一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ

「一般社団法人 仏教宗学研究会」とは任意団体として2005年から活動している会の名称。2018年5月に一般社団法人登記。当ブログ名を「仏教宗学研究会のブログ」から「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」に改名。 「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

Category: 「日蓮」研究

■川越・中院1(天台宗八箇檀林・日蓮伝法灌頂の寺)

 

□日蓮伝法灌頂の寺院にあった天台宗談義所で日蓮宗僧が修学していた、ということか

 

恵心流中古天台宗口伝法門や天台宗談義所に日蓮宗僧が入檀していたか、という謎を追って、喜多院の次に、となりの中院を訪ねました。堂宇は、喜多院、仙波東照宮、中院というふうに並んで建っている。中院の正式名は星野山無量寿寺中院で、今も無量寿寺の寺号を残している。

中院は、星野山無量寿寺の仏地院だった所で、ここに天台宗談義所が置かれていた。

ただは中院の場所は、当初から当地にあったのではなく、今の仙波東照宮があった所にあり、仙波東照宮ができるに当たって、今の地に移転したもの。

喜多院が栄えるようになったのは、江戸時代に天海大僧正が再興して以降であり、もともとの天台宗談義所は仏地院(中院)にあった。

そういうことから中院も訪問。

中院の三門には「元関東八箇檀林」「天台宗別格本山」という看板が出ている。

この関東八箇檀林なのですが、中世の天台宗檀林は

長野県・津金寺、埼玉県川越市・中院、埼玉県児玉郡・大光普照寺、千妙寺、茨城県桜川市・月山寺、茨城県稲敷市・江戸崎不動院、栃木県芳賀郡・宗光寺、茨城県水戸市・薬王院、逢善寺、千葉県長生郡・長福寿寺、群馬県前橋市・龍蔵寺、群馬県渋川市・真光寺、滋賀県米原市・円乗寺にあったとのこと。

関東八箇檀林というからには、八箇所の檀林だったと思われるのだが、しかし、埼玉県、茨城県、千葉県、栃木県、群馬県にあった天台宗檀林は少なくとも九箇所以上ある。

ということは、1ヶ寺が関東八箇檀林に入っていないと言うことになるが、どれが入っていないのか、不明。詳しい方、教えていただけたら幸いです。

 

さて中院の三門前には、「日蓮上人伝法灌頂之寺」と書いた石塔が建っています。

中院6 





















伝法灌頂とは、僧侶の阿闍梨号を授与する儀式のこと。

「伝法灌頂」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9D%E6%B3%95%E7%81%8C%E9%A0%82

「日本密教では、四度加行(しどけぎょう)という密教の修行を終えた人のみが受けられる。正しくは金胎両部伝法灌頂(こんたいでりょうぶ・でんぽうかんぢょう)という。ここで「金・胎」とは、中期密教の宇宙的世界観を表す金剛界(こんごうかい)と胎蔵界(たいぞうかい)を意味する。

インドに始まり、日本密教や中国密教、チベット密教においては、この灌頂によって、密教の奥義がすべて伝授され、弟子を持つこと(教師資格)が許される。また、密教においては仏典だけに捉われず、口伝や仏意などを以って弟子を指導することができることになる。更には、正式に一宗一派を開くことが出来るともいわれ、それ故、阿闍梨灌頂、または受職灌頂ともいう」

 中院1

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■池上本門寺7(誰でも受けられる御開帳2)

 

私は、池上本門寺大堂の内陣の大前机のすぐ前に座ったわけですが、ここから日蓮祖師像がよく見えただけではありません。

その日蓮祖師像の真後ろに、日蓮の大曼荼羅本尊が祀られているのが、はっきりわかりました。

私が見た感じとしては、立正安国会の御本尊集81・臨滅度時本尊を板に模写彫刻したレプリカ板本尊のように思えました。

御開帳が終わった後、池上本門寺の僧侶に尋ねたところ、日蓮祖師像の後ろに祀られている大曼荼羅本尊は、板本尊であるということでした。

池上大堂・日蓮1


 

後で池上本門寺刊行本「霊寶殿」に載っている日蓮祖師像の写真をよく見ると、祖師像の真後ろに、レプリカ板本尊が写っているのに気づきました。しかしこれは、御開帳を受けるまで、気づきませんでした。

 

さて若い僧侶が大堂の御宮殿に上って、火打ち石?をカチカチ鳴らした後、御開帳の読経がスタート。御宮殿に上った若い僧侶がマイクを握って読経をはじめました。

私は読経はしませんでしたが、僧侶が法華経の方便品を読経しているのは、なんとなくわかりました。方便品の十如是が終わった後、おそらく如来寿量品の読経に入ったのだと思います。

すると、須弥壇の脇から別の若い僧侶が出てきて

「ご焼香をどうぞ」

と一声。私はずーっと正座をしていたのですが、すぐ前の大前机にあった焼香台に進み出て焼香。ちなみに読経していた僧侶は薄墨色の衣に鼠色の袈裟。焼香の案内に来た僧侶は、薄墨色の衣のみ。

読経が終わった後は、「なむみょうほうれんげきょう」の唱題。太鼓は叩きませんでした。

その唱題は、ものの1分もしないうちに終了。その後は、僧侶が日蓮の遺文(御書)を三つほど読み上げていました。

最後に「なむみょうほうれんげきょう」の題目(玄題)を三回唱えて終了。

 

御宮殿の上でマイクを握って読経をしていた僧侶が、須弥壇の宝前にあった「お札」を持ってきて、私に渡してくれました。

御開帳御札1
 

 

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■池上本門寺6(誰でも受けられる御開帳)

 

池上本門寺大堂でも、御開帳という儀式があります。

普通、御開帳というと、普段は須弥壇の扉が閉められていて、儀式・法要が行われる時のみ、扉が開けられるのを御開帳とか御開扉と呼びますが、池上本門寺・大堂の場合は、普段から須弥壇の扉は開けられたままになっています。

扉は開けられたままになっているとは言っても、大堂の内陣と外陣の境界には、網が張ってあって、正面の日蓮祖師像がよく見えないようになっています。

大堂正面入り口から入ってきた参拝客は、ここでお賽銭を入れ、お詣りをして帰るわけですが、御開帳というのは、内陣の中に入って、かなり至近距離から日蓮祖師像を拝することができるというわけです。

 

池上本門寺の僧侶に、御開帳の主旨を尋ねたところ

□御開帳は、日蓮宗の信者であるなしにかかわらず、池上本門寺参拝の人であれば、誰でも受けることが出来る

□御開帳を行う時刻は特に決まっておらず、申し込みがあった時点で、毎日10時~15時の間であれば、随時、受け付けている。

□申し込みが一人の場合でも、御開帳を行う

□御開帳の儀式そのものは約15分くらいで、僧侶の読経・焼香・唱題の後、お札が下附される

□御開帳料は3000円から

ということでした。

というわけで、大堂の日蓮祖師像を間近に見ることが出来るので、私も一度だけ、大堂の御開帳を受けたことがあります。

 

ただし、いつでも受け付けている、とは言っても、お会式や大きな法要がある日は、池上本門寺に大勢の参拝客が来るほか、どこかの寺院・教会・結社の団体参拝があり、団体参拝で池上本門寺に来た人たちの御開帳が行われているのを、よく見かけます。

こういう時は、大堂の中は、団体参拝の他に、大勢の一般参拝の人が詰めかけていて、個人や家族単位の御開帳を受けているどころではないように見受けられます。

私が御開帳を受けた日は日曜日でしたが、一般参拝の人はたくさんいましたが、堂内は法要がある日ほど、ごった返してはいませんでした。

大堂3
 

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■池上本門寺2(国の重要文化財の祖師像)

 

池上本門寺で有名なのは、まず大堂に祀られている日蓮・祖師像です。この祖師像は、国の重要文化財に指定されています。

大堂の中にある説明書きには、次のようにあります。(大堂内は写真撮影禁止であるため、文章を書き出します)

 

「日蓮大聖人御尊像

日蓮大聖人第七回忌に当たる正応元年(1288)に造立されたもので、気魄に満ちた御顔は、ご生前の真容をよく伝え、肖像彫刻としても鎌倉時代の傑作の一つに挙げられている。像高二尺八寸三分の木彫寄木造り、ご胎内には御聖骨を納めた銅筒があり、右手には母君妙蓮尼の遺髪を加えて作られたものと伝えられる払子を、左手には紺紙金泥の法華経経巻を捧持。

昭和二十年四月の大空襲にも難を免れた御尊像は、永遠に格護されるべき人類の至宝である。

 

大堂

昭和二十年(1945)四月十五日の大空襲で、全山の堂宇五十余棟を焼失した本門寺は、全国檀信徒の寄付丹精によって、昭和三十九年に大堂を再建した。

日蓮大聖人御尊像を奉安する大堂は、鉄筋コンクリート造り本瓦葺、入母屋屋根、間口十八間、奥行十九間半、高さ九十三尺(30メートル)、屋根瓦枚数69849枚、のべ面積820坪、大堂は日蓮大聖人のご精神と七百年の歴史を伝える法華経御題目布教の道場である」

 

大堂内は写真撮影禁止であるため、大堂内にある「日蓮大聖人御尊像」「大堂」の説明書きは筆写しました。日蓮祖師像の写真は、「霊寶殿—池上本門寺の御霊宝と文化遺産」に載っている写真です。

大堂はかなり大きな建物で、間口十八間、奥行十九間半の広さは、日蓮宗寺院建築の中でも最大級の堂宇だと思います。

これより大きい建物というと、身延山久遠寺本堂が間口十七間半、奥行き二十八間あります。しかし、池上本門寺大堂より大きな堂宇というのは、日蓮宗では、そんなにはないと思います。

 御会式22大堂

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■小湊誕生寺2(真鯛の群泳と日蓮)

 

誕生寺は日蓮誕生の霊跡としてあまりにも有名で、日蓮宗七大本山のひとつになっている。

寺伝によれば、日蓮誕生の時、海辺には蓮華が咲き、鯛が群れ、館の庭に清泉がわき出たという。これが今の蓮華ヶ淵、妙の浦、誕生水井戸であるという。

つまり日蓮が産まれた時、庭から清水が湧きだした、海には鯛が群れ集まった、海岸には蓮の花が咲き乱れたという三奇瑞が起こったという伝説があり、鯛ノ浦の真鯛は、長い間、禁漁が守られ、手厚く地元の人たちによって保護されてきたのだという。

建治二年(1276)10月、中老僧・日家と日保が、日蓮父母の館跡地に一宇を建立し、日蓮自ら高光山日蓮誕生寺と命名した。

当時の誕生寺は、今の鯛ノ浦にあったが、明応七年(1498)8月の地震・津波で押し流され、再建堂宇も元禄十六年(1703)11月の大地震による津波で流失。日蓮の生家があったところは、大地震による津波で海中に没してしまっているということになる。

 

鯛ノ浦は、千葉県鴨川市内浦湾から入道ヶ崎にかけての沿岸部の海域で、ここに真鯛(マダイ)が群泳することて゛広く知られている。

ここの真鯛は、特別天然記念物に指定されていて、域内では釣り等が禁止されている。

本来、真鯛は水深1020mを回遊する魚であるらしいのだが、鯛ノ浦のような水深の浅い海域に根つきになることはまず有りえないという。

古来からここの真鯛は名物とされていて、手漕ぎの舟でタイ見物をさせていたが、今は鯛ノ浦遊覧船により、鯛ノ浦周辺海域を廻り、エサづけされた真鯛を見ることができる。

 

この鯛ノ浦の遊覧船はもともと、市議会議員によって運営されてきたのだったが、1954(昭和29)年、小湊鯛ノ浦遊覧船企業組合が設立され、ここが遊覧船を運営している。

遊覧船に乗ると鯛ノ浦会館を出て、鯛の群泳鑑賞と弁天島周辺の遊覧を案内してくれる。鯛ノ浦の浅瀬に、真鯛が群泳しているというのは、本当のようである。

真鯛も、日蓮の化身として信仰され、弁天島は海中に没してしまった日蓮の生家に近いせいか、弁天が祀られ、ここへも年中、参拝者が絶えないのだという。

鯛の浦1
 

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■小湊誕生寺1(観心本尊抄・撰時抄等のレプリカ)

 

「小湊誕生寺」とは、千葉県鴨川市天津小湊にある日蓮の生誕を記念して建てられた寺で、1276(建治2)10月、日蓮の弟子・日家が日蓮の生家跡に高光山日蓮誕生寺として建立されたというが、この説は今は疑わしいとされている。

誕生寺の開祖・日家も、富士妙蓮寺の開祖・寂日坊日華と同一人だの、そうでないだのという論争がつづいており、未だに結論が出ていない。日蓮宗が発刊する「日蓮宗本山めぐり」の中の記述は、誕生寺の開祖・日家を誕生寺二世としており、富士妙蓮寺の開祖・寂日坊日華とは別人説に立っているように思われる。

 

1498(明応7)年と1703(元禄16)年の二度の大地震による大津波にあい、現在の地で水戸光圀の外護で「誕生寺」が再建されたが、1758(宝暦8)年に火災で焼失。1842(天保13)年に再建された。

誕生寺の境内には、仁王門、本堂、客殿、日蓮像が祀られている祖師堂、宝物殿などが建ち並んでいる。

境内中央にそびえ立っている大きな堂宇は祖師堂。この祖師堂の裏側に本師殿宝塔がある。

本堂、客殿、寺務所、布教殿堂は歩道橋を渡って奥にある。参道には売店が建ち並んでいて、普段から参詣人が多いことを伺わせている。

祖師堂はケヤキの大柱52本を使った国内有数の大堂で、日蓮像が安置される御宮殿は明治皇室大奥の寄進によるものであるという。

祖師堂内の右側の天井には南部藩の相馬大作筆による天女の絵が描かれる。堂内の天蓋等の仏具類は明治天皇の生母である中山慶子一位局や、大正天皇の生母・柳原愛子一位局による寄進によるものだという。

 

私がこの中で注目したのは、宝物殿である。

ここには、日蓮真筆の大漫荼羅本尊、日蓮真筆遺文「富木殿女房ご返事」、日蓮真筆の「観心本尊抄」「撰時抄」「立正安国論」のレプリカなどがズラリと展示されている。

日蓮真筆のレプリカではあるが、「観心本尊抄」「撰時抄」「立正安国論」は見ものである。

寺院の虫払いとか風入れの法要に行っても、見ることはできるかもしれないが、ゆっくりと間近で見ることはできない。

千葉県鴨川市天津小湊にある日蓮宗の古刹寺院・誕生寺・宝物館の展示は、数ある日蓮関係の寺院の宝物館における展示や「霊宝虫払い法要」における拝観などの中では、実にゆっくり展示を拝観できたし、内容的にもとても充実していたものだと思う。

この誕生寺宝物館の常設展示は9室に分けられていて、ここには国宝や重要文化財などがズラリと並んでいる。

小湊誕生寺4


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鎌倉・安国論寺3(日朗の荼毘所)

 

日蓮が松葉ヶ谷法難で一時避難した南面窟は、安国論寺境内のけっこう山の中にあります。外から見ると、ただの洞穴にしか見えない。

安国論寺の説明によると、日蓮は松葉ヶ谷法難の時、一時、南面窟に避難した後、お猿畠・法性寺に逃れたということです。

御法窟も南面窟も、安国論寺に来る度に、何度も来ているのですが、ここに来ると、何となく「ここが松葉ヶ谷法難があったところか」と、感慨無量な気持ちになります。松葉ヶ谷法難とか立正安国論というのは、実に有名な史実で、学生のころ、映画「日蓮」でも見ましたし、その後、映画「日蓮」のDVD版も取り寄せて持っていますので。

安国論寺14本堂

 

安国論寺の境内には、日蓮の六老僧第二・至孝第一といわれる、安国論寺第二祖・日朗の荼毘所がある。安国論寺では「日朗上人御荼毘所」と呼んでいる。

日朗は元応二年(1320)121日に78才で遷化(死去)しているが、出家得度の松葉ヶ谷の地で荼毘に付してほしいと遺言したため、この安国論寺に荼毘所があるという。

ただし日朗の廟所(正墓)はここではなく、逗子・法性寺にある。逗子の法性寺は、松葉ヶ谷法難の折、日蓮が白猿に導かれて避難したという場所。日蓮の岩窟や弟子の日朗の廟所がある。

日朗の廟所は、池上本門寺にもある。池上本門寺には、日蓮の灰骨を納めた「日蓮聖人御廟所」があるが、その隣には二祖日朗の廟所、三祖日輪の廟所が並んで建っている。

安国論寺12荼毘所

 

日朗という人は、関東・鎌倉方面を中心に布教をした人で、日朗を第二祖としている寺院は、安国論寺だけではなく、池上本門寺、鎌倉妙本寺などの日朗門流の寺院の他、日朗の弟子の日像門流の京都妙顕寺、さらにそこから別れた京都妙覚寺、岡山妙覚寺、岡山本覚寺等々、実に多数ある。

日興門流の人に言わせると、日興やその弟子の日尊は全国布教に活躍したというような話しをしますが、私が見聞した限りでは、日朗門流のほうが日蓮宗の布教をかなり広めているという実感があります。

関東で多いのはこの日朗門流であり、はじめて京都布教を成し遂げた日像は、日朗の弟子。

さらに日像門流から法華宗本門流、本門法華宗、法華宗真門流、日蓮宗不受不施派等が分岐している。こういう分岐した門流の祖は日朗であるわけで、こういうのも全て日朗門流に含めれば、日蓮宗関連では最大規模になると思われます。

 

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鎌倉・安国論寺2(御小庵の霊跡と認定)

 

鎌倉・安国論寺は、日蓮・松葉ヶ谷草庵跡地として、有名な寺院で、まずここには、戦前、神奈川県が建てた「松葉谷日蓮上人遺跡」と書かれた石碑が建っている。

安国論寺7御小庵

 

文中、紀元と書いてあるのは、西暦のことではなく、皇紀のこと。皇紀とは、神武天皇即位紀元といい、初代天皇である神武天皇が即位したとされる年を元年(紀元)とする、日本の紀年法のこと。紀元節(現在の建国記念の日)廃止までは、単に「紀元」と言った場合には、神武天皇即位紀元(皇紀)を指していた。

この石碑の漢字も、昔の字体になっていて、いかにも戦前に建てられた石碑という感じがします。

 

さてもうひとつ。安国論寺の門前には、鎌倉市教育委員会が建てた案内板があります。それには、次のように書かれています。

 

「当山は日蓮聖人松葉ヶ谷御小庵の霊跡です。御小庵の元となった岩窟(「御法窟」または「日蓮岩屋」という)が本堂の向かいにあります。この御法窟で日本国の安泰と人々の幸せを願って文応元年(1260)七月十六日、前執権北条時頼に建白した『立正安国論』が執筆されました。

翌八月二十七日に立正安国論に反感を持つ人々に庵が襲われました。これは「松葉ヶ谷の法難」といわれています。本堂の裏山に一時避難した「南面窟」があります。

境内は四季折々の花や紅葉で彩られています。なかでも御小庵の傍らの山桜は、日蓮聖人の桜の杖が根づいたといわれ、「妙法桜」と呼ばれています。サザンカやカイドウと共に、鎌倉市の天然記念物に指定されています。」

安国論寺15

 

このように鎌倉市教育委員会が建てた案内板があるということは、学術的に安国論寺が松葉ヶ谷御小庵の霊跡であることを認定されているということです。

日蓮が「立正安国論」を執筆したという御法窟とよばれる穴蔵は、外から見ると渡り廊下のような建物に覆われていて、中までは見えない。現在は非公開になっているとのこと。

保存のために、そうしているのでしょうか。理由はわかりません。

安国論寺1御法窟

 

現在、境内の一角に遺っている御小庵は、安国論寺の案内によると、尾張徳川家の寄進で、元禄年代に建立された堂宇。総欅造りになっている。

御小庵と言われるとおり、まことに小さな堂宇である。もちろん、日蓮在世当時の堂宇は、法難等で失われているのだろうが、しかし日蓮在世当時の御小庵は、こんな感じの堂宇だったのだろうか。続きを読む
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鎌倉・安国論寺1(立正安国論・松葉ヶ谷法難の霊跡)

 

安国論寺(あんこくろんじ)とは、神奈川県鎌倉市大町(名越)にある日蓮宗の寺院で、正式名称は妙法蓮華山安国論寺という、ちょっと長い名前である。

長勝寺と並び日蓮の鎌倉での布教の中心となった松葉ヶ谷草庵跡とされ、松葉ヶ谷霊跡・安国論寺とも言う。開山は日蓮とするが、弟子の日朗が文応元年(1260)に、日蓮が前執権北条時頼に建白した「立正安国論」を執筆した岩穴(法窟)の側に安国論窟寺を建てたのが始まりとされている。ここは、日蓮が北条時頼に提出した「立正安国論」を書いたという古刹寺院であり、日蓮は、ここに草庵を結び、布教活動の拠点にしたとされている。

またここは、日蓮の「松葉ヶ谷法難」の舞台になった所とされている。

日蓮・立正安国論の霊跡ということで、本堂には「立正安国」の扁額が掲げられており、境内には、立正安国論の墨筆を模写した石碑があります。

安国論寺13本堂

 

安国論寺の説明によると、日蓮が立教開宗して鎌倉に入った後、鎌倉・名越の松葉ヶ谷の岩屋に草庵を結んだ跡地が、現在の安国論寺の本堂の向かい側にある御小庵と、その奥に連なっている御法窟(御岩屋)であるという。

安国論寺10御小庵


しかし現在の御小庵は、日蓮が住んでいた庵ではなく、江戸時代・元禄のころに、尾張・徳川家の寄進によって建立された総欅造りのものということである。

御法窟という所が、日蓮が「立正安国論」を起草したところで、南面窟という所が、文応元年(1260)の「松葉ヶ谷法難」の時に、白猿に導かれて日蓮が避難した場所であるという。

安国論寺4南面窟

 

安国論寺の見解によれば、日蓮は、立宗宣言後の32才から龍口法難の50才のころまで、伊豆流罪・小松原法難前後中を除く約17年間、ここに草庵を結んでいたという。もしこれが本当だとすれば、身延山に滞在した9年よりも長く、日蓮が立宗宣言後、最も長く滞在した所になるのではないだろうか。

そうすると日蓮関連の霊跡としては、有数の霊跡になるはずなのだが、この安国論寺は日蓮宗本山には数えられていない。元は鎌倉比企谷・妙本寺の末寺であった。

 

境内には、日蓮の杖が根付いたとされる市原虎の尾という品種のヤマザクラである「妙法桜」というのがあり、鎌倉市の天然記念物になっている。

「市原虎の尾」という品種の桜は、非常に珍しい品種の桜であるという。

そこでちょっと「市原虎の尾」について調べてみたのだが、もともとこの品種は、京都の市原にあった桜で、小枝に花が密生してつくその様子が虎の尾に似ているところから、大谷光瑞という人物が「市原虎の尾」と名前をつけたという。

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片瀬・龍口寺1(日蓮・龍ノ口法難・刑場跡)

 

□日蓮・龍ノ口法難の時に本当に江ノ島方向から“光り物”は飛来したのか

 

龍口寺(りゅうこうじ)とは、神奈川県藤沢市片瀬の龍口刑場跡に建つ日蓮宗の本山(霊蹟寺院)で、正式名称は寂光山龍口寺。略字体を用いて「竜口寺」と称す場合もある。

場所的には、江ノ島電鉄の江ノ島駅から徒歩で3分ぐらいのところにあり、住所的に言うと、ここは鎌倉市ではなく、藤沢市になる。

この地はかつて刑場跡で、文永8年(1271年)912日に日蓮宗の宗祖・日蓮が処刑されそうになった事件、日蓮宗や日蓮正宗では、龍ノ口法難と呼ぶ事件の舞台になったところで、いわゆる龍ノ口刑場跡である。

私がここで見たかったのは「龍口刑場跡」。

龍口寺1


日蓮は、龍口の刑場に連行されたのだが、実際には首を切られなかった。突然、日蓮の処刑は中止になり、まさに九死に一生を得たのである。

日蓮の回想録とも言うべき遺文(御書)「種々御振舞御書」に、日蓮は

「江の島の方より『光り物』が現れ、それまで人の顔も見えないほどの暗闇だったのに、『光り物』の光によって月夜のように明るくなり、人々の顔が見えるくらいに明るくなった。太刀取りの目がくらんで倒れて臥し、兵士たちは恐れおののき、馬の上でうずくまってしまう者もいた」

等と書いている。ただしこれは日蓮が)「種々御振舞御書」にそう言っているだけの話しで、幕府の公式記録・歴史書の「吾妻鏡」等に、こういう記載は全くない。

 

歴史的な事実として確実に言えることは、日蓮は、判決にない不当な処刑で殺されかかったのだが、何らかの事情で命が助かった、ということである。その何らかの事情とは、江戸時代のころから、執権・北条時宗の夫人が懐妊中だったので、祟りを避けるために、「坊主殺し」を中止したのではないか、という説が囁かれている。しかし私はこの説に、いささか懐疑的である。

 

というのは、そもそも日蓮に対して、鎌倉幕府が下した判決は「佐渡流罪」なのであり、死刑ではない。それを平頼綱が深夜に日蓮を龍口で誅殺しようとしたわけで、元々の判決は死刑ではないわけです。であるならば、もし仮に執権・北条時宗が、日蓮が誅殺されかかっている、ということを知ったならば、「日蓮は佐渡流罪にはしたが、殺せとは言っていない」として、処刑は中止させるでしょう。当然です。そうしないと執権の威信が丸つぶれになってしまいまう。1979年に製作・公開された映画「日蓮」では、執権・北条時宗が日蓮の処刑を中止せしめるという場面を入れています。こちらのほうが的を得ている感じがします。

 

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日蓮本宗・鳥辺山實報寺10(禅寺に葬られ親鸞の隣りで眠る日目)

 

私は、實報寺住職との長時間に及ぶ単独会見を終えたのでしたが、私にとっては、大きな成果のある實報寺訪問と言うことになりました。實報寺住職は

□ここ鳥辺山にあった延年寺に、日目が葬られて正墓が建てられたこと

□延年寺とは禅宗の寺院であったこと

□その後、延年寺が鳥辺山から出て行くに当たって、富士門流で、日目の正墓がある墓域を延年寺から買い取ったこと

□その買い取った日目の正墓の墓域が、今の實報寺であること

□よって實報寺に日目の正墓があること

□大石寺に、日目の遺骨の分骨をしていないこと

以上のことを明確に認めました。つまり

□日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨が「富士宗学要集」8巻に収録し、堀日亨が「売券」と呼んでいる古文書に書いてある内容である、日目が京都・鳥辺山の延年寺に葬られて正墓が建てられ、その墓域がある延年寺成願の所領を富士門流が四回にわたって買い取った土地が、今の實報寺であること

□實報寺墓苑中央にある廟こそが、日目、日尊が眠る正墓であること

□實報寺のほうで、大石寺に日目の遺骨を分骨したという事実はなく、實報寺住職が分骨を全面否定したことで、大石寺・下之坊にあると日蓮正宗が自称している『日目上人の御正墓』なるものはニセモノであること

これらがここで確認されたと言うことです。

さらに注目すべき事は、かつて京都・鳥辺山にあった延年寺は、禅宗の寺院であったこと。つまり鳥辺山の延年寺墓地に日目が葬られた、ということは、とりもなおさず、禅宗の寺院の墓地に葬られた、ということになる。

さらにもうひとつ言うと、この實報寺の道路を挟んだ隣には、浄土真宗の開祖・親鸞の大谷本廟があり、とりもなおさず、ここには親鸞が葬られて、眠っている。つまり大石寺三祖日目は、京都の禅宗の寺院の墓地に葬られていたということであり、今は實報寺は富士門流の寺院ではあるものの、大石寺の末寺ではない。しかも浄土真宗の開祖・親鸞と隣同士になって日目は眠っている。

こういう真実の姿は、日蓮正宗としては、とても恥ずかしくて信者には言えないだろう。日目の正墓が、同じ富士門流とはいうものの、日蓮正宗と対立関係にある要法寺の末寺である實報寺にあるわけだから。日蓮正宗としても、日目の遺骨が京都・鳥辺山に葬られて日目の正墓が鳥辺山に建てられたことは、史実と認めているわけで、これは動かしがたい。

實報寺10日目正墓3


大石寺17世日精や59世堀日亨も、明確に日目の遺骨が京都・鳥辺山に葬られて、鳥辺山に日目の正墓が建てられたことは、史実と認めているし、日蓮正宗富士学林が発行している「富士年表」でも、鳥辺山の日目墓地の四回の土地買い取りを史実として、年表に載せています。

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日蓮本宗・鳥辺山實報寺9實報寺に日目の正墓があると断言2

 

一通りの住職からの回答があった後、私と住職の問答になった。

 

○「それでは、日目上人、日尊上人の正墓は、ここ実報寺さんにあるわけで、日蓮正宗大石寺にはない、ということで、よろしいわけですね」

□住職「正墓というのは、どういう概念で言っておられるのですか」

實報寺10日目正墓3


○「人が亡くなって、葬儀を執り行い、遺体を荼毘に付して、遺骨をどこかに葬る場合、通常は、その人の遺骨をお墓に納めますね。そこが正墓と言うことです。その後、分骨をして他にも墓を建てる場合がありますが、そこを正墓とはいいませんねえ。通常なら、正墓というのは一カ所しかありませんね。」

□住職「それならば、目師(もくし・日目のこと)の正墓は、ここ(實報寺)にあるということになります」

○「では、あそこ(實報寺の墓苑)にある正墓には、日目上人、日尊上人の真骨が納められている、ということですね」

□住職「日目上人は、こちらに葬られたことは史実ですが、しかし、それから何百年も経っていますので、今は土に還っているかもしれません」

○「こちらにある墓が、日目上人の正墓ということであれば、日蓮正宗が、大石寺・下之坊にあると自称している『日目上人の正墓』なるものは、ニセモノということになりますねえ」

□住職「ニセモノ?

○「それは、そうでしょう。日目上人は、ここ鳥辺山に葬られて、ここに正墓があるわけですから。正墓というのは、一カ所しかありませんですからねえ。ここ以外で、日目上人の正墓だと称している所は、ニセモノということになるでしょう。まあ、もっとも、要法寺さんや實報寺さんのほうで、大石寺に日目上人の遺骨を分骨していれば、話しはべつですが」

□住職「大石寺に分骨はしておりません」

○「ならば、日蓮正宗が大石寺・下之坊にあると称している『日目上人の正墓』なるものは、ニセモノということになるでしょう」

□住職「まあ、そういうことになるのかもしれませんけども、ただ、むこう(日蓮正宗)が、そういうことを言っているとしても、こちら(實報寺)は、それはちがうよ、ということも言いませんけどね」

 

こんな感じで、私と實報寺住職との間で、日目の正墓論争が延々とつづきました。

が、この中で、實報寺住職は

□ここ鳥辺山にあった延年寺に、日目が葬られて正墓が建てられたこと

□その後、延年寺が鳥辺山から出て行くに当たって、富士門流で、日目の正墓がある墓域を延年寺から買い取ったこと

□その買い取った日目の正墓の墓域が、今の實報寺であること

□よって實報寺に日目の正墓があること

□大石寺に、日目の遺骨の分骨をしていないこと

以上のことを明確に認めたわけです。

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日蓮本宗・鳥辺山實報寺8(實報寺に日目の正墓があると断言)

 

實報寺住職の方も、言いたいことを言って少し気持ちが晴れたのか、ようやく少しは心を開いて喋り始めました。

 

□住職「あなたはサイトを主宰しておられるのですか」

○「そうです。『アンチ日蓮正宗』という名前のサイトを主宰しています。立場的には、反日蓮正宗である他、反創価学会、反顕正会、反正信会で、日蓮正宗から派生した団体に対しても、すべて反対の立場で、これらの関連サイトが6つあります」

□住職「『アンチ日蓮正宗』ですか。それは日蓮正宗を叩くサイトということですね」

○「そのとおりです。しかし今、日蓮正宗・創価学会・顕正会・正信会はお互いがお互いを罵倒しあっており、中でも日蓮正宗と創価学会が『宗創戦争』で罵倒中傷しあい、信者の争奪合戦を展開しています。『アンチ日蓮正宗』の立場は、あくまでも反日蓮正宗・反創価学会・反顕正会・反正信会です。宗創戦争をはじめとする日蓮正宗系の団体同士の紛争のいずれにも与するものでもなく、これらの紛争による信者のカルトサーフィンそのものを止めさせることが第一義です」

□住職「そうですか。それで目師(日目)のお墓が大石寺にあると、日蓮正宗では言っているのですか」

○「そうです。『大石寺案内』という小冊子には、日目上人の正墓は、大石寺のすぐ近くにある大石寺末寺・下之坊にある、と書いてあります。又、日蓮正宗の僧侶は、自分の寺の信者には、大石寺墓苑の三師塔が日目上人の正墓だ、などと教えています」

□住職「そうですか。まあ、むこう(日蓮正宗)では、派手にいろいろな本を出したり、新聞を出したりしておりますからねー。それでむこう(日蓮正宗)は、むこうで、こちら(日蓮本宗・要法寺)のことを、いろいろと批判したり、いろいろ書いているようですが、だからといって、こちらは、むこうに反論する本を出すということは、しておりません。尋ねられれば、お答えはしておりますが」

○「では率直にお尋ねしますが、日目上人の正墓は、ここ京都・鳥辺山にあるのですか。それとも大石寺にあるのですか」

これだけ長々と、延々、住職と話を続けて、ようやく話題が本題に入っていったのでありました。

實報寺10日目正墓3
 

□住職「ご承知のように、目師(もくし・日目のこと)は、京都に天奏に出られた旅の途中、美濃国(岐阜県)垂井で御遷化になられました。それで目師のお供をしていた尊師(ぞんし・日尊のこと)と郷師(ごうし・日郷のこと)は、目師を荼毘に付されて、尊師は目師の御遺骨を奉じられて京都に来られました。郷師は、大石寺に帰られたわけです。

尊師は、京都の鳥辺山に来られたわけですが、このあたりに延年寺というお寺がありまして、その延年寺の墓地の一角に、目師の御遺骨を葬られたのです。その後、延年寺が鳥辺山から出て行ったため、尊師が目師の墓地の一角を買い取られたのです。そして尊師が御遷化になられた後、尊師もここに葬られました。延年寺というお寺は、禅宗のお寺で、今は大津にあるんですけれどもねー。その後、目師のお墓の周りに、墓地ができて、今日に至っているという次第です。まあ、京都での富士の門流と言っても、ウチ(要法寺)だけですけれども」

 

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日蓮本宗・鳥辺山實報寺4(鳥辺山から消えた延年寺)

 

鳥辺山實報寺については、要法寺発行の「私たちの要法寺」には

「鳥辺山御廟所

本山御歴代の貫首上人の墓所は、東山五条上ルの鳥辺山実報寺にあります。

鳥辺野は、すでに王朝時代から無常所として都の人々の墓地に使われていました。日目上人の御遺骨が埋葬されたのもここです。日尊上人はなくなる時、日目上人の御遺骨を頭上にいただく形にして葬るよう命ぜられ、師厳道尊の実を示されたということです。ここがのちに実報寺となりました」

と書いてある。「本山要法寺参詣案内」には

「鳥辺山御廟所

二祖日興上人、正慶二年二月七日寂滅せらるるに先んじて愛弟子日目上人を召して帝関奏聞を遺命し玉ふ(時に興師御年八十八)。日目上人かしこみて日尊、日郷の二上人を同伴せられ、天奏上洛の途次十一月俄然病ひ革まり、日尊上人に後事を托せられ、同月十五日、岐阜県不破郡垂井に於いて遂に遷化せらる。日尊上人は悲嘆止むかたなきも遺命を奉じて天聞奏上、遺骨を鳥辺の山野に納め玉ふ。康永二年四月実報寺を開創せらるるにあたり、逆修塔を建立し御自ら碑面の文字を揮毫し給ふ。爾来歴代上人遺骨此の地に納め奉り、本山御廟所として四時参詣者絶えず、先師の遺徳を偲び御報恩の誠を捧ぐ」

とあります。

私たちの要法寺1


いずれも、日蓮本宗本山要法寺が発行した公式文献として、鳥辺山実報寺に大石寺・要法寺三祖日目の遺骨が葬られたことを記している。

しかしこの文献を知ったのは、実報寺に行ったあとのこと。

鳥辺山に行く前は、資料も何も全くない状態でした。

 

私は、大石寺三祖日目の正墓探しの作業を、京都の鳥辺山墓地を探すことからはじめたのであったが、これがなかなか困難を極めた。

まず、京都に「鳥辺山」とか「鳥辺野」という地名が見つからない。そのような名前の住所も、京都にはない。探しに探したあげく、ようやく京都・東山五条に「鳥辺山」の名前を見つけた。

私が調査した中で、京都で「鳥辺山」ないしは「鳥辺野」の地名を載せていたのは、JTB発行のガイドブック「アイジャパン」である。

この「アイジャパン」の地図によると、京都・東山五条の国道一号線脇に「鳥辺山」と書いてあり、その中にある通妙寺のところに「鳥辺野墓地」と書いてある。

通妙寺とは、日蓮宗寺院となっていたが、詳細はわからなかった。「アイジャパン」の地図には實報寺も載っていたが、その時点では何の詳細もわからず、当初は私の眼中にはなかった。

 

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日蓮本宗・鳥辺山實報寺3(下之坊に日目の遺骨はない)

 

日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』8p6971に収録されている、京都・東山の延年寺墓地に葬られた日目の墓地を、富士門流が延年寺から墓地を四度にわたって買い取って、墓域を拡張した四通の文書(堀日亨は売券と呼んでいる)によって、日目が京都・鳥辺山の延年寺墓地に葬られたことは明らかである。

實報寺11日目墓4


この古文書を堀日亨は正文書と認めており、さらに上代の法主である大石寺17世日精も、「家中抄」で、日目は京都・東山・鳥辺野に葬られたと書いている。つまり日蓮正宗大石寺の上代の法主が、日目は京都・鳥辺山に葬られたと認めているのである。

それにも関わらず、今の大石寺は、日郷が日目の遺骨を持ち帰って富士に葬った、などと言っており、「仏教哲学大事典」には次のように書いてある。

「日尊は京都の鳥辺山(東山鳥辺野)に墓所をつくり、日郷は遺骨を持ち帰って富士大石寺に帰り、下之坊に納めた。日目上人の正墓は上野の下之坊の右手、富士を背にした景勝の地にあり、総本山富士大石寺を見守っているような位置にある」(『仏教哲学大辞典』p950)

 

これによると日尊は京都・鳥辺山に日目の墓所だけを造り、遺骨は日郷が富士に持ち帰ったと言うことになる。そんなバカな話しがあるだろうか、といいたくなる。

自らの師匠を葬る正墓を造るのに、遺骨のない墓所を造る弟子がどこの世界にいるだろうか。

しかも、遺骨がない墓所の墓域を拡張しようと、わざわざ大金を支払って墓域の土地を四回も買収するはずがないではないか。鳥辺山の日目の墓所に日目の遺骨が入っているからこそ、墓域を拡張しようと土地を買収したのではないか。

 

では日郷は、本当に富士に日目の遺骨を持ち帰ったのか。

これも道理や常識から考えると、日郷がそんなことをするはずがないのである。

日目は、1333年、京都天奏の旅路の途中、美濃国垂井で死去した。京都天奏の志を遂げることなく、道半ばで倒れたわけである。では日目の弟子は、師匠・日目の遺骨をどこに葬るだろうか。

日蓮正宗に言わせると、弟子の日郷は遺骨を大石寺に持ち帰ったというが、本当に日目の弟子は、そうするだろうか。

3祖日目1


日蓮正宗の発想だと、日蓮正宗大石寺には「血脈相承」なるものがあり、日目は日興から「日興跡条条事」で唯授一人の法主に選定されたのだから、大石寺に葬られたのだ、ということになる。

しかし「日興跡条条事」も「血脈相承」なるものも、後代の法主である大石寺9世日有が偽作したものであり、全くの嘘っぱちである。

ならば、血脈相承だの日興跡条条事なるものを除去して冷静に考えたら、どうだろうか。どういうことかというと、ここは常識で考えるべきである。

つまり師僧が志し半ばで倒れ、目的を果たせずに死去したら、弟子はどうするのか。よくよく考えてみるべきである。

 

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日蓮本宗・鳥辺山實報寺2(日目墓域を買収・拡張を記した古文書)

 

日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』8p6971に収録されている、京都・東山の延年寺墓地に葬られた日目の墓地を、富士門流が延年寺から墓地を四度にわたって買い取って、墓域を拡張した四通の文書(堀日亨は売券と呼んでいる)とは、以下の古文書である。

 

1 1340(暦応3)の文書

「売り渡す延年寺観音堂西寄の地の事。

合台所在、東西壱丈、南北壱丈

右件の地は成願が相伝の私領なり。然りといへども、用事あるによつて直の銭壱貫文に安房の国当住大田の宰相阿闍梨日郷に売り渡し奉る所実なり。若し此の地におき候いて向後違乱煩い出来て候はん時は売り主の沙汰として本銭壱壱倍をもちて十箇日の内に弁え申し候べく候。後の為に売り券の状件の如し。

暦応三年七月十五日                延年寺成願在り判」

 

2 1344(康永3)の文書

「売り渡しまいらせ候延年寺の地の事。

合東西六尺、南北一丈、定 日目上人御墓前なり。

右件の地は故成願が私領なり。用要あるによつて日向の国富田の庄内、日知屋寺の別当御房(薩摩阿闍梨日眷)に永年お限って用途六百文に永く売り渡しまいらせ候所実なり。若し此の地に子細候はば此の状を先として御沙汰候はんに子細あるまじく候。若し無沙汰なる事候はば本の用途にても候へ、又別の地にても候へ急ぎ急ぎ沙汰仕り候べく候。仍って後日の為に証文状件の如し。

康永三年太歳甲申潤二月廿八日   故成願が後家比丘尼明知在り判」

 

3 1347(貞和3)の文書

「売り渡す延年寺の地の事。

合一丈、四方□□一貫文

右件の地は成願が私領にて候なり。用あるによつておしてらのれんさう無く永く売り渡しまいらせ候所実なり。若し此の地に子細煩い候はん時は異地にても又本銭にても候へ。弁へ申し候間、此の証を先として御沙汰あるべく候に子細候まじく候。仍って後の為に売り券の状件の如し。

貞和三年七月十八日 売り主 成願後家在り判」

富士宗学要集9

 

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日蓮本宗・鳥辺山實報寺1(日目の正墓がある京都・鳥辺山御廟所)

 

實報寺(じっぽうじ)という寺院は、正式には多寶山實報寺といい、日蓮本宗本山・要法寺の末寺。つまり富士門流八本山・日尊門流の祖山である京都・要法寺の末寺。

實報寺3


要法寺が発行している小冊子「私たちの要法寺」の中では「鳥辺山御廟所」として載っていて、大石寺・要法寺・保田妙本寺・小泉久遠寺の三祖・日目の正墓がある他、要法寺歴代貫首の墓がある寺である。

場所は、京都・東山五条の鳥辺山にあり、便宜上、「鳥辺山實報寺」としました。

東山五条だから、東山三条の本山・要法寺から、そんなに遠くない所にある。

では、なぜこの寺に訪問することになったのかというと、三祖・日目の正墓探しをしている中で、訪問することになったわけですが、これが思わぬ形での訪問になった。

日蓮正宗大石寺に言わせると、日目の正墓は、日蓮正宗寺院・下之坊にあるということになっている。

大石寺が発行している「大石寺案内」という小冊子には、日目の正墓が下之坊にある旨、堂々と記載されているし、毎年の下之坊のお会式には、大石寺から法主が下向するのだが、法主は「墓参」と称して、下之坊の自称・日目の墓に墓参・読経・唱題する。

しかし、下之坊に日目の正墓があるというのは全くの虚偽であり、日目の正墓のある所は、下之坊でもなければ、日蓮正宗大石寺でもない。では日目の正墓はどこにあるのか。

 

富士門流の古文書を調査していくと、日目は京都・鳥辺山墓地に葬られたということになっており、日目の正墓は、京都・鳥辺山の延年寺にあることになっている。まず鳥辺山説を唱えているのは、日蓮正宗大石寺17世法主日精である。日精は自らの著書「家中抄・日目伝」の中で、次のように書いている。

「御骨を拾い頚にかけ涙に咽び遥々と京へ上り給ひて東山鳥辺野に御墓を築き給ふ、其の後日郷は哭く哭く御所持の道具御守り等取り持ちて富士にぞ下向し給ひける」

(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』5p191・日精著『富士門家中見聞』)

 

さらに堀日亨編纂『富士宗学要集』8p6971には、京都・東山の延年寺墓地に葬られた日目の墓地を、日郷門流が延年寺から墓地を四度にわたって買い取って、墓域を拡張した文書(堀日亨は売券と呼んでいる)が四通、収録されている。

日蓮正宗においても、この四通の文書を正文書と認め、日蓮正宗が発行している「富士年表」においても、この四通の文書(売券)が発行された1340年、1344年、1347年、1365年の四回の墓地買い取りを第1次~第4次の「日目墓地買い取り」として載せている。

59世日亨2

 

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ヤフーオークションに、日蓮の大曼荼羅本尊が、1億円の価格で出品された事件の絡みで、当該の曼荼羅が「昔、週刊誌に載っていた、京都の日蓮宗寺院から盗難に遭った曼荼羅ではないか」

との説が出たので、平成7年に起こった「日蓮真筆大漫荼羅本尊盗難事件」を検証してみたい。

まず時系列に並べると、概ね以下のようになる。

 

1995(平成7)

428  神奈川県鎌倉市妙本寺,宝蔵庫に不法侵入されるが盗難未遂に終わる(仏教タイムス)

5 7  千葉県茂原市法華宗本門流鷲山寺,不法侵入されるが盗難未遂に終わる

512  日蓮宗宗務院,一連の宗宝盗難事件に対し真蹟類格護に万全を期すよう宗門関係寺院に注意を喚起する〈6・16〉(仏教タイムス)

529  京都市本門法華宗妙蓮寺,日蓮聖人真蹟曼荼羅本尊他寺宝6点が盗難に遇う

7 2  京都市日蓮本宗要法寺,宝物の一部が盗難に遇う(仏教タイムス)

1027  京都市本圀寺,日蓮聖人真蹟曼荼羅など宗宝・寺宝の盗難被害届けをする(だいぶ後になって盗難が発覚したもの)

本尊041

 

これらの事件は未遂も含めてのものですが、

1995(平成7)529日  京都市本門法華宗妙蓮寺での盗難事件

1995(平成7)1027日  東の身延山に対し「西の総本山」と呼ばれている日蓮宗の大本山・本圀寺での盗難事件

この二つは、実際に日蓮直筆の大漫荼羅本尊が盗まれている。

この当時は、日蓮正宗と創価学会の「宗創戦争」が最も派手に繰り広げられていた時代でしたので、この宗創戦争との関連が盛んに囁かれていた。

 

1991(平成3)1128日 日蓮正宗が創価学会を破門

1992年(平成4年)

7月 創価学会が全国の地区幹部の中から「友人葬」などの冠婚葬祭を執り行う導師を任命。

811日 池田大作が日蓮正宗から信徒除名処分にされる。

1993年(平成5年)

10月 栃木県・淨圓寺所蔵の日寛書写(享保五年)の曼荼羅本尊を新形木御本尊として、世界の創価学会員に授与することを制定。

 

こういった流れの中で、創価学会員全員の日蓮正宗信徒の資格喪失も時間の問題と言われていた最中のこと。実際、1997年(平成9年)121日 日蓮正宗が「宗規」を一部改正して、創価学会員の日蓮正宗の信徒資格を全て喪失せしめることを決定している。

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ヤフーオークションに、日蓮の大曼荼羅本尊が、1億円の価格で出品された事件の続報です。

オークションの期限は、76日まで延長になっています。

http://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/161728331?__from=mixi

 

さて、このオークションに出品されている大漫荼羅本尊ですが、曼荼羅の相が、静岡県湖西市吉美の日蓮宗本山・妙立寺に格蔵されている「文永十二年乙亥卯月 日」の日付が入った大漫荼羅と、そっくりであるわけです。

妙立寺に格蔵されている大漫荼羅は、立正安国会の「日蓮大聖人御真蹟・御本尊集」NO24に載っている大漫荼羅として有名です。

本尊024

 

そこで、今回、吉美・妙立寺に電話をかけて問い合わせをしました。電話口には、妙立寺46世吉塚敬一貫首が出られたので、見解を聞きました。

吉塚敬一貫首の見解は

 

「現在、妙立寺には立正安国会の「日蓮大聖人御真蹟・御本尊集」NO24に写真が載っている大漫荼羅が格護されており、盗難にあったとか、寺外に持ち出したとか、という事実はない」

「ヤフーオークションに1億円の価格で出品されている大漫荼羅は、たしかに曼荼羅の相は、妙立寺に格蔵されている大漫荼羅と実によく似ています」

「妙立寺に格蔵している大漫荼羅を、妙立寺が誰かに依頼してヤフーオークションに出品するなどということは、全く行っていません」

「よって、ヤフーオークションに出品されている大漫荼羅は、妙立寺が格蔵している大漫荼羅と似てはいますが、別の曼荼羅だと思います」

1週間くらい前にも、妙立寺に格蔵されている大漫荼羅とそっくりの曼荼羅がヤフーオークションに出品されて、『妙立寺の曼荼羅は盗難に遭っていませんか』という問い合わせが来たことがありました」

「妙立寺で格蔵している大漫荼羅の模写・臨写の曼荼羅の所在は、わからないですねえ。ヤフーオークションに出品されている曼荼羅は、必ずしも模写とか臨写とも言えず、新しく発見された曼荼羅なのかもしれません」

 

おおむね、こんな感じで、ヤフーオークションに出品されている曼荼羅は、妙立寺が格蔵している立正安国会の「日蓮大聖人御真蹟・御本尊集」NO24に写真が載っている大漫荼羅ではない、というはっきりとした見解を表明しておられました。

本尊24-1

 

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■玉沢・妙法華寺7(お風入れ法要を長期中止)

 

こちらの全く予想外で、偶然、玉沢・妙法華寺65世小池日恩貫首にお目にかかることが出来たので、幸いだったと言えば幸いでしたが、反面、私としても何の準備もしていなかったため、面食らってしまいました。しかし、貫首に直接質問するまたとないチャンスなので、ここは機転を利かして、質問。

 

○「玉沢・妙法華寺さんは、あちらの三島市教育委員会の案内板にもありますが、たくさんの文化財を格蔵しておられるようですね。私としては、日蓮聖人直筆の漫荼羅や註法華経、撰時抄などを直接拝観できれば、と思っていたのですが、これらの什宝を公開する『お風入れ法要』といった行事はやっておられないのですか」

□貫首「あー、そういうのはね、今は、やっていないんですよ」

 

○「やっていないんですか。じゃあ、重宝類は全くの非公開ということですか」

□貫首「今は、やっていないんですねえ。というのは、数年前に、そこの宝蔵にドロボウが入りましてね。宝蔵にドリルで穴をあけて、宝蔵の中の什宝を盗み出すという事件があったのです。

その盗まれた什宝は、結局、こちらに帰ってきたんですけどもねえ。

ただ、そういう事件があったものですから、当分の間、公開はしないですねえ」

妙法華寺10宝物殿

 

玉沢・妙法華寺什宝の盗難事件があったとは初耳。しかし「お風入れ」というのは、寺院における大きな行事であるはずなのに、これを行わないと言うことになると、年中行事は何を行っているのだろうか、と思ったので、次の質問。

 

○「では、年中行事は、どういう行事を行っているのですか」

□貫首「416日の開山会、1013日の御会式は大きな行事として行っています。その他に、お盆の施餓鬼会、お彼岸の彼岸会ですねえ。大きな行事があるときは、境内でコンサートやイベントを行うこともあります」

 

○「お寺でイベントを行っているのですか」

□貫首「そうです。そういうことでもやらないと、今はなかなかお寺に人が来ないんですよ」

 

はー、お寺に人を呼ぶために、貫首さんもなかなか苦労しているようです。もっとも玉沢・妙法華寺の場合は、県道沿いに面してはいるものの、三島市の市街地からはかなり離れた所にあります。だから、ちょっと足を運びにくいということもあると思います。

 

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■玉沢・妙法華寺3(重要文化財指定の撰時抄を格蔵)

 

玉沢・妙法華寺に格蔵されている重要文化財の中で、もうひとつの目玉の古文書は、何といっても日蓮自筆の「撰時抄」でしょう。これは日蓮・五大部の遺文(御書)です。

妙法華寺23撰時抄

 

もちろん、この撰時抄は、日蓮真筆ということで、鑑定され、重要文化財に指定されています。

 

その撰時抄ですが、「冨士一跡門徒存知事」によれば、撰時抄の下巻が日昭のもとにありと書いてあり、立正大学日連教学研究所編纂「昭和定本日蓮聖人遺文」にも、大石寺出版「平成新編・日蓮大聖人御書全集」にも、日昭の玉沢・妙法華寺に日蓮真筆があるとなっていますが、「他5ヶ所」とも書いてあり、妙法華寺の他にも日蓮真筆がある、ということになっています。

 

ところが玉沢・妙法華寺の境内に建てられている三島市教育委員会の看板によると

「日蓮直筆の五巻がほぼ完全な形で残されている」

と書いてある。この文では、撰時抄五巻が全て妙法華寺に残されているとも読めますし、各所に散在している撰時抄を合わせて五巻が完全な形で残されているとも読めます。

 

しかし三島市教育委員会の看板には、写真が掲げられていて、この写真によると、撰時抄五巻がひとつの箱にそろっているように見えます。

三島市教育委員会が、この箱に入っている五巻のことを言っているとすれば、玉沢妙法華寺に、日蓮真筆の撰時抄五巻がそろっているということになります。

 

「冨士一跡門徒存知事」にも、日昭の元に撰時抄があると書いてあるわけですから、玉沢・妙法華寺開祖・日昭在世の時代から、撰時抄は妙法華寺に格蔵されていたということなのでしょう。

 

玉沢・妙法華寺の境内には、三島市教育委員会の看板の他に、妙法華寺が建てた撰時抄の石碑が建てられていました。

妙法華寺27撰時抄碑
 

 

 

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■玉沢・妙法華寺2(註法華経と御義口伝は全く別)

 

「註法華経」が出たので、思い出しましたが、日蓮正宗は、1994(平成6)に出版した「平成新編・日蓮大聖人御書全集」の中で、従来から「御義口伝」(おんぎくでん)と呼ばれる文書に対して、

「就註法華経」なる名前を付けています。

御義口伝1

 

紛らわしいですね。

 

1951年に、日蓮正宗大石寺59世法主・堀日亨が編纂して創価学会が発刊した「御書全集」には、御義口伝に「就註法華経」なる名前は付いていません。この名前を付けたのは、「平成新編・日蓮大聖人御書編纂委員会」。なかんずく時の法主である阿部日顕なのでしょう。

 

しかし、これだと、何も知らない日蓮正宗の信者は、日蓮遷化記録の中に書いてある「註法華経」が、「御義口伝」のことだと錯覚してしまうのではないでしょうか。

というより、日蓮正宗では、最初から信者を錯覚に陥れるつもりで、御義口伝に「就註法華経」なる名前を付けたのではないかと思います。

それしか、考えられないでしょう。

 

当然のことながら、日蓮遷化記録の中に書いてある「註法華経」とは、玉沢・妙法華寺に格蔵されている「註法華経」であって、「御義口伝」なる文書のことではありません。

 

しかも「御義口伝」なる文書は、そもそも日蓮や日興とは全く無関係の後世の偽書です。これについては、下記のトピックで詳細を書いているので、そちらを参照していただければと思います。

「『御義口伝』は日蓮・日興とは全く無関係の後世の偽作である」

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=42735311&comment_count=4&comm_id=406970

 

 

 

 

 

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■玉沢・妙法華寺1(註法華経を格蔵)

 

玉沢・妙法華寺とは、静岡県三島市玉沢にある六老僧の筆頭・日昭を開祖とする日昭門流の本山で、日蓮宗の本山(由緒寺院)に格付けられている。正式名は経王山妙法華寺という。本山ではあるが、塔頭が覚林院の一院だけある。

妙法華寺は、国道1号線から一本脇に入った県道に面している。JR三島駅方面から行くと、まことにわかりやすく、一度目の訪問は三島駅から、ずいぶん前に電車・バスを乗り継いで行っています。

一回目の時はずいぶん前のことで、メモも残って折らず、記憶にもあまり残っていません。

二度目の訪問は、はっきりと寺跡調査をしようという目的で行っていまして、この時は車で神奈川・箱根方面からナビを頼りに行きました。箱根方面から車で行くと、ちょっと道が複雑で、ナビなしではおそらくたどり着けなかったのではないかと思います。

妙法華寺19本堂

 

玉沢・妙法華寺は、日蓮の本弟子・六老僧の日昭が開創した寺で、もともとは鎌倉の浜にあった法華寺が前身。

1284年(弘安7年)、日蓮の弟子日昭は風間信昭の帰依を受け、鎌倉浜土の玉沢(現鎌倉市材木座)に法華堂を建立した。1538年(天文7年)戦乱により、越後村田(現新潟県長岡市村田)の妙法寺に避難。さらに1594年(文禄3年)戦乱により、伊豆加殿(現静岡県伊豆市)の妙国寺に避難した。村田妙法寺は風間信昭開基の寺院であり、加殿妙国寺は日昭門流の寺院である。

その後、15代日産の時、1621年(元和7年)に大木沢(現在地)に移転し、日産、日達、日亮の3代に渡り再建された。大木沢は妙法華寺創建の地名をとって玉沢と改称された。

 

このように移転に移転を重ねて、鎌倉から今の玉沢の地に移ったわけですが、ここはたくさんの文化財を格蔵している寺院として有名です。

私の第一の関心も、ここにありました。

つまり玉沢・妙法華寺には、日蓮真筆の文献がいくつも残されています。

妙法華寺の境内には、三島市教育委員会が建てた文化財案内の看板が立てられていて、それによると

(1)   絹本著色日蓮上人像

(2)   絹本著色十界勧請大漫荼羅

(3)   日蓮自註 註法華経開結

(4)   日蓮筆 撰時抄

が、国の指定重要文化財になっていること、が書いてあります。

 

中でも注目されるのは、日蓮自註の註法華経。

妙法華寺24註法華経


これは西山本門寺に格蔵される「日蓮遷化記録」に出てくるものですが、日蓮正宗や創価学会の信者は

「日昭が身延山久遠寺から勝手に持ち出したまま、所在不明になっている」

ということを、ずいぶん前に聞いたことがありました。

しかし何のことはない。所在不明どころか、日昭門流の妙法華寺に格蔵されていて、しかも国の重要文化財に指定されている。

又、静岡県の池田・本覚寺に格蔵されている日位筆の「大聖人御葬送日記」の中に「御遺物配分事」という綱目があり、その中に

「註法華経一部十巻 弁阿闍梨」

となっており、註法華経が正統に弁阿闍梨日昭に配分されたことが記されている。

「勝手に持ち出した」と、あたかも日昭を盗人呼ばわりするとは、とんでもない言いがかりである。

 

 

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ヤフーオークションに、日蓮の大曼荼羅本尊が、1億円の価格で出品されたことが、関係者の間で衝撃が走り、激震状態になっています。

http://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/161728331?__from=mixi

 

内容は、以下の通りです。

 

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「日蓮上人ご真筆文字曼荼羅 『大曼荼羅御本尊』南無妙法蓮華経」

 

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オークションID 161728331

商品の状態 : 文化遺産

返品の可否 : 返品不可

 

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日蓮本尊売り1
 


71日終了になっているため、写真を撮っておきました。

商品の状態として「文化遺産」と書いてありますが、文化遺産と知りながら、ヤフーオークションに、しかも1億円という法外な価格で売りに出すというのは、どういう意図なのでしょうか。

 

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■身延山久遠寺12(立正の扁額と祖師堂の内陣・外陣の造り)

 

本堂と隣り合わせに建っているのが、棲神閣(せいしんかく)祖師堂。ここは日蓮祖師像を祀る堂宇。ここの須弥壇の扉は、普段は閉扉されていて、申し込みにより開帳が行われる。

日蓮祖師堂3


身延山久遠寺の場合は、寺院の中心本尊を祀る本堂と、日蓮祖師像を祀る祖師堂という二堂が、並んで建っている、ということになります。

祖師堂の入り口には「棲神閣」と書かれた74世日鑑の筆による扁額が掲げられているが、これは、祖師・日蓮の御魂が住んでいる堂宇という意味とのこと。

以前の祖師堂は、明治八年(1875)の大火で焼失。74世日鑑の代の明治十四年(1881)に再建されたものである。

中央の御宮殿には、日蓮祖師像が祀られており、内陣に掲げられている「立正」の扁額は、日蓮の立正大師号にちなんで、1931(昭和6)101日、日蓮六百五十遠忌の年に、昭和天皇から日蓮宗総本山身延山久遠寺に降賜された「勅額」である。

これは日蓮650遠忌を前にして、日蓮宗管長・酒井日慎が勅額を天皇から降賜してもらうために、各方面に活発に運動した結果によるもの。勅額降賜の請願は1931(昭和6)4月、身延山久遠寺法主・岡田日帰より文部大臣・田中隆三宛てに行われ、この請願書上奏よりほどなくして、文部省より日蓮宗に対して、日蓮宗各派管長から身延山久遠寺に勅額を降賜することについて各宗派の承諾をもらうように、との通達が発せられた。

日蓮宗宗務院庶務部長・妙立英寿はすぐさま日蓮宗各派を訪ね歩き、各派管長から身延山久遠寺に勅額が降賜されることに異義がないとの念書に署名させることに成功している。念書には以下の文が書かれてあった。

「 念書

宗祖立正大師六百五十年遠忌に際し、御廟所在地、山梨県身延山久遠寺住職岡田日帰より請願に及び候。立正大師勅額御下賜の件は本宗()に於いても異議無し…」

 

立正大師というのは日蓮のことで、1922(大正11)1013日、大正天皇より「立正大師」号が宣下されたことにちなんでいる。日蓮の「御廟」(正墓)のある身延山久遠寺に「勅額」が下賜されることについて、本宗としては異議がないという内容の念書である。

この念書には、当時の日蓮正宗大石寺第60世阿部日開法主も署名。「念書」は日蓮宗各派管長から文部大臣・田中隆三宛てに提出されている。

日蓮正宗としては公式には、1931(昭和6)年に勅額下賜の「念書」に署名した時点において、日蓮の「御廟」つまり「正墓」は身延山久遠寺にあるということを認めている他、「立正」の勅額が身延山久遠寺に降賜されることについても認めているのである。

 

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■身延山久遠寺7(西谷の日蓮草庵跡4)

 

日蓮の説法の折りには、百人を超える参詣者で賑わったという身延山の日蓮の草庵は、1277(建治3)年に一度、修理を加えているものの、常時四十人から百人近い日蓮の門弟たちが修行研鑽する道場としては、あまりにも手狭であっただろう。

この常時四十人から百人近い日蓮の門弟たちが草庵で修行研鑽していたというのは、日蓮正宗大石寺が1981年に発行した「日蓮大聖人正伝」という名前の、日蓮正宗が編纂した日蓮の伝記本に書いてある。

ただ身延山久遠寺の日蓮草庵跡に行ってみて、「常時四十人から百人」という数字は、にわかに信じがたいものがあると私は感じた。

日蓮・身延山草庵跡1


だいたい、こんなに多数の僧侶や信者たちが、身延山中の日蓮草庵にいたならば、日蓮が遺文に記しているように、身延山中で極貧の生活を送るはずがないと思う。

現在の日蓮草庵跡は、おそらく十間四面の大坊跡もふくめてのものだろうから、それ以前の日蓮草庵にこんなに多数の僧侶や信者がいたとは、とても考えにくい話しだ。

 

日蓮は、60歳の1281(弘安4)10月の半ば、新たに大坊の建設工事に着手した。大坊工事開始から落成までのことを、1281(弘安4)1125日に身延山の地頭・波木井実長に宛てた手紙「地引御書」(平成新編御書全集1577ページ・堀日亨編纂・御書全集1375ページ)に書き残している。

それによると1012日・13日に着工して111日には小坊と馬屋が完成し、118日には大坊の「柱だて」を、119日・10日には大坊の屋根の葺き終え、1123日・24日の両日・落成式を行っている。

完成した身延山の大坊は、日蓮が「地引御書」に

「坊は十間四面に、また庇さしてつくりあげ」(平成新編御書全集1577ページ・堀日亨編纂・御書全集1375ページより)

と書いているように、広さが十間四面あり、二重庇(また庇)の造りになっている、以前の草庵よりも、はるかに立派なものだった。

日蓮正宗大石寺が発行した「日蓮大聖人正伝」によると、大坊の工事は

「工事に携わった者は波木井氏一族や藤の兵衛、右馬の入道をはじめ、多くの弟子信徒たちであった。…全員が力を合わせて取り組んだ」(「日蓮大聖人正伝」403ページより)

という様子だったと書かれてある。

日蓮は、この大坊の完成をたいそう喜んでおり、前出の「地引御書」には

「坊は鎌倉にては一千貫にても大事とこそ申し候へ」

-----鎌倉においては一千貫の大金をかけても、このような立派な大坊はできないであろう---

と記しており、さらにこの大坊落成式における参詣者の賑わいを

「二十三日・四日は又、空晴れて寒からず。人の参る事、洛中、かまくらの町の申酉のごとし」

-----1123日と24日の大坊落成式は、空は晴れて、気温も寒くはなかった。身延山にはたんさんの人たちが参詣に訪れ、まるで京都や鎌倉の繁華街のようであった-----

と書いて喜んでいる。

 

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■身延山久遠寺6(西谷の日蓮草庵跡3)

 

現在、身延山久遠寺の山中に残されている日蓮草庵跡は、かなり木々が生い茂った山中にある。富士川のたもとにあるJR身延駅から身延山久遠寺の三門まではかなりの距離があるが、その三門から日蓮草庵跡まで、ちょっと歩かなければならない距離にある。

日蓮・草庵跡1

 

日蓮は書き残した遺文(御書)の各所で、身延山の日蓮のもとに参詣する信者が、たくさんいたことを書き残している。

たとえば日蓮55歳のときの1276(建治2)330日に日蓮が有力信者の一人・富木常忍にあてて書いた「忘持経事」には

「深洞に尋ね入りて一庵室を見るに、法華読誦の音、青天に響き、一乗談義の言、山中に聞こゆ」(平成新編御書全集957ページ・堀日亨編纂・御書全集977ページより)

と述べており、身延山の深い山の中にある、日蓮の草庵では、昼夜にわたって法華経を読誦し、弟子の僧侶たちや身延山に参詣してきた信者に、法華経を講義・説法するという、修行の毎日を過ごしていたことが記載されている。

日蓮58歳のときの1279(弘安2)811日に日蓮が有力信者の一人・曾谷教信にあてて書いた「曾谷殿御返事」には

「今年一百人の人を山中にやしなひて、十二時の法華経をよましめ談義して候ぞ」(平成新編御書全集1386ページ・堀日亨編纂・御書全集1065ページより)

と述べており、身延山の日蓮のもとに弟子入りした僧侶たちや身延山に参詣してきた信者が、なんと百人以上にもふくれあがったと書いているのである。

三間四方の質素な造りであった身延山中の日蓮の草庵に、日蓮が天台大師智顗の命日に営んでいた「大師講」での説法の折りなどに百人を超える人たちが参詣に訪れたとあっては、

「御制止ありて入れられず」 (日蓮56歳の建治36月の遺文(御書)『下山御消息』平成新編御書全集1137ページ・堀日亨編纂・御書全集343ページより)

と日蓮自らが記しているように、説法を聴聞する人たちを規制せざるをえないほどになっていた。

それでも日蓮が

「ものの様をも見候はんがために閑所より忍びて参り、御庵室の後にかくれ」(日蓮56歳の建治36月の遺文(御書)『下山御消息』平成新編御書全集1137ページ・堀日亨編纂・御書全集343ページより)

と書いているように、ひと目でも日蓮の説法の様子を見ようとして、草庵の便所に隠れて日蓮の説法を聴聞したり、あるいは草庵の後に隠れて日蓮の説法を聴聞していた人がいたという。

 

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■身延山久遠寺5(西谷の日蓮草庵跡2)

 

身延山久遠寺において現地調査をしていくと、さまざまなことがわかってくる。

日蓮草庵跡2

 

身延山久遠寺のはじまりは、日蓮が住んだ草庵だが、日蓮が身延山中に自ら結んだ草庵は、驚くほど質素な造りだったということを、日蓮自身が遺文(御書)の中で述べている。

1277(建治3)年冬、日蓮が56歳のときに書いた「庵室修復書」には

「去ぬる文永十一年六月十七日に、この山のなかに、木を打ち切りて、かりそめに庵室をつくりて候ひしが…」(平成新編御書全集1189ページ・堀日亨編纂・御書全集1542ページより)

と書いている。この草庵は、日蓮自身が「かりそめの庵室」と言っている。「かりそめ」(仮初)とは、「ほんの、その時だけの。一時的な」という意味だ。

その草庵は、「夜、火を灯さねども、月の光にて聖教を読みまいらせ」(庵室修復書・平成新編御書全集1189ページ)と日蓮が記しているように、草庵の屋根は天井がないほどの草葺であった。

さらに日蓮59歳の1280(弘安3)127日に書いた遺文(御書)である「秋元御書」には、身延山の草庵について

「ここに庵室を結んで天雨を脱れ、木の皮をはぎて四壁とし…」(平成新編御書全集1453ページ・堀日亨編纂・御書全集1078ページより)

と記していて、身延山に生育している樹木の皮で四方の壁を造ったというくらい、質素なものだった。

草庵の広さについては、日蓮が「庵室修復書」の中で「十二のはしら()」と書いていることから、三間四方であったということは想像できるが、鎌倉時代の一間は、現在の一間と違っているということで、はっきりとした広さは特定できない。

こうしてできあがった草庵に、日蓮は1274(文永11)617日より、十間四面の大坊が完成した1281(弘安4)1124日までの足掛け八年間、住んだ。

現在、身延山久遠寺の山中に残されている日蓮草庵跡は、初期の草庵跡というよりも十間四面の大坊があった跡のように見える。それとも草庵跡に十間四面の大坊を造営したのかもしれないが…。

 

ともかくも日蓮の草庵は簡単な造りであったために、数年もたたないうちに傷みが目立ちはじめ、そして草庵完成より四年後の1277(建治3)年冬にはついに、

「十二の柱、四方に頭をなげ、四方の壁は、一所に倒れぬ」(『庵室修復書』平成新編御書全集1189ページ・堀日亨編纂・御書全集1542ページより)

と、日蓮が嘆くほどのありさまとなり、修復せざるをえないような状況となった。

しかし草庵の修復とはいっても、当時、日蓮といっしょに身延山の草庵に住んでいたと思われる数人の弟子の僧侶による急ごしらえのもので、完成したとは言っても、日蓮が満足できるものではなかった。日蓮は、修復後の草庵について1278(弘安1)1129日に武州池上の池上兄弟にあてた「兵衛志殿御返事」(日蓮57)の中で

「坊は半作にて、風、雪たまらず、敷物はなし」((平成新編御書全集1295ページ・堀日亨編纂・御書全集1098ページより)

と、「坊はまだ半分しかできておらず、風や雪を防ぎきれず、草庵の中には床に敷いてある敷物もなにもない」と言っている。

また日蓮は、1280(弘安3)1216日に、四条金吾に宛てた手紙「四条金吾許御文」では

「処は山中の風はげしく、庵室は籠の目の如し」(平成新編御書全集1523ページ・堀日亨編纂・御書全集1195ページより)

と、草庵の壁は籠の目のように隙間だらけだと言っている。

 

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■身延山久遠寺4(西谷の日蓮草庵跡1)

 

身延山久遠寺の山門をくぐらず、麓の山道を歩いていくと、「西谷」と言われている山林の中に、鎌倉時代の昔、日蓮が住んだ草庵跡が残っている。

身延山久遠寺5・草庵跡


まさにここが、日蓮が起居していた草庵の跡であり、久遠寺発祥の地である

日蓮は足かけ9年にわたり、ここに自らがむすんだ草庵にて法華経の読誦と門弟の教育に終始したと言われている。

私がここの草庵跡を見た印象としては、そんなに広くもなく、さりとて狭くもなく、といった感じか。

ここには外側に囲いがしてあるが、この囲いいっぱいに、日蓮の草庵が建っていたとは思えない。

この日蓮草庵跡には、身延町教育委員会の立て看板が建てられています。

日蓮・草庵跡5


身延町教育委員会の見解では、この草庵跡は、18.18メートル四方となっています。

おそらくは、1281(弘安4)年に建てられた十間四面の堂宇も含めての広さなのではないか。

ただ、ここで日蓮が、多くの門弟たちを育成していたというが、日蓮を筆頭にたくさんの門弟が起居し、修行するには、ちょっと狭くはないかな、と思う。

草庵のたたずまいも、日蓮一門の当時の極貧状態の生活から推するに、かなり質素なものだったであろう。

 

又、ここには身延町教育委員会の看板よりも古い時代に建てられた石碑も建てられています。

日蓮・草庵跡4


当然のことながら、ここが日蓮の草庵跡として、学術的にも証明されているということである。

 

草庵跡全体は、石でできた囲いで囲まれているので、相当古い時代から、ここが「草庵跡」として保管されてきたことがうかがい知れます。

日蓮・草庵跡3

 

この草庵跡では、毎年617日午前11時から、身延山久遠寺法主大導師のもと、山内支院僧侶出仕のもと、身延山開闢会法要が営まれ、式中、日蓮遺文(御書)「身延山御書」が奉読される。

さらにこれに先んじて午前9時より、日蓮の身延入山を記念した身延山開闢の御入山行列が、総門から三門までの約1.5キロの門前町を練り歩くお祭りが行われる。

 

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■身延山久遠寺1(日蓮が9ヶ年の生活を送った祖山)

 

身延山久遠寺とは、山梨県身延町にある、あの日蓮宗総本山の大寺院である。

ここは、文永11年(1274年)、甲斐国波木井(はきい)郷の地頭・南部六郎実長(波木井実長)が佐渡での流刑を終えて鎌倉に戻った日蓮を招き、今の西谷の地に草庵を構えたのが、久遠寺の発祥とされている。

身延山久遠寺2


文永11年(1274年)512日、日蓮は鎌倉を出発。517日に身延山に到着。

その1ヶ月後の617日、波木井実長の寄進によって三間四面の草庵が完成。日蓮宗では、この日を以て身延山の開創・開闢の日としている。

弘安4(1281)11月には、十間四面の大坊が造営されて、日蓮自ら「身延山妙法華院久遠寺」と名付けたと伝承されている。