■園城寺(三井寺)3(園城寺金堂)

 

天台寺門宗総本山・園城寺は、まがりなりにも天台宗総本山・比叡山延暦寺に対抗して戦争を繰り広げたくらいの寺院だから、さぞや広々とした境内なのかと思っていたら、広いことは広いが、比叡山延暦寺ほどではないという感じ。

しかし江戸時代以前の園城寺の歴史とは、まさに戦乱の歴史とも言うべきもの。

比叡山延暦寺を「山門」と別称するのに対し、この園城寺を「寺門」と称することから、両者の対立抗争を「山門寺門の抗争」などと呼んでいる。比叡山延暦寺の宗徒による園城寺の焼き討ちは永保元年(1081年)をはじめ、中世末期までに大規模なものだけで10回、小規模なものまで含めると50回にも上るという。

その後、源頼朝、北条政子、鎌倉幕府、室町幕府の庇護を受けたものの、文禄4年(1595年)、園城寺は豊臣秀吉の怒りに触れ、欠所(寺領の没収、事実上の廃寺)を命じられている。

園城寺が何によって秀吉の怒りを買ったものかは諸説あって定かではない。これにより園城寺の本尊や宝物は他所へ移され、金堂をはじめとする堂宇も強制的に移築された。

当時の園城寺金堂は比叡山延暦寺に移され、延暦寺転法輪堂(釈迦堂)として現存している。

慶長3年(1598年)、秀吉は自らの死の直前になって園城寺の再興を許可している。秀吉の再興許可を受け、当時の園城寺長吏・道澄が中心となって寺の再興が進められ、現在の園城寺の寺観は、ほぼこの頃に整えられたものであると言われている。

しかし、これだけ戦乱だの廃寺だのという歴史を繰り返してきたにもかかわらず、園城寺は、仏像、仏画、文書など多くの文化財を伝えている。これが実に、私には不思議に見える。

明治の大火一回で、寺宝の大半を焼失してしまった身延山久遠寺とはえらい違いである。

 

特に金堂本尊の弥勒菩薩像(弥勒如来とも)は、天智天皇の念持仏と伝え、唐からの請来像ともいうが、公開されたことがなく、写真も存在しないため、いかなる像であるかは全くの不明。

金堂は、豊臣秀吉によって強制的に比叡山延暦寺に移築されているのに、なぜ絶対秘仏の弥勒如来像が今日に伝わっているのだろうか、と思う。

この金堂本尊は、園城寺の絶対秘仏として有名だが、他にも

■園城寺 観音堂本尊 如意輪観音坐像(重文)     33年に1度の開扉

■園城寺 智証大師(円珍)坐像(国宝)  「中尊大師」、「御骨大師」の2体あり。中尊大師は1029日の祥忌法要で開扉されるが、御骨大師は開扉なし。特別展などで数回公開されたことがある。

■園城寺 新羅明神坐像(国宝)  特別展などで数回公開されたことがある。

■園城寺 不動明王像(黄不動、絵画、国宝)  厳重な秘仏として知られ、寺では書籍等への写真掲載を厳しく制限している。特別展などで数回公開されたことがある。

園城寺3


続きを読む