一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ

「一般社団法人 仏教宗学研究会」とは任意団体として2005年から活動している会の名称。2018年5月に一般社団法人登記。当ブログ名を「仏教宗学研究会のブログ」から「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」に改名。 「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

Category: 仏教と日本伝統文化・仏教文化

■真宗・興正寺2(次代門主に華園真慶氏)

 

□浄土真宗興正派興正寺次代門主(新門)に現・華園真暢門主の長女・真慶氏に正式決定

 

アメリカでは、大統領選挙・共和党候補者・ドナルド・トランプ氏の女性蔑視発言が問題視される中、日本の仏教界で、こんなニュースが飛び込んで来た。

「真宗興正派、門主の長女が後継者就任へ

真宗興正派(本山・興正寺、京都市下京区)は(10)12日、華園真暢(しんちょう)門主(59)の長女・沙弥香(さやか)さん(22)=法名・真慶(しんきょう)=が来年(2017)4月1日、門主後継者である「嗣法(しほう)」に就任することを明らかにした。沙弥香さんは継承順位1位だったが、正式に門主を継承する立場に就く。この2年半の間に、京都市内に本山を置く浄土真宗の四つの宗派全てで、世襲制のトップの代替わりや後継者選びが完了したことになる。この日開催された興正派の最高議決機関の宗会で、龍村豊雄(ほうゆう)宗務総長(74)が、9月7日に開催された法灯(ほうとう)伝承委員会で沙弥香さんを嗣法に選定したと述べた。就任時期は来春に東京都内の大学を卒業するのに合わせたという。嗣法は「新門」とも呼ばれる。2001年4月に就任した真暢門主の子は沙弥香さんのみ。宗派の以前の規則では、男子以外は門主になることができなかったため、同年に女性が門主に就任できるよう、規則を変更していた。浄土真宗本願寺派(本山・西本願寺)では20146月に、光真(こうしん)氏(71)から長男光淳(こうじゅん)氏(39)に門主の座が譲られた。一方で、「ご隣山」の東本願寺(真宗大谷派本山)では、「お東紛争」で直系の男子4人のうち3人が宗派を離脱。18年間の後継者不在を経て、ようやく20144月に大谷暢顕(ちょうけん)門首(86)のいとこ暢裕(ちょうゆう)氏(65)を門首後継者に選定した。真宗仏光寺派(本山・仏光寺)では、続いて門主を務めた兄弟がいずれも退任し、20109月に兄弟の母・渋谷恵照(えしょう)氏(91)が門主に就任した。今年(2016)11月に、恵照門主の孫・覚(さとし)氏(36)が門主後継者の「新門」に就任する。」

(ヤフージャパンニュースより)


「真宗興正派の門主後継者に女子大学生…来年就任

真宗興正派(本山・興正寺、京都市下京区)の門主後継者「嗣法」に、華園真暢門主(59)の長女で、日本獣医生命科学大4年の沙弥香さん(22)が就くことが決まった。10月12日の宗会で龍村豊雄宗務総長が明らかにした。同派では、嗣法の選考順位を門主の長男、長男の子と定めていたが、華園門主には沙弥香さんしか子どもがおらず、2001年に女性も就けるように宗規を改正。沙弥香さんは02年に得度し、重要な法要に出仕するなどして準備を進めていた。大学卒業後の来年4月に正式に就任し、その後、嗣法就任式を行う予定。同派によると、仏光寺と称していた南北朝時代に女性が住職になったことがあるが、以降は男子が継承してきた。同派は1876年に浄土真宗本願寺派(本山・西本願寺)から独立。全国に約500の所属寺院があり、門信徒数は約3万5000人。」(The Yomiuri Shimbunニュースより)

次代門主に華園真慶氏 





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■真宗木辺派・錦織寺3(真宗教団連合・十派のちがい)

 

□本尊・教義は同じで歴史・御影堂の読み方・正信偈読誦の和音に違いがある浄土真宗十派

 

浄土真宗が十派に分かれているが、本尊、教義、化儀に違いはあるのか、ないのか。部外者から見ると、そこの所がわかりにくく見える。錦織寺は真宗木辺派の本山で、境内に宗務庁があるので、そこの職員に質問してみようと宗務庁を訪ねた。話しをいろいろと聞くよりも、錦織寺が公式に出版している書籍があれば手っ取り早い。そこで宗務庁の職員に「錦織寺が公式に出版している本はありませんか」と尋ねると、「ありますよ」との返事。それで職員があっちこっちの書棚を探したのだが、一般向けに出しているという書籍がなかなか見つからない。見つからないので、代わりに錦織寺が出している小冊子とパンフをもらった。そこで宗務庁の職員に質問してみることにした。

----浄土真宗十派の本尊、教義、化儀はどこがちがうのですか

「いいえ、十派にちがいはありません。同じですよ。ちがっていたら大変です」

----では十派に、全く違いはないのですか。ちがいがないのなら、どうして十派に分かれているのですか。

「んー、まあ、ちがいといえば、歴史がちがうとか、政治的にちがうとか、あるいは『御影堂』を『みえいどう』と読むのか、『ごえいどう』と読むのか、といった違いでしょうかねえ。あとは、正信偈を読むフシがちがいます」

----和音のことですね。

「そうです。正信偈を読むときは、フシをつけて読むんですね。いわば、これは音楽です。このフシが本願寺派(西本願寺)や大谷派(東本願寺)とは、ちがうんです」

----本願寺派(西本願寺)や大谷派(東本願寺)とのちがいと言えば、本願寺派、大谷派の門首猊下は、宗祖親鸞聖人の直系のご子孫の方ですよね。

「そうですね。錦織寺の代々の門主猊下は、宗祖親鸞聖人のお弟子のご子孫の方だったのですが、途中で血統が途切れて、西本願寺から門主をお迎えしたりしているのです」

ところでこの質疑応答の中、私が門首を「もんす」(monsu)と発音したところ、宗務庁の職員の方から、木辺派は「門主」を「もんじゅ」(monju)とお呼びするとの指摘をいただいた。大谷派は「門首」、本願寺派、仏光寺派、興正派、木辺派は「門主」。国語辞典を調べてみると「門主」も「門首」も、どちらも読み方は、「もんしゅ」(monshu)と載っていた。木辺派では「もんしゅ」(monshu)を「もんじゅ」(monju)と発音しているのだろうか。

正信偈(しょうしんげ)とは、正式には「正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)」といい、親鸞の著書『教行信証』の「行巻」の末尾に所収の偈文のこと。一般には略して「正信偈(しょうしんげ)」という。親鸞述の『三帖和讃』とともに、本願寺第8世蓮如によって僧俗の間で朝暮の勤行として読誦するよう制定されて以降、現在も勤行や法要の時に読誦されている。

 

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■真宗・仏光寺3(法脈のパクリ)

 

□大石寺9日有が浄土真宗仏光寺派・専修寺派から輸入した「唯授一人の血脈相承」

 

ひきつづき、浄土真宗の歴史の概略、真宗専修寺派の「唯授一人口決」、真宗仏光寺派の「法脈」の概略については、井沢元彦氏の著書「逆説の日本史」8巻から要旨を引用してみたい。

----つまり親鸞の血脈を持たない僧侶も、仏光寺なら親鸞の「法脈」に連なることが可能になり、その法脈に連なることができるかどうかの認定権を仏光寺が握った。つまり仏光寺は、「法脈」の看板を与えて、師範にすることもできれば、住職に任命することもできる。又、逆に「破門」にすることもできるわけで、僧侶は「法脈」の絵系図という「免許」を得るために、仏光寺の忠実な奴僕になる。仏光寺は、信者が抱える不安に巧みにつけいり、「名帳」なる名前の「極楽往生決定者名簿」を作り上げて、信者の心をつかんだ。信者の不安とは、

「本当に自分は極楽往生が決定しているのか」「自分の信仰には誤りがないのか」という不安。

仏光寺はここに巧みにつけ込んで、親鸞以来の正しい教えを標榜する「法脈」の他に、「名帳」なる名前の「極楽往生決定者名簿」を作り、この名帳に名前が記された者は極楽往生が決定するとした。これが浄土真宗の信者の爆発的人気を呼び、われもわれもと仏光寺派に入信し、名帳に名前が記されることを願ったというわけである。

では仏光寺と同じ立場にあった専修寺では、どのように本願寺の血脈(親鸞直系の血筋・血統という意味)に対抗したのだろうか。この教派の代表的な僧は如道である。如道は次のように主張した。専修寺派の歴代住職は、親鸞から「唯授一人口決」を受け、親鸞と同格である、というのだ。

例えば剣術には免許皆伝という考えがある。これは師匠と同じ技量に達した、という意味だ。免許皆伝は技術の継承であるから、必ずしも師匠の子孫が受けるとは限らない。いくら実の子でも、技量が不足していてはどうにもならない。つまり、如道は、われわれ専修寺は親鸞から真宗の教義に関する「免許皆伝」を受けている、と言った。如道は親鸞からの「免許皆伝」は、専修寺の系統の僧だけに与えられた、とした。これが「唯授一人口決」である。これも実に巧みな作戦で、こうすれば本願寺は「ただの親鸞の子孫」に過ぎなくなり、「専修寺こそホンモノ」ということになる。如道は、「唯授一人口決」を受けた者(つまり如道自身)は、親鸞と同格になるとも言った。仏を念ずることによって、往生が決定した僧は、阿弥陀如来と同格であり、極楽もその胸のうちにある。したがって念仏も仏像を拝むことも、一切不要であり、逆に信者は仏ではなく、「仏と同格」であり身近にいる僧(もちろん専修寺の僧)こそを崇拝すべきだということになる。仏光寺の了源、専修寺の如道がなぜこんなことを言ったのかと言えば、こうすれば門徒がそれぞれの寺に集まり、教団が発展するからである。----(井沢元彦氏の著書「逆説の日本史」8巻要旨)

この仏光寺の「法脈」、高田専修寺の「唯授一人口決」は、今の日蓮正宗の「二箇相承」「唯授一人の血脈相承」を頂点とする教団システムに全く瓜二つ。そっくりなのである。

 

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■真宗・仏光寺2(法脈・絵系図)

 

□親鸞の祖廟を親鸞の子孫一族で独占して教勢を拡大しようと計って失敗した親鸞の曾孫・覚如

 

現在、浄土真宗の教団で最大宗派は、門徒数が約780万人、寺院・教会・布教所数が10369、教師(僧侶)数が19465人の浄土真宗本願寺派(西本願寺)である。が、室町時代はそうではなく、最大教団は、浄土真宗専修寺派、浄土真宗仏光寺派であった。この浄土真宗の宗史について、浄土真宗の教団側が出している資料の中に、これらをわかりやすく説明した資料がなかなか見つからず、むしろ井沢元彦氏の「逆説の日本史」の記述のほうが一般には、わかりやすいと思われる。そこで浄土真宗の歴史の概略、真宗専修寺派の教義、真宗仏光寺派の教義の概略については、井沢元彦氏の著書「逆説の日本史」8巻から要旨を引用してみたい。

----親鸞の死後、本願寺教団は全く勢いがなく崩壊寸前だった。それが復活したのは蓮如という天才的な布教者が出て、一挙に教勢を挽回したから。蓮如以前の本願寺がいかに衰えていたか。開祖親鸞の死後、親鸞の教えを継ぐ者は、第一に親鸞の子孫だった。最澄にも空海にも法然にも栄西にも道元にも日蓮にも、直系の子孫はいない。しかし公然妻帯し四男三女をもうけた親鸞には、直系の子孫がいる。その親鸞直系の子孫が本願寺を建てた。しかし鎌倉時代から室町時代前期のころ、本願寺に参詣する門徒がほとんどいないほど衰え、逆に本願寺以外の真宗教団が隆盛していた。それが浄土真宗仏光寺派、浄土真宗専修寺派である。

浄土真宗仏光寺派も専修寺派も、いずれも浄土真宗宗祖・親鸞の弟子たちが開祖になっている。親鸞には直系の子孫の他に、何人かの直弟子がいた。とはいっても親鸞は、弟子を弟子とは呼ばずに「御同朋御同行」と呼んでいた。今風に言うと「同志」ということだが、親鸞の高弟たちは、親鸞の子孫である本願寺教団には従属せず、次々と独立して布教していった。

親鸞の死後、本願寺は浄土真宗の中で唯一絶対の総本山だったわけではなく、むしろ全国に多数ある浄土真宗教団のひとつにすぎなかった。本願寺は親鸞直系の子孫であり、開祖親鸞の墓を護っていたが、真宗の教義では、極楽往生を保証してくれる救い主は本尊の阿弥陀如来であって、凡夫の親鸞ではない。普通の人に過ぎない親鸞の「墓参り」には関心がなくなってしまったのである。しかしながら浄土真宗の各教団も、初期のころは、いくつかの教団に分裂はしていたものの、宗祖「親鸞」を統合の象徴としていた。それに飽き足らず、本願寺派の教線拡大を狙う親鸞の曾孫・覚如は、親鸞の祖廟を親鸞の子孫一族で独占して、教勢を拡大しようと計った。これが本願寺の起こりで、覚如は、本願寺開祖を親鸞とし、覚如を第3世として、本願寺住職で、親鸞の子孫である本願寺教団の代表者・最高指導者を「法主」と呼ばせた。しかしこれが失敗に終わった。

 

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■真宗・仏光寺1(御影堂・尼門主)

 

□外観も柱、内陣の造りから「見真」額まで西本願寺御影堂とそっくりになっていた仏光寺御影堂

 

仏光寺とは、浄土真宗仏光寺派の本山で、ここは浄土真宗十本山のひとつ。浄土真宗本願寺派 、真宗大谷派、真宗高田派、真宗興正派、真宗木辺派、真宗出雲路派、真宗誠照寺派、真宗三門徒派、真宗山元派の十派は真宗教団連合をつくる。京都洛中の仏光寺通りに面している。

大都市・京都の街中にある寺院なので、境内はそんなに広いという印象はない。しかし阿弥陀如来像を祀る本堂、親鸞御影像を祀る御影堂の二堂は、なかなか立派な堂宇である。御影堂の中に入ってみて、中の造りが西本願寺の御影堂(ごえいどう)とそっくりになっているのが、わかった。御影堂だから、親鸞木像が祀られているのだが、「見真」と書いた大きな額が掲げられていることや、内陣の造り、柱の立ち方までそっくり。おそらく、西本願寺の御影堂の造りを模倣して造られているのではないかと思われる。

ところで真宗・仏光寺ないしは仏光寺派のことをいろいろ調べようと書店で書籍を探しても、浄土真宗に関する書籍は、圧倒的に東本願寺と西本願寺に関するもので、仏光寺に関するものは、ほとんど見つからない。2013年度版・宗教年鑑で信徒数を調べてみると、浄土真宗本願寺派(本山・西本願寺)が約780万人、真宗大谷派(本山・真宗本廟・東本願寺)が約323万人に対して、真宗仏光寺派は約48000人。東西本願寺を本山とする宗派と比べて、極端に信徒(門徒)数が少ない。他の浄土真宗の宗派を見てみると、真宗高田派(本山・高田専修寺)が約223000人。真宗興正派(本山・興正寺)が約35000人。真宗木辺派(本山・錦織寺)が約46000人。真宗出雲路派が約11000人。真宗誠照寺派が約13000人。真宗三門徒派が約14000人。真宗山元派が約1600人。親鸞頂骨を格蔵していると伝承する新潟県高田市の浄興寺を本山とする真宗・浄興寺派が約17000人となっている。浄土真宗本願寺派 、真宗大谷派、真宗高田派に比べると、信徒(門徒)数はかなり少ないが、他の浄土真宗系宗派と比べると、真宗仏光寺派は、そんなに見劣りする宗派ではない。

では寺院・教会・布教所数で見ると、どうだろうか。浄土真宗本願寺派が10369、真宗大谷派が8743、真宗高田派が643、真宗興正派が514、真宗仏光寺派は377、真宗木辺派が215、真宗出雲路派が60、真宗誠照寺派が71、真宗三門徒派が40、真宗山元派が21、真宗浄興寺派が14である。教師(僧侶)数で見ると、浄土真宗本願寺派が19465、真宗大谷派が17439、真宗高田派が961、真宗興正派が756、真宗仏光寺派は524、真宗木辺派が254、真宗出雲路派が86、真宗誠照寺派が55、真宗三門徒派が59、真宗山元派が38、真宗浄興寺派が16である。こうしてみると、浄土真宗は西本願寺を本山とする浄土真宗本願寺派が最大で、これとほぼ匹敵する規模なのが真宗本廟・東本願寺を本山とする真宗大谷派で、この二つが極端に規模が大きい。

これにつづくのが、真宗高田派、真宗興正派、真宗仏光寺派、真宗木辺派の4派で、この4派は似たり寄ったりぐらいの規模である。浄土真宗十本山の中で4本山が京都市にあり、4本山が福井県にある。あとは滋賀県と三重県で、西日本、近畿地方に集中しているのが特徴である。

仏光寺6御影堂
















 

(仏光寺御影堂)


御影堂1




















 

(西本願寺御影堂)

仏光寺2御影堂
















 

(仏光寺御影堂内部)

御影堂中6




















 














(西本願寺御影堂内部)

 

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■靖国神社4(815日・終戦の日の参拝3)

 

□警視庁の装甲車が周囲を固める物々しい雰囲気の中での終戦の日・靖国神社の参拝

 

今年、2014年も815日の終戦の日に靖国神社に参拝してきました。今年も快晴の炎天下での参拝。自分でも熱射病、熱中症にならないかと心配になるくらい。幸いなことに熱射病、熱中症にならずに済みました。靖国神社には午後13時ころ到着。

靖国5
















靖国4
















 

(2014815日の靖国神社)

警察警備1
















警察警備2
















 

(靖国神社周辺の物々しい警察の装甲車)

今年は靖国神社の周辺から九段下交差点付近まで、警視庁の装甲車、バリケード、機動隊が取りかこむという物々しい雰囲気。靖国神社第二鳥居前の道路は警察官のバリケードで封鎖されていました。

警察警備5
















 

(警察官のバリケードで封鎖される第二鳥居前の道路)

九段下交差点脇では、在日特権を許さない市民の会(在特会)が集会を開いており、指導者がマイク、スピーカーを持って演説している。

在特会1
















 在特会3














在特会4

















(在日特権を許さない市民の会(在特会)の集会)

その在特会の集会を機動隊員が取り囲んで封鎖している。在特会の集会が警察の許可条件に違反して行われているので、許可条件を守らせるという主旨のようです。

警察警備10
















 

(在特会の集会を取り囲み封鎖する機動隊員)

さて今年の終戦の日の靖国神社参拝も、参道は参拝者の行列・渋滞が起きている。

靖国8
















 

(靖国神社本殿参道の参拝者の行列)

参拝のあとは、今年も遊就館を見学。遊就館の常設展は何度も見学しているのですが、今年の常設展もほぼ満員。今年は企画展も行われていました。

遊1
















遊6
















 

(遊就館)

遊8
















 

(遊就館内部)

遊3

















 

(企画展)

 

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■靖国神社3(815日・終戦の日の参拝2)

 

□新装なった遊就館をはじめて見学した2011815日・終戦の日の靖国神社参拝

 

2011年も815日・終戦の日に靖国神社に参拝している。私が815日・終戦の日に靖国神社に参拝する日は、いつも快晴で、しかも炎天下の日になる。雨が降った日の記憶はないですね。この日はちょうど旧PCから新PCへのデータ移動中でバタバタしていた最中で、靖国神社に到着したのが夕方16時すぎ。この時は、参拝人の行列は日中ほど長くはなかった。

参拝が終わった後、新装なった遊就館を見学。

しかし遊就館に入館したのが1640分すぎ。閉館は1730分。

見学に最低でも約1時間はかかるということで、見学の途中で閉館時間が来てしまいました。

8・15靖国神社10



















8・15靖国神社4

















 

(2011815日・靖国神社)

 

 

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■靖国神社2(815日・終戦の日の参拝1)

 

□多くの人の参拝で鳥居から拝殿にかけて参拝人の“渋滞”がおきていた靖国神社

 

私は、毎年欠かさずとまではいかないまでも、時間の許す限り、終戦の日、ないしは終戦の日前後には、靖国神社に参拝しています。ペース的にはだいたい3年ないし4年に1度は815日・終戦の日に靖国神社に参拝しています。そこでここには、2008815日の靖国神社記を、当時の「mixi」日記から転載してみたい。

この日、靖国神社に到着したのは午前11時くらいだったのですが、今日は日差しが強く、気温もかなり上がっており、猛暑の中での参拝となった。私が靖国神社に到着した時、すでに境内には、ものすごい人が参拝に訪れており、鳥居から拝殿にかけて、参拝の人たちの“渋滞”がおきていました。靖国神社周辺は、警視庁の警官や機動隊員が出動しており、あちらこちらに装甲車(?)が止まっていて、ものものしい雰囲気。また境内には、一般の人のほかに、日本国旗の鉢巻きをした人、日本国旗を掲揚しながら行進している人、旧日本軍の軍服姿?で行進・参拝している人、暴走族風のいでたちの人、拝殿の前で声明文を読み上げている人、815日の靖国神社を報道しようとカメラとマイクを構えているテレビ局やマスコミのクルーたち、…

終戦の日の靖国神社には、必ずいる人たちが、この日もいました。そういうわけで、靖国神社の鳥居から拝殿の前に来るまで、かなりの時間を要しました。

いつもながら、靖国神社の拝殿の前で参拝し、日本の国のために亡くなられた英霊のことを思うと、胸が熱くなります。現在、靖国神社には2466532柱の英霊が祀られているということですが、先の太平洋戦争によって亡くなられた一人一人の英霊は、どういう思いで亡くなられたのでしょうか??「天皇陛下万歳」を叫んで亡くなられた方、無念の思いで亡くなられた方、特攻隊員として自ら玉砕された方、戦争には行きたくなかったが戦死された方、異国の地で敵兵に殺されてしまった方、…さまざまであっただろうと思います。そういう英霊のことを思うと、なぜか胸が熱くなります。少なくとも、今の私には、英霊と同じように、日本の国のために死ぬということが、できないと思います。今の日本の繁栄、私たちの生活も、戦争で亡くなられた人たちの犠牲の上に成り立っているというのは、その通りだと思います。今の私には、ただ英霊の前で頭を垂れることしかできないのが、まことに残念です。

拝殿で参拝を終えると、いつも複雑な思いにかられながら、靖国神社をあとにします。

やはり、最低でも一年に一度は、せめて終戦の日ぐらいは、先の太平洋戦争で亡くなられた英霊のことを思い、靖国神社に足を運ぶことは大事なことだと思います。

8・15靖国神社3



















8・15靖国神社1



















8・15靖国神社6



















8・15靖国神社7


















 

(2008815日・靖国神社)

 

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日蓮本宗本山・要法寺29(本山要法寺新貫首に丹治日遠氏)

 

□丹治日遠氏が住職を勤めた日蓮本宗佛眼寺がある福島市で管長就任祝賀会が開催される

 

久しぶりに富士門流の記事になりますが、この度、日蓮本宗管長・本山要法寺第51祖貫首・嘉儀日有氏が退任され、新管長・本山要法寺新貫首に諸佛山佛眼寺住職の丹治日遠(にちおん)氏(73)が晋山し、福島市内で管長就任祝賀会が開催された。まずは管長就任祝賀会を伝える報道記事を引用してみたい。

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日蓮本宗最高位に 福島で丹治氏の管長就任祝賀会

 

 福島市の日蓮本宗・諸佛山佛眼寺(しょぶつざんふつげんじ)住職の丹治日遠(にちおん)氏(73)は29日までに、同宗の最高位・管長と、本山・要法寺(京都市)の貫首に就いた。同市で就任などを祝う祝賀会が開かれた。 関係者約300人が出席。丹治氏は「大勢の方々に感謝。懸命に任を全うしたい。今後もご支援いただきたい」などとあいさつした。

 高野伊左衛門佛眼寺責任役員総代長・祝賀委員会委員長があいさつし、小林香市長ら来賓が祝辞を述べた。鏡開きなどで丹治氏の就任を祝った。

 丹治氏は島根県出身。福島高、福島大短期大学部卒。1962(昭和37)年に佛眼寺住職となり、日蓮本宗総務部長などを歴任した。5月に管長就任儀式の晋山式を行った。

(福島民友新聞 630()1316分配信)

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日蓮本宗最高位に 福島で丹治氏の管長就任祝賀会

 

 福島市の日蓮本宗・諸佛山佛眼寺(しょぶつざんふつげんじ)住職の丹治日遠(にちおん)氏(73)は29日までに、同宗の最高位・管長と、本山・要法寺(京都市)の貫首に就いた。同市で就任などを祝う祝賀会が開かれた。 関係者約300人が出席。丹治氏は「大勢の方々に感謝。懸命に任を全うしたい。今後もご支援いただきたい」などとあいさつした。 高野伊左衛門佛眼寺責任役員総代長・祝賀委員会委員長があいさつし、小林香市長ら来賓が祝辞を述べた。鏡開きなどで丹治氏の就任を祝った。 丹治氏は島根県出身。福島高、福島大短期大学部卒。1962(昭和37)年に佛眼寺住職となり、日蓮本宗総務部長などを歴任した。5月に管長就任儀式の晋山式を行った。(2014年6月30日 福島民友トピックス)

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丹治日遠1















 

(丹治日遠氏の管長就任祝賀会を報道するインターネットニュース)

 

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■真宗本廟・東本願寺2(親鸞已来代々血族の門主継承)

 

□石山本願寺合戦・本願寺の東西分裂により人工的に生まれた真宗本廟・東本願寺

 

浄土真宗大谷派本山・真宗本廟・東本願寺へは、何度も行っており、直近では20141月に参拝している。私は、ほぼ12年に1回くらいのペースで京都に行っているのだが、東本願寺には何度も行っている。というのは、東本願寺は地理的にJR京都駅からとても近い所にある。JR京都駅烏丸口から北へ伸びる烏丸通り沿いに東本願寺があるのだが、東本願寺の前で、烏丸通りが東側にグニャリと道が曲がりくねる。これは地上を歩いているとよくわからないが、JR京都駅烏丸口の前にある京都タワーの展望室から見ると、グニャリと曲がりくねる烏丸通りが実によく見える。

東本願寺門前の、御影堂門・阿弥陀門と曲がりくねった烏丸通りの間は、東本願寺の大きな行事等で団体参拝があったときに、バスターミナルに早変わりするようである。

東本願寺に行くと、今まで寺院の堂宇・伽藍よりも、東本願寺前でグニャリと曲がりくねる烏丸通りのほうが、印象に残っていた。というのは、東本願寺の場合、巨大な御影堂、阿弥陀堂や御影堂門、阿弥陀門は印象的なのだが、仏教寺院の総本山や大本山によく見られる塔中子院がない。

だから御影堂と阿弥陀堂と、曲がりくねった烏丸通りが印象に残っていた。

真宗本廟・東本願寺に塔中子院がないのは、東本願寺が江戸時代初期に徳川家康の寄進で造営されたという創建因縁が大きく関係していると思われる。つまり真宗本廟・東本願寺は、仏教寺院の総本山や大本山のように「自然発生」的に生まれたのではなく、本願寺の東西分裂、徳川家康の寄進、本願寺を東西に分裂させたまま固定化するという江戸幕府の宗教政策という、いわば「人工的」に生まれた寺院であることが大きいと思われる。では真宗本廟・東本願寺は、どういう経緯で生まれたのか。島田裕巳氏監修「はっきりわかる日本の仏教宗派」(成美堂出版)の記事を元に話を進めてまいりたい。

真宗本廟・東本願寺の創建は1602(慶長7)年。1600年の関ヶ原の合戦の二年後、1603年の徳川家康の征夷大将軍任命の前年である。なぜ真宗本廟・東本願寺が生まれたのか。これは有名な本願寺の東西分裂によって生まれた。ここまでは知っている人は多いと思われる。

本願寺がなぜ東西に分裂したのか、というと、織田信長と石山本願寺の合戦である「石山合戦」の終結をめぐって、退去か籠城かで意見が分かれたことが発端である。本願寺11代門主・顕如(15431592)を中心とする勢力は織田信長との講和を受け容れたのに対して、顕如の長男である教如を中心とする勢力は、これを拒んで籠城を主張した。そのため、教如は顕如から義絶されてしまう。石山本願寺の織田信長明け渡し後、石山本願寺は火を放たれ灰燼に帰してしまう。

教如は大和、近江、安芸など流浪するが織田信長が本能寺の変で死去すると、顕如と教如は和解する。その後、豊臣秀吉の天下統一の翌年、1591(天正19)年、豊臣秀吉が京都七条堀川に広大な寺域を寄進する。これが今の西本願寺である。本願寺11代門主・顕如の没後、12代門主は当初は顕如の長男・教如が後を継いだ。

 

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■池上本門寺40(2012年初詣)

 

□多くの参拝客をあてこんで池上本門寺参道にぎっしり並んでいたテキ屋の露店(2012年初詣)

 

2012年の初詣は、池上本門寺に参詣しています。この時も12日の午前中に、皇居の一般参賀に行き、帰りに池上本門寺に参詣しています。ですので初詣は12日ですねえ。

しかし12日とはいえ、池上本門寺にはものすごい数の参拝客が訪れていました。ここも東京都内有数の初詣のメッカのひとつ。参道は参拝客でぎっしりです。ただし此経難事坂を登り、仁王門をくぐって大堂前まで来ると、スペースが広いせいか、ぎっしりの状態ではなかったのですが、それでも大堂前には、かなりの数の参拝客がいました。

その参拝客をあてこんで、テキ屋の露店も池上本門寺参道にぎっしりと並んでいました。人が集まる所、参詣人が多い寺社の前に、テキ屋の露店が並ぶのは世の常である。池上本門寺の行事で、最も多くテキ屋の露店が並ぶのは、何といっても毎年10月に行われる御会式である。御会式の時ほど、数は多くありませんでしたが、それでも正月も池上本門寺参道は、テキ屋の露店がぎっしりと並ぶ。又、池上駅前の商店街も、池上本門寺初詣客をあてこんで、12日にもかかわらず、開店している店もかなり見られました。

池上本門寺の本殿では、大きく扉が開けられていて、ここにもたくさんの人が参詣。本殿では、古いお札・お守りの返納・お焚き上げを受け付けていました。普段の日は、本殿に参詣する人はほとんど見られないのですが、正月の初詣は、たくさんの人が本殿に参詣していました。

大堂は、普段とかわらずそれこそたくさんの人が参詣。ここは普段の日も参詣人が多い堂宇ですが、普段よりも増して大堂の賽銭箱の前は、満員になるほどの人が詰めかけている。

大堂前の広場の一角では、猿回しの猿の曲芸が行われていて、参詣人の目を引き、周囲にはたくさんの人が見物していました。これもたくさんの初詣客をあてこんで行われているのでしょう。

仁王門前では、献血の呼びかけが行われていました。さらに大堂前では、菊の花の展示があり、初詣客をなごませてくれていました。菊の花の展示は、これ以前にどこかの寺院でも、何度か見かけていますね。

池上初詣1



池上初詣2大堂


池上初詣5本殿


池上初詣6本殿


池上初詣10大堂


池上初詣11大堂


池上初詣12仁王門


池上初詣13的屋


池上初詣15的屋


池上初詣18総門


池上初詣19総門


 

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■諸宗山回向院3(善光寺出開帳3)

 

□明暦の大火・地震・飢饉・噴火の犠牲者慰霊塔の中に戦没者の慰霊塔だけがない回向院

 

回向院が創立された起源は、1657年(明暦3年)に江戸の町に起こった「明暦の大火」までさかのぼる。この明暦の大火では、10万人以上の人命が失われたのだったが、その犠牲者の多くは、身元や身寄りのわからない人々。江戸幕府四代将軍・徳川家綱は、このような無縁の人々の亡骸を手厚く葬るように、隅田川の東岸に土地を与えて「万人塚」という墳墓を設け、無縁仏の冥福を祈る大法要を行った。このときに、念仏を行じる御堂が建てられたのが、回向院の歴史のはじまりである。回向院は正式名を「諸宗山無縁寺回向院」といい、火事や地震の犠牲者、溺死者、遊女、水子、刑死者、諸動物など、ありとあらゆる生命が供養されている。

回向院の境内には、明暦の大火の他、安政二年の大地震、天明三年の浅間山噴火、天明三年の信州・上州大地震、天明の奥羽飢饉、関東大震災等の供養塔・慰霊碑が並んでいる。このように様々な供養塔・慰霊碑が並んでいるが、戦没者・戦死者の供養塔がない。1853年(嘉永6年)のペリー来航以降の日本国内外の事変・戦争等、国事に殉じた軍人、軍属等の戦没者を「英霊」と称して祀るのは靖国神社であり、第二次世界大戦の戦没者の遺骨のうち、遺族に引き渡すことができなかった遺骨を安置しているのが千鳥ケ淵戦没者墓苑である。

靖国神社や千鳥ケ淵戦没者墓苑があるから、回向院では戦没者の供養塔や慰霊碑がないということなのだろうか。回向院は、火事や地震の犠牲者、溺死者、遊女、水子、刑死者、諸動物など、ありとあらゆる生命を供養する寺院ということだが、戦没者の供養塔がないのは「?」と思う。

回向院は浄土宗の寺院であるが、善導の『観経正宗分散善義』巻第四の中の、

「一心に弥陀の名号を専念して、行住坐臥に、時節の久近を問はず、念々に捨てざる者は、是を正定の業と名づく、彼の仏願に順ずるが故に」という文に影響されて、日本で専修念仏を唱道したのが浄土宗宗祖・法然。専修念仏とは、仏の救いは念仏を唱える「称名念仏」によって得られるという思想。即ち、ただひたすらに念仏をを唱えることで、いつでも、どこでも、誰でもが平等に阿弥陀仏によって救われて極楽浄土に往生できるという教えは、日本の大衆の心をとらえて、日本全土に弘まった。浄土宗・浄土真宗の教線拡大により、日本全土に「称名念仏」が弘まり、ここから「死んだ人は皆、仏様」という日本人の生死観が生まれた、というのが定説になっている。

日本人の生死観は「死んだ人は皆、仏様」だから、どんな極悪人でも死刑が執行されたら、それ以上は追及しない。実質的にその時点で免罪されてしまう。日本人の生死観は、日本の伝統文化として大衆に深く定着している。源流を法然・浄土宗とすれば少なくとも800年以上の歴史がある。

回向院が、火事や地震の犠牲者、溺死者、遊女、水子、刑死者、諸動物など、ありとあらゆる生命を供養するのは、やはり浄土宗の「死んだ人は皆、仏様」という思想・教え・生死観が源流にあることは、疑いのないところであろう。

回向院12 











(回向院境内に並ぶ明暦大火、安政大地震、浅間山噴火、天明飢饉、関東大震災等の慰霊碑)

回向院10 
















(海難事故犠牲者供養塔の案内板)

 

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■池上本門寺38(2013節分会2)

 

特設ステージがある池上本門寺大堂前は、それこそ立錐の余地もないくらい満員にならんばかりの大勢の参詣人が詰めかけている。そういう中を池上警察署の他、警視庁の車が停まっていて、警察官が交通整理を行っている。警察官が

「肩車をしているお父さん、ここで肩車は危険です。事故を防止するため、ご協力をお願いします」

というアナウンスをしている。子どもを肩車していた「お父さん」は子どもを降ろした様子。すると警察官が「ご協力ありがとうございました」と、アナウンス。たしかに、こんな超満員状態の中での肩車は危険かも。バランスを崩して転倒でもしたら、それこそけが人が出るでしょうから。

節分会33 











池上本門寺・節分会の豆まきは、タレントやプロレスラー、格闘家等々が大勢やってきて、福豆をまく。これらの著名人の数は30人以上。大堂前特設ステージには、タレントやプロレスラーが豆をまく位置があらかじめ決まっていて、大きな名札がかかっている。その名前を見ると

田中健、平将明、松本伊与、松本なつ子、西島三重子、宇梶剛士、春風亭一之輔、てんちむ、すがはらやすのり、朝崎郁恵、藤崎奈々子…

プロレスラー、格闘家、ボクサーの名前は

輪島大士、佐々木健介、中島勝彦、小橋建太、山本KID徳郁、KENTA、棚橋弘志、武藤敬司、鈴木みのる、高山善広、天龍源一郎、竹原慎二…

節分会41

 











ずいぶん懐かしい名前、昔の名前で出ていますタレントも見える。

池上本門寺・節分会に大勢のプロレスラーが来るのは、1977(昭和52)年に、ジャンパ鶴田が力道山の墓参を兼ねて節分会に参詣したことから、毎年、多くのプロレスラーや格闘家が節分会に参詣しているのだという。

豆まきは15時から。約10分ぐらい前から池上本門寺第82世貫首・酒井日慈猊下を先頭に、福豆をまくタレントやプロレスラーが特設ステージに入場。酒井日慈猊下はゆっくりとした足どり。

特設ステージには、豆まきの福豆が大量に用意され、ステージにはタレントやプロレスラーがズラリ。「タレントの紹介でもあるのかな」と思っていたら、そういうのは一切なく、いきなり豆まきがスタート。特設ステージからタレントやプロレスラーが、超満員になっている参詣人のほうにむかって、次々と福豆を投げる。参詣人のほうは、先を争って福豆を取ろうとする。たくさんの福豆が投げ込まれ、全部投げ終わったところで終了。あれだけ多くの福豆が投げられたのに、福豆をもらえなかった参詣人も、かなりいた様子。もっとも福豆は、大堂前で僧侶が売っていましたけどね。

私も福豆を一袋、もらってきました。豆まきが終わって参詣人は帰途へ。

総門から仁王門への此経難事坂から大堂への参道は、帰りの参詣人でいっぱい。

節分会47 

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■池上本門寺37(2013節分会1)

 

201323日は、池上本門寺の節分会に参詣しました。

日蓮宗大本山・池上本門寺は、法要が行われるときは、大勢の参拝人がつめかける寺院で特に有名。池上本門寺の最大の行事は、毎年1011日~13日に行われる御会式である。中でも1012日の万灯練り供養には、毎年30万人を超える参拝人があり、深夜まで練り行列が行われる巨大行事になっている。

池上本門寺の巨大行事は、何も御会式だけではない。毎年23日に行われる節分会もまたそのひとつ。日蓮宗新聞社刊行本「日蓮宗本山めぐり」の中でも紹介されていますが、池上本門寺節分会のときは、大堂前には、それこそ立錐の余地もないくらいの参詣人が詰めかけ、池上本門寺境内は超満員の状態に膨れあがる。そういう中、有名タレントやプロレスラーなどが、特設舞台の上から福豆をまく、豆まきが行われる。

23日といえば、どこの仏教寺院でも節分会が行われるが、池上本門寺の節分会は、特に多くの参詣人が集まることで有名。池上本門寺・大堂前は、節分会の数日前から豆まき用の特設ステージが設けられ、準備万端である。

節分会12 











池上本門寺節分会は、13時からの池上太鼓からはじまる。大堂前の特設ステージには、いくつもの太鼓が設定されており、20人以上の中年女性と23人の男性が出てきて、太鼓を叩く。

見ていると、かなりの練習を積み重ねてきているのが、わかります。男性も女性も、太鼓を叩く時の表情が、まことに生き生きとしている。

その後、福男福女の練り行列が仁王門から入ってきて、大堂の中へ。

節分会25 











宗教行事の中で行われるイベントというと、若い頃、イヤと言うほど見せられた創価学会の文化祭ビデオというものがあった。あれを見ていると、文化大革命時代の中国や北朝鮮のマスゲームそっくり。創価学会のビデオによれば、創価学会の文化祭には、知事、市長、県議会議長、著名人などが多数招かれ、祝辞や賛辞を送っていたというが、私なんかは、あんな創価学会の文化祭ビデオを見せられても、面白くもなんともなかった。それどころか多大な嫌悪感を感じたことを鮮明に覚えている。

 

しかし池上本門寺御会式の万灯練り供養、節分会の池上太鼓、片瀬龍口寺御難会の万灯練り行列等々の行事を見ていても、行事そのものが地域社会の中に密着していて、全く違和感を感じない。池上太鼓は、もちろん近年、はじまった行事なのだろうが、しかし地域行事としてピッタリとマッチしていて、これも全く違和感がない。

 節分会19

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■三縁山増上寺2(日本で弘まり中国では弘まらなかった浄土宗)

 

東京芝・増上寺は、かつて芝公園一帯全てが境内であったが、明治維新、廃仏毀釈、太平洋戦争等で境内は狭められた。しかんしそれでも増上寺の境内は広い。

増上寺の中心堂宇は大殿で、これが仏教寺院一般の本堂に該当する。そういう意味で、増上寺が発行する正式文献「浄土宗大本山増上寺」には、「大殿(本堂)」となっています。

今の大殿は昭和49(1975)落成。もちろん、戦前から増上寺に大殿はあったのですが、太平洋戦争の東京大空襲による戦災で焼失。

そこで新たに近代的な設計のもとに、鉄筋コンクリート造りの大殿が再建された。石段を登った二階が本堂。三階に道場。一階に壇信徒控え室。地下に三縁ホールがある。

本堂には、本尊として阿弥陀如来が祀られ、両脇壇には高祖善導と宗祖法然の像が祀られている。

高祖・善導とは、中国浄土宗の僧。「称名念仏」を中心とする浄土思想を確立したとされている。

称名念仏とは、浄土宗においては「南無阿弥陀仏」の名号を口に出して称える念仏(口称念仏)のこと。『佛説無量寿経』には「南無阿弥陀仏」と念仏を称えれば、阿弥陀仏の浄土(極楽浄土)へ往って、阿弥陀仏の元で諸仏として生まれることができると説かれている、とされる。

善導が、『観無量寿経疏』(『観経疏』)を撰述して、『仏説観無量寿経』は「観想念仏」ではなく「称名念仏」を勧めている教典と解釈した。こうして「称名念仏」を中心とする浄土思想が確立する。

しかし中国ではその思想は主流とはならなかった。

つまり善導の中国浄土宗は、中国では大衆文化として定着しなかった。

善導の『観経正宗分散善義』巻第四(『観無量寿経疏』「散善義」)の中の、

「一心に弥陀の名号を専念して、行住坐臥に、時節の久近を問はず、念々に捨てざる者は、是を正定の業と名づく、彼の仏願に順ずるが故に」

という文に影響されて、日本で専修念仏を唱道したのが浄土宗宗祖・法然。

専修念仏とは、仏の救いは念仏を唱える「称名念仏」によって得られるという思想。即ち、ただひたすらに念仏をを唱えることで、いつでも、どこでも、誰でもが平等に阿弥陀仏によって救われて極楽浄土に往生できるという教えは、日本の大衆の心をとらえて、日本全土に弘まった。

浄土宗の寺院・信者は、どれくらいあるのか。201172日号「週刊ダイヤモンド」誌によれば、浄土宗の寺院は6880寺、信者数6021900人。

法然の弟子・親鸞を宗祖とする浄土真宗の寺院数は18847寺。信者数は12474151人。

これは、寺院所属の信者数で、元々は江戸時代の「宗門改」による寺檀制度にまでさかのぼる。

浄土宗・浄土真宗が日本全国に弘まったのは、江戸時代よりももっと前。すなわち鎌倉時代、室町時代、戦国時代にかけてのことである。特に中でも浄土真宗本願寺派が室町時代、戦国時代にかけて大きく教線を拡大した史実は、あまりにも有名である。

増上寺16


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■池上本門寺24(2011年・池上本門寺お会式紀行17)

 

池上本門寺総門前から、住宅街の路地裏をぬけて十中通りに出たのですが、この通りは、池上本門寺から池上駅方面へ帰る参詣者で、足の踏み場もないほど、ごったがえし状態。道路が人で超満員状態になり、その状態でゆっくりと池上駅方面に人の塊が移動しているような感じです。

こちらの通りにも、道路の両サイドには、テキ屋の露店が所狭しと立ち並んでいました。

御会式48的屋・本門寺通り


本門寺の参道は、池上駅前から本門寺方向への一方通行なら、十中通りは本門寺から池上駅方向への一方通行。この一方通行というのは、車ではありません。

車は通行止めになっていいて、人の一方通行です。

人の一方通行ですが、十中通りはものすごい人だかりで大混雑していて、とても露店で何かを買うどころではありません。

やっとの思いで池上駅前にたどり着いたものの、今度は駅前ロータリーが、池上商店街から本門寺参道へ向かう万灯練り供養の行列の通り道になっていて、池上駅前にいながら、駅までたどり着けない。

そこで再び、住宅街の路地裏をぬけて、池上商店街に出ました。ここはまさに万灯練り供養の通り道になっていて、行列が笛を吹き、鼓を叩きながら歩いていました。

御会式47万灯池上駅前


池上商店街から池上駅ロータリーは、万灯練り供養の行列と、見物客・参拝客で、深夜の襲い時刻まで、人でぎっしり。

御会式45万灯池上駅前商店街


御会式43万灯池上駅前商店街


御会式41万灯池上駅前商店街


御会式42万灯池上駅前商店街

大勢の警察官も出ていましたが、参拝客と万灯練り供養の交通整理だけで手が一杯という感じに見えました。

この池上本門寺お会式の万灯練り供養の行列は、深夜23時から24時ころまでつづいているとのこと。

御会式40万灯池上駅前


御会式37万灯池上駅前


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■池上本門寺23(2011年・池上本門寺お会式紀行16)

 

お会式の万灯練り供養の行列は、どんどん間断なくつづいて、此経難事坂を登って三門をくぐり、大堂前に進んでいきます。

私も約2時間くらい、大堂~三門付近で写真を取っていましたが、さて此経難事坂の下へ降りようとしたところ、いつの間にやら池上通りの参道入り口~総門~此経難事坂~三門は、池上本門寺に行く方向のみの一方通行になっていました。

御会式56総門一方通行


やはり万灯練り供養がはじまったあたりから、参詣者の数が激増。参道は、池上本門寺に参詣に行く参詣客と、万灯練り供養を見物する見物客で、まさにごったがえし状態。

御会式61万灯仁王門前


御会式58万灯仁王門前


一方通行じゃあ、どうやって総門前に降りていけばいいのか、と警察官に聞くと

「五重塔の方向から下に降りていって下さい」

とのこと。そこで大堂前の参道から、墓地をぬけ、五重塔の脇を通って、大田区民会館の屋上に出て、そのまま会館のエレベーターに乗って1階へ。

それで朗子会館、日蓮宗宗務院前を通って総門前にやっとたどり着きました。

御会式55万灯参道
 


 

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■池上本門寺22(2011年・池上本門寺お会式紀行15)

 

池上本門寺三門前で、万灯練り供養を見学していたら、次々と万灯の行列が此経難事坂を登ってきました。

御会式74万灯仁王門前

御会式73万灯仁王門前


桜の花や五重塔を形取ったものが多かったですが、中には日蓮像を形取った万灯もありました。

御会式66万灯仁王門前


そして万灯練り供養の行列に参加している人たちの年代が実に幅広いことです。

小学生のボーイスカウトから、20代、30代とおぼしき若い人たち。

それから中高年、老人の男女が大勢で鼓を叩いたり、笛を吹きながら行列に参加。

事前に練習をしていたのでしょうか。

御会式70万灯仁王門前

 

それと、この万灯練り供養の行列で、笛を吹く人、鼓を叩く人、万灯を持ち上げている人、ドラムを叩く人、…

この人たちの表情がとても生き生きしていることです。どの人も、万灯練り供養を楽しみながら参加しているように見えました。

ホントに楽しそうでした。

御会式62万灯仁王門前


見物客のほうも、そういう生き生きとした行列を見て、楽しんでいるように見えました。

御会式61万灯仁王門前
 

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■池上本門寺21(2011年・池上本門寺お会式紀行14)

 

万灯練り供養に出てきた、各寺院・教会・結社で作られた万灯は、桜の木を形取ったものが多かったですね。

御会式75万灯仁王門前

御会式74万灯仁王門前


大半の練り行列は、鼓を叩いたり、笛を吹いたり。中にはドラムを叩いていた行列もありました。

御会式100万灯仁王門前

御会式103万灯仁王門前

基本的にこれらは在家信者の人たちが、鼓を叩いたりしていましたが、中には住職が鼓を叩いて参加していた行列もありました。

御会式109万灯仁王門前


御会式78万灯仁王門前


私が注目したのは、この万灯練り供養の行列の参加者は、実に年齢層が幅広いことです。

年代は、小さな子ども、小学生から20代、30代の若い人、中高年から60代、70代とおぼしき人たちまで。

ありとあらゆる年代の人たちが参加していることです。

御会式77万灯仁王門前


 御会式117万灯大堂前

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■東京201・大田区池上・「池上本門寺」20(2011年・池上本門寺お会式紀行13)

 

万灯練り供養の万灯は、池上本門寺の末寺の寺院・教会・結社毎につくって、行列を行っているようです。

御会式134万灯仁王門前

御会式127万灯仁王門前


御会式124万灯仁王門前


参加している人は、それこそ若い人から、年配の男女まで、実にさまざま。

御会式115万灯大堂前


御会式114万灯仁王門前



若い人の表情が生き生きしているのが、印象的です。


御会式119万灯仁王門前

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■池上本門寺19(2011年・池上本門寺お会式紀行12)

 

私は、池上本門寺大堂~三門前の参道脇で、万灯練り供養の行列を見守っていたのですが、ここは練り供養の行列を見ようという参拝客でいっぱい。

御会式146大堂前


それでも、人の輪をかき分けて、写真を撮っていました。

御会式144万灯大堂前


おそらく、万灯練り供養の行列がはじまってから、2時間以上は、大堂~三門前にいたと思います。

御会式138万灯仁王門前


見ていると、此経難事坂を登って三門~大堂前に、万灯練り供養の行列が次々と進んできました。それぞれ、鼓を叩きながら「南無妙法蓮華経」(なむみょうほうれんげきょう)と唱えて、歩いています。万灯は、どれも台車の上に乗っていて、此経難事坂の石段を登るときは、男性が数人で万灯を台車ごと持ち上げて、登っていました。

御会式126万灯仁王門前



万灯練り供養の行列は、さまざまです。

中年男性・女性から白髪の老人、妊娠した身重の女性、若い男女、小学生風の小さな子どもの行列もありました。

御会式133万灯仁王門前
 

 

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■池上本門寺18(2011年・池上本門寺お会式紀行11)

 

池上本門寺三門付近で、テキ屋の露店で買った焼き鳥やらフランクフルトを食べていると、参道のほうから「南無妙法蓮華経」(なむみょうほうれんげきょう)と唱えながら、鼓を叩く音が聞こえてきました。

時刻は午後650分くらい。

「あれ、もう万灯練り供養の行列がはじまったのかな」

と思い、参道のほうに歩いて行ってみると、三門からぞくぞくと「南無妙法蓮華経」(なむみょうほうれんげきょう)と唱えながら、鼓を叩くサラリーマン風の男性の行列が歩いている姿が見えました。

これが、万灯練り供養の行列のトップバッターのようです。

御会式145万灯大堂前

 

この男性たちは、けっこう見た感じ、若い人が多かったように思います。人数は、何十人はいたでしょう。かなりたくさんの人数でした。

しかも全員、スーツにネクタイ姿で、信者用の袈裟?を左肩からかけていました。

「南無妙法蓮華経」(なむみょうほうれんげきょう)と唱えながら、此経難事坂を上がってきて、三門をくぐり、大堂前へ。

中には、汗ぐっしょりになっている男性もいました。

 

「この人たちは、普段は丸の内や大手町のビジネスマンなのだろうか。本日は仕事を休んできたというわけか」

と思いました。有給休暇をとって、万灯練り供養に参加したと言うことなのでしょう。仕事を休まないと、この時刻に池上本門寺の万灯練り供養に間に合わないと思います。

まあ、行列参加のためとはいえ、大変なことです。

御会式146大堂前
 

 

 

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■池上本門寺17(2011年・池上本門寺お会式紀行10)

 

神社仏閣の大きなお祭りになると、たくさんの人が参詣にやって来て、テキ屋の露店が並ぶというのは、日本のお祭りの風物詩になっています。

まあ、日本全国各地の大きなお祭りになると、だいたいテキ屋の露店が並ぶのではないでしょうか。私の実家の近所の夏祭り、秋祭りでも、やはりテキ屋の露店が並んでいました。こういうのも、日本の祭りの一部であり、日本文化として定着しているものではないかと思います。

 

そのテキ屋の露店も、最近は少し様変わりしてきているように思います。

金魚すくい、トウモロコシ焼き、綿菓子の露店が影を潜めました。金魚すくいは、池上本門寺お会式に一軒ぐらいは、あったかもしれませんが。トウモロコシ焼きは、売れないんでしょうね。どうしても、焼きそばとか、フランクフルトとか、焼き鳥とか、お好み焼きとかに、目が行きます。

金魚すくいも、経費がかかるわりに、売り上げが上がらないのでしょう。

 

それともうひとつ。池上本門寺お会式に来ていたテキ屋の露店で、目立ったのが、トルコの○○という、実に聞き慣れない名前の料理を売っていた露店。褐色のトルコ人のテキ屋さんでした。

テキ屋も、このごろは国際的になってきているようです。

しかし、池上本門寺のお会式に参詣に来ている人で、トルコ料理を食べる人って、いるのだろうか。ちょっと、気になりました。

 

あともうひとつ、気になるのが、ヤクザとの関係。

テキ屋全員が、ヤクザと関係ある人ではないでしょうけども、東京でも暴力団排除条例が施行されました。これで排除されたテキ屋って、いるんだろうか。こちらも気になります。

 

さて万灯練り供養がはじまる前から、池上本門寺境内は、多くの参拝客で参道はごった返す状態になり、焼き矢の露店で買った焼きそば、フランクフルト、お好み焼き等を食べる人であふれかえっています。

三門の脇に、椅子とテーブルが用意されたテントがあり、ここでたんさんの人が座って、焼きそばやおでんを食べたり、ビールやワンカップ酒を呑んでいます。

テントの椅子に座りきれなかった人は、日蓮立像や五重塔の付近に座って、焼きそばやおでんを食べている人もたくさんいました。

万灯練り供養がはじまる前から、こんな状態になっていました。

御会式151的屋
 

 

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■池上本門寺16(2011年・池上本門寺お会式紀行9)

 

私は、夕方、再び大堂の中に入りましたが、午前中とはうってかわって、たくさんの参拝客が大堂の中に詰めかけていました。参詣者の数は、時刻が夜に近づくにつれて、徐々に増えてきているのが、わかりました。

さて本門寺通り、本門寺参道、本門寺境内、本門寺周辺道路、十中通りなどの道路脇には、テキ屋の露店が所狭しと並んでいます。参拝客が増えるにしたがって、テキ屋の露店もがぜん盛り上がってきました。テキ屋の露店で目立ったのは、フランクフルト、焼き鳥、バナナチョコ、焼きそば、ソフトクリーム、おもちゃのピストルゲーム、ウルトラマンや仮面ライダーのお面、広島焼き・大阪焼きのお好み焼き、おでん、ラーメン…等々です。

昔、テキ屋の露店でよく見かけた、金魚すくい、とうもろこし焼き、綿菓子等は影を潜めました。

相変わらず、食べ物やさんが多いのは変わりません。

テキ屋の露店が出している料理は、フランクフルト、焼き鳥、焼きそば、お好み焼きといったふうに「焼く」料理が得意なようです。得意なだけあって、テキ屋の「焼く」料理は、なかなかおいしい。

たとえば、フランクフルト。

私も、フランクフルトは何十年も前から、高速道路のサービスエリア、テーマパーク、コンビニ、各地のお祭りのテキ屋等々、いろんな所で食べましたが、テキ屋の露店が焼くフランクフルトが一番おいしいですし、一番安い。テキ屋の露店のフランクフルトは、ものすごく太くて、長さも長く、これが200円。コンビニだと、太いフランクフルトは1300円~350円くらいします。といっても、コンビニのフランクフルトは大半が細いもので、これは150円くらいで買えますが、太さと長さがぜんぜんちがいます。

それから、コンビニのフランクフルトは、こげてもいないのに、表皮がパスパスになっているものが多い。セブンイレブンのフランクフルトは、こういうのが多いですね。ローソンの場合は、逆に表皮が焦げてしまっていて、皮が固くなりすぎているものが多い。こういうのは、焼き方がとてもいい加減なんだと思われます。

ところがテキ屋の露店のフランクフルトは、焼き方がとてもうまい。少々焦げていても、表皮が固くなっておらず、パスパスにもなっていない。ちょうどいい具合に焼けているわけです。

焼き鳥は、おいしいのと同時に、焼き鳥の肉がとてつもなく大きい。コンビニや焼き鳥屋、居酒屋で出てくる焼き鳥より、倍以上、肉が大きいですね。こんな大きな肉を使った焼き鳥というのは、あまり見たことがないですね。

こうして「焼く」料理を出すテキ屋の露店があっちこっちにあり、それぞれの露店から、勢いよく煙が上がっている。

おいしいフランクフルトや焼き鳥が食べられるというのは、まことに結構なことですが、警備に出ていた東京消防庁の消防官が、心配そうな表情で、テキ屋の露店から上がる煙を見つめていたのが、とても印象的でした。

御会式152的屋
 

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■池上本門寺11(2011年・池上本門寺お会式紀行4)

 

池上本門寺・お会式二日目の「宗祖御更衣法要」は、内陣は多数の僧侶が座って、ほぼ満席状態。内陣の両サイドにある外陣には、壇信徒席が設けられ、ほぼいっぱいの信者が座っていた。この法要でも、私が見聞した限りでは、実際に読経をしていたのは、内陣に座っていた僧侶のみ。外陣に座っていた信者は、読経している様子はなく、ただ合掌して座っているのみ。

仏教寺院の勤行や法要なんて、こんなものじゃないかと思います。浄土真宗本山の法要で満堂の参詣信者が、正信偈を読む声に唱和していたのを見たことがあったが、浄土真宗でよく読んでいる正信偈は、お経とよく似ているが、正確に言うと、仏典ではない。正信偈とは「正信念仏偈」といい、親鸞の著書『教行信証』の「行巻」の末尾に所収の偈文のこと。これは読経とよく似ているのだが、読経とはやや違う。

さて日蓮宗寺院の法要に出ると、熱心な信者さんが、経本を見ながら読経している姿をごくたまに見かけますが、そういう人は、法要の中に居ても1人か2人くらい。

こういう話しを書くと、日蓮正宗や創価学会の信者は、目くじらを立てて「それではダメだ。実際に読経が出来なければ、ダメなのだ」などと言い出しそうですが、私は、全くそんなことはないと思う。

つまり、「在家は無理して読経ができるようにならなくてもOK」という考え方なのである。

前にも書きましたが、池上本門寺のお会式は、それこそ数百年前から今日に至るまで、地域の文化として、地域行事として、完全に根を下ろして定着しているものです。もちろんこれは、「在家・信者は読経せず合掌しているだけ」という形で定着している。これで充分ではないでしょうか。

これが、日蓮正宗や創価学会のように、「在家も読経ができなければダメだ」式に、在家に読経を強制していたら、池上本門寺のお会式は、こんな数百年の間、地域文化として定着しなかったのではないか。

 

それでは、日蓮正宗や創価学会の信者が、毎日欠かさず朝夕の勤行を行っているのかというと、決してそうではない。実際、信者自身が、勤行をよく休んでいることを認めている。こういうのを、定着しているとは言わない。私は、「在家の読経は、文化として根付かない」という説に立っている。

実際は勤行をよく休んでいるのに、さも毎日欠かさず勤行をしているかのように偽るよりも、読経しないという、ありのままの姿で、大衆文化として定着している方が、よほど人間らしいと思う。

誤解のないように附言すると、私は「在家は読経するな」と言っているのではない。それは、在家の方で、読経がおできになる方は、それは素晴らしいと思いますし、そういう方は、読経をおやりになられるのは、結構なことだと思います。

でも、仏教寺院の法要で見聞する限り、そういう方は、非常に少ないです、今でも。

御会式2立て札


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片瀬・龍口寺4(地域密着の祭礼になっている3)

 

「龍口法難会」の法要の式次第が一通り終わると、貫首と僧侶は一旦、本堂から退出して、須弥壇の扉も閉められた。

その後、参拝客・観光客には、ぼた餅が振る舞われるということで、本堂では準備がはじまった。

龍口法難会17


「ぼた餅」というのは、私なんかには「おはぎ」という名前が親しみやすい。「おはぎ」は、春秋の彼岸に仏前に供えるねのとして、そのころになると、スーパーマーケット、コンビニなどでは、店頭に「おはぎ」が並ぶ。古くは、春の彼岸につくるものをぼた餅、秋の彼岸につくるものを萩の餅、おはぎと称したといわれる。また餡をつけたものがぼた餅、きな粉をまぶしたものはおはぎともいうが、いずれも定説ではなく、今日では春秋にかかわりなく、「ぼた餅」とも「おはぎ」ともよばれているという。

見ていると、僧侶と役員の信者が、本堂二箇所の高台に、ぼた餅が入った大きな樽を持ち上げていた。「こんな大きな樽じゃあ、中に入っているぼた餅も、けっこう大きそうだな」と、なんとなく私としても、期待が膨らんでしまった。

そしていよいよ、本堂の参拝客に、高台から「ぼた餅」が一斉にばらまかれたのである。

その途端に、本堂の中は、「ぼた餅」の取り合いで、大パニック状態に。

主婦の「あーっ」「きゃーっ」という悲鳴だか、何だかわからない声が鳴り響いたり、人だかりの下敷きになりそうな人が居たり。みんな、それこそ、ぼた餅を手でつかもうとして必死。

 

さて私も、必死になって、ようやく「ぼた餅」を手でつかむことができたのだが、その「ぼた餅」を見てびっくり。何とそのぼた餅は、飴玉くらいの大きさぐらいのものだったのである。

スーパーマーケット、コンビニなどの店頭に並んでいる「ぼた餅」を連想していた私は、がっくり。

「えーっ、こんなに小さいの」という感じ。ぼた餅の大きさに関しては、全くの期待はずれだった。

 

それにしても、こんな小さなぼた餅の取り合いのために、本堂は一時、大パニックに。

ぼた餅は小さかったが、龍口法難会そのものは、それこそ万単位の人が繰り出しているのではないかと思わせるくらい、規模が大きなものであった。

 

「龍口法難会」のぼた餅があまりにも小さかったのに、当てが外れた私は、ようやくここで龍口寺本堂から外に出た。

法要の最中、私は携帯カメラで片っ端からパチパチと写真を撮っていた。周りを見ても、法要の最中に写真を撮っていたのは私だけだった様子。法要が終わって、ぼた餅の準備が始まると、デジカメやら携帯カメラやらで写真を撮っていた人は居たが。

私は、写真を撮っていたことに関して誰からも咎められなかったし、注意も受けなかった。

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片瀬・龍口寺3(地域密着の祭礼になっている2)

 

実際に日蓮宗・龍口寺の「龍口法難会」に行ってみて、正直、これだけたくさんの人が龍口寺の「龍口法難会」に来ているのを見て、驚かされました。祭礼というと、神社の祭礼がよく知られているが、仏教寺院の祭礼が、これほどまでたくさんの人をよんでいるケースは、あまり例がないのではないでしょうか。関東近辺では、東京・池上の「池上本門寺」のお会式が、たくさんの人が訪れる地域の祭礼になっているのは有名で、池上本門寺の御会式には、約30万人もの人々が参拝に訪れるという。

 

それと的屋の露店・屋台が、国道467号線の歩道にとどまらず、何と龍口寺の門前から、一部が龍口寺の門の中の境内にまで及んでいるのも、驚いた。そして的屋の露店の前は、たくさんの人通りがあるため、なかなか前に進めない。

龍口法難会30


:境内の一角で様子を見ていると、ビールを飲んだ後、龍口寺の本堂に登っていく人や法要が行われている本堂から下りてくる人たちで、本堂に連なる参道は、それこそ参拝客・観光客でごったがえしていた。本堂では、すでに法要がはじまっていて、貫首が延々と「慶讃文?」を朗々と読んでいる声が、マイクを通して、本堂の外にまで聞こえてきていた。

本堂に連なる参道の脇にも、的屋だか地域の人だかの露店があって、そこでビール、酒、ジュースの他、フランクフルトややきそばを焼いて、売っていた。その露店のそばには、座って談笑しながらビールを飲んだり、つまみを食べたりする椅子とテーブルがあったのだが、そこは完全に満席。座れない人は、立ちながらビールを飲んだり、フランクフルトを食べたりしていて、その中には、どういうわけか、とても目立つ格好をしている「おかま」さんまでも。

全体的な雰囲気としては、片苦しい仏教寺院の法要に、厳粛なムードで参拝するという雰囲気ではなく、龍口寺の信者も、そうでない人も、一斉にわんさと龍口寺に行き、そこでビールを飲んだり、つまみを食べたり、的屋の露店のゲームを楽しんだり、金魚すくいを楽しんだりする、地域の盛大なお祭りという感じ。法要に厳粛に参拝するというのではなく、地域の祭りをみんなで楽しんでいるという感じに見えた。

仏教寺院のお祭り・祭礼は、こういう雰囲気のものが一般的なのかどうかまで、私が断定するわけにはいかないが、少なくとも、大石寺をはじめとする日蓮正宗寺院の法要の、あの閉鎖的で、超片苦しい雰囲気のものよりかは、いくらかこちらのほうがオープンで、ましなような気がする。

ビールを飲み干した私は、人だかりをかき分けながら参道を進み、龍口寺の本堂の中に入って行った。

 

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片瀬・龍口寺2(地域密着の祭礼になっている)

 

龍口寺の大きな行事として、日蓮の龍ノ口法難を記念する毎年911日~13日の「龍口法難会」がある。毎年912日の夜18時、13日の夜0時に「龍口法難会」の大法要が本堂で営まれ、参拝者には難除け牡丹餅が振舞われる。万灯練供養は12日夜に行なわれる。

なぜ912日の夜なのかというと、日蓮が龍口法難に遭遇したのがまさに文永8(1271)912日の夜。龍口刑場でまさに首斬られようとした時に、光り物が現れたのが深夜午前0時から2時くらいの間の出来事と伝承されていることに因んでいる。

「龍口法難会」という行事そのものは、ここの龍口寺のみならず、身延山久遠寺をはじめとする日蓮宗各寺院、大石寺をはじめとする日蓮正宗各寺院、富士門流各本山、末寺でも行われている。

ただ、ここ龍口寺の「龍口法難会」の場合、ここだけの面白い特色がある。

 

この「龍口法難会」は、日蓮正宗では「たつのくちほうなんえ」と呼んでいるが、日蓮宗・龍口寺の法要の慶讃文では「りゅうこうほうなんえ」と呼んでいた。どちらが読み方として正しいのかは、定かではない。というか、私にとっては、どちらでもいいことなんだが。

この龍口寺は、江ノ島電鉄江ノ島駅より徒歩3分、小田急江ノ島線片瀬江ノ島駅より徒歩15分くらいの所にあるのですが、毎年、龍口寺の「龍口法難会」が近づいてくると、小田急線の駅ホームには、「龍口法難会」が龍口寺で行われることを告げるポスターが張り出される。

 

数年前に、この龍口寺の「龍口法難会」に行ってきました。龍口寺には、過去に何度か訪ねて行っているのですが、龍口寺の「龍口法難会」に行くのは、はじめて。

私の場合、龍口寺に行くルートは、小田急江ノ島線で終点の片瀬江ノ島駅まで行くか、ないしは小田急・江ノ島線の藤沢駅で下車して江ノ島電鉄に乗り換えて、江ノ島駅で下車するか、のいずれかになる。小田急線の場合、特急ロマンスカーが運行されているので、それに乗って行ければ早くて便利なのだが、ただ、いかんせん片瀬江ノ島駅まで行く特急ロマンスカー・えのしま号は、本数が少なく、平日で5往復。土日休日で7往復しかない。箱根湯本までは平日23往復、土日休日が27往復運転されているのと比べると、えらい違いである。

それでも私は、乗り換え無しで行けるほうが便利なので小田急線で片瀬江ノ島駅まで行きました。

 

片瀬江ノ島駅に降り立ち、それから徒歩で龍口寺に向かうわけですが、途中、江ノ島電鉄の江ノ島駅前を通って、国道467号線に出る。そこから国道沿いに龍口寺まで歩いて行くのですが、この国道が、江ノ島駅入り口から龍口寺までの間、歩道にぎっしりとテントの出店が所狭しと並んでいる。通称、的屋(てきや)と呼ばれる露店・屋台である。

龍口法難会35


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