仏教宗学研究会のブログ

「仏教宗学研究会」とは会の名称。「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「仏教宗学研究会のブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

「仏教宗学研究会」とは「アンチ日蓮正宗」管理人が設立した会の名称。この会の中で、「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄。
「仏教宗学研究会のブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。富士門流執着軍団批判は「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄だが、「日蓮正宗系」以外の富士門流寺院の調査・研究は「仏教宗学研究会のブログ」の管轄。
「仏教宗学研究会」への誹謗中傷に対する反撃・糾弾は「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄。
さらに正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗」の公式サイト「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」から、カルト宗教対策、カルト宗教取締特別立法、カルト宗教拡散防止条約制定の活動部分を独立させたものが「国際カルト宗教対策委員会(Icat-Cult)」

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金・下部温泉・湯之奥・猪之頭線

湯之奥・猪之頭線(7)~室町・戦国時代の下部温泉には「湯女風呂」「花街」はあった

■湯之奥・猪之頭線7・室町時代、日有が往還に使った上人路・「湯之奥・猪之頭線」7

 

□室町・戦国時代の下部温泉には「湯女風呂」「花街」はあった

 

室町・戦国・安土桃山時代から江戸時代中期まで、金鉱掘りが行われていた湯之奥金山があった湯之奥地区から、湯之奥・猪之頭線を富士川方面に下ってくると、下部温泉に出ます。

下部温泉からJR下部温泉駅前をぬけると、JR身延線の踏切をわたって、富士川街道と合流するわけです。この下部温泉とは、「武田信玄の隠し湯」として有名な温泉で、下部川沿いにホテルや旅館が建ち並んでいます。温泉の効用は、キズの治療ということで、合戦でキズを負った武家や侍たちが、ここにキズを癒しに来ていたと言うことです。

さらに日蓮正宗大石寺17世法主・日精が書いた著書「富士門家中見聞」(家中抄)によると、大石寺9世日有が、この下部の湯に、宿病の湯治に来ていた、ということを書いています。

この宿病については、らい病説を唱えている学者・研究者もいるようですが、私は日有らい病説には、否定的見解であり、家中抄に書いてある「宿病」とは、らい病ではないと見ています。

あともうひとつ、私が着目している視点があって、湯之奥金山が金山衆(かなやましゅう)によって採掘されていた室町・戦国・安土桃山時代のころ、湯之奥ないしは下部に遊郭があったということです。ただし発掘調査では、遊郭跡は発見されなかったということです。

今の下部温泉に、遊郭や花街は全く存在していません。

しかし歴史を百年くらいさかのぼってみると、日本各地の温泉地には、遊郭や花街があったようです。私が調査した限りでも、兵庫県・有馬温泉、滋賀県・雄琴温泉、和歌山県・白浜温泉などがあります。

さらに昔にとどまらず、雄琴温泉や静岡県・熱海温泉、群馬県・草津温泉、石川県・山中温泉、片山津温泉、山代温泉、福井県・芦原温泉、鳥取県・皆生温泉、三朝温泉、大分県・別府温泉、愛媛県・道後温泉など、今でも、温泉街の中に、ストリップ劇場やソープランドなどの風俗産業・現代の花街が残っている温泉も、全国各地に多々あります。つまり昔から、温泉に、遊郭・花街・風俗産業というものは、欠かせない存在だったということです。

よって、湯之奥金山で金鉱掘りが行われて、経済的に裕福な金山衆(かなやましゅう)が多数住んでいた当時、この下部温泉にも遊郭・花街はあったと考えられます。否、あったと考えるほうが自然でしょう。

さてもうひとつ温泉宿で特筆すべきことは、この当時、温泉宿においては、すでに「湯女」(ゆな)と呼ばれる女性たちがいたということである。湯女(ゆな)とは、銭湯で垢すりや髪すきのサービスを提供した女性のことで、中世には有馬温泉など温泉宿において多く見られ、次第に江戸、大坂、京都などの都市に移入された。

当初は、銭湯男性客の垢すりや髪すきのサービスだけだったが、次第に飲食や音曲のサービスに加え、サービスが徐々にエスカレートして、現在の特殊浴場・ソープランドに相当する過激な性的サービスを提供するようになっていった。

下部温泉1 

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湯之奥・猪之頭線(6)~湯之奥・猪之頭線を実際に車で走って室町時代の大石寺9世日有の足どり調査3

■湯之奥・猪之頭線6・室町時代、日有が往還に使った上人路・「湯之奥・猪之頭線」6

 

□湯之奥・猪之頭線を実際に車で走って室町時代の大石寺9世日有の足どり調査3

 

さて湯之奥集落から湯之奥・猪之頭線を逆に下っていくと、下部温泉に着きます。

ここは、古くから「武田信玄の隠し湯」といわれた温泉として有名で、さらに日蓮正宗大石寺9世法主・日有が、下部の湯に湯治に来ていたことが、大石寺17世日精の著書「家中抄」に載っている。

さらにこのあたりに、大石寺9世日有にまつわるものがあります。それは大石寺9世日有が創建した日蓮正宗寺院・有明寺です。有明寺は、下部温泉から、別ルートで毛無山方面に行く途中の杉山地区にあります。

湯之奥・猪之頭線からは少し入り組んだ所にありますが、位置的に言うと、まさに有明寺のある所は、金鉱掘りが行われていた毛無山山頂付近から、少し山梨県側に下った所です。

今は、毛無山方面に行く道から、「有明寺入口」と書かれた立て看板が出ている所から、脇道に入って行って、突き当たりが有明寺になります。

この有明寺のそばを通る毛無山方面への道は、今は静岡県側へは抜けられなくなっています。

がしかし、室町・戦国の世から富士宮方面からの毛無山登山道があるわけですから、山梨県側にも登山道はあったと考えられます。こうやって、毛無山付近をいろいろ調査していくと、大石寺、上人路、湯之奥・猪之頭線、湯之奥金山、湯之奥集落、下部温泉、有明寺と、大石寺9世日有にまつわるものばかりが出てきます。よってこれらの調査から、大石寺9世日有が

□大石寺と有明寺を斎日(7日・13日・15)ごとに往復していた。

□下部の湯へ湯治に行っていた

大石寺9世日有がこの往還に使っていたルートは、まさに今の林道・湯之奥・猪之頭線であると私は断定しました。つまりこれが、日蓮正宗が「上人路」(しょうにんみち)と呼んでいる道です。

私が積み重ねてきた調査の結果から、この上人路とは、今の湯之奥・猪之頭線しかあり得ない。

またこのルートは、大石寺9世日有が湯之奥金山で金鉱掘りを行っていた「金山衆」(かなやましゅう)から、湯之奥金山で採掘された金を受け取るルートのひとつであったと考えられます。

大石寺9世日有が毛無山山麓に、有明寺を創建したのも、この金山衆たちを大石寺信者として、つなぎ止めておく目的以外に考えられない。

第一、大石寺9世日有在世の代においても、毛無山、下部温泉、湯之奥、大杉山近辺で、日有に供養していた人たちと言えば、湯之奥金山の金山衆が最大であったことは間違いない。湯之奥金山博物館によると、湯之奥金山が発見されたのは、まさに日有が大石寺法主に登座した15世紀前半。この湯之奥金山が、甲斐国の戦国大名・武田家の家臣・穴山氏の所領になって、湯之奥金山の金が武田家の懐に入るようになったのは、16世紀になってからのこと。

湯之奥線2 

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湯之奥・猪之頭線(5)~室町・戦国から江戸時代前半まで金鉱掘りの金山衆の町だった湯之奥地区

■湯之奥・猪之頭線5・室町時代、日有が往還に使った上人路・「湯之奥・猪之頭線」5

 

□室町・戦国から江戸時代前半まで金鉱掘りの金山衆の町だった湯之奥地区

 

湯之奥・猪之頭線を下部温泉側から毛無山方面に向かい、切り立った山沿いを車でどんどん走っていくと、湯之奥地区にたどり着きます。下部温泉から湯之奥地区までの距離は、けっこう長く感じました。山梨県身延町の湯之奥地区とは、室町・戦国・安土桃山時代から江戸時代前半まで、毛無山山頂から今の山梨県側で採掘されていた湯之奥金山で、実際に金鉱を掘っていた金山衆(かなやましゅう)の町がおこりです。

湯之奥金山に関する古文書を格蔵している門西家も、湯之奥地区にあります。地区内には、金山跡に行くルートを案内する標識も立っていました。湯之奥地区は、元々は山梨県下部町になっていて、19891990年ころに行われた湯之奥金山跡の学術調査・発掘調査も、下部町だった時代のこと。その後、身延町、下部町、中富町の三町合併で身延町になっています。

湯之奥地区は、かなり山間部に入ったところにあります。湯之奥地区に通じる唯一の道路が、この湯之奥・猪之頭線で、この道路も、大雨があると、すぐにがけ崩れが起きてしまうような道路です。実際に下部温泉から湯之奥地区に向かう途中、何度もがけ崩れの跡に遭遇しました。

下部湯之奥線3










又、湯之奥地区の入り口付近には、1時間に○○ミリ以上の雨が降ると、通行止めになってしまうということで、何と道路上に、通行止め用の柵が設けられていました。そうすると台風や大雨になった場合、湯之奥地区自体が孤立してしまうことになります。これで大丈夫なのでしょうか。

湯之奥地区のある所は、もう毛無山の山の斜面に沿ったところにあり、ここから静岡県富士宮市猪之頭地区に抜けるトンネルに向かう林道・湯之奥・猪之頭線は、かなり急な斜面をはうようにできています。湯之奥地区内には、毛無山の山の斜面を利用して畑作が行われているようですが、水田は見当たりませんでした。

これよりずいぶん前のことですが、身延町教育委員会の職員に取材して、いろいろ話を聞いたときに、中世のころの、身延、下部、湯之奥近辺の人たちは、ずいぶん裕福な生活をしていた、という話しをしていました。当然、湯之奥金山の収入が大きかったと思いますが、その他に、林業をはじめ、さまざまな山林資源を採って、売っていたと言うことでした。山林資源の中には、きのこ、しいたけ、などの山菜類も入っているんでしょう。

資料によれは、しいたけは、古来日本では古くから産したものの、栽培は不可能で、山林で自生したものを採集するしかなかった、といいます。その一方で精進料理において出汁を取るためには無くてはならないものであり、道元が南宋に渡った際に、現地の僧から干し椎茸を持っていないかと問われた逸話があるほど高価な食材であった。精進料理とは、禅宗の寺院の僧侶の修行のひとつに、この精進料理をつくるというのがあります。

鎌倉時代に栄西、道元によって禅宗が日本に伝来しており、需要がそうとうあったにもかかわらず、供給のほうは、山林で自生したものを採取するのみ、ということでは、これは高く売れたでしょうね。今でも、しいたけは、相当に高価な食べ物です。その、しいたけは、江戸時代から、原木に傷を付けるなどの半栽培が行われ始めたといいます。人工栽培の方法が確立したのは、何と20世紀になってからだといいます。そういうことを考えると、中世の頃の湯之奥の人たちの裕福さというのは、相当なものだったと考えられます。

下部湯之奥線5


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湯之奥・猪之頭線(4)~毛無山麓に大石寺9世日有が金山衆を引き留める為に創建した寺院・有明寺

■湯之奥・猪之頭線4・室町時代、日有が往還に使った上人路・「湯之奥・猪之頭線」4

 

□毛無山麓に大石寺9世日有が金山衆を引き留める為に創建した日蓮正宗寺院・有明寺

 

私は、湯之奥・猪之頭線の調査を行っていた時、日蓮正宗大石寺9世法主・日有が創建したという寺院・有明寺にも行っています。

ここは、富士川街道・JR身延線・甲斐ときわ駅前から大杉山方面へ行く県道があり、さらに有明寺入り口は、この県道から右斜め方向に分岐して、細い道を下っていきます。この分岐した細い道の突き当たりが、日蓮正宗寺院・有明寺です。

有明寺3


有明寺に行く道は、車一台がやっと通れるような道路でとにかく狭い。こんな狭い道では、車のすれ違いすら困難である。有明寺では御会式や御講などの年中行事が行われているはずですが、大きな行事があって、たくさんの信者が参詣したときなど、不都合は生じないのだろうか。

有明寺の前には広い駐車場があるので、車で有明寺に参詣する信者はかなりたくさん居ると思われる。有明寺につながる道路が、こんなすれ違いも困難な道一本しかないのでは、行事が終わって信者が帰宅しようとするときなどは、大渋滞になるものと思われるのだが。

それとも、車だけではなく、徒歩で参詣する人もかなりいるということなのだろうか。

 

私が有明寺に行ったとき、庫裡・本堂の修理工事が行われていました。この工事の施工業者は、ここの信者なのでしょうか。

ここの庫裡・本堂は、どこにでもあるような外観の寺院建築になっていて、本堂に向かって右側は、広々とした広場になっていて、そこに大石寺9世日有の廟がありました。大石寺9世日有の墓は、大石寺の歴代法主の墓地にも建っています。

古文書によると、大石寺9世日有は14829月に有明寺で遷化(死去)したとなっていることから、そうすると日有の遺骨は、有明寺に埋葬されたということになる。それでは、有明寺の日有廟が、正墓ということか。日有廟のとなりには、日有手掘りの井戸なるものがあり、大石寺68世法主・早瀬日如の銘文もありました。

それでは、大石寺の歴代法主墓地にある日有の墓は、あれは正墓ではないということか。そうすると、大石寺には、日蓮、日興、日目、日有のいずれの正墓もない寺院ということになる。

まあ、大石寺に日有の正墓がないと言っても、日蓮正宗の信者たちは、また「有明寺から大石寺に分骨したのだ」などと言い張るのだろうが…。しかし有明寺から大石寺に日有の遺骨を分骨した証拠など、どこにもないはずなのだが…。

日有正墓1

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湯之奥・猪之頭線(3)~湯之奥・猪之頭線を実際に車で走って室町時代の大石寺9世日有の足どり調査2

■湯之奥・猪之頭線3・室町時代、日有が往還に使った上人路・「湯之奥・猪之頭線」3

 

□湯之奥・猪之頭線を実際に車で走って室町時代の大石寺9世日有の足どり調査2

 

私は車で、富士宮市猪之頭地区から、国道139号線に出て本栖湖方面に北上。本栖湖畔で国道300号線に出て、身延町方面に向かいました。このあたりも大雨の影響による、がけ崩れがあり、一部の区間で、迂回走行しなければならない区間がありました。

湯之奥・猪之頭線の山梨県側の入り口は、富士川沿いを走るJR身延線・下部温泉駅入り口にあります。ここは、国道52号線・富士川街道から入っていきます。

JR身延線の踏切を渡って、下部温泉駅前を通り過ぎ、右手に、湯之奥金山博物館を見ながら、毛無山方面へと車を走らせる。下部温泉駅から下部温泉までは、すぐなのですが、その途中、下部川沿いを走る湯之奥・猪之頭線が大雨の影響で、道路の一部が川に崩落し、修復工事が行われていました。下部温泉駅から下部温泉まで、車で行けば、すぐに着いてしまいます。徒歩で行ったとしても、ものの数分で着くのではないかと思われます。それくらい、近い所にあります。

下部温泉は、戦国時代、武田信玄の隠し湯と言われた温泉であると同時に、大石寺9世日有が、下部温泉に湯治に来ていたことが、大石寺17世日精の著書「家中抄」に書いてあります。

湯治という行為は、日本においては古くから行われていたが、古くは湯治を行っていたのは権力者など一部の人に限られていた。一般の人の間でも湯治が盛んに行われるようになったのは、江戸時代以降である。これは、街道が整備されたことにより遠方との往来が容易になったためである。大名と大名の合戦が行われなくなったことにより、農閑期に時間が発生した農民が、蓄積した疲労を癒す目的で湯治を行うようにもなった。

室町時代・戦国時代において、下部温泉で湯治をしていた人たちといえば、甲斐の国の大名、武田氏や穴山氏、大名の家臣、武士、近くの湯之奥金山で金を掘っていた金山衆(かなやましゅう)たちといった、裕福で経済力のある人たちだった。大石寺9世日有も、甲州・湯之奥金山で金を採掘していた金山衆からの供養により、かなり大きな経済基盤を保持していた。

湯治とは、本来は、温泉地に少なくとも一週間以上の長期滞留して特定の疾病の温泉療養を行う行為であり、日帰りや数泊で疲労回復の目的や物見遊山的に行う温泉旅行とは、別のものである。したがって、当時は長期滞在を前提とした湯治客のみが温泉宿に宿泊できたため、一泊のみの旅行者は温泉宿には泊まることができなかった。しかし、一泊宿泊の温泉客は後を絶たず、その抜け道として、一日だけ湯治を行うとする一泊湯治などと称して温泉宿に宿泊したという。

さてもうひとつ温泉宿で特筆すべきことは、この当時、温泉宿においては、すでに「湯女」(ゆな)と呼ばれる女性たちがいたということである。

大石寺9世日有の時代は、当然のことながら、温泉宿の風呂・銭湯は、当たり前の常識として、「男女混浴」の風呂であった。それは下部温泉の場合も同様である。

湯之奥金山が金山衆(かなやましゅう)によって採掘されていた室町・戦国・安土桃山時代のころ、湯之奥ないしは下部に遊郭があったということです。ただし発掘調査では、遊郭跡は発見されなかった。今の下部温泉に、遊郭や花街は全く存在していません。

 下部温泉3

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