一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ

「一般社団法人 仏教宗学研究会」とは任意団体として2005年から活動している会の名称。2018年5月に一般社団法人登記。当ブログ名を「仏教宗学研究会のブログ」から「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」に改名。 「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

Category: 天台宗(総)比叡山延暦寺

■比叡山延暦寺8(「千日回峰」2度の酒井雄哉師が遷化)

 

□記録が残る織田信長の焼き打ち(1571年)以降で3人目だった「千日回峰」2度目の達成

 

924日、天台宗大阿闍梨・酒井雄哉師遷化のニュースが流れた。読売新聞ニュースとmixiニュースから引用してみたい。

------------------------------------------------------------

「千日回峰」2度…大阿闍梨、酒井雄哉師が死去

天台宗総本山・比叡山延暦寺(大津市)に伝わる荒行「千日回峰(せんにちかいほう)」を2度達成した大阿闍梨(だいあじゃり)、酒井雄哉(さかい・ゆうさい)師が23日、歯肉がんで死去した。87歳。 延暦寺一山(いっさん)葬は27日午後0時30分、大津市坂本6の1の17生源寺(しょうげんじ)。喪主は弟子の藤波源信・大阿闍梨。自坊は同市坂本本町4239、延暦寺一山長寿院。

大阪市生まれ。39歳で得度した。54歳だった1980年には、地球1周にあたる約4万キロを7年かけて歩き、このうち9日間は不眠・断食で真言を唱え続ける荒行「千日回峰」を達成。記録の残る織田信長による比叡山焼き打ち(1571年)以降では、最高齢で「大阿闍梨」となった。60歳の87年には2度目も満行。3人目の快挙で、生き仏とたたえられた。

20139240309  読売新聞)

---------------------------------------------------------------------

<訃報>酒井雄哉さん87歳=大阿闍梨、千日回峰行2回

比叡山の荒行「千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)」を2度達成した天台宗大阿闍梨(だいあじゃり)の酒井雄哉(さかい・ゆうさい)さんが23日、心不全のため死去した。87歳だった。通夜は26日午後6時、葬儀は延暦寺一山葬として27日午後0時半、大津市坂本6の1の17の生源寺(しょうげんじ)。葬儀委員長は山本光賢(こうけん)延暦寺副執行(しぎょう)財務部長。自坊は大津市坂本本町4239の飯室不動堂長寿院。喪主は弟子の藤波源信(ふじなみ・げんしん)大阿闍梨。

1926年、大阪市生まれ。旧制中学を卒業後、鹿児島県で特攻隊員として終戦を迎えた。戦後は職を転々としたが、結婚2カ月の妻が自殺したことなどをきっかけに39歳で得度した。73年に90日間、堂にこもって念仏を唱えながら堂内を歩き続ける「常行三昧(じょうぎょうざんまい)」を達成した。80年10月には、比叡山中など計約4万キロのコースを7年かけて徒歩で順拝し、このうち9日間は不眠、断食などをする「千日回峰行」を達成。その半年後には2度目の挑戦を開始し、87年7月、60歳で満行した。千日回峰行は比叡山に伝わる修行で、これまで計50人が達成しているが、2度目の達成は、記録が残る織田信長の焼き打ち(1571年)以降で3人目だった。

90年に15年ぶりに下山し、講演活動などを通じて社会問題にも積極的に発言。自身が修行で体験した人間の極限状況を基に、教育問題や日本人の心のあり方を論じ、多くの人々の共感を呼んだ。 著書に「生き抜く力をもらう」(共著)「がんばらなくていいんだよ」などがある。

(20130924 13:20 毎日新聞・mixiニュース)

-----------------------------------------------------------------

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■東叡山寛永寺2(比叡山延暦寺と同じ最澄自作の薬師如来像)

 

寛永寺の根本中堂は、当初は1698(元禄11)に建立。間口25(45.5m)、奥行き23(42m)、高さ32mもある大伽藍だったという。

しかし1868(慶応4)の彰義隊戦争の際に全山を焼失。現在の寛永寺・根本中堂は1879(明治12)に、川越・喜多院の本地院(寛永15年に徳川家光が建立)を、寛永寺子院・大慈院の地に移して、寛永寺の本地堂の用材も加えて再建したもの。

根本中堂の正面に掲げられている「瑠璃殿」の額は、東山天皇御宸筆の勅額。この勅額と境内の二つの大水盤は、戦火を免れて、創建当時の面影を伝える。

寛永寺境内には、徳川幕府四代将軍家綱霊廟の梵鐘、中興の学僧・慈海僧正の墓、日本最初の講義を伴う公開図書館・勧学寮を設立した名僧・了翁禅師の塔碑、座像、その他多数の史跡がある。

寛永寺根本中堂中央の大きな厨子に祀られているのが、平安時代初期に造像された等身大の立像・薬師三尊像で秘仏になっている。中尊の薬師如来像は日本天台宗宗祖・伝教大師最澄の自作と伝承されている。

比叡山延暦寺根本中堂の秘仏・薬師如来像も伝教大師最澄自作の像と伝承されている。寛永寺は「東の比叡山」である東叡山だから、根本中堂の本尊は、延暦寺と同じく伝教大師最澄自作の像でないと、つりあいがとれないということだろうか。

寛永寺の薬師如来像は、古くは近江(滋賀県)・石津寺(せきしんじ)に祀られていた像であったが、寛永寺の根本中堂建立に際して、石津寺から寛永寺に移されたという。

もともとは、伝教大師最澄が1本の木から彫った2体の薬師如来像のうち、1体を比叡山延暦寺の本尊として祀り、1体は石津寺を建立して石津寺の本尊として祀ったと伝承されている。

石津寺の本尊・薬師如来像は、江戸時代初期に天海僧正によって上野寛永寺に移されて、寛永寺の本尊として祀られている。現在の石津寺は、重要文化財の本堂だけが残る無住のお寺となっている。

左右の日光・月光の両菩薩像は、同時に山形県・立石寺(山寺)から移された像。寛永寺の見解によれば、薬師如来像は近江・石津寺から、日光・月光の両菩薩像は、立石寺から移された像であるにもかかわらず、最初から三尊仏として造像されたかのように釣り合いが取れている、となっている。須弥壇上・本尊厨子の両脇には、四天王像、十二神将像等が祀られている。

寛永寺14根本中堂 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■比叡山延暦寺7(国宝殿)

 

比叡山延暦寺・東塔の境内の中に「比叡山国宝殿」という建物がある。

比叡山延暦寺では、伝教大師最澄の直筆の書物をはじめ、仏像、仏画、書跡、美術工芸品等々、数多くの国宝やら重要文化財やらを所有しているとのことだが、そのうちの63点の国宝、重要文化財、寺宝等数百点の中から選んで展示している所ということである。

まあ、私からすると、比叡山延暦寺の中にある博物館みたいなところかな、という印象。

450円の拝観料を支払って中に入ると、それこそ仏像やら、仏画やら、さまざまな書跡やら、さらには比叡山延暦寺の年表やらまでが所狭しと展示されていた。この年表は、なかなか詳しく書かれていて、私も興味深かったので、早速、手帳にメモをとっていた。

そうすると、国宝殿の入り口にいた係の中年女性が、かなり怪訝な表情を浮かべながら、私のそばへつかつかと歩み寄ってきて

「こんなに近くでメモをとってもらっては困ります」と苦言。

「メモをとるな」とは言わなかったが、あたかもメモは困るとの態度に見えた。

 

私だって、ただ比叡山延暦寺まで来たのではない。寺跡調査・取材のために来ているので、「メモをとるな」と言われて、そのまんま変えるわけにはいかない。

ああそうですか。ならば質問させていただきましょう、と思い、入り口の係の女性に、延暦寺のことについて、いろいろと質問をした。

するとその女性は、わからないと言いだし、「私は専門家ではありませんので」と言い訳しながら、受付の奥にいた延暦寺の僧侶に聞きに行った。

そうすると今度は、奥から黒い僧衣を着た若い僧侶が出てきて

「そういうことは、○○に行って聞けばいいでしょう」

と、この返事。

また、質問者をただの「たらい回し」にしようという、不誠実な返事。こういう返事は、あっちこっちの閉鎖的寺院で、いやというほど聞かされてきた私。

今度の国宝殿にいた僧侶の返事にちょっとカチンときた私は、

「そういう言い方はないだろう。せっかく質問しているのに、比叡山の中をたらい回しにするつもりですか」

と、僧侶と係の女性に抗議をした。

そうすると、この係の中年女性は

「おたく様は、どういうお方でしょうか」と私に逆質問。

私は「実はサイトを主宰している者なのですが…」と、こう言ったとたん、係の女性の態度がガラリと急変。うってかわって急に愛想がよくなり

「あーそうですかあ。サイトを運営していらっしゃる方は、いろいろとお詳しいですからねー」

などと、急に私をヨイショしはじめたのである。

比叡山国宝殿2


続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■比叡山延暦寺6(戒壇院)

 

比叡山延暦寺に行ったからには、弘仁13(822) 、伝教大師最澄の死後7日目にしてようやく許可された大乗戒壇を一目見ておく必要があった。

延暦25年(806年)、日本天台宗の開宗が正式に許可されるが、仏教者・伝教大師・最澄が生涯かけて果たせなかった念願は、比叡山に大乗戒壇を設立することであった。大乗戒壇を設立するとは、すなわち、奈良の旧仏教・南都六宗から完全に独立して、延暦寺において独自に僧を養成することができるようにしようということである。

当時の日本では僧の地位は国家資格であり、国家公認の僧となるための儀式を行う「戒壇」は日本に3箇所(奈良・東大寺、筑紫・観世音寺、下野・薬師寺)しか存在しなかったため、天台宗が独自に僧の養成をすることはできなかった。

最澄は自らの仏教理念を示した『山家学生式』(さんげがくしょうしき)の中で、比叡山で得度(出家)した者は12年間山を下りずに籠山修行に専念させ、修行の終わった者はその適性に応じて、比叡山で後進の指導に当たらせ、あるいは日本各地で仏教界のリーダーとして活動させたいと主張した。その伝教大師・最澄の宿願であった大乗戒壇の設立は、822年、最澄の死後7日目にしてようやく朝廷から許可されたものであった。

この戒壇院は、延宝6年(1678年)の再建の建物というえことだが、それ以上の詳しいことはわからない。というか、この戒壇院は、伝教大師・最澄が生涯をかけた宿願である建物なのに、どういうわけか、比叡山延暦寺・比叡山振興会議が発行している公式パンフレット「比叡山」には、一言も紹介されていないのである。戒壇院は、観光資源としての価値がないと目されているのか。

 

そういうこともあってか、私は、最初に比叡山延暦寺に行ったときは、てっきり戒壇院=根本中堂と勘違いしていたくらいだった。その後、ある人と話した折に、比叡山延暦寺の根本中堂と戒壇院は別個の建物であることがわかり、二度目、三度目にここを訪れたときは、両者を混同しなくなったという次第。

それともう一つ、この戒壇院は、伝教大師・最澄が生涯をかけた宿願である建物というわりには、そんなに大きな建物ではない。むしろ根本中堂のほうが二倍、三倍以上、大きな建物である。

しかも表の扉は固く閉められていて、中の様子を伺い知ることはできない。なんとも閉鎖的な建物で、こういうのは、あまりいい印象を人に与えないでしょうね。

見ていると、日蓮正宗や創価学会のような閉鎖的でダーティなイメージがかぶって見えてしまう。

まあ、もっとも比叡山延暦寺は、室町・戦国時代に、何度も焼き討ちにあっているから、再建されたときに規模が小さくなってしまったのかもしれないが、私としては、見た感じ、期待とは裏腹に、いささか拍子抜けした印象を持ちました。

延暦寺3戒壇3
 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■比叡山延暦寺5(大講堂)

 

比叡山延暦寺の見所は、根本中堂の他にもいろいろあるが、そのうちのひとつが大講堂である。

大講堂という所は、僧侶が法華経の講義を聞いたり、お互いに問答して、勉強する学問修行の場という意味らしい。

延暦寺の大講堂は、根本中堂のほぼ隣に位置している。今の延暦寺・大講堂は、寛永11年(1634年)の建築の建物で、もとは東麓・坂本の東照宮の讃仏堂であったものを1964年に「大講堂」として移築したものである。なぜこんなことをしたのかというと、重要文化財だった旧大講堂は1956(昭和31)年に火災で焼失しているからである。

ちょうどこのころ、日蓮正宗大石寺では、創価学会二代会長・戸田城聖の寄進で「大講堂」が建設中であった。日蓮正宗や創価学会では比叡山延暦寺大講堂炎上焼失のニュースを聞いて

「これは迹門の大講堂(延暦寺)が滅びて、本門の大講堂(大石寺)が勃興する奇瑞だ」

などと言って、躍り上がって大喜びしていたというから、全くあきれてしまう。

いくら他山・他宗のこととはいえ、寺院・伽藍の火災を大喜びするなどという非常識な振る舞いがどこにあろうか。

 

比叡山延暦寺・大講堂の本尊は大日如来ということだが、私にはよくわからなかった。というか、「天台宗なのに、なんで本尊が大日如来?」というきわめて初歩的な疑問が沸いてしまう。

しかも根本中堂の本尊が薬師如来で、なんで大講堂が大日如来?という疑問も沸いてくる。

まあ、私としては、天台宗の教義にまで、さほど深い関心がないので、それ以上、深追いはしなかったのだが、私には、別のことで目を引いたことがあった。

 

本尊の両脇には向かって左から日蓮、道元、栄西、円珍、法然、親鸞、良忍、真盛、一遍の像が安置されていて、これらの僧はいずれも若い頃延暦寺で修行した高僧。これらの像は関係各宗派から寄進されたものであるという。堂内を見渡してみると、木像とは別に、これらの高僧たちの大きな肖像画も掲示されていた。

私がさらに興味を引いたのは、大講堂の本尊に向かって右側で、僧侶の唱導により大勢の信者による読経・法要が始まったこと。

「何の法要なんだろうか」と興味津々にその様子を見ていたが、見ていて、どうも天台宗の信者には見えなかった。そうこうしているうちに、この法要で信者たちが何と「南無妙法蓮華経」を唱えだしたのである。「あれれれれ、日蓮宗?」という感じ。

どうやら、日蓮宗のどこかの寺の信者が、住職の引率で比叡山延暦寺に団体参拝し、大講堂の日蓮の木像の前で法要を営んでいたということのよう。

延暦寺6大講堂2
 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■比叡山延暦寺4(不滅の法灯)

 

比叡山延暦寺・根本中堂で、観光客にいろいろと説明していた尼僧が

「足利義教・織田信長の焼き討ちでも『不滅の法灯』は消えなかった」

と言っていた内容は、明らかにおかしい。足利義教・織田信長の焼き討ちで、少なくとも比叡山延暦寺の根本中堂は全焼しているのに、「不滅の法灯」が消えなかったわけがないではないか。

あまりにも疑問に思ったので、私も帰宅してたから、少々調べてみた。

するとインターネット・フリー百科事典・wikipediaの「延暦寺」の項目には、次のように書いてある。

「本尊厨子前の釣灯篭に灯るのが、最澄の時代から続く「不滅の法灯」である。この法灯は信長の焼き討ちで一時途絶えたが、山形県の立石寺に分灯されていたものを移して現在に伝わっている」

根本中堂2

 

どこからどう調べたのか、わからないが、今の比叡山延暦寺・根本中堂の「不滅の法灯」は、山形県の立石寺に分灯されていたものを移して、今に伝わっていると書いてある。

やはり、織田信長の焼き討ちで「不滅の法灯」は途絶えたことを認めている。私は、山形県の立石寺にも「旅紀行」で訪れたことがあったが、この根本中堂の「不滅の法灯」が分灯されていたとは、全く知らなかった。

そこでインターネット・フリー百科事典・wikipediaの「立石寺」の項目には、次のように書いてある。

「大永元年(1521年)、寺は天童頼長の兵火を受けて一山焼失した。天童頼長は斯波兼頼の孫の斯波(天童)頼直を祖とする天童家の末裔である。永正17年(1520年)、頼長は山形盆地に進出した伊達稙宗と戦うが、この際立石寺が伊達側に加勢したために、頼長の怒りを買い、翌年焼き討ちを受けたものである。なお、現存する立石寺中堂は後世の改造が多いものの室町時代中期の建物とされている。焼き討ちの際に、比叡山延暦寺から分燈されていた法燈も消滅し、再度、分燈することとなるが、1571年の比叡山焼き討ち後の再建時には、立石寺側から逆に分燈されることとなった。」

 

つまり立石寺も何度も焼き討ちの被害に遭っており、比叡山延暦寺から分燈されていた法燈も消滅して、再度、分燈されたのだが、織田信長の比叡山延暦寺焼き討ちのさいには、逆に立石寺の法灯が延暦寺に分灯されたとしている。

やはり、織田信長の比叡山延暦寺焼き討ちで、「不滅の法灯」は消えてしまったが、その後、立石寺の分灯が「分灯」されたわけですね。

それならそれで、そういうふうに尼僧も説明すればいいのに、なぜ虚勢を張って「比叡山延暦寺焼き討ちでも「不滅の法灯」は消えなかった」などとウソを言うのだろうか。

こういうところは、比叡山延暦寺に限らず、日本仏教界の悪しき体質なのかもしれない。

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■比叡山延暦寺3(根本中堂)

 

根本中堂というのは、天台宗総本山・比叡山延暦寺の総本堂であり、東塔にある。延暦寺の根本中堂(国宝)は、伝教大師最澄が建立した一乗止観院の後身になる。東塔の中心となる根本中堂は、延暦7年(788)に伝教大師最澄がこの地に草庵を結んだ場所とされる。

とは言っても、私なんかは、はじめて比叡山延暦寺を訪ね歩くまで、延暦寺の本堂とは戒壇のことだと勘違いしていたくらいで、延暦寺に行って、はじめて比叡山延暦寺の総本堂=根本中堂だと知ったくらいでした。

比叡山坂本からケーブルカーで比叡山に登っていくと、東塔に到着するので、ケーブルカーの駅から根本中堂までは、そんなに離れてはいない。

根本中堂の入り口からは回廊を歩いていき、伝教大師最澄自作の薬師如来が祀られている根本中堂に入っていく。回廊には、延暦寺のあちらこちらの伽藍、修行僧の様子などを写した写真が展示されている。

ここにはけっこう観光客が来ていて、根本中堂の中は、信者と言うより、観光客であふれかえっているという感じ。私を含めた観光客に対して、延暦寺の尼僧がいろいろ細かく説明してくれる。

根本中堂中央の厨子には最澄自作の伝承がある薬師如来立像が祀られているが、しかしこの本尊は秘仏になっていて、普段は公開されておらず、参拝客が根本中堂で目にする薬師如来像は、仏師が彫刻した「前立」本尊ということである

秘仏になっている最澄自作の薬師如来立像は、延暦寺開創1,200年記念の1988年、その後、2000年、2006年に開扉されたことがあるというなぜこのときに開扉されたかというと、天皇陛下が比叡山延暦寺に御親拝になられたので、秘仏の薬師如来像を開扉したのだという。

つまり天皇陛下の御親拝といった特別なことでもない限り、秘仏の開扉はなされないのだという。

せっかくなので、私も尼僧にいろいろと質問をした。

秘仏になっている最澄自作の薬師如来立像と、参拝者が目にすることができる仏師彫刻の「前立」本尊である薬師如来立像は、全く同じ造りになっているのかどうか、ということだが、尼僧の話によると、これが「全く同じではない」という。

これはどういうことかというと、仏師というのは、いわば「彫刻のプロ」なので、いろいろ細かいところまで、微に細に彫り込んであるが、伝教大師最澄という人は、彫刻のプロではないので、最澄自作の薬師如来立像は、きわめてオーソドックスな造りになっているという。

なるほど。しかし、はるばる比叡山延暦寺の根本中堂まで行って、秘仏・最澄自作の薬師如来立像にお目にかかることができないというのは、まことに残念という意外にない。

根本中堂2
 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■比叡山延暦寺2(256世の歴代天台座主)

 

比叡山延暦寺は、日本天台宗の総本山寺院で、住職(貫主)は天台座主(てんだいざす)と呼ばれ、末寺を統括する。現天台座主は256世半田孝淳座主。

 

宗祖 最澄 義真(初世、修禪大師) 圓澄(第2世。寂光大師) 圓仁(第3世。慈覚大師)

天台座主3


安慧(第4世) 圓珍(第5世。智證大師) 惟首(第6世) 猷憲(第7世) 康済(第8世)

長意(第9世) 増命(第10世) 良勇(第11世) 玄鑑(第12世) 尊意(第13世) 義海(第14世)

延昌(第15世。慈念僧正) 鎮朝(第16世) 喜慶(第17世) 良源(第18世。慈恵大師。元三大師)

尋禅(第19世。慈忍和尚) 余慶(第20世。観音院僧正) 陽生 (僧侶)(第21世) 暹賀(第22世)

覚慶(第23世) 慶円(第24世) 明救(第25世) 院源(第26世) 慶命(第27世)

教円(第28世) 明尊(第29世) 源心(第30世) 源泉(第31世) 明快(第32世)

勝範(第33世) 覚円(第34世) 覚尋(第35世) 良真(第36世) 仁覚(第37世)

慶朝(第38世) 増誉(第39世) 仁源(第40世) 賢暹(第41世) 仁豪(第42世)

寛慶(第43世) 行尊(第44世) 仁実(第45世) 忠尋(第46世) 覚猷(第47世鳥獣戯画)

行玄(第48世) 最雲法親王(第49世) 覚忠(第50世) 重愉(第51世) 快修(第5254世)

俊円(第53世)明雲(第5557世)覚快法親王(第56世) 俊堯(第58世) 全玄(第59世)

公顕(第60世) 顕真(第61世) 慈圓(第62656971世『愚管抄』で知られる)

承仁法親王(第63世) 弁雅(第64世) 慈円 (第65世)實全(第66世) 眞性(第67世)

承円(第6872世) 公円(第70世) 円基(第73世。尊卑分脈によれば第74世)

尊性法親王(第7476世) 良快(第75世) 慈源(第7779世) 慈賢(第78世)

道覚法親王(第80世) 尊覚法親王(第81世) 尊助法親王(第82世。第859195世)

再仁法親王(第83世) 澄覚法親王(第8487世) 慈禅(第86世)

道玄(第88102世) 公豪(第89世) 再源(第90世) 再助法親王(第92世)

慈實(第93世) 慈助法親王(第9496世) 源恵(第97世) 慈基(第98世)

尊教(第99世) 良助法親王(第100世) 道潤(第101世) 覚雲法親王(第103107世)

公什(第104世) 慈道法親王(第105111115世) 仁澄法親王(第106世)

慈勝(第108世) 親源(第109世) 澄助(第110世) 性守(第112世) 承覚法親王(第113世)

承鎮法親王(第114世) 尊雲法親王(第116118世。後醍醐天皇皇子。還俗して護良親王)

桓守(第117世) 慈厳(第119132世) 尊澄法親王(第120123世。後醍醐天皇皇子)

尊圓法親王(第121126131133世。青蓮院流(御家流)を創始) 尊胤法親王(第122124世)

性慧(第125世) 祐助法親王(第127世) 承胤法親王(第128136139世)

亮性法親王(第129世) 尊道法親王(第134138145世) 桓豪(第135137世)

慈済(第140世) 道圓法親王(第141世) 堯仁法親王(第142149世)



続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■比叡山延暦寺1(最澄以来約1200年の歴史)

 

比叡山延暦寺というと、京都にあるというイメージがあるのだが、実際は滋賀県大津市になる。ここは標高848mの比叡山全域を境内としている大寺院で、境内は東塔、西塔、横川と三つに大きく分けられ、延暦寺の総本堂にあたる根本中堂は東塔にある。

これら東塔、西塔、横川を総称して「三塔」と言い、さらに細分して「三塔十六谷二別所」と呼称している。このほか、滋賀県側の山麓の坂本地区には本坊の滋賀院、「里坊」と呼ばれる子院群、比叡山とは関係の深い日吉大社などがある。

比叡山延暦寺の創建は延暦7年(788年)。今年2010年で開創1222年になる。有名な大乗戒壇勅許は伝教大師最澄入滅の7日後の822年(弘仁13年)7月だから、これから数えても1188年になる。

比叡山延暦寺は、日本天台宗の総本山寺院で、住職(貫主)は天台座主(てんだいざす)と呼ばれ、末寺を統括する。現天台座主は256世半田孝淳座主。ハンパじゃなく歴史が長い。

 

ただし歴史が長いとは言っても、永享7年(1435年)、延暦寺武力制圧に失敗していた室町幕府6代将軍・足利義教は、謀略により延暦寺の有力僧を誘い出し斬首。これに反発した延暦寺の僧侶たちは、根本中堂に立てこもり義教を激しく非難したが、義教の姿勢はかわらず、絶望した僧侶たちは2月、根本中堂に火を放って焼身自殺した。

このときに円珍以来の本尊もほぼ全てが焼失している。宝徳2年(1450年)516日に、わずかに焼け残った本尊の一部から本尊を復元し、根本中堂に配置している。

根本中堂4


さらに元亀2年(1571年)、延暦寺の僧兵四千人が強大な武力と権力を持つ僧による仏教政治腐敗で戦国統一の障害になるとみた織田信長は、延暦寺に武装解除するよう再三通達をし、これを断固拒否されたのを受けて912日、延暦寺を取り囲み焼き討ちにした。これにより延暦寺の堂塔はことごとく炎上し、多くの僧兵や僧侶が殺害されている。

しかし、1200年という歴史の長さが評価されたのか、1994年(平成6年)、延暦寺は「古都京都の文化財」の一環としてユネスコの世界文化遺産に登録されている。

私は、調査・取材のために何度かここを訪れていまして、京都から車で登っていったこともありますし、比叡山坂本から比叡山鉄道線ロープウェイで登っていったこともあります。

境内はあまりにも広すぎるくらい広いので、とても1日や2日では、廻りきれません。しかも山の中に寺院・伽藍が建てられているため、坂道がとても多く、歩いているとなかなか疲れます。

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

↑このページのトップヘ