仏教宗学研究会のブログ

「仏教宗学研究会」とは会の名称。「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「仏教宗学研究会のブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

「仏教宗学研究会」とは「アンチ日蓮正宗」管理人が設立した会の名称。この会の中で、「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄。
「仏教宗学研究会のブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。富士門流執着軍団批判は「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄だが、「日蓮正宗系」以外の富士門流寺院の調査・研究は「仏教宗学研究会のブログ」の管轄。
「仏教宗学研究会」への誹謗中傷に対する反撃・糾弾は「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄。
さらに正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗」の公式サイト「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」から、カルト宗教対策、カルト宗教取締特別立法、カルト宗教拡散防止条約制定の活動部分を独立させたものが「国際カルト宗教対策委員会(Icat-Cult)」

□正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗」(アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ)
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仏教・仏舎利・宗祖真骨・廟・墓・供養塔

高野山金剛峯寺(6)~835年に弘法大師空海が入定した真言宗の聖地・高野山奥の院・弘法大師御廟・灯籠堂

■高野山金剛峯寺6(20145月の高野山旅紀行6)

 

835年に弘法大師空海が入定した真言宗の聖地・高野山奥の院・弘法大師御廟・灯籠堂

 

高野山奥之院の参道を延々と歩いて行くと、一番奥にあるのが弘法大師空海御廟と灯籠堂である。一の橋が弘法大師空海御廟の入り口になり、その橋の先が、弘法大師空海がおわします霊地になっている。奥之院は壇上伽藍と並んで高野山二大霊場のひとつになっている。高野山・奥之院(おくのいん)とは、高野山の信仰の中心であり、弘法大師空海が入定した聖地であることから、正式には一の橋から参拝するしきたりになっている。一の橋から御廟まで約2キロメートルの道のりには、おおよそ20万基を超える諸大名の墓石や、祈念碑、慰霊碑の数々が樹齢千年に及ぶ杉木立の中に立ち並んでいます。弘法大師空海が、奥之院参詣者を一の橋まで送り迎えをするという伝承があるため、橋の前で一礼してから、足を踏み入れるのが、しきたりになっている。

弘法大師空海は62歳の時、座禅を組み、手には大日如来の印を組んだまま禅定に入ったと伝承される。921(延喜21)年、醍醐天皇が空海に「弘法大師」の諡号を贈った際に、東寺長者・観賢が高野山に登り、奥之院の廟窟を開いたところ、禅定に入ったままの空海と対面。その姿は、生前の空海と変わりなく生き生きとしていたとの伝説から、弘法大師空海は、今も奥之院に生き続けているという「入定伝説」が生まれたという。弘法大師空海は、今も高野山奥の院で生きていると信じている人もいる。弘法大師空海の死を、「死去」「入寂」「寂滅」「入滅」「遷化」などといわず「入定」という。御廟橋から灯籠堂を見ていると、たくさんの参拝人が、橋を渡り、灯籠堂に入って行くのが見える。また灯籠堂、弘法大師御廟の参拝を終えて、灯籠堂から出てくる人の数も多い。広大な高野山金剛峯寺のエリアの中では、この奥の院が最も参拝人の数が多いように思う。奥の院で特に目立ったのが、団体参拝のグループを数十組以上、見かけた。お遍路さんの巡礼グループも多数参拝に来ているのを見かけた。お遍路さんとは、四国にある空海(弘法大師)ゆかりの88か所の寺院・四国八十八箇所を巡ることを「遍路」と言い、地元の人々は四国八十八箇所を巡る巡礼者を「お遍路さん」と呼ぶ。高野山金剛峯寺の広大なエリアには、四国遍路の巨大看板もあった。

奥の院では、日本人の団体参拝客を多く見かけたのだったが、逆に壇上伽藍や千手院橋、旧青厳寺の金剛峯寺等で多く見かけた外国人観光客は、奥の院ではほとんど見かけなかった。もちろん奥の院も、世界遺産エリアに入っているのだが、外国人観光客は弘法大師空海には、あまり関心がないのだろうか。御廟橋から先のエリアは、弘法大師空海入定の聖地ということで、参拝人は写真撮影禁止だと言う。しかしあたりを見渡しても、写真撮影禁止の立て看板がどこにも見あたらない。奥の院の中にある弘法大師御廟で、写真撮影していた観光客がいたが、団体参拝に来ていた参拝人が、「ここは写真撮影禁止ですよ」と、かなり強い口調で叱りつけていた。写真撮影禁止の立て看板はないが、御廟橋から先の弘法大師御廟・灯籠堂のエリアは、写真撮影禁止だと、高野山の慣習でそうなっているのだろうか。

 

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真宗・興正寺(1)~興正寺が蔵する親鸞遺骨が他寺からの分骨であることを認めている興正寺発行の小冊子

■真宗・興正寺1(仏光寺・西本願寺から独立)

 

□もともとは真宗仏光寺と同一で仏光寺から分離→西本願寺→西本願寺から独立した興正寺

 

真宗・興正寺とは、浄土真宗興正派の本山で、場所は浄土真宗本願寺派本山・龍谷山本願寺(西本願寺)に隣接している。だからここには、西本願寺を訪問・参拝したのちに、すぐに訪問・参拝できる。西本願寺の寺域・伽藍があまりにも巨大であるため、興正寺は西本願寺の塔中子院のように見えてしまうのだが、独立した興正派の本山である。正式名は円頓山興正寺という。

浄土真宗興正派とは、真宗教団連合をつくる浄土真宗十派のひとつ。浄土真宗には、十派以外にもさまざまな分派があり、全ての宗派が真宗教団連合に加入しているわけではない。

2013年度版・宗教年鑑で信徒数を調べてみると、浄土真宗本願寺派(本山・西本願寺)が約780万人、真宗大谷派(本山・真宗本廟・東本願寺)が約323万人、真宗高田派(本山・高田専修寺)が約223000人。真宗仏光寺派は約48000人。真宗木辺派(本山・錦織寺)が約46000人。真宗興正派(本山・興正寺)が約35000人。真宗出雲路派が約11000人。真宗誠照寺派が約13000人。真宗三門徒派が約14000人。真宗山元派が約1600人。親鸞頂骨を格蔵していると伝承する新潟県高田市浄興寺を本山とする真宗・浄興寺派が約17000人である。

門徒(信徒)数で言うと、東西本願寺派、高田派、仏光寺派、木辺派に次ぐ数になっている。

興正寺に関する資料・書籍も極端に少なく、興正寺の縁由・歴史についても、定説はなく、さまざまな説がある。これは室町・戦国時代の戦乱で、古文書の多くが焼失してしまったためではないかと考えられる。そこで興正寺の歴史の説については、PHP新書「京都の寺社505を歩く・上・洛東・洛北・洛中編」(山折哲雄監修・槇野修著)から引用してみたい。

正中元年(1324)に了源が山科に一宇を建立。それを大谷廟堂の覚如が興正寺と名付ける。そののち、山科から汁谷(今の京都・渋谷通り・しぶたに)に移り、寺号を仏光寺としたとする説。

もうひとつは、建暦2(1212)に流罪地の越後から京都に戻った親鸞が山科に一宇を建て、順徳天皇から「興隆正法寺」の寺号を拝受。勅願寺になった。それが略して興正寺になったという説。

文明年間(14691487)に、仏光寺第14世経豪は、当時の仏光寺が天台宗妙法院と近かった関係を嫌い、本願寺8世蓮如に帰依して、同士の僧侶らと仏光寺を抜け、興正寺の旧地である京都・山科に寺院を建立。旧名の興正寺を継承した。蓮如は経豪に蓮教の僧名を授与した。

仏光寺から分離した興正寺は、天文法華の乱で一時、大坂に移るが、天正19(1591)に本願寺の京都移転にあわせて、今の地に移転する。本願寺の東西分立以降は、西本願寺に属していたが、宗論の違いから西本願寺と袂を分かち、明治9(1876)に西本願寺から独立した。

よって現在の興正寺は、もともとは仏光寺であり、仏光寺から分離した後は、西本願寺に属した。明治になって西本願寺から分離・独立したという歴史を辿っている。

 

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真宗・仏光寺本廟(1)~浄土真宗仏光寺派本山・仏光寺の親鸞御廟である仏光寺本廟

■真宗・仏光寺本廟1(仏光寺の親鸞御廟)

 

□仏光寺本廟の親鸞御廟に入っている親鸞遺骨とは高田・浄興寺から分骨されたものなのか

 

真宗大谷派本山・真宗本廟・東本願寺の親鸞廟が大谷祖廟・東大谷、真宗本願寺派本山・西本願寺の親鸞廟が大谷本廟・西大谷であるが、浄土真宗仏光寺派の本山である仏光寺にも親鸞御廟がある。それが京都東山にある仏光寺本廟である。仏光寺本廟も東大谷、西大谷と同じく京都東山にあり、三門もどことなく、東大谷、西大谷の三門とよく似ている。境内の中には、本堂、寺務所、親鸞御廟、一般墓地があるが、そんなに広いという印象はない。

この仏光寺本廟は、私が京都・寺跡調査旅行で宿泊したウエスティン都ホテルの数軒となりにある。仏光寺本廟の南側には、青蓮院、知恩院、円山公園、大谷祖廟・東大谷がある。私もウエスティン都ホテルから徒歩で京都市内の寺跡調査に出るときに、偶然、ここを見つけて入った。

仏光寺本廟の親鸞御廟は、拝殿はなく、石造りの御廟があるだけ。この仏光寺本廟の親鸞遺骨は、どこから来たものなのか。新潟県・高田の浄興寺の話しによれば、仏光寺や高田専修寺にも浄興寺から親鸞頂骨を分骨しているのだという。であるならば、ここ仏光寺本廟の親鸞御廟に入っている親鸞遺骨とは、浄興寺から分骨されたものなのか。ただし、浄興寺は東本願寺、西本願寺、興正寺からの分骨礼状を格蔵していて、宝物殿で公開しているが、仏光寺、高田専修寺からの分骨礼状はなかった。

いろいろ聞いてみようと寺務所に入るが、誰もいない。そのうち、仏間から数人の門徒らしき人が出てきて、そそくさと靴を履いて寺務所から出て行った。そのうち、受付に寺務員の女性が出てきて、いろいろ話しをしたが、この女性、ずいぶんと愛想がいい女性でした。

本廟5





















本廟3





















本廟1



































 

(仏光寺本廟三門)

御廟2





















御廟3



































 

(御廟)

本堂1




















 

(本堂)

寺務所1




















 

(寺務所)

 

 

大谷本廟・西大谷(2)~石山戦争等からして浄興寺から西本願寺への親鸞頂骨の分骨説がまことに説得力が高い

■大谷本廟・西大谷2(親鸞真骨2)

 

□石山戦争等からして浄興寺から西本願寺への親鸞頂骨の分骨説がまことに説得力が高い

 

西本願寺を本山とする真宗本願寺派の親鸞廟所が大谷本廟・西大谷であるが、親鸞遺骨の行方を追っていく中で、本願寺の基となった大谷廟堂とその後の大谷本廟成立の歴史は、まことに興味深いものがある。浄土真宗本願寺派・本願寺出版社が出している冊子「本願寺グラフ」には、「本願寺の歴史」と題する次の文が載っている。

「もともと本願寺は、親鸞聖人の廟堂から発展した。親鸞聖人が弘長2(1263)年に90才で往生されると、京都東山の鳥辺野の北、大谷に石塔を建て、遺骨を納めた。しかし聖人の墓所はきわめて簡素なものであったため、晩年の聖人の身辺の世話をされた末娘の覚信尼さまや、聖人の遺徳を慕う東国の門弟たちは、寂寞の感を深めた。そこで10年後の文永9(1272)年に、大谷の西、吉水の北にある地に関東の門弟の協力をえて、六角の廟堂を建て、ここに親鸞聖人の影像を安置し遺骨を移した。これが大谷廟堂である。この大谷廟堂は、覚信尼さまが敷地を寄進したものであったので、覚信尼さまが廟堂の守護をする留守職につき、以後、覚信尼さまの子孫が門弟の了承を得て就任することになった」(冊子「本願寺グラフ」p6)

つまり本願寺の基は、親鸞の遺骨を納めた大谷廟堂だということで、その留守職に大谷廟堂を寄進した覚信尼の子孫(つまり親鸞の子孫)が就任することになり、これが今の本願寺門主(宗主)ということになる。これは西本願寺門主・東本願寺門首も親鸞・覚信尼の子孫である。

ところがこれと異なる見解が本山浄興寺発刊の写真集「歓喜勇躍山浄興寺」の中に載っている、盛岡大学長・元上越教育大学長・上越市史編集委員長の加藤章氏が「浄興寺小史」と題する論文である。加藤章氏は次のように書いている。

「親鸞は、しばらくこの地で布教し、貞永元年(1232)ごろ、京都に帰るにあたり、弟子の善性にその跡を譲った…」「浄興寺の宗教的権威を支えるものは、まず本寺(浄興寺)が宗祖親鸞の浄土真宗開教の道場であること。さらに最も崇敬される宗祖の頂骨を護持しつづけてきたことがあげられる。」(浄興寺発刊の写真集「歓喜勇躍山浄興寺」p2223)

浄興寺の寺伝によれば、浄土真宗の宗祖・親鸞は90才にて京都で遷化(死去)。京都・東山の鳥辺山墓地で荼毘に付されて葬られた。しかし親鸞の頂骨と遺品は、親鸞二十四弟子の一人、善性に相伝され、善性が護持してきたと伝承する。その善性に随って親鸞の頂骨と遺品は、京都から稲田草庵へ、さらに長野へ、そして高田の浄興寺に至るというわけである。

さてもうひとつ、親鸞に関する興味深い研究・論説がある。それは井沢元彦氏の著書「逆説の日本史」である。井沢元彦氏の著書「逆説の日本史」8巻から、井沢元彦氏の親鸞に関する興味深い研究・論説親鸞に関する研究・論説の要旨を引用してみたい。

 

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大谷本廟・西大谷(1)~鳥辺山の親鸞「御荼毘所」とは離れた所に建っている真宗本願寺派の親鸞廟所・西大谷

■大谷本廟・西大谷1(御荼毘所・親鸞真骨)

 

□鳥辺山の親鸞「御荼毘所」とは離れた所に建っている真宗本願寺派の親鸞廟所・西大谷

 

真宗本廟・東本願寺を本山とする真宗大谷派の親鸞廟所を大谷祖廟・東大谷と言うのに対して、西本願寺を本山とする真宗本願寺派の親鸞廟所を大谷本廟・西大谷と言う。東大谷も西大谷もどちらも京都・東山にある。東大谷が東にあり、西大谷が西にあるというわけではない。これは大谷祖廟は、東本願寺(真宗本廟)の親鸞廟であるから東大谷、大谷本廟は西本願寺の親鸞廟であるから西大谷と呼ばれているものと思われる。西大谷は、室町時代のころから共同墓地で有名な鳥辺山にある。この鳥辺山は、大石寺・要法寺・保田妙本寺三祖日目の墓所がある日蓮本宗(要法寺門流)實報寺がある、あの鳥辺山である。

大谷本廟・西大谷の三門は、京都・東山五条の交差点脇にある。JR京都駅から東山五条までは、徒歩で行けないこともないが、私はここに行くときは、バスかタクシーを利用する。西大谷の境内は、東大谷と比べてかなり広く、親鸞廟所の拝殿もきちんと整備されている。真宗本願寺派の門徒数は約780万人。寺院・教会・布教所数は10369。教師(僧侶)数は19465。これだけ大規模な宗門であるので、それだけ参詣者も多いということだろうか、親鸞廟所も念入りに整備されているのが印象的。西大谷・親鸞廟所の後方には、広大な門徒(信徒)の墓地が広がっている。このあたりは上古の時代から、鳥辺山墓地とよばれた所である。

実は親鸞が火葬・荼毘に付されたのがここ京都・鳥辺山なのである。親鸞は90才で京都鳥辺山の延年寺で火葬され、荼毘に付されたと本願寺の寺伝では、伝承している。親鸞が荼毘に付された所を、真宗本願寺派では「御荼毘所」と呼んでいて、「御荼毘所」は京都・鳥辺山に今も残る。鳥辺山の中にあるのだが、大谷本廟・西大谷と同一所ではなく、離れた飛び地になっているところが面白い。しかもその飛び地に行くには、同じく鳥辺山にある大石寺・要法寺・保田妙本寺三祖日目の墓所がある日蓮本宗(要法寺門流)實報寺の墓地の中を通って行かないと、行けないのである。

 

□明治維新の時に京都市からの廃寺命令でとっくに廃寺になって消滅していた鳥辺山・延年寺

 

現在、鳥辺山ないしは鳥辺山近辺には、鳥辺山墓地が存在するが、それは實報寺墓地、西大谷墓地、ないしはその近辺にある寺院の墓地であって、延年寺ないしは延仁寺という名の寺院は存在しない。鳥辺山の山道をどんどん登っていくと、「延年寺旧跡墓地」という名の墓地があるが、鳥辺山に延年寺という名の寺院は存在しない。「延年寺旧跡墓地」には、別の管理者がいる。そこで

「延年寺旧跡墓地」管理者(鈴木花店)にお話を伺ってみると、延年寺という寺院は、今日、存在していないという。「いつなくなったのですか」と質問すると、「延年寺は明治維新のときに、なくなりました」との回答。「廃仏毀釈でなくなったのですか」と質問すると、「いいえ、そうではありません。京都市のほうから、廃寺命令が出て、なくなりました」との回答でした。

 

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