一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ

「一般社団法人 仏教宗学研究会」とは任意団体として2005年から活動している会の名称。2018年5月に一般社団法人登記。当ブログ名を「仏教宗学研究会のブログ」から「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」に改名。 「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

Category:日蓮宗(大)池上本門寺 > 池上本門寺

■池上本門寺39(大石寺常唱堂は池上本門寺常唱堂のパクリ)

 

□自然に参詣者が多くなり常に題目を唱える道場として知られるようになった池上本門寺常唱堂

 

池上本門寺の仁王門をくぐったすぐ左側の子院に「日朝堂」という堂宇がある。日朝堂は、身延山久遠寺第11世・行学院日朝を祀る堂宇。別名を「常唱堂」と言い、堂宇入り口には「常唱堂」と書かれた額が掲げられている。常唱堂とか題目堂と呼ばれ、須弥壇には大曼荼羅本尊と行学院日朝像を祀っている。現在の日朝堂は昭和48(1973)年に再建されたもの。

日朝堂2












池上本門寺刊行の古写真集「撮された戦前の本門寺」によれば、もともと池上本門寺の日朝堂は、池上本門寺第22世日玄が元禄年間(1688-1704)に創立。戦前まであった日朝堂は、寛保年間(1741-43)に加藤甲斐守納泰の寄進によって建立されたもの。第二次世界大戦の焼失の後、昭和48(1973)年に再建された。

一方、池上本門寺の寺伝によれば、日朝堂の縁起は次のようになっている。

 

日朝は1422(応永29)年、伊豆宇佐美で誕生。8才で出家。行学修行を積み重ね、苦修練行、昼夜精進行を行った。41才のとき、身延山久遠寺第11世法主となり、今の身延山隆昌の基を築いた。

関東の布教では新寺40余ヶ寺を建立した。

61才の時、永年にわたる止暇断眠の苦行と教化精進の過労から両眼失明の厄にあったが、それを自らの不徳として、ますます懺悔精進したところ、眼病が全快したという。

61才のとき、眼病消滅の本尊を書写。教化と著述七百余巻に専念。1500(明応9)年、79才で遷化した。池上本門寺では日朝の徳を讃え、日朝像を祀ったところ、日を追って参詣者が多くなり、常に題目を唱える道場として知られるようになった。

日朝堂5 











これが常唱堂とよばれる縁由とのこと。

この縁由によれば、元禄年間(1688-1704)の日朝堂創建以前から、池上本門寺で日朝像を祀っていたことが、窺われるが確定的なことは言えない。日朝堂創建で、日朝像を祀った、というようにも読める。

日朝堂7 

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■池上本門寺36(日本プロレスの祖・力道山の墓)

 

池上本門寺の墓苑の中には、日本プロレスの祖である力道山の墓があります。

力道山墓6


力道山とは、今さら言うまでもなく、大相撲の力士出身で第二次世界大戦終了後に日本のプロレス界の礎を築き、日本プロレス界の父と呼ばれている人物。当時始まったプロレスのテレビ放送もあり絶大な人気があったスーパースター。

力道山墓4

 

力道山の墓に参拝する人は、かなりたくさんいるようで、墓苑の中には案内板が立てられていました。

力道山墓1


墓は綺麗に整備され、墓碑が新しくなっていました。

力道山墓3


池上本門寺には、著名人の墓がいくつかありますが、その代表格がこれです。

 力道山墓2

 

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■池上本門寺35(日蓮廟所)

 

□室町時代の応仁元年(1467)頃に造立された池上本門寺日蓮廟所の石塔

 

池上本門寺本殿の奥には、日蓮の廟所がある。

日蓮廟所4


廟所というと、身延山久遠寺の御真骨堂のように、日蓮の真骨を収蔵し祀っているのか、と思うが、池上本門寺・日蓮廟所の立て看板を見ても、ここに日蓮の真骨が納められている、という文は書いてない。日蓮廟所の立て看板には、次のように書いてある。

「中央廟屋内に宗祖日蓮聖人(弘安51282〕年1013日御遷化)、左廟屋内に第二祖日朗聖人(元応元年〔1319〕正月21日御遷化)、右廟屋内に第三祖日輪聖人(延文41359〕年44日御遷化)の墓塔をお奉りしています。

なかでも、日朗聖人墓塔は室町時代の応仁元年(1467)頃に第8世日調聖人によって造立されたと考えられる古い石塔です。形は日蓮宗に特有の宝塔で、高さ1.6m(失われている反花座を補うと1.9m)の大きなものです。塔身の正面には一塔両尊(南無妙法蓮華経、南無釈迦牟尼仏、南無多宝如来)を、基礎の背面には日朗聖人の没年や造立願主の名が刻まれています。石材は伊豆石(安山岩)です。この型式の宝塔は、室町時代に南関東の日蓮宗寺院において多く造立されましたが、日朗聖人塔はその中でも特に大きいものとして注目されます。信仰的、歴史的な重要性から大田区の文化財にも指定されています」

日蓮廟所1

 

つまり廟屋の中に石塔型式の墓塔がある、ということです。というより、元々、石塔型式の墓塔が建てられていて、これを後年に建てられた廟屋で覆われている、ということのようです。

ということは、ここには日蓮の真骨・灰骨はないものと思われます。

では池上本門寺に日蓮の真骨・灰骨はないのかというと、そうではない。大堂に祀られている日蓮祖師像の胎内に、日蓮の灰骨が収蔵されている。

大堂の中にある説明書きには、次のようにあります。(大堂内は写真撮影禁止であるため、文章を書き出します)

「日蓮大聖人御尊像

日蓮大聖人第七回忌に当たる正応元年(1288)に造立されたもので、気魄に満ちた御顔は、ご生前の真容をよく伝え、肖像彫刻としても鎌倉時代の傑作の一つに挙げられている。像高二尺八寸三分の木彫寄木造り、ご胎内には御聖骨を納めた銅筒があり、右手には母君妙蓮尼の遺髪を加えて作られたものと伝えられる払子を、左手には紺紙金泥の法華経経巻を捧持。

昭和二十年四月の大空襲にも難を免れた御尊像は、永遠に格護されるべき人類の至宝である。」

 

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■池上本門寺34(南谷檀林・照栄院2)

 

□池上本門寺照栄院に板頭寮のみが残る南谷檀林

 

池上本門寺塔中・照栄院は、江戸時代は南谷檀林が置かれていた子院。そうすると多くの学僧が修学していたわけですから、かなり大きな塔頭なのかな、と思ってしまうのですが、現在の照栄院の堂宇の大きさは、池上本門寺の他の塔頭の堂宇の大きさと、大差はない。

これは一見して不思議に思えます。今の堂宇に、多くの学僧が修学していた南谷檀林があったとは思えない。

ところが、この謎を解明するヒントが、照栄院前にある大田区教育委員会の立て看板「南谷檀林『板頭寮』遺構」に書いてありました。そこには、こんなことが書いてある。

 

「大田区文化財 南谷檀林『板頭寮』遺構 (非公開)

南谷檀林は、池上本門寺に付属する僧侶の学校として、元禄期(16881704)に、本門寺の南方(寺窪、南窪と称せられる地)に開創された。

『新編武蔵風土記稿』によれば、檀林は、講堂、方丈、玄寮、板頭寮、首座寮、所化寮、談合場、食堂、妙見堂等の施設を備えていた。

現存している建物は、檀林の事務所に当たる『板頭寮』で、板頭(事務経営の長)の居室でもあったとされる。江戸後期の天保7(1836)、池上山内の木を用いて建てられたと伝えられる。

当院の庫裡(寺の台所、居室)、書院として利用されてきたため、増改築が行われているが、屋根は昭和50(1975)、保護のため銅板で覆う工事が行われるまで、茅葺きであった。

昭和50319日指定  大田区教育委員会」

南谷檀林6

 

これによれば、南谷檀林は、本門寺の南方、寺窪、南窪と称せられる地に開創されたとある。

現存しているのは、『板頭寮』のみ。かつては講堂、方丈、玄寮、板頭寮、首座寮、所化寮、談合場、食堂、妙見堂等の施設を備えていたというから、かなり大規模な檀林だったことが、うかがえる。

ではなぜ、講堂、方丈、玄寮、首座寮、所化寮、談合場、食堂等の施設がなくなってしまったのか。もっとも檀林が廃止になって学僧が来なくなれば、檀林の堂宇も必然的に消滅してしまう運命にあるのかもしれないが、檀林の施設が今日に遺っていないというのは、残念なことである。

今の照栄院は、江戸時代の南谷檀林の面影はほとんど残っていない。

照栄院4
 

 

 

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■池上本門寺33(南谷檀林・照栄院)

 

□江戸時代にはたくさんの日蓮宗学僧が出入りしていた池上本門寺南谷檀林

 

池上本門寺の塔頭子院の中で、私が注目したのは照栄院。ここは呑川の川沿いにあります。

照栄院という塔頭は、元々は日蓮六老僧・池上本門寺二祖・日朗の草庵だったところで、日朗入滅後に衰退。これが江戸時代に入って再興し、僧侶の学校である南谷檀林が置かれ、これが明治維新までつづいた。照栄院の境内には、こんな立て札が建てられています。

「照栄院

縁起

正応4(1291)、日朗聖人の庵室として開創。日朗聖人没後、荒廃したが、嘉吉年間(14411444)に再興された。元禄2(1689)、南谷檀林という僧侶教育の学校を開設。明治2(1869)に廃されるまで、多くの高僧を送り出した。本門寺の役寺としての三院家の一。山上の妙見堂に祀られている妙見菩薩立像は寛文4(1664)、加藤清正の娘・瑶林院が夫の紀州徳川頼宣の現世安穏後生善処を祈念して奉納したもの」

 

檀林というのは、中世から仏教各宗派でつくっていた僧侶教育の学校のことで、日蓮宗系の檀林も、安土桃山時代ぐらいから建ちはじめ、江戸時代に檀林の隆盛期を迎える。

江戸時代のころにあった日蓮宗系の檀林とは、以下のようになっている。

 

□飯高檀林  千葉県匝瑳市飯高 日蓮宗 飯高寺 立正大学発祥の地

□小西檀林  千葉県千葉県山武郡大網白里町 日蓮宗 正法寺

□中村檀林  千葉県香取郡多古町 日蓮宗 日本寺

□野呂檀林  千葉県千葉市若林区野呂 日蓮宗 妙興寺

□玉造檀林  千葉県香取郡多古町 日蓮宗 蓮華寺

□三昧堂檀林  茨城県常陸太田市 日蓮宗 久昌寺

□南谷檀林  東京都大田区池上 日蓮宗大本山 池上本門寺照栄院

□西谷檀林  山梨県南巨摩郡身延町身延 日蓮宗総本山 身延山久遠寺

□松ヶ崎檀林  京都府京都市左京区松ヶ崎堀町 日蓮宗 涌泉寺

□求法檀林  京都府京都市山科区御陵大岩 日蓮宗大本山 本圀寺

□東山檀林  京都府京都市左京区岡崎東福ノ川町 日蓮宗 善正寺

□鷹峯檀林  京都府京都市北区鷹峯北鷹峯町 日蓮宗 常照寺

□山科檀林  京都府京都市山科区竹鼻竹ノ街道町 日蓮宗 護国寺

□鶏冠井檀林  京都府向日市鶏冠井町御屋敷  日蓮宗 北真経寺

照栄院3


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■池上本門寺32(塔頭子院の院号・寺号・坊号)

 

□かつては坊号の塔頭子院があったが何らかの理由で坊号の塔頭をなくしていった池上本門寺

 

池上本門寺の場合、本門寺境内の周辺に塔頭子院が立ち並ぶという、独特の伽藍配置になっています。

池上本門寺の塔頭子院は、中道院、常仙院、本成院、本妙院、理境院、大坊本行寺、南之院、覚源院、厳定院、西之院、真性寺、実相寺、本光寺、善慶寺、長勝寺、東之院、安立院、法養寺、心浄院、妙雲寺、養源寺、照栄院、永寿院の23院・寺です。

大半の塔頭支院は池上本門寺に隣接していますが、池上本門寺から離れた所にある子院もあります。池上本門寺発行の小冊子「池上の寺めぐり」によれば、池上本門寺の塔頭支院の言われについて、次のように書いてある

「日蓮聖人が亡くなった御入滅の霊場である池上本門寺の周辺には、参拝者が宿泊するためにいくつかの宿坊があった。宿坊のはじまりは、日蓮聖人の弟子たちが日蓮聖人の塔所(墓所、廟)に給仕するために建てた小庵であった。当初は支院とよばれ、多いときは36あった塔頭寺院も移転・合併・廃寺などで、現在は本門寺を加えた24ヶ寺が『朗師講』とよばれて残っている。『朗師講』とは本門寺2世日朗聖人の日蓮聖人への奉仕に対する徳を偲び、その恩に報いるための講会という意味で、今でも毎月1回、24ヶ寺の住職が集まって報恩法要を行っている」

(小冊子「池上の寺めぐり」p4)

 

塔頭子院の23院・寺に池上本門寺を加えた24ヶ寺が『朗師講』とよばれて残っている、ということです。こう見てみると、池上本門寺の塔頭支院の名前は、院号と寺号の混在になっている。

私が見聞した限りでは、仏教大寺院や本山クラスの寺院の塔頭支院の院号、坊号は、地域的に別れているように思います。

京都に行くと、京都・要法寺、妙顕寺、本圀寺、妙伝寺、本能寺、頂妙寺、本満寺、本善寺、妙覚寺、本法寺、妙蓮寺、本隆寺等の本山は全て「○○院」の院号になっています。

これは、日蓮宗、日蓮本宗(富士門流)、法華宗本門流、法華宗真門流、顕本法華宗、本門法華宗、法華宗陣門流の宗派の区別はなく、共通して全て「○○院」の院号です。

臨済宗の本山に「○○庵」の庵号が一部にありました。

 

これが東海・甲信越地方になると、院号はなく、全て坊号になっている。

身延山久遠寺、日蓮正宗大石寺、富士妙蓮寺、北山本門寺、西山本門寺、小泉久遠寺、岡宮光長寺等、全て同じです。

本成院1
 

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■池上本門寺31(池上「本門寺」寺号の由来)

 

□池上「本門寺」寺号は富士門流の「本門寺」思想とは全くの無関係である

 

池上本門寺の研究課題として、「本門寺」の寺号ということがある。

現在、日蓮入滅から200年くらいの間に創建された寺院の中で「本門寺」の寺号を名乗る寺院としては、北山本門寺、西山本門寺、讃岐本門寺と池上本門寺。北山本門寺の場合は、「法華本門寺根源」とか「富士山本門寺根源」と呼んでいる。

西山本門寺は「富士山西山本門寺」とか「富士山本門寺根源」を自称している。これは、「二箇相承」(偽書)にある「富士山本門寺」の寺号を名乗っていると考えられる。

讃岐本門寺は、正式には高永山本門寺というが、江戸時代から戦前にかけて、北山本門寺の末寺だったときは、法華寺を名乗っていた。

日蓮正宗大石寺も、将来的には「本門寺」の寺号を名乗るとしている。

そうすると、大石寺を含めても本門寺の寺号を名乗るのは、池上本門寺のみが日朗門流で、他は全て日興門流(冨士門流)ということになる。

日興門流には、古くから本門寺思想というものがあり、日蓮曼荼羅に「本門寺の重宝たるべきなり」との日興の加筆が散見される。

その他の本門寺思想からみの文献としては、百六箇抄、二箇相承、日順文書等があるが、百六箇抄、二箇相承は後世の偽作であり、日順文書についても日蓮正宗大石寺59世堀日亨が疑義を呈している。

本門寺思想の真偽はさておくとし、日興門流の寺院の「本門寺」寺号は本門寺思想から来ているとしても、そうすると日朗門流の池上本門寺の「本門寺」寺号は、どうして付けられたのか。いつから「本門寺」寺号を名乗っているのか、という疑問が出てくる。

この点、池上本門寺の公式ウエブサイトを見ても、

「長栄山本門寺という名前の由来は、『法華経の道場として長く栄えるように』という祈りを込めて日蓮聖人が名付けられたものです。そして大檀越の池上宗仲公が、日蓮聖人御入滅の後、法華経の字数(69,384)に合わせて約7万坪の寺域を寄進され、お寺の礎が築かれましたので、以来『池上本門寺』と呼びならわされています」

として、本門寺の寺号は日蓮聖人が命名された、とは書いてある。そこで、池上本門寺の「本門寺」寺号について、池上本門寺の僧侶に質問したところ、下記のような見解であった。

大堂3
 

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■池上本門寺30(日蓮の歯を格蔵する本殿・日蓮像)

 

□毎年6月に池上本門寺霊寶殿で公開される、かつて日蓮の歯骨を収蔵していた厨子

 

あまり知られていないことだが、池上本門寺本殿の釈迦如来像といっしょに祀られている日蓮像の胎内には、日蓮の歯が格蔵されている。

池上本門寺大堂の日蓮像の胎内には、日蓮灰骨が格蔵されていることが、大堂の案内板に書いてある。しかし本殿の案内板には、日蓮の歯のことはどこにも書いていないが、池上本門寺刊行「妙玄院日等聖人」という本の中に、千葉県勝浦市の本行寺釈迦殿に、池上本門寺が格蔵していた日蓮歯骨が分骨されたことが載っている。

 

「当山(池上本門寺)祖師堂の完成を半年後に控えた享保83月に、日等聖人は、弟子で後に両山25世に晋む守玄院日顗聖人を、自身の名代として上総国夷隅地方に遣わし、百日に及ぶ勧財を行った。日顗聖人は当山重宝の宗祖御肉牙の一部を奉じて上総に赴き、百日の内の大半を勝浦の本行寺に滞在し、五十日に及ぶ説法を行った。…この時の御肉牙は、日顗聖人の記念碑と共に現在も本行寺に格護されている」(『妙玄院日等聖人』p16)

 

これは間接表現ながら、池上本門寺として日蓮歯骨の存在を文献にて表明している。

この他に、池上本門寺霊寶殿の毎年6月の展示で、かつて日蓮の歯骨を収蔵していた厨子の展示が行われる。これは「かつて」日蓮の歯骨を収蔵していた、というもので、現在は池上本門寺本殿の日蓮像の胎内に収蔵されている。

毎年6月の池上本門寺霊寶殿の展示の中に、江戸時代のもので「四大天王扉絵厨子」というのがある。これはもともと、日蓮御肉牙(歯骨)を格蔵していた厨子で、展示の説明書きには

「もと宗祖(日蓮)御肉牙(歯骨)奉安  今 御肉牙は本殿祖師像内に納骨」

とありました。

展示の厨子の頭部を見ると、宗宝調査会が発行した「宗宝」と書いた貼り紙が貼り付けてありました。この「宗宝」と書いた貼り紙を判読すると

 

「番号 第十六号 品名 御肉牙 ○○ 本門寺 調査日 大正十四年○月二十一日 」

 

とあり、さらに宗宝調査会の委員五人の押印がありました。

つまりこの貼り紙は、宗宝調査会という団体が、池上本門寺の御肉牙を調査して、宗宝として認定した認定証のようなもの。池上本門寺霊寶殿の中の展示は、写真撮影禁止なので、これを写真でお見せできないのは残念である。

霊宝殿1


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■池上本門寺29(加藤清正が寄進した大堂・此経難事坂)

 

□間口25間、奥行き23間と極めて大規模な堂宇であった加藤清正が寄進した大堂

 

池上本門寺刊行の「古写真集~撮された戦前の本門寺」という題名の写真集によれば、正応元年(1288)造立の日蓮祖師像を祀っている大堂は、日蓮祖師像の他に二祖・日朗像、三祖・日輪像を祀っているという。日朗像、日輪像は一見して気づかない。

ここは、慶長年間(15961615)に、熊本城主・加藤清正が寄進し、宝永7(1710)に焼失した祖師堂が、間口25間、奥行き23間と極めて大規模な堂宇であったことから「大堂」と呼ばれたという。

さて加藤清正の大堂焼失後、享保8(1723)、第24世日等の代に徳川幕府8代将軍・吉宗の資助を得て、13間四方の規模で再建された。加藤清正の大堂が間口25間、奥行き23間だったわけだから、半分以下の面積である。

この祖師堂は、昭和20(1945)の東京大空襲で焼失。昭和39(1964)に再建された。

今の大堂は、間口18間、奥行き19間半だから、加藤清正の大堂よりも規模は小さくなっている。

今の身延山久遠寺本堂の大きさは、間口17間半、奥行き28間ある巨大堂宇で、今の池上本門寺大堂よりも、身延山久遠寺本堂のほうが大きいが、加藤清正の大堂と比較すると、加藤清正の大堂のほうが面積は大きい。

こう考えると、加藤清正の大堂が、いかに大規模な堂宇だったかということである。

大堂3

 

ではなぜ、加藤清正がこれほど大きな大堂を池上本門寺に寄進したのか、ということになるが、戦国~江戸時代はじめに活躍した武将・加藤清正は、熱心な法華の信者だったということである。

池上本門寺には大堂の他、此経難事坂の石段も加藤清正の寄進。

没後には「清正公(せいしょうこう)」の名前で呼ばれ、人々の信仰を集めている。

かつて池上本門寺・大堂の付近に、加藤清正の銅像(清正公銅像)があった。これは、清正公三百遠忌を記念して、博多の日蓮銅像の制作で知られる竹内久一が制作し、第70世藤原日迦の代の明治45(1912)年に序幕開眼式が行われた。

しかしこの銅像は、第二次世界大戦で軍部に供出されてしまって、現存していない。「古写真集~撮された戦前の本門寺」には、明治・大正・昭和初期に撮影された加藤清正の銅像(清正公銅像)の写真が載っている。

 

同じく加藤清正が池上本門寺に寄進したのが、「此経難事坂」の石段。この石段は96段あり、名前は法華経宝塔品の「此経難事」にはじまる96文字の偈文による。

上り・下りを仕切る柵は、明治38(1893)年に横浜の鋼鉄商人・中原庄三郎が寄進したもの。

此経難持坂2
 

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■池上本門寺28(誤った日蓮本尊説)

 

□日蓮宗寺院祖師堂に祀られている日蓮祖師像は本尊として祀られているのではない

 

池上本門寺は、お会式に約30万人もの人が参詣するなど、東京都民にとっては、わりと身近な寺院であると言えます。しかしその一方で、まことに奥深さがある寺院でもあります。

池上本門寺の総門をくぐって此経難事坂とよばれる長い石段を登り、三門をくく゜ると、日蓮祖師像を祀る大堂につきあたります。

池上本門寺のお会式等、大きな法要はこの大堂で営まれることが多く、池上本門寺の参拝客も大堂に参拝し、賽銭箱にお賽銭を入れて帰る人が多い。

日蓮宗の大きな寺院に行くと、中心堂宇が二堂建てられていて、一堂には一塔両尊四士(ないしは釈迦如来像・釈迦・多宝如来像等)が祀られていて、もう一堂には日蓮祖師像が祀られている。

これは池上本門寺も同じになっている。

総門、三門からの参道の突き当たりに建っている大堂には、正応元年六月造立の日蓮祖師像が、板曼荼羅を背にして祀られている。

もう一堂は、大堂の奥にある「本殿」で、こちらには久遠実成の釈迦如来像をはじめとする両尊四士と日蓮像が祀られている。

では、日蓮宗寺院の場合、一塔両尊四士が祀られている堂宇と、日蓮祖師像が祀られている堂宇のどちらが本堂に該当するのか、ということになりますが、本堂に該当するのは、一塔両尊四士が祀られている堂宇のほうである。つまり本尊として祀っているのは両尊四士のほうで、日蓮祖師像は本尊として祀っているということではない。

御会式22大堂 


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■池上本門寺27(池上本門寺の本殿・御影堂・本尊3)

 

□池上本門寺の本尊・堂宇・本堂に関する池上本門寺僧侶の見解

 

日蓮宗の本尊、本堂、堂宇の問題というのは、外から見ていると、実にわかりにくい話しである。そこで、かつて私は、池上本門寺僧侶に、この点について質問をしたことがある。以下は、私の質問に対する池上本門寺僧侶の回答です。

 

僧「池上本門寺としての御本尊、お寺の御本尊は、お祖師様(日蓮)のお像ではなく、法華経如来寿量品の久遠実成の釈迦如来であり、池上本門寺では本殿に一尊四士としてお祀りしています」

僧「大堂にお祖師様(日蓮)のお像をお祀りしているのは、お寺の御本尊としてお祀りしているのではなく、あくまでも日蓮宗一門の宗祖として、末法に法華経を弘通された開祖として崇めて、お祀りしているということです」

僧「たしかに大堂にお祖師様(日蓮)のお像をお祀りしていますから、御本尊としてお祀りしているように見えますが、そうではありません。お堂にお祖師様(日蓮)のお像をお祀りすることと、御本尊としてお祀りすることは別個のことなのです。

例えば、浄土真宗のお寺に行くと、御影堂には親鸞聖人のお像をお祀りしていますね。あれはお寺の御本尊として崇めているのではなく、浄土真宗の開祖として崇めているわけです。

あれと同じ事です」

僧「だから池上本門寺の堂宇の中で『本堂』に該当する堂宇は、大堂ではなく、大堂の奥にある本殿ということになります。戦前は釈迦堂と呼ばれていたのですが、戦後再建した時に本殿と改名されました」

僧「大曼荼羅のことを大曼荼羅本尊とおよびするのは、あくまでも日蓮宗僧侶・信者の日々の信行の本尊として崇めている、ということです。ですから御本尊には違いありませんが、池上本門寺のお寺としての中心本尊ということではありません」

僧「日蓮宗の寺院では、通常は釈迦如来像をお祀りする堂宇と、お祖師様(日蓮)の像をお祀りする堂宇の二堂建てるのが正しいとされています。お寺の御本尊は、あくまでも久遠実成の釈尊像であり、これは共通しています。

池上本門寺では、戦前までは釈尊を祀るお堂とお祖師様(日蓮)を祀る大堂が並んで建っていました。戦前までは釈尊を祀るお堂を『釈迦堂』とよんでいました。しかし東京大空襲で釈迦堂も大堂も焼失してしまいましたが、お祖師様のお像は救出されました。戦後は先に大堂が再建され、その後に、大堂の奥に釈迦堂が本殿として再建されています」

池上初詣4本殿
 

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■池上本門寺26(池上本門寺の本殿2)

 

□日蓮宗寺院の堂宇の建て方と浄土真宗寺院の堂宇の建て方が実によく似ている

 

池上本門寺の本殿は、戦後、再興された堂宇で、戦前は、今の大堂の隣に釈迦堂が並んで建っていた。池上本門寺発刊の写真集「撮された戦前の本門寺」を見ると、大堂と釈迦堂が並んで建っている写真が掲載されている。

ちょうど今、霊宝殿が建っているあたりに釈迦堂が建てられていたと考えられる。

戦前の釈迦殿は、1710(宝永7)年の焼失後、1730(享保15)年に江戸幕府八代将軍・徳川吉宗の援助を得て再建。間口11間、奥行き10間で、扁額「釈迦殿」は、伏見宮親王の筆だった。

戦前の池上本門寺は、釈迦如来像と四菩薩像を祀る釈迦堂が、本堂に該当する堂宇だったのであり、この釈迦堂が1945(昭和20)年の東京大空襲で焼失したため、1969(昭和44)年に再建された堂宇が、今の本殿である。

池上初詣4本殿


だからあくまでも池上本門寺の大堂は、祖師像(日蓮像)を祀る堂宇で、日蓮宗寺院の祖師堂・御影堂に該当する堂宇である。

大堂3

 

日蓮宗寺院の場合、本山級の寺院に行くと日蓮祖師像を祀る祖師堂(御影堂)と釈迦如来像を祀る本堂(釈迦堂)が並んで建っている光景を目にする。実質的に中心堂宇が二つある、という言い方もできる。

面白いのは、こういう日蓮宗寺院の堂宇の建て方と浄土真宗寺院の堂宇の建て方が実によく似ているということ。

浄土真宗の本山級寺院に行くと、阿弥陀如来像を祀る阿弥陀堂と開祖・親鸞像を祀る御影堂の二堂が並んで建っている光景を目にする。浄土真宗は十派あるが、こういう堂宇の建て方は派を問わずに共通している。

浄土真宗でも御影堂で勤行や法要を行っているが、あくまでも寺院の本尊は阿弥陀如来像であり、本堂に該当する堂宇は阿弥陀堂。御影堂は、親鸞像を祀っているが、本尊として祀っているのではなく、あくまでも浄土真宗の開祖として祀っている。

では、日蓮宗は堂宇の建て方を浄土真宗の堂宇の建て方を模倣したのか、ということになるが、そこまでは言い切れないのではないか。

ただし、日蓮正宗大石寺で言う「唯授一人の血脈相承」なるものは、浄土真宗仏光寺派の「相承」を模倣したものである、という見解はかつて「アンチ日蓮正宗」に書いています。

□大石寺9世日有が浄土真宗仏光寺派から輸入した「唯授一人の血脈相承」

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/10720663.html

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/10721453.html

 

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■池上本門寺25(池上本門寺の本殿)

 

池上本門寺の「本堂」に該当する堂宇は、大堂ではなく、本殿である。

本殿は、戦後、再興された堂宇であり、戦前は「釈迦堂」という堂宇で、釈迦堂と大堂が二堂並んで建っていた。池上本門寺刊行の「古写真集~撮された戦前の本門寺」という題名の写真集にも、「釈迦堂(本堂)」として載っている。

すなわち、釈迦堂は池上本門寺の本尊である釈迦牟尼如来の仏像を祀っている堂宇だから、釈迦堂が本堂に該当することになる。

釈迦堂は、宝永7(1710)に火災焼失後、第25世日顗の代の享保15(1730)に徳川幕府8代将軍・吉宗の資助を得て再建された。堂宇の規模は間口11間、奥行き10間。

扁額「釈王殿」は、伏見宮親王の筆であったという。釈迦堂の前には、清正公銅像が建っていた。

この釈迦堂は、昭和20(1945)の東京大空襲で焼失。昭和44(1969)に、「本殿」として再建された。

「本殿」の意味は、池上本門寺の説明板によれば、「本師のおわします殿堂」という意味とのこと。

かつて釈迦堂があった場所には、平成15(2003)開館の霊寶殿と、移築された経蔵が建っている。

池上本門寺刊行の「古写真集~撮された戦前の本門寺」の写真によれば、戦前まで建っていた釈迦堂の内陣の宮殿には、久遠実成の釈迦牟尼如来像と四菩薩像が祀られていたという。

現在の本殿の内陣には、久遠実成の釈迦牟尼如来像と四菩薩像、そして日蓮祖師像が祀られている。

 

さて池上本門寺は、江戸時代から桜の名所だったようで、池上本門寺刊行の「古写真集~撮された戦前の本門寺」の写真によれば、大正812年ころの釈迦堂前や大堂前に、桜が咲き乱れている写真が載っている。

客殿、書院、玄関等を含めた本院は、池上本門寺の中枢で、鎌倉妙本寺と両山一首制だった貫首が、江戸時代のころから池上本門寺に常住するようになってから整備が行われてきた。

江戸時代の正徳年中(171116)に第23世日潤によって再建された本院は、明治34(1901)に焼失。その後、第68世久保田日亀、第70世藤原日迦貫首の代に再建が進められたが、昭和20(1945)の東京大空襲で焼失。

かつて本院があった場所に、釈迦堂が本殿として再建され、さらに昭和53(1978)には、本殿に隣接して、大客殿・本院寺務所が再建されている。

池上初詣4本殿
 

 

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■池上本門寺13(2011年・池上本門寺お会式紀行6)

 

さて、池上本門寺の法要でも、読経が終わると、次は唱題がはじまる。つまり「南無妙法蓮華経」(なむみょうほうれんげきょう)を反復的に繰り返し唱えるわけですが、内陣の左右両サイドに、大きな太鼓があり、若い僧侶が、それぞれ、唱題の声にあわせて、太鼓を叩いていた。

日蓮宗では、行道僧や万灯行列で、鼓を叩きながら唱題して歩くのは有名ですが、寺院の法要では、大きな太鼓がしつらえてあって、僧侶が太鼓を叩いていました。これは、日蓮宗の寺院における他の法要でも同じですねえ。もちろん太鼓を叩くのは、唱題の声をそろえるためなのでしょう。

ところで、南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)と唱える日蓮正宗の寺院の法要や勤行でも、唱題するときは、僧侶が太鼓を叩きます。住職しかいない寺院では、住職夫人や有力信者が太鼓を叩いていたのを見たこともある。太鼓を叩くのは、日蓮宗も日蓮正宗も共通している。

ただし太鼓を叩くのは共通していますが、太鼓を叩くフシ(音調)がちがっています。それでは「どうちがうのか説明せよ」と言われても、このちがいを文章で書くのは、むずかしい。

 

読経のとき、日蓮宗では僧侶が木魚を叩いて読経の声をそろえますが、日蓮正宗では、木魚という仏具を全く使いません。「では日蓮正宗では、どうやって読経の声をそろえるのか」というと、副導師がマイクを使って、僧侶・信者の読経をリードする、というやり方をする。

日蓮正宗の法要の読経では、導師のみが声を出す箇所がありますが、その時のためか、導師席にマイクがしつらえてあります。これは大石寺も末寺も同じ。

よって導師席にマイクがあり、さらに副導師席にも、信者の読経をリードするためのマイクがしつらえてあります。これは大石寺の正本堂、奉安殿、奉安堂、客殿、御影堂、広布坊などの諸堂宇、塔中から末寺に至るまで全て同じです。

 

池上本門寺の法要で、マイクを使うのは、注意事項や法要の説明をする、マイクの司会者のみで、それ以外は、全くマイクを使いません。池上本門寺大堂の大導師席や副導師席にも、マイクは備えつけられていません。

こういうふうに、仏教各宗派や各寺院の法要に出てみると、日蓮正宗寺院の法要や勤行の読経で、木魚を叩かない、というのは、まことに不思議に思えます。昔、マイクやスピーカーがなかった時代、読経の声を唱和させるのに、どうしていたのかということになるわけです。

昔は、勤行にしても法要にしても、ほんの少人数の僧侶のみが読経していただけだったから、木魚は必要なかった、ということだろうか。

 

今の大石寺は日興門流。池上本門寺は日朗門流。今の日蓮宗には、日昭門流、日朗門流、日向門流、中山門流の他、日興門流の一部、日什門流の一部等々が混在している。

日興門流と他門流が別れてから七百年以上が経過しているわけだが、それだけの長い年月が経過する中で、化儀・化法というものは、ずいぶんと相違がでてしまうものだと感じた。

大堂3
 

 

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■池上本門寺7(誰でも受けられる御開帳2)

 

私は、池上本門寺大堂の内陣の大前机のすぐ前に座ったわけですが、ここから日蓮祖師像がよく見えただけではありません。

その日蓮祖師像の真後ろに、日蓮の大曼荼羅本尊が祀られているのが、はっきりわかりました。

私が見た感じとしては、立正安国会の御本尊集81・臨滅度時本尊を板に模写彫刻したレプリカ板本尊のように思えました。

御開帳が終わった後、池上本門寺の僧侶に尋ねたところ、日蓮祖師像の後ろに祀られている大曼荼羅本尊は、板本尊であるということでした。

池上大堂・日蓮1


 

後で池上本門寺刊行本「霊寶殿」に載っている日蓮祖師像の写真をよく見ると、祖師像の真後ろに、レプリカ板本尊が写っているのに気づきました。しかしこれは、御開帳を受けるまで、気づきませんでした。

 

さて若い僧侶が大堂の御宮殿に上って、火打ち石?をカチカチ鳴らした後、御開帳の読経がスタート。御宮殿に上った若い僧侶がマイクを握って読経をはじめました。

私は読経はしませんでしたが、僧侶が法華経の方便品を読経しているのは、なんとなくわかりました。方便品の十如是が終わった後、おそらく如来寿量品の読経に入ったのだと思います。

すると、須弥壇の脇から別の若い僧侶が出てきて

「ご焼香をどうぞ」

と一声。私はずーっと正座をしていたのですが、すぐ前の大前机にあった焼香台に進み出て焼香。ちなみに読経していた僧侶は薄墨色の衣に鼠色の袈裟。焼香の案内に来た僧侶は、薄墨色の衣のみ。

読経が終わった後は、「なむみょうほうれんげきょう」の唱題。太鼓は叩きませんでした。

その唱題は、ものの1分もしないうちに終了。その後は、僧侶が日蓮の遺文(御書)を三つほど読み上げていました。

最後に「なむみょうほうれんげきょう」の題目(玄題)を三回唱えて終了。

 

御宮殿の上でマイクを握って読経をしていた僧侶が、須弥壇の宝前にあった「お札」を持ってきて、私に渡してくれました。

御開帳御札1
 

 

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■池上本門寺6(誰でも受けられる御開帳)

 

池上本門寺大堂でも、御開帳という儀式があります。

普通、御開帳というと、普段は須弥壇の扉が閉められていて、儀式・法要が行われる時のみ、扉が開けられるのを御開帳とか御開扉と呼びますが、池上本門寺・大堂の場合は、普段から須弥壇の扉は開けられたままになっています。

扉は開けられたままになっているとは言っても、大堂の内陣と外陣の境界には、網が張ってあって、正面の日蓮祖師像がよく見えないようになっています。

大堂正面入り口から入ってきた参拝客は、ここでお賽銭を入れ、お詣りをして帰るわけですが、御開帳というのは、内陣の中に入って、かなり至近距離から日蓮祖師像を拝することができるというわけです。

 

池上本門寺の僧侶に、御開帳の主旨を尋ねたところ

□御開帳は、日蓮宗の信者であるなしにかかわらず、池上本門寺参拝の人であれば、誰でも受けることが出来る

□御開帳を行う時刻は特に決まっておらず、申し込みがあった時点で、毎日10時~15時の間であれば、随時、受け付けている。

□申し込みが一人の場合でも、御開帳を行う

□御開帳の儀式そのものは約15分くらいで、僧侶の読経・焼香・唱題の後、お札が下附される

□御開帳料は3000円から

ということでした。

というわけで、大堂の日蓮祖師像を間近に見ることが出来るので、私も一度だけ、大堂の御開帳を受けたことがあります。

 

ただし、いつでも受け付けている、とは言っても、お会式や大きな法要がある日は、池上本門寺に大勢の参拝客が来るほか、どこかの寺院・教会・結社の団体参拝があり、団体参拝で池上本門寺に来た人たちの御開帳が行われているのを、よく見かけます。

こういう時は、大堂の中は、団体参拝の他に、大勢の一般参拝の人が詰めかけていて、個人や家族単位の御開帳を受けているどころではないように見受けられます。

私が御開帳を受けた日は日曜日でしたが、一般参拝の人はたくさんいましたが、堂内は法要がある日ほど、ごった返してはいませんでした。

大堂3
 

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■池上本門寺5(日蓮像の文化庁の見解2)

 

○「池上本門寺の日蓮聖人御尊像を鑑定するに当たって、炭素14年代測定法による測定ないしは鑑定が行われたのですか」

□係官「いいえ。炭素14年代測定法というのは、文化財の一部を取り出すものですから、文化財にキズをつけることになります。したがって文化庁は、炭素14年代測定法は採用しておりません」

 

○「日蓮聖人像というのは、全国各地の日蓮宗・法華宗などの日蓮を宗祖とする寺院に行くと、けっこうあっちこっちの寺院に祀られています。ひとつやふたつぐらいではありません。

そういう中で、池上本門寺の日蓮聖人像が国の重要文化財に指定されていて、他の寺院の日蓮聖人像は重要文化財に指定されていないという、この違いはどこにあるのですか」

□係官「日蓮聖人像の場合は、国宝・重要文化財のジャンルの中では、美術工芸品の指定ということになります。美術工芸品が重要文化財に指定されるかどうかのポイントとしては

(1)出来具合が良いものであるかどうか、ということ

(2)歴史的に古いものであるかどうか、ということ

(3)歴史的な意義があるかどうか、ということ

この三点になります。

(2)の歴史的に古いかどうか、ということは、例えば、江戸時代に製作された日蓮聖人像よりも鎌倉時代に製作された日蓮聖人像のほうが、重要文化財に指定される、ということになります。鎌倉時代のほうが古いわけですから」

 

○「歴史的に古いものということであれば、例えば静岡県富士宮市の北山本門寺・御影堂にある日蓮聖人像は、日蓮聖人在世の時代に造立されたものであると、北山本門寺は自称しています。

もしこれが本当だとしたら、北山本門寺の日蓮聖人像は、重要文化財に指定されている池上本門寺の日蓮聖人像よりも古い、ということになります。

では池上本門寺の日蓮聖人像よりも古い北山本門寺の日蓮聖人像が重要文化財に指定されていないのは、どうしてですか」

□係官「先程申しました、当方の専門の調査官による調査鑑定が行われているのかどうか、という点があります。製作年代が古い、ということが寺伝等で謳われておりましても、調査官の調査が済んでいなければ、重要文化財に指定されるということはありません」

 池上大堂・日蓮1

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■池上本門寺4(日蓮像の文化庁の見解1)

 

私は、池上本門寺・大堂(祖師堂)に祀られている日蓮祖師像(木像)が、国の重要文化財に指定されている事実は大変重いものがあると考えました。そこでこの詳細を確かめようと、東京・霞ヶ関の文部科学省にある文化庁に問い合わせをして、取材しました。

私の問い合わせに対して、文化庁の国宝・重要文化財指定の係官が応対し、話を聞くことができました。以下は、私と係官のやりとりの主要部分の抜粋です。

 

○「東京・池上の日蓮宗・池上本門寺の大堂に祀られている日蓮聖人御尊像が国の重要文化財に指定されている件について、詳しいことをお聞きしたい」

係官「はあ、そうですか」

 

○「池上本門寺が発行した『霊寶殿』という名の本によれば、この日蓮聖人御尊像が造立されたのが、正応元年(1288)になっており、日蓮聖人第七回忌の折りに六老僧の日持上人と中老・日浄上人が願主になったと書いてあります。

国がこの日蓮像を重要文化財として指定したということは、この「正応元年造立」ということを史実として公認した、ということで間違いないでしょうか。そのあたりの詳しい意味を教えて戴けませんか」

係官「重要文化財の指定にあたりましては、私どものほうで、専門の調査官がおりまして、事前に調査をしております。それから重要文化財指定の意味についてですが、文化財保護の網をかぶせると言うことです。

これは具体的に言いますと、まずは修理について国から補助金が出ること。

それともうひとつは、勝手に保存にあわない修理を行わせない、保存にあわない修理を禁止する、ということです。国の重要文化財指定は、文化財を後世にのこすという点が大きな主眼です」

 

○「ということは、重要文化財の指定は、あくまでも文化財保護のため、というもので、文化財そのものの真贋(本物かニセモノか)は、関係ないということですか」

係官「そういうわけではありません。お尋ねの池上本門寺の日蓮聖人像が重要文化財に指定されたのは、戦前の昭和3817日のことで、これは現在の文化財保護法によるものではなく、戦前の国宝保存法によるものです」

 池上大堂・日蓮1

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■池上本門寺3(文化財に贋作・偽作はないのか)

 

さて池上本門寺大堂の日蓮祖師像は、池上本門寺の公式見解では、日蓮七回忌の折りに造立されたとなっています。池上本門寺が刊行している正式文献「霊寶殿池上本門寺の御霊宝と文化遺産」によれば、日蓮・祖師像について、以下のように書いてあります。

 

「日蓮聖人御尊像  正応元年(1288) /重要文化財

 

日蓮聖人7回忌にあたり、六老僧の1人である日持聖人と日浄聖人が願主となって造立された等身大の坐像で、大堂に奉安されている。胎内には御真骨を収めた銅筒があり、その側面に

『弘安五年壬午十月十三日巳刻 御遷化/大別当 大国阿闍梨日朗/大施主 散位大仲臣宗仲』

他の刻名がある」

(「霊寶殿池上本門寺の御霊宝と文化遺産」p1)

 

注目すべき事は、この日蓮祖師像が国の重要文化財に指定されているということです。

国宝にしろ、重要文化財にしろ、正式に指定を受けるまでの過程に於いて、鑑定が行われているということです。ということは、少なくとも「贋作」が国宝や重要文化財に指定されると言うことは、あり得ないと言うことになります。

これと同じようなことが、国立博物館で行われる展示についても言えます。

贋作や偽作とされるものが、国立博物館で正式に展示されるということはあり得ません。贋作や偽作が「本物」として、国立博物館で展示されたら、それこそ大変です。下手をすれば、政府・文化庁の責任問題に発展しかねません。

 

国宝や重要文化財の指定に当たっては、文化審議会からの指定に関する諮問に至るまで、さまざまな調査・鑑定が行われている、ということですが、それならば

「文化財に指定されているものの中には、贋作や偽作がひとつもないのか」

という話になるわけです。

ここが微妙なところになるわけで、今回の池上本門寺・日蓮祖師像の他にも、文化財についていろいろ調査していく中で、いろいろなことがわかってきました。

文化財の中には、国で指定している文化財の他に、都道府県で指定している文化財、市区町村で指定している文化財もあります。都道府県の文化財や市区町村の文化財の中には、国が行っている調査・鑑定には、かなりほど遠い調査しか行っていないものもあるようです。

これについては、追々、書いていく予定ですが、今回の池上本門寺・日蓮祖師像は、国が指定している重要文化財ということですので、文化庁に問い合わせた、ということです。

 

文化庁1
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■池上本門寺2(国の重要文化財の祖師像)

 

池上本門寺で有名なのは、まず大堂に祀られている日蓮・祖師像です。この祖師像は、国の重要文化財に指定されています。

大堂の中にある説明書きには、次のようにあります。(大堂内は写真撮影禁止であるため、文章を書き出します)

 

「日蓮大聖人御尊像

日蓮大聖人第七回忌に当たる正応元年(1288)に造立されたもので、気魄に満ちた御顔は、ご生前の真容をよく伝え、肖像彫刻としても鎌倉時代の傑作の一つに挙げられている。像高二尺八寸三分の木彫寄木造り、ご胎内には御聖骨を納めた銅筒があり、右手には母君妙蓮尼の遺髪を加えて作られたものと伝えられる払子を、左手には紺紙金泥の法華経経巻を捧持。

昭和二十年四月の大空襲にも難を免れた御尊像は、永遠に格護されるべき人類の至宝である。

 

大堂

昭和二十年(1945)四月十五日の大空襲で、全山の堂宇五十余棟を焼失した本門寺は、全国檀信徒の寄付丹精によって、昭和三十九年に大堂を再建した。

日蓮大聖人御尊像を奉安する大堂は、鉄筋コンクリート造り本瓦葺、入母屋屋根、間口十八間、奥行十九間半、高さ九十三尺(30メートル)、屋根瓦枚数69849枚、のべ面積820坪、大堂は日蓮大聖人のご精神と七百年の歴史を伝える法華経御題目布教の道場である」

 

大堂内は写真撮影禁止であるため、大堂内にある「日蓮大聖人御尊像」「大堂」の説明書きは筆写しました。日蓮祖師像の写真は、「霊寶殿—池上本門寺の御霊宝と文化遺産」に載っている写真です。

大堂はかなり大きな建物で、間口十八間、奥行十九間半の広さは、日蓮宗寺院建築の中でも最大級の堂宇だと思います。

これより大きい建物というと、身延山久遠寺本堂が間口十七間半、奥行き二十八間あります。しかし、池上本門寺大堂より大きな堂宇というのは、日蓮宗では、そんなにはないと思います。

 御会式22大堂

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■池上本門寺1(宗務院・日蓮入滅の霊跡)

 

池上本門寺とは、住所でいうと東京都大田区池上一丁目、交通でいうと東急池上線池上駅から約10分ほどの所にあるする日蓮宗大本山の寺院。日蓮宗は祖山・身延山久遠寺を筆頭に、大本山が七ヶ寺ありますが、その七ヶ寺のひとつ。

正式名は長栄山本門寺と言いますが、古くより池上本門寺と呼ばれてきた寺院。

また日蓮宗・日蓮正宗・日蓮本宗・法華宗などの宗祖・日蓮が入滅した霊場として有名な所である。もともとは日蓮の信者であった池上宗仲の邸宅であった所である。池上邸のあった所は、現在、大坊本行寺となっています。

そして大本山ながら日蓮宗宗務院が置かれており、さらに日蓮宗機関紙「日蓮宗新聞社」がある寺院である。面白いのは、日蓮宗宗務院、日蓮宗新聞社が祖山であり、総本山である身延山久遠寺ではなく、池上本門寺に置かれていること。日蓮宗の管長は、身延山久遠寺法主と大本山貫首がランダムに就任しており、池上本門寺の酒井日慈現貫首も、以前は日蓮宗管長だったことがあります。(日蓮宗現管長は、内野日総・身延山久遠寺法主)

そして池上本門寺は、日蓮の祥月命日の法要である、毎年101113日に行われる「お会式」が有名である。

ここの「お会式」は3日にわたって行われ、特に1012日晩の御逮夜に繰り出される万灯練り行列には約30万人の参拝者が本門寺を訪れると言われている。確かに1012日夜は、この行列の影響で、池上通りも交通規制が敷かれるほどである。

万灯練り行列とは、この日の午後18時から、池上徳持会舘より本門寺までの約2キロにわたって百数十講中、総勢約三千人もの万灯練り行列が池上の町を練り歩くもの。この行列で、池上の町は、深夜までものすごい人出で賑わっている。

本門寺周辺には、賑々しいテキ屋の出店も立ち並んで、池上本門寺のお会式は、池上の町をあげての壮大なお祭という印象をもちました。

それにしても3日間で約30万人の参詣者があるのですから、驚きです。ここの御会式に行ったときの詳細については、後述します。

 

こういったようなことから、池上本門寺は大本山ながら、その地位は限りなく総本山に近いという言い方ができると思います。

私も、寺跡調査の他、霊寶殿の見学や初詣、御会式などの法要等、けっこう池上本門寺に来ています。霊寶殿は毎月1回、展示替えをしているので、展示替えがあるたびに、行くようにしています。私も東京に住んでいるので、地方にある寺院よりは、ここには来やすい、ということがあります。

大堂3
 

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