一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ

「一般社団法人 仏教宗学研究会」とは任意団体として2005年から活動している会の名称。2018年5月に一般社団法人登記。当ブログ名を「仏教宗学研究会のブログ」から「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」に改名。 「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

Category: 仏教・仏舎利・宗祖真骨・廟・墓・供養塔

■高野山金剛峯寺6(20145月の高野山旅紀行6)

 

835年に弘法大師空海が入定した真言宗の聖地・高野山奥の院・弘法大師御廟・灯籠堂

 

高野山奥之院の参道を延々と歩いて行くと、一番奥にあるのが弘法大師空海御廟と灯籠堂である。一の橋が弘法大師空海御廟の入り口になり、その橋の先が、弘法大師空海がおわします霊地になっている。奥之院は壇上伽藍と並んで高野山二大霊場のひとつになっている。高野山・奥之院(おくのいん)とは、高野山の信仰の中心であり、弘法大師空海が入定した聖地であることから、正式には一の橋から参拝するしきたりになっている。一の橋から御廟まで約2キロメートルの道のりには、おおよそ20万基を超える諸大名の墓石や、祈念碑、慰霊碑の数々が樹齢千年に及ぶ杉木立の中に立ち並んでいます。弘法大師空海が、奥之院参詣者を一の橋まで送り迎えをするという伝承があるため、橋の前で一礼してから、足を踏み入れるのが、しきたりになっている。

弘法大師空海は62歳の時、座禅を組み、手には大日如来の印を組んだまま禅定に入ったと伝承される。921(延喜21)年、醍醐天皇が空海に「弘法大師」の諡号を贈った際に、東寺長者・観賢が高野山に登り、奥之院の廟窟を開いたところ、禅定に入ったままの空海と対面。その姿は、生前の空海と変わりなく生き生きとしていたとの伝説から、弘法大師空海は、今も奥之院に生き続けているという「入定伝説」が生まれたという。弘法大師空海は、今も高野山奥の院で生きていると信じている人もいる。弘法大師空海の死を、「死去」「入寂」「寂滅」「入滅」「遷化」などといわず「入定」という。御廟橋から灯籠堂を見ていると、たくさんの参拝人が、橋を渡り、灯籠堂に入って行くのが見える。また灯籠堂、弘法大師御廟の参拝を終えて、灯籠堂から出てくる人の数も多い。広大な高野山金剛峯寺のエリアの中では、この奥の院が最も参拝人の数が多いように思う。奥の院で特に目立ったのが、団体参拝のグループを数十組以上、見かけた。お遍路さんの巡礼グループも多数参拝に来ているのを見かけた。お遍路さんとは、四国にある空海(弘法大師)ゆかりの88か所の寺院・四国八十八箇所を巡ることを「遍路」と言い、地元の人々は四国八十八箇所を巡る巡礼者を「お遍路さん」と呼ぶ。高野山金剛峯寺の広大なエリアには、四国遍路の巨大看板もあった。

奥の院では、日本人の団体参拝客を多く見かけたのだったが、逆に壇上伽藍や千手院橋、旧青厳寺の金剛峯寺等で多く見かけた外国人観光客は、奥の院ではほとんど見かけなかった。もちろん奥の院も、世界遺産エリアに入っているのだが、外国人観光客は弘法大師空海には、あまり関心がないのだろうか。御廟橋から先のエリアは、弘法大師空海入定の聖地ということで、参拝人は写真撮影禁止だと言う。しかしあたりを見渡しても、写真撮影禁止の立て看板がどこにも見あたらない。奥の院の中にある弘法大師御廟で、写真撮影していた観光客がいたが、団体参拝に来ていた参拝人が、「ここは写真撮影禁止ですよ」と、かなり強い口調で叱りつけていた。写真撮影禁止の立て看板はないが、御廟橋から先の弘法大師御廟・灯籠堂のエリアは、写真撮影禁止だと、高野山の慣習でそうなっているのだろうか。

 

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■真宗・興正寺1(仏光寺・西本願寺から独立)

 

□もともとは真宗仏光寺と同一で仏光寺から分離→西本願寺→西本願寺から独立した興正寺

 

真宗・興正寺とは、浄土真宗興正派の本山で、場所は浄土真宗本願寺派本山・龍谷山本願寺(西本願寺)に隣接している。だからここには、西本願寺を訪問・参拝したのちに、すぐに訪問・参拝できる。西本願寺の寺域・伽藍があまりにも巨大であるため、興正寺は西本願寺の塔中子院のように見えてしまうのだが、独立した興正派の本山である。正式名は円頓山興正寺という。

浄土真宗興正派とは、真宗教団連合をつくる浄土真宗十派のひとつ。浄土真宗には、十派以外にもさまざまな分派があり、全ての宗派が真宗教団連合に加入しているわけではない。

2013年度版・宗教年鑑で信徒数を調べてみると、浄土真宗本願寺派(本山・西本願寺)が約780万人、真宗大谷派(本山・真宗本廟・東本願寺)が約323万人、真宗高田派(本山・高田専修寺)が約223000人。真宗仏光寺派は約48000人。真宗木辺派(本山・錦織寺)が約46000人。真宗興正派(本山・興正寺)が約35000人。真宗出雲路派が約11000人。真宗誠照寺派が約13000人。真宗三門徒派が約14000人。真宗山元派が約1600人。親鸞頂骨を格蔵していると伝承する新潟県高田市浄興寺を本山とする真宗・浄興寺派が約17000人である。

門徒(信徒)数で言うと、東西本願寺派、高田派、仏光寺派、木辺派に次ぐ数になっている。

興正寺に関する資料・書籍も極端に少なく、興正寺の縁由・歴史についても、定説はなく、さまざまな説がある。これは室町・戦国時代の戦乱で、古文書の多くが焼失してしまったためではないかと考えられる。そこで興正寺の歴史の説については、PHP新書「京都の寺社505を歩く・上・洛東・洛北・洛中編」(山折哲雄監修・槇野修著)から引用してみたい。

正中元年(1324)に了源が山科に一宇を建立。それを大谷廟堂の覚如が興正寺と名付ける。そののち、山科から汁谷(今の京都・渋谷通り・しぶたに)に移り、寺号を仏光寺としたとする説。

もうひとつは、建暦2(1212)に流罪地の越後から京都に戻った親鸞が山科に一宇を建て、順徳天皇から「興隆正法寺」の寺号を拝受。勅願寺になった。それが略して興正寺になったという説。

文明年間(14691487)に、仏光寺第14世経豪は、当時の仏光寺が天台宗妙法院と近かった関係を嫌い、本願寺8世蓮如に帰依して、同士の僧侶らと仏光寺を抜け、興正寺の旧地である京都・山科に寺院を建立。旧名の興正寺を継承した。蓮如は経豪に蓮教の僧名を授与した。

仏光寺から分離した興正寺は、天文法華の乱で一時、大坂に移るが、天正19(1591)に本願寺の京都移転にあわせて、今の地に移転する。本願寺の東西分立以降は、西本願寺に属していたが、宗論の違いから西本願寺と袂を分かち、明治9(1876)に西本願寺から独立した。

よって現在の興正寺は、もともとは仏光寺であり、仏光寺から分離した後は、西本願寺に属した。明治になって西本願寺から分離・独立したという歴史を辿っている。

 

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■真宗・仏光寺本廟1(仏光寺の親鸞御廟)

 

□仏光寺本廟の親鸞御廟に入っている親鸞遺骨とは高田・浄興寺から分骨されたものなのか

 

真宗大谷派本山・真宗本廟・東本願寺の親鸞廟が大谷祖廟・東大谷、真宗本願寺派本山・西本願寺の親鸞廟が大谷本廟・西大谷であるが、浄土真宗仏光寺派の本山である仏光寺にも親鸞御廟がある。それが京都東山にある仏光寺本廟である。仏光寺本廟も東大谷、西大谷と同じく京都東山にあり、三門もどことなく、東大谷、西大谷の三門とよく似ている。境内の中には、本堂、寺務所、親鸞御廟、一般墓地があるが、そんなに広いという印象はない。

この仏光寺本廟は、私が京都・寺跡調査旅行で宿泊したウエスティン都ホテルの数軒となりにある。仏光寺本廟の南側には、青蓮院、知恩院、円山公園、大谷祖廟・東大谷がある。私もウエスティン都ホテルから徒歩で京都市内の寺跡調査に出るときに、偶然、ここを見つけて入った。

仏光寺本廟の親鸞御廟は、拝殿はなく、石造りの御廟があるだけ。この仏光寺本廟の親鸞遺骨は、どこから来たものなのか。新潟県・高田の浄興寺の話しによれば、仏光寺や高田専修寺にも浄興寺から親鸞頂骨を分骨しているのだという。であるならば、ここ仏光寺本廟の親鸞御廟に入っている親鸞遺骨とは、浄興寺から分骨されたものなのか。ただし、浄興寺は東本願寺、西本願寺、興正寺からの分骨礼状を格蔵していて、宝物殿で公開しているが、仏光寺、高田専修寺からの分骨礼状はなかった。

いろいろ聞いてみようと寺務所に入るが、誰もいない。そのうち、仏間から数人の門徒らしき人が出てきて、そそくさと靴を履いて寺務所から出て行った。そのうち、受付に寺務員の女性が出てきて、いろいろ話しをしたが、この女性、ずいぶんと愛想がいい女性でした。

本廟5





















本廟3





















本廟1



































 

(仏光寺本廟三門)

御廟2





















御廟3



































 

(御廟)

本堂1




















 

(本堂)

寺務所1




















 

(寺務所)

 

 

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■大谷本廟・西大谷2(親鸞真骨2)

 

□石山戦争等からして浄興寺から西本願寺への親鸞頂骨の分骨説がまことに説得力が高い

 

西本願寺を本山とする真宗本願寺派の親鸞廟所が大谷本廟・西大谷であるが、親鸞遺骨の行方を追っていく中で、本願寺の基となった大谷廟堂とその後の大谷本廟成立の歴史は、まことに興味深いものがある。浄土真宗本願寺派・本願寺出版社が出している冊子「本願寺グラフ」には、「本願寺の歴史」と題する次の文が載っている。

「もともと本願寺は、親鸞聖人の廟堂から発展した。親鸞聖人が弘長2(1263)年に90才で往生されると、京都東山の鳥辺野の北、大谷に石塔を建て、遺骨を納めた。しかし聖人の墓所はきわめて簡素なものであったため、晩年の聖人の身辺の世話をされた末娘の覚信尼さまや、聖人の遺徳を慕う東国の門弟たちは、寂寞の感を深めた。そこで10年後の文永9(1272)年に、大谷の西、吉水の北にある地に関東の門弟の協力をえて、六角の廟堂を建て、ここに親鸞聖人の影像を安置し遺骨を移した。これが大谷廟堂である。この大谷廟堂は、覚信尼さまが敷地を寄進したものであったので、覚信尼さまが廟堂の守護をする留守職につき、以後、覚信尼さまの子孫が門弟の了承を得て就任することになった」(冊子「本願寺グラフ」p6)

つまり本願寺の基は、親鸞の遺骨を納めた大谷廟堂だということで、その留守職に大谷廟堂を寄進した覚信尼の子孫(つまり親鸞の子孫)が就任することになり、これが今の本願寺門主(宗主)ということになる。これは西本願寺門主・東本願寺門首も親鸞・覚信尼の子孫である。

ところがこれと異なる見解が本山浄興寺発刊の写真集「歓喜勇躍山浄興寺」の中に載っている、盛岡大学長・元上越教育大学長・上越市史編集委員長の加藤章氏が「浄興寺小史」と題する論文である。加藤章氏は次のように書いている。

「親鸞は、しばらくこの地で布教し、貞永元年(1232)ごろ、京都に帰るにあたり、弟子の善性にその跡を譲った…」「浄興寺の宗教的権威を支えるものは、まず本寺(浄興寺)が宗祖親鸞の浄土真宗開教の道場であること。さらに最も崇敬される宗祖の頂骨を護持しつづけてきたことがあげられる。」(浄興寺発刊の写真集「歓喜勇躍山浄興寺」p2223)

浄興寺の寺伝によれば、浄土真宗の宗祖・親鸞は90才にて京都で遷化(死去)。京都・東山の鳥辺山墓地で荼毘に付されて葬られた。しかし親鸞の頂骨と遺品は、親鸞二十四弟子の一人、善性に相伝され、善性が護持してきたと伝承する。その善性に随って親鸞の頂骨と遺品は、京都から稲田草庵へ、さらに長野へ、そして高田の浄興寺に至るというわけである。

さてもうひとつ、親鸞に関する興味深い研究・論説がある。それは井沢元彦氏の著書「逆説の日本史」である。井沢元彦氏の著書「逆説の日本史」8巻から、井沢元彦氏の親鸞に関する興味深い研究・論説親鸞に関する研究・論説の要旨を引用してみたい。

 

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■大谷本廟・西大谷1(御荼毘所・親鸞真骨)

 

□鳥辺山の親鸞「御荼毘所」とは離れた所に建っている真宗本願寺派の親鸞廟所・西大谷

 

真宗本廟・東本願寺を本山とする真宗大谷派の親鸞廟所を大谷祖廟・東大谷と言うのに対して、西本願寺を本山とする真宗本願寺派の親鸞廟所を大谷本廟・西大谷と言う。東大谷も西大谷もどちらも京都・東山にある。東大谷が東にあり、西大谷が西にあるというわけではない。これは大谷祖廟は、東本願寺(真宗本廟)の親鸞廟であるから東大谷、大谷本廟は西本願寺の親鸞廟であるから西大谷と呼ばれているものと思われる。西大谷は、室町時代のころから共同墓地で有名な鳥辺山にある。この鳥辺山は、大石寺・要法寺・保田妙本寺三祖日目の墓所がある日蓮本宗(要法寺門流)實報寺がある、あの鳥辺山である。

大谷本廟・西大谷の三門は、京都・東山五条の交差点脇にある。JR京都駅から東山五条までは、徒歩で行けないこともないが、私はここに行くときは、バスかタクシーを利用する。西大谷の境内は、東大谷と比べてかなり広く、親鸞廟所の拝殿もきちんと整備されている。真宗本願寺派の門徒数は約780万人。寺院・教会・布教所数は10369。教師(僧侶)数は19465。これだけ大規模な宗門であるので、それだけ参詣者も多いということだろうか、親鸞廟所も念入りに整備されているのが印象的。西大谷・親鸞廟所の後方には、広大な門徒(信徒)の墓地が広がっている。このあたりは上古の時代から、鳥辺山墓地とよばれた所である。

実は親鸞が火葬・荼毘に付されたのがここ京都・鳥辺山なのである。親鸞は90才で京都鳥辺山の延年寺で火葬され、荼毘に付されたと本願寺の寺伝では、伝承している。親鸞が荼毘に付された所を、真宗本願寺派では「御荼毘所」と呼んでいて、「御荼毘所」は京都・鳥辺山に今も残る。鳥辺山の中にあるのだが、大谷本廟・西大谷と同一所ではなく、離れた飛び地になっているところが面白い。しかもその飛び地に行くには、同じく鳥辺山にある大石寺・要法寺・保田妙本寺三祖日目の墓所がある日蓮本宗(要法寺門流)實報寺の墓地の中を通って行かないと、行けないのである。

 

□明治維新の時に京都市からの廃寺命令でとっくに廃寺になって消滅していた鳥辺山・延年寺

 

現在、鳥辺山ないしは鳥辺山近辺には、鳥辺山墓地が存在するが、それは實報寺墓地、西大谷墓地、ないしはその近辺にある寺院の墓地であって、延年寺ないしは延仁寺という名の寺院は存在しない。鳥辺山の山道をどんどん登っていくと、「延年寺旧跡墓地」という名の墓地があるが、鳥辺山に延年寺という名の寺院は存在しない。「延年寺旧跡墓地」には、別の管理者がいる。そこで

「延年寺旧跡墓地」管理者(鈴木花店)にお話を伺ってみると、延年寺という寺院は、今日、存在していないという。「いつなくなったのですか」と質問すると、「延年寺は明治維新のときに、なくなりました」との回答。「廃仏毀釈でなくなったのですか」と質問すると、「いいえ、そうではありません。京都市のほうから、廃寺命令が出て、なくなりました」との回答でした。

 

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■大谷祖廟・東大谷2(親鸞頂骨の分骨)

 

□浄興寺から東西本願寺への親鸞頂骨の分骨を史実と認めている盛岡大学長・加藤章氏論文

 

本堂の参拝を終えた後、階段を登って親鸞御廟へ。ここにもたくさんの人が参拝に来て、拝所で焼香をしている。賽銭箱のそばに焼香台があり、焼香ができるようになっている。私も焼香していると、本堂から僧侶が出仕してきて、御廟で読経がはじまった。本願寺とは、もともとは宗祖・親鸞の廟所から発展したもので、廟所は親鸞の代々の子孫の世襲になり、本願寺の起源になった。

しかし本願寺は、最初から今のような巨大教団だったわけではなく、本願寺教団を全国規模に拡大したのは、中興の祖・蓮如である。親鸞廟所が歳月を経るにしたがって本願寺に発展したということは、浄土真宗にとって、親鸞廟所は宗教的権威の源泉と言うべきものと言えよう。

ただし盛岡大学長・元上越教育大学長・上越市史編集委員長の加藤章氏は、本山浄興寺発刊の写真集「歓喜勇躍山浄興寺」の中の「浄興寺小史」と題する論文で、真宗本廟・東本願寺が所蔵する親鸞遺骨は、浄興寺から東本願寺へ分骨されたものであると、史実として書いている。

「浄興寺の宗教的権威を支えるものは、まず本寺(浄興寺)が宗祖親鸞の浄土真宗開教の道場であること。さらに最も崇敬される宗祖の頂骨を護持しつづけてきたことがあげられる。それに対し、親鸞の没後十年を経た文永9(1272)、浄興寺から48年おくれて本願寺が創建された。したがって、もともと本願寺と浄興寺の間には、本寺末寺の関係はなかったのである。しかし宗祖を同じくする同派であり、とかも宗祖親鸞の頂骨を浄興寺が安置することから、両寺の交流は深く、また真宗教団の発展に協力して貢献する歴史を有している。とくに本願寺の蓮如の宗門再興をかけて活躍した際や、顕如が大坂石山本願寺を拠点に織田信長と戦った石山合戦前後などは、浄興寺も積極的な援助を行っている」(浄興寺発刊の写真集「歓喜勇躍山浄興寺」p2223)

「その後、慶長7(1602)、本願寺が東西両派に分裂したことを契機に、浄興寺は十六世教善のとき、門末をあげて東本願寺を支持し、深い関係をもつに至った。東本願寺は、浄興寺をして客分一門として遇し、十六世教善、十七世宣性、十八世琢性の三代にわたって、()本願寺門主の息女を室に迎え、(東本願寺)門主の「猶子」として(東本願寺)門主の連枝と同等の待遇を受けている。また歴代の(浄興寺)住職は、修学をはじめ宗務のためにしばしば京都に赴き、本願寺との交流も深かった。このような近世初頭における本願寺との関係の中で注目すべきは、それまで宗祖の頂骨を独占してきた浄興寺の特権が、万治3(1660)、婚姻関係を理由に本願寺側からの強い要望に応えて、宗祖の頂骨および本願寺三世覚如以降、7人の門主の遺骨を分与したことである。そのことによって、本願寺は寛文10(1670)、東大谷本廟を創立し、名実ともに本山の条件を整えるに至った。」(浄興寺発刊の写真集「歓喜勇躍山浄興寺」p24)

東本願寺礼状1
















 

(東本願寺から浄興寺に宛てた分骨の礼状・浄興寺発刊の写真集「歓喜勇躍山浄興寺」)

浄興寺9




















 

(浄興寺・親鸞頂骨拝殿)

写真集・浄興寺1














































 

(浄興寺発刊の写真集「歓喜勇躍山浄興寺」)

 

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■大谷祖廟・東大谷1(門徒墓所・布施金額)

 

□親鸞廟所を中心に浄土真宗大谷派門徒の墓地・東大谷墓地が広がる大谷祖廟・東大谷

 

大谷祖廟とは真宗本廟・東本願寺を本山とする浄土真宗大谷派の親鸞墓所である。浄土真宗本山は、東本願寺、西本願寺、仏光寺、興正寺、高田専修寺、浄興寺等がそれぞれ親鸞廟を造り、それぞれが「親鸞真骨を祀る」と称している。東本願寺(真宗本廟)の親鸞廟が京都東山の大谷祖廟(東大谷)。西本願寺の親鸞廟が京都・鳥辺山の大谷本廟(西大谷)。仏光寺の親鸞廟が京都東山の仏光寺本廟である。そしてどの親鸞廟のまわりにも、それぞれの門徒の墓地が広がっている。大谷祖廟の通称名を東大谷といい、大谷本廟の通称名を西大谷と言うが、東大谷も西大谷もどちらも京都・東山にある。東大谷が東にあり、西大谷が西にあるというわけではない。これは大谷祖廟は、東本願寺(真宗本廟)の親鸞廟であるから東大谷、大谷本廟は西本願寺の親鸞廟であるから西大谷と呼ばれているものと思われる。大谷祖廟(東大谷)は、京都・東山の知恩院、円山公園等の並びにある。長い石畳の参道を歩いて総門から中に入っていくと、本堂、庫裡、大谷祖廟事務所、北門、茶室、太鼓堂、南門、鐘楼、拝所、御廟、東大谷墓地、東大谷墓地事務所等がある。御廟というのが、親鸞廟で大谷祖廟(東大谷)の高台にそびえ立っている。東大谷墓地とは、浄土真宗大谷派門徒の墓所である。門徒の墓所があるからだと思うが、私が大谷祖廟(東大谷)を訪ねた日も、たくさんの人が参拝に来ており、大谷祖廟事務所の中にある休息所も満員。

東大谷墓地を見ると、たくさんの人が墓参に来ている。浄土真宗では、他宗派とちがって御朱印もなければ、追善供養もない。塔婆も立てなければ位牌もないし、祈祷もしない。もちろん護摩祈祷もなければ、護摩も焚かない。では葬儀や法事はやらないのかというと、そうではなく、葬儀、法事、年回忌はちゃんと行う。葬儀、法事では寺院住職が出仕して読経、正信偈を読む。参列者は焼香もする。浄土真宗大谷派の場合、焼香は他宗派とちがって、香をつまんで、香炉に入れて燃やすだけ。つまんだ香を額で一回止めることはしない。又、故人に戒名(法名)も付ける。浄土真宗大谷派の場合も、末寺住職を通じて本山・東本願寺門首に願い出て、東本願寺門首が戒名(法名)を下賜する。東本願寺門首とは、宗祖・親鸞の世襲制。末寺住職も基本的に世襲制である。東本願寺門首は、江戸時代に本願寺が東と西に分かれたときの東本願寺開祖・13代教如の子孫である。

東本願寺門首は、かつては「法主」とよばれ、専政君主に近い権限を有していたが、いわゆる昭和の「お東さん紛争」による内部改革で、政治的実権を持たない象徴的な「門首」になった。

さて大谷祖廟事務所の中に入ってみると、「墓地お経5000円、本堂お経7000円、永代経5万円」と書いた掲示があった。ここには浄土真宗大谷派門徒の墓地が広がっているので、墓所で僧侶が読経したり、永代経等の儀式が執行される。

 

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■真宗・浄興寺3(東西本願寺への親鸞頂骨の分骨)

 

□浄土真宗の宗祖・親鸞の頂骨を格蔵すると伝承する浄土真宗浄興寺派本山・浄興寺2

 

私がはじめて新潟県高田市の浄土真宗浄興寺派本山・浄興寺を訪ねたのは、寒い真冬。高田の地には、こんこんと雪が降り積もっている。JR高田駅の近隣に、仏教寺院が林立する「寺町」があり、浄興寺はその「寺町」の中にある。高田駅前から歩いて行ける距離にあるのだが、行きは駅前で客待ちをしていたタクシーに乗って浄興寺へ。「本山浄興寺」の額が掲げられている山門をくぐると、本堂に向かって参道が伸び、参道の両側には塔頭寺院・子院が建ち並ぶ。境内には、本堂、親鸞御廟、宝物殿、庫裡、聖徳太子堂などの堂宇が建ち並ぶが、積雪のためか、全て雪囲いがしてある。冬になると、高田の地は相当な積雪に見舞われてしまうようです。境内の堂宇をよく見ると「親鸞聖人御真廟」「太子堂」等々の立て看板が立てられている他、浄興寺境内図や浄興寺の歴史を記した案内板も建てられている。寺院の参拝者から見ると、かなり親切な造りになっている。私は浄土真宗の本山寺院をいくつも訪ね歩いていますが、こういった参詣者に対して、わかりやすい案内板や立て看板を整備している寺院をいくつか見かけます。

まずは浄興寺本堂に参拝しようと、雪囲いがしてある本堂へ。本堂入り口階段前のお賽銭箱にお賽銭を入れて合掌。本堂の戸を開けようとしたが、入り口の戸が全てカギがかかっていて閉めきられている。本堂から親鸞御真廟、さらに宝物殿へと渡り廊下で繋がっているが、全て雪囲いがしてあって、戸は閉め切り。私も子どもの頃、真冬になると1メートル級の積雪がある地域で育ったが、昔からの家には、雪囲いがしてある家がよくあった。高度成長時代以降に新築された新しい家には、雪囲いがある家はあまり見られなくなったが、積雪が多い富山県地方に行くと、新築の家でも雪囲いがある家を見かける。北陸では石川県より富山県、富山県よりも新潟県のほうが積雪が多い。富山県でも五箇山などの山間部に行くと、雪囲いをしてある家をよく見かけます。私が浄興寺を訪れた日の積雪は、数十センチくらいでしたが、何せ浄興寺がある新潟県高田市とは、日本でも有数の豪雪地帯で有名な所である。

私は浄興寺の話を聞こうと庫裡を訪ねた。すると門主夫人が応対に出られた。この方、全く物おじせず、しっかりと私のほうを向いて、私の質問にも、ひとつひとつはっきりと明快にお答えくださった。私が「仏教宗学研究会主宰・仏教宗学研究会のブログ主筆」の名刺を見せて、お話を伺うと、門主夫人の話は、浄興寺が上古の昔から、親鸞の頂骨や遺品を格蔵してきた寺院であること、そして浄興寺から東本願寺、西本願寺、興正寺へ、さらに仏光寺、高田専修寺等々まで、親鸞の頂骨を分骨してきていることを語っておられる。ここが浄興寺の大きなポイントでありますね。私はインターネットで東本願寺、西本願寺、興正寺から浄興寺に宛てた分骨の礼状が格蔵されていると聞いてきたので、宝物殿の中を拝観させてもらえませんかと尋ねると、普段は宝物殿は閉め切っているが、拝観の申し込みがあった場合は、開館しているとの御返事であった。

 

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■真宗・浄興寺2(東西本願寺への親鸞頂骨の分骨)

 

□浄興寺から東西本願寺への親鸞頂骨の分骨を史実と認めている盛岡大学長・加藤章氏論文

 

親鸞の頂骨を格蔵してきた浄興寺が東本願寺、西本願寺、興正寺に親鸞頂骨を分骨してきていることは、単なる浄興寺の寺伝によるものではない。20045月、本山浄興寺発刊の写真集「歓喜勇躍山浄興寺」の中に、盛岡大学長・元上越教育大学長・上越市史編集委員長の加藤章氏が「浄興寺小史」と題する論文を寄せている。その中でこう書いている。

(親鸞は)京都から越後国国府(新潟県上越市)に流され、越後にて七年ほど配流の生活を送ったが、流罪赦免ののちも京都に戻らず、上野、武蔵をまわって建保2(1214)常陸国笠間郡稲田郷(茨城県笠間市)に移住し、その拠点は稲田禅坊とよばれた。そこで農民や下層武士を主とする民衆に布教するとともに、自ら信仰を深めつつ『教行信証』を著した。本寺(浄興寺)の成立は、この『教行信証』の成立した元仁元年(1224)、浄土真宗の創始と同時ということになる。親鸞は、しばらくこの地で布教し、貞永元年(1232)ごろ、京都に帰るにあたり、弟子の善性にその跡を譲った…

鎌倉幕府は、皇系である善性に寺領として信濃国水内郡太田庄長沼(長野県長野市)に三千貫文を与えたが、弘長三年(1263)、戦火により稲田浄興寺が焼失した際、下総国(茨城県)稲敷山さらに磯部村をへて、この長沼に移った。(文永4年、1267)。長沼の浄興寺はその後、三百年ほどつづき、永禄4(1561)、十三世(浄興寺)住職の周円のとき、川中島合戦の兵火を受けて炎上した。寺伝では、十六世紀末、上杉景勝(一説に謙信)の招きによって春日山城下に寺地を与えられ、堂宇が建立されたとされている。上杉景勝が会津転封の後、入封した堀が福島城を築いたので、十五世善芸のとき、浄興寺も福島城下に移った。その後、松平忠輝が入封し、慶長19(1614)、高田城を築いたため、浄興寺も城下に移ったが、寛文5(1665)の大地震で堂宇は破壊焼失した。十八世琢性は、延宝6(1678)に、再建計画をたて、江戸および周辺十ヶ村において浄興寺寺宝の御開帳を行い、再建資金を集め、翌、延宝7年に現在の本堂が建築された。この本堂は、平成元年、重要文化財に指定された。…」

「浄興寺の宗教的権威を支えるものは、まず本寺(浄興寺)が宗祖親鸞の浄土真宗開教の道場であること。さらに最も崇敬される宗祖の頂骨を護持しつづけてきたことがあげられる。それに対し、親鸞の没後十年を経た文永9(1272)、浄興寺から48年おくれて本願寺が創建された。したがって、もともと本願寺と浄興寺の間には、本寺末寺の関係はなかったのである。しかし宗祖を同じくする同派であり、とかも宗祖親鸞の頂骨を浄興寺が安置することから、両寺の交流は深く、また真宗教団の発展に協力して貢献する歴史を有している。とくに本願寺の蓮如の宗門再興をかけて活躍した際や、顕如が大坂石山本願寺を拠点に織田信長と戦った石山合戦前後などは、浄興寺も積極的な援助を行っている」(浄興寺発刊の写真集「歓喜勇躍山浄興寺」p2223)

 

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■真宗・浄興寺1(親鸞の頂骨)

 

□浄土真宗の宗祖・親鸞の頂骨を格蔵すると伝承する浄土真宗浄興寺派本山・浄興寺

 

浄土真宗・高田浄興寺とは、新潟県高田市にある浄土真宗浄興寺派本山。讃文には「本山浄興寺」の額が掲げられている。正式名は歓喜勇躍山浄興寺で、浄興寺という寺号も浄土真宗興行寺の略名である。浄土真宗は浄土真宗本願寺派 、真宗大谷派、真宗高田派、真宗佛光寺派、真宗興正派、真宗木辺派、真宗出雲路派、真宗誠照寺派、真宗三門徒派、真宗山元派の十派が有名で、この十派は真宗教団連合をつくる。浄土真宗には真宗教団連合に加盟するむ十派以外にも、数多くの分派があり、その中のひとつが浄土真宗浄興寺派で、ここは真宗教団連合には加盟していない。もともと浄興寺は、真宗大谷派の別格寺院であったが、昭和27年(1952年)の宗教法人法の施行により真宗大谷派から独立したことによって成立した宗派である。

浄興寺はJR高田駅から歩いて行けるくらいの距離にある。高田駅とは、新潟県上越市のターミナル駅である直江津駅からJR信越線・長野方面行きの各駅停車の電車に乗って二つ目の駅。東京から電車を利用して高田に行くには、二つのルートがある。ひとつは東京から長野新幹線を利用し、長野駅で新幹線からJR信越線に乗り換えて高田へ行くルート。もうひとつは、東京から上越新幹線に乗って越後湯沢で下車。そこから特急はくたか号・金沢行きに乗り換えて直江津で下車。直江津でJR信越線各駅停車に乗り換えて高田に行くルートである。東京からの所用時間は、どちらのルートを使っても、そんなに大差はない。ただし土日祝日、ゴールデンウィーク、旧盆、年末年始の繁忙期になると、上越新幹線~特急はくたか号のルートは、指定席・自由席ともに満席になってしまうことがよくある。しかし長野新幹線のほうは、繁忙期でも全列車満席とは、あまり聞いたことがない。だから信越線の長野行き列車は、長野から新幹線に乗り換える乗客でごった返すことがある。しかし2015年春、北陸新幹線が金沢まで開業する予定になっており、これによって特急はくたか号は廃止され、現在のJR信越線・脇野田駅近辺に北陸新幹線・上越妙高駅が開業する。ここが乗り換え駅になる。よって2015年春以降は、東京からは北陸新幹線で上越妙高駅にて下車し、ここで各駅停車に乗り換えるルート一本だけになる。

高田は冬になると、かなりの積雪がある豪雪地帯にある。浄興寺も冬に参詣すると、本堂、真骨拝殿、宝物殿、庫裡等には雪囲いがしてある。冬は積雪がものすごいため、寺院の行事はほとんど行われておらず、本堂も戸が閉め切られている。寺院の行寺は、春から秋にかけて行われる。

ではなぜ浄興寺を訪れたのか。それは浄興寺が古来から浄土真宗の宗祖・親鸞の真骨(頂骨・頭蓋の中央にある左右一対のたいらな四角形の骨。頭頂骨)を格蔵してきたと伝承する寺院であるからである。

 

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■京都知恩院3(法然御廟)

 

□法然の弟子・源智が大谷廟堂を修理し法然の真骨を納めて建立した知恩院の法然御廟

 

知恩院には、法然御影像を祀る御影堂の他に、本尊である阿弥陀仏像を祀る阿弥陀堂がある。浄土真宗本山に行くと阿弥陀仏を祀る阿弥陀堂と親鸞御影像を祀る御影堂の二堂が中心堂宇として並んで建っているが、知恩院も阿弥陀堂と御影堂の二堂が中心堂宇として建っている。

御影堂のちょうど向かい側に泰平亭という名の売店・休息所がある。ここにたくさんの参拝人が入っている。売店で知恩院のグラビア写真集を買ったら、売店の女性が何と私に合掌礼。これには、びっくりしてしまいました。

さて「平成の大修理」工事中の御影堂の東側から経蔵を通って法然御廟へと足を運んだ。御廟に行くには、長い石段を登って行かなくてはならない。長い石段を登った突き当たりを左に曲がると、知恩院最古の堂宇・勢至堂がある。ここは法然終焉の地である大谷禅房の旧跡で、1530(享禄3)年の再建。御影堂ができる前は、この勢至堂が知恩院の中心堂宇だった。法然の幼名・勢至丸ゆかりの勢至菩薩像を祀る。この勢至堂がある所からさらに石段を登って、もう一段上の地に行くと、そこに法然御廟がある。ここに浄土宗元祖・法然の遺骨が納められている。

参詣人が立ち入ることが出来るのは法然御廟の手前に建てられている拝殿まで。拝殿でお賽銭を入れて参拝。御廟も拝殿も実に質素な造りになっている。

曹洞宗大本山永平寺にある道元禅師御廟の拝殿は「承陽殿」という大きな堂宇になっているし、日蓮宗総本山・身延山久遠寺の日蓮御真骨堂の拝殿も大きな堂宇である。大谷本廟(西大谷)の親鸞廟の拝殿も大きな堂宇。それに比べたら知恩院法然御廟の拝殿はまことに質素である。

さて泰平亭で買った知恩院グラビア「浄土宗総本山知恩院」には、法然の生涯とその亡骸がどうなったのか、遺骨がどこに納められたのかについて、知恩院の公式見解が載っている。それによれば、1212(建暦2)125日、法然は80才で入寂。門弟たちは、今の知恩院勢至堂がある場所、大谷禅房の傍らに法然の墳墓をつくった。その15年後の1227(嘉禄3)年に比叡山の宗徒が大谷禅房にあった法然の大谷廟堂を破脚。そこで弟子たちは、法然の亡骸を西山栗生野に移して荼毘に付した。ということは、当初、法然の亡骸は大谷廟堂に土葬にされていたということで、法然入寂の15年後に火葬にされたということになる。

そして1234(文暦元)年、法然の弟子・源智が大谷廟堂の荒れ果てた墓所を修理し、法然の真骨を納め、仏殿、御影堂、総門を建てて、知恩院大谷寺と号し、法然を開山第一世とした。つまり知恩院の御廟にある法然真骨は、源智によって当地に納められ、現在に至っているということである。

法然御廟5


 


















(法然御廟入り口門前)

法然御廟2


 


















(法然御廟に登っていく長い石段)

法然御廟14


 

































(法然御廟門)

法然御廟11 



















(法然御廟拝殿)

 

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■長野善光寺3(2014年初詣3)

 

□極楽の錠前を探り当てる真っ暗な回廊の『お戒壇めぐり』と回廊入り口に祀られている仏舎利

 

内々陣参拝の後は、内陣にある御朱印受付にて、善光寺の御朱印をもらった。ちょうど20134月末の東京両国・回向院での善光寺出開帳の時、善光寺御朱印帳を買い求めており、そこに御朱印をいただいた。数年前、ある所で、僧侶の毛筆が達筆かどうか云々ということが話題になったことがあったが、善光寺御朱印の毛筆は、この上ない達筆。まさに「書の芸術」と言うべきもの。善光寺御朱印の毛筆は、あまりにも芸術的な書なので、見ていると思わず心が洗われるような気持ちになる。これは、善光寺参拝のいい記念になりますね。ただし断っておくが、私はあっちこっちの仏教寺院で御朱印をもらわないと収まらないような、いわゆる『御朱印マニア』ではない。

御朱印のあとは、『お戒壇めぐり』の階下に降りていった。内々陣の右側を通って奥に進むと『お戒壇めぐり』の入り口がある。これは、善光寺如来(一光三尊阿弥陀如来)像が格蔵される瑠璃壇下の真っ暗な回廊を通り、極楽の錠前を探り当てて、絶対秘仏の善光寺如来(一光三尊阿弥陀如来)と結縁するという主旨のもの。2003年の御開帳で善光寺に参拝したときは、『お戒壇めぐり』の真っ暗な回廊には入っていないと思います。20134月末の東京両国・回向院での善光寺出開帳の時、はじめて『お戒壇めぐり』を知ったくらいでしたから。

東京両国・回向院での『お戒壇めぐり』は、にわかづくりの『お戒壇めぐり』だったが、今回は善光寺での『お戒壇めぐり』。真っ暗の回廊を手探りで歩いて行ったが、全く何も見えない。私の後ろから、4人家族連れが歩いてきて、真っ暗な回廊の中で、ガヤガヤと喋りまくっている家族連れ。

この家族連れも、真っ暗な回廊の中で極楽の錠前を探していたようなのだが、歩いている途中で、若い男の子が「コレだ、コレだ」と、ガチャガチャと音をたてながら元気な声をあげていた。しかし回廊は真っ暗で何も見えない。「本当かね?本当にそれが極楽の錠前?」と、半ば狐につままれたような気持ちになった。

さてその『お戒壇めぐり』の入り口前には、釈迦如来像と仏舎利(釈迦如来の遺骨)を納めた厨子が祀られている。この仏舎利は、善光寺発刊の資料によれば、タイ国から日本に寄贈された仏舎利だという。タイ国から寄贈された仏舎利は、善光寺の外、全国各地の寺院にも格蔵されている。

さて再び本堂の外陣に出ると、外陣中央にものすごい人だかりができている。何事だろうかとその人だかりの所に行ってみると、びんずる尊者像のまわりにできていた人だかりだった。びんずる尊者像は、東京両国・回向院での善光寺出開帳の時にも来ていた。が、2003年の御開帳の時に参拝した記憶がない。ただし回向院の善光寺出開帳の時には、びんずる尊者像は白色のホータイでぐるぐる巻きになっていたが、善光寺本堂外陣では、ホータイはなし。びんずる尊者像参拝の長い行列に並んだ後、賽銭を入れて像を撫でて参拝。参拝の人は、全員がびんずる尊者像に触って撫でていた。像をよく見ると、かなり撫でられた痕跡が見られる。

善光寺18 



















(善光寺本堂)

 

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■京都・鹿苑寺金閣1(仏舎利が祀られている舎利殿)

 

□三層部分に仏舎利(釈迦如来の骨)が祀られていると伝承される鹿苑寺舎利殿(金閣)

 

鹿苑寺金閣とは、一般的には「金閣寺」の名前で知られている。寺号は金閣寺ではなく、鹿苑寺という。鹿苑寺とは、臨済宗相国寺派の寺院。相国寺派とは1392年、夢窓疎石により創始された宗派で、大本山は室町幕府三代将軍・足利義満により建立された京都の相国寺。末寺は日本各地に約100か寺ほどあり、有名な鹿苑寺(金閣寺)・慈照寺(銀閣寺)はこの相国寺派の寺院である。「鹿苑寺」の寺号は、足利義満の法号である鹿苑院殿に因んでいる。正式寺号は北山(ほくざん)鹿苑寺という。

鹿苑寺が発行した公式パンフレットによれば、「お釈迦様のお骨をまつった舎利殿『金閣』が特に有名なため、金閣寺とよばれていますが…」とあり、鹿苑寺の舎利殿『金閣』には、釈迦如来の骨が祀られていると書いてある。フリー百科事典・Wikipedia「鹿苑寺・舎利殿(金閣)」の項目を見ると、「三層は禅宗様の仏殿風で『究竟頂』(くっきょうちょう)と称し、仏舎利を安置する」とあり、金閣の三層に仏舎利が安置されていると、書いてある。ただし、鹿苑寺が発行した公式パンフレットにもフリー百科事典・Wikipediaにも、鹿苑寺金閣の仏舎利(釈迦如来の骨)が、どのような経緯で鹿苑寺に伝承されるようになったのか、という「伝承の経緯」については、一言も触れていない。

鹿苑寺金閣は、応仁の乱、天文法華の乱、禁門の変の戦災を免れ、明治維新・廃仏毀釈の破脚を免れたが、1950年(昭和25年)72日、学僧・林承賢(21)の放火により全焼してしまった。

金閣に祀られている仏舎利は、金閣全焼以前から祀られていたのか。金閣全焼の時に、仏舎利も全焼したのか。金閣再建後、どのような経緯で金閣に仏舎利が祀られたのか、等々について、鹿苑寺が発行した公式パンフレットにもフリー百科事典・Wikipediaにも記載がない。

鹿苑寺金閣の正式名は「舎利殿」という。これは仏舎利を祀るに因んだ名前だと思われる。ただし鹿苑寺の参拝客は、舎利殿(金閣)の中に入ることができないので、金閣の中に入って仏舎利に参拝することはできない。金閣の外側から拝観するのみである。

というか、鹿苑寺金閣の拝観に行っても、漆地に金箔を押した豪華絢爛な三層宝形造の金閣の建物そのものに圧倒されてしまって、中にある仏舎利のことまで関心が向かない。私も何度か鹿苑寺金閣の拝観に行っているのだが、鹿苑寺が発行した公式パンフレットを見て、はじめて金閣に仏舎利が祀られているのを知ったくらい。そしてここに来ると、ものすごい数の観光客が来ており、特に1994年に世界文化遺産に登録されて以降、鹿苑寺金閣を訪れる外国人観光客が激増。2011年の東日本大震災、2012年の竹島・尖閣諸島問題が起きる前は、中国人、韓国人観光客が多かった。2008年、2010年に鹿苑寺に行ったときは、金閣の前で中国人、韓国人をはじめ、外国人観光客が撮影する合間をかいくぐって、金閣を撮影することに神経が集中してしまう。しかも鹿苑寺の境内は一方通行で、金閣の拝観が終わると、庭園方向にどんどん進んで行かなくてはならない。

 

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■京都・建仁寺2(栄西禅師の正墓がある子院・開山堂)

 

□江戸時代初期の画家・俵屋宗達の最高傑作「風神雷神図屏風」を格蔵する建仁寺

 

建仁寺とは、臨済宗建仁寺派の大本山で、日本の臨済宗大本山の中では最も古い。鎌倉時代の建仁2(1202)の開創で、寺号は当時の年号である「建仁」から名付けられている。山号は「東山」と書いて「とうざん」と読む。創建当時の年号を寺号にした寺院は、「比叡山延暦寺」「東叡山寛永寺」などの例はあるが、数としては極めて少ない。開基は鎌倉幕府二代将軍・源頼家になっているが、創建当時の年号が寺号になっていることで、建仁寺が天皇勅許の寺であることを、強く臭わせている。建仁寺の諸堂は、中国の百丈山を模して建立されたという。

建仁寺は、創建当初は天台、密教、禅の三宗兼学の寺院だったが、建仁寺第11世・蘭渓道隆の代から、純粋な臨済禅の道場になった。

建仁寺の開山・栄西禅師の名前は、一般的には「えいさい」と読まれているが、建仁寺の寺伝では、「ようさい」と言う。字は明庵(みんなん)、号は千光(せんこう)葉上(ようじょう)という。

栄西禅師は永治元年(1141)、備中国(岡山県)吉備津宮の社家、賀屋氏の子として生まれた。14才で落髪。比叡山で天台密教を修め、その後、二度にわたって入宋を果たし、日本に禅を伝えた。また、中国から茶種を持ち帰って、日本で栽培することを奨励し、喫茶の法を普及せしめた「茶祖」としても有名である。

栄西は二度目の渡宋で臨済宗黄龍派の虚庵懐敬に参禅。建久2(1191)、虚庵懐敬から師道の法を嗣いだという証明である印可を得て帰国。京都では比叡山延暦寺の勢力が強大で、禅寺を開くことは困難な情勢であった。栄西は九州・博多に聖福寺を建立。のち鎌倉に移って北条政子の援助で正治2(1200)に寿福寺を建立。その2年後の建仁2(1202)、鎌倉幕府2代将軍、源頼家の援助を得て、京都に建仁寺を建立した。

建仁寺で有名なのは、国宝に指定されている「風神雷神図屏風」。これは俵屋宗達の晩年の最高傑作とされる。屏風前面に金箔が押されている。俵屋宗達(生没年不詳)とし、慶長から寛永年間に活動した江戸時代初期の画家。尾形光琳と並び称せられる、江戸時代初期の大画家だが、伝記には不明な点が多く、生没年さえわかっていない。

「風神雷神図屏風」は、建仁寺方丈で見学できるが、通常、展示されているのは、高精細デジタル複製、つまりレプリカである。「なーんだ、レプリカなのか」と思ってしまいがちですが、しかし博物館、資料館等に並ぶ展示の大半は、レプリカだということをご存知だろうか。特に、都道府県立や市町村立の博物館、資料館の展示にレプリカが特に多い。展示品が本物なのか、レプリカなのかについては、展示の説明文に書いてある。「複製」と書いてあったら、それはレプリカだということ。

レプリカが展示されている場合、本物(原画、原本)の所在地も明記されている。「風神雷神図屏風」の場合は、本物は建仁寺格蔵となっているが京都国立博物館に寄託されている。普段は建仁寺でレプリカが展示されている。

建仁寺9 

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■福井・永平寺5(道元禅師の真廟がある永平寺承陽殿)

 

曹洞宗大本山永平寺には、日本曹洞宗宗祖で永平寺開祖である道元禅師の霊骨が格蔵・祀られている。道元禅師の霊骨が祀られている堂宇は承陽殿という名の堂宇。承陽殿の名は道元禅師が明治天皇より下賜された「承陽大師」号。そして明治天皇より下賜された「承陽」の勅額に由来する。「承陽」の勅額は承陽殿の拝殿に掲げられている。

承陽殿に隣接している孤雲閣は、道元禅師に給仕した永平寺2世孤雲懐弉禅師に由来する。孤雲懐弉禅師は、道元禅師の生前、滅後にわたって側に在って給仕孝順を尽くした。それにちなんで、孤雲閣は、道元禅師真廟に奉仕する修行僧の詰め所になっている。孤雲閣には僧侶が常勤し、未来永世にわたって道元禅師に給仕する姿をあらわしている。

そういえば身延山久遠寺に日蓮の真骨堂があるが、久遠寺法主をはじめ、日蓮宗僧俗が常に日蓮に給仕奉仕する意味があるという。

仏教各宗派の宗祖の真廟・正墓は、宗派にとって最も大切な所であり、各宗派とも宗祖に未来永世にわたって給仕奉仕する意味を持たせているのは、至極当然のことと思う。法然の真廟は京都知恩院の他、数十ヶ寺にあり、親鸞の真廟は西大谷、東大谷、浄興寺等にある。栄西の真廟は建仁寺にあり、日蓮の真廟は身延山久遠寺の他、鎌倉本覚寺、京都妙伝寺等にある。伝教大師最澄の真廟は比叡山延暦寺にあり、弘法大師空海の真廟は高野山にある。

それぞれの仏教各宗派の総本山、祖山といわれる寺院に真廟がある。

永平寺承陽殿は、宗祖・道元禅師の真骨を祀る真廟。明治14(1881)に改築された。

正面壇上奥に道元禅師、永平寺2世孤雲懐弉禅師の像と霊骨を奉安する。さらに永平寺3世、4世、5世ならびに宝山禅師の像を祀っている。承陽殿内には、本山歴代禅師、宗門寺院住職の位牌が祀られている。

 

さて承陽殿下段右側には「玄明首座」という位牌が祀られている。

1247(宝治1)83日、道元は鎌倉に下向し、北条時頼に菩薩戒を授け俗弟子のために説法した。北条時頼は寺院を建立して道元を招請したが、これを辞退。さらに北条時頼は、越前国に2000石の寺領を寄進したが、道元はこれも辞退した。道元に随行した玄明首座は、この寄進状の使いにあてられ、永平寺に帰って自分の売名を大衆僧俗に得意になって語ったという。

これを聞いた道元は、玄明首座の態度を罰し、堂内より擯出し、玄明首座の座禅をしていた僧堂の縁を切り取り、土台の土七尺も掘って捨てたという。

1902(明治35)5月、道元禅師650遠忌に明治天皇より「承陽」の勅額が下賜され、道元650遠忌大法要に出仕した高僧10名が発願して時の永平寺貫首・森田悟由禅師に玄明首座の恩赦を請願。森田悟由禅師が玄明首座に代わって道元禅師真前にて大展懺悔を行った。

これで何と650年ぶりに玄明首座の破門追放が赦免されることになった。

承陽殿に祀られている位牌の裏には、その由来が書かれているという。滅後650年において、後世の貫首によって破門が許されたというのも、珍しいケースであると同時に、注目に値すると思われる。この逸話から、道元禅師という人が、かなり厳格な人柄だったことが窺える。

永平寺52承陽殿 

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■佐野妙顕寺5(斉藤日軌猊下・拝謁記3)

 

さて話題は、最後の質問である佐野妙顕寺に格蔵されているという日蓮真骨について。

 

○私「佐野妙顕寺さんの公式ウエブサイトによれば、佐野妙顕寺さんには、日蓮聖人の御真骨が格蔵されているとのことですが、これはどのような縁由によるものなのでしょうか」

□猊下「それはねえ、日蓮聖人の御火葬のときに、天目上人が手を突っ込んで持ってきたものなのです。それが原因で、天目上人は手が曲がってしまったんだなあ。佐野妙顕寺の御真骨が、玉沢・妙法華寺、中山法華経寺に分骨されたということですが、今はもう、ほとんど残っていないんだけれどもねえ」

○私「日蓮聖人の御真骨を格蔵していると伝承される寺院は、あっちこっちにありますねえ。私が調べた限りでも、身延山久遠寺、池上本門寺の他、身延山から分骨された鎌倉本覚寺、京都妙伝寺。その他にも鎌倉妙本寺、京都妙顕寺にも御真骨があると伝承されています」

□猊下「そうだね。『○○身延』という名前がついている寺院には、御真骨があると伝承されているんじゃないかな」

○私「あの大石寺も、御真骨があると自称していまして、身延離山のときに日興が身延山久遠寺から大石寺に移したと言っていますが、これは全く信憑性がありません。『一跡門徒抄』『五人所破抄』『日尊遺誡』等の文献からして、日興は身延離山の時に、御真骨を大石寺に移していません。よって、大石寺が『御真骨』と称しているものは、後世に偽作されたものと考えられます」

□猊下「そのとおりである。『一跡門徒抄』『五人所破抄』を読んでおられるとは、なかなか詳しいですな」

 

庫裡の中の座敷で斉藤日軌猊下への「目通り」の席は、けっこう長時間続きました。私が、日蓮の御真骨や遺文の話題を出したので、猊下はいろいろな話しをされました。

 

□猊下「昔の人は、曼荼羅をちょんまげの中に入れていたりしたんです」

「日蓮聖人の御遺文を刻んで水の中に入れて、その水を飲んだりしていたんです。それで各地の寺院に御遺文の断簡が残っているんだなあ」

「佐野妙顕寺も、今は塔頭がなくなってしまっていますが、昔はここにも塔頭坊がたくさん建ち並んでいて、けっこう大規模な本山だったようですねえ」

「北山本門寺も『戒壇』のことを研究しているんじゃないかな。『日蓮宗の戒壇』の本を出版したとき、北山本門寺からたくさんの注文が来て、大量に発送しましたがねえ」

斎藤戒壇本1 

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■鎌倉妙本寺3(『臨滅度時の本尊』を格蔵する鎌倉妙本寺)

 

□池上本門寺からの分骨か(?)鎌倉妙本寺に格蔵される日蓮の真骨(頂骨5片)

 

池上本門寺と妙本寺は、両山一首制で一人の住職が管理していた。江戸時代には池上本門寺に貫首がおり鎌倉妙本寺は司務職として本行院住職が代理として管理していた。両山一首制は1941年(昭和16年)まで続いたが、平成16(2004)4月に鎌倉妙本寺は由緒寺院から霊蹟寺院に昇格している。現住職は大田区本妙院より晋山した第80世早水日秀貫首で、池上法縁五本山の一つに数えられている。

妙本寺の広大な境内には、本堂、祖師堂、比企一族の墓、一幡の袖塚といったものがある。

総門をくぐり、境内坂道の参道を登った二天門奥の大きな瓦葺きの建物は「祖師堂」で日蓮像が祀られている。

祖師堂は十二間四方の建物で、これは、大きな寺ゆえに大勢の参拝者があるので、できるだけたくさんの人が上がってお参りできるようにという配慮からということである。

祖師堂での行事は、千部会(4月13日)と御会式(9月13日)の二回で、このときは日蓮像がご開帳される。千部会(せんぶえ)は、『阿弥陀経』、『法華経』、『般若心経』などひとつの経典を、省略せずに1000部読経することである。1人で1000部読経することもあれば、100人が10部ずつ計1000部読経することもある。

 

霊宝殿には、日蓮・日朗ゆかりの寺宝が納められている。また霊宝塔には、日蓮の真骨(頂骨5片)が納められているという。

かつて両山一首制であった池上本門寺は、日蓮入滅・火葬・葬送の霊跡であり、池上本門寺の日蓮祖師像には、日蓮の灰骨が納められている。はっきりとした見解は聞いたことはありませんが、池上本門寺の日蓮灰骨の分骨である可能性が高いと言えよう。

日蓮灰骨は身延山久遠寺に格蔵されているのは、あまりにも有名ですが、日蓮宗各寺院には、いろいろと「分骨」されて、いろいろな寺院に日蓮灰骨が格蔵されている。

身延山久遠寺以外では、池上本門寺(日蓮祖師像の胎内)、大坊本行寺、鎌倉妙本寺、鎌倉本覚寺、京都妙伝寺、佐野妙顕寺、京都妙顕寺である。

妙本寺15祖師堂 

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■鎌倉本覚寺1(日蓮真骨を分骨された東身延)

 

□日蓮宗が発行している正式文献で公式に認めている本覚寺への日蓮真骨の分骨の史実

 

京都妙伝寺が「西之身延」とか「関西身延」と呼ばれているのに対して、「東身延」「東之身延」と呼ばれているのが、日蓮宗本山・鎌倉本覚寺。

鎌倉本覚寺とは、佐渡流罪を赦免になった日蓮が、身延山に旅発つまでの間、約40日間留まっていた所として伝承されている寺院。日蓮宗新聞社発刊の「日蓮宗本山めぐり」によれば、日蓮は文永11(1274)326日、陸路にて鎌倉に到着。日蓮が滞在したのは、源頼朝が鎌倉幕府を開いた時、守護神を祀った「夷堂」(えびすどう)で、これが本覚寺の前身。

日蓮は48日、鎌倉幕府・評定所に召喚され平頼綱と対面。第三の国諫を行ったが聞き入れられず、「三度諫むるに用いずは山林に交われ」との故事にしたがって、512日に鎌倉を出発。身延山へと向かった。

なぜ鎌倉本覚寺が「東身延」とよばれているのかというと、室町時代に身延山久遠寺から日蓮真骨がここに分骨されて、今日に至るまで格蔵されていることによる。

本覚寺8


本覚寺に身延山久遠寺の日蓮真骨が分骨されたことは、「日蓮宗本山めぐり」や日蓮宗宗務院発行「創価学会批判」といった日蓮宗の正式文献に載っている。

ではなぜ本覚寺に日蓮真骨が分骨されることになったのか、ということですが、日蓮宗新聞社発刊の「日蓮宗本山めぐり」によれば、次のように書いてある。

(本覚寺の)創立は1436(永享8)年。身延門流の日出上人は伊豆の三島開教の後、同年に鎌倉の天台宗宝戒寺・心海と法論して勝った。(永享問答)しかしときの鎌倉御所・足利持氏の怒りを買い、法難の危機に瀕したが、逆に帰依を得て当地を拝領。本覚寺を創建した。

二世日朝上人は1461(寛正2)年に身延山11世となって祖山を大復興。当山(本覚寺)に日蓮聖人のご分骨を奉安。以来、『東身延』と称されるようになった。日朝上人は眼病救護の誓願を立てられたので、後に霊験あらたな『日朝さま』とよばれ、信仰を集めるようになった」(p32)

本覚寺1

 

つまり本覚寺2世日朝が、のちに身延山久遠寺11世法主として晋山したため、本覚寺に日蓮真骨が分骨された、ということである。

本覚寺は日蓮宗本山ということだが、私がこの寺院を訪れた感じとしては、そんなに広くない印象を持ちました。寺院の受付では僧侶がお守りやお札を売っていました。

本覚寺の本堂は十軒四面の堂宇で、大正12(1923)の落成となっている。

本覚寺の堂宇は、本堂の他に、ご分骨堂、客殿、庫裡等がある。

日蓮宗寺院の堂宇は、本尊である釈迦如来像を祀る本堂と日蓮祖師像を祀る祖師堂の二堂あるのが通例ですが、ここ本覚寺には祖師堂の名前の堂宇がない。

祖師堂はありませんが、そのかわりに「御分骨堂」があるわけで、ここが祖師堂のかわりの役目を果たしている、ということなのだろうか。

しかし「御分骨堂」は、普段は入り口の扉が堅く閉められていて、中に入ることが出来ない。

本覚寺6分骨堂
 

 

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■京都妙伝寺1(日蓮真骨を分骨された西之身延)

 

□日蓮宗が発行している正式文献で公式に認めている妙伝寺への日蓮真骨の分骨の史実

 

日蓮宗本山の京都・妙伝寺は、京都府京都市左京区にある、日蓮宗の本山(由緒寺院)で正式名は法鏡山妙伝寺。開創は文明9(1477)で、開山は身延山久遠寺11世行学院日朝の弟子・円教院日意。日蓮宗新聞社刊行「日蓮宗本山めぐり」によれば、日意は、はじめ天台宗に属して比叡山延暦寺の学頭であった。

ところが身延山久遠寺11世法主・行学院日朝にまみえて三昼夜、法義を談じた後、日朝の弟子になって帰依した。そして文明9(1477)、日意は身延山久遠寺の参詣が遠い関西以遠の檀信徒のために、身延山久遠寺を彷彿とさせるような寺院として妙伝寺を開創した。

日意は師・日朝が身延山久遠寺11世法主であったため、師と図って身延山久遠寺から日蓮真筆大曼荼羅本尊と日蓮真骨の一部を分骨されて妙伝寺に持ち帰り奉安した。

さらに本堂には、身延山の七面大明神と同じ木を使い、姿・形も同じに造った七面大明神像を祭っている。

こうして身延山久遠寺参詣が困難であった室町時代に、関西以遠の遠隔地の信徒に日蓮真骨・七面大明神参詣の便を開いた。

又、妙伝寺本堂の須弥壇中央に祀られているのは、一塔(南無妙法蓮華経)両尊(釈迦如来像・多宝如来像)四菩薩(上行・無辺行・浄行・安立行)四天王(時国・増長・毘沙門・広目)諸尊と日蓮像が祀られている。つまりこれは、日蓮の大曼荼羅の相を立体像化したもので、身延山久遠寺本堂に祀られている本尊とほぼ同じである。

こう見てみると、妙伝寺は、「京都のミニ身延山」を醸し出しているように見える。

そのため、妙伝寺は「西之身延」とか「関西身延」と呼ばれている。妙伝寺にも「西之身延」の扁額が掲げられている。

妙伝寺開山・日意は妙伝寺にて23年間在寺した後、身延山久遠寺11世行学院日朝の後を受けて、明応8(1499)に身延山久遠寺12世法主の猊座についている。身延山にて在寺20年ののち、猊座を13世日伝に譲り永正16(1519)に遷化。日蓮宗では日朝・日意・日伝の三師を宗門中興の三師とよんでいる。

 

これに対して、同じく身延山久遠寺から分骨された日蓮真骨を格蔵している日蓮宗本山・鎌倉本覚寺は「東之身延」と呼ばれている。

身延山久遠寺から京都妙伝寺、鎌倉本覚寺に日蓮真骨が分骨されたことは、日蓮宗が発行する公式文献「日蓮宗本山めぐり」や「創価学会批判」に載っていて、日蓮宗、身延山久遠寺としても公式に認めている史実である。

妙伝寺11本堂

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■池上本門寺35(日蓮廟所)

 

□室町時代の応仁元年(1467)頃に造立された池上本門寺日蓮廟所の石塔

 

池上本門寺本殿の奥には、日蓮の廟所がある。

日蓮廟所4


廟所というと、身延山久遠寺の御真骨堂のように、日蓮の真骨を収蔵し祀っているのか、と思うが、池上本門寺・日蓮廟所の立て看板を見ても、ここに日蓮の真骨が納められている、という文は書いてない。日蓮廟所の立て看板には、次のように書いてある。

「中央廟屋内に宗祖日蓮聖人(弘安51282〕年1013日御遷化)、左廟屋内に第二祖日朗聖人(元応元年〔1319〕正月21日御遷化)、右廟屋内に第三祖日輪聖人(延文41359〕年44日御遷化)の墓塔をお奉りしています。

なかでも、日朗聖人墓塔は室町時代の応仁元年(1467)頃に第8世日調聖人によって造立されたと考えられる古い石塔です。形は日蓮宗に特有の宝塔で、高さ1.6m(失われている反花座を補うと1.9m)の大きなものです。塔身の正面には一塔両尊(南無妙法蓮華経、南無釈迦牟尼仏、南無多宝如来)を、基礎の背面には日朗聖人の没年や造立願主の名が刻まれています。石材は伊豆石(安山岩)です。この型式の宝塔は、室町時代に南関東の日蓮宗寺院において多く造立されましたが、日朗聖人塔はその中でも特に大きいものとして注目されます。信仰的、歴史的な重要性から大田区の文化財にも指定されています」

日蓮廟所1

 

つまり廟屋の中に石塔型式の墓塔がある、ということです。というより、元々、石塔型式の墓塔が建てられていて、これを後年に建てられた廟屋で覆われている、ということのようです。

ということは、ここには日蓮の真骨・灰骨はないものと思われます。

では池上本門寺に日蓮の真骨・灰骨はないのかというと、そうではない。大堂に祀られている日蓮祖師像の胎内に、日蓮の灰骨が収蔵されている。

大堂の中にある説明書きには、次のようにあります。(大堂内は写真撮影禁止であるため、文章を書き出します)

「日蓮大聖人御尊像

日蓮大聖人第七回忌に当たる正応元年(1288)に造立されたもので、気魄に満ちた御顔は、ご生前の真容をよく伝え、肖像彫刻としても鎌倉時代の傑作の一つに挙げられている。像高二尺八寸三分の木彫寄木造り、ご胎内には御聖骨を納めた銅筒があり、右手には母君妙蓮尼の遺髪を加えて作られたものと伝えられる払子を、左手には紺紙金泥の法華経経巻を捧持。

昭和二十年四月の大空襲にも難を免れた御尊像は、永遠に格護されるべき人類の至宝である。」

 

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■身延山久遠寺16(御真骨堂の日蓮遺骨)

 

本堂、祖師堂、報恩閣、仏殿などの堂宇の並びに、御真骨堂がある。今はここに日蓮の真骨が奉安されている。

日蓮祖廟は、西谷の地にあるが、身延山久遠寺が11世日朝の代の文明六年(1478)に、西谷の地から現在地に移転・増築されたとき、久遠寺法主の守塔の任から、日蓮の真骨も祖廟から御真骨堂に移された。

御真骨堂は、拝殿と八角堂から成っていて、74世日鑑の代の明治十四年(1881)に再建されたものである。

御真骨堂1

 

祖師堂と御真骨堂の間に建てられている堂宇が「報恩閣」。ここはいわば身延山久遠寺の総合受付である。ここは日蓮立宗七百五十年慶讃事業として、91世日光の発願により、平成十四年(2002)3月に落成。正面入り口には91世日光の筆による「報恩閣」と書かれた扁額が掲げられています。

受付の他、参詣者休憩室もあり、日蓮宗新聞も備えつけられています。

報恩閣の前にある、樹齢四百年と言われている「しだれ桜」が有名。毎年3月下旬~4月上旬にかけ境内に樹齢400年ともいわれる枝垂桜と久遠寺周辺の数百本の桜が咲き乱れる。この時期は、多くの観桜の見物客やカメラマンが身延山久遠寺に押し寄せてきて、周辺道路も渋滞する。

 

御真骨堂のとなりの仏殿は、昭和六年(1931)の日蓮六百五十遠忌を記念して81世日布の代に建立された堂宇で、朝、昼12時、夕方3時からの勤行と特別法要を営む建物となっている。

 

御真骨堂拝殿の広場をはさんだ向かい側にある地上六階建ての建物が新納牌堂で、六階が釈迦殿になっている。本堂建立により釈迦堂をここに移したもの。納牌堂は1階から5階までで、全国信徒の先祖の遺骨を安置してある建物。

 

現在の久遠寺五重塔は3代目で2008年竣工。2009年に落慶法要が行われた。初代の塔は加賀前田利家の側室寿福院の建立によるもの。

 

開基堂とは、日蓮を身延に招いた波木井実長を祀っている堂宇。身延町指定文化財になっている。

 

水鳴楼とは、久遠寺歴代法主の住居で、一番奥の大奥が法主の居所。

身延山久遠寺は、日蓮宗の祖山・総本山になっているが、久遠寺法主がかならずしも日蓮宗管長になるとは限らない。久遠寺法主が日蓮宗管長を兼ねる時もあれば、そうでない時もある。

久遠寺法主が日蓮宗管長を兼ねない時は、池上本門寺・京都妙顕寺などの大本山貫首が日蓮宗管長になる場合が多い。

 

本堂・祖師堂・御真骨堂の周辺は、数多くの堂宇・伽藍が建ち並んでいます。

 

 

 

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■身延山久遠寺8(西谷の日蓮祖廟)

 

この草庵跡からすこし歩を進めると、日蓮の「祖廟」(そびょう)、いわゆるここが日蓮の正墓である。塔内には日蓮の死去時に建立された五輪の墓を収め、地下の龕室に日蓮の霊骨を安置しているのだという。

日蓮・祖廟2


日蓮宗では、ここを「御廟所」と呼んでいる。この御廟所に関する身延山久遠寺の正式見解は、以下の通りになっている。

 

「御廟所

 

西谷の地にあり、杉の麿丸太づくりの拝殿、奥の八角塔は日蓮聖人の『いづくにて死に候とも墓をば身延澤にせさせ候べく候』との御遺言にしたがって建立された日蓮聖人の廟墓です。八角塔の塔中には、日蓮聖人の入滅時に建立された五輪の墓が収められ、右手には身延山歴代のお墓が並び、左手には富木常忍の母、阿仏房日得上人、南部実長公の墓があります。日蓮聖人の廟墓ですので祖廟とも称し、恋慕渇仰する信者の参詣がたえません」

(身延山参拝のしおり)

 

拝殿は、経机と鐘が備えられているので、ここで読経・法要ができるようになっています。

拝殿の上には「立正」と書かれた扁額が掲げられています。「立正」の扁額は、日蓮の立正大師号にちなんで、昭和天皇から下賜された勅額である。

日蓮・祖廟1

 

さて身延山久遠寺の見解によれば、祖廟に向かって右側の奥に歴代墓所があり、第二祖・佐渡阿闍梨日向以来の身延山久遠寺歴代法主の墓がある。

さらに祖廟に向かって左側の奥に直弟子直檀廟があり、ここには、白蓮阿闍梨日興、南部(波木井)実長、阿仏坊日得、富木常忍公の母・常日尼の4人の納骨塔・供養塔がある、となっている。

直弟子とは、日蓮より直接おしえをうけた弟子のこと、直檀とは、日蓮から直に教化をこうむった檀越すなわち信徒のこと。久遠寺の見解によれば、この中で実際に納骨されているのは、波木井実長、阿仏坊日得、常日尼の3人で、日興は供養塔のみであることを示唆している。

しかし日蓮の直弟子となると、六老僧は全員これに該当するはずだが、日向は歴代墓所に葬られているとしても、なぜここに日興の供養塔だけがあるのか。日昭、日朗、日頂、日持の供養塔は、なぜここにないのか、という疑問が沸く。

 

さて上古の時代の本弟子六老僧輪番給仕の古例にならって、今も祖廟へ輪番奉仕が行われており、日蓮宗全寺院住職・檀信徒の大事な務めとして日蓮宗宗制にうたわれている。その規定にしたがって、全国の日蓮宗寺院住職・信徒が日々、祖廟に参拝・奉仕しているということです。

 

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