一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ

「一般社団法人 仏教宗学研究会」とは任意団体として2005年から活動している会の名称。2018年5月に一般社団法人登記。当ブログ名を「仏教宗学研究会のブログ」から「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」に改名。 「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

Category: 大石寺9世日有・戒壇大本尊偽作問題

■大名時計博物館3(フランシスコ・ザビエルがもたらした機械時計)

 

□日本に機械時計が伝来したのは1551年にフランシスコ・ザビエルがもたらした機械時計

 

さて大名時計博物館に、大石寺「丑寅勤行」の謎とウソを暴くカギがあった。

大名時計博物館の展示・資料、および博物館が刊行する小冊子「大名時計」によれば、ヨーロッパから日本にはじめて機械時計が伝来したのは、日本にキリスト教を伝来させたフランシスコ・ザビエルがもたらした機械時計が最初である、という。

大名時計博物館館報NO4「大名時計」によれば、次のように書いてある。

 

「日本に、外国製機械時計が渡来したのは、天文20(1551)16世紀の中頃であり、フランシスコ・ザビエルがキリスト教の布教のため、大内義隆に機械時計を献上したのが、文献上では最初だといわれている。その後、信長、秀吉、家康に機械時計が献上されているが、いずれも現存しないので、重りを動力にした時計か、ゼンマイを動力にした時計なのか、知るよしもない。

慶長16(1611)、メキシコから徳川家康に献上された、ゼンマイ動力の置き時計が、現存する最古の機械時計で、静岡県の久能山東照宮に保存されている。

文献によると、徳川家康のお抱え御時計師であった津田助左衞門政之が、時計師の第一号だという。しかしながら、津田助左衞門政之より以前に、時計師がいたと思うが、記録が発見されていない。今では、江戸時代(1603)になってから、大名時計を製作したと言われているが、もしかすると江戸時代以前、室町末期に大名時計を製作していたかもしれないが、考えられるだけで、証拠立てるものは何一つ、発見されていない。

久能山東照宮に保管されている、徳川家康所蔵の機械時計以後も、外国製の機械時計が日本に渡来している。

外国製の機械時計が、日本に渡来して、それをモデルにして日本人時計師が、機械時計を製作したのが最初で、その後、日本独特の不定時法による大名時計を製作したのである、というのが、現在は定説になっている。」

 

フランシスコ・ザビエルが日本へ機械時計を伝来させたことが発端になり、江戸時代以降、日本で機械時計が生産されるようになったという。すなわち西洋式の機械時計を日本式の機械時計に改良したもので、これが即ち和時計であり、大名時計である。

したがってフランシスコ・ザビエルが機械時計を日本に伝来させる以前、日本に機械時計は存在しておらず、よって深夜2時から4時の時刻に丑寅勤行を行うことも不可能である。

したがって、よく大石寺が言う、日興の代から大石寺では毎日欠かさず丑寅勤行を行ってきた、というのは全くのウソであると断言する。

丑寅勤行3 

(原進写真集『正法の日々』に掲載されている大石寺大客殿・丑寅勤行)

 

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■大名時計博物館2(丑寅勤行の謎を追って訪れた大名時計博物館2)

 

□大石寺の深夜2時から4時の丑寅勤行の謎を追って訪れた大名時計博物館2

 

日蓮正宗では、二祖日興の時代から丑寅勤行が行われていた証拠文献として「日興跡条条事」を挙げる。ところが、「日興跡条条事」なる文書を検証していくと、まさに矛盾だらけの文書であることが判明してくる。「日興跡条条事」第三条の文には

「大石の寺は御堂と云ひ、墓所と云ひ、日目之を管領し修理を加え、勤行を致し広宣流布を待つべきなり」(日蓮正宗59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』8p17・『日蓮正宗聖典』p519・『御書全集』p1883より)

とあるが、この第三条の文によると、日興は日目に大石寺の「御堂」と「墓所」を管領し、修理を加え、日々勤行をして、広宣流布を待つように命じているということになるが、日蓮正宗に言わせると、大石寺の「勤行」とは、毎朝丑寅の時刻に客殿で行われている丑寅勤行のことだと日蓮正宗や日蓮正宗の信者は言う。

日蓮正宗では、日興の大石寺開創以来、毎朝欠かさず丑寅勤行を行ってきた、などと言っており、この「日興跡条条事」第三条の「日目之を管領し修理を加え、勤行を致し」の「勤行」が、日興在世当時の大石寺で行われていた丑寅勤行のことだと、無理矢理にこじつける。

しかし、これは全くのウソ。日興在世の時代に、大石寺には客殿も本堂も根本本尊もなく、毎朝の丑寅勤行など全く行われていなかった。

もっと言うと、日興在世の時代に、毎朝深夜2時から4時の時刻に勤行を行うことは、物理的に不可能だったのである。どうしてそう言えるのか。

1 そもそも深夜2時から4時の正確な時刻に、勤行を行おうとすれば、機械時計が存在していないと絶対に無理である。日時計や水時計、砂時計の類では絶対に無理。これらの時計では、日没後の正確な時刻を測定できない。

2現在の時刻の「定時法」が採用されたのは、1873年(明治6年)11日、太陽暦の導入と同時に西洋式の時法が導入されたのであり、軍隊内部では、午前・午後の間違いを防ぐために24時制が使用されていた。1942年(昭和17年)1011日、鉄道に24時制が移入され、一般人の間にも24時制が普及することとなったのである。

それでは、その定時法が導入される前はどうだったのかというと、「日の出」の時刻はすべて、「寅の刻」あるいは「卯の刻」と決めてしまい、それを境に昼と夜をそれぞれ六等分するというのが、昔の時刻の数えかたの「不定時法」だった。

しかし不定時法で時刻を決めてしまうと、北海道と九州では日の出の時刻がちがうし、夏か冬かという季節によっても日の出の時刻は違っている。

丑寅勤行3 

(原進写真集『正法の日々』に掲載されている大石寺大客殿・丑寅勤行)

 

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■大名時計博物館1(丑寅勤行の謎を追って訪れた大名時計博物館)

 

□大石寺の深夜2時から4時の丑寅勤行の謎を追って訪れた大名時計博物館

 

「本当に日興在世の時代の大石寺では、深夜2時から4時の時刻に丑寅勤行を行っていたのか」

こういう単純な疑問を解き明かすため、時計のことから調査がはじまった。そして大石寺の丑寅勤行の謎を追って、大名時計博物館を訪れたのである。

さて、時計のことを調べる前に、1日の時刻や暦についても調べる必要があり、まずはさまざまな歴史本や資料を読んで調べるところから始まった。そういう中でわかったことは

1 江戸時代以前の日本においては、今のような定時法ではなく、日の出から日の入りまでを基準とする不定時法だった。「日の出」の時刻はすべて「寅の刻」あるいは「卯の刻」と決めてしまい、それを境に昼と夜をそれぞれ六等分するというのが、昔の時刻の数えかたの「不定時法」。

現在のような定時法が導入されたのは、明治維新以降のことである。

2日の出とともに起きて、日没とともに寝る、ということが常識だった昔は、不定時法のほうが人々の生活に都合が良かった。

つまり、日の出を寅の刻とするのなら、丑寅の時刻とは、陽が昇り始める時刻であり、夏なら午前3時半くらい。冬なら6時半ころ。春分・秋分の日で5時半くらいだろうか。

日の出を寅の刻と決めてしまうのなら、何も機械時計がなくても、時刻を知ることが出来る。

しかしその場合、丑寅の刻とは、午前2時から4時ではなく、夏至で午前3時半くらい、冬至で6時半ころ。春分・秋分の日で5時半くらいと、かなり時刻に幅が出てしまう。

つまり、明治維新以前、日本で定時法が導入される以前、大石寺でも同じように不定時法を採用していたと言うなら、その時代に行われていた「丑寅勤行」とは、今の丑寅勤行とはちがったものだ。それは、身延山久遠寺や池上本門寺等の寺院の他、仏教寺院で行われている早朝5時ないし5時半ころに行われる「勤行」と何ら変わりはない。

仏教寺院で行われている早朝5時ないし5時半ころに行われる「勤行」は、丑寅勤行とは言わず、一般的に「暁天勤行」(ぎょうてんごんぎょう)と言う。「暁天」とは辞書によれば

「明け方の空。また、夜明け」(大辞泉国語辞典)

と載っている。今は暁天勤行とは言わず、早朝勤行と言う寺院も多い。

日蓮正宗の末寺寺院でも、早朝6時や6時半ころに本堂で勤行を行っている寺院がいくつもあるが、いずれも「早朝勤行」とか「朝の勤行」と呼んでいて、丑寅勤行とは言わない。

丑寅の刻に行う丑寅勤行と、明け方に行う暁天勤行ないしは早朝勤行は、別のものである。

こう言うと大石寺僧侶や妙観講あたりは「大石寺では丑寅勤行が朝の勤行に当たるのだ」と言うのだろうが、この言い訳は完全なまやかしである。

私が言っているのは、実際に勤行が行われる時刻のことを言っており、丑寅の刻なのか、それとも太陽が昇る明け方に行うのか、ということを問うているのであり、勤行の意義付けのことを言っているのではない。

 

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■高岡・山町脇・土蔵造り資料館2(蔵造り・土蔵の謎を追って3)

 

□高岡市土蔵造りのまち資料館に掲示されていた明治の高岡大火と焼け残った土蔵造り

 

高岡市指定文化財・旧室崎家住宅が、高岡市土蔵造りのまち資料館として、一般公開されている。室崎家は現当主で九代目となる歴史のある家で、明治初期にこの場所に移ってきたもので、それ以前は、道路を挟んで向かい側の家に住んでいた。室崎家は、昭和20(1945)まで、綿糸や綿織物の卸業を手広く営んでいた、高岡でも屈指の商家。現在は石油商を営んでいる。

室崎氏の転居にあたって、高岡市がこの土蔵造りの民家を資料館として、一般に公開している。

ここも土蔵造りの調査で、入りました。

土蔵造りというのは、家屋の外側の話しであって、家の中は、至って普通の数寄屋造りの民家になっている。この家の土蔵は別にある。つまり民家も土蔵も両方が土蔵造りになっているというわけである。

土蔵造りのひとつのポイントとして、土蔵がある家は、裕福な家、財産家、資産家と言われる家が多かったこと。大切な家宝、財産を厳重に保管するために土蔵を造ったわけである。

土蔵そのものは、昭和3040年代のころまで、北陸地方の各地にあったようである。私も子どもの頃、土蔵造りの蔵をよく見かけた記憶がある。

江戸時代から明治、大正のころを生きた人たちは、「火災が多い」という常識の中で生きていた。そういう中、資産家たちは、自分たちの大事な財産が火災によって灰になってしまっては困るので、江戸時代から明治時代にかけて、土蔵を造っていった。そこで、土蔵の中には、財産が隠されているということで、第二次世界大戦後の混乱期に「土蔵破り」と言われる盗賊が出没した事件が多発していたという。

しかし戦後の高度経済成長の中で、次第に民家の新築が進み、立て替えが進んでいく中で、古い土蔵造りは姿を消していった。高岡市の場合も同様で、土蔵造りの家屋の立て替えが進み、土蔵造りの家が少なくなっていき、残ったところが重要伝統的建造物群保存地区になったのだという。

この資料館には、女性の係員が一人いて、私の質問に、わりと親切に回答してくれました。

「土蔵造りに関する本か資料はありませんか」と係員に質問すると

「いやー、そういうのは、ないですねえ」との答え。

資料館の中の明治の高岡大火や土蔵造りの説明が書いてある写真パネルを、「写真に撮ってもいいですか」と尋ねると、「あー、どーぞどーぞ」との答え。

そこで私が写真撮影していると、この女性係員が、奥の方から高岡市教育委員会が発行した高岡の土蔵造りに関する資料を一冊もってきて、手渡してくれました。「なんだ、ちゃんと資料があるじゃないですか」と言うと、「あまり人に見せていない資料」なのだとか。

土蔵造り資料館3


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■高岡・山町脇・土蔵造り資料館1(蔵造り・土蔵の謎を追って2)

 

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■川越・蔵造り町並み・蔵造り資料館1(蔵造り・土蔵の謎を追って1)

 

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■伊東葛見神社1・「戒壇大本尊」偽作の楠木調査で訪問した伊東・葛見神社1

 

□ここでも神木として祀られていた静岡県伊東市・葛見神社の大楠木

 

静岡県伊東市にある葛見神社にも、国の天然記念物に指定されている大楠の巨木がある、ということで調査に行きました。

この葛見神社は、JR伊東駅からは、かなり離れた所にあり、だいぶ歩いて行った記憶があります。しかしJR伊東駅前の観光案内所の係の女性が、とても親切な方で、地図に赤鉛筆で印を付けて、歩くルートまで懇切丁寧に教えてくれたため、歩いたものの、迷わずに葛見神社まで、たどり着くことが出来ました。

伊東市の中心部からは、少し離れた所にあり、あまり目立たない場所にありました。

国の天然記念物に指定されている大楠の巨木は、神社本殿に向かって左側にありました。

ここの葛見神社の大楠も、熱海市の来宮神社の大楠ととてもよく似た巨木でした。

 

まず、ものすごく太い幹で、楠木が上に広がるように繁殖している。これは自生している楠木の巨木の特徴的なものです。そして、この葛見神社の大楠も、熱海市の来宮神社の大楠と同様に、太いしめ縄が張られ、巨木の根の部分には、ミニ社が造られていました。

葛見神社楠木も、「神木」になっているということです。御神体そのものではないですけども、神木として地元の人たちから崇められているようです。

 

それと、ここ葛見神社の大楠や熱海・来宮神社の大楠は、見るだけで明らかにわかるくらい、幹の太さが、身延山久遠寺の祖師堂前にある楠木と比べたら、ぜんぜん太いですね。これは比べものにならないくらいです。

まあ身延山久遠寺と、東伊豆の熱海・伊東とは、比べものにならないくらい東伊豆のほうが温暖です。葛見神社の大楠や熱海・来宮神社の大楠の幹の太さは、どちらかというと西日本、九州地方に自生している大楠の巨木に似ています。それだけ、東伊豆地方の海岸に近い所は、それだけ気候が温暖だということなのだと思います。

こういうことを書くと、日蓮正宗法華講員たちが、ここの楠木に飛びついて来そうですね。

しかし残念ながら、日蓮一門に、東伊豆の楠木の大木を身延山まで運搬させる経済力・財力も労力もなかった。東伊豆から身延山に楠木を運搬したなどという記録はひとつも残っていない。

そもそも神を崇敬していた日蓮が、神木になっている楠木の大木を切り倒すはずがないのである。

葛見大楠1 

 

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■熱海来宮神社3・「戒壇大本尊」偽作の楠木調査で訪問した熱海・来宮神社3

 

□楠が神木になっていることが大石寺の「戒壇の大本尊」が後世の偽作である証拠だ

 

来宮神社の楠木は、「神木」になっているわけですが、この「神木」とは、神体としての木や神聖視される木、であると同時に、伐採をしないとされる木ということである。

「神木」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%9C%A8

「神木(しんぼく)とは、古神道における神籬(ひもろぎ)としての木や森をさし、神体のこと。また依り代・神域・結界の意味も同時に内包する木々。一般的に神社神道の神社、神宮の境内にある神体としての木や神聖視される木、その周りを囲む鎮守の森や、伐採をしないとされる木を指す。

この他、神社の所有地、民間の所有地にあって民間伝承などの特別な謂われのある木を指す。」

 

このようにはっきり書いてあります。

この来宮神社の楠木も、神木であり、古くから伐採を制止してきた木なのである。

このことは、境内に建てられている来宮神社の建て札にはっきりと書いてあります。

「大樟(大楠)

天然記念物  文部大臣指定 昭和八年二月二十八日

樹齢二千年 周囲二〇米 高さ二〇米

…其の頃、此の社の森には七本の楠や椎の木、細葉の大木、羊朶類等が自生していて昼なを暗く大地を覆っていました。ところが今から約百二十余年前の嘉永年間と云ふ年に熱海村に大網事件と云ふ(流刑者まで出した)全村挙げての大事件が勃発し其の訴訟費など捻出するため、五本の大楠は伐られてしまったのです。現在残されている其の中の一本の此の大楠をも伐ろうとして樵夫が大鋸を幹に当てようとしたところ、忽然として白髪の老人が現れ、両手を広げて此れを遮るような姿になると、忽ち大鋸は手元から音をたてて二つに折れ、同時に白髪の老人の姿は消えてしまったのです。此れは神のお諭しであるとして村人等は大楠を伐る事を中止してしまいました。此の木が即ち現在ある御神木であります」

来宮大楠2 

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■熱海来宮神社2・「戒壇大本尊」偽作の楠木調査で訪問した熱海・来宮神社2

 

□神々を敬っていた日蓮が神木になっている楠木を伐採するはずが絶対にない

 

来宮神社に来ると、まず目につくのは、やはりこの神社にある大楠木に関する看板であり、どれも「国指定天然記念物」「樹齢二千年」というふうに書いてあります。

ここはもともと7本の大楠木があったところが5本を伐採したので、残っているのは2本ということ。

神社の入り口から入っていくと、まずは第二大楠があります。太い楠木にはしめ縄が張られ、ミニ鳥居、ミニ社が造られていて、完全に神木扱いになっています。

この第二大楠のさらに奥にあるのが第一大楠で、こちらのほうが第二大楠よりも幹が太いし、高さも高い。枝分かれしている部分を含めても、楠の大きさも第二大楠よりも大きい。もちろん第一大楠も「しめ縄」が張り巡らされ、ミニ鳥居、ミニ社が造られていて、こちらも神木になっています。

私がここに来た日も、たくさんの人が訪れていて、第一楠木の前で、合掌・礼拝している人がいました。ここ来宮神社には御神体があるのでしょうが、こういうのを見ていると、ここの実質的な御神体は、二本の大楠木であるような気がします。

さて神社境内には、大楠木に関する案内板が立っています。

「日本最樹齢の樟 国指定天然記念物

大 樟

文部大臣指定 昭和八年二月二十八日

樹齢 二千年以上 周囲 二十三.九米 高さ 二十六米以上

御由緒

古代においては、此の樟 神の御霊をお招きしてお祀りしておりました。現在は当社の御神木となっております」

来宮大楠3

この大楠木が、この神社の御神木であると、はっきり書いてあります。

 

「神木」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%9C%A8

「神木(しんぼく)とは、古神道における神籬(ひもろぎ)としての木や森をさし、神体のこと。また依り代・神域・結界の意味も同時に内包する木々。一般的に神社神道の神社、神宮の境内にある神体としての木や神聖視される木、その周りを囲む鎮守の森や、伐採をしないとされる木を指す」

 

ここにはっきり書いてあります。神木とは、神体としての木や神聖視される木、その周りを囲む鎮守の森や、伐採をしないとされる木のことである。

 

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■熱海来宮神社1・「戒壇大本尊」偽作の楠木調査で訪問した熱海・来宮神社

 

大石寺の「戒壇の大本尊」の楠木の調査で、いろんなところに実地調査に行きましたが、その中で静岡県東伊豆地方の楠木調査に行ったときのことをここに紹介します。

静岡県東伊豆地方には、樹齢千年を超える大楠木がありますが、「鎌倉・江戸小氷期」といわれる時代においても、ここに楠木が自生していたと思われること。

そして身延山から最も近いところにある楠木自生地域だと考えられる。というわけで、ここに楠木調査に行っています。

来宮神社というのは、静岡県熱海市のJR伊東線・来宮駅から徒歩で78分くらいのところにある神社です。熱海駅からタクシーで行っても、ものの5分もかからないくらいで着いてしまいます。

来宮神社のすぐ前には、JR東海道線・伊東線が走っていて、さらに東海道新幹線の高架橋もあります。来宮神社の入り口は、東海道新幹線の高架橋の、すぐ真下ぐらいの所に位置しています。

創建時期は定かではないが、社伝によると和銅3年(710年)、熱海湾で網に木の根が掛かる事が3度重なり、不思議に思った漁師があらためると神像のようであったので、近くの松の下に祀って、持っていた麦こがしを供えたところ、その夜の夢に五十猛命が現れ、潮騒が耳障りであるとの神託があり、現在地に遷祀したといい、木の根を神体としたところから「木の宮」と称えたという。

坂上田村麻呂が戦勝を祈願し、当社の分霊を東北地方の各地に鎮座させたという伝承もある。

来宮神社には推定樹齢2000年以上と伝承され、国の天然記念物に指定されている大楠木が二本ある。もちろん、日蓮正宗大石寺の「戒壇の大本尊」なる板本尊が後世の偽作である証拠の一つが、楠であるわけで、国の特別天然記念物、天然記念物に指定されている楠の中では、この静岡県熱海市の来宮神社の大クスと、静岡県伊東市の葛見神社の大クスが静岡県にあり、これが最も身延山に近い。

日蓮正宗カルト法華講員たちと論争していると、全く関係ないものまで、ありとあらゆるものを大石寺の教義や本尊に、無理矢理にでも結びつけようとします。

「鎌倉時代の身延山には楠木がない」というと、「静岡県にある」などと言う。

「鎌倉時代から江戸時代にかけて、地球は『鎌倉・江戸小氷期』と呼ばれる寒冷期だったので、身延山には楠木がなかった」と言うと、「1本もないはずはない。いくら小氷期でも身延山に1本ぐらいは楠木があったはずだ」と言い張って、あるはずがない「たった1本の楠木」に無理矢理にでもしがみつこうとする。

この来宮神社の大楠木は、推定樹齢2000年ということだから、太平洋に面して比較的温暖な熱海・東伊豆地方にあって、「鎌倉江戸・小氷期」と呼ばれる寒冷期の時代もこの熱海で生きていたと思われるが、しかし楠木が静岡県にあると言っても、熱海や伊東にある大楠木を鎌倉時代に、日蓮が住んでいた身延山まで運んだ信者は一人もおらず、そんな記録も全く残っていない。

来宮大楠10


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■金沢市安江金箔工芸館4・日有が偽作した「戒壇の大本尊」金箔加工の調査4

 

□金沢市立安江金箔工芸館・学芸員との単独会見記3

 

学芸員「もし大石寺の板本尊が、日蓮が造立した板本尊ではないとしたら、誰が造立したのですか。板本尊を造立した人物とは??。その人物は、金を入手できる人物だったのですか。」

○「います。日蓮正宗大石寺の『戒壇の大本尊』なる板本尊を造立した人物とは、大石寺9世法主の日有という人物です。この日有が大石寺の法主に登座して間もない頃、大石寺の北方15キロぐらいの所に金鉱山が発見されています。場所は、山梨県と静岡県の県境から山梨県側に少し入った所。毛無山の奥地にある湯之奥金山という名前の金山です。

学芸員「そうですか」

○「大石寺9世日有が法主に登座して間もなくの15世紀前半のころ、湯之奥金山で金の生産がはじまっています。このころは甲斐国の領主・武田氏も、駿河国の領主・今川氏も、湯之奥金山の存在を知らず、金山衆(かなやましゅう)と呼ばれる人たちが、金の生産を行っていました。その金山衆たちは、日蓮宗系の法華信者、大石寺や北山本門寺の富士門流の信者が大半だったことが、現地の学術調査で判明しています。金山衆が大石寺9世日有に金を供養したか、あるいは、大石寺9世日有をはじめとする大石寺僧が自分たちで金を堀に行くことだって可能だったわけです。」

学芸員「なるほど。そうですね」

○「大石寺9世日有は、甲州(甲斐の国・山梨県)・湯之奥金山から産出した金を入手していた日蓮正宗大石寺九世法主・日有は、その金を足掛かりにして、大きな経済力を持つにいたった。

大石寺9世日有は、この金による経済力を使って、京都天奏を行い、黒漆塗りに金箔加工を施した板本尊「戒壇の大本尊」の偽作や「紫宸殿の本尊」の模刻本尊などを造立し、大石寺に御宝蔵や客殿といった伽藍を建立するなど、大石寺の堂宇を整備し、日蓮門下一門・富士門流の本山寺院としての主導権を握ろうとした。

そして金による経済力を以て行った日有の京都天奏が、 「戒壇の大本尊」偽作と密接に結びついているわけです。京都天奏によって日有は、比叡山延暦寺、園城寺、建仁寺等々の京都の大伽藍を備えた大寺院を目の当たりにし、客殿、宝蔵、不開門、勅使門といった伽藍、秘仏という化儀、本山・末寺の僧侶教団、戒壇論という教義を輸入し、これが「戒壇の大本尊」偽作に大きな影響を与えることになった。したがって、「戒壇の大本尊」偽作の最大のキーワードは、湯之奥金山の金による「経済力」「財力」ということになります。

それによって「戒壇の大本尊」なる名前の黒漆塗りに金箔加工を施した豪華絢爛な板本尊を偽作することに成功した。この金を元手にした経済力を使って、楠木を買い入れ、漆を買い入れ、門下の信者に漆加工、金箔加工を行なわせて、板本尊を造立したと考えられるわけです。

つまり日蓮は経済力がなかったが故に、「戒壇の大本尊」なる板本尊を造立できなかった。経済力がなかったが故に、楠木も漆も金箔も入手できなかったし、漆加工、金箔加工もできなかった。

しかし日蓮正宗大石寺9世法主日有は、莫大な経済力を有していたが故に、「戒壇の大本尊」偽作ができたというわけです。ポイントは、経済力です」

湯之奥線2 

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■金沢市安江金箔工芸館3・日有が偽作した「戒壇の大本尊」金箔加工の調査3

 

□金沢市立安江金箔工芸館・学芸員との単独会見記2

 

私と学芸員との話は、「日蓮は金箔加工が自力でできなかったのか」という話題から、はじまりました。

学芸員「日蓮が自分で金を手に入れて、その板本尊に金箔加工をしたということはあり得ないのですか」

○「それは絶対にあり得ません。その第一の証拠が、日蓮自らが書き記して今日に残っている遺文(御書)です。その中には、身延入山後、日蓮が極貧の生活をしていたことが書き記されています。

「飢渇申すばかりなし。米一合も売らず。餓死しぬべし。此の御房たちもみなかへして、ただ一人候べし」(富木殿御書・御書全集p730・日蓮53才・文永11517)と述べている。

つまり「飢餓状態はひどいものだ。米一合も売ってもらえない。餓死するかもしれない。ここにいる僧たちも養うことができないので、皆、里へ帰した。今はただ一人この山にいる」と言っている。

日蓮54才の時の「乙御前御消息」(御書全集p898899・建治元年84)では

「日蓮を不便(ふびん)と申しぬる弟子どもをも、たすけがたからん事こそ、なげかしくは覚え候へ」

日蓮55才の時の「南条殿御返事」(御書全集p974・建治2年閏324)では

「各々も不便(ふびん)とは思へども、助けがたくやあらんずらん」と述べている。

さらに日蓮57才の時に書いた「兵衛志殿御返事」(弘安元年1129)では、

「雪かたくなる事金剛のごとし。今に消ゆる事なし。昼も夜も寒く冷たく候事、法にすぎて候。酒は凍りて石のごとし。油は金に似たり。鍋・釜に小水あれば凍りて割れ、寒いよいよ重なり候へば、着物うすく、食乏しくして、さしいづるものもなし」・・・・ (御書全集p1294)

「坊は半作にて、風、雪たまらず、敷物はなし。木はさしいづるものもなければ火もたかず。古き垢づきなんどして候、小袖一つ着たるものは、其の身の色、紅蓮・大紅蓮のごとし。声は波々大波々地獄にことならず。手足寒じて切れさけ人死ぬことかぎりなし」 (御書全集p1295)

「去年の十二月の三十日より、はらのけ(下痢)の候ひしが、春夏やむことなし。秋すぎて十月のころ大事になりて候ひしが、少しく平癒つかまつりて候へども、ややもすれば起こり候に・・・」

「此の二つの小袖なくば、今年は凍死に候ひなん」・・・・  (御書全集p1295)

 

「富木殿御書」「乙御前御消息」「兵衛志殿御返事」「上野殿御返事」…これらの日蓮の遺文(御書)によれば、米一合もない。餓死するかもしれない。僧たちも養うことができないので、皆、里に送り返した。 食は乏しく信者から供養もない。下痢が起こっている。小袖がなかったら、凍死していたかもしれない。・・・ まさに日蓮は飢え死寸前の状態だったということです。 そのような人物に金を入手できる経済力はなかったことが明らか。金を入手していたら、こんな極貧・飢え死寸前の生活をしているはずがありません」

日蓮・草庵跡5 

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■金沢市安江金箔工芸館2・日有が偽作した「戒壇の大本尊」金箔加工の調査2

 

□金沢市立安江金箔工芸館・学芸員との単独会見に成功

 

金沢市立安江金箔工芸館に入って行くと、大まかな金箔工芸の歴史や金箔工芸製造過程の展示が多く、私が見学していると、女性係員の人が熱心にいろいろと説明してくれました。

金沢市は、日本の金箔の90%以上生産している所ということで、金箔の生産の説明については、特に熱が入っていました。

ただし私がここで聞きたかったのは、今の金沢の金箔生産のことではなく、日本の鎌倉時代、室町時代の金箔加工について。これを質問すると

「そーですねえー。こういう専門的なことは館長か、学芸員に聞いてみないと、…」

との返事。というわけで、安江金箔工芸館の学芸員が奥から出てきて、私と単独会見することになった。

学芸員(がくげいいん)とは、日本の博物館法に定められた、博物館(美術館・科学館・動物園・植物園なども含む)における専門的職員および、その職に就くための国家資格のこと。

欧米の博物館・図書館・公文書館では職種としてキュレーターが置かれているが、日本ではキュレーターを学芸員と訳している。

学芸員の職については、博物館法(昭和26年法律第285号)の第4条第3項に定めがあり、「博物館に、専門的職員として学芸員を置く」とされている。また、学芸員補という職もあり、学芸員補は、学芸員の職務を助けるために博物館におかれる職である(博物館法第4条第5項・第6項)。なお、ここでいう「博物館」とは、歴史、芸術、民俗、産業、自然科学等に関する資料を扱う機関のことであり、「博物館」の名称を持つ施設のほかにも、美術館なども含まれている。

金沢市立安江金箔工芸館も博物館法の博物館ということで、学芸員がいた。その日は、館長が不在ということで、学芸員が私の質問に対する応対に出たわけである。

しかしこの学芸員は、当初、私の訪問目的をあまりよく理解していなかったようで、「金箔」「金箔加工」の研究と言うからには、安江金箔工芸館の展示を見に来たと思い込んだようであった。

確かに展示を見学しに来たことは事実だが、実際に来てみると、ここの展示は、地元金沢の金箔加工や創立者・安江氏の所蔵品が中心であり、いささか拍子抜けしたことも事実。

もちろん、金沢の金箔中心、安江氏の所蔵品等の展示は、とても貴重なものであり、すばらしい展示であることは事実。

安江金箔工芸館の説明によれば、今の日本の金箔は金沢産が99%を占めているということだから、ここの安江金箔工芸館の展示が、金沢の金箔中心の展示になるというのは、致し方ないことなのかもしれない。

安江金箔工芸館1 

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■金沢市安江金箔工芸館1・日有が偽作した「戒壇の大本尊」金箔加工の調査1

 

□金箔に関する工芸館としては全国でも珍しい博物館・安江金箔工芸館

 

□大石寺の『戒壇大本尊』は9世日有の偽作だ

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/cat_161878.html

□戒壇大本尊は9世日有の偽作だ001080

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/cat_628700.html

□戒壇大本尊は9世日有の偽作だ081150

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/cat_628705.html

□戒壇大本尊は9世日有の偽作だ151200

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/cat_628708.html

日蓮正宗大石寺の「戒壇の大本尊」なる板本尊の偽作問題を掘り下げて研究していく上において、「金箔加工」「金」は、研究の大きなテーマである。それは、「戒壇の大御本尊」なる板本尊は漆塗りの上に、文字の部分が金箔加工が施されているからである。

鎌倉時代の身延山中で、日蓮は極貧の生活をしていた。これは日蓮の遺文に明らかである。

「飢渇申すばかりなし。米一合も売らず。餓死しぬべし。此の御房たちもみなかへして、ただ一人候べし」(『富木殿御書』・御書全集p730・日蓮53才・文永11517)

日蓮54才の時の「乙御前御消息」(御書全集p898899・建治元年84)では

「日蓮を不便(ふびん)と申しぬる弟子どもをも、たすけがたからん事こそ、なげかしくは覚え候へ」

日蓮57才の時に書いた「兵衛志殿御返事」(弘安元年1129)では

「雪かたくなる事金剛のごとし。今に消ゆる事なし。昼も夜も寒く冷たく候事、法にすぎて候。酒は凍りて石のごとし。油は金に似たり。鍋・釜に小水あれば凍りて割れ、寒いよいよ重なり候へば、着物うすく、食乏しくして、さしいづるものもなし」・・・・(御書全集p1294)

「坊は半作にて、風、雪たまらず、敷物はなし。木はさしいづるものもなければ火もたかず。古き垢づきなんどして候、小袖一つ着たるものは、其の身の色、紅蓮・大紅蓮のごとし。声は波々大波々地獄にことならず。手足寒じて切れさけ人死ぬことかぎりなし」 (御書全集p1295)

「去年の十二月の三十日より、はらのけ(下痢)の候ひしが、春夏やむことなし。秋すぎて十月のころ大事になりて候ひしが、少しく平癒つかまつりて候へども、ややもすれば起こり候に・・・」

「此の二つの小袖なくば、今年は凍死に候ひなん」・・・・ (御書全集p1295)

日蓮58才の時には「上野殿御返事」(弘安21227)の中で次のように述べている。

「・・・五尺の雪ふりて本よりも通わぬ山道ふさがり、訪いくる人もなし。衣も薄くて寒ふせぎがたし。食たへて命すでに終はりなんとす・・・」(御書全集p1437)

日蓮・草庵跡5 

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■輪島漆器会館1・大石寺9世日有が偽作した「戒壇の大本尊」なる板本尊漆塗りの調査4

 

□漆の基礎知識。漆塗りの工程、漆に関するさまざまな展示を行っている輪島漆器会館

 

石川県輪島漆芸美術館での四柳嘉章館長との単独会見を終えた私は、徒歩で輪島漆器会館に向かった。

輪島漆器会館とは、輪島漆器商工業協同組合が経営している会館で、一階が輪島漆器商工業協同組合直営の漆器展示販売所。ここは、輪島市内約100の漆器専門店が共同出店している販売所で、輪島塗のありとあらゆる漆器が販売されている。

輪島塗とは、輪島漆器会館の見解に依れば、次のようになる。

「輪島塗の起源については諸説ありますが、鎌倉時代後期から、室町時代の初期(西暦1400年頃)と推定されています。その考証として、市内の重蔵神社本殿にある応永4年(西暦1397年)のものとされる内障の扉には、朱塗りの形跡が見られ、また文明8年(西暦1476年)建立の重蔵権現講堂の棟札には、塗師三郎次郎定吉の名が記されています。その他、市内東山の養覚寺より収集された黒塗八隅膳と椀一組は、稚拙な製作技術からみて鎌倉時代後期から室町時代のものと推定されています。さらに近郷の能登町柳田字合鹿や当目、および北河内においても、その当時から漆器づくりがなされていたと伝えられています。

現在の輪島塗に近いものができるようになったのは、桃山時代後期から江戸時代初期の頃と考えられていますが、それは珠洲市飯田町の乗光寺より収集した四つ椀揃い八隅膳からの推察であります。…

寛文年間(16611673)に至って、当時輪島に発見された珪藻土の一種を焼成粉末にして「地の粉」をつくり、漆に混入し、塗り研ぎを何度も繰り返して堅牢な下地を作る工法がされました。これが本堅地法で「布着せ」とともに今日の伝統工芸輪島塗の基本的工法となっています。

輪島塗に文様を施すようになったのは、江戸時代中期以降で、それまでは朱漆で絵付けされたものもありましたが、ほとんどは無地物でした。享保年間(17161736)頃には、輪島独特の華やかな沈金技法が考案され、蒔絵は文政年間(18041829)頃、会津から来た安吉夫婦によって会津蒔絵が伝えられたのをはじめ、京、加賀からの技術技法の導入や、蒔絵師の移住などによって次第に改善され普及し、華麗さを加えました。

輪島塗の販売が全国各地に広まったのは、江戸時代中期からで、とくに文化文政年間(18041829)頃には品種も多様化し、現代にも劣らぬ優秀な技術の職人があらわれ、格調の高い名品がつくられて、今日まで遺されているものがあります。

(輪島漆器会館の「輪島塗のあらまし」より)

漆器会館1 

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■輪島漆芸美術館3・大石寺9世日有が偽作した「戒壇の大本尊」なる板本尊漆塗りの調査3

 

□石川県輪島漆芸美術館の館長室にて四柳嘉章館長との単独会見2

 

○「日蓮正宗大石寺の『戒壇の大本尊』なる板本尊は、大きさが縦は約143センチ、横は約65センチ。だいたい畳一畳ぐらいの大きさです。畳一畳ぐらいの大きさの板に漆を塗るとなると、どれくらいの量の漆が必要になりますか」

四柳氏「だいたい2号から3号ぐらいでしょう。ただし、漆というのは、1回だけ塗って終わりなのではなく、通常は三回塗ります。まず1回目を下地塗りといい、2回目を中塗り。3回目を上塗りといいます。漆というのは、塗ると木の中に染みこむのです。そのための下地塗りが一回目。中塗りと上塗りが仕上げです。だから、3回塗るという工程から考えると、2号から3号よりももっと多くなります。おそらく1升以上は必要になるでしょう。」

○「鎌倉時代、日本における漆の産地、漆工芸が行われていた所を教えていただけませんか。山梨県の身延山周辺で、漆工芸や漆の生産は行われていたのでしょうか」

四柳氏「中世、鎌倉時代になると、日本全国、かなり広範囲に漆の生産が行われていました。漆製品・漆工芸品が全国各地の遺跡から出土しています。現在、漆工芸が行われていない地域でも、中世の昔は漆生産や漆工芸が行われていた可能性はあります」

○「鎌倉時代、ないしは室町時代、漆職人はどのあたりにいたのでしょうか」

四柳氏「京都、奈良、鎌倉にはいましたね。それから大きな寺院の周辺。大きな漆の需要がある所の周辺に、漆職人はいましたね」

○「そうすると、鎌倉時代、身延山の山中で、日蓮一門が漆を生産し、畳一畳大の板本尊に漆を塗る漆加工を行うことは可能だったわけですか」

四柳氏「素人が漆を塗ったかどうかということになると、問題があります。素人に漆を扱うことは、とてもむずかしいことです。もし、畳一畳大の板本尊に漆を塗ったとすれば、それは日蓮一門が自分たちで行ったのではなく、金銭を支払って漆を買い、工賃を支払って漆職人を雇って、漆塗りを完成させたと見るほうが現実的でしょう」

 

仮に鎌倉時代の身延周辺で、漆生産が行われ、漆工芸が行われていたとしても、日蓮一門の手で漆を扱うのは非常にむずかしく、外部から漆職人を雇って漆加工を完成させたと考えられるというのである。つまり日蓮正宗大石寺の「戒壇の大本尊」なる板本尊と漆の関係を解明して行くに当たって、四柳嘉章館長の見解に依れば、仮に鎌倉時代に身延周辺で漆生産や漆工芸が行われていたとしても、日蓮一門の手によって「戒壇の大本尊」なる板本尊に漆塗りが行われたとは非常に考えにくいということ。なぜなら、素人には漆の取り扱いそのものが非常にむずかしいため、「戒壇の大本尊」なる板本尊に漆塗りは、日蓮一門が自分たちで行ったというよりも、金銭を支払って漆を買い、工賃を支払って漆職人を雇って漆塗りを仕上げたと考えたほうが、非常に現実性が高いというのである。

漆芸美1 

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■輪島漆芸美術館2・大石寺9世日有が偽作した「戒壇の大本尊」なる板本尊漆塗りの調査2

 

□石川県輪島漆芸美術館の館長室にて四柳嘉章館長との単独会見

 

石川県輪島漆芸美術館は、輪島市にあるのだが、輪島市のターミナルである旧輪島駅からは、ちょっと離れた所にある。私も輪島市内の地理に詳しいわけではないので、旧輪島駅ターミナルにいたタクシーに乗って石川県輪島漆芸美術館を訪ねました。時期は、数年前の、今のような寒い冬でしたが、雪はほとんど積もってはいなかった。

この日、石川県輪島漆芸美術館の館長室にて、四柳嘉章館長との単独会見が行われることになったという次第であった。

石川県輪島漆芸美術館の館長室に通された後、係員は退出。四柳嘉章館長と私の単独会見と言うことになった。

中に入ると、大きなテーブル・椅子が用意されていて、奥には「館長」という名札がおいてある館長専用のデスク。四柳嘉章氏は私と初対面ではあったが、私に名刺を手渡し、訪問を好意的に迎えてくれた。それでも、訪問の目的が、日蓮正宗大石寺の「戒壇の大本尊」なる板本尊が後世の偽作である証拠の「漆加工」の関係による「漆」研究であり、それの関連の訪問であることは、理解していただけた。すると四柳氏から私に次の質問が飛んできた。

四柳氏「その板本尊が日蓮の真作なのか、後世の偽作なのかを判定したいのであれば、その板本尊を科学鑑定したらいいのではありませんか」

○「そうなんです。四柳館長のおっしゃるとおりです。しかしそれは不可能です。なぜ不可能かというと、日蓮正宗大石寺が「戒壇の大本尊」なる板本尊を基本的に非公開にしており、直接対面できるのは日蓮正宗の僧侶・寺族・信者だけ。外部からの科学鑑定は昔から日蓮正宗大石寺がかたくななまでに拒否しており、実現は不可能です。よってさまざまな文献・資料・物理的理論等々により、偽作であることを立証する以外にありません。」

四柳氏「であるならば、写真はどうでしょう。カラー写真であれば、その漆が何時代のものか、私は一目でわかります」

○「カラー写真はないですね。日蓮正宗大石寺が公式に「戒壇の大本尊」なる板本尊の写真と認めているものは、1911(明治44)年から昭和初期にかけて日蓮正宗の信徒が出版した本に掲載されている写真しかありません。しかしこの写真も、かなり不鮮明であり、加えて曼荼羅の文字の部分等に修正された痕跡も見られるため、写真解析の素材としては、適当でないように思われます」

ということで、四柳嘉章氏に「アンチ日蓮正宗」携帯サイトに載せている「戒壇の大本尊」なる板本尊の白黒写真を見せた。

四柳氏「ああ、白黒写真ですか。白黒じゃあ、ちょっと判別できないですね。それから写真が、ぼやけすぎているし…」

○「日蓮正宗大石寺では『本門戒壇の大御本尊』の化粧直しと言って、江戸時代、明治、昭和に数回、漆の塗り直し、金箔の張り直しをしているため、仮に鮮明なカラー写真があったとしても、それから真偽の判定をすることは不可能かと思われます」

 

こういったやりとりがあった後、いよい「漆」の内容に深く立ち入った話になっていった。

漆芸美4 

 

 

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■輪島漆芸美術館1・大石寺9世日有が偽作した「戒壇の大本尊」なる板本尊漆塗りの調査1

 

□日本でも漆研究の第一人者が館長を務める石川県輪島漆芸美術館

 

石川県輪島漆芸美術館とは、石川県は能登半島の端っこの輪島市にある輪島市立の美術館。

ここが開館したのは1991年(平成3年)で、輪島市石川県輪島漆芸美術館設置条例が制定されて開館している。この条例によりここが行う事業は

□漆芸美術に関する調査、研究及び普及並びに漆芸美術品の展示

□漆芸文化を通じて地域振興に寄与すると認められる事業

□その他芸術文化に関する調査及び研究並びに展示に関する事業

ということになっている。

なぜ輪島市が条例まで定めて「漆芸美術館」を開館させたのかと言うと、輪島では古くから「輪島塗」と呼ばれる漆工芸・漆芸の伝統があるからである。

輪島での漆器の生産は古く、能登半島の三引遺跡(七尾市)からは6800年前の漆製品が発見されており、輪島では平安時代の遺構である屋谷B遺跡で漆製品が発掘されている。

輪島塗の特色を備えたものとしては、石川県穴水町の西川島遺跡群御館遺跡(室町時代前期)で珪藻土を下地に用いた椀が発掘されている。現存する最古の輪島塗は、室町時代の大永4年(1524年)作と伝わる輪島市河井町にある重蔵神社(じゅうぞうじんじゃ)旧本殿の朱塗扉といわれている。

現在のような輪島塗の技術が確立したのは江戸時代の寛文年間と伝えられており、この時期にはすでに海運の利を生かして輪島塗の販路を拡大。また陸路での行商もおこなわれており、堅牢さが評判の輪島塗は日本各地で使われていた。沈金の始まりも江戸時代享保期、蒔絵は江戸時代文政期と言われている。

その輪島漆芸美術館の所蔵する漆芸品は、全国の作家や美術愛好家の協力も得て、今では900点を超える所蔵品を有しているという。

この石川県輪島漆芸美術館が、日蓮正宗大石寺の「戒壇の大本尊」偽作説と、実は密接な関係があるのである。どこがどう関係しているのか。これは言うまでもなく、大石寺の「戒壇の大本尊」なる板本尊が、「漆」加工されているからで、この「漆」が「戒壇の大本尊」偽作の直接的証拠に結びついているからである。

では、石川県輪島漆芸美術館との関連をもっと具体的に言うと、実はここの所蔵品が関係しているのではなく、この石川県輪島漆芸美術館の館長が、日本でも漆研究の第一人者である四柳嘉章氏であるということ。

私は、何としても「漆」について四柳嘉章氏の見解を聞きたいと思い、数年前、この石川県輪島漆芸美術館にて、四柳嘉章館長との単独会見に成功した。

漆芸美2


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■湯之奥・猪之頭線7・室町時代、日有が往還に使った上人路・「湯之奥・猪之頭線」7

 

□室町・戦国時代の下部温泉には「湯女風呂」「花街」はあった

 

室町・戦国・安土桃山時代から江戸時代中期まで、金鉱掘りが行われていた湯之奥金山があった湯之奥地区から、湯之奥・猪之頭線を富士川方面に下ってくると、下部温泉に出ます。

下部温泉からJR下部温泉駅前をぬけると、JR身延線の踏切をわたって、富士川街道と合流するわけです。この下部温泉とは、「武田信玄の隠し湯」として有名な温泉で、下部川沿いにホテルや旅館が建ち並んでいます。温泉の効用は、キズの治療ということで、合戦でキズを負った武家や侍たちが、ここにキズを癒しに来ていたと言うことです。

さらに日蓮正宗大石寺17世法主・日精が書いた著書「富士門家中見聞」(家中抄)によると、大石寺9世日有が、この下部の湯に、宿病の湯治に来ていた、ということを書いています。

この宿病については、らい病説を唱えている学者・研究者もいるようですが、私は日有らい病説には、否定的見解であり、家中抄に書いてある「宿病」とは、らい病ではないと見ています。

あともうひとつ、私が着目している視点があって、湯之奥金山が金山衆(かなやましゅう)によって採掘されていた室町・戦国・安土桃山時代のころ、湯之奥ないしは下部に遊郭があったということです。ただし発掘調査では、遊郭跡は発見されなかったということです。

今の下部温泉に、遊郭や花街は全く存在していません。

しかし歴史を百年くらいさかのぼってみると、日本各地の温泉地には、遊郭や花街があったようです。私が調査した限りでも、兵庫県・有馬温泉、滋賀県・雄琴温泉、和歌山県・白浜温泉などがあります。

さらに昔にとどまらず、雄琴温泉や静岡県・熱海温泉、群馬県・草津温泉、石川県・山中温泉、片山津温泉、山代温泉、福井県・芦原温泉、鳥取県・皆生温泉、三朝温泉、大分県・別府温泉、愛媛県・道後温泉など、今でも、温泉街の中に、ストリップ劇場やソープランドなどの風俗産業・現代の花街が残っている温泉も、全国各地に多々あります。つまり昔から、温泉に、遊郭・花街・風俗産業というものは、欠かせない存在だったということです。

よって、湯之奥金山で金鉱掘りが行われて、経済的に裕福な金山衆(かなやましゅう)が多数住んでいた当時、この下部温泉にも遊郭・花街はあったと考えられます。否、あったと考えるほうが自然でしょう。

さてもうひとつ温泉宿で特筆すべきことは、この当時、温泉宿においては、すでに「湯女」(ゆな)と呼ばれる女性たちがいたということである。湯女(ゆな)とは、銭湯で垢すりや髪すきのサービスを提供した女性のことで、中世には有馬温泉など温泉宿において多く見られ、次第に江戸、大坂、京都などの都市に移入された。

当初は、銭湯男性客の垢すりや髪すきのサービスだけだったが、次第に飲食や音曲のサービスに加え、サービスが徐々にエスカレートして、現在の特殊浴場・ソープランドに相当する過激な性的サービスを提供するようになっていった。

下部温泉1 

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■湯之奥・猪之頭線6・室町時代、日有が往還に使った上人路・「湯之奥・猪之頭線」6

 

□湯之奥・猪之頭線を実際に車で走って室町時代の大石寺9世日有の足どり調査3

 

さて湯之奥集落から湯之奥・猪之頭線を逆に下っていくと、下部温泉に着きます。

ここは、古くから「武田信玄の隠し湯」といわれた温泉として有名で、さらに日蓮正宗大石寺9世法主・日有が、下部の湯に湯治に来ていたことが、大石寺17世日精の著書「家中抄」に載っている。

さらにこのあたりに、大石寺9世日有にまつわるものがあります。それは大石寺9世日有が創建した日蓮正宗寺院・有明寺です。有明寺は、下部温泉から、別ルートで毛無山方面に行く途中の杉山地区にあります。

湯之奥・猪之頭線からは少し入り組んだ所にありますが、位置的に言うと、まさに有明寺のある所は、金鉱掘りが行われていた毛無山山頂付近から、少し山梨県側に下った所です。

今は、毛無山方面に行く道から、「有明寺入口」と書かれた立て看板が出ている所から、脇道に入って行って、突き当たりが有明寺になります。

この有明寺のそばを通る毛無山方面への道は、今は静岡県側へは抜けられなくなっています。

がしかし、室町・戦国の世から富士宮方面からの毛無山登山道があるわけですから、山梨県側にも登山道はあったと考えられます。こうやって、毛無山付近をいろいろ調査していくと、大石寺、上人路、湯之奥・猪之頭線、湯之奥金山、湯之奥集落、下部温泉、有明寺と、大石寺9世日有にまつわるものばかりが出てきます。よってこれらの調査から、大石寺9世日有が

□大石寺と有明寺を斎日(7日・13日・15)ごとに往復していた。

□下部の湯へ湯治に行っていた

大石寺9世日有がこの往還に使っていたルートは、まさに今の林道・湯之奥・猪之頭線であると私は断定しました。つまりこれが、日蓮正宗が「上人路」(しょうにんみち)と呼んでいる道です。

私が積み重ねてきた調査の結果から、この上人路とは、今の湯之奥・猪之頭線しかあり得ない。

またこのルートは、大石寺9世日有が湯之奥金山で金鉱掘りを行っていた「金山衆」(かなやましゅう)から、湯之奥金山で採掘された金を受け取るルートのひとつであったと考えられます。

大石寺9世日有が毛無山山麓に、有明寺を創建したのも、この金山衆たちを大石寺信者として、つなぎ止めておく目的以外に考えられない。

第一、大石寺9世日有在世の代においても、毛無山、下部温泉、湯之奥、大杉山近辺で、日有に供養していた人たちと言えば、湯之奥金山の金山衆が最大であったことは間違いない。湯之奥金山博物館によると、湯之奥金山が発見されたのは、まさに日有が大石寺法主に登座した15世紀前半。この湯之奥金山が、甲斐国の戦国大名・武田家の家臣・穴山氏の所領になって、湯之奥金山の金が武田家の懐に入るようになったのは、16世紀になってからのこと。

湯之奥線2 

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■湯之奥・猪之頭線5・室町時代、日有が往還に使った上人路・「湯之奥・猪之頭線」5

 

□室町・戦国から江戸時代前半まで金鉱掘りの金山衆の町だった湯之奥地区

 

湯之奥・猪之頭線を下部温泉側から毛無山方面に向かい、切り立った山沿いを車でどんどん走っていくと、湯之奥地区にたどり着きます。下部温泉から湯之奥地区までの距離は、けっこう長く感じました。山梨県身延町の湯之奥地区とは、室町・戦国・安土桃山時代から江戸時代前半まで、毛無山山頂から今の山梨県側で採掘されていた湯之奥金山で、実際に金鉱を掘っていた金山衆(かなやましゅう)の町がおこりです。

湯之奥金山に関する古文書を格蔵している門西家も、湯之奥地区にあります。地区内には、金山跡に行くルートを案内する標識も立っていました。湯之奥地区は、元々は山梨県下部町になっていて、19891990年ころに行われた湯之奥金山跡の学術調査・発掘調査も、下部町だった時代のこと。その後、身延町、下部町、中富町の三町合併で身延町になっています。

湯之奥地区は、かなり山間部に入ったところにあります。湯之奥地区に通じる唯一の道路が、この湯之奥・猪之頭線で、この道路も、大雨があると、すぐにがけ崩れが起きてしまうような道路です。実際に下部温泉から湯之奥地区に向かう途中、何度もがけ崩れの跡に遭遇しました。

下部湯之奥線3










又、湯之奥地区の入り口付近には、1時間に○○ミリ以上の雨が降ると、通行止めになってしまうということで、何と道路上に、通行止め用の柵が設けられていました。そうすると台風や大雨になった場合、湯之奥地区自体が孤立してしまうことになります。これで大丈夫なのでしょうか。

湯之奥地区のある所は、もう毛無山の山の斜面に沿ったところにあり、ここから静岡県富士宮市猪之頭地区に抜けるトンネルに向かう林道・湯之奥・猪之頭線は、かなり急な斜面をはうようにできています。湯之奥地区内には、毛無山の山の斜面を利用して畑作が行われているようですが、水田は見当たりませんでした。

これよりずいぶん前のことですが、身延町教育委員会の職員に取材して、いろいろ話を聞いたときに、中世のころの、身延、下部、湯之奥近辺の人たちは、ずいぶん裕福な生活をしていた、という話しをしていました。当然、湯之奥金山の収入が大きかったと思いますが、その他に、林業をはじめ、さまざまな山林資源を採って、売っていたと言うことでした。山林資源の中には、きのこ、しいたけ、などの山菜類も入っているんでしょう。

資料によれは、しいたけは、古来日本では古くから産したものの、栽培は不可能で、山林で自生したものを採集するしかなかった、といいます。その一方で精進料理において出汁を取るためには無くてはならないものであり、道元が南宋に渡った際に、現地の僧から干し椎茸を持っていないかと問われた逸話があるほど高価な食材であった。精進料理とは、禅宗の寺院の僧侶の修行のひとつに、この精進料理をつくるというのがあります。

鎌倉時代に栄西、道元によって禅宗が日本に伝来しており、需要がそうとうあったにもかかわらず、供給のほうは、山林で自生したものを採取するのみ、ということでは、これは高く売れたでしょうね。今でも、しいたけは、相当に高価な食べ物です。その、しいたけは、江戸時代から、原木に傷を付けるなどの半栽培が行われ始めたといいます。人工栽培の方法が確立したのは、何と20世紀になってからだといいます。そういうことを考えると、中世の頃の湯之奥の人たちの裕福さというのは、相当なものだったと考えられます。

下部湯之奥線5


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■湯之奥・猪之頭線4・室町時代、日有が往還に使った上人路・「湯之奥・猪之頭線」4

 

□毛無山麓に大石寺9世日有が金山衆を引き留める為に創建した日蓮正宗寺院・有明寺

 

私は、湯之奥・猪之頭線の調査を行っていた時、日蓮正宗大石寺9世法主・日有が創建したという寺院・有明寺にも行っています。

ここは、富士川街道・JR身延線・甲斐ときわ駅前から大杉山方面へ行く県道があり、さらに有明寺入り口は、この県道から右斜め方向に分岐して、細い道を下っていきます。この分岐した細い道の突き当たりが、日蓮正宗寺院・有明寺です。

有明寺3


有明寺に行く道は、車一台がやっと通れるような道路でとにかく狭い。こんな狭い道では、車のすれ違いすら困難である。有明寺では御会式や御講などの年中行事が行われているはずですが、大きな行事があって、たくさんの信者が参詣したときなど、不都合は生じないのだろうか。

有明寺の前には広い駐車場があるので、車で有明寺に参詣する信者はかなりたくさん居ると思われる。有明寺につながる道路が、こんなすれ違いも困難な道一本しかないのでは、行事が終わって信者が帰宅しようとするときなどは、大渋滞になるものと思われるのだが。

それとも、車だけではなく、徒歩で参詣する人もかなりいるということなのだろうか。

 

私が有明寺に行ったとき、庫裡・本堂の修理工事が行われていました。この工事の施工業者は、ここの信者なのでしょうか。

ここの庫裡・本堂は、どこにでもあるような外観の寺院建築になっていて、本堂に向かって右側は、広々とした広場になっていて、そこに大石寺9世日有の廟がありました。大石寺9世日有の墓は、大石寺の歴代法主の墓地にも建っています。

古文書によると、大石寺9世日有は14829月に有明寺で遷化(死去)したとなっていることから、そうすると日有の遺骨は、有明寺に埋葬されたということになる。それでは、有明寺の日有廟が、正墓ということか。日有廟のとなりには、日有手掘りの井戸なるものがあり、大石寺68世法主・早瀬日如の銘文もありました。

それでは、大石寺の歴代法主墓地にある日有の墓は、あれは正墓ではないということか。そうすると、大石寺には、日蓮、日興、日目、日有のいずれの正墓もない寺院ということになる。

まあ、大石寺に日有の正墓がないと言っても、日蓮正宗の信者たちは、また「有明寺から大石寺に分骨したのだ」などと言い張るのだろうが…。しかし有明寺から大石寺に日有の遺骨を分骨した証拠など、どこにもないはずなのだが…。

日有正墓1

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■湯之奥・猪之頭線3・室町時代、日有が往還に使った上人路・「湯之奥・猪之頭線」3

 

□湯之奥・猪之頭線を実際に車で走って室町時代の大石寺9世日有の足どり調査2

 

私は車で、富士宮市猪之頭地区から、国道139号線に出て本栖湖方面に北上。本栖湖畔で国道300号線に出て、身延町方面に向かいました。このあたりも大雨の影響による、がけ崩れがあり、一部の区間で、迂回走行しなければならない区間がありました。

湯之奥・猪之頭線の山梨県側の入り口は、富士川沿いを走るJR身延線・下部温泉駅入り口にあります。ここは、国道52号線・富士川街道から入っていきます。

JR身延線の踏切を渡って、下部温泉駅前を通り過ぎ、右手に、湯之奥金山博物館を見ながら、毛無山方面へと車を走らせる。下部温泉駅から下部温泉までは、すぐなのですが、その途中、下部川沿いを走る湯之奥・猪之頭線が大雨の影響で、道路の一部が川に崩落し、修復工事が行われていました。下部温泉駅から下部温泉まで、車で行けば、すぐに着いてしまいます。徒歩で行ったとしても、ものの数分で着くのではないかと思われます。それくらい、近い所にあります。

下部温泉は、戦国時代、武田信玄の隠し湯と言われた温泉であると同時に、大石寺9世日有が、下部温泉に湯治に来ていたことが、大石寺17世日精の著書「家中抄」に書いてあります。

湯治という行為は、日本においては古くから行われていたが、古くは湯治を行っていたのは権力者など一部の人に限られていた。一般の人の間でも湯治が盛んに行われるようになったのは、江戸時代以降である。これは、街道が整備されたことにより遠方との往来が容易になったためである。大名と大名の合戦が行われなくなったことにより、農閑期に時間が発生した農民が、蓄積した疲労を癒す目的で湯治を行うようにもなった。

室町時代・戦国時代において、下部温泉で湯治をしていた人たちといえば、甲斐の国の大名、武田氏や穴山氏、大名の家臣、武士、近くの湯之奥金山で金を掘っていた金山衆(かなやましゅう)たちといった、裕福で経済力のある人たちだった。大石寺9世日有も、甲州・湯之奥金山で金を採掘していた金山衆からの供養により、かなり大きな経済基盤を保持していた。

湯治とは、本来は、温泉地に少なくとも一週間以上の長期滞留して特定の疾病の温泉療養を行う行為であり、日帰りや数泊で疲労回復の目的や物見遊山的に行う温泉旅行とは、別のものである。したがって、当時は長期滞在を前提とした湯治客のみが温泉宿に宿泊できたため、一泊のみの旅行者は温泉宿には泊まることができなかった。しかし、一泊宿泊の温泉客は後を絶たず、その抜け道として、一日だけ湯治を行うとする一泊湯治などと称して温泉宿に宿泊したという。

さてもうひとつ温泉宿で特筆すべきことは、この当時、温泉宿においては、すでに「湯女」(ゆな)と呼ばれる女性たちがいたということである。

大石寺9世日有の時代は、当然のことながら、温泉宿の風呂・銭湯は、当たり前の常識として、「男女混浴」の風呂であった。それは下部温泉の場合も同様である。

湯之奥金山が金山衆(かなやましゅう)によって採掘されていた室町・戦国・安土桃山時代のころ、湯之奥ないしは下部に遊郭があったということです。ただし発掘調査では、遊郭跡は発見されなかった。今の下部温泉に、遊郭や花街は全く存在していません。

 下部温泉3

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■湯之奥・猪之頭線2・室町時代、日有が往還に使った上人路・「湯之奥・猪之頭線」2

 

□湯之奥・猪之頭線を実際に車で走って室町時代の大石寺9世日有の足どり調査1

 

さて私は車に乗って、再び県道に出て北上。「林道の入り口っていうのは、ここかな?」と思ったところを左折したのですが、再び細い農道の袋小路のような所に迷い込んでしまいました。

それでも眼前に毛無山が見えたので、毛無山の方向に狭い農道に沿って車を走らせて行くと、なんと農道が行き止まりになってしまいました。「あれれ、また道を間違えたかな」と思って、車をUターンさせて引き返し、途中、畑仕事をしていた老人に道を尋ねました。

○「山梨県の湯之奥に抜ける林道は、こちらではないのですか」

地元の人B「あー、それはこっちじゃないんだよ。もう一本、むこうの道なんだなあ」

○「もう一本むこうですか」

地元の人B「そうだあ」

○「その林道を走ってトンネルを抜ければ、山梨県の湯之奥まで、抜けられるんですよね」

地元の人B「んー、普段は抜けられるんだけども、ここんところ、台風やら大雨やらで、がけ崩れが起こっているみたいだからねー。今日は走れるかどうか、わからないよ」

○「がけ崩れですか」

地元の人B「そう。大雨が降ると、よくがけ崩れがおこる所だからねー。よしんばトンネルまでは抜けられても、山梨に入ってからが道が悪いからね-。行けるかどうかは、わからないよ。湯之奥に行きたいんだったら、遠回りだけども、本栖湖のほうから行ったほうがいいよ」

 

こんなやりとりがあって、私は三たび、県道に引き返しました。県道に引き返して、三たび北上。林道の入り口を探したのですが、しばらく走ると「湯之奥・猪之頭線林道入り口」と書かれた標識を見つけました。「あー、やっと見つけた」と思って、ようやく県道から林道・湯之奥・猪之頭線へと左折。すると前方から、地元の中年女性二人が歩いてきました。二人は地元では見かけない、品川ナンバーの車が走ってきたので、珍しそうに私が乗っている車をジロジロと見ていました。「ちょうどいい。この人たちにも聞いてみよう」と思い、見を聞いてみることにしました。

○「この道をまっすぐ行くと、湯之奥に抜けるトンネルに出るんですよねえ」

地元の人C「あー、出るけんどねえ。ここのところの大雨やら、台風やらで、がけ崩れがおこっているから、行かないほうがいいよ」

 

こんな感じで制止されてしまいました。私がここに来る数日前に、台風の影響によるものすごい豪雨が数日つづき、がけ崩れが起こっているということでした。しかし、私のほうも、せっかくここまで来て、引き返したのでは納得がいきません。そういうわけで、ここは地元の人たちの制止を振り切って、林道を毛無山に向かって走っていくことにしたわけです。

湯之奥線7 

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■湯之奥・猪之頭線1・室町時代、日有が往還に使った上人路・「湯之奥・猪之頭線」1

 

□大石寺9世日有が往還に使った上人路・「湯之奥・猪之頭線」の調査

 

□大石寺の『戒壇大本尊』は9世日有の偽作だ

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/cat_161878.html

□戒壇大本尊は9世日有の偽作だ001080

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/cat_628700.html

□戒壇大本尊は9世日有の偽作だ081150

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/cat_628705.html

□戒壇大本尊は9世日有の偽作だ151200

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/cat_628708.html

この湯之奥・猪之頭線というのは、静岡県富士宮市猪之頭地区と山梨県身延町湯之奥地区・下部温泉を結ぶ林道です。

なぜここに来たのかというと、日蓮正宗大石寺9世日有が、大石寺と大杉山・有明寺の往還、下部温泉の湯治のために、ここを歩いた「上人路」と言われるルートであったこと。

さらに、室町時代の中頃から江戸時代にかけて、今の静岡県と山梨県の県境付近で、湯之奥金山をはじめとする金鉱掘りが行われ、大石寺9世日有が「上人路」を往還する中で、湯之奥金山で金堀をしていた金山衆から、「金」の供養を受け取っていたこと。この「上人路」(しょうにんみち)の実地調査のためです。

室町時代の中期、大石寺9世日有が大石寺と湯之奥金山・下部温泉・有明寺を往還した「上人路」が、まさに今の湯之奥・猪之頭線であり、ここの実地調査のために来たわけです。

富士宮市猪之頭地区の数キロ南には、日蓮正宗大石寺があります。

この湯之奥・猪之頭線という林道は、富士宮市猪之頭地区から山林の中を通り、静岡県・山梨県の県境のトンネルを抜けて、山梨県側に出ると、ほどなくして、かつて室町時代・戦国時代は金山の町だった湯之奥地区に入る。さらに道路は、湯之奥地区から下部温泉に抜けるのですが、湯之奥地区から下部温泉への道路は、一般車も通れる県道になっていて、猪之頭地区から湯之奥までが林道になっているわけです。この山梨県と静岡県を隔てている山が毛無山。室町・戦国時代から江戸時代にかけて、湯之奥金山・富士麓金山などの、いくつかの金山があったところです。

静岡県富士宮市側から毛無山に登る登山道は、湯之奥・猪之頭線以外にもあります。

室町・戦国時代から江戸時代にかけて、毛無山には金山がいくつも採掘され、今の静岡県側から、たくさんの人たちが毛無山の金山に入って、金鉱を掘っていたことが、湯之奥金山博物館の研究発表や展示、出版物で述べられています。こういう登山道が今も残っているのは、金山が掘られていた時代からの、なごりなのかもしれません。

湯之奥線2


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■湯之奥金山博物館8・日有の経済力を解き明かす湯之奥金山博物館8

 

□何度も足を運んで調査した山梨県JR下部温泉駅前・湯之奥金山博物館

 

ところで、自分なりに調査・研究していって、どうしても一点、わからなかったことが、この湯之奥金山は、いつから採掘がはじまったのか、ということである。

湯之奥金山の採掘がいつからはじまったのか、ということは、大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が、日有によって偽作されたことを証明する大きなポイントになる。

日有が大石寺法主であった期間は141984 - 1467年、1472 - 14829月であり、京都天奏が1432年、「本門戒壇の大御本尊」偽作が1445年だとすると、少なくとも15世紀前半には、湯之奥金山での金の採掘がはじまっていなくてはならない。15世紀後半ということだと、湯之奥金山の金による「本門戒壇の大御本尊」日有偽作の根拠が大きく薄れてしまうことになる。

そこのところを展示を見学したり、売店で館長の著書を買ったり、記念講演・公開講座の記録集等々を買って読んだのだが、ここのところが、どこにも出ていないのである。

「湯之奥金山博物館・展示図録」の中のコラムで、堀内亨氏という人が

「発掘調査の結果、中山金山の操業の始期は15世紀後半、黒川金山のそれは16世紀初頭と推定されている」(p38)と書いている。15世紀後半と推定と書いているが、操業とならなくても、湯之奥金山に人が入って金を掘り始めたのはいつなのか。これが私は知りたかった。

 

まずは湯之奥金山博物館の受付カウンターにいた、中年の男性係員に率直に質問をぶつけてみた。ところが、この人は、私の質問に対して、とおり一辺倒のマニュアル的な答えをするだけで、私が求めた「いつから湯之奥で金の採掘がはじまったのか」という質問に対する答えが出てこない。

私が、突っ込んで聞くと、わからないという。

「それでは館長に聞いてください」と要求すると、もじもじ渋っていたが、「今、館長はいないんですか」と押すと、今、館長が館長室にいることを告白。

男性係員は、「では館長室に行って聞いてきます」と行って、二階に上がって行ったのである。

私はてっきり、この男性が館長に聞いて、下に降りてくるものだとばかり思っていた。すると何と、谷口一夫館長が自ら下に降りてきたのである。

思わぬ形で、湯之奥金山博物館の谷口一夫館長と単独会見が実現することになったのである。

谷口一夫館長が自ら下に降りてきて、思わぬ形で、湯之奥金山博物館の谷口一夫館長との単独会見が実現することになったのである。

谷口館長は「何か?」という感じで、私の前に現れた。私はこの時が千載一遇のチャンスととらえ、質問をストレートに谷口館長にぶつけた。

湯之奥金山博物館2 

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■湯之奥金山博物館7・日有の経済力を解き明かす湯之奥金山博物館7

 

□「戒壇大本尊」を偽作して湯之奥・金山衆の金の供養独占を狙った大石寺9世日有

 

湯之奥金山の金山衆は、「南無妙法蓮華経」を唱える法華の信者であった。

法華の信者である金山衆たちは、甲斐国の人たちは主に身延山久遠寺に参詣し、駿河国の人たちは主に北山本門寺、大石寺などの富士五山に参詣し、供養した。

一般大衆がどこか特定の宗派、特定の寺院に所属が固定化されたのは、寛文11年(1671年)に宗門人別改帳が法整備されてからのことで、それ以前は、寺院に信者名簿があったわけではなく、機関紙があったわけではなく、講組織が今のように整備されていたわけではなく、御書全集があるわけでもなく、それどころか信者の大半は、文字すらも読めなかった。

室町時代の頃、信者の大半は、半農・半商・半職の武士が多く、日々は農作業やら、売り買いやら、戦で多忙であった。

法華講などの講組織は、関東・甲信・駿河・東北にはあったようだが、今のように全ての信者を網羅する組織が整備されていたわけではなく、信者も勤行や布教をしていたわけでもなく、教学にもほとんど縁がなかった。

室町時代、戦国・安土桃山時代のころの布教の主体は僧侶であり、僧侶が自坊の持仏堂に本尊を祀って勤行をし、外へ出て布教活動を行い、天台の檀林等に修学して教学を身につけていた。

僧侶の布教の縁故で、信者が寺院に参詣し、供養していたわけだが、その当時の寺院では、大石寺では、御講等の行事・法要が行われていたようだが、末寺に至っては、定期的な行事・法要が行われていない所が多く、寺院と信者の関係は、ほとんど供養するだけだったと言える。

大石寺門流で客殿を創建して、信者を集めて法要を行ったのは大石寺9世日有が最初である。

 

大石寺9世日有は、金山衆から金の供養を受けていたが、金山衆は大石寺の日有だけに供養していたわけではなく、身延山久遠寺にも供養し、北山本門寺にも供養していた。大石寺9世日有が金山衆の供養を独占していたわけではないのである。

そこで大石寺9世日有は、「戒壇の大本尊」なる板本尊や「日蓮本仏義」「唯授一人の血脈相承」なるものを偽作して、金山衆の金の供養の独占を狙ったわけである。

「大石寺には日蓮大聖人からの唯授一人の血脈相承による『本門戒壇の大御本尊』が格蔵されている。大石寺だけが日蓮大聖人の唯一正統の門流である。だから大石寺に供養すれば功徳がある」

今風の日蓮正宗的に言い方だと、さしずめこんなところだろうか。

大石寺9世日有は、「戒壇の大本尊」なる板本尊や「日蓮本仏論」「唯授一人の血脈相承」なるものを偽作し、大石寺に客殿を創建して、信者を集めて法要を行い、さらに湯之奥・下部にほど近い甲斐国(山梨県)杉山に有明寺を建立して、金山衆を大石寺につなぎ止めようとした。

かくして大石寺9世日有は、大石寺で金山衆の金の供養を独占することを狙ったのである。

湯之奥金山博物館3


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■湯之奥金山博物館6・日有の経済力を解き明かす湯之奥金山博物館6

 

□湯之奥金山の金山衆たちは富士門流の信者が多かった

 

湯之奥金山遺跡学術調査会・調査団の学術的総合調査によって、湯之奥金山博物館展示図録は、はっきりと中山金山の金山衆たちの菩提寺は、静岡県富士宮市にある富士門流八本山のひとつ・北山本門寺であったと特定している。ならば「北山本門寺の信者であった湯之奥金山の金山衆が、なぜ大石寺法主・日有に金を供養したのか」ということになるが、ここで当時の時代背景をよく考察する必要がある。

まず第一に、日蓮正宗大石寺9世法主日有の時代は、富士門流の中でも、まだ大石寺と北山本門寺が同一の門流として、互いに交流がさかんにあった時代であり、今のように全く口も聞かないほど決定的に分裂していなかったということ。

第二に、この当時、鎌倉・室町・戦国時代の仏教界は、今のように信者名簿や寺檀制度が整備されていたわけではなく、信者で「二重信仰」「三重信仰」していた人は、それこそたくさんいた。

富士門流内においては、京都・日尊門流、大石寺門流、西山本門寺、北山本門寺、保田妙本寺、小泉久遠寺等は、相互に交流があったわけだから、この富士門流の中で、例えば大石寺と日尊門流、北山本門寺と日尊門流、あるいは北山本門寺、小泉久遠寺、日尊門流といった風に「二重信仰」「三重信仰」の「かけもち信仰」をしていた信者は、ごく当たり前のように存在していた。

寺院と信者の関係が完全に固定化されたのは、江戸時代の寺請制度により、本山寺院信者の檀家制度が整備されて以降のことである。

したがって、日有の時代の金山衆たちは北山本門寺に参詣していたであろうが、同時に、大石寺にも出入りしていたであろうし、信者であれば、御講やお会式などの寺院参詣の折りや葬儀・法事・結婚式などの冠婚葬祭の折りなどには、供養を大石寺にも出すが北山本門寺にも差し出す。

湯之奥金山の掘間を所有し、金山を操業・経営し高度な技術を持っていた金山衆たちは、大石寺に供養した折りには、当然、自分達が生産した金を差し出したことは、疑いないことだ。

日有は、北山本門寺など他の富士門流本山寺院に先んじて、黒漆塗りに金箔加工を施した板本尊を造っていることからして、富士五山などの富士門流の本山寺院の中でも、特に湯之奥金山の金山衆たちと密接な関係があったと考えられる。

湯之奥金山遺跡学術調査会・調査団のさまざまな学術的総合調査によって、山梨県身延町(旧下部町)の甲斐黄金村・湯之奥金山博物館の展示や湯之奥金山博物館展示図録のみならず、湯之奥金山博物館館長・谷口一夫氏の著書「武田軍団を支えた甲州金」など学術研究者の著書においても、はっきりと湯之奥金山の金山衆は、「墓石からそのほとんどは法華の信者であった」と記載しており、湯之奥金山の拠点である中山金山の金山衆たちの菩提寺は、静岡県富士宮市の北山本門寺であったと特定している。

北山本門寺39仁王門


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■湯之奥金山博物館5・日有の経済力を解き明かす湯之奥金山博物館5

 

□湯之奥金山の金山衆は日蓮宗系・富士門流の「法華の信者」だった2

 

江戸時代に湯之奥の中山金山に建てられた石塔や茅小屋金山に建てられた墓石に「富士北山村」の文字が見えるものがあることから、湯之奥金山博物館では、金山衆の菩提寺は富士宮市北山の北山本門寺であったと特定している。

湯之奥金山博物館の展示では、これは湯之奥金山の金山衆が静岡県富士宮市と深い関わりがあったことを示唆していると、している。

富士吉田市歴史民俗博物館勤務の堀内真氏が、1998117日に湯之奥金山博物館で行われた第4回公開講座における「金山衆の暮らしと信仰」と題する講演で、湯之奥金山の石塔に記された人物名、富士宮市・北山本門寺の「御廟所」、北山周辺在住の人々の家系等々を調査した上で次のように言っている。

「富士宮市とその周辺に富士五山という五つの日蓮宗の大きな寺院があります。その一つを北山本門寺と言いますが、この寺の『御廟所』は寺の中でも有名な檀家で埋葬されている墓地であって、そういった石塔を見ていくと、その中の一つに先祖の由緒が書いてあるものがあります」

「どうやら中山金山(湯之奥で最大の金山)で活動していた金山衆は元々甲州の人間ではなく、駿河の人間であった可能性が極めて高いのです。金山の中の石塔には日蓮宗タイプの石造物が立っているわけですが、麓に下って以降のそれも北山本門寺という日蓮宗とのつながりを継続して残していることが分かります」(『金山史研究・第1集』p73)

 

立正大学仏教学部非常勤講師・立正大学日蓮教学研究所客員所員の望月真澄氏が、20051217日の湯之奥金山博物館回公開講座における「甲斐と駿河を結ぶ道」と題する講演で、次のように講演している。

「金山を掘る金山衆という職業の人々がどのように(湯之奥に)登山し、下山していったか。出身地の多くは、富士宮市北山地域と言われています。それはなぜかと言いますと、北山本門寺(富士宮市)が菩提寺となっている人が多かったから分かることです。本門寺は、日蓮宗の本山であり、金山衆が山の上で亡くなれば、その傍らに供養塔が建立されました。この石塔には、『南無妙法蓮華経』の題目が刻まれ、法華の法号(戒名)が記されています。金山衆の信仰の軌跡が山上に残されていることは貴重なことです」(『金山史研究・第8集』p46)

 

堀内真氏や望月真澄氏のように、金山衆の菩提寺をはっきりと北山本門寺と特定している学者も居る。堀内真氏は大石寺・富士妙蓮寺・北山本門寺・西山本門寺・小泉久遠寺の富士五山を「日蓮宗の大きな寺院」と言っているところが面白い。

北山本門寺39仁王門


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■湯之奥金山博物館4・日有の経済力を解き明かす湯之奥金山博物館4

 

□湯之奥金山の金山衆は日蓮宗系・富士門流の「法華の信者」だった1

 

湯之奥金山で金の採掘・経営を行っていた金山衆は、いかなる信仰をしていたのか。

湯之奥金山博物館の「金山に生きる」のコーナー、「金山衆の生活と信仰」によれば

「金山衆の上層の人々は、祖母懐の茶釜や天目茶碗を用いて茶の湯を楽しみ、余暇には囲碁を楽しんでいた。彼等は亡くなると七人塚に代表される墓地に埋葬されたが、墓石からそのほとんどは法華の信者であったことが理解される」

とある。その証拠を示すものとして、湯之奥の中山金山付近で祀られていたという社の棟札、湯之奥金山周辺に残っている石造物、発掘調査で出土した磁器、陶器、陶磁器、銭貨、銅製品、碁石、武田氏が発行した古文書、朱印状、井出正次手形といった文献を挙げている。

金山衆の古文書については、湯之奥金山のすぐ隣の甲斐国・駿河国の国境(山梨県・静岡県の県境)付近に富士金山という金山があり、その富士金山を采配した金山衆の末裔である竹川家が現存しており、竹川家の古文書も調査されているという。

甲斐国・駿河国の国境をはさんで湯之奥金山と富士金山は隣接しており、金鉱脈は同一である。江戸時代の初頭の段階で、富士金山には16本の掘間があり、駿河代官・井出正次が竹川家に、湯之奥の中山金山の掘間の管轄を命じた文書が、先の井出正次手形である。

湯之奥金山博物館の谷口一夫館長の著書「武田軍団を支えた甲州金」によれば、湯之奥金山にある石造物としては、中山金山には10基、内山金山には2基、茅小屋金山には10基あり、これらの石塔の中に「南無妙法蓮華経」の文字が見えるという。

あるいは、石塔に刻まれた戒名を見ると「悲母妙安霊」「慈父宗安」「母妙養霊位」といった日蓮宗系の戒名になっている。

こういったところから、湯之奥金山博物館では、金山衆のほとんどが「法華の信者であったことが理解される」というふうに結論づけているわけである。

湯之奥金山博物館3 

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■湯之奥金山博物館3・日有の経済力を解き明かす湯之奥金山博物館3

 

□戦国大名・武田氏の軍役も担っていた湯之奥金山の金山衆

 

それでは、実際に湯之奥金山で金鉱を採掘し、精錬、経営していた金山衆(かなやましゅう)と呼ばれる人たちは、いかなる人たちだったのか。これについては、湯之奥金山博物館の「金山に生きる」のコーナーの□「金山衆の生活と信仰」□「金山衆とはという項目」で、展示されている。

展示を見ると、金山衆がいかなる宗教を信仰して、どういう生活をしていたのか、ということが細部にわたって、発掘調査や古文書調査等々で判明しているというから面白い。

その証拠を示すものとして、湯之奥の中山金山付近で祀られていたという社の棟札、湯之奥金山周辺に残っている石造物、発掘調査で出土した磁器、陶器、陶磁器、銭貨、銅製品、碁石、武田氏が発行した古文書、朱印状、井出正次手形といった文献を挙げている。

金山衆の古文書については、湯之奥金山のすぐ隣の甲斐国・駿河国の国境(山梨県・静岡県の県境)付近に富士金山という金山があり、その富士金山を采配した金山衆の末裔である竹川家が現存しており、竹川家の古文書も調査されているという。

甲斐国・駿河国の国境をはさんで湯之奥金山と富士金山は隣接しており、金鉱脈は同一である。江戸時代の初頭の段階で、富士金山には16本の掘間があり、駿河代官・井出正次が竹川家に、湯之奥の中山金山の掘間の管轄を命じた文書が、先の井出正次手形である。

金山衆というのは、金山の経営を行う技術者であるが、彼等は金鉱の掘間を所有し、操業し、ときには戦国大名の要請に応じて、戦にも参加した。武田氏の発給した古文書に依れば、金山衆は馬の通行税も免除され、商業活動も行っていたということである。

戦国大名・武田氏の勢力が最も盛んだった元亀2(1571)、武田信玄が北条氏の属