仏教宗学研究会のブログ

「仏教宗学研究会」とは会の名称。「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「仏教宗学研究会のブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

「仏教宗学研究会」とは「アンチ日蓮正宗」管理人が設立した会の名称。この会の中で、「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄。
「仏教宗学研究会のブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。富士門流執着軍団批判は「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄だが、「日蓮正宗系」以外の富士門流寺院の調査・研究は「仏教宗学研究会のブログ」の管轄。
「仏教宗学研究会」への誹謗中傷に対する反撃・糾弾は「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄。
さらに正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗」の公式サイト「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」から、カルト宗教対策、カルト宗教取締特別立法、カルト宗教拡散防止条約制定の活動部分を独立させたものが「国際カルト宗教対策委員会(Icat-Cult)」

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池上本門寺

池上本門寺(39)~大石寺常唱堂は池上本門寺常唱堂のパクリである可能性が高い

■池上本門寺39(大石寺常唱堂は池上本門寺常唱堂のパクリ)

 

□自然に参詣者が多くなり常に題目を唱える道場として知られるようになった池上本門寺常唱堂

 

池上本門寺の仁王門をくぐったすぐ左側の子院に「日朝堂」という堂宇がある。日朝堂は、身延山久遠寺第11世・行学院日朝を祀る堂宇。別名を「常唱堂」と言い、堂宇入り口には「常唱堂」と書かれた額が掲げられている。常唱堂とか題目堂と呼ばれ、須弥壇には大曼荼羅本尊と行学院日朝像を祀っている。現在の日朝堂は昭和48(1973)年に再建されたもの。

日朝堂2












池上本門寺刊行の古写真集「撮された戦前の本門寺」によれば、もともと池上本門寺の日朝堂は、池上本門寺第22世日玄が元禄年間(1688-1704)に創立。戦前まであった日朝堂は、寛保年間(1741-43)に加藤甲斐守納泰の寄進によって建立されたもの。第二次世界大戦の焼失の後、昭和48(1973)年に再建された。

一方、池上本門寺の寺伝によれば、日朝堂の縁起は次のようになっている。

 

日朝は1422(応永29)年、伊豆宇佐美で誕生。8才で出家。行学修行を積み重ね、苦修練行、昼夜精進行を行った。41才のとき、身延山久遠寺第11世法主となり、今の身延山隆昌の基を築いた。

関東の布教では新寺40余ヶ寺を建立した。

61才の時、永年にわたる止暇断眠の苦行と教化精進の過労から両眼失明の厄にあったが、それを自らの不徳として、ますます懺悔精進したところ、眼病が全快したという。

61才のとき、眼病消滅の本尊を書写。教化と著述七百余巻に専念。1500(明応9)年、79才で遷化した。池上本門寺では日朝の徳を讃え、日朝像を祀ったところ、日を追って参詣者が多くなり、常に題目を唱える道場として知られるようになった。

日朝堂5 











これが常唱堂とよばれる縁由とのこと。

この縁由によれば、元禄年間(1688-1704)の日朝堂創建以前から、池上本門寺で日朝像を祀っていたことが、窺われるが確定的なことは言えない。日朝堂創建で、日朝像を祀った、というようにも読める。

日朝堂7 

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池上本門寺(36)~日本プロレスの祖・力道山の墓がある池上本門寺

■池上本門寺36(日本プロレスの祖・力道山の墓)

 

池上本門寺の墓苑の中には、日本プロレスの祖である力道山の墓があります。

力道山墓6


力道山とは、今さら言うまでもなく、大相撲の力士出身で第二次世界大戦終了後に日本のプロレス界の礎を築き、日本プロレス界の父と呼ばれている人物。当時始まったプロレスのテレビ放送もあり絶大な人気があったスーパースター。

力道山墓4

 

力道山の墓に参拝する人は、かなりたくさんいるようで、墓苑の中には案内板が立てられていました。

力道山墓1


墓は綺麗に整備され、墓碑が新しくなっていました。

力道山墓3


池上本門寺には、著名人の墓がいくつかありますが、その代表格がこれです。

 力道山墓2

 

池上本門寺(35)~日蓮廟所ではなく日蓮祖師像胎内に収蔵されている池上本門寺・日蓮真骨

■池上本門寺35(日蓮廟所)

 

□室町時代の応仁元年(1467)頃に造立された池上本門寺日蓮廟所の石塔

 

池上本門寺本殿の奥には、日蓮の廟所がある。

日蓮廟所4


廟所というと、身延山久遠寺の御真骨堂のように、日蓮の真骨を収蔵し祀っているのか、と思うが、池上本門寺・日蓮廟所の立て看板を見ても、ここに日蓮の真骨が納められている、という文は書いてない。日蓮廟所の立て看板には、次のように書いてある。

「中央廟屋内に宗祖日蓮聖人(弘安51282〕年1013日御遷化)、左廟屋内に第二祖日朗聖人(元応元年〔1319〕正月21日御遷化)、右廟屋内に第三祖日輪聖人(延文41359〕年44日御遷化)の墓塔をお奉りしています。

なかでも、日朗聖人墓塔は室町時代の応仁元年(1467)頃に第8世日調聖人によって造立されたと考えられる古い石塔です。形は日蓮宗に特有の宝塔で、高さ1.6m(失われている反花座を補うと1.9m)の大きなものです。塔身の正面には一塔両尊(南無妙法蓮華経、南無釈迦牟尼仏、南無多宝如来)を、基礎の背面には日朗聖人の没年や造立願主の名が刻まれています。石材は伊豆石(安山岩)です。この型式の宝塔は、室町時代に南関東の日蓮宗寺院において多く造立されましたが、日朗聖人塔はその中でも特に大きいものとして注目されます。信仰的、歴史的な重要性から大田区の文化財にも指定されています」

日蓮廟所1

 

つまり廟屋の中に石塔型式の墓塔がある、ということです。というより、元々、石塔型式の墓塔が建てられていて、これを後年に建てられた廟屋で覆われている、ということのようです。

ということは、ここには日蓮の真骨・灰骨はないものと思われます。

では池上本門寺に日蓮の真骨・灰骨はないのかというと、そうではない。大堂に祀られている日蓮祖師像の胎内に、日蓮の灰骨が収蔵されている。

大堂の中にある説明書きには、次のようにあります。(大堂内は写真撮影禁止であるため、文章を書き出します)

「日蓮大聖人御尊像

日蓮大聖人第七回忌に当たる正応元年(1288)に造立されたもので、気魄に満ちた御顔は、ご生前の真容をよく伝え、肖像彫刻としても鎌倉時代の傑作の一つに挙げられている。像高二尺八寸三分の木彫寄木造り、ご胎内には御聖骨を納めた銅筒があり、右手には母君妙蓮尼の遺髪を加えて作られたものと伝えられる払子を、左手には紺紙金泥の法華経経巻を捧持。

昭和二十年四月の大空襲にも難を免れた御尊像は、永遠に格護されるべき人類の至宝である。」

 

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池上本門寺(34)~僧侶教育の学校・南谷檀林が置かれていた池上本門寺照栄院2

■池上本門寺34(南谷檀林・照栄院2)

 

□池上本門寺照栄院に板頭寮のみが残る南谷檀林

 

池上本門寺塔中・照栄院は、江戸時代は南谷檀林が置かれていた子院。そうすると多くの学僧が修学していたわけですから、かなり大きな塔頭なのかな、と思ってしまうのですが、現在の照栄院の堂宇の大きさは、池上本門寺の他の塔頭の堂宇の大きさと、大差はない。

これは一見して不思議に思えます。今の堂宇に、多くの学僧が修学していた南谷檀林があったとは思えない。

ところが、この謎を解明するヒントが、照栄院前にある大田区教育委員会の立て看板「南谷檀林『板頭寮』遺構」に書いてありました。そこには、こんなことが書いてある。

 

「大田区文化財 南谷檀林『板頭寮』遺構 (非公開)

南谷檀林は、池上本門寺に付属する僧侶の学校として、元禄期(16881704)に、本門寺の南方(寺窪、南窪と称せられる地)に開創された。

『新編武蔵風土記稿』によれば、檀林は、講堂、方丈、玄寮、板頭寮、首座寮、所化寮、談合場、食堂、妙見堂等の施設を備えていた。

現存している建物は、檀林の事務所に当たる『板頭寮』で、板頭(事務経営の長)の居室でもあったとされる。江戸後期の天保7(1836)、池上山内の木を用いて建てられたと伝えられる。

当院の庫裡(寺の台所、居室)、書院として利用されてきたため、増改築が行われているが、屋根は昭和50(1975)、保護のため銅板で覆う工事が行われるまで、茅葺きであった。

昭和50319日指定  大田区教育委員会」

南谷檀林6

 

これによれば、南谷檀林は、本門寺の南方、寺窪、南窪と称せられる地に開創されたとある。

現存しているのは、『板頭寮』のみ。かつては講堂、方丈、玄寮、板頭寮、首座寮、所化寮、談合場、食堂、妙見堂等の施設を備えていたというから、かなり大規模な檀林だったことが、うかがえる。

ではなぜ、講堂、方丈、玄寮、首座寮、所化寮、談合場、食堂等の施設がなくなってしまったのか。もっとも檀林が廃止になって学僧が来なくなれば、檀林の堂宇も必然的に消滅してしまう運命にあるのかもしれないが、檀林の施設が今日に遺っていないというのは、残念なことである。

今の照栄院は、江戸時代の南谷檀林の面影はほとんど残っていない。

照栄院4
 

 

 

池上本門寺(33)~僧侶教育の学校・南谷檀林が置かれていた池上本門寺照栄院

■池上本門寺33(南谷檀林・照栄院)

 

□江戸時代にはたくさんの日蓮宗学僧が出入りしていた池上本門寺南谷檀林

 

池上本門寺の塔頭子院の中で、私が注目したのは照栄院。ここは呑川の川沿いにあります。

照栄院という塔頭は、元々は日蓮六老僧・池上本門寺二祖・日朗の草庵だったところで、日朗入滅後に衰退。これが江戸時代に入って再興し、僧侶の学校である南谷檀林が置かれ、これが明治維新までつづいた。照栄院の境内には、こんな立て札が建てられています。

「照栄院

縁起

正応4(1291)、日朗聖人の庵室として開創。日朗聖人没後、荒廃したが、嘉吉年間(14411444)に再興された。元禄2(1689)、南谷檀林という僧侶教育の学校を開設。明治2(1869)に廃されるまで、多くの高僧を送り出した。本門寺の役寺としての三院家の一。山上の妙見堂に祀られている妙見菩薩立像は寛文4(1664)、加藤清正の娘・瑶林院が夫の紀州徳川頼宣の現世安穏後生善処を祈念して奉納したもの」

 

檀林というのは、中世から仏教各宗派でつくっていた僧侶教育の学校のことで、日蓮宗系の檀林も、安土桃山時代ぐらいから建ちはじめ、江戸時代に檀林の隆盛期を迎える。

江戸時代のころにあった日蓮宗系の檀林とは、以下のようになっている。

 

□飯高檀林  千葉県匝瑳市飯高 日蓮宗 飯高寺 立正大学発祥の地

□小西檀林  千葉県千葉県山武郡大網白里町 日蓮宗 正法寺

□中村檀林  千葉県香取郡多古町 日蓮宗 日本寺

□野呂檀林  千葉県千葉市若林区野呂 日蓮宗 妙興寺

□玉造檀林  千葉県香取郡多古町 日蓮宗 蓮華寺

□三昧堂檀林  茨城県常陸太田市 日蓮宗 久昌寺

□南谷檀林  東京都大田区池上 日蓮宗大本山 池上本門寺照栄院

□西谷檀林  山梨県南巨摩郡身延町身延 日蓮宗総本山 身延山久遠寺

□松ヶ崎檀林  京都府京都市左京区松ヶ崎堀町 日蓮宗 涌泉寺

□求法檀林  京都府京都市山科区御陵大岩 日蓮宗大本山 本圀寺

□東山檀林  京都府京都市左京区岡崎東福ノ川町 日蓮宗 善正寺

□鷹峯檀林  京都府京都市北区鷹峯北鷹峯町 日蓮宗 常照寺

□山科檀林  京都府京都市山科区竹鼻竹ノ街道町 日蓮宗 護国寺

□鶏冠井檀林  京都府向日市鶏冠井町御屋敷  日蓮宗 北真経寺

照栄院3


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