一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ

「一般社団法人 仏教宗学研究会」とは任意団体として2005年から活動している会の名称。2018年5月に一般社団法人登記。当ブログ名を「仏教宗学研究会のブログ」から「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」に改名。 「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

Category: 仏教・宗祖歯骨と歯・歯科医学

■歯の博物館5(歯の博物館・大野館長との質疑応答記4)

 

○私「入れ歯(義歯)とは、いつごろから、あるのでしょうか」

□館長「現在までに発見された最古の木床義歯は、1538年に74才で没した、和歌山県願成寺の仏姫(尼さん)の上顎の総義歯です。これは技術的に完成されており、こうした義歯制作の技術の発生は、それよりも相当以前のものと思われます。木床義歯の製造は、室町時代末期と思われ、鎌倉時代には全国的に普及していたのではないかと思われます。

鎌倉時代以降には、義歯制作を専業とする『入れ歯師』が現れ、江戸時代になるとその技法は完成されました。

江戸時代、入れ歯を制作した者は、入れ歯師と呼ばれ、香具師(やし)の仲間で入れ歯を作ったものを、入れ歯渡世人と呼ばれました。明治初期になって、西洋の義歯が伝えられてからも、木床義歯が喜ばれたのですが、当時の西洋文化を至上とする風潮から価格も安く、技法がむずかしいことから、次第に姿を消していきました。

木床義歯は、床に『つげの木』が使われました。これは口の中で適合性に優れていたためです。前歯には象牙、蝋石、人や動物の歯が使われました。奥歯には金属の鋲が使われ、ひどく摩耗した鋲が見られることから、咀嚼も充分にできていたと考えられます。」

□館長「日本には縄文時代から木の文化をもっていましたが、日本固有の木で作られた義歯は、現在の義歯と比較して、審美的にも実用的にも、遜色のないものが、数百年前には完成していました。この木床義歯(木の入れ歯)は、仏師の手慰みから生まれたものではないかと考えられます」

□館長「江戸時代に義歯をしていた有名人としては、滝沢馬琴、杉田玄白、本居宣長、平賀源内らがいます。また、江戸時代の初期、遊行寺の貫首が総義歯を入れていたという記録が残っています」

 

○私「その当時は、義歯はいくらぐらいしたのでしょうか」

□館長「1831(天保2)94日の馬琴日記によれば、上下の入れ歯の代金が一両三分(1.75)だったと記してあります」

○私「当時としても、かなり高額なものだったと思われるわけですが、上古の時代、義歯を入れていた人とは、どういう人だったのでしょうか」

□館長「江戸時代でも義歯は、かなり高価なものだったようなので、一般庶民が義歯を入れていたとは考えにくいですね。ただし、滝沢馬琴、杉田玄白、本居宣長、平賀源内らが義歯を入れていたということなので、医師、医学関係者、公家、武家、僧侶は義歯を入れていたと考えられます。」

歯の博物館2 

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■歯の博物館4(歯の博物館・大野館長との質疑応答記3)

 

○私「歯磨きをするときの歯磨き粉は、いつごろからあるのでしょうか」

□館長「歯磨き粉の製法は、特別な技術とか熟練を必要としないため、自家用として色々と工夫されて造られてきていますが、その起源は明らかではありません。

古代中国では、二十日鼠の骨が愛用され、エジプトでは紀元前1500年ころから、粉歯磨、練歯磨があり、緑青、粘土、乳香等が使われました。

日本で歯磨き粉が商品として量産されるようになったのは、江戸時代に入ってからです。その中で一般的だったものは、房州砂に香料を加えたものでした。麝香(じゃこう)と樟脳を混ぜたものは「麝香歯磨」と呼ばれ、その他、竜脳、肉桂、乳香、没薬等も用いられました。

明治になると、日本古来の材料にかわって、炭酸カルシウムや炭酸マグネシウムが原料として用いられました。そして明治21年、資生堂がはじめて練歯磨を発表しました。大正から昭和にかけては、日本の歯磨きの中国市場への進出はめざましく、中国大陸のいたるところで、獅子印歯磨(ライオン)と仁丹の広告が見られました。昭和20年以降は、葉緑素やフッ素入りのものが登場し、昭和30年ころには、粉末の歯磨き粉はほとんど姿を消しました。また、自家製の歯磨き粉としては、塩や米糠を煎ったものが長く用いられました」

 

○私「歯科治療をする歯医者さんとは、いつごろからいるのでしょうか」

□館長「日本の医学はすでに応神天皇の時代からあり、仏教の伝来と中国・朝鮮から日本に渡来する人が医学を伝えており、医者の祖というべき丹波康頼も、この一人でした。

日本の医療衛生が体系を整えたのは、大宝律令の制定からで、医学は大療科(内科)、創腫科(外科)、少小科(小児科)、耳目口歯科の四つでした。養老2(718)の養老律令の四つの医博士のひとつに、耳目口歯科があります。これが日本の歯科治療のはじめと言われています。

丹波康頼は日本ではじめて医学書である「医心方」(いしんぽう)を著し、永観2(984)に、朝廷に奉献しています。江戸時代の官職としての口科医には、禁裏付と幕府の二つがあり、民間では口腔疾患のみ扱う医師を口中医。入れ歯を造る医師を「はいしゃ」と呼んだのです。

 

○私「上古の時代の歯科治療とは、どういう治療を行っていたのでしょうか」

□館長「縄文時代晩期の人骨からは、若いときに歯を抜いた頭骨が発見されています。これには一定の形式が見られ、医療目的ではなく、成人、結婚、喪、迷信、罰といったことが考えられ、こうした習俗は現在も世界各地に残っています。

又、この時代には前歯に刻みを入れたり、唇面に縦に溝をつける研歯という習俗も見られます。この縄文時代の研歯は、中米の原住民にも見られました。」

神奈川県歯科医師会1 

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■歯の博物館3(歯の博物館・大野館長との質疑応答記2)

 

○私「歯磨きをしないと歯周病になる、ということですが、人はいつごろから歯磨きをしているのでしょうか」

□館長「歯磨きは、インドではじまりました。釈迦は僧侶が読経する前に手を洗い、歯木で歯を清掃するよう習慣づけるように指導しました。これは弟子の僧侶の口臭がひどいため、釈迦が戒律として歯を磨くように指導したのです。

釈迦は、歯磨きは、1.口気臭わず、2.味覚がよく、3.熱が消え、4.食が進み、5.眼がよくなる、と五つの利点があると説いたのです。

唐の僧侶・義浄三蔵は、インドで修行して中国に帰り、歯木で歯を清掃する習慣を伝えました。インドでは熱帯性植物『ニーム』という木を使っていましたが、中国には『ニーム』がないため、楊柳が使われて、これが楊枝と呼ばれるようになりました。

中国から朝鮮を経て、552年に日本に仏教が伝来し、釈迦の時代の古法に習って、爵楊枝が日本に紹介されました。歯を磨く習慣が一般庶民にまで普及したのは、17世紀、江戸時代以降のことです。

しかし上古の時代の歯磨きは、歯を清掃するというよりも、身を清めるという意味が強かったのです。だから、昔は、朝に歯を磨いたのです。仏教・曹洞宗では、僧侶の灌頂の儀式の時に、歯木を噛む儀式が残っていますが、これも身を清めるという意味のものです。

口腔衛生上、歯磨きをするという意味で、食後に歯磨きをするようになったのは、明治時代に西洋歯科医療が日本に伝来して以降のことです。」

○私「そうですか。私は子どものころ、両親に朝に歯を磨くように教わりましたですねえ。実家では、私の子どもの頃は、全員が朝方に、歯磨きをしていました」

 

○私「昔の人は、どんな歯ブラシを使って、歯磨きをしていたのでしょうか」

□館長「『好色の家にて口中をたしなむ事、最も業なり。外を繕ひたるも口中無沙汰ならば、色を好むと云い難かるべし』(色道大監)とあるように、江戸時代の中期、安永、明和年間には口臭が問題とされ、歯磨きやうがいが流行ました。食後にお茶を飲み、楊枝を使うようになったのは、このころからです。

楊枝は古代インドより中国を経て、仏教とともに日本に伝えられたというのが、定説になっています。インドでは楊枝は歯木と呼ばれ、その一端をかみ砕いて房状としたもので、水とともに仏教の宗教的儀式に用いられました。『楊枝』は日本では楊、すなわち柳の枝を意味しますが、インドでは菩提樹を用いました。インドの菩提樹は、桑科の常緑樹で、日本で云う菩提樹とは異なります。

房楊枝には色々な種類があり、『はようじ』は黒もじの黒い皮がついたものを用い、打楊枝はのちの房楊枝です。房楊枝が一般的に使われるようになったのは、江戸時代からのことで、種類も豊富になりました。女性用は柳でつくったもの。男性用は肝木の房楊枝とよばれ、穂先をつぶしたもので、柳に比べたら硬いものでした。女性用の房楊枝が柔らかかったのは、『お歯黒』を落とさないためと思われます。」

歯の博物館2 

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■歯の博物館2(歯の博物館・大野館長との質疑応答記1)

 

以下は、神奈川県歯科医師会・歯の博物館においての、大野館長および事務局の方の総合的な見解と言うことで、お酌み取りいただけたらと思う。

 

○私「『日蓮の歯』ないしは『肉牙』と称するものが、関東・東海など東日本各地の日蓮宗寺院や大石寺に格蔵されていると伝承されています。つまり日蓮在世中に、日蓮の歯が抜け落ちた、との伝承です。これが真実だとすると、なぜ日蓮の歯が抜け落ちたと考えられますか」

□館長「歯が抜け落ちる原因は(1)虫歯(2)激しい運動や事故などによる衝撃(3)歯周病が考えられます。歯周病は、ずいぶん昔からの古文書に出てきていまして、古くは『歯がくさい』という意味で、『歯くさ』と呼ばれていました。この『歯くさ』が今の歯周病だと考えられています。

平安時代末期から鎌倉時代初期の『病草子』という文献には、『口くさき女』『歯槽膿漏の男』の絵が出てきます。源頼朝、松尾芭蕉、小林一茶、山頭火らは歯周病だったと考えられています」

○私「日蓮に関しては、激しい運動や事故などによる衝撃による歯の脱落は、考えにくいですね。」

□館長「日蓮の抜けた歯が存在するということは、日蓮は歯周病だった可能性が高いですね」

○私「歯周病の原因とは、何なのでしょうか」

□館長「ひとつは歯周病菌です。もちろん、歯を磨かないと歯周病になりやすいのですが、朝しか歯を磨かないと歯周病に、なりやすいですね。二つ目としては、栄養不足です。栄養不足の人は、歯周病になりやすいですね」

「あとは、歯みがきの問題があります。歯磨きの歴史は古く、すでに釈迦の時代から弟子の僧侶は歯磨きをしていました。釈迦は僧侶が読経の前に手を洗って、歯木で歯を清掃するように指導していました。これは弟子の僧侶の口臭がひどいため、釈迦が戒律として、歯を磨くことをすすめたのです。

唐の僧侶・義浄三蔵は、インドで仏教の修行をして中国に帰り、歯木で歯を清掃する習慣を伝えました。インドでは熱帯性植物『ニーム』という木を使っていましたが、中国には『ニーム』がないため、楊柳が使われて、これが楊枝と呼ばれるようになりました。中国から朝鮮を経て、552年に日本に仏教が伝来し、釈迦の時代の古法に習って、爵楊枝が日本に紹介されました。歯を磨く習慣が一般庶民にまで普及したのは、17世紀、江戸時代以降のことですが、それ以前は、僧侶は歯磨きをしていました。それから考えると、日蓮も歯磨きはしていたと考えられます。

ただし、当時は今のように食後に歯磨きをするのではなく、朝方に歯磨きをしていました。食後に歯磨きをするようになったのは、西洋歯科医療が日本に入ってきてからのことで、これは歯科衛生上、食後に磨くようになったのです。それ以前の時代は、歯科衛生上の理由ではなく、朝に歯磨きをして『身を清める』という意味があったのです。今でも僧侶の灌頂の儀式の時に、歯を磨く習慣が残っている宗派があります。ただし、朝の歯磨きだけでは歯周病になる可能性は高いですね。」

歯の博物館2 

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■歯の博物館1(日蓮肉牙の謎を追って歯の博物館を訪ねる)

 

仏教の中に、仏歯牙信仰ないしは仏教各宗派の宗祖の歯骨信仰がある。鎌倉・円覚寺や名古屋・日泰寺には仏舎利が格蔵されていると伝承され、日蓮宗における日蓮の歯骨信仰、浄土真宗でも親鸞の歯骨信仰がある。「アンチ日蓮正宗」では、大石寺が格蔵する自称「御肉牙」が、本当に日蓮の歯なのかどうかの検証も行った。

歯牙、肉牙と科学・医学の関係を解明していくならば、歯の歴史、歯科治療の歴史、ないしは歯科治療の専門知識がある程度、必要になる。そこで私は、神奈川県横浜市の旧市街地・馬車道にある神奈川県歯科医師会・歯の博物館を訪問した。

歯の博物館は、神奈川県歯科医師会が運営する神奈川県歯科保健総合センターの中にある。神奈川県は、日本における西洋歯科治療発祥の地ということで、医科医療センターの前には記念碑が建てられている。ここは、昭和 62 1987 )年、神奈川県歯科保健総合センター(神奈川県歯科医師会館)の竣工と同時に歯の博物館がオープンしたというから、かれこれ25年以上の歴史があることになる。

私も、日蓮の歯骨、仏舎利等々の研究を進めていく上で、どうしても歯に関する専門知識が必要になり、近隣の歯科医で話を聞いたりしたのだったが、こういう形で専門知識を得るには、限界があった。そこでいろいろと探したところ、ようやくこの「歯の博物館」を見つけたという次第。

世間一般では、国立・公立の博物館、私立の博物館など、さまざまな博物館、資料館、美術館等があるが、一般的には、どこも開館時間内であれば、自由に入って見学できるし、学芸員に意見を聞くこともできる。

ところが「歯の博物館」は、完全予約制。まずは、神奈川県歯科医師会事務局に、いったん見学の予約をしなくてはならない。そして指定された日時に、まず神奈川県歯科医師会事務局に顔を出して事務局の人といっしょに「歯の博物館」の中に入る。普段は、「歯の博物館」の中はカギがかかって閉められており、事務局の人といっしょではないと、中には入れないという次第。

「歯の博物館」の中に陳列されている資料は、ほとんどがはじめて見聞するものばかりで、どれもこれも専門的なものばかり。どうしても専門的な解説が聞きたいところだが、「歯の博物館」の解説は、大野粛英館長が自ら行ってくれる。事務局の人でも、ある程度までは解説してくれるが、専門知識の質疑応答ということになると、「そういう話しは館長にしてください」となる。

「歯の博物館」館長は、博物館に常勤しているわけではなく、歯科医の先生であるので、普段は歯科治療をしている。そういうわけで、「歯の博物館」で館長の解説を受けるためには、これも予約が必要。これは見学者の予定、館長の予定の両方を調整しなければならないため、事務局が間に入って日程を調整する。そして、決まった日時に「歯の博物館」に行くというスケジュールになる。

神奈川県歯科医師会1 

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■池上本門寺30(日蓮の歯を格蔵する本殿・日蓮像)

 

□毎年6月に池上本門寺霊寶殿で公開される、かつて日蓮の歯骨を収蔵していた厨子

 

あまり知られていないことだが、池上本門寺本殿の釈迦如来像といっしょに祀られている日蓮像の胎内には、日蓮の歯が格蔵されている。

池上本門寺大堂の日蓮像の胎内には、日蓮灰骨が格蔵されていることが、大堂の案内板に書いてある。しかし本殿の案内板には、日蓮の歯のことはどこにも書いていないが、池上本門寺刊行「妙玄院日等聖人」という本の中に、千葉県勝浦市の本行寺釈迦殿に、池上本門寺が格蔵していた日蓮歯骨が分骨されたことが載っている。

 

「当山(池上本門寺)祖師堂の完成を半年後に控えた享保83月に、日等聖人は、弟子で後に両山25世に晋む守玄院日顗聖人を、自身の名代として上総国夷隅地方に遣わし、百日に及ぶ勧財を行った。日顗聖人は当山重宝の宗祖御肉牙の一部を奉じて上総に赴き、百日の内の大半を勝浦の本行寺に滞在し、五十日に及ぶ説法を行った。…この時の御肉牙は、日顗聖人の記念碑と共に現在も本行寺に格護されている」(『妙玄院日等聖人』p16)

 

これは間接表現ながら、池上本門寺として日蓮歯骨の存在を文献にて表明している。

この他に、池上本門寺霊寶殿の毎年6月の展示で、かつて日蓮の歯骨を収蔵していた厨子の展示が行われる。これは「かつて」日蓮の歯骨を収蔵していた、というもので、現在は池上本門寺本殿の日蓮像の胎内に収蔵されている。

毎年6月の池上本門寺霊寶殿の展示の中に、江戸時代のもので「四大天王扉絵厨子」というのがある。これはもともと、日蓮御肉牙(歯骨)を格蔵していた厨子で、展示の説明書きには

「もと宗祖(日蓮)御肉牙(歯骨)奉安  今 御肉牙は本殿祖師像内に納骨」

とありました。

展示の厨子の頭部を見ると、宗宝調査会が発行した「宗宝」と書いた貼り紙が貼り付けてありました。この「宗宝」と書いた貼り紙を判読すると

 

「番号 第十六号 品名 御肉牙 ○○ 本門寺 調査日 大正十四年○月二十一日 」

 

とあり、さらに宗宝調査会の委員五人の押印がありました。

つまりこの貼り紙は、宗宝調査会という団体が、池上本門寺の御肉牙を調査して、宗宝として認定した認定証のようなもの。池上本門寺霊寶殿の中の展示は、写真撮影禁止なので、これを写真でお見せできないのは残念である。

霊宝殿1


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■玉沢・妙法華寺5(日蓮の歯二粒を格蔵2)

 

玉沢・妙法華寺は、古来から「日蓮の歯」を格蔵してきたことで知られているのですが、私がいろいろ調べた結果としては、玉沢・妙法華寺の「御肉歯」は、日蓮の本物の歯のようなのです。

その最大の根拠は、玉沢・妙法華寺の開祖で六老僧第一の日昭から相承された玉沢・妙法華寺・日祐の1358(延文3)年の譲り状に、この「日蓮の歯」が出てくる、ということです。

この中に、以下の文が書いてあると言うことです。

 

「本尊聖教並に先師聖人御歯二粒御自筆の状相添へ都て御譲状の如く其外此宗の法門、相承口決等、残す所なく法嗣日運に相伝せしめ畢ぬ。御遺跡の事においては日昭法印定めおかる之通末代まで相違あるべからず。仍って譲状件の如し。延文三年三月十六日。 日祐花押」

(日蓮宗宗務院発刊『創価学会批判』p76)

妙法華寺20本堂

 

さらに「日蓮宗宗学全書・上聖部」には、文保元年(1317)十一月十六日の日昭「御遺跡の事」という文書が載っていて、これには註法華経と日蓮の歯二粒、法門相承を記していて、日蓮の歯を

「御存生之時まのあたり聖人の御手より賜ふ所なり。夙夜向顔の思ひをなすべし」

と述べているという。(日蓮宗宗務院発刊『創価学会批判』p76)

 

玉沢・妙法華寺開祖の日昭が死去したのは、元亨3(1323)326日、103才の時であるので、この「御遺跡の事」は、日昭在世の文ということになる。

ということは、玉沢・妙法華寺の「日蓮の歯」は、開祖・日昭の在世の代から存在し、格蔵されていたと言うことになる。

もし、玉沢・妙法華寺の「日蓮の歯」が偽作だとすれば、これを偽作した人物は、日昭以外にあり得ないと言うことになる。

玉沢・妙法華寺開祖の日昭とは、六老僧第一で、日蓮入滅の葬送では後陣で大導師を務めた人物。いわば、日蓮一門の弟子・檀那衆の筆頭にあり、註法華経の配分を受けた人物である。

そのような人物が、わざわざ「日蓮の歯」を偽作するなどということは、到底考えられない。

偽作する動機も目的も、その必要性も全くないばかりか、「日昭が日蓮の歯を偽作した」とする異議が、どこからも上がっていない。だれ一人、そんなことを言っていないのである。

 

しかも六老僧第二の日朗が二祖になった池上本門寺も、「日蓮の歯」を格蔵しており、日朗が日蓮から歯を授与されていることからして、日朗より僧階が上位にある日昭も、「日蓮の歯」を日蓮から授与されている、というのは僧侶社会の常識として、当然あり得ることである。

 

このように色々な面から検証しても、玉沢・妙法華寺が格蔵する「日蓮の歯」は、本物であるとせざるを得ない、ということである。

 

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■玉沢・妙法華寺4(日蓮の歯二粒を格蔵1)

 

玉沢・妙法華寺は、数々の文化財・霊宝の類を格蔵しており、註法華経、撰時抄の他には、鎌倉時代の土佐大蔵卿筆の「日蓮上人説法図」と「絵漫荼羅」が国の重要文化財に指定されています。

妙法華寺25文化財案内


さらに立正安国会の「日蓮大聖人御真蹟御本尊集」にも載っている「伝法大本尊」「祈祷本尊」といった日蓮真筆の大漫荼羅本尊、日蓮真筆の消息類8通を格蔵しています。

この辺の所は、妙法華寺境内に建てられている三島市教育委員会の看板に書いてありますし、立正安国会の「日蓮大聖人御真蹟御本尊集」や立正大学日蓮教学研究所編「昭和定本日蓮聖人遺文全集」といった書物を調べれば、載っています。

 

玉沢・妙法華寺が格蔵している什宝の中で、以外と知られていないのが、「日蓮の歯」である。

あの日蓮の「歯」が、玉沢・妙法華寺に格蔵されているのである。

日蓮の「歯」を格蔵している寺院は、日本全国各地にいくつかあります。この玉沢・妙法華寺だけではありません。

まずは日蓮入滅の霊跡として有名な東京・池上の池上本門寺。池上本門寺本殿に祀られている日蓮・祖師像の胎内に、日蓮の「歯」が格蔵されているということです。

 

二番目には、千葉県勝浦市の本行寺釈迦堂。

ここの日蓮の歯は、享保8年(1723年)の五十座に際し、池上本門寺より日蓮の歯骨が分与されて、厨子に格蔵されているとのこと。この釈迦堂は、わざわざ日蓮の歯を収蔵するために建てられた堂宇とのことで、勝浦市の公式ホームページにも載っています。

又、池上本門寺から日蓮の歯が本行寺に分骨されたことも、池上本門寺発行の正式文献「妙玄院日等聖人」という本のp16に載っており、池上本門寺としても、本行寺に分骨したことを認めています。

 

三番目には、新潟県佐渡市の一の谷・妙照寺。

佐渡・一の谷というと、日蓮が「観心本尊抄」を述作したことで有名な地ですが、ここが格蔵している日蓮の歯は、佼成出版社刊行「写真紀行・日本の祖師日蓮を歩く」の中で紹介されており、日蓮宗新聞社刊行「日蓮宗本山めぐり」という本の中にも、妙照寺の什宝として「宗祖(日蓮)御歯」とあります。しかし、妙照寺格蔵の「日蓮の歯」は、伝承の経緯が不明確であり、真偽未決というべきです。

 

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