺(8)~大石寺の「種脱勝劣」は日陣門流・日隆門流教学のパクリである3

■京都本能寺8(大石寺の種脱勝劣は日陣・日隆門流のパクリ3)

 

□大石寺9世日有の本迹勝劣・種脱勝劣は京都・日隆門流教学のパクリ・アレンジである

 

大石寺教学の本迹勝劣・種脱勝劣が法華宗勝劣派の日陣門流のパクリなのか。あるいは日隆門流のパクリなのか、ということを検証していく上で、ポイントとなるのは、交流の問題がある。

大石寺ないしは大石寺9世日有と京都本能寺・日隆には、室町時代に明確な接点があった。

大石寺側の史料である「日有師・物語聴聞抄佳跡上」(日有御物語抄)には、次のようにある。

一、第廿九段本書曰尼崎の慶林坊の師匠広覚坊日学、冨士大石寺の門徒、讃州高瀬大弍阿闍梨日寿と土州幡多、庄山田郷在岡の法華堂真静寺と吉奈の富士門徒との問答は神力品の五重玄義は約教の五重玄か、約行の五重玄かと問ふ、日学は約行の五重玄と云ふ、日寿は約教の五重玄と云へり此問答なり已上。 (富士宗学要集1p233)

 

尼崎の慶林坊」とは、日隆門流・京都本能寺の開祖・日隆のこと。詳しい現代語訳は省略させて頂くが、大石寺門流と日隆門流で問答をした、というような内容である。

大石寺9世日有は、1432(永享4)に、京都天奏のために上洛している。

日陣と日隆の事跡を照らし合わせてみると

1396(応永3)年、日陣が「選要略記」を著して歴史上はじめて「本迹勝劣」を説いた

1405(応永12)年 日隆が京都妙本寺を退出し比叡山、高野山に遊学。

1406(応永13)年 日陣が京都・四条堀川に本禅寺を創建 本迹論争が起きる

1410(応永17)年 日隆が日存、日道と越後本成寺に日陣を訪ねる。

1415(応永22)年 日隆が京都本応寺を創建

1418(応永25)年 京都本応寺が妙本寺宗徒により破脚される。

1426(応永33)年 日隆が童型の自像を彫刻せしむる

1429(永享元)年 日隆が『四帖抄』を著す。本応寺を再建。第二次建立。立宗を宣言。妙蓮寺と断絶。

1431(永享3)年 日隆が日蓮百五十回遠忌を本応寺にて奉修。

(『本能寺』p16)

 

日隆は大石寺9世日有が京都に上洛した1432(永享4)の時点において、すでに日隆門流の教学の大綱を確立していた。したがって、大石寺9世日有が偽作した「百六箇抄」にある本迹勝劣・種脱勝劣は、日隆門流教学の大きな影響があったことは明らかである。「百六箇抄」にある本迹勝劣・種脱勝劣は、日隆門流教学の本迹勝劣・種脱一双・八品正意のパクリであり、アレンジと見るのが妥当であろう。

 本能寺31三門

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京都本能寺(7)~大石寺の「種脱勝劣」は日陣門流・日隆門流教学のパクリである2

■京都本能寺7(大石寺の種脱勝劣は日陣・日隆門流のパクリ2)

 

□非常によく似ている大石寺の本迹勝劣・種脱勝劣と法華宗勝劣派・日陣・日隆門流教学

 

日蓮を宗祖とする宗派の中でも、大石寺(日蓮正宗)を含む富士門流(日興門流)、顕本法華宗(妙満寺派)、日陣門流(法華宗陣門流)、日隆門流(法華宗本門流・本門法華宗)、日真門流(法華宗真門流)を、法華経二十八品を前半十四品を迹門、後半十四品を本門に二分し、本門が迹門に優れるという勝劣をたてる勝劣派という。

勝劣派の中でも、日蓮本仏義を立てるのは、大石寺(日蓮正宗)や創価学会、顕正会、正信会などの日蓮正宗系と一部の富士門流だけだが、日蓮を本仏と立てるか、釈迦如来を本仏と立てるか、という相違点を除けば、この勝劣派の教義は、実によく似ている。

□法華宗陣門流(総本山・新潟本成寺・別院・京都本禅寺・鷲津本興寺等)

<開祖>日陣(13391419)

<本迹法体勝劣>

日陣は応永3(1396)、「選要略記」を著して「本迹勝劣」を説いた。その後、日陣は京都に上洛して本迹勝劣を主張し、以後、8年間にわたって本迹論争が起こった。京都本圀寺系末寺700余ヶ寺のうち、半分近い寺院が日陣に随ったとされる。

<寿量一品正意>

本迹二門を開会する能説の教えは本門寿量品に限るとする寿量品正意論を唱えた。

□日隆門流(法華宗本門流・本門法華宗)

<開祖>日隆(13851464)

<本迹勝劣>

法華経二十八品を前半十四品を迹門、後半十四品を本門に二分し、本門が迹門に優れるという勝劣をたてる。

<八品正意論>

『観心本尊抄』の「本門の肝心、南無妙法蓮華経の五字に於ては仏猶文殊薬王等にも之を付嘱したまわず…但地涌千界を召して八品を説いて之を付嘱したまふ。其の本尊の為体、…是くの如き本尊は在世五十余年に之れ無し、八年の間但八品に限る」

の「但八品に限る」の文を根拠に、『法華経』二十八品のうち「従地涌出品第十五」から「嘱累品第二十二」までの本門八品に顕れた神力付嘱・上行所伝の妙法のみが、久遠実成の本仏の正意であり、日蓮の正意である」という八品正意論を唱える。

<種脱一双論>

『観心本尊抄』の「在世の本門と末法の初めは一同に純円なり。但(ただ)し彼は脱、此(これ)は種(しゅ)なり。彼は一品二半、此は但題目の五字なり」

との文を、「在世と末法、種と脱の異りはありとも、其の体(たい)はこれ同じ」として、種脱の法体に勝劣はないとする「種脱一双論」を唱える。

本能寺31三門 

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京都本能寺(6)~大石寺の「種脱勝劣」は日陣門流・日隆門流教学のパクリである

■京都本能寺6(大石寺の種脱勝劣は日陣・日隆門流のパクリ)

 

□非常によく似ている大石寺の「種脱勝劣」と日陣「寿量一品正意」・日隆「八品正意」教学

 

大石寺の「本迹勝劣」が日陣門流・日隆門流の「本迹勝劣」のパクリであれば、それでは大石寺の「種脱勝劣」はどうなのか、という問題が起きる。実はこれも日陣門流・日隆門流のパクリである。

種脱勝劣は、直接、日蓮本仏義に結びつく教義であるが、京都本能寺・日隆門流は、日蓮本仏義は説いておらず、本門八品正意論の宗旨である。そのどこに「種脱勝劣」に似た教学があるのか。

「本果妙を称嘆するは脱益の機に対する顕本なり…さて本果所成の妙は本仏の脱益なり。末法当時名字即の凡夫口唱の妙法下種の手本に非ずと簡で本果妙覚の脱を廃して…本因名字即を顕本するなり。是末法当時下種の手本の顕本なり。…脱の機のためには本果を顕し下種の機のためには、本因妙を顕すと口伝すべきなり」

(日隆「私新抄」日蓮宗宗学全書8p85)

「久遠本因妙の釈尊の位と末法蓮師の位と一体なり。…所行の妙法又一致なるべし。此の時は釈尊も名字の凡人、日蓮聖人も名字の凡人にして全同なり。蓮師即釈尊、釈尊即蓮師なるべし」

(日隆「私新抄」日蓮宗宗学全書8p85)

「本果妙釈尊といふ方は在世正説の辺、本因妙地涌と言ふ方は十界久遠下種の辺なり。是流通の意なり。所詮釈尊上行同体にして一切衆生最初下種の時は本因上行と顕れ、得脱の時は本果釈尊と顕りるなり」(日隆「五帖抄」日蓮宗学説史p183)

 

一見すると、京都本能寺の開祖・日隆は、大石寺教学とまがうかのような教学を展開している。

わかりやすくするために、大石寺教学の日蓮本仏義を説き明かす代表的な偽作文書「百六箇抄」から、類文を拾ってみた。

「名字本因妙は本種なれば本門なり。本果妙は余行に渡る故に本の上の迹なり。久遠釈尊の口唱を今日蓮直に唱ふるなり。」

「久遠名字の正法は本種子なり。名字童形の位釈迦は迹なり。我本行菩薩道是なり、日蓮が修行は久遠を移せり」

「本果妙は釈迦仏、本因妙は上行菩薩、久遠の妙法は果、今日の寿量品は花なるが故に、従果向因の本迹と云ふなり」

「直達の法華は本門、唱ふる釈迦は迹なり。今日蓮が修行は久遠名字の振舞に芥爾計も違はざるなり」

「本因妙を本とし、今日寿量の脱益を迹とするなり。久遠の釈尊の修行と今日蓮の修行とは芥子計も違はざる勝劣なり」

(「百六箇抄」富士宗学要集1p1519)

 

一見して、両者の類似は明らかであろうと思われる。

本能寺27本堂

 

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京都本能寺(5)~大石寺の「本迹勝劣」は日陣門流・日隆門流の「本迹勝劣」のパクリである

■京都本能寺5(大石寺の本迹勝劣は日隆門流のパクリ)

 

□本迹勝劣・種脱勝劣の「百六箇抄」成立は日陣・日隆の本迹勝劣義よりも後のことである

 

かつて日蓮正宗の日蓮本仏義が中古天台宗の恵心流本覚思想・口伝法門のパクリであるという説に疑義を唱え、これをベースにした日蓮本尊義は誤りであるとする説を唱えた。以前にも論究したが、日蓮本仏義とは、大石寺9世日有の日有化儀抄だけで成り立っているのではなく、「百六箇抄」「本因妙抄」「産湯相承事」「御義口伝」と、一体化・ワンセットになって成立している、という重要なポイントがある。

つまり「日蓮本仏義」を偽作した者と「百六箇抄」「本因妙抄」「産湯相承事」「御義口伝」を偽作した者は、同一人。大石寺9世日有である。「日蓮本仏義」「百六箇抄」「本因妙抄」「産湯相承事」「御義口伝」偽作の詳しい検証は「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」で行うとして、ここでは、ここまでとしておきます。それでは、日蓮正宗の日蓮本仏義は、何をベースにして偽作されたのか。

そのひとつが、法華宗陣門流の本迹勝劣・寿量一品正意であり、京都本能寺・日隆門流の「法華経八品正意論」。

日蓮本仏義は、五重相対すなわち内外勝劣、大小勝劣、権実勝劣、本迹勝劣、種脱勝劣が基本教学になっているが、本迹勝劣は、まさに日陣門流・日隆門流の本迹勝劣のパクリであり、種脱相対は、日陣門流の「寿量一品正意」、日隆門流の「法華経八品正意論」のパクリから、アレンジしたものである。日陣門流の本迹法体勝劣・寿量一品正意、日隆門流の本迹勝劣、法華経八品正意論と大石寺の「日蓮本仏義」の関連性について。

では大石寺の「本迹勝劣」がなぜ日陣門流・日隆門流の「本迹勝劣」のパクリだと言えるのか。

歴史上はじめて本迹勝劣を説いたのは、法華宗陣門流の開祖・日陣が応永3(1396)、「選要略記」を著して「本迹勝劣」を説いたのが最初とされる。

京都本能寺の開祖・日隆は遅くとも1415(応永22)年・本応寺創建のころには、すでに本迹勝劣を説き明かしていた。法華宗本門流大本山京都本能寺発行の正式文献「本能寺」によれば

「本能寺の創建は、応永22(1415)、日隆聖人が当時、修行していた妙本寺(のちの妙顕寺)の綱紀が乱れがちなのを嘆き、伯父にあたる日存、日道両上人とともにその粛正を願い出ていれられず、相携えて同寺を去り、油小路高辻と五条坊門の間(現・醒泉小学校付近)に寺塔を建立、本応寺(のちの本能寺)と称したのを起源としている。このころ日隆聖人は、『法華経』二十八品の教えには迹門(前半十四品)と本門(後半十四品)に勝劣の別があること、つまり本門が勝れ、迹門が劣っていること(本迹勝劣)を解明したが、これに異を唱え、敵意すらいだくようになった妙本寺(京都妙顕寺)の教徒は、日隆聖人の身辺をしばしば窺い、ついに妙本寺五代の月明は六人の刺客をさしむけて聖人を亡きものにしようとたくらんだ」(『本能寺』p19)

とある。

本能寺31三門 

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京都本能寺(4)~京都本能寺が約450年で五度の災禍を受けたのは、はたして本当に多いのか

■京都本能寺4(京都本能寺の約450年で五度の災禍)

 

□京都本能寺が約450年で五度の災禍を受けたのは、はたして本当に多いのか

 

本能寺の「能」の字は右側の2つの「ヒ」が「去」のような字に替えられている。これは本能寺が度重なって焼き討ちに遭い、だいたい70年に一度の割合で火災になっているため、1928(昭和3)年の第七次建立のさいに、貫首が本能寺の「能」の字にヒヒとついていることから、今度こそ火災にあうことがないようにと、現在の「去」に変えたのだという。

本能寺は創建以来、地を転ずること4度、その間、他宗派によって伽藍を破脚・焼き討ちされること二度(京都妙顕寺宗徒による焼き討ちと比叡山延暦寺宗徒の焼き討ち・天文法華の乱)

戦災による類焼が二度(本能寺の変と蛤御門の変)。京都大火による類焼が一度(天明の大火)

五度も災禍を蒙っている。が、よくよく考えてみると、約450年間で、五度の災禍を受けたことは、果たして多いのか、という疑問もわく。

たとえば、天台宗総本山・比叡山延暦寺と天台寺門宗総本山・園城寺が、古くから抗争以上の戦争を繰り広げてきたことは、あまりにも有名。この延暦寺vs園城寺の戦争が、日蓮の遺文に出てくる。それは「報恩抄」と呼ばれている日蓮の遺文で、それには次のように書かれている。

「智証の門家園城寺と慈覚の門家叡山と、修羅と悪竜と合戦ひまなし。園城寺をやき叡山をやく。智証大師の本尊慈氏菩薩もやけぬ。慈覚大師の本尊、大講堂もやけぬ。現身に無間地獄を感ぜり。但中堂計りのこれり」(御書全集10171018)

 

□平安時代から中世末期までに比叡山延暦寺宗徒から50回以上も焼き討ちされた園城寺

 

園城寺という寺院は、天台寺門宗総本山で、866年に比叡山延暦寺の天台宗5世座主・円珍がここを伝法灌頂の道場とし、諸堂を整備して寺域を拡大。そして多くの高僧を輩出して、東大寺・興福寺・延暦寺とともに四箇大寺に数えられた。円珍の没後、天台宗は円珍門流(寺門派)と慈覚大師円仁門流(山門派)の対立が激化。993年に円珍門流1000人余りはついに延暦寺を下山して、園城寺に一大勢力を形成した。

比叡山延暦寺の戒壇建立後、延暦寺、園城寺の諍論により、園城寺の宗徒は比叡山延暦寺の戒壇で受戒できなくなる。そこで永保元年(1081)に白河院の綸旨により園城寺に建壇されたのが三麻耶戒壇である。

しかし天台宗の山門・寺門の2派に分裂して抗争により、延暦寺は園城寺の建壇を認めず、1081(永保1)年には山門(延暦寺)宗徒が園城寺に乱入し、伽藍・堂宇のほとんどを焼き払ってしまう。以後、比叡山延暦寺宗徒の園城寺焼き討ちは中世末期までに大規模なものだけで10回、小規模なものまで含めると50回にも上るという。いわば比叡山延暦寺は、既得の特権を死守しようとしたわけで、園城寺の三麻耶戒壇の建壇に猛反対したのである。

本能寺41 

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