一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ

「一般社団法人 仏教宗学研究会」とは任意団体として2005年から活動している会の名称。2018年5月に一般社団法人登記。当ブログ名を「仏教宗学研究会のブログ」から「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」に改名。 「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

Category:大石寺9世日有・戒壇大本尊偽作問題 > 金・湯之奥金山博物館

■湯之奥金山博物館8・日有の経済力を解き明かす湯之奥金山博物館8

 

□何度も足を運んで調査した山梨県JR下部温泉駅前・湯之奥金山博物館

 

ところで、自分なりに調査・研究していって、どうしても一点、わからなかったことが、この湯之奥金山は、いつから採掘がはじまったのか、ということである。

湯之奥金山の採掘がいつからはじまったのか、ということは、大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が、日有によって偽作されたことを証明する大きなポイントになる。

日有が大石寺法主であった期間は141984 - 1467年、1472 - 14829月であり、京都天奏が1432年、「本門戒壇の大御本尊」偽作が1445年だとすると、少なくとも15世紀前半には、湯之奥金山での金の採掘がはじまっていなくてはならない。15世紀後半ということだと、湯之奥金山の金による「本門戒壇の大御本尊」日有偽作の根拠が大きく薄れてしまうことになる。

そこのところを展示を見学したり、売店で館長の著書を買ったり、記念講演・公開講座の記録集等々を買って読んだのだが、ここのところが、どこにも出ていないのである。

「湯之奥金山博物館・展示図録」の中のコラムで、堀内亨氏という人が

「発掘調査の結果、中山金山の操業の始期は15世紀後半、黒川金山のそれは16世紀初頭と推定されている」(p38)と書いている。15世紀後半と推定と書いているが、操業とならなくても、湯之奥金山に人が入って金を掘り始めたのはいつなのか。これが私は知りたかった。

 

まずは湯之奥金山博物館の受付カウンターにいた、中年の男性係員に率直に質問をぶつけてみた。ところが、この人は、私の質問に対して、とおり一辺倒のマニュアル的な答えをするだけで、私が求めた「いつから湯之奥で金の採掘がはじまったのか」という質問に対する答えが出てこない。

私が、突っ込んで聞くと、わからないという。

「それでは館長に聞いてください」と要求すると、もじもじ渋っていたが、「今、館長はいないんですか」と押すと、今、館長が館長室にいることを告白。

男性係員は、「では館長室に行って聞いてきます」と行って、二階に上がって行ったのである。

私はてっきり、この男性が館長に聞いて、下に降りてくるものだとばかり思っていた。すると何と、谷口一夫館長が自ら下に降りてきたのである。

思わぬ形で、湯之奥金山博物館の谷口一夫館長と単独会見が実現することになったのである。

谷口一夫館長が自ら下に降りてきて、思わぬ形で、湯之奥金山博物館の谷口一夫館長との単独会見が実現することになったのである。

谷口館長は「何か?」という感じで、私の前に現れた。私はこの時が千載一遇のチャンスととらえ、質問をストレートに谷口館長にぶつけた。

湯之奥金山博物館2 

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■湯之奥金山博物館7・日有の経済力を解き明かす湯之奥金山博物館7

 

□「戒壇大本尊」を偽作して湯之奥・金山衆の金の供養独占を狙った大石寺9世日有

 

湯之奥金山の金山衆は、「南無妙法蓮華経」を唱える法華の信者であった。

法華の信者である金山衆たちは、甲斐国の人たちは主に身延山久遠寺に参詣し、駿河国の人たちは主に北山本門寺、大石寺などの富士五山に参詣し、供養した。

一般大衆がどこか特定の宗派、特定の寺院に所属が固定化されたのは、寛文11年(1671年)に宗門人別改帳が法整備されてからのことで、それ以前は、寺院に信者名簿があったわけではなく、機関紙があったわけではなく、講組織が今のように整備されていたわけではなく、御書全集があるわけでもなく、それどころか信者の大半は、文字すらも読めなかった。

室町時代の頃、信者の大半は、半農・半商・半職の武士が多く、日々は農作業やら、売り買いやら、戦で多忙であった。

法華講などの講組織は、関東・甲信・駿河・東北にはあったようだが、今のように全ての信者を網羅する組織が整備されていたわけではなく、信者も勤行や布教をしていたわけでもなく、教学にもほとんど縁がなかった。

室町時代、戦国・安土桃山時代のころの布教の主体は僧侶であり、僧侶が自坊の持仏堂に本尊を祀って勤行をし、外へ出て布教活動を行い、天台の檀林等に修学して教学を身につけていた。

僧侶の布教の縁故で、信者が寺院に参詣し、供養していたわけだが、その当時の寺院では、大石寺では、御講等の行事・法要が行われていたようだが、末寺に至っては、定期的な行事・法要が行われていない所が多く、寺院と信者の関係は、ほとんど供養するだけだったと言える。

大石寺門流で客殿を創建して、信者を集めて法要を行ったのは大石寺9世日有が最初である。

 

大石寺9世日有は、金山衆から金の供養を受けていたが、金山衆は大石寺の日有だけに供養していたわけではなく、身延山久遠寺にも供養し、北山本門寺にも供養していた。大石寺9世日有が金山衆の供養を独占していたわけではないのである。

そこで大石寺9世日有は、「戒壇の大本尊」なる板本尊や「日蓮本仏義」「唯授一人の血脈相承」なるものを偽作して、金山衆の金の供養の独占を狙ったわけである。

「大石寺には日蓮大聖人からの唯授一人の血脈相承による『本門戒壇の大御本尊』が格蔵されている。大石寺だけが日蓮大聖人の唯一正統の門流である。だから大石寺に供養すれば功徳がある」

今風の日蓮正宗的に言い方だと、さしずめこんなところだろうか。

大石寺9世日有は、「戒壇の大本尊」なる板本尊や「日蓮本仏論」「唯授一人の血脈相承」なるものを偽作し、大石寺に客殿を創建して、信者を集めて法要を行い、さらに湯之奥・下部にほど近い甲斐国(山梨県)杉山に有明寺を建立して、金山衆を大石寺につなぎ止めようとした。

かくして大石寺9世日有は、大石寺で金山衆の金の供養を独占することを狙ったのである。

湯之奥金山博物館3


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■湯之奥金山博物館6・日有の経済力を解き明かす湯之奥金山博物館6

 

□湯之奥金山の金山衆たちは富士門流の信者が多かった

 

湯之奥金山遺跡学術調査会・調査団の学術的総合調査によって、湯之奥金山博物館展示図録は、はっきりと中山金山の金山衆たちの菩提寺は、静岡県富士宮市にある富士門流八本山のひとつ・北山本門寺であったと特定している。ならば「北山本門寺の信者であった湯之奥金山の金山衆が、なぜ大石寺法主・日有に金を供養したのか」ということになるが、ここで当時の時代背景をよく考察する必要がある。

まず第一に、日蓮正宗大石寺9世法主日有の時代は、富士門流の中でも、まだ大石寺と北山本門寺が同一の門流として、互いに交流がさかんにあった時代であり、今のように全く口も聞かないほど決定的に分裂していなかったということ。

第二に、この当時、鎌倉・室町・戦国時代の仏教界は、今のように信者名簿や寺檀制度が整備されていたわけではなく、信者で「二重信仰」「三重信仰」していた人は、それこそたくさんいた。

富士門流内においては、京都・日尊門流、大石寺門流、西山本門寺、北山本門寺、保田妙本寺、小泉久遠寺等は、相互に交流があったわけだから、この富士門流の中で、例えば大石寺と日尊門流、北山本門寺と日尊門流、あるいは北山本門寺、小泉久遠寺、日尊門流といった風に「二重信仰」「三重信仰」の「かけもち信仰」をしていた信者は、ごく当たり前のように存在していた。

寺院と信者の関係が完全に固定化されたのは、江戸時代の寺請制度により、本山寺院信者の檀家制度が整備されて以降のことである。

したがって、日有の時代の金山衆たちは北山本門寺に参詣していたであろうが、同時に、大石寺にも出入りしていたであろうし、信者であれば、御講やお会式などの寺院参詣の折りや葬儀・法事・結婚式などの冠婚葬祭の折りなどには、供養を大石寺にも出すが北山本門寺にも差し出す。

湯之奥金山の掘間を所有し、金山を操業・経営し高度な技術を持っていた金山衆たちは、大石寺に供養した折りには、当然、自分達が生産した金を差し出したことは、疑いないことだ。

日有は、北山本門寺など他の富士門流本山寺院に先んじて、黒漆塗りに金箔加工を施した板本尊を造っていることからして、富士五山などの富士門流の本山寺院の中でも、特に湯之奥金山の金山衆たちと密接な関係があったと考えられる。

湯之奥金山遺跡学術調査会・調査団のさまざまな学術的総合調査によって、山梨県身延町(旧下部町)の甲斐黄金村・湯之奥金山博物館の展示や湯之奥金山博物館展示図録のみならず、湯之奥金山博物館館長・谷口一夫氏の著書「武田軍団を支えた甲州金」など学術研究者の著書においても、はっきりと湯之奥金山の金山衆は、「墓石からそのほとんどは法華の信者であった」と記載しており、湯之奥金山の拠点である中山金山の金山衆たちの菩提寺は、静岡県富士宮市の北山本門寺であったと特定している。

北山本門寺39仁王門


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■湯之奥金山博物館5・日有の経済力を解き明かす湯之奥金山博物館5

 

□湯之奥金山の金山衆は日蓮宗系・富士門流の「法華の信者」だった2

 

江戸時代に湯之奥の中山金山に建てられた石塔や茅小屋金山に建てられた墓石に「富士北山村」の文字が見えるものがあることから、湯之奥金山博物館では、金山衆の菩提寺は富士宮市北山の北山本門寺であったと特定している。

湯之奥金山博物館の展示では、これは湯之奥金山の金山衆が静岡県富士宮市と深い関わりがあったことを示唆していると、している。

富士吉田市歴史民俗博物館勤務の堀内真氏が、1998117日に湯之奥金山博物館で行われた第4回公開講座における「金山衆の暮らしと信仰」と題する講演で、湯之奥金山の石塔に記された人物名、富士宮市・北山本門寺の「御廟所」、北山周辺在住の人々の家系等々を調査した上で次のように言っている。

「富士宮市とその周辺に富士五山という五つの日蓮宗の大きな寺院があります。その一つを北山本門寺と言いますが、この寺の『御廟所』は寺の中でも有名な檀家で埋葬されている墓地であって、そういった石塔を見ていくと、その中の一つに先祖の由緒が書いてあるものがあります」

「どうやら中山金山(湯之奥で最大の金山)で活動していた金山衆は元々甲州の人間ではなく、駿河の人間であった可能性が極めて高いのです。金山の中の石塔には日蓮宗タイプの石造物が立っているわけですが、麓に下って以降のそれも北山本門寺という日蓮宗とのつながりを継続して残していることが分かります」(『金山史研究・第1集』p73)

 

立正大学仏教学部非常勤講師・立正大学日蓮教学研究所客員所員の望月真澄氏が、20051217日の湯之奥金山博物館回公開講座における「甲斐と駿河を結ぶ道」と題する講演で、次のように講演している。

「金山を掘る金山衆という職業の人々がどのように(湯之奥に)登山し、下山していったか。出身地の多くは、富士宮市北山地域と言われています。それはなぜかと言いますと、北山本門寺(富士宮市)が菩提寺となっている人が多かったから分かることです。本門寺は、日蓮宗の本山であり、金山衆が山の上で亡くなれば、その傍らに供養塔が建立されました。この石塔には、『南無妙法蓮華経』の題目が刻まれ、法華の法号(戒名)が記されています。金山衆の信仰の軌跡が山上に残されていることは貴重なことです」(『金山史研究・第8集』p46)

 

堀内真氏や望月真澄氏のように、金山衆の菩提寺をはっきりと北山本門寺と特定している学者も居る。堀内真氏は大石寺・富士妙蓮寺・北山本門寺・西山本門寺・小泉久遠寺の富士五山を「日蓮宗の大きな寺院」と言っているところが面白い。

北山本門寺39仁王門


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■湯之奥金山博物館4・日有の経済力を解き明かす湯之奥金山博物館4

 

□湯之奥金山の金山衆は日蓮宗系・富士門流の「法華の信者」だった1

 

湯之奥金山で金の採掘・経営を行っていた金山衆は、いかなる信仰をしていたのか。

湯之奥金山博物館の「金山に生きる」のコーナー、「金山衆の生活と信仰」によれば

「金山衆の上層の人々は、祖母懐の茶釜や天目茶碗を用いて茶の湯を楽しみ、余暇には囲碁を楽しんでいた。彼等は亡くなると七人塚に代表される墓地に埋葬されたが、墓石からそのほとんどは法華の信者であったことが理解される」

とある。その証拠を示すものとして、湯之奥の中山金山付近で祀られていたという社の棟札、湯之奥金山周辺に残っている石造物、発掘調査で出土した磁器、陶器、陶磁器、銭貨、銅製品、碁石、武田氏が発行した古文書、朱印状、井出正次手形といった文献を挙げている。

金山衆の古文書については、湯之奥金山のすぐ隣の甲斐国・駿河国の国境(山梨県・静岡県の県境)付近に富士金山という金山があり、その富士金山を采配した金山衆の末裔である竹川家が現存しており、竹川家の古文書も調査されているという。

甲斐国・駿河国の国境をはさんで湯之奥金山と富士金山は隣接しており、金鉱脈は同一である。江戸時代の初頭の段階で、富士金山には16本の掘間があり、駿河代官・井出正次が竹川家に、湯之奥の中山金山の掘間の管轄を命じた文書が、先の井出正次手形である。

湯之奥金山博物館の谷口一夫館長の著書「武田軍団を支えた甲州金」によれば、湯之奥金山にある石造物としては、中山金山には10基、内山金山には2基、茅小屋金山には10基あり、これらの石塔の中に「南無妙法蓮華経」の文字が見えるという。

あるいは、石塔に刻まれた戒名を見ると「悲母妙安霊」「慈父宗安」「母妙養霊位」といった日蓮宗系の戒名になっている。

こういったところから、湯之奥金山博物館では、金山衆のほとんどが「法華の信者であったことが理解される」というふうに結論づけているわけである。

湯之奥金山博物館3 

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■湯之奥金山博物館3・日有の経済力を解き明かす湯之奥金山博物館3

 

□戦国大名・武田氏の軍役も担っていた湯之奥金山の金山衆

 

それでは、実際に湯之奥金山で金鉱を採掘し、精錬、経営していた金山衆(かなやましゅう)と呼ばれる人たちは、いかなる人たちだったのか。これについては、湯之奥金山博物館の「金山に生きる」のコーナーの□「金山衆の生活と信仰」□「金山衆とはという項目」で、展示されている。

展示を見ると、金山衆がいかなる宗教を信仰して、どういう生活をしていたのか、ということが細部にわたって、発掘調査や古文書調査等々で判明しているというから面白い。

その証拠を示すものとして、湯之奥の中山金山付近で祀られていたという社の棟札、湯之奥金山周辺に残っている石造物、発掘調査で出土した磁器、陶器、陶磁器、銭貨、銅製品、碁石、武田氏が発行した古文書、朱印状、井出正次手形といった文献を挙げている。

金山衆の古文書については、湯之奥金山のすぐ隣の甲斐国・駿河国の国境(山梨県・静岡県の県境)付近に富士金山という金山があり、その富士金山を采配した金山衆の末裔である竹川家が現存しており、竹川家の古文書も調査されているという。

甲斐国・駿河国の国境をはさんで湯之奥金山と富士金山は隣接しており、金鉱脈は同一である。江戸時代の初頭の段階で、富士金山には16本の掘間があり、駿河代官・井出正次が竹川家に、湯之奥の中山金山の掘間の管轄を命じた文書が、先の井出正次手形である。

金山衆というのは、金山の経営を行う技術者であるが、彼等は金鉱の掘間を所有し、操業し、ときには戦国大名の要請に応じて、戦にも参加した。武田氏の発給した古文書に依れば、金山衆は馬の通行税も免除され、商業活動も行っていたということである。

戦国大名・武田氏の勢力が最も盛んだった元亀2(1571)、武田信玄が北条氏の属城である駿河国・深沢城(静岡県御殿場市)を攻略しているが、この戦には多くの金山衆が参加し、戦功を立てた金山衆に対して、褒美が与えられた文書が残されている。

この深沢城の戦の他、金山衆が参加して手柄を立てたという伝承を有する城がいくつかあり、金山衆は「軍役衆」と同じような役割も果たしていたという。

軍役(ぐんやく、ぐんえき)とは、戦時に、武士が主君に拠出すべく課せられる軍事力や兵糧その他のこと。

軍役は広義には民衆に課せられる夫役のうちの兵役なども含まれるが、狭義には封建制度における「御恩と奉公」の関係において、知行地の安堵(御恩)と引き替えに主君に軍事的奉公を行うことである。

軍役は半農半士の土豪・地侍にも課せられた。武田家菩提寺、恵林寺領の例を見ると家臣団の末端に位置して武芸を専らとする「同心衆」のほかに、年貢の一部負担を免除された「軍役衆」の存在が見られる。彼らはいわゆる惣百姓(一般名主)とは異なり、年貢や夫役の一部を免除されるかわりに、戦時においては武田家への軍役を担ったのである。

似た制度は兵農分離以前の時代にあって各戦国大名家にみられ、豊臣秀吉・太閤検地の実施で兵農分離が進められるまで、各大名家の戦力の一部を担っている。

湯之奥金山博物館2 

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■湯之奥金山博物館2・日有の経済力を解き明かす湯之奥金山博物館2

 

□昭和63年度に始まる「ふるさと創生事業」の一環で平成9年4月に開館した湯之奥金山博物館

 

この湯之奥金山博物館は、JR身延線・下部温泉駅から徒歩45分くらいのところにある。

あの当時は、東海道線の東京~静岡に特急「東海」が走っており、富士駅で身延線の特急「ふじかわ」と連絡していた。乗り換え連絡があったため、割とスムーズに東京から下部温泉に行けたのです。この特急「東海」は20073月で廃止され、今は走っていませんが。

スムーズに東京から下部温泉に行けたとは行っても、身延線は富士~富士宮は複線になっているのですが、富士宮~甲府は単線区間。

特急列車も単線区間に入ると、さすがにスピードダウンする。そういうわけで富士駅から下部温泉駅まで、約1時間くらいかかった。

博物館に到着して、早速、入場料を支払い、中の展示を見学。

この湯之奥金山博物館は、昭和63年度に始まった「ふるさと創生事業」の一環として平成元年に湯之奥金山調査団と調査会を組織、以後3箇年にわたって発掘などの総合学術調査が実施され、考古学・文献史学・民俗学・鉱山技術史・地質学等々からなる学際的総合調査が進められ「湯之奥金山遺跡」の姿が解明され、この調査結果をもとに平成9年4月に開館したもの。

したがって建物は、まさにできたての新館。まことにきれいな造りの建物であった。

私はまず順路の通りに進み、館内の展示の見学とメモをはじめたのでしたが、展示されていた湯之奥金山の概要、あらまし、金の採掘、金鉱山の様子、金山衆の概要…。

はじめてここに来たときの私にとっては、まさに目からウロコであった。

 

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■湯之奥金山博物館1・日有の経済力を解き明かす湯之奥金山博物館

 

□ありとあらゆる資料をひっくり返して調べ、ようやく見つけた「甲斐黄金村・湯之奥金山博物館」

 

□大石寺の『戒壇大本尊』は9世日有の偽作だ

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/cat_161878.html

□戒壇大本尊は9世日有の偽作だ001080

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/cat_628700.html

□戒壇大本尊は9世日有の偽作だ081150

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/cat_628705.html

□戒壇大本尊は9世日有の偽作だ151200

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/cat_628708.html

日蓮正宗大石寺の「戒壇の大本尊」偽作解明の最大のポイントは、「経済力」「財力」であり、「戒壇の大本尊」を偽作した日蓮正宗大石寺9世法主日有の経済力を解き明かす最大の鍵は、大石寺から北方約15キロくらいのところにある「湯之奥金山遺跡」。

武田信玄の隠し金山とも伝えられている湯之奥金山を紹介する博物館が、JR身延線の下部温泉駅から徒歩3分ぐらいのところにある「甲斐黄金村・湯之奥金山博物館」である。

大石寺の「戒壇の大本尊」偽作解明を進めていく中で、いろいろな大きなポイントがあるが、中でも最大のポイントは、「経済力」「財力」である。

「日蓮は、経済力がなかったが故に、『戒壇の大本尊』を造立していない」

という論を立てるには、逆説的に「『戒壇の大本尊』を偽作した者は、経済力・財力を有していた」

ということになる。その経済力は、楠木をどこからか入手し、漆、金を入手し、仏師を雇って板本尊を彫刻し、漆職人、金箔職人を雇って、板本尊に漆加工、金箔加工を完成させた、とても大きな経済力である。

大石寺の「戒壇の大本尊」を偽作したのが大石寺の法主ということになれば、どうしてその法主は、どこからそんな大きな経済力を入手できたのか。こういう疑問からスタートした。

私は、日蓮正宗の歴史を30年以上前からいろいろと研究しているが、大石寺二祖日興・三祖日目入滅後から江戸時代以前に於いて、大石寺には、目立った大檀那はいない。

つまり、とても有力な大檀那がいて、「その大檀那の経済力で」という説は成り立たない。

そうすると、大石寺の近くに金山か、銀山かが、あったとしか考えられないわけで、私は、静岡県、山梨県に、金鉱山がなかったか、徹底的に調査したわけである。

地図、観光案内、JTBハンドブック、るるぶ情報板、iジャパン…ありとあらゆる資料をひっくり返して、徹底的に調べたところ、ついにこの「甲斐黄金村・湯之奥金山博物館」を発見したという次第。

場所は、大石寺の北方、毛無山の山頂・静岡県と山梨県の県境から、山梨県に入ったところ。下部温泉の中。下部温泉と言えば、大石寺9世日有が湯治をしていたことが、大石寺17世法主日精の「家中抄」に書いてある、あの温泉である。

湯之奥金山博物館2 

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