一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ

「一般社団法人 仏教宗学研究会」とは任意団体として2005年から活動している会の名称。2018年5月に一般社団法人登記。当ブログ名を「仏教宗学研究会のブログ」から「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」に改名。 「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

Category: 奈良・法隆寺

■奈良法隆寺8(未公開の寺宝)

 

□塔頭の塀に落書きを消した痕跡があった世界遺産の寺院・法隆寺

 

私が、法隆寺の案内役員にいろいろ質問して得た回答の中に

「法隆寺は創建以来、1300年以上有るため、現在公開されている寺宝・重宝の他にも、倉庫・宝蔵の中には、まだ未公開の寺宝・重宝・古文書が眠ったままになって保管されている」

というものがある。

どこに格蔵・保管されているかというと、法隆寺の中の「大宝蔵院」「工芸収蔵庫」「収蔵庫」「北倉」「中倉」「南倉」という堂宇に保管されているというわけである。

この中でも、「大宝蔵院」は、中で見学できるようになっていて、国宝中の国宝と言われる百済観音立像や飛鳥時代の工芸の枠を集めた玉虫厨子などが、間近で見学できるようになっている。

 

百済観音(くだらかんのん)とは、法隆寺が所蔵する飛鳥時代作の木造の観音菩薩像。日本の国宝に指定され、指定名称は「木造観音菩薩立像(百済観音)1躯」。

日本における木造仏像彫刻の古例として貴重であるとともに、大正時代以降、和辻哲郎の『古寺巡礼』、亀井勝一郎の『大和古寺風物誌』などの書物で紹介され著名になった。

 

ただし、この百済観音は、法隆寺の古い記録にはこの像に当たるものが見えないことや、作風の違いから、造像当初から法隆寺にあったものではなく、後世、他の寺院から移されたものと思われる。いつ、どこの寺院から、いかなる事情により移されたかについては諸説あるが、正確なことは不明。

この百済観音は、現在は法隆寺大宝蔵院の百済観音堂に安置されているが、明治時代初期には金堂の北面に安置され、明治時代後期~昭和時代初期には奈良帝室博物館(現奈良国立博物館)に寄託されていた。

もっとも百済観音が、元から法隆寺にあったなら、これが金堂の中心本尊になっていただろうが、そうなっていないことからして、後世、他の寺院から移されたものとする説は説得力があります。

法隆寺の実質的な中心本尊は、夢殿の救世観音立像。

法隆寺は、聖徳太子が創建した寺であり、救世観音=聖徳太子として夢殿の救世観音立像が造立されたとなれば、当然、そうなるのでしょう。

法隆寺17東大門
 

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■奈良法隆寺7(法隆寺案内役員)

 

「仏教宗学研究会」の取材で、法隆寺を訪れた時も、聖徳宗宗務院のみならず、案内役員の方からも、さまざまな話を聞くことができた。案内役員の方は、法隆寺の半被を着た初老の男性だったが、この人もなかなかの勉学家のようで、知識豊富な方であった。

どこでもそうだが、仏教寺院という所は、おしなべて敷居の高いところが多く、僧侶に質問しても、なかなか答えてくれなかったり、実に不親切な答えしか返ってこなかったりしがちだが、この案内役員の初老の男性は、私の質問に対しても、実に親切に答えてくれた。

 

□法隆寺は創建以来、1300年以上有るため、現在公開されている寺宝・重宝の他にも、倉庫・宝蔵の中には、まだ未公開の寺宝・重宝・古文書が眠ったままになって保管されている。

そうでなければ、これだけの寺宝・重宝を今日まで伝承することは不可能だっただろう。

 

□法隆寺もその昔は、南都六宗・天台・真言の「八宗兼学」の寺院の一つであり、今でいう「大学」の機能を兼ね備えていた。そういうことから全国各地の僧侶が法隆寺に修学に来ていた。

 

□明治時代、フェノロサと岡倉天心が開扉させた救世観音立像は、数百年の間、絶対秘仏であったため、当時の法隆寺の僧侶すらも見たことがなかった立像だった。

 

□聖徳太子の等身大の立像は夢殿本尊の「救世観音像」のみ。

 

やはりここでの最大の関心事は、聖徳太子の等身大に造立されたという救世観音像である。

救世観音1


そもそも「等身大の仏像」そのものが、仏教界では実に珍しい存在なのである。

仏典には、釈迦牟尼の身長は、一般人の数倍あると書かれているため、日本では、平安時代の頃まで、16(4.8m)を釈迦如来立像の身長の基準としており、これを「丈六」(じょうろく)と呼んでいた。

これは立像の場合で、坐像だと16(4.8m)から座高を割り出して9(2.7m)となる。

ところがこれが鎌倉時代に入ると、仏像の発注主が天皇・貴族・公家から武家に移り、天皇・貴族・公家ほど財政的な余裕がない武士たちは、コスト削減のために丈六の基準よりも小さいサイズの仏像を求めるようになった。

こうして坐像で1.6m前後の仏像が造られるようになり、さらに江戸時代になると、坐像で60センチ前後の、さらに小型の仏像が主流になったというわけである。

 

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■奈良法隆寺6(西園院客殿)

 

□本坊・西園院の「客殿」を法隆寺から輸入した大石寺9世日有

 

法隆寺の境内をいろいろと見学し、調べていくと、さまざまな注目すべきものに出くわす。

最も私が注目したのは夢殿本尊である救世観音立像であるが、他にも注目したものがある。

そのひとつが「西園院客殿」である。

西園院は法隆寺の本坊(住職の居所)であり、南大門を入って左側、築地塀の内側にある。

 

客殿とは、元々は貴族の屋敷や寺院などで客を応対するために造った殿舎のことで、、いわば京都・奈良の貴族文化を象徴するもの。客殿という殿舎のある寺院は、京都、奈良周辺ではけっこう見られ、天台寺門宗総本山・園城寺(勧学院客殿・光浄院客殿)、教王護国寺(東寺)、真言宗大覚寺派の寺院・西明寺、臨済宗天龍寺派の寺院・臨川寺…といったものがある。

園城寺勧学院客殿は、慶長5(1600)の建立。桃山時代の書院造建築の代表作とされる。

光浄院客殿は、勧学院客殿より1年後の慶長6(1601)建立で、規模、意匠など勧学院客殿と似ている。

妙心寺霊雲院客殿は、1688-04年の元禄期とされている。

教王護国寺の観智院客殿 は、慶長11年(1606年)の建立。

西明寺客殿は、本堂より古く、江戸時代前期に移築された。当時は食堂と称し、僧侶の生活や戒律の道場として使用された。

臨川寺 客殿は、1620(元和5年)の建立。

大覚寺客殿は、1596-15年の慶長期のこととされている。

 

これに対して、日蓮正宗大石寺の客殿は、1465(寛正6)3月に大石寺9世法主日有が建立したわけだから、大石寺の客殿のほうが、京都仏教寺院の客殿より先に建立されたことになる。

この中で、法隆寺の西園院客殿に注目したのは、

1 法隆寺がこれらの寺院の中でもっとも創建が古いこと。

2 その法隆寺の塔頭院の中に「客殿」という名前の堂宇があること

である。

そこで法隆寺の西園院客殿がいつ創建されたかをしろうと思い、法隆寺の案内役員に聞いたところ、「聖徳宗の宗務院へ行って聞いてくれ」と言われたので、早速、法隆寺境内にある宗務院へと足を運んだ。宗務院は、その西園院のとなりにある。

法隆寺19
 

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■奈良法隆寺5(化儀を輸入した日有2)

 

□日蓮の聖徳太子崇拝、伝教大師最澄崇拝思想の影響を受けていた大石寺9世日有

 

それではなぜ、日蓮正宗大石寺9世法主日有は、法隆寺本尊や延暦寺本尊をモデルに「戒壇の大本尊」なる板本尊を偽作したのか。それは、日蓮在世の時代から、日蓮一門には、聖徳太子崇拝、伝教大師最澄崇拝の思想があるからだ。それは日蓮の遺文(御書)に明らかである。

 

「南岳大師 観音の化身なり道宣の感通伝に出づ 六根浄の人日本の上宮太子是なり」

「天台大師 日本に伝教大師と生まる」(御書全集p1093)

「聖徳太子は用明の御子なり…南岳大師の後身なり 救世観音の垂迹なり」(御書全集p1098)

「伝教大師 …天台の後身なり」(御書全集p1100)

 

これは日蓮の遺文(御書)「和漢王代記」の記述で、これは日蓮真筆が、大石寺の近所にある富士門流本山寺院・西山本門寺に格蔵されている。日有の時代、大石寺と西山本門寺は交流があり、この遺文(御書)は大石寺9世日有も目にしていたはずである。

こういった日蓮一門の聖徳太子崇拝、伝教大師最澄崇拝思想からすれば、法隆寺本尊、延暦寺本尊をモデルにすることは、必然的に起こったことと言えよう。

 

そもそも大石寺9世日有は、「戒壇の大本尊」なる板本尊を、日蓮に見立てて、「戒壇の大本尊」=日蓮=本仏という教義まで発明し、人間の等身大に造立した板本尊である。

等身大に造立された秘仏本尊として、あまりにも有名なのが、世界最古の木造建築寺院・法隆寺の夢殿の本尊である救世観音立像。この救世観音立像は、623(推古31)年、聖徳太子入滅の翌年に造立されたと伝承されている仏像で、737(天平9)に、夢殿本尊として祀られている。

それが1884(明治17)年、諸堂並びに古書画調査のためにやってきたアメリカ人フェノロサ、ビゲロー、岡倉天心らが法隆寺に来寺し、彼等の要求により絶対秘仏だった救世観音像が数百年ぶに開扉されたことは、あまりにも有名である。

このとき、フェノロサと岡倉天心は、仏罰が下るとおそれる法隆寺の僧侶たちを説得して、無理矢理に開扉せしめ、救世観音立像との対面を果たし、その美を世に伝えた。

救世観音1

 



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■奈良法隆寺4(化儀を輸入した日有)

 

□板本尊(板位牌・寺位牌)・秘仏・等身大の本尊は京都・奈良仏教界の化儀だ

 

もちろん日蓮正宗大石寺の「戒壇の大本尊」なる板本尊は、文字漫荼羅であり、法隆寺夢殿本尊・救世観音立像は、仏像だから、そこは大きく相違しているが、その他の側面を見ると、共通性が多多あるわけである。もちろん、共通性があるのは、救世観音立像だけではない。日蓮正宗大石寺9世法主日有は、何をモデルにして「戒壇の大本尊」なる板本尊を偽作したのか、共通性があるものを、まとめてみた。

 

□板本尊

 

13世紀のころ、栄西、道元が中国から日本に伝えた禅宗とともに、中国から日本に伝来した位牌。その位牌の中でも、特に板位牌。寺位牌。

位牌堂2総持寺祖院


 

□秘仏

 

■延暦寺 根本中堂本尊 薬師如来立像 

延暦寺の根本中堂(国宝)は、伝教大師最澄が建立した一乗止観院の後身。中央の厨子には最澄自作の伝承がある秘仏・薬師如来立像を祀っているが秘仏になっていて、前に「前立」本尊の薬師如来像が祀られている。

日蓮自作を詐称する秘仏・「戒壇の大本尊」の最大のモデルは、伝教大師最澄が自作したと伝承されている根本中堂本尊である薬師如来立像である。

■園城寺 本尊 弥勒菩薩像 

金堂本尊の弥勒菩薩像(弥勒如来とも)は、天智天皇の念持仏と伝え、唐からの請来像ともいうが、絶対の秘仏で公開されたことがなく、写真も存在しない。

■園城寺 観音堂本尊 如意輪観音坐像(重文)     33年に1度の開扉

■園城寺 智証大師(円珍)坐像(国宝)  「中尊大師」、「御骨大師」の2体あり。中尊大師は1029日の祥忌法要で開扉されるが、御骨大師は開扉なし。特別展などで数回公開されたことがある。

■園城寺 新羅明神坐像(国宝)  特別展などで数回公開されたことがある。

■園城寺 不動明王像(黄不動、絵画、国宝)  厳重な秘仏として知られ、寺では書籍等への写真掲載を厳しく制限している。特別展などで数回公開されたことがある。

■法隆寺 夢殿本尊 救世観音 

聖徳太子の等身像とされる。約数百年の長年秘仏であり、白布に包まれていた像で、明治初期に岡倉天心とフェノロサが初めて白布を取り、「発見」した像とされている。現在も春・秋の一定期間しか開扉されない秘仏である。

救世観音1


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■奈良法隆寺3(夢殿本尊・救世観音立像)

 

1884(明治17)8月にフェノロサ、岡倉天心らによって始めて開扉された救世観音立像

 

法隆寺のもうひとつのメインは、聖徳太子一族の住居であった斑鳩宮の跡に建立されたと伝承されている東院伽藍である。東院伽藍の回廊で囲まれた真ん中に八角円堂の夢殿が建っている。ここが東院伽藍の中心である。

夢殿とは、上宮王院とも呼ばれ、ここは行信僧都が聖徳太子の遺徳を偲んで奈良時代の天平11(739)年に建立した日本最古の八角円堂。堂内に聖徳太子の等身像とされる救世観音像や奈良時代の肖像彫刻の傑作とされている行信僧都像などを安置している。

 

この夢殿に安置されているのが、あまりにも有名な国宝の救世観音像である。これが夢殿の本尊であり、1300年以上もの長い間絶対秘仏で、現在も春と秋の決められた期間しか開扉されない秘仏である。

法隆寺の公式文献に依れば、聖徳太子が死去した622(推古30)年の翌年、623(推古31)年ころ、救世観音像が造立されたとしている。(法隆寺発行『救世観音』年表より)

つまり飛鳥時代に造立された像であるわけで、造立から1380年以上経っていることになる。

ちなみに、この法隆寺発行の公式文献は、法隆寺の売店のみで販売されているもので、東京の書店には並んでいない。

この救世観音像は、像高が約179センチ。聖徳太子の等身大の像と伝承されている。どういうことかというと、聖徳太子・救世観音後身説、つまり救世観音=聖徳太子という思想から、まさに聖徳太子そのものの像として、聖徳太子の等身大に造立されたというわけである。

救世観音1

 

この救世観音像は長年、絶対秘仏として夢殿の中央厨子の中に格蔵されたままになっていたのだが、1884(明治17)8月、法隆寺諸堂と古書画調査のためにアメリカ人のフェノロサ、ビゲロー、岡倉天心らが法隆寺に来訪し、この調査の中で、フェノロサ、岡倉天心が「仏罰で地震が起きる」と開扉を拒否していた法隆寺僧侶を説得し、救世観音像を開扉せしめた話は、あまりにも有名である。

623(推古31)年の造立から1884(明治17)年まで一度も開扉されなかったのか、その間に何度か開扉されたのか、については諸説有るが、絶対秘仏に近い像だったことは間違いない。

今でも、この救世観音像は秘仏であり、411日~518日と1022日~1123日のみ開扉される秘仏である。

 

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■奈良法隆寺2(金堂・本堂・院号)

 

□塔頭の名前が京都大寺院と同じ「○○院」の院号になっている奈良法隆寺

 

法隆寺に行くには、近鉄奈良駅前バスターミナルから、奈良交通バスの法隆寺前行きで約1時間。終点で下車するか、ないしは、JR奈良駅からJR大和路線に乗り約11JR法隆寺前駅で下車。

さらに法隆寺駅前から奈良交通バスの法隆寺門前行きに乗って約10分。終点下車というコースがあるが、私はJR線を利用するコースで行きました。

 

法隆寺の入り口は、「南大門」になっていて、ここから境内に入っていく。

ここからまっすぐ一直線に歩いて行くと、法隆寺の塔中をぬけて西院にたどり着く。

法隆寺の塔中は、中院、宝珠院、西園院、弥勒院、実相院、普門院、福園院、福生院、北室院、というふうに「○○院」という名前になっていて、これは東大寺塔頭、園城寺塔頭、延暦寺里坊から京都の各仏教大寺院の塔頭の多くが「○○院」という名前になっている。

京都にある富士門流本山・要法寺(現・日蓮本宗本山)で、こちらの塔頭は真如院・本行院・本地院・妙種院・顕壽院・法性院・信行院・実成院というふうに、「○○院」となっていて、法隆寺、東大寺、園城寺、延暦寺風の名前になっている。

これに対して、日蓮宗総本山身延山久遠寺、日蓮正宗大石寺、冨士妙蓮寺、讃岐本門寺、北山本門寺、西山本門寺、岡宮光長寺等々の塔中(塔頭)は、「○○坊」になっている。

これが関東の池上本門寺になると院号・寺号の混合になる。

 

西院の正面には中門があるが、ここからは入れず、向かって左側の拝観入り口から入る。

中門から向かって右に金堂、左に五重塔があり、これらを平面「凸」字形の回廊が囲んでいる。中門の左右から伸びた回廊は北側に建つ大講堂の左右に接している。

金堂、五重塔、中門、回廊は聖徳太子在世時のものではなく7世紀後半頃の再建ということであるが、7世紀後半頃の再建であっても、これが世界最古の木造建造物群であることは間違いないということである。

 

金堂というのは、法隆寺の「本堂」ということで、「本堂」のことを、法相宗、華厳宗や真言宗あたりでは「金堂」というが、「金堂」という言葉そのものは飛鳥時代から平安時代前半にかけての古代創建の寺院で多く使われている。

法隆寺西院の金堂が、まさに法隆寺の「本堂」で、金堂は、東院にはなく、ここだけである。

法隆寺の場合、「金堂」と「本堂」を独特の使い分けをしていて、法隆寺の「金堂」に対して、塔頭の中院、宝珠院、北室院、宗源寺、中宮寺に「本堂」がある。

つまり塔頭では「本堂」、法隆寺の本堂は「金堂」という使い分けをしているようである。

法隆寺22金堂
 

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■奈良法隆寺1(ユネスコの世界遺産)

 

□推古天皇15年に日本仏教興隆の祖である聖徳太子が創建した奈良・法隆寺

 

奈良・法隆寺とは、現存する世界最古の木造建築物群で、法隆寺の建築物群は法起寺と共に、1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されたことで有名な、あの法隆寺である。

別名を斑鳩寺(いかるがでら)というらしいが、ここの町を斑鳩町(いかるがちょう)という。

創建は推古天皇15年(607年)とされる。金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられる。境内の広さは約187千平方メートルある。境内を歩くと、なかなか広く感じる。

法隆寺は聖徳太子ゆかりの寺院で、法隆寺は、「日本仏教興隆の祖である聖徳太子が創建した寺院である」とするのが、一般的・常識的理解、いわゆる通説である。

20世紀末頃からは「聖徳太子は実在しなかった」とする言説、いわゆる「聖徳太子架空人物説」が盛んに言われるようになっているが、これには反論も出されている。

『聖徳太子の誕生』の著者である大山誠一は、超人的人物として信仰の対象となっている「聖徳太子」は架空の存在だとしながらも、「聖徳太子」のモデルとなった厩戸王という人物の存在と、その人物が斑鳩宮及び斑鳩寺を建てたことは史実と認めている。

 

現存する法隆寺西院伽藍は聖徳太子在世時のものではなく、7世紀後半 - 8世紀初の建立であることは定説となっており、この伽藍が建つ以前に焼失した前身寺院(いわゆる若草伽藍)が存在したことも発掘調査で確認されている。

また、聖徳太子の斑鳩宮跡とされる法隆寺東院の地下からも前身建物の跡が検出されている。以上のことから、「聖徳太子」の人物像には後世の潤色が多く含まれているとしても、そのモデルとなった厩戸王によって7世紀の早い時期、斑鳩の地に仏教寺院が営まれたことは史実と認められている。

 

通説によれば、推古天皇9年(601年)、聖徳太子は斑鳩の地に斑鳩宮を建て、この近くに建てられたのが法隆寺であるとされる。

金堂「東の間」に安置される薬師如来坐像(国宝)の光背銘には

「用明天皇が自らの病気平癒のため伽藍建立を発願したが、用明天皇がほどなく亡くなったため、遺志を継いだ推古天皇と聖徳太子があらためて推古天皇15年(607年)、像と寺を完成した」

という趣旨の記述がある。しかし、正史である『日本書紀』には(後述の670年の火災の記事はあるが)法隆寺の創建については何も書かれていない。

法隆寺4夢殿


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