仏教宗学研究会のブログ

「仏教宗学研究会」とは会の名称。「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「仏教宗学研究会のブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

「仏教宗学研究会」とは「アンチ日蓮正宗」管理人が設立した会の名称。この会の中で、「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄。
「仏教宗学研究会のブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。富士門流執着軍団批判は「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄だが、「日蓮正宗系」以外の富士門流寺院の調査・研究は「仏教宗学研究会のブログ」の管轄。
「仏教宗学研究会」への誹謗中傷に対する反撃・糾弾は「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄。
さらに正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗」の公式サイト「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」から、カルト宗教対策、カルト宗教取締特別立法、カルト宗教拡散防止条約制定の活動部分を独立させたものが「国際カルト宗教対策委員会(Icat-Cult)」

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仏教と日本文化・仏教・歴史の散歩道

創価学会、顕正会、日蓮正宗等「日蓮正宗系」カルト宗教と美術・芸術活動は両立しないか(?)

□日蓮正宗系の芸能人の中に舞台監督、映画監督、脚本家、演出家、作詞家、作曲家、編曲家のジャンルの人はほとんど見あたらない

 

「仏教宗学研究会」管理人は、国立西洋美術館、ブリジストン美術館、世田谷美術館、東京都美術館、国立新美術館といった美術館へ行き、西洋絵画・彫刻の鑑賞をしている。何も仏教美術、東洋美術だけに限定しているわけではない。

私が、西洋の画家が描いた絵画で、最も感銘するのは、人物画、風景画を正確に描く絵画である写実主義である。西洋の写実主義の絵画を鑑賞すると、いつも感銘を深くします。「あれ。これは写真なのかな」と、思わず写真と見間違えてしまうような見事な風景画、人物画が、いわゆる写実主義の絵画。カイユボット展でも、写真と見間違えてしまう見事な風景画、人物画がズラリと並ぶ。

遠くから鑑賞していると「写真かな?」と思い、近づいて鑑賞してみると、コテコテの絵の具で描かれた、完全な絵画。「やっぱり絵だな」と思う。中年女性の人物画の白髪が、美術館の蛍光灯に照らされて、光っていて、本物の白髪のように見える。「あれえ」と思って、近づいてよく観察してみると、白色の絵の具に蛍光灯の光が反射しているだけ。「光の反射まで計算に入れて描いたのかな」と思ってしまった。「室内で読む女性」の絵を、少し離れて鑑賞すると、女性が手にする書類が、本物の紙の書類に見える。しかし近づいて見てみると、やはり絵の具で描かれた絵画。場内に展示されている絵画を、ひとつひとつ、くまなく鑑賞したが、まさに感銘の連続である。過去にも国立西洋美術館や、他の美術館で、何度も見事な写実主義の絵画を鑑賞して、そのたびに感銘を深くしている。

創価学会では、役者やタレントが入る「芸術部」という組織があることは有名だが、一般的に舞台俳優も含めて役者、タレント、歌手、お笑いタレントといった職種には、昔から創価学会員が多いと言われている。昨今は、インターネット上に、創価学会員の芸能人の実名がズラリと登場するが、そのほとんどが、役者、タレント、歌手、バンドマン、お笑いタレント、コメディアン、プロデューサー、スポーツ選手といったジャンルの人たちである。あとは、大手プロダクション・芸映の当時の社長が、創価学会芸術部の大幹部だと、ジャーナリスト・内藤国夫氏が報じていた。

ところが面白いことに、舞台監督、映画監督、脚本家、演出家、作詞家、作曲家、編曲家といった人たちに、創価学会員がいるとは、私はほとんど今まで聞いたことがない。

1980年代から90年代にかけて、内藤国夫氏らが創価学会員の芸能人の実名を挙げているが、その中に、舞台監督、映画監督、脚本家、演出家、作詞家、作曲家、編曲家のジャンルの人はいない。昨今、インターネット上で報じられている「創価学会員の芸能人」の中にも、舞台監督、映画監督、脚本家、演出家、作詞家、作曲家、編曲家のジャンルの人は、ほとんど見あたらない。

舞台監督、映画監督、脚本家、演出家、作詞家、作曲家、編曲家といった人の話を聞くと、「芸能界って、創価学会員が多いんだよなあ」と言う。そこに出てくる創価学会員とは、大概が役者、タレント、歌手、バンドマン、お笑いタレント、コメディアン、プロデューサーといった人たちである。

たしかに舞台演劇や映画、ドラマの主役を演じているのは役者・俳優だが、舞台、映画、ドラマの筋書きを書くのは脚本家であり、舞台、映画、ドラマそのものを造り上げるのは、舞台監督、映画監督、演出家である。だから舞台、映画、ドラマの真の主役は、監督、演出家、脚本家である。

音楽も同様で、確かに歌を歌うのは歌手であるが、その歌を書いて作り上げるのは、作詞家、作曲家、編曲家である。だから役者、タレント、歌手、バンドマン、お笑いタレント、コメディアン、プロデューサーに「創価学会員の芸能人」が多く、舞台監督、映画監督、脚本家、演出家、作詞家、作曲家、編曲家に創価学会員の名前をほとんど聞かないのは、面白い相関関係ではないかと思う。

カルト宗教では、芸術はできないということなのだろうか。

 

国立西洋美術館1

















 

(東京・上野・国立西洋美術館)

 

 

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石山本願寺跡・大阪城公園(2)~日本人観光客の他、中国、台湾、韓国から来たと思われる団体客が大幅に増えた大阪城

■石山本願寺跡(大阪城公園)2(大阪城天守閣)

 

□日本人観光客の他、中国、台湾、韓国から来たと思われる団体客が大幅に増えた大阪城

 

石山本願寺跡・大阪城公園に行く最寄り駅は、JR大阪城公園駅になる。大阪城公園に行ったら、石山本願寺跡もさることながら、大阪城天守閣に足が向いてしまう。大阪の象徴と言ったら、やはりこれ。大阪城・天守閣でしょうね。今まで、大阪には幾度となく行っているのですが、大阪城天守閣にも、何度も足を運んでいます。最初にここを訪れたのは、たしか中学生の修学旅行の時だったと思います。その後、大学生のとき、卒業後も大阪に来たときには、何度も来ています。

201010月に大阪に行ったときも、大阪城天守閣に行きました。もちろん、大阪に行ったときは、必ず大阪城天守閣に行っているというわけではありませんが、やはり大阪に行くと、どうしてもここに足が向いてしまう。一回、大阪城に行かなかったことがあると、「次回は、大阪城に行こう」と思い、どうしても足が大阪城に行ってしまう。足が向いてしまうとは言っても、大阪城公園駅から大阪城天守閣までは、大阪城公園の中をひたすら歩いて行くと、およそ2025分はかかる。

歩くとは言っても、私の場合は、大阪城公園の中をいろいろ眺めたり、写真を撮りながら歩くので、実際には30分以上かかっているのではないかと思う。

大阪城天守閣の外観、天守閣の周りは、昔からさほど変わっていないような気がします。

ベンチや写真撮影の所。売店。城郭。石垣。門。天守閣入り口。昔、来たときも、こんな感じだったような気がします。そして、いつ来ても、老若男女、たくさんの人が大阪城天守閣を訪れています。それは平日も土日祝日も関係なく、たくさんの人が来ています。201010月に大阪城天守閣に行ったのも平日の昼間でしたが、たくさんの人が来ていました。どちらかというと中高年の人が多かったように思いましたが、若い男女、家族連れもたくさん居ました。又、目立ったのは、中国、台湾、韓国から来たと思われる団体客。それから欧米人。欧米人は昔から居たような気がしますが、中国・韓国からの観光客は、ここ十年くらいの間のことではないでしょうか。日本人のみならず、外国人観光客にとっても、大阪における一大観光スポットになっているようです。

8階建ての大阪城天守閣の中は、博物館のようになっていて、展示が並んでいる。3F4Fは、豊臣秀吉の時代の大坂城にスポットを当てており、大阪城天守閣の収蔵品の中から、貴重な歴史資料の実物を展示している。5Fは、国の重要文化財「大阪夏の陣図併風」に描かれている各場面を解説。7Fは、豊臣秀吉の生涯を映像、模型、パネルを使って解説している。

大阪城を築いたのはもちろん豊臣秀吉だが、豊臣氏滅亡後は、徳川幕府の大坂城代が住んでいた。大阪城天守閣内にある、さまざまな解説を読んでいると、今の大阪城の遺構は、豊臣秀吉の時代の大坂城というよりも、徳川家康の時代の大坂城の遺構が大半のようである。

しかし、大阪城天守閣内の展示は、なんといっても豊臣秀吉の時代のものが大半。当たり前のことかもしれないが。

 

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石山本願寺跡・大阪城公園(1)~今の大阪城本丸・二の丸周辺にあったと推定されている浄土真宗・石山(大坂)本願寺

■石山本願寺跡(大阪城公園)1(広い大阪城公園)

 

□今の大阪城本丸・二の丸周辺にあったと推定されている浄土真宗・石山(大坂)本願寺

 

現在、大阪府大阪市の大阪城公園は、かつて石山本願寺があった所と伝承されている。

石山本願寺(いしやまほんがんじ)とは、戦国時代から安土桃山時代にかけて、現在の大阪府大阪市中央区大阪城付近にあった浄土真宗の寺院、城郭で、正しくは大坂本願寺という。天文2年(1533年)に本願寺教団の本山となって発展し、戦国時代の一大大名・勢力となった。しかし織田信長との石山合戦(石山本願寺戦争)の末、天正8年(1580年)に顕如が石山本願寺を織田信長に明け渡し、その直後に全焼し消滅した。その後、豊臣秀吉が大坂城を築城したとされる。

その豊臣秀吉が築いた大坂城は、1615年(慶長20年)、大坂夏の陣で落城、焼亡。豊臣氏は滅亡した。その後、徳川幕府が大坂城を再建。江戸時代にはたびたび火災による損傷と修復を繰り返し、1665年(寛文5年)には落雷によって天守を焼失している。慶応413日(1868127日)、旧幕府軍の鳥羽・伏見の戦いでの敗北によって出火。建造物のほとんどが焼失した。

現在の天守閣は、1930年(昭和5年)に再建工事が始まり、翌年に完成したもの。大坂城といえば豊臣秀吉であり、淀君、豊臣秀頼自刃の地として有名であり、石山本願寺を連想する人は皆無ではなかろうか。石山本願寺戦争ののち、豊臣秀吉が本願寺に京都の地を寄進。これが現在の西本願寺である。東本願寺は、江戸時代初期、徳川家康が、本願寺を退出した教如に寄進した土地に建立された寺院である。徳川家康は、巨大宗教勢力だった本願寺教団を東西に二分割する政策をとったとする説が、歴史の通説になっている。

石山本願寺が、どういう伽藍・堂宇があり、どれだけの僧侶がいて、どれだけの門前街があったのか等についての記録はほとんど残っていない。石山本願寺は、顕如の退去後、炎上して焼失。この時に、記録文書等々も焼失してしまったのではないかと思われる。ここに親鸞廟があったかどうかも不明。仮にあったとしても、顕如退出後、石山本願寺が焼亡してしまっていることからして、親鸞廟も焼失したのではないかと思われる。こういったことから、後に西本願寺が、高田・浄興寺から親鸞遺骨の分骨を受けて、浄興寺に礼状を出しているのではないかと推測される。

石山本願寺焼亡後、大坂城を築城した豊臣秀吉は、なかなか世継ぎに恵まれず、50才を過ぎてからようやく秀頼が生まれる。秀頼が生まれたことにより、秀吉の養子で次代関白の豊臣秀次は、高野山に蟄居させられ、その地で切腹。太閤秀吉も1598年に死去。秀頼が家督を相続するが、少年の秀頼に天下は統率できず、豊臣秀吉亡き後は、徳川家康の世になった。その豊臣秀頼は、大坂の陣に敗北。大坂夏の陣で自刃し、豊臣家は滅亡した。この地は、なかなか縁起が悪い地のようである。

 

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日光山輪王寺・東照宮(4)~征夷大将軍・日光山・東照大権現等、徳川幕府の統治機構に必要だった天皇の権威

■日光山輪王寺・東照宮4(東照大権現2・天皇の権威)

 

□征夷大将軍・日光山・東照大権現等、徳川幕府の統治機構に必要だった天皇の権威

 

日光東照宮は、祭神として徳川家康すなわち「東照大権現」を祀る。その日光山の貫首は、京都の皇族の法親王を迎えていた。江戸時代の文献を見ると、徳川家康のことを「神君」と書いているものを見かける。徳川幕府は、家康を神格化し、神に祀りあげることで、家康の権威というものを、醸し出そうとした。たしかに江戸幕府の統治機構は、征夷大将軍を頂点とする機構が統治していた。しかしその征夷大将軍は、京都の天皇が将軍宣下を以て任命したもの。家康は、「東照大権現」として日光東照宮に祀られているが、家康が「神」になったのは、京都の天皇が「東照大権現」の神号を下賜したからである。そして徳川幕府は、日光山の貫首に京都の皇族の法親王を迎えていた。江戸幕府は、一見すると徳川家康の権威で成り立っているように見えるが、実際は将軍に任命するのも、神号を下賜したのも天皇であり、天皇の権威で成り立っていた。徳川家康は、1600年の関ヶ原の合戦で勝利し、全国の大名を臣従せしめたが、この時の徳川家康の支配体制に、豊臣秀頼・淀君は入っていなかった。1611年、徳川家康が二条城で豊臣秀頼と会見し、秀頼を服せしめたのは、前将軍・大御所としての権威である。つまり将軍として天皇から任命されていたからこそ、秀頼を服せしめることができた。つまり江戸幕府の統治機構には、天皇の権威が必要だったのである。NHK大河ドラマ「葵徳川三代」に、こんなシーンが出てくる。朝鮮通信使が日本に来訪して、三代将軍家光に謁見。朝鮮国王が、徳川家光を「日本国王」と称する国書を手渡した。家光は「日本国王」と称されたことで、「オレは日本国王。ならば京都の天子を江戸に下向させよ」と言う。「朝廷の知行は幕府が召し抱えている。幕府は朝廷にメシを食わせてやっているのだ」と。しかし家光の家臣は、「将軍は天子の将軍宣下で決まる。天子を下に置いたら、将軍は誰がどうやって決めるのか」と問う。家光は「自分で名乗ればいい」と言い出す。すると家臣は、「自分で将軍を名乗って将軍になれるのなら、オレも将軍、オレも将軍と、将軍があっちとこっちに出てきてしまうではないか」と言う。つまり将軍の権威、幕府の支配体制には、「天照大神の子孫」「地上におわす天子」としての天皇の権威が必要だったというわけである。

過去の歴史に於いて、天皇家を乗っ取る形で自ら天皇になろうとした人物はいた。弓削の道鏡は、病を患った孝謙上皇(後の称徳天皇)の傍に侍して看病して以来、その寵を受けることとなった。そして自らが天皇になろうとしたが、宇佐八幡宮神託事件が発端になり、失脚した。室町幕府三代将軍・足利義満も、自ら天皇になろうとしたという説が唱えられている。しかし足利義満は、天皇家を乗っ取る寸前になって急死する。義満の死因については、暗殺説も唱えられている。

天皇とは別の神の権威をつくろうとした人物もいた。そのひとりが平将門である。平将門は関東で挙兵し、自ら「新皇」になろうとしたが、朝廷の討伐軍によって、謀反人として誅殺された。

 

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鶴岡八幡宮(1)~静御前が源義経を慕って舞った『静の舞』が行われる鶴岡八幡宮(2008年の初詣)

■鶴岡八幡宮1(静の舞・大銀杏の木)

 

□朱色の舞殿にて静御前が源義経を慕って舞った『静の舞』が行われる鶴岡八幡宮

 

鶴岡八幡宮(つるがおか はちまんぐう)とは、古都・鎌倉のシンボルであり、中心的存在。

私としては、何年に一度ぐらいの頻度で、ここに初詣に行っている他、鎌倉へは何度も寺跡調査で足を運んでいますんで、そのたびにここへ立ち寄っている。たまたま行った時、偶然に鶴岡八幡宮の境内で「鎌倉まつり」が行われていた時に遭遇したこともありました。

直近の初詣は2008年の初詣で参拝しています。ここに行くと、いつもものすごい人出にほんとにビックリしてしまう。正月の初詣や「鎌倉まつり」の時の人出は、それこそハンパじゃないくらいで、鶴岡八幡宮の周辺は、車の交通規制まで行われるくらいだが、普段の週末なんかでも、若宮大路や鶴岡八幡宮周辺には、ほんとにたくさんの人たちが歩いている。こういうたくさんの人出を見ていると、この古都・鎌倉というところ、鶴岡八幡宮が、一般市民の人気スポットになっているんだなあ、と思う。

鶴岡八幡宮の三之鳥居をくぐるとすぐ右に源氏池、左側に平家池という池があり、中央には石の太鼓橋が架かっている。源氏池には産を意味する三つの島、平家池には死を意味する四つの島が配されている。これは北条政子が源平合戦の源氏の戦勝を祈願して寄進したものだという。この源氏池、平家池には、夏になると、紅白の蓮の花が咲いて、これがまた美しい。

鶴岡八幡宮から由比ヶ浜まで一直線に伸びる若宮大路と呼ばれる大通りの、二之鳥居から三之鳥居まで、通りの中央が一段高くなっている、通称・段葛(だんかずら)と呼ばれる歩道がある。

ここは源頼朝が、妻・北条政子の安産を祈願して1182(寿永1)年に築いたものなのだが、ここの両側には、桜の木がずーっと植えられていて、春には段葛全体が、見事な桜のトンネル状態になる。こう見てみると、鶴岡八幡宮というところは、春・夏・秋を通じて、花のきれいなところなんです。

あと、毎年4月の第二日曜から第三日曜にかけて、鎌倉まつりと呼ばれるビッグイベントが、鶴岡八幡宮を会場にして行われる。中でも有名なのが、静の舞と流鏑馬だ。流鏑馬(やぶさめ)は、4月第二日曜13時から、境内地中央の東西に伸びる流鏑馬馬場で行われる。疾走する馬上から正方形をした三つの的を射落としていくという勇敢な行事で、NHKのローカルニュースなどでも紹介される行事だ。静の舞(しずのまい)とは、4月第二日曜15時から、表参道の途中に建っている朱色の舞殿にて行われる。吉野山で源義経と別れ、鎌倉に連れてこられた静御前が、ある日、源頼朝の求めに応じて舞を踊った。その時、舞った静御前が、源義経を慕う次の歌を詠んだ。

「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」

「しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」

ただし当時はまだ舞殿は建立されておらず、実際に静御前が舞ったのは若宮社殿の回廊だといわれている。この故事にならって、境内の舞殿では、古式ゆかしい舞が再現される。

私としては、この鎌倉まつりの静の舞も素晴らしいと思うのですが、NHK大河ドラマ「草燃える」で、この源頼朝(石坂浩二)の前で、静御前(賀来千賀子)が舞う、静の舞のシーンが見事に演じられていて、とても印象深い。正月の初詣以外にも、鎌倉まつりや、きれいに咲く春夏秋の花の鑑賞に行くのも、いいかな、と思いますね。

 

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