仏教宗学研究会のブログ

「仏教宗学研究会」とは会の名称。「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「仏教宗学研究会のブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

「仏教宗学研究会」とは「アンチ日蓮正宗」管理人が設立した会の名称。この会の中で、「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄。
「仏教宗学研究会のブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。富士門流執着軍団批判は「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄だが、「日蓮正宗系」以外の富士門流寺院の調査・研究は「仏教宗学研究会のブログ」の管轄。
「仏教宗学研究会」への誹謗中傷に対する反撃・糾弾は「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄。
さらに正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗」の公式サイト「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」から、カルト宗教対策、カルト宗教取締特別立法、カルト宗教拡散防止条約制定の活動部分を独立させたものが「国際カルト宗教対策委員会(Icat-Cult)」

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大石寺9世日有・戒壇大本尊偽作問題

大名時計博物館(3)~日本に機械時計が伝来したのは1551年にフランシスコ・ザビエルがもたらした機械時計

■大名時計博物館3(フランシスコ・ザビエルがもたらした機械時計)

 

□日本に機械時計が伝来したのは1551年にフランシスコ・ザビエルがもたらした機械時計

 

さて大名時計博物館に、大石寺「丑寅勤行」の謎とウソを暴くカギがあった。

大名時計博物館の展示・資料、および博物館が刊行する小冊子「大名時計」によれば、ヨーロッパから日本にはじめて機械時計が伝来したのは、日本にキリスト教を伝来させたフランシスコ・ザビエルがもたらした機械時計が最初である、という。

大名時計博物館館報NO4「大名時計」によれば、次のように書いてある。

 

「日本に、外国製機械時計が渡来したのは、天文20(1551)16世紀の中頃であり、フランシスコ・ザビエルがキリスト教の布教のため、大内義隆に機械時計を献上したのが、文献上では最初だといわれている。その後、信長、秀吉、家康に機械時計が献上されているが、いずれも現存しないので、重りを動力にした時計か、ゼンマイを動力にした時計なのか、知るよしもない。

慶長16(1611)、メキシコから徳川家康に献上された、ゼンマイ動力の置き時計が、現存する最古の機械時計で、静岡県の久能山東照宮に保存されている。

文献によると、徳川家康のお抱え御時計師であった津田助左衞門政之が、時計師の第一号だという。しかしながら、津田助左衞門政之より以前に、時計師がいたと思うが、記録が発見されていない。今では、江戸時代(1603)になってから、大名時計を製作したと言われているが、もしかすると江戸時代以前、室町末期に大名時計を製作していたかもしれないが、考えられるだけで、証拠立てるものは何一つ、発見されていない。

久能山東照宮に保管されている、徳川家康所蔵の機械時計以後も、外国製の機械時計が日本に渡来している。

外国製の機械時計が、日本に渡来して、それをモデルにして日本人時計師が、機械時計を製作したのが最初で、その後、日本独特の不定時法による大名時計を製作したのである、というのが、現在は定説になっている。」

 

フランシスコ・ザビエルが日本へ機械時計を伝来させたことが発端になり、江戸時代以降、日本で機械時計が生産されるようになったという。すなわち西洋式の機械時計を日本式の機械時計に改良したもので、これが即ち和時計であり、大名時計である。

したがってフランシスコ・ザビエルが機械時計を日本に伝来させる以前、日本に機械時計は存在しておらず、よって深夜2時から4時の時刻に丑寅勤行を行うことも不可能である。

したがって、よく大石寺が言う、日興の代から大石寺では毎日欠かさず丑寅勤行を行ってきた、というのは全くのウソであると断言する。

丑寅勤行3 

(原進写真集『正法の日々』に掲載されている大石寺大客殿・丑寅勤行)

 

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大名時計博物館(2)~大石寺の深夜2時から4時の丑寅勤行の謎を追って訪れた大名時計博物館2

■大名時計博物館2(丑寅勤行の謎を追って訪れた大名時計博物館2)

 

□大石寺の深夜2時から4時の丑寅勤行の謎を追って訪れた大名時計博物館2

 

日蓮正宗では、二祖日興の時代から丑寅勤行が行われていた証拠文献として「日興跡条条事」を挙げる。ところが、「日興跡条条事」なる文書を検証していくと、まさに矛盾だらけの文書であることが判明してくる。「日興跡条条事」第三条の文には

「大石の寺は御堂と云ひ、墓所と云ひ、日目之を管領し修理を加え、勤行を致し広宣流布を待つべきなり」(日蓮正宗59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』8p17・『日蓮正宗聖典』p519・『御書全集』p1883より)

とあるが、この第三条の文によると、日興は日目に大石寺の「御堂」と「墓所」を管領し、修理を加え、日々勤行をして、広宣流布を待つように命じているということになるが、日蓮正宗に言わせると、大石寺の「勤行」とは、毎朝丑寅の時刻に客殿で行われている丑寅勤行のことだと日蓮正宗や日蓮正宗の信者は言う。

日蓮正宗では、日興の大石寺開創以来、毎朝欠かさず丑寅勤行を行ってきた、などと言っており、この「日興跡条条事」第三条の「日目之を管領し修理を加え、勤行を致し」の「勤行」が、日興在世当時の大石寺で行われていた丑寅勤行のことだと、無理矢理にこじつける。

しかし、これは全くのウソ。日興在世の時代に、大石寺には客殿も本堂も根本本尊もなく、毎朝の丑寅勤行など全く行われていなかった。

もっと言うと、日興在世の時代に、毎朝深夜2時から4時の時刻に勤行を行うことは、物理的に不可能だったのである。どうしてそう言えるのか。

1 そもそも深夜2時から4時の正確な時刻に、勤行を行おうとすれば、機械時計が存在していないと絶対に無理である。日時計や水時計、砂時計の類では絶対に無理。これらの時計では、日没後の正確な時刻を測定できない。

2現在の時刻の「定時法」が採用されたのは、1873年(明治6年)11日、太陽暦の導入と同時に西洋式の時法が導入されたのであり、軍隊内部では、午前・午後の間違いを防ぐために24時制が使用されていた。1942年(昭和17年)1011日、鉄道に24時制が移入され、一般人の間にも24時制が普及することとなったのである。

それでは、その定時法が導入される前はどうだったのかというと、「日の出」の時刻はすべて、「寅の刻」あるいは「卯の刻」と決めてしまい、それを境に昼と夜をそれぞれ六等分するというのが、昔の時刻の数えかたの「不定時法」だった。

しかし不定時法で時刻を決めてしまうと、北海道と九州では日の出の時刻がちがうし、夏か冬かという季節によっても日の出の時刻は違っている。

丑寅勤行3 

(原進写真集『正法の日々』に掲載されている大石寺大客殿・丑寅勤行)

 

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大名時計博物館(1)~大石寺の深夜2時から4時の丑寅勤行の謎を追って訪れた大名時計博物館

■大名時計博物館1(丑寅勤行の謎を追って訪れた大名時計博物館)

 

□大石寺の深夜2時から4時の丑寅勤行の謎を追って訪れた大名時計博物館

 

「本当に日興在世の時代の大石寺では、深夜2時から4時の時刻に丑寅勤行を行っていたのか」

こういう単純な疑問を解き明かすため、時計のことから調査がはじまった。そして大石寺の丑寅勤行の謎を追って、大名時計博物館を訪れたのである。

さて、時計のことを調べる前に、1日の時刻や暦についても調べる必要があり、まずはさまざまな歴史本や資料を読んで調べるところから始まった。そういう中でわかったことは

1 江戸時代以前の日本においては、今のような定時法ではなく、日の出から日の入りまでを基準とする不定時法だった。「日の出」の時刻はすべて「寅の刻」あるいは「卯の刻」と決めてしまい、それを境に昼と夜をそれぞれ六等分するというのが、昔の時刻の数えかたの「不定時法」。

現在のような定時法が導入されたのは、明治維新以降のことである。

2日の出とともに起きて、日没とともに寝る、ということが常識だった昔は、不定時法のほうが人々の生活に都合が良かった。

つまり、日の出を寅の刻とするのなら、丑寅の時刻とは、陽が昇り始める時刻であり、夏なら午前3時半くらい。冬なら6時半ころ。春分・秋分の日で5時半くらいだろうか。

日の出を寅の刻と決めてしまうのなら、何も機械時計がなくても、時刻を知ることが出来る。

しかしその場合、丑寅の刻とは、午前2時から4時ではなく、夏至で午前3時半くらい、冬至で6時半ころ。春分・秋分の日で5時半くらいと、かなり時刻に幅が出てしまう。

つまり、明治維新以前、日本で定時法が導入される以前、大石寺でも同じように不定時法を採用していたと言うなら、その時代に行われていた「丑寅勤行」とは、今の丑寅勤行とはちがったものだ。それは、身延山久遠寺や池上本門寺等の寺院の他、仏教寺院で行われている早朝5時ないし5時半ころに行われる「勤行」と何ら変わりはない。

仏教寺院で行われている早朝5時ないし5時半ころに行われる「勤行」は、丑寅勤行とは言わず、一般的に「暁天勤行」(ぎょうてんごんぎょう)と言う。「暁天」とは辞書によれば

「明け方の空。また、夜明け」(大辞泉国語辞典)

と載っている。今は暁天勤行とは言わず、早朝勤行と言う寺院も多い。

日蓮正宗の末寺寺院でも、早朝6時や6時半ころに本堂で勤行を行っている寺院がいくつもあるが、いずれも「早朝勤行」とか「朝の勤行」と呼んでいて、丑寅勤行とは言わない。

丑寅の刻に行う丑寅勤行と、明け方に行う暁天勤行ないしは早朝勤行は、別のものである。

こう言うと大石寺僧侶や妙観講あたりは「大石寺では丑寅勤行が朝の勤行に当たるのだ」と言うのだろうが、この言い訳は完全なまやかしである。

私が言っているのは、実際に勤行が行われる時刻のことを言っており、丑寅の刻なのか、それとも太陽が昇る明け方に行うのか、ということを問うているのであり、勤行の意義付けのことを言っているのではない。

 

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高岡・山町脇・土蔵造り資料館(2)~高岡市土蔵造りのまち資料館に掲示されていた明治の高岡大火と焼け残った土蔵造り

■高岡・山町脇・土蔵造り資料館2(蔵造り・土蔵の謎を追って3)

 

□高岡市土蔵造りのまち資料館に掲示されていた明治の高岡大火と焼け残った土蔵造り

 

高岡市指定文化財・旧室崎家住宅が、高岡市土蔵造りのまち資料館として、一般公開されている。室崎家は現当主で九代目となる歴史のある家で、明治初期にこの場所に移ってきたもので、それ以前は、道路を挟んで向かい側の家に住んでいた。室崎家は、昭和20(1945)まで、綿糸や綿織物の卸業を手広く営んでいた、高岡でも屈指の商家。現在は石油商を営んでいる。

室崎氏の転居にあたって、高岡市がこの土蔵造りの民家を資料館として、一般に公開している。

ここも土蔵造りの調査で、入りました。

土蔵造りというのは、家屋の外側の話しであって、家の中は、至って普通の数寄屋造りの民家になっている。この家の土蔵は別にある。つまり民家も土蔵も両方が土蔵造りになっているというわけである。

土蔵造りのひとつのポイントとして、土蔵がある家は、裕福な家、財産家、資産家と言われる家が多かったこと。大切な家宝、財産を厳重に保管するために土蔵を造ったわけである。

土蔵そのものは、昭和3040年代のころまで、北陸地方の各地にあったようである。私も子どもの頃、土蔵造りの蔵をよく見かけた記憶がある。

江戸時代から明治、大正のころを生きた人たちは、「火災が多い」という常識の中で生きていた。そういう中、資産家たちは、自分たちの大事な財産が火災によって灰になってしまっては困るので、江戸時代から明治時代にかけて、土蔵を造っていった。そこで、土蔵の中には、財産が隠されているということで、第二次世界大戦後の混乱期に「土蔵破り」と言われる盗賊が出没した事件が多発していたという。

しかし戦後の高度経済成長の中で、次第に民家の新築が進み、立て替えが進んでいく中で、古い土蔵造りは姿を消していった。高岡市の場合も同様で、土蔵造りの家屋の立て替えが進み、土蔵造りの家が少なくなっていき、残ったところが重要伝統的建造物群保存地区になったのだという。

この資料館には、女性の係員が一人いて、私の質問に、わりと親切に回答してくれました。

「土蔵造りに関する本か資料はありませんか」と係員に質問すると

「いやー、そういうのは、ないですねえ」との答え。

資料館の中の明治の高岡大火や土蔵造りの説明が書いてある写真パネルを、「写真に撮ってもいいですか」と尋ねると、「あー、どーぞどーぞ」との答え。

そこで私が写真撮影していると、この女性係員が、奥の方から高岡市教育委員会が発行した高岡の土蔵造りに関する資料を一冊もってきて、手渡してくれました。「なんだ、ちゃんと資料があるじゃないですか」と言うと、「あまり人に見せていない資料」なのだとか。

土蔵造り資料館3


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高岡・山町脇・土蔵造り資料館(1)~大石寺の土蔵造りの宝蔵と『大石寺・戒壇本尊炎上説』の検証で訪れた高岡の土蔵造り

■高岡・山町脇・土蔵造り資料館1(蔵造り・土蔵の謎を追って2)

 

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