一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ

「一般社団法人 仏教宗学研究会」とは任意団体として2005年から活動している会の名称。2018年5月に一般社団法人登記。当ブログ名を「仏教宗学研究会のブログ」から「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」に改名。 「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

Category: 仏教と日本文化・仏教・歴史の散歩道

□日蓮正宗系の芸能人の中に舞台監督、映画監督、脚本家、演出家、作詞家、作曲家、編曲家のジャンルの人はほとんど見あたらない

 

「仏教宗学研究会」管理人は、国立西洋美術館、ブリジストン美術館、世田谷美術館、東京都美術館、国立新美術館といった美術館へ行き、西洋絵画・彫刻の鑑賞をしている。何も仏教美術、東洋美術だけに限定しているわけではない。

私が、西洋の画家が描いた絵画で、最も感銘するのは、人物画、風景画を正確に描く絵画である写実主義である。西洋の写実主義の絵画を鑑賞すると、いつも感銘を深くします。「あれ。これは写真なのかな」と、思わず写真と見間違えてしまうような見事な風景画、人物画が、いわゆる写実主義の絵画。カイユボット展でも、写真と見間違えてしまう見事な風景画、人物画がズラリと並ぶ。

遠くから鑑賞していると「写真かな?」と思い、近づいて鑑賞してみると、コテコテの絵の具で描かれた、完全な絵画。「やっぱり絵だな」と思う。中年女性の人物画の白髪が、美術館の蛍光灯に照らされて、光っていて、本物の白髪のように見える。「あれえ」と思って、近づいてよく観察してみると、白色の絵の具に蛍光灯の光が反射しているだけ。「光の反射まで計算に入れて描いたのかな」と思ってしまった。「室内で読む女性」の絵を、少し離れて鑑賞すると、女性が手にする書類が、本物の紙の書類に見える。しかし近づいて見てみると、やはり絵の具で描かれた絵画。場内に展示されている絵画を、ひとつひとつ、くまなく鑑賞したが、まさに感銘の連続である。過去にも国立西洋美術館や、他の美術館で、何度も見事な写実主義の絵画を鑑賞して、そのたびに感銘を深くしている。

創価学会では、役者やタレントが入る「芸術部」という組織があることは有名だが、一般的に舞台俳優も含めて役者、タレント、歌手、お笑いタレントといった職種には、昔から創価学会員が多いと言われている。昨今は、インターネット上に、創価学会員の芸能人の実名がズラリと登場するが、そのほとんどが、役者、タレント、歌手、バンドマン、お笑いタレント、コメディアン、プロデューサー、スポーツ選手といったジャンルの人たちである。あとは、大手プロダクション・芸映の当時の社長が、創価学会芸術部の大幹部だと、ジャーナリスト・内藤国夫氏が報じていた。

ところが面白いことに、舞台監督、映画監督、脚本家、演出家、作詞家、作曲家、編曲家といった人たちに、創価学会員がいるとは、私はほとんど今まで聞いたことがない。

1980年代から90年代にかけて、内藤国夫氏らが創価学会員の芸能人の実名を挙げているが、その中に、舞台監督、映画監督、脚本家、演出家、作詞家、作曲家、編曲家のジャンルの人はいない。昨今、インターネット上で報じられている「創価学会員の芸能人」の中にも、舞台監督、映画監督、脚本家、演出家、作詞家、作曲家、編曲家のジャンルの人は、ほとんど見あたらない。

舞台監督、映画監督、脚本家、演出家、作詞家、作曲家、編曲家といった人の話を聞くと、「芸能界って、創価学会員が多いんだよなあ」と言う。そこに出てくる創価学会員とは、大概が役者、タレント、歌手、バンドマン、お笑いタレント、コメディアン、プロデューサーといった人たちである。

たしかに舞台演劇や映画、ドラマの主役を演じているのは役者・俳優だが、舞台、映画、ドラマの筋書きを書くのは脚本家であり、舞台、映画、ドラマそのものを造り上げるのは、舞台監督、映画監督、演出家である。だから舞台、映画、ドラマの真の主役は、監督、演出家、脚本家である。

音楽も同様で、確かに歌を歌うのは歌手であるが、その歌を書いて作り上げるのは、作詞家、作曲家、編曲家である。だから役者、タレント、歌手、バンドマン、お笑いタレント、コメディアン、プロデューサーに「創価学会員の芸能人」が多く、舞台監督、映画監督、脚本家、演出家、作詞家、作曲家、編曲家に創価学会員の名前をほとんど聞かないのは、面白い相関関係ではないかと思う。

カルト宗教では、芸術はできないということなのだろうか。

 

国立西洋美術館1

















 

(東京・上野・国立西洋美術館)

 

 

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■石山本願寺跡(大阪城公園)2(大阪城天守閣)

 

□日本人観光客の他、中国、台湾、韓国から来たと思われる団体客が大幅に増えた大阪城

 

石山本願寺跡・大阪城公園に行く最寄り駅は、JR大阪城公園駅になる。大阪城公園に行ったら、石山本願寺跡もさることながら、大阪城天守閣に足が向いてしまう。大阪の象徴と言ったら、やはりこれ。大阪城・天守閣でしょうね。今まで、大阪には幾度となく行っているのですが、大阪城天守閣にも、何度も足を運んでいます。最初にここを訪れたのは、たしか中学生の修学旅行の時だったと思います。その後、大学生のとき、卒業後も大阪に来たときには、何度も来ています。

201010月に大阪に行ったときも、大阪城天守閣に行きました。もちろん、大阪に行ったときは、必ず大阪城天守閣に行っているというわけではありませんが、やはり大阪に行くと、どうしてもここに足が向いてしまう。一回、大阪城に行かなかったことがあると、「次回は、大阪城に行こう」と思い、どうしても足が大阪城に行ってしまう。足が向いてしまうとは言っても、大阪城公園駅から大阪城天守閣までは、大阪城公園の中をひたすら歩いて行くと、およそ2025分はかかる。

歩くとは言っても、私の場合は、大阪城公園の中をいろいろ眺めたり、写真を撮りながら歩くので、実際には30分以上かかっているのではないかと思う。

大阪城天守閣の外観、天守閣の周りは、昔からさほど変わっていないような気がします。

ベンチや写真撮影の所。売店。城郭。石垣。門。天守閣入り口。昔、来たときも、こんな感じだったような気がします。そして、いつ来ても、老若男女、たくさんの人が大阪城天守閣を訪れています。それは平日も土日祝日も関係なく、たくさんの人が来ています。201010月に大阪城天守閣に行ったのも平日の昼間でしたが、たくさんの人が来ていました。どちらかというと中高年の人が多かったように思いましたが、若い男女、家族連れもたくさん居ました。又、目立ったのは、中国、台湾、韓国から来たと思われる団体客。それから欧米人。欧米人は昔から居たような気がしますが、中国・韓国からの観光客は、ここ十年くらいの間のことではないでしょうか。日本人のみならず、外国人観光客にとっても、大阪における一大観光スポットになっているようです。

8階建ての大阪城天守閣の中は、博物館のようになっていて、展示が並んでいる。3F4Fは、豊臣秀吉の時代の大坂城にスポットを当てており、大阪城天守閣の収蔵品の中から、貴重な歴史資料の実物を展示している。5Fは、国の重要文化財「大阪夏の陣図併風」に描かれている各場面を解説。7Fは、豊臣秀吉の生涯を映像、模型、パネルを使って解説している。

大阪城を築いたのはもちろん豊臣秀吉だが、豊臣氏滅亡後は、徳川幕府の大坂城代が住んでいた。大阪城天守閣内にある、さまざまな解説を読んでいると、今の大阪城の遺構は、豊臣秀吉の時代の大坂城というよりも、徳川家康の時代の大坂城の遺構が大半のようである。

しかし、大阪城天守閣内の展示は、なんといっても豊臣秀吉の時代のものが大半。当たり前のことかもしれないが。

 

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■石山本願寺跡(大阪城公園)1(広い大阪城公園)

 

□今の大阪城本丸・二の丸周辺にあったと推定されている浄土真宗・石山(大坂)本願寺

 

現在、大阪府大阪市の大阪城公園は、かつて石山本願寺があった所と伝承されている。

石山本願寺(いしやまほんがんじ)とは、戦国時代から安土桃山時代にかけて、現在の大阪府大阪市中央区大阪城付近にあった浄土真宗の寺院、城郭で、正しくは大坂本願寺という。天文2年(1533年)に本願寺教団の本山となって発展し、戦国時代の一大大名・勢力となった。しかし織田信長との石山合戦(石山本願寺戦争)の末、天正8年(1580年)に顕如が石山本願寺を織田信長に明け渡し、その直後に全焼し消滅した。その後、豊臣秀吉が大坂城を築城したとされる。

その豊臣秀吉が築いた大坂城は、1615年(慶長20年)、大坂夏の陣で落城、焼亡。豊臣氏は滅亡した。その後、徳川幕府が大坂城を再建。江戸時代にはたびたび火災による損傷と修復を繰り返し、1665年(寛文5年)には落雷によって天守を焼失している。慶応413日(1868127日)、旧幕府軍の鳥羽・伏見の戦いでの敗北によって出火。建造物のほとんどが焼失した。

現在の天守閣は、1930年(昭和5年)に再建工事が始まり、翌年に完成したもの。大坂城といえば豊臣秀吉であり、淀君、豊臣秀頼自刃の地として有名であり、石山本願寺を連想する人は皆無ではなかろうか。石山本願寺戦争ののち、豊臣秀吉が本願寺に京都の地を寄進。これが現在の西本願寺である。東本願寺は、江戸時代初期、徳川家康が、本願寺を退出した教如に寄進した土地に建立された寺院である。徳川家康は、巨大宗教勢力だった本願寺教団を東西に二分割する政策をとったとする説が、歴史の通説になっている。

石山本願寺が、どういう伽藍・堂宇があり、どれだけの僧侶がいて、どれだけの門前街があったのか等についての記録はほとんど残っていない。石山本願寺は、顕如の退去後、炎上して焼失。この時に、記録文書等々も焼失してしまったのではないかと思われる。ここに親鸞廟があったかどうかも不明。仮にあったとしても、顕如退出後、石山本願寺が焼亡してしまっていることからして、親鸞廟も焼失したのではないかと思われる。こういったことから、後に西本願寺が、高田・浄興寺から親鸞遺骨の分骨を受けて、浄興寺に礼状を出しているのではないかと推測される。

石山本願寺焼亡後、大坂城を築城した豊臣秀吉は、なかなか世継ぎに恵まれず、50才を過ぎてからようやく秀頼が生まれる。秀頼が生まれたことにより、秀吉の養子で次代関白の豊臣秀次は、高野山に蟄居させられ、その地で切腹。太閤秀吉も1598年に死去。秀頼が家督を相続するが、少年の秀頼に天下は統率できず、豊臣秀吉亡き後は、徳川家康の世になった。その豊臣秀頼は、大坂の陣に敗北。大坂夏の陣で自刃し、豊臣家は滅亡した。この地は、なかなか縁起が悪い地のようである。

 

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■日光山輪王寺・東照宮4(東照大権現2・天皇の権威)

 

□征夷大将軍・日光山・東照大権現等、徳川幕府の統治機構に必要だった天皇の権威

 

日光東照宮は、祭神として徳川家康すなわち「東照大権現」を祀る。その日光山の貫首は、京都の皇族の法親王を迎えていた。江戸時代の文献を見ると、徳川家康のことを「神君」と書いているものを見かける。徳川幕府は、家康を神格化し、神に祀りあげることで、家康の権威というものを、醸し出そうとした。たしかに江戸幕府の統治機構は、征夷大将軍を頂点とする機構が統治していた。しかしその征夷大将軍は、京都の天皇が将軍宣下を以て任命したもの。家康は、「東照大権現」として日光東照宮に祀られているが、家康が「神」になったのは、京都の天皇が「東照大権現」の神号を下賜したからである。そして徳川幕府は、日光山の貫首に京都の皇族の法親王を迎えていた。江戸幕府は、一見すると徳川家康の権威で成り立っているように見えるが、実際は将軍に任命するのも、神号を下賜したのも天皇であり、天皇の権威で成り立っていた。徳川家康は、1600年の関ヶ原の合戦で勝利し、全国の大名を臣従せしめたが、この時の徳川家康の支配体制に、豊臣秀頼・淀君は入っていなかった。1611年、徳川家康が二条城で豊臣秀頼と会見し、秀頼を服せしめたのは、前将軍・大御所としての権威である。つまり将軍として天皇から任命されていたからこそ、秀頼を服せしめることができた。つまり江戸幕府の統治機構には、天皇の権威が必要だったのである。NHK大河ドラマ「葵徳川三代」に、こんなシーンが出てくる。朝鮮通信使が日本に来訪して、三代将軍家光に謁見。朝鮮国王が、徳川家光を「日本国王」と称する国書を手渡した。家光は「日本国王」と称されたことで、「オレは日本国王。ならば京都の天子を江戸に下向させよ」と言う。「朝廷の知行は幕府が召し抱えている。幕府は朝廷にメシを食わせてやっているのだ」と。しかし家光の家臣は、「将軍は天子の将軍宣下で決まる。天子を下に置いたら、将軍は誰がどうやって決めるのか」と問う。家光は「自分で名乗ればいい」と言い出す。すると家臣は、「自分で将軍を名乗って将軍になれるのなら、オレも将軍、オレも将軍と、将軍があっちとこっちに出てきてしまうではないか」と言う。つまり将軍の権威、幕府の支配体制には、「天照大神の子孫」「地上におわす天子」としての天皇の権威が必要だったというわけである。

過去の歴史に於いて、天皇家を乗っ取る形で自ら天皇になろうとした人物はいた。弓削の道鏡は、病を患った孝謙上皇(後の称徳天皇)の傍に侍して看病して以来、その寵を受けることとなった。そして自らが天皇になろうとしたが、宇佐八幡宮神託事件が発端になり、失脚した。室町幕府三代将軍・足利義満も、自ら天皇になろうとしたという説が唱えられている。しかし足利義満は、天皇家を乗っ取る寸前になって急死する。義満の死因については、暗殺説も唱えられている。

天皇とは別の神の権威をつくろうとした人物もいた。そのひとりが平将門である。平将門は関東で挙兵し、自ら「新皇」になろうとしたが、朝廷の討伐軍によって、謀反人として誅殺された。

 

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■鶴岡八幡宮1(静の舞・大銀杏の木)

 

□朱色の舞殿にて静御前が源義経を慕って舞った『静の舞』が行われる鶴岡八幡宮

 

鶴岡八幡宮(つるがおか はちまんぐう)とは、古都・鎌倉のシンボルであり、中心的存在。

私としては、何年に一度ぐらいの頻度で、ここに初詣に行っている他、鎌倉へは何度も寺跡調査で足を運んでいますんで、そのたびにここへ立ち寄っている。たまたま行った時、偶然に鶴岡八幡宮の境内で「鎌倉まつり」が行われていた時に遭遇したこともありました。

直近の初詣は2008年の初詣で参拝しています。ここに行くと、いつもものすごい人出にほんとにビックリしてしまう。正月の初詣や「鎌倉まつり」の時の人出は、それこそハンパじゃないくらいで、鶴岡八幡宮の周辺は、車の交通規制まで行われるくらいだが、普段の週末なんかでも、若宮大路や鶴岡八幡宮周辺には、ほんとにたくさんの人たちが歩いている。こういうたくさんの人出を見ていると、この古都・鎌倉というところ、鶴岡八幡宮が、一般市民の人気スポットになっているんだなあ、と思う。

鶴岡八幡宮の三之鳥居をくぐるとすぐ右に源氏池、左側に平家池という池があり、中央には石の太鼓橋が架かっている。源氏池には産を意味する三つの島、平家池には死を意味する四つの島が配されている。これは北条政子が源平合戦の源氏の戦勝を祈願して寄進したものだという。この源氏池、平家池には、夏になると、紅白の蓮の花が咲いて、これがまた美しい。

鶴岡八幡宮から由比ヶ浜まで一直線に伸びる若宮大路と呼ばれる大通りの、二之鳥居から三之鳥居まで、通りの中央が一段高くなっている、通称・段葛(だんかずら)と呼ばれる歩道がある。

ここは源頼朝が、妻・北条政子の安産を祈願して1182(寿永1)年に築いたものなのだが、ここの両側には、桜の木がずーっと植えられていて、春には段葛全体が、見事な桜のトンネル状態になる。こう見てみると、鶴岡八幡宮というところは、春・夏・秋を通じて、花のきれいなところなんです。

あと、毎年4月の第二日曜から第三日曜にかけて、鎌倉まつりと呼ばれるビッグイベントが、鶴岡八幡宮を会場にして行われる。中でも有名なのが、静の舞と流鏑馬だ。流鏑馬(やぶさめ)は、4月第二日曜13時から、境内地中央の東西に伸びる流鏑馬馬場で行われる。疾走する馬上から正方形をした三つの的を射落としていくという勇敢な行事で、NHKのローカルニュースなどでも紹介される行事だ。静の舞(しずのまい)とは、4月第二日曜15時から、表参道の途中に建っている朱色の舞殿にて行われる。吉野山で源義経と別れ、鎌倉に連れてこられた静御前が、ある日、源頼朝の求めに応じて舞を踊った。その時、舞った静御前が、源義経を慕う次の歌を詠んだ。

「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」

「しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」

ただし当時はまだ舞殿は建立されておらず、実際に静御前が舞ったのは若宮社殿の回廊だといわれている。この故事にならって、境内の舞殿では、古式ゆかしい舞が再現される。

私としては、この鎌倉まつりの静の舞も素晴らしいと思うのですが、NHK大河ドラマ「草燃える」で、この源頼朝(石坂浩二)の前で、静御前(賀来千賀子)が舞う、静の舞のシーンが見事に演じられていて、とても印象深い。正月の初詣以外にも、鎌倉まつりや、きれいに咲く春夏秋の花の鑑賞に行くのも、いいかな、と思いますね。

 

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■京都方広寺・豊国神社3(不吉・不運な方広寺大仏)

 

□日蓮宗不受不施派弾圧の発端になった方広寺大仏殿・千僧供養会の日奥の出仕拒否

 

そもそも京都・方広寺とは、1586(天正14)年に、永禄10年(1567年)の三好・松永の戦いの兵火により焼失した、東大寺大仏殿および大仏にかわるものとして、豊臣秀吉が発願。1588(天正16)年に、京都・渋谷に移転した真宗仏光寺の跡地に建造した。1591(天正19)年に立柱式、1593(文禄2)年に上棟式、1595(文禄4)年に落慶した。この時に建造された大仏は、六丈三尺(20メートル)で、東大寺の大仏が五丈三尺だったから東大寺大仏よりも巨大だった。ただし東大寺大仏は金銅仏だが、方広寺大仏は、刀狩りで没収した刀を再利用した釘も使われたが、大仏そのものは当初の銅造ではなく、木像漆箔の大仏として建造された。大坂城内に莫大な金銀を貯蔵するなど巨大な経済力を持つ豊臣秀吉が、なぜ当初の銅造ではなく、木像漆箔の大仏として建造したのかについて記した文献がどこにも見あたらない。単に安価に仕上げようとした「手抜き」だったということだろうか。しかしその後、方広寺大仏のまわりには、不運・不幸がまとわりつく。

1595(文禄4)年の方広寺大仏殿の落慶で、秀吉は亡父母の追善のために、天台宗、真言宗、律宗、禅宗、浄土宗、日蓮宗、時宗、真宗の各宗派の僧に出仕を命じ、千人の僧の出仕で千僧供養会を行った。この千僧供養会に、日蓮宗不受不施派の日奥が出仕を拒否。これが江戸時代の不受不施派弾圧の発端になった。千僧供養会は、仏教界が秀吉に臣従するのか、しないのかを見極めるために、秀吉が敷いた「踏み絵」ではなかったのかと思われる。千人の僧が出仕する大法要は、あまりにも巨大で、出仕する千人の僧の食事を準備した台所が今も妙法院に遺る。

ところが千僧供養会の翌年の1596(文禄5)年の慶長伏見地震により、方広寺大仏は倒壊。大仏殿は倒壊を免れた。

秀吉は、倒壊した大仏のかわりに、方広寺に善光寺如来を祀ることを計画。1597(慶長2)年に、善光寺如来が京都に到着。方広寺に遷座された。ところが秀吉は1598(慶長3)年に病に伏し、さらに厳暑の夏に雪が舞うという珍事が起こった。これが善光寺如来の祟りではないかと噂され、善光寺如来は817日に善光寺に戻される。がしかし秀吉は翌日の818日に死去する。

1599(慶長4)年に、淀君・豊臣秀頼母子が、金銅大仏の再興をはかるが、1602(慶長7)年に鋳造中の大仏から火災が発生。造営中の大仏と大仏殿が焼失してしまう。

今度は徳川家康の勧めで豊臣秀頼が三度、方広寺大仏の再興を志す。1608(慶長13)年に大仏再建の工がはじまり、1610(慶長15)年に立柱式、1612(慶長17)年に大仏金箔が完成。1614(慶長19)年に梵鐘が完成。創建時よりも大きな大仏殿も完成。あとは徳川家康の承認で落慶開眼法要を待つだけ、となったところで、家康は開眼供養の延期を命じる。南禅寺僧・清韓作の方広寺梵鐘の銘文に不吉の文言ありとて、家康が激怒する方広寺「国家安康」鐘銘事件がおこる。

 

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■京都方広寺・豊国神社2(豊臣家の巨大な経済力)

 

□豊臣脅威説・豊臣討伐論に傾斜していた徳川家康に臣従する親藩・譜代大名や旗本

 

徳川家康は、なぜ豊臣秀頼を一大名として残そうとしていたのか。これは、まず織田家と豊臣秀吉の前例に則ったと思われる。豊臣秀吉は、もともとは織田信長の家臣で、本能寺の変・織田信長の死去後、山崎の合戦で明智光秀を破り、清洲会議で実質的に「ポスト織田信長」の主導権を握った。そして賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り、織田信雄・徳川家康の連合軍と対峙した小牧・長久手の戦いでは、織田信雄を臣従せしめた。その後、織田有楽斎をはじめ、織田家の武将をことごとく臣従させている。よってこれと同じように、徳川家康も、天下人になる野心がない豊臣秀頼を一大名として臣従させていく腹づもりだったと思われる。そうすれば豊臣恩顧の大名と摩擦も起こらなければ、秀頼の正妻になった孫娘・千姫の身を案じなければならなくなることもない。

しかし家康は、秀頼を一大名として残す腹づもりだったならば、なぜ家康は方広寺の「国家安康 君臣豊楽」の鐘銘を、「家康呪詛の鐘銘だ」と憤激して、大坂の陣で豊臣家を滅亡させたのか、ということになる。豊臣秀頼は天下人になる気は全くなかったが、実母の淀君があくまでも徳川家への臣従を拒否し、あくまでも天下人は秀頼だと譲らなかったからだ、という説が有力で、方広寺鐘銘事件も、当初は豊臣家を滅ぼすというよりも、淀君を懲罰する腹づもりだったという説である。

NHK大河ドラマ「葵徳川三代」も、この説を採っていて、家康が「あの女狐(めぎつね・淀君のこと)に灸をすえてやらんといかんな」と言うセリフを入れている。

これとは全く正反対に、徳川家康は虎視眈々と豊臣家を滅亡させるべくチャンスを窺っていたとする説もある。これは、このまま豊臣家を大坂城に存続させた場合、豊臣恩顧の大名をはじめ、関ヶ原の合戦で改易・減封・国替えになった徳川幕府に不満を持つ大名・武家が豊臣家のもとに集結し、今の野党的な存在になって、徳川幕藩体制を根幹から脅かす存在になることを、家康は怖れていたのではないか、とする。この説も一理あると思われる。

しかし私は、豊臣脅威説・豊臣討伐論の考えを持っていたのは徳川家康ではなく、徳川家康に臣従する親藩・譜代大名や旗本がそう考えていたのではないかと思われる。この時代は、まだ完全に戦国の世が完全に終わっておらず、戦(いくさ)で負ければ主君の改易はもちろん、家臣から一族郎党に至るまで失業。下手をすれば首を切られかねない。この時代の「失業」は、今の失業とはちがい、ハローワークもなければ求人広告があるわけじゃない。失業=死とほぼ同じ意味だった。

豊臣秀頼は、天下取りの野心はなかったとしても、実母の淀君が「天下人はあくまでも秀頼だ」と固執し、徳川幕府への臣従を拒否しつづけていた以上、徳川家康に臣従する親藩・譜代大名や旗本からすれば、これは脅威に映り、豊臣脅威説・豊臣討伐論に傾斜していくのは、必然だったのではないかと思われるからだ。

 

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■京都方広寺・豊国神社1(「国家安康 君臣豊楽」の鐘銘1)

 

□大坂の陣の発端になった「国家安康 君臣豊楽」の鐘銘の釣り鐘が今も遺る京都・方広寺

 

豊国神社(とよくにじんじゃ)とは、京都市東山区に鎮座する神社で、朝廷から神号「豊国大明神」を下賜された豊臣秀吉を祀る。豊臣家滅亡とともに徳川幕府の命により廃絶となったが、のちに明治天皇の指示により再興された。豊臣秀吉の遺骸は伏見城から密かに阿弥陀ヶ峰に運ばれて埋葬され、阿弥陀ヶ峰には豪壮な豊国神社が創建された。これが今の「豊国廟」で、朝廷からは「豊国(とよくに)大明神」の神号が与えられた。豊国神社を「ほうこくじんじゃ」、豊国大明神を「ほうこくだいみょうじん」と読む人、ふりがなを付けている文献もある。

方広寺とは、大坂の陣の発端になった「国家安康 君臣豊楽」の鐘銘がある釣り鐘があることで、あまりにも有名。方広寺は現在、天台宗寺院として、本堂と釣り鐘が遺っているのみ。かつて豊臣秀吉が造立し、地震で倒壊した方広寺大仏殿の跡地が、今の京都・豊国神社である。

方広寺の見所は、何と言っても「国家安康 君臣豊楽」の鐘銘がある釣り鐘。当時の釣り鐘がそのまま遺っていて、「国家安康 君臣豊楽」の鐘銘を間近に見学することができる。私が方広寺に行ったときも、平日の昼間にもかかわらず、数人の見学客が来ていて、釣り鐘を叩いたり、「国家安康」の鐘銘を、まざまざと見学していた。この釣り鐘は、現在、国の重要文化財に指定されている。

さて日本史の通説によれば、方広寺の「国家安康 君臣豊楽」の鐘銘を知った大御所(前将軍)・徳川家康が、これは家康の名を分断し呪詛するものだと激怒。大坂方は必死に弁明したが、徳川幕府からこの鐘銘について諮問された京都五山、林羅山は、いずれも「家康の諱を割ったことは良くないこと」「前代未聞」と批判的回答を示した。歴史学者の一部は、方広寺釣り鐘の鐘銘を、徳川家康を呪詛するものと解釈し、豊臣家攻撃の口実としたのは、徳川家康は、関ヶ原の合戦以降、豊臣家潰しの機会を虎視眈々と狙っており、方広寺鐘銘事件は、徳川家康にとっては願ってもない豊臣家攻撃のチャンス到来だったのだ、という説を唱えている。

1598年の豊臣秀吉の死後、豊臣家臣従の大名の中で250万石の最大の大名、五大老の筆頭で、筆頭官位・内大臣だった徳川家康が、政治の実務を取り仕切った。ところが徳川家康の執政を「家康の専横」と反発する大名と、石田三成に反発し徳川家康を支持する大名に分かれ、1600年に関ヶ原の合戦となる。この合戦に勝利した徳川家康は、全国の大名を臣従せしめ、実質的に天下人になった。1603年、徳川家康は天皇から征夷大将軍に任命され江戸幕府を開く。

この時点で、すでに徳川家康は関白職を公家に返上するとして、1601年、再び公家の九条兼孝が関白に任ぜられ、豊臣秀頼が関白になる可能性が実質的に消滅。1605年、徳川家康は将軍職を秀忠に譲って大御所となり、江戸幕府は代々、徳川将軍家が相続していくことを宣明する。

そうすると、大坂城の豊臣秀頼・淀君親子はどうなるんだ、ということになる。豊臣秀頼はまだ若かったが、実母の淀君が後ろ盾としており、淀君はあくまでも豊臣秀頼が天下人だと考えていた。

 

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金沢・妙立寺2(外敵を欺く複雑な建築構造と怪奇な仕掛け2)

 

□外敵を欺く複雑な建築構造と怪奇な仕掛けが多数あることから「忍者寺」の名で有名な妙立寺2

 

金沢妙立寺とは、1585(天正13)年に、加賀国領主・前田利家の祈願寺として、前田利家の居城・金沢城付近に建立したのが最初。その後、加賀藩第三代藩主・前田利常が、幕府からの攻撃に備え、1643(寛永20)年に、現在地に移転した、日蓮宗の日像門流の寺院。江戸時代は幕命で三階建て以上の建築は禁止されていた時代だが、妙立寺は本堂につづく庫裡は、外観が二階建て。しかし内部は四階七層になっていて、中二階、中々二階などの複雑な構造の中に、23の部屋と29の階段がある。物見台のような本堂屋上の望楼からは各方面を遠望でき、金沢城までの地下道がつづいていると伝承される大井戸。隠し部屋、隠し階段、どんでん返し、抜け穴、落とし穴などが多数見られる、まさに複雑怪奇な構造で数々の仕掛けがあることから、「忍者寺」の異名が生まれた。「忍者寺」の名は、「忍者の寺」という意味ではない。

床板をはずすと階段状の落とし穴になりうる渡り廊下。一方の戸は戸外へ、もう一方の戸は別棟へと通じる二枚戸。往時は、足を踏み入れると、畳が外れて落とし穴になったという、賽銭箱。

妙立寺の全階段の29ヶ所のうち、6ヶ所が本堂に集中。左端の階段は、手前の床板をはずせば、落とし穴になる。本堂裏には隠し階段があり、物置の戸を開いて床板をまくると、階段がある。身を隠して逃げられるようになっている。床板には、溝が刻まれて、戸を閉めると自動ロックになって開かなくなる。床下には、通路がつくられている。本堂階段群の左端の、渡り廊下に見せた階段が、落とし穴になっている。また下男部屋への通路になっていて、身を隠せるような仕掛けになっている。金沢は冬になれば1メートルから1メートル50センチ級の雪が降る雪国である。妙立寺は永年の風雪に耐え、木造建築には巨大な梁が堂内のいたる所に使用され、積雪の重みを分散する頑強なつくりになっている。現代でも、これくらいの複雑な構造の寺院を建立しようとなれば、大変な費用と労力がかかると思われるが、江戸時代に、こういう寺院を造り上げた加賀藩主・前田家は、やはり本気で幕府との戦争を想定していたものと思われる。

ところでこれだけ複雑な構造になっている妙立寺を、2010年、歩行困難で杖をついて歩いていた父親を連れて見学。ところがこの時、案内の女性が、杖をついて歩いていた私の父親を見て

「寺の中では杖はダメですよ。大丈夫ですか」と、けっこう高飛車な言い方をしたので、これを聞いていた私は、少しばかりムッときた。私もいろいろな寺院を訪ね歩きましたが、どこの宗派を問わず、こういう言い方をする人はいますね。大石寺をはじめとする「日蓮正宗系」や、西山本門寺、その関連、ないし旧末寺、京都要法寺などの富士門流寺院に、こういう人がいましたね。せっかく寺院に行っても、こういう人が出てくると、ため息が出てしまう。私としては、仏教寺院に、世間並みの接客を要求しようとは全く考えていないし、そんなことを要求しようとも思っていない。しかし、杖をついて歩いている老人に対して、この言い方はないだろうと思った。

 

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金沢・妙立寺1(外敵を欺く複雑な建築構造と怪奇な仕掛け)

 

□外敵を欺く複雑な建築構造と怪奇な仕掛けが多数あることから「忍者寺」の名で有名な妙立寺

 

金沢・妙立寺とは、正式には正久山妙立寺といい、日蓮宗の寺院。旧本山は京都立本寺。日像門流の寺院。通称名は「忍者寺」という名前で有名。地元・金沢市でも妙立寺の正式名よりも「忍者寺」(にんじゃでら)の名前で有名である。「忍者寺」という名前は、忍者の寺という意味ではなく、複雑な建築構造と外敵を欺くさまざまな複雑怪奇な仕掛けが多数あることから「忍者寺」と呼ばれている。金沢市は、北海道、京都、奈良、飛鳥地方等と同じく、第二次世界大戦の爆撃・空襲被害が全くなかった地域であるため、江戸時代、明治・大正・昭和初期のころからの文化財が数多く遺っている町。長町武家屋敷、兼六園、成巽閣等はその代表格であるが、これらと並ぶ金沢市の文化財の代表格のひとつがこの妙立寺。金沢市には仏教寺院ばかりが密集する「寺町」という町名の地域があるが、その中に妙立寺がある。

ここに行く最寄り駅は(?)というと、北陸鉄道・野町駅ということになるが、金沢市のターミナル駅であるJR金沢駅からはかなり遠い。野町駅に行くには、JR西金沢駅で乗り換えなければならず、電車一本では行けない。妙立寺に行くのに、電車で行く人は皆無ではないだろうか。

金沢駅から行くのであればバスを利用するしかない。かつて金沢市内にも、大通りには路面電車が走っていた。金沢駅から武蔵が辻、香林坊、片町、兼六園、金沢城跡等には、路面電車で行けたのであったが、昭和40年代の高度成長時代に全て廃止になってしまった。なぜ廃止になったのかというと、車の通行量の増加で渋滞が発生し、車も路面電車も両方がお互いに、通行の妨げになってしまった為。それで路面電車が廃止に。ところが高度成長時代から金沢市内には大量の車が流入を続け、昭和4050年代は、著しい道路渋滞が発生。排気ガスによる公害も指摘されていた。国道8号線金沢バイパス、津幡バイパス、国道157号線鶴来バイパス、北陸高速自動車道、山側環状道路等の開通で、金沢市内に流入する車の量は減ったものの、依然として金沢市内中心部は、車の量は多い。なので金沢駅前から妙立寺までバスで行っても、かなり時間がかかる。しかも金沢市内には、今でも地下鉄がない。これだけ道路に車が溢れ、市内の移動に時間がかかるのに、道路渋滞関係なく、スピーディーに移動が可能な地下鉄が今でもないのも不思議に思う。というわけなので、妙立寺に行くにはバスを利用するか、車で行くしかない。ところが妙立寺は、寺院が密集する寺町の中にあるため、駐車場には数台しか車を駐車できない。門前には駐車スペースがあるが、ここは実車タクシーの待機場所になっていて、一般車は駐車禁止。ところが大勢の参拝人、観光客が訪れる妙立寺の駐車スペースは、これでは大幅不足である。そのため、何と極楽寺などの近隣の寺院が妙立寺に行く観光客のために駐車場を有料で貸している寺院がある。その他は西茶屋観光駐車場やコインパーキングなどの有料駐車場が近隣にいくつかある。私個人としては、西茶屋観光駐車場が便利なように思いました。

 

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□釈迦如来の生誕年が従来の主流学説から約100年ほどさかのぼる可能性も

 

1126日、mixiニュースで、久しぶりに仏教遺跡に関するニュースが流れた。まずはここにニュース配信記事を引用します。

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「世界最古の仏教寺院発見、ネパール」20131126 19:10

世界最古の仏教寺院がネパールで発掘された。紀元前550年ごろの遺跡で、釈迦(しゃか)の生年が従来の主流学説から100年ほど遡る可能性があるという。発掘現場のネパール中南部、ルンビニ村は、釈迦(ゴータマ・シッダールタ)の生誕地として知られている。

研究チームのリーダーで、イギリスにあるダラム大学の考古学者ロビン・カニンガム(Robin Coningham)氏は、「分析の結果、世界最古の仏教寺院と判明した」と話す。

古代の木造遺跡は、毎年数十万規模の巡礼者が訪れる寺院のレンガ構造の地下に埋もれていた。後年その上部に建立されたレンガ造りの仏教寺院は、古代のレイアウトを複製している。「つまり、仏教の聖地としての連続性を示している」とカニンガム氏は解説する。「釈迦の生年については論争が絶えないが、とりあえず紀元前6世紀には仏教寺院が存在していたことが確定した」。

◆釈迦の生誕地

 仏教は世界三大宗教の1つで、信者は東アジアを中心に35000万人以上に及ぶ。

 開祖である釈迦の生年は不明で、ネパール当局は「紀元前623年」説を支持するが、ほかにもさまざまな伝承があり、「紀元前400年前後」とする説も有力だ。いずれにせよ、古代インドのアショーカ王が巡礼を行った紀元前249年の段階で、ルンビニが仏教の聖地として尊ばれていたことは誰もが認めている。その後に寂れてしまうが、釈迦の母マーヤー・デーヴィーの名を冠したマーヤー・デーヴィー寺院などの遺跡が1896年に発見され再び表舞台に登場、現在は世界遺産(文化遺産)に登録されている。巡礼者や観光客による損傷を懸念したユネスコは、ネパール政府や日本政府の協力の下、カニンガム氏を中心とする国際的な研究チームを結成してルンビニ遺跡の状態を調査。今回の地下遺跡の発掘につながった。

◆古代の木造寺院

カニンガム氏は、「レンガ造りの寺院の地下に、柱穴が見つかった。欄干が木造寺院を囲んでいた証拠だ。また、地上よりも古いレンガ構造も埋もれていた」と語る。

柱穴から採取した木炭を、複数の年代測定法(放射性炭素法と光ルミネセンス法(OSL))で調査したところ、紀元前550年前後に遡ると判明。

「さまざまな発掘品から判断すると、この地で耕作が興ったのが紀元前1000年前後で、紀元前6世紀までには仏教僧のコミュニティーが出来上がっていたと考えられる」。

◆学界の反応

イギリスのレスター大学の考古学者ルース・ヤング(Ruth Young)氏は、「非常に興味深い成果で、アショーカ王の時代よりも数世紀前に仏教が勃興していたことになる」と評価する。

 

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■京都・慈照寺銀閣1(全く銀箔が貼られていない銀閣)

 

□京都・東山で京都駅からのアクセスがかなり不便な所にある足利義政の山荘・慈照寺銀閣

 

慈照寺とは、室町幕府八代将軍・足利義政が鹿苑寺舎利殿(金閣)を模して造営した観音殿・銀閣、観音殿を含めた寺院全体は銀閣寺として知られる寺院で、鹿苑寺と同じく臨済宗相国寺派の寺院。ここも「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。

ここは、室町時代後期に栄えた東山文化を代表する建築というふうに言われるように、京都・洛東の東山になるが、同じ東山でも知恩院、南禅寺、平安神宮、祇園がある東山三条からは、かなり離れている。ここはJRや地下鉄の最寄り駅はかなり遠く、京都駅からのアクセスがなかなか不便。ここへは、修学旅行で来ているほか、自分で旅費を支弁した個人旅行で最初に来たのは、1988(昭和63)年に四国旅行に行く途中。1993(平成5)年の全国旅行でも慈照寺に来ている。これらの個人旅行は自家用車で来たのでしたが、寺跡調査で2008年に慈照寺に来たときは、京都駅から銀閣寺前行きのバスに乗った。しかしこのバスは、京都駅からの所要時間が長い上に、バスの中が大混雑で、始発から終点まで、ずーっと立ち席。かなりきつかったですね。さらにその上に、銀閣寺前バス停で下車してから、慈照寺総門までの距離が長い。しかも、ゆるい登り坂になっているので、京都駅から慈照寺に着いた頃は、かなり体力的に、へばってしまった。バスでここに行くのは、かなりきついものがありますね。

バス停から総門につづく参道脇には、料理店、そば店、露天風の店、みあげもの店、定食店などが軒を連ねている。フランクフルトを売っている店もありましたが、表示は「ウインナー」。京都では、フランクフルトのことを、ウインナーと言うらしい。そういえば、私の子どもの頃、私の母親が「ウインナー」という言葉を使っていた様な気がする。2008年に慈照寺に来たときは、銀閣は修復工事中であった。

通称・銀閣とよばれる堂宇・観音殿は、鹿苑寺金閣と比べたら、実にこじんまりした山荘に見える。一見して、中世の上流階級の山荘か、別荘に見える。名前は「銀閣」と言うが、ここに金箔や銀箔が貼ってあるわけではない。観音殿(銀閣)の後方は、山肌になっていて、月待山の山肌には、展望所があり、山の上から慈照寺銀閣を見下ろすこともできる。慈照寺にも日本庭園が広がっているが、こちらの日本庭園は、鹿苑寺の日本庭園と比べたら、こちらは狭く感じる。

慈照寺銀閣2 













(慈照寺観音殿・銀閣)

慈照寺銀閣4 











(慈照寺総門)

 

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■鎌倉妙本寺1(比企能員の変で滅亡した比企氏館跡)

 

□比企能員の変で滅亡した比企氏館跡に建っている日蓮宗本山・鎌倉妙本寺

 

鎌倉妙本寺とは、神奈川県鎌倉市大町にある日蓮宗の本山(霊蹟寺院)で、鎌倉駅東口から徒歩10分ぐらいのところにある。正式名称は長興山妙本寺という。

文応元年(1260年)の創建。開基は比企能本、開山は日朗。日朗門流の本山で、長い間、池上本門寺と両山一首制になっていた。池上本門寺と鎌倉妙本寺の両山一首制は、1941(昭和16)年までつづき、江戸時代には池上本門寺に貫首が住し、鎌倉妙本寺には司務職として本行院住職が管理していた。1842(天保13)年、天保の改革で廃寺になった感応寺の厨子を移設している。

霊寶殿には、日蓮、日朗ゆかりの寺宝が納められている。霊寶殿には、日蓮真筆「臨滅度時の本尊」も格蔵されている。この曼荼羅本尊を板に模刻した板曼荼羅が池上本門寺大堂や大坊本行寺ご臨終の間に祀られている。

 

現在、鎌倉妙本寺のある場所は、比企ヶ谷(ひきがやつ)と呼ばれ、比企ヶ谷妙本寺の名前でも呼ばれている。この比企ヶ谷は、鎌倉時代には鎌倉幕府の有力御家人・比企能員(よしかず)一族の屋敷があった所である。

比企能員一族は、源頼朝の治承の旗揚げ以来の御家人で、比企局は、源頼朝の嫡男・頼家の乳母。さらに源頼家は、比企能員の娘との間に嫡男・一幡をもうけ、一幡も比企能員一族の手で養育されていた。

鎌倉幕府では、源頼朝の正室・北条政子の実父・北条時政が、将軍頼朝の舅として絶大な勢力を持っており、頼朝の死後、頼家が二代将軍となって以降も、北条時政は源頼家の祖父、北条義時は伯父として、権力を狙っていた。源頼朝の死後、北条時政一族と比企能員一族の間に権力闘争が起きる。

鎌倉幕府二代将軍・源頼家の数々の不行跡や土地紛争の裁決等に不満を抱く御家人たちを、北条時政がうまくまとめあげ、源頼家から裁判権を取り上げて、13人の御家人の合議制にした。

これが火種になって北条時政を支持する御家人たちと源頼家・比企能員一族の間に対立が深まる。その後、源頼家が昏睡状態になってしまうほどの重大な病に倒れる。北条時政・義時一族は2代将軍・源頼家の危篤にこと寄せて、比企一族を打倒して、頼家から弟・実朝への相続を画策。

北条側は、鎌倉幕府の有力御家人・安達、三浦、和田一族らを味方に引き入れ、北条時政が仏事にこと寄せて比企能員を鎌倉・名越の北条の館におびき寄せ、平服で来た比企能員が北条方に誅殺される。ここで北条側が比企一族を電撃的に急襲。これがいわゆる比企能員の乱といわれる北条と比企の戦争だが、鎌倉幕府の御家人を二分するほどの戦争になった。

力尽きた比企側は館に火を放ち、それぞれ一幡の前で自害。一幡も炎の中で死んだ。

比企能員の嫡男・比企余一郎兵衛尉は女装して戦場を抜け出したが、道中で加藤景廉に首を取られた。夜に入って比企能員の舅・渋河兼忠が誅殺された。

妙本寺18一幡墓 

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