仏教宗学研究会のブログ

「仏教宗学研究会」とは会の名称。「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「仏教宗学研究会のブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

「仏教宗学研究会」とは「アンチ日蓮正宗」管理人が設立した会の名称。この会の中で、「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄。
「仏教宗学研究会のブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。富士門流執着軍団批判は「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄だが、「日蓮正宗系」以外の富士門流寺院の調査・研究は「仏教宗学研究会のブログ」の管轄。
「仏教宗学研究会」への誹謗中傷に対する反撃・糾弾は「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄。
さらに正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗」の公式サイト「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」から、カルト宗教対策、カルト宗教取締特別立法、カルト宗教拡散防止条約制定の活動部分を独立させたものが「国際カルト宗教対策委員会(Icat-Cult)」

□正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗」(アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ)
http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/
□正式名「国際カルト宗教対策委員会・International Committee AgainsT Cult」略称名「ICAT-CULTアイキャットカルト・ICATアイキャット」
http://international-committee-against-cult.doorblog.jp/

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□「「3ブログ」は言論の自由・表現の自由のサイトであり名誉毀損・誹謗中傷・業務妨害サイトではない」
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(管理人名)英昭彦(hide_akihiko)

日本文化研究・怨霊信仰・御霊信仰

鎌倉妙本寺(2)~なぜ比企能員の乱で比企能本(大学三郎能本)だけが生き残ったのか

■鎌倉妙本寺2(なぜ比企能本だけが生き残ったのか)

 

□なぜ比企能員の乱で比企能本(大学三郎能本)だけが比企能員の乱で生き残ったのか

 

鎌倉妙本寺の境内は実に広い。ここが鎌倉幕府の有力御家人・比企能員の屋敷跡ということだから、鎌倉時代初期のころの比企一族の栄華が窺い知れる。

ところで鎌倉妙本寺は、比企一族の生き残りである比企能本(大学三郎能本)の建立・開基ということになっている。公式には比企一族は滅亡した、となっているが、一人だけ生き残りがいたということである。比企能員妻妾ならびに比企能員の末子である2歳の男子は和田義盛に預けられ、安房国へ配流となった。この和田義盛に預けられた比企能員の末子である2歳の男子が、後の比企能本である。これは不思議に思いました。なぜ比企能本だけが生き残ったのか。なぜかというと、平安、鎌倉の上古の時代から武家の戦で敗北したて方は、女子は仏門に入ることを条件に命は助けられるケースが多いが、男子は小さな子どもも含めて全員が誅殺されるのが、常識だった。

1159(平治1)年の平清盛と源義朝・藤原信頼の合戦「平治の乱」で、敗北した源氏方は全員誅殺されたが、平清盛の継母・池禅尼の命乞いにより、源義朝の嫡男・頼朝は誅殺を免れ、伊豆に流罪と成った。

その源頼朝が長じて1180(治承4)年、平家打倒の旗揚げを行う。これから約5年にわたる源平合戦が起こり1185(寿永4)3月、長門国壇ノ浦で平家が滅亡する。

この事件から、戦に敗北した方の生き残りが、後年に報復することを怖れ、源頼朝自身が戦で打ち破った相手方の男子を徹底的に殲滅・誅殺した。

木曾義仲の嫡男、源義経の嫡男しかり。これは源頼朝死後も同様で、鎌倉幕府によって滅ぼされた阿野全成の嫡男、梶原景時の嫡男、畠山重忠の嫡男、和田義盛の嫡男、さらには源頼家の嫡男・一幡、公暁、禅暁等、全員が誅殺されている。

ところが、比企能員の乱で、北条方の目の敵にされていた比企一族が滅亡したほずなのに、比企能員の末子である2歳の男子・比企能本だけが生き残ったというのは、何とも不思議である。

比企能本が長じて日蓮の弟子になり、比企一族の旧屋敷跡が鎌倉妙本寺になったわけだから、比企能本が生き残らなければ、鎌倉妙本寺もなかったかもしれない。

又、ただ一人生き残った比企能本が、後年、長じてから比企一族を滅亡せしめた北条氏が支配する鎌倉幕府に対して、何もしなかったというのも、全く不思議である。

鎌倉妙本寺の境内を歩くと、比企能員の乱にまつわる比企一族の供養塔、一幡の廟、竹御所の墓、比企能員の乱で井戸に飛び込んで自害したという源頼家の正妻・若狭局を祀る蛇苦止の井。

史料によれば、自害した若狭局は、後に北条政村の娘に霊となってとりつき、日蓮によって供養され祀られた、ということになっている。が、こういう故事を記した日蓮の遺文はない。

妙本寺25 

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宇治平等院(4)~平等院鳳凰堂でひたすら極楽往生を願っていた摂関家・藤原氏

■宇治平等院4(摂関家・藤原氏)

 

□藤原摂関家・平安貴族たちが「観想念仏」をするために建てられた平等院鳳凰堂

 

実際に、平等院鳳凰堂の見学に行って、平安時代の日本において、他に比類する者がいないくらい絶大な権勢をふるっていた摂関家・藤原氏においてすら、西方極楽浄土への往生成仏を願っていた、という史実を目の当たりにすると、まことに心中複雑なものになりました。

藤原摂関家は、たしかに平安時代においては、絶大な権勢をふるっていたのかもしれないが、実際の政治は、というと、前九年の役や平忠常の乱、比叡山延暦寺と園城寺の紛争をはじめとする全国各地の内乱や焼き討ち、京都の大火、さらには飢饉や疫病流行に対して、なんら手立てを講じず、世は次第に戦乱の世になっていった。

ろくな政務もとらずに、世を乱れさせておいて、自分だけはひたすら死後の極楽往生を願っていたと言うのだから、今の時代の人が受ける印象は、よくないのではないだろうか。そんなに極楽往生を願っていたのなら、もっと徳治をすればよかったではないか、と言いたくもなる。

そういうことを考えると、仏教とは何なのか。宗教とは何なのか。救いとは何なのか。浄土思想とは一体何なのか、という実に奥深い課題に、つい嵌り込んでしまいそうになる。

 

奈良時代とか、平安時代という時代は、医療も医学もほとんどないに等しく、絶大な権勢をふるっていた摂関家・藤原家といえども、浄土教や浄土思想にしがみつくしかなかったということか。

何か病気にでもなれば、皇族や公家たちは、あてにならない当時の医師や薬師よりも、「病魔を退散させる」と自称して護摩行を修する霊媒師や僧侶を信頼していた。

最愛の人が寝込んでしまうと、皇族や公家、豪族たちは、病魔退散の僧侶を呼んできて、ひたすら祈祷させていた。

日本史研究家・著述家の井沢元彦氏は、ベストセラー本「逆説の日本史」の中で、日本史の謎を解明していくカギの一つとして「怨霊信仰」があると言っている。

井沢元彦氏は、日本の歴史には一貫して「怨霊信仰」が流れている、という。

井沢元彦氏は「怨霊信仰」と呼んでいるが、学問的には「御霊信仰」と呼ばれている。

「御霊信仰」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E9%9C%8A%E4%BF%A1%E4%BB%B0

 鳳凰堂9

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