一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ

「一般社団法人 仏教宗学研究会」とは任意団体として2005年から活動している会の名称。2018年5月に一般社団法人登記。当ブログ名を「仏教宗学研究会のブログ」から「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」に改名。 「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

Category: 浄土宗・東京芝・増上寺

■三縁山増上寺7(六代将軍家宣の正室・天英院の正墓3)

 

□徳川幕府による大石寺三門供養の言い訳の為に建立された大石寺の天英院五輪塔

 

それでは、なぜ大石寺は、天英院を篤信の大外護者であるかのように祭り上げ、天英院の正墓があたかも大石寺にあるかのようなウソをついているのか。

歴史上の人物・偉人で二つ以上の墓がある人物は、それこそたくさんいる。例えば織田信長の墓・廟・供養塔と称するものは、全国に少なくとも13ヶ所ある。

1京都市中京区の本能寺にある「信長公廟」

2京都市上京区寺町の蓮台山阿弥陀寺にある「織田信長公本廟」

3高野山奥の院の五輪塔「織田信長墓所」

4 京都市北区の大徳寺塔頭・総見院の五輪塔。

5安土城二の丸跡「織田信長公本廟」

6富山県高岡市の高岡山瑞龍寺にある「織田信長公御分骨廟」

7岐阜県岐阜市の神護山崇福寺の「織田信長父子廟所」

8愛知県名古屋市中区の景陽山総見寺の「信長公廟」

9愛知県清須市の興聖山総見院 「織田信長供養塔」

10大阪府堺市の南宗寺本源院 「織田信長信忠公供養塔」

11福井県越前町(旧・織田町) 「越前二の宮 剣神社」

12 「信長を祀る神明造の小祠」愛知県清須市清洲古城跡

13 「伝織田信長の首塚」静岡県富士宮市西山本門寺

 

だから、複数の墓・廟・供養塔が存在すること自体、別に悪いことでも何でもない。問題はその建てられた動機・目的である。純粋に「弔いたい」「供養したい」ということで建てられたのならば、墓・廟・供養塔はいくあってもいいと思う。

しかし大石寺の場合は、天英院を「弔いたい」「供養したい」という純粋な動機・目的からの五輪塔ではないと思われるのである。

ではなぜ大石寺は、五重塔の傍らに天英院の五輪塔を建てたのか。

第一の動機は、徳川幕府による大石寺三門供養の言い訳である。

日蓮正宗の教義によれば、大石寺は未入信や退転者などの「謗法者」からの供養は受けない、という建前になっている。そうすると、浄土宗増上寺、天台宗寛永寺を菩提寺とする徳川将軍家から大石寺三門供養を受けたと言うことは、教義に矛盾することになる。

そこで大石寺が考え出した言い訳が

「実は当時の将軍家宣の正室・天英院が大石寺の信徒だったのだ」

というもの。教義上の矛盾に対する、苦し紛れのゴマカシである。

増上寺4家宣廟




















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■三縁山増上寺6(六代将軍家宣の正室・天英院の正墓2)

 

□天英院は将軍家菩提寺の増上寺に土葬されたのであって大石寺には絶対に分骨されていない

 

増上寺の説明によると、天英院は夫の六代将軍家宣とともに同じ徳川正廟に葬られているという。これがまさに天英院の正墓。

増上寺が発行している小冊子「浄土宗大本山増上寺」によれば、天英院の正墓は元々、独立した宝塔が建てられていた。ところが1945(昭和20)の東京大空襲で、増上寺は壊滅的な打撃を受け、堂宇、伽藍の大半を焼失。徳川正廟もほとんどを焼失してしまった。

1958(昭和33)、改めて文化財保護委員会による発掘調査が行われ、土葬されていた遺体は全て荼毘に付され、改めて徳川将軍家の正廟が再建された、ということである。

したがって、天英院は、最初から菩提寺の増上寺に土葬で葬られていた、ということになる。

六代将軍家宣の正室・天英院は、文昭院殿(家宣)の墓所の宝塔の中に、いっしょに葬られて眠っている。増上寺に葬られた六人の将軍の墓所は全て宝塔が建てられ、その中に、正室も入っている、というわけである。

ところが日蓮正宗は「天英院は大石寺門流の信者だった。大石寺に三門を供養した大石寺外護の大檀那」と言い張っていて、大石寺五重塔の脇に建てられている天英院の五輪塔が天英院の正墓であるなどと言い張っている。

日蓮正宗にとって、東京芝・増上寺に天英院の正墓がある、ということがわかるのは、まことに都合が悪いため、日蓮正宗の信者たちは、こう言って反論する。

「天英院の正墓は増上寺にあるのかも知れないが、大石寺には遺骨が分骨されたのだ」

 

日蓮正宗の信者は、「大石寺には日蓮・日興・日目の正墓はない」と批判・追及されたときも、「遺骨は大石寺に分骨された」などと、何の証拠もないのに、虚しい妄想にしがみつこうとする。

苦し紛れの「分骨」の言い訳である。

天英院の正墓の場合も、「大石寺への分骨」などという言い訳は、絶対に通らない。

なぜなら、天英院は、増上寺に葬られたときは、土葬されたのであり、火葬して荼毘に付されたのは、1958(昭和33)に増上寺の徳川正廟が再建されたときだからである。

これは、増上寺が発刊している小冊子「浄土宗大本山増上寺」に書いてある。

それとも日蓮正宗の信者は、天英院の遺体が荼毘に付された1958(昭和33)に増上寺から大石寺に遺骨が分骨された、とでも言うのだろうか。

1958(昭和33)に増上寺から大石寺に天英院の遺骨が分骨されるなどということは、絶対にあり得ない。

増上寺4家宣廟




















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■三縁山増上寺5(六代将軍家宣の正室・天英院の正墓1)

 

□新井白石・間部詮房が失脚した江戸時代大奥の一大事件・江島生島事件で有名な天英院

 

さて東京芝・増上寺でのもうひとつの研究課題は、徳川六代将軍正室・天英院の正墓についてである。

増上寺・徳川正廟に埋葬されているのは、二代将軍秀忠、六代将軍家宣、七代将軍家継、九代将軍家重、十二代将軍家慶、十四代将軍家茂の6人の将軍、5人の正室、5人の側室。

徳川六代将軍正室・天英院も、将軍家宣といっしょに埋葬されており、正墓もここ増上寺にある。

天英院とは本名を近衛熙子といい、父は近衛基熙、母は後水尾天皇の娘・品宮常子内親王。

夫・六代将軍家宣の死後落飾して天英院(てんえいいん)と名乗ったため、一般的に天英院と呼ばれている。

天英院という名は、一般的には江戸時代大奥の一大事件「江島生島事件」で有名である。

江島生島事件とは、江戸時代中期に江戸城大奥御年寄の江島(絵島)が歌舞伎役者の生島新五郎らを相手に遊興に及んだことが引き金となり、関係者多数が処罰された綱紀粛正事件。

家宣が六代将軍になった後、お喜世の方(のちの月光院)が側室に迎えられたことによって、夫婦関係は疎遠になっていったという。

お喜世の方(月光院)が産んだ家継が七代将軍宣下を受け、月光院とは不仲であったといわれている。御年寄にして月光院の腹心であった絵島が大奥の門限に遅れた江島生島事件では、老中や譜代大名と結託して、月光院と側用人・間部詮房と新井白石らの権威失墜を謀ったという天英院陰謀説がある。

当時の大奥には、7代将軍家継の生母月光院を中心とする勢力と前将軍家宣の正室天英院を中心とする勢力とがあった。月光院が家継の学問の師である新井白石や側用人の間部詮房らと親しい事から、大奥では月光院側が優勢。

この事件により天英院側が優勢となり、2年後の正徳6年(1716年)に七代将軍家継が亡くなると、若い家継に子がなかったため、天英院が推していた紀伊藩主徳川吉宗が8代将軍となった。

そのため、江戸幕府を牛耳っていた新井白石・間部詮房を追放するために天英院と譜代大名や老中がスキャンダルをでっち上げたのではないかという陰謀説が唱えられている。

増上寺7徳川家廟










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■三縁山増上寺4(寛永寺と交互に将軍霊廟が建てられた)

 

徳川将軍家の菩提寺は、天台宗本山・東叡山寛永寺と、浄土宗大本山・増上寺のふたつだった。

よって日光東照宮に祀られている徳川家康、徳川家光と、東京谷中霊園に葬られた最後の将軍・徳川慶喜の三人を除く12人の将軍の正墓が、寛永寺と増上寺のふたつに二分されて築かれている。将軍の他、正室もいっしょに菩提寺に葬られている。これは自明の理である。

徳川家康・徳川将軍家は、浄土宗に帰依したと言われているが、浄土宗一辺倒だったわけではなく、武田合戦の時は北山本門寺の「鉄砲曼荼羅」を守護本尊として陣中に持ち出しているし、川越・喜多院に天海大僧正を招いている。

後に、徳川秀忠は天海を招いて、江戸城の丑寅の方角に寛永寺を創建している。

しかし戦国時代ら安土桃山時代にかけて、最大級の武装仏教勢力だった真宗本願寺派を、東西本願寺に分裂させた分裂劇に関与しているのも徳川家康。

日蓮宗に対しては、豊臣秀吉の方広寺大仏殿の千僧供養時に、出仕を拒否した不受不施派を、公儀に従わぬ者として日蓮宗が他宗への攻撃色が強い事も合わせて危険視。不受不施派の日奥を対馬国に配流。家康死後も不受不施派は江戸時代を通じて弾圧され続けた。

日蓮宗に対しては、あまり好意的に見ていなかった、という見解も成り立つ。

浄土宗の知恩院を新たに門跡に加え、天台宗・真言宗の頂点として輪王寺に門跡を設けたことにより、知恩院・輪王寺は江戸幕府と強い繋がりを持ったことは事実のようだが、ただし、浄土宗に帰依していたかどうかについては、疑問符も残る。

増上寺の本殿・安国殿後方にある徳川将軍家の正廟は、普段は非公開になっている。しかし一年に数回、特別公開があり、私も一度、徳川正廟特別公開の日に見学に行ったことがあります。

徳川将軍家正廟は、本殿・安国殿の裏手にあるため、ここに行くには、三門から入って、安国殿の東側を通って裏手にぬける。

徳川将軍家正廟・特別公開の時は、正廟入り口の脇に、受付が設けられ、ここで拝観料を支払って、通用門をくぐり、正廟の中へ。正廟の中に入っていくと、巨大な塔が四隅に建てられていて、それぞれの塔の中に、将軍と正室が葬られている。

私がはじめて徳川正廟特別公開の見学に行ったときは、少々雨模様の日でしたが、年に数回の特別公開ということで、たくさんの見学客が来ていました。中高年の見学客が多かったように思います。

増上寺・徳川正廟に埋葬されているのは、二代将軍秀忠、六代将軍家宣、七代将軍家継、九代将軍家重、十二代将軍家慶、十四代将軍家茂の6人の将軍、5人の正室、5人の側室。

この5人の正室の中に、天英院がいる。

増上寺10徳川家廟
 

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■三縁山増上寺3(秘仏・増上寺安国殿・黒本尊)

 

増上寺安国殿とは、太平洋戦争の戦災で焼失した大殿のかわりに、仮本堂としていた堂宇を、昭和49(1974)の新大殿の落成のおりに境内北側に移転。ここが徳川家康ゆかりの「黒本尊」を祀る堂宇「安国殿」となった。

この旧安国殿の老朽化により、法然八百遠忌記念として平成23(2011)、新しい安国殿が増上寺に建立・落慶した。これが今の安国殿。

須弥壇中央には、本尊である秘仏・黒本尊とお前立の阿弥陀如来像が祀られている。

脇陣には徳川家康の肖像画。徳川歴代将軍の位牌。和宮の等身大の像が祀られている。

黒本尊とは、恵心僧都源信の作と伝承される阿弥陀如来像。昔は、金箔燦然と輝く金色の立像だったが、長年にわたって香煙に薫じられ、その像が徐々に黒ずんでいき「黒本尊」と名付けられたという。

ということは、黒本尊は元々は秘仏ではなかったのだが、途中から秘仏になった、ということになる。長年の香煙で黒ずんだため秘仏になったということで、なぜ秘仏になったのか謂われがよくわからないケースに比べたら、こちらは、わかりやすい。

黒本尊は、普段は秘仏として厨子の中に秘蔵されているが、年に3回。1月、5月、9月の15日に御開帳され、盛大な祈願会が行われている。

秘仏(ひぶつ)とは、信仰上の理由により非公開とされ、厨子などの扉が普段は閉じられたまま祀られる本尊や仏像のことである。仏教寺院では、仏堂の扉を開いた際に本尊・仏像が見えるように祀るのが本来であるが、「秘仏」は開帳以外の時は厨子の扉を閉じたまま祀られている。

日本の仏教各宗各派の秘仏には、全く公開されない「絶対の秘仏」も一部にあるが、特定の日に限って公開(「御開帳」「御開扉」などと称する)を行うことが多い。

「秘仏」の発生時期や要因については本格的な研究が進んでおらず、確かなことはわかっていないが、少なくとも京都・広隆寺の資財についての記録である「広隆寺資財交替実録帳」(寛平2年・890年頃成立)には、同寺金堂本尊の「霊験薬師仏」が鍵のかかる「内殿」に安置されていたことが明記され、この薬師像が遅くとも9世紀末には秘仏扱いされていたことを伺わせる。

秘仏の発生には神道の神社からの影響があるものとする説もある。神社の本殿の扉もまた、普段は閉じられており、特定の祭祀の時にのみ扉が開かれる場合があるからである。

宗派別では、真言宗および天台宗の寺院に本尊を秘仏とするところが比較的多い。

天台宗系の主要寺院では、延暦寺根本中堂本尊の薬師如来像、同寺西塔釈迦堂本尊の釈迦如来像、園城寺(三井寺)金堂本尊の弥勒菩薩像、同寺観音堂本尊の如意輪観音像などはいずれも秘仏で、他にも和歌山県紀の川市の粉河寺・千手観音像、兵庫県加西市の一乗寺・千手観音像がある。

増上寺20

 

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■三縁山増上寺2(日本で弘まり中国では弘まらなかった浄土宗)

 

東京芝・増上寺は、かつて芝公園一帯全てが境内であったが、明治維新、廃仏毀釈、太平洋戦争等で境内は狭められた。しかんしそれでも増上寺の境内は広い。

増上寺の中心堂宇は大殿で、これが仏教寺院一般の本堂に該当する。そういう意味で、増上寺が発行する正式文献「浄土宗大本山増上寺」には、「大殿(本堂)」となっています。

今の大殿は昭和49(1975)落成。もちろん、戦前から増上寺に大殿はあったのですが、太平洋戦争の東京大空襲による戦災で焼失。

そこで新たに近代的な設計のもとに、鉄筋コンクリート造りの大殿が再建された。石段を登った二階が本堂。三階に道場。一階に壇信徒控え室。地下に三縁ホールがある。

本堂には、本尊として阿弥陀如来が祀られ、両脇壇には高祖善導と宗祖法然の像が祀られている。

高祖・善導とは、中国浄土宗の僧。「称名念仏」を中心とする浄土思想を確立したとされている。

称名念仏とは、浄土宗においては「南無阿弥陀仏」の名号を口に出して称える念仏(口称念仏)のこと。『佛説無量寿経』には「南無阿弥陀仏」と念仏を称えれば、阿弥陀仏の浄土(極楽浄土)へ往って、阿弥陀仏の元で諸仏として生まれることができると説かれている、とされる。

善導が、『観無量寿経疏』(『観経疏』)を撰述して、『仏説観無量寿経』は「観想念仏」ではなく「称名念仏」を勧めている教典と解釈した。こうして「称名念仏」を中心とする浄土思想が確立する。

しかし中国ではその思想は主流とはならなかった。

つまり善導の中国浄土宗は、中国では大衆文化として定着しなかった。

善導の『観経正宗分散善義』巻第四(『観無量寿経疏』「散善義」)の中の、

「一心に弥陀の名号を専念して、行住坐臥に、時節の久近を問はず、念々に捨てざる者は、是を正定の業と名づく、彼の仏願に順ずるが故に」

という文に影響されて、日本で専修念仏を唱道したのが浄土宗宗祖・法然。

専修念仏とは、仏の救いは念仏を唱える「称名念仏」によって得られるという思想。即ち、ただひたすらに念仏をを唱えることで、いつでも、どこでも、誰でもが平等に阿弥陀仏によって救われて極楽浄土に往生できるという教えは、日本の大衆の心をとらえて、日本全土に弘まった。

浄土宗の寺院・信者は、どれくらいあるのか。201172日号「週刊ダイヤモンド」誌によれば、浄土宗の寺院は6880寺、信者数6021900人。

法然の弟子・親鸞を宗祖とする浄土真宗の寺院数は18847寺。信者数は12474151人。

これは、寺院所属の信者数で、元々は江戸時代の「宗門改」による寺檀制度にまでさかのぼる。

浄土宗・浄土真宗が日本全国に弘まったのは、江戸時代よりももっと前。すなわち鎌倉時代、室町時代、戦国時代にかけてのことである。特に中でも浄土真宗本願寺派が室町時代、戦国時代にかけて大きく教線を拡大した史実は、あまりにも有名である。

増上寺16


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■三縁山増上寺1(徳川将軍家の菩提寺として繁栄)

 

増上寺とは、東京・芝公園にある浄土宗大本山の寺院で、正式には三縁山広度院増上寺という。

浄土宗とは法然を開祖、本尊は阿弥陀如来。教義は専修念仏を中心とする宗旨で、浄土専念宗とも呼ばれる。

浄土宗は京都市東山区の知恩院(華頂山知恩教院大谷寺)を総本山とする浄土宗鎮西派、長岡京市の粟生光明寺を総本山とする西山浄土宗、京都市左京区の永観堂禅林寺を総本山とする浄土宗西山禅林寺派、京都市中京区の誓願寺を総本山とする浄土宗西山深草派がある。

増上寺は、知恩院を総本山とする浄土宗の大本山で、世間一般では、単に「浄土宗」と言うと、この宗派のことを指す場合が多い。

この増上寺は、江戸時代は上野・寛永寺と並んで徳川将軍家の菩提寺だったことで、あまりにも有名。増上寺には、徳川将軍15代のうち、6人の将軍(秀忠、家宣、家継、家重、家慶、家茂)が葬られている。もうひとつの菩提寺である寛永寺墓地には、徳川将軍15人のうち6人の将軍(家綱、綱吉、吉宗、家治、家斉、家定)が眠っている。

のこる3人の将軍のうち、初代徳川家康、三代徳川家光は日光東照宮に葬られ、十五代徳川慶喜は東京谷中霊園に葬られている。

増上寺の徳川将軍家霊廟は、普段は非公開。年に数回、限られた期間限定で「特別公開日」が決められ、その期間のみ、一般公開される。この徳川霊廟特別公開日には、一度、見学に行ったことがあります。

増上寺12徳川家廟公開
 

場所的にも、増上寺があるところは東京・芝公園で、東京タワーのすぐそば。東京都心にあり、アクセスもJR浜松町駅、地下鉄・大門駅、地下鉄・赤羽橋駅が歩いて行ける所にある。増上寺三門も、都心の幹線道路・日比谷通りに面している。というわけで、ここは普段から参拝客が多く、参拝客の中には、ビジネスマンやサラリーマン風の人も見かけます。

私も仕事等で増上寺近辺に来る機会がかなりあり、ここは何度も来ています。

新年の初詣にも、たくさんの人が参拝に来ています。

増上寺の開創は明徳4(1393)に西誉聖聰によって江戸貝塚(現東京都千代田区平河町)に開山されたこととしている。しかし増上寺が徳川将軍家の菩提寺になるまでの歴史、なぜ増上寺が徳川将軍家の菩提寺になったのか、については明瞭ではなく、増上寺が発刊している小冊子「浄土宗大本山増上寺」を紐解いても、増上寺が徳川将軍家の菩提寺になった縁由について

「天正18(1590)、徳川家康公が関東八カ国に封ぜられ江戸に入国すると、当時の住職、源譽存応上人と親しく交わり、増上寺を徳川家の菩提寺としました」

と記すのみ。

増上寺31三門
 

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