一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ

「一般社団法人 仏教宗学研究会」とは任意団体として2005年から活動している会の名称。2018年5月に一般社団法人登記。当ブログ名を「仏教宗学研究会のブログ」から「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」に改名。 「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

Category:仏教・仏舎利・宗祖真骨・廟・墓・供養塔 > 親鸞真骨・廟がある寺院

■真宗・興正寺1(仏光寺・西本願寺から独立)

 

□もともとは真宗仏光寺と同一で仏光寺から分離→西本願寺→西本願寺から独立した興正寺

 

真宗・興正寺とは、浄土真宗興正派の本山で、場所は浄土真宗本願寺派本山・龍谷山本願寺(西本願寺)に隣接している。だからここには、西本願寺を訪問・参拝したのちに、すぐに訪問・参拝できる。西本願寺の寺域・伽藍があまりにも巨大であるため、興正寺は西本願寺の塔中子院のように見えてしまうのだが、独立した興正派の本山である。正式名は円頓山興正寺という。

浄土真宗興正派とは、真宗教団連合をつくる浄土真宗十派のひとつ。浄土真宗には、十派以外にもさまざまな分派があり、全ての宗派が真宗教団連合に加入しているわけではない。

2013年度版・宗教年鑑で信徒数を調べてみると、浄土真宗本願寺派(本山・西本願寺)が約780万人、真宗大谷派(本山・真宗本廟・東本願寺)が約323万人、真宗高田派(本山・高田専修寺)が約223000人。真宗仏光寺派は約48000人。真宗木辺派(本山・錦織寺)が約46000人。真宗興正派(本山・興正寺)が約35000人。真宗出雲路派が約11000人。真宗誠照寺派が約13000人。真宗三門徒派が約14000人。真宗山元派が約1600人。親鸞頂骨を格蔵していると伝承する新潟県高田市浄興寺を本山とする真宗・浄興寺派が約17000人である。

門徒(信徒)数で言うと、東西本願寺派、高田派、仏光寺派、木辺派に次ぐ数になっている。

興正寺に関する資料・書籍も極端に少なく、興正寺の縁由・歴史についても、定説はなく、さまざまな説がある。これは室町・戦国時代の戦乱で、古文書の多くが焼失してしまったためではないかと考えられる。そこで興正寺の歴史の説については、PHP新書「京都の寺社505を歩く・上・洛東・洛北・洛中編」(山折哲雄監修・槇野修著)から引用してみたい。

正中元年(1324)に了源が山科に一宇を建立。それを大谷廟堂の覚如が興正寺と名付ける。そののち、山科から汁谷(今の京都・渋谷通り・しぶたに)に移り、寺号を仏光寺としたとする説。

もうひとつは、建暦2(1212)に流罪地の越後から京都に戻った親鸞が山科に一宇を建て、順徳天皇から「興隆正法寺」の寺号を拝受。勅願寺になった。それが略して興正寺になったという説。

文明年間(14691487)に、仏光寺第14世経豪は、当時の仏光寺が天台宗妙法院と近かった関係を嫌い、本願寺8世蓮如に帰依して、同士の僧侶らと仏光寺を抜け、興正寺の旧地である京都・山科に寺院を建立。旧名の興正寺を継承した。蓮如は経豪に蓮教の僧名を授与した。

仏光寺から分離した興正寺は、天文法華の乱で一時、大坂に移るが、天正19(1591)に本願寺の京都移転にあわせて、今の地に移転する。本願寺の東西分立以降は、西本願寺に属していたが、宗論の違いから西本願寺と袂を分かち、明治9(1876)に西本願寺から独立した。

よって現在の興正寺は、もともとは仏光寺であり、仏光寺から分離した後は、西本願寺に属した。明治になって西本願寺から分離・独立したという歴史を辿っている。

 

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■真宗・仏光寺本廟1(仏光寺の親鸞御廟)

 

□仏光寺本廟の親鸞御廟に入っている親鸞遺骨とは高田・浄興寺から分骨されたものなのか

 

真宗大谷派本山・真宗本廟・東本願寺の親鸞廟が大谷祖廟・東大谷、真宗本願寺派本山・西本願寺の親鸞廟が大谷本廟・西大谷であるが、浄土真宗仏光寺派の本山である仏光寺にも親鸞御廟がある。それが京都東山にある仏光寺本廟である。仏光寺本廟も東大谷、西大谷と同じく京都東山にあり、三門もどことなく、東大谷、西大谷の三門とよく似ている。境内の中には、本堂、寺務所、親鸞御廟、一般墓地があるが、そんなに広いという印象はない。

この仏光寺本廟は、私が京都・寺跡調査旅行で宿泊したウエスティン都ホテルの数軒となりにある。仏光寺本廟の南側には、青蓮院、知恩院、円山公園、大谷祖廟・東大谷がある。私もウエスティン都ホテルから徒歩で京都市内の寺跡調査に出るときに、偶然、ここを見つけて入った。

仏光寺本廟の親鸞御廟は、拝殿はなく、石造りの御廟があるだけ。この仏光寺本廟の親鸞遺骨は、どこから来たものなのか。新潟県・高田の浄興寺の話しによれば、仏光寺や高田専修寺にも浄興寺から親鸞頂骨を分骨しているのだという。であるならば、ここ仏光寺本廟の親鸞御廟に入っている親鸞遺骨とは、浄興寺から分骨されたものなのか。ただし、浄興寺は東本願寺、西本願寺、興正寺からの分骨礼状を格蔵していて、宝物殿で公開しているが、仏光寺、高田専修寺からの分骨礼状はなかった。

いろいろ聞いてみようと寺務所に入るが、誰もいない。そのうち、仏間から数人の門徒らしき人が出てきて、そそくさと靴を履いて寺務所から出て行った。そのうち、受付に寺務員の女性が出てきて、いろいろ話しをしたが、この女性、ずいぶんと愛想がいい女性でした。

本廟5





















本廟3





















本廟1



































 

(仏光寺本廟三門)

御廟2





















御廟3



































 

(御廟)

本堂1




















 

(本堂)

寺務所1




















 

(寺務所)

 

 

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■大谷本廟・西大谷2(親鸞真骨2)

 

□石山戦争等からして浄興寺から西本願寺への親鸞頂骨の分骨説がまことに説得力が高い

 

西本願寺を本山とする真宗本願寺派の親鸞廟所が大谷本廟・西大谷であるが、親鸞遺骨の行方を追っていく中で、本願寺の基となった大谷廟堂とその後の大谷本廟成立の歴史は、まことに興味深いものがある。浄土真宗本願寺派・本願寺出版社が出している冊子「本願寺グラフ」には、「本願寺の歴史」と題する次の文が載っている。

「もともと本願寺は、親鸞聖人の廟堂から発展した。親鸞聖人が弘長2(1263)年に90才で往生されると、京都東山の鳥辺野の北、大谷に石塔を建て、遺骨を納めた。しかし聖人の墓所はきわめて簡素なものであったため、晩年の聖人の身辺の世話をされた末娘の覚信尼さまや、聖人の遺徳を慕う東国の門弟たちは、寂寞の感を深めた。そこで10年後の文永9(1272)年に、大谷の西、吉水の北にある地に関東の門弟の協力をえて、六角の廟堂を建て、ここに親鸞聖人の影像を安置し遺骨を移した。これが大谷廟堂である。この大谷廟堂は、覚信尼さまが敷地を寄進したものであったので、覚信尼さまが廟堂の守護をする留守職につき、以後、覚信尼さまの子孫が門弟の了承を得て就任することになった」(冊子「本願寺グラフ」p6)

つまり本願寺の基は、親鸞の遺骨を納めた大谷廟堂だということで、その留守職に大谷廟堂を寄進した覚信尼の子孫(つまり親鸞の子孫)が就任することになり、これが今の本願寺門主(宗主)ということになる。これは西本願寺門主・東本願寺門首も親鸞・覚信尼の子孫である。

ところがこれと異なる見解が本山浄興寺発刊の写真集「歓喜勇躍山浄興寺」の中に載っている、盛岡大学長・元上越教育大学長・上越市史編集委員長の加藤章氏が「浄興寺小史」と題する論文である。加藤章氏は次のように書いている。

「親鸞は、しばらくこの地で布教し、貞永元年(1232)ごろ、京都に帰るにあたり、弟子の善性にその跡を譲った…」「浄興寺の宗教的権威を支えるものは、まず本寺(浄興寺)が宗祖親鸞の浄土真宗開教の道場であること。さらに最も崇敬される宗祖の頂骨を護持しつづけてきたことがあげられる。」(浄興寺発刊の写真集「歓喜勇躍山浄興寺」p2223)

浄興寺の寺伝によれば、浄土真宗の宗祖・親鸞は90才にて京都で遷化(死去)。京都・東山の鳥辺山墓地で荼毘に付されて葬られた。しかし親鸞の頂骨と遺品は、親鸞二十四弟子の一人、善性に相伝され、善性が護持してきたと伝承する。その善性に随って親鸞の頂骨と遺品は、京都から稲田草庵へ、さらに長野へ、そして高田の浄興寺に至るというわけである。

さてもうひとつ、親鸞に関する興味深い研究・論説がある。それは井沢元彦氏の著書「逆説の日本史」である。井沢元彦氏の著書「逆説の日本史」8巻から、井沢元彦氏の親鸞に関する興味深い研究・論説親鸞に関する研究・論説の要旨を引用してみたい。

 

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■大谷本廟・西大谷1(御荼毘所・親鸞真骨)

 

□鳥辺山の親鸞「御荼毘所」とは離れた所に建っている真宗本願寺派の親鸞廟所・西大谷

 

真宗本廟・東本願寺を本山とする真宗大谷派の親鸞廟所を大谷祖廟・東大谷と言うのに対して、西本願寺を本山とする真宗本願寺派の親鸞廟所を大谷本廟・西大谷と言う。東大谷も西大谷もどちらも京都・東山にある。東大谷が東にあり、西大谷が西にあるというわけではない。これは大谷祖廟は、東本願寺(真宗本廟)の親鸞廟であるから東大谷、大谷本廟は西本願寺の親鸞廟であるから西大谷と呼ばれているものと思われる。西大谷は、室町時代のころから共同墓地で有名な鳥辺山にある。この鳥辺山は、大石寺・要法寺・保田妙本寺三祖日目の墓所がある日蓮本宗(要法寺門流)實報寺がある、あの鳥辺山である。

大谷本廟・西大谷の三門は、京都・東山五条の交差点脇にある。JR京都駅から東山五条までは、徒歩で行けないこともないが、私はここに行くときは、バスかタクシーを利用する。西大谷の境内は、東大谷と比べてかなり広く、親鸞廟所の拝殿もきちんと整備されている。真宗本願寺派の門徒数は約780万人。寺院・教会・布教所数は10369。教師(僧侶)数は19465。これだけ大規模な宗門であるので、それだけ参詣者も多いということだろうか、親鸞廟所も念入りに整備されているのが印象的。西大谷・親鸞廟所の後方には、広大な門徒(信徒)の墓地が広がっている。このあたりは上古の時代から、鳥辺山墓地とよばれた所である。

実は親鸞が火葬・荼毘に付されたのがここ京都・鳥辺山なのである。親鸞は90才で京都鳥辺山の延年寺で火葬され、荼毘に付されたと本願寺の寺伝では、伝承している。親鸞が荼毘に付された所を、真宗本願寺派では「御荼毘所」と呼んでいて、「御荼毘所」は京都・鳥辺山に今も残る。鳥辺山の中にあるのだが、大谷本廟・西大谷と同一所ではなく、離れた飛び地になっているところが面白い。しかもその飛び地に行くには、同じく鳥辺山にある大石寺・要法寺・保田妙本寺三祖日目の墓所がある日蓮本宗(要法寺門流)實報寺の墓地の中を通って行かないと、行けないのである。

 

□明治維新の時に京都市からの廃寺命令でとっくに廃寺になって消滅していた鳥辺山・延年寺

 

現在、鳥辺山ないしは鳥辺山近辺には、鳥辺山墓地が存在するが、それは實報寺墓地、西大谷墓地、ないしはその近辺にある寺院の墓地であって、延年寺ないしは延仁寺という名の寺院は存在しない。鳥辺山の山道をどんどん登っていくと、「延年寺旧跡墓地」という名の墓地があるが、鳥辺山に延年寺という名の寺院は存在しない。「延年寺旧跡墓地」には、別の管理者がいる。そこで

「延年寺旧跡墓地」管理者(鈴木花店)にお話を伺ってみると、延年寺という寺院は、今日、存在していないという。「いつなくなったのですか」と質問すると、「延年寺は明治維新のときに、なくなりました」との回答。「廃仏毀釈でなくなったのですか」と質問すると、「いいえ、そうではありません。京都市のほうから、廃寺命令が出て、なくなりました」との回答でした。

 

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■大谷祖廟・東大谷2(親鸞頂骨の分骨)

 

□浄興寺から東西本願寺への親鸞頂骨の分骨を史実と認めている盛岡大学長・加藤章氏論文

 

本堂の参拝を終えた後、階段を登って親鸞御廟へ。ここにもたくさんの人が参拝に来て、拝所で焼香をしている。賽銭箱のそばに焼香台があり、焼香ができるようになっている。私も焼香していると、本堂から僧侶が出仕してきて、御廟で読経がはじまった。本願寺とは、もともとは宗祖・親鸞の廟所から発展したもので、廟所は親鸞の代々の子孫の世襲になり、本願寺の起源になった。

しかし本願寺は、最初から今のような巨大教団だったわけではなく、本願寺教団を全国規模に拡大したのは、中興の祖・蓮如である。親鸞廟所が歳月を経るにしたがって本願寺に発展したということは、浄土真宗にとって、親鸞廟所は宗教的権威の源泉と言うべきものと言えよう。

ただし盛岡大学長・元上越教育大学長・上越市史編集委員長の加藤章氏は、本山浄興寺発刊の写真集「歓喜勇躍山浄興寺」の中の「浄興寺小史」と題する論文で、真宗本廟・東本願寺が所蔵する親鸞遺骨は、浄興寺から東本願寺へ分骨されたものであると、史実として書いている。

「浄興寺の宗教的権威を支えるものは、まず本寺(浄興寺)が宗祖親鸞の浄土真宗開教の道場であること。さらに最も崇敬される宗祖の頂骨を護持しつづけてきたことがあげられる。それに対し、親鸞の没後十年を経た文永9(1272)、浄興寺から48年おくれて本願寺が創建された。したがって、もともと本願寺と浄興寺の間には、本寺末寺の関係はなかったのである。しかし宗祖を同じくする同派であり、とかも宗祖親鸞の頂骨を浄興寺が安置することから、両寺の交流は深く、また真宗教団の発展に協力して貢献する歴史を有している。とくに本願寺の蓮如の宗門再興をかけて活躍した際や、顕如が大坂石山本願寺を拠点に織田信長と戦った石山合戦前後などは、浄興寺も積極的な援助を行っている」(浄興寺発刊の写真集「歓喜勇躍山浄興寺」p2223)

「その後、慶長7(1602)、本願寺が東西両派に分裂したことを契機に、浄興寺は十六世教善のとき、門末をあげて東本願寺を支持し、深い関係をもつに至った。東本願寺は、浄興寺をして客分一門として遇し、十六世教善、十七世宣性、十八世琢性の三代にわたって、()本願寺門主の息女を室に迎え、(東本願寺)門主の「猶子」として(東本願寺)門主の連枝と同等の待遇を受けている。また歴代の(浄興寺)住職は、修学をはじめ宗務のためにしばしば京都に赴き、本願寺との交流も深かった。このような近世初頭における本願寺との関係の中で注目すべきは、それまで宗祖の頂骨を独占してきた浄興寺の特権が、万治3(1660)、婚姻関係を理由に本願寺側からの強い要望に応えて、宗祖の頂骨および本願寺三世覚如以降、7人の門主の遺骨を分与したことである。そのことによって、本願寺は寛文10(1670)、東大谷本廟を創立し、名実ともに本山の条件を整えるに至った。」(浄興寺発刊の写真集「歓喜勇躍山浄興寺」p24)

東本願寺礼状1
















 

(東本願寺から浄興寺に宛てた分骨の礼状・浄興寺発刊の写真集「歓喜勇躍山浄興寺」)

浄興寺9




















 

(浄興寺・親鸞頂骨拝殿)

写真集・浄興寺1














































 

(浄興寺発刊の写真集「歓喜勇躍山浄興寺」)

 

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■大谷祖廟・東大谷1(門徒墓所・布施金額)

 

□親鸞廟所を中心に浄土真宗大谷派門徒の墓地・東大谷墓地が広がる大谷祖廟・東大谷

 

大谷祖廟とは真宗本廟・東本願寺を本山とする浄土真宗大谷派の親鸞墓所である。浄土真宗本山は、東本願寺、西本願寺、仏光寺、興正寺、高田専修寺、浄興寺等がそれぞれ親鸞廟を造り、それぞれが「親鸞真骨を祀る」と称している。東本願寺(真宗本廟)の親鸞廟が京都東山の大谷祖廟(東大谷)。西本願寺の親鸞廟が京都・鳥辺山の大谷本廟(西大谷)。仏光寺の親鸞廟が京都東山の仏光寺本廟である。そしてどの親鸞廟のまわりにも、それぞれの門徒の墓地が広がっている。大谷祖廟の通称名を東大谷といい、大谷本廟の通称名を西大谷と言うが、東大谷も西大谷もどちらも京都・東山にある。東大谷が東にあり、西大谷が西にあるというわけではない。これは大谷祖廟は、東本願寺(真宗本廟)の親鸞廟であるから東大谷、大谷本廟は西本願寺の親鸞廟であるから西大谷と呼ばれているものと思われる。大谷祖廟(東大谷)は、京都・東山の知恩院、円山公園等の並びにある。長い石畳の参道を歩いて総門から中に入っていくと、本堂、庫裡、大谷祖廟事務所、北門、茶室、太鼓堂、南門、鐘楼、拝所、御廟、東大谷墓地、東大谷墓地事務所等がある。御廟というのが、親鸞廟で大谷祖廟(東大谷)の高台にそびえ立っている。東大谷墓地とは、浄土真宗大谷派門徒の墓所である。門徒の墓所があるからだと思うが、私が大谷祖廟(東大谷)を訪ねた日も、たくさんの人が参拝に来ており、大谷祖廟事務所の中にある休息所も満員。

東大谷墓地を見ると、たくさんの人が墓参に来ている。浄土真宗では、他宗派とちがって御朱印もなければ、追善供養もない。塔婆も立てなければ位牌もないし、祈祷もしない。もちろん護摩祈祷もなければ、護摩も焚かない。では葬儀や法事はやらないのかというと、そうではなく、葬儀、法事、年回忌はちゃんと行う。葬儀、法事では寺院住職が出仕して読経、正信偈を読む。参列者は焼香もする。浄土真宗大谷派の場合、焼香は他宗派とちがって、香をつまんで、香炉に入れて燃やすだけ。つまんだ香を額で一回止めることはしない。又、故人に戒名(法名)も付ける。浄土真宗大谷派の場合も、末寺住職を通じて本山・東本願寺門首に願い出て、東本願寺門首が戒名(法名)を下賜する。東本願寺門首とは、宗祖・親鸞の世襲制。末寺住職も基本的に世襲制である。東本願寺門首は、江戸時代に本願寺が東と西に分かれたときの東本願寺開祖・13代教如の子孫である。

東本願寺門首は、かつては「法主」とよばれ、専政君主に近い権限を有していたが、いわゆる昭和の「お東さん紛争」による内部改革で、政治的実権を持たない象徴的な「門首」になった。

さて大谷祖廟事務所の中に入ってみると、「墓地お経5000円、本堂お経7000円、永代経5万円」と書いた掲示があった。ここには浄土真宗大谷派門徒の墓地が広がっているので、墓所で僧侶が読経したり、永代経等の儀式が執行される。

 

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■真宗・浄興寺3(東西本願寺への親鸞頂骨の分骨)

 

□浄土真宗の宗祖・親鸞の頂骨を格蔵すると伝承する浄土真宗浄興寺派本山・浄興寺2

 

私がはじめて新潟県高田市の浄土真宗浄興寺派本山・浄興寺を訪ねたのは、寒い真冬。高田の地には、こんこんと雪が降り積もっている。JR高田駅の近隣に、仏教寺院が林立する「寺町」があり、浄興寺はその「寺町」の中にある。高田駅前から歩いて行ける距離にあるのだが、行きは駅前で客待ちをしていたタクシーに乗って浄興寺へ。「本山浄興寺」の額が掲げられている山門をくぐると、本堂に向かって参道が伸び、参道の両側には塔頭寺院・子院が建ち並ぶ。境内には、本堂、親鸞御廟、宝物殿、庫裡、聖徳太子堂などの堂宇が建ち並ぶが、積雪のためか、全て雪囲いがしてある。冬になると、高田の地は相当な積雪に見舞われてしまうようです。境内の堂宇をよく見ると「親鸞聖人御真廟」「太子堂」等々の立て看板が立てられている他、浄興寺境内図や浄興寺の歴史を記した案内板も建てられている。寺院の参拝者から見ると、かなり親切な造りになっている。私は浄土真宗の本山寺院をいくつも訪ね歩いていますが、こういった参詣者に対して、わかりやすい案内板や立て看板を整備している寺院をいくつか見かけます。

まずは浄興寺本堂に参拝しようと、雪囲いがしてある本堂へ。本堂入り口階段前のお賽銭箱にお賽銭を入れて合掌。本堂の戸を開けようとしたが、入り口の戸が全てカギがかかっていて閉めきられている。本堂から親鸞御真廟、さらに宝物殿へと渡り廊下で繋がっているが、全て雪囲いがしてあって、戸は閉め切り。私も子どもの頃、真冬になると1メートル級の積雪がある地域で育ったが、昔からの家には、雪囲いがしてある家がよくあった。高度成長時代以降に新築された新しい家には、雪囲いがある家はあまり見られなくなったが、積雪が多い富山県地方に行くと、新築の家でも雪囲いがある家を見かける。北陸では石川県より富山県、富山県よりも新潟県のほうが積雪が多い。富山県でも五箇山などの山間部に行くと、雪囲いをしてある家をよく見かけます。私が浄興寺を訪れた日の積雪は、数十センチくらいでしたが、何せ浄興寺がある新潟県高田市とは、日本でも有数の豪雪地帯で有名な所である。

私は浄興寺の話を聞こうと庫裡を訪ねた。すると門主夫人が応対に出られた。この方、全く物おじせず、しっかりと私のほうを向いて、私の質問にも、ひとつひとつはっきりと明快にお答えくださった。私が「仏教宗学研究会主宰・仏教宗学研究会のブログ主筆」の名刺を見せて、お話を伺うと、門主夫人の話は、浄興寺が上古の昔から、親鸞の頂骨や遺品を格蔵してきた寺院であること、そして浄興寺から東本願寺、西本願寺、興正寺へ、さらに仏光寺、高田専修寺等々まで、親鸞の頂骨を分骨してきていることを語っておられる。ここが浄興寺の大きなポイントでありますね。私はインターネットで東本願寺、西本願寺、興正寺から浄興寺に宛てた分骨の礼状が格蔵されていると聞いてきたので、宝物殿の中を拝観させてもらえませんかと尋ねると、普段は宝物殿は閉め切っているが、拝観の申し込みがあった場合は、開館しているとの御返事であった。

 

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■真宗・浄興寺2(東西本願寺への親鸞頂骨の分骨)

 

□浄興寺から東西本願寺への親鸞頂骨の分骨を史実と認めている盛岡大学長・加藤章氏論文

 

親鸞の頂骨を格蔵してきた浄興寺が東本願寺、西本願寺、興正寺に親鸞頂骨を分骨してきていることは、単なる浄興寺の寺伝によるものではない。20045月、本山浄興寺発刊の写真集「歓喜勇躍山浄興寺」の中に、盛岡大学長・元上越教育大学長・上越市史編集委員長の加藤章氏が「浄興寺小史」と題する論文を寄せている。その中でこう書いている。

(親鸞は)京都から越後国国府(新潟県上越市)に流され、越後にて七年ほど配流の生活を送ったが、流罪赦免ののちも京都に戻らず、上野、武蔵をまわって建保2(1214)常陸国笠間郡稲田郷(茨城県笠間市)に移住し、その拠点は稲田禅坊とよばれた。そこで農民や下層武士を主とする民衆に布教するとともに、自ら信仰を深めつつ『教行信証』を著した。本寺(浄興寺)の成立は、この『教行信証』の成立した元仁元年(1224)、浄土真宗の創始と同時ということになる。親鸞は、しばらくこの地で布教し、貞永元年(1232)ごろ、京都に帰るにあたり、弟子の善性にその跡を譲った…

鎌倉幕府は、皇系である善性に寺領として信濃国水内郡太田庄長沼(長野県長野市)に三千貫文を与えたが、弘長三年(1263)、戦火により稲田浄興寺が焼失した際、下総国(茨城県)稲敷山さらに磯部村をへて、この長沼に移った。(文永4年、1267)。長沼の浄興寺はその後、三百年ほどつづき、永禄4(1561)、十三世(浄興寺)住職の周円のとき、川中島合戦の兵火を受けて炎上した。寺伝では、十六世紀末、上杉景勝(一説に謙信)の招きによって春日山城下に寺地を与えられ、堂宇が建立されたとされている。上杉景勝が会津転封の後、入封した堀が福島城を築いたので、十五世善芸のとき、浄興寺も福島城下に移った。その後、松平忠輝が入封し、慶長19(1614)、高田城を築いたため、浄興寺も城下に移ったが、寛文5(1665)の大地震で堂宇は破壊焼失した。十八世琢性は、延宝6(1678)に、再建計画をたて、江戸および周辺十ヶ村において浄興寺寺宝の御開帳を行い、再建資金を集め、翌、延宝7年に現在の本堂が建築された。この本堂は、平成元年、重要文化財に指定された。…」

「浄興寺の宗教的権威を支えるものは、まず本寺(浄興寺)が宗祖親鸞の浄土真宗開教の道場であること。さらに最も崇敬される宗祖の頂骨を護持しつづけてきたことがあげられる。それに対し、親鸞の没後十年を経た文永9(1272)、浄興寺から48年おくれて本願寺が創建された。したがって、もともと本願寺と浄興寺の間には、本寺末寺の関係はなかったのである。しかし宗祖を同じくする同派であり、とかも宗祖親鸞の頂骨を浄興寺が安置することから、両寺の交流は深く、また真宗教団の発展に協力して貢献する歴史を有している。とくに本願寺の蓮如の宗門再興をかけて活躍した際や、顕如が大坂石山本願寺を拠点に織田信長と戦った石山合戦前後などは、浄興寺も積極的な援助を行っている」(浄興寺発刊の写真集「歓喜勇躍山浄興寺」p2223)

 

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■真宗・浄興寺1(親鸞の頂骨)

 

□浄土真宗の宗祖・親鸞の頂骨を格蔵すると伝承する浄土真宗浄興寺派本山・浄興寺

 

浄土真宗・高田浄興寺とは、新潟県高田市にある浄土真宗浄興寺派本山。讃文には「本山浄興寺」の額が掲げられている。正式名は歓喜勇躍山浄興寺で、浄興寺という寺号も浄土真宗興行寺の略名である。浄土真宗は浄土真宗本願寺派 、真宗大谷派、真宗高田派、真宗佛光寺派、真宗興正派、真宗木辺派、真宗出雲路派、真宗誠照寺派、真宗三門徒派、真宗山元派の十派が有名で、この十派は真宗教団連合をつくる。浄土真宗には真宗教団連合に加盟するむ十派以外にも、数多くの分派があり、その中のひとつが浄土真宗浄興寺派で、ここは真宗教団連合には加盟していない。もともと浄興寺は、真宗大谷派の別格寺院であったが、昭和27年(1952年)の宗教法人法の施行により真宗大谷派から独立したことによって成立した宗派である。

浄興寺はJR高田駅から歩いて行けるくらいの距離にある。高田駅とは、新潟県上越市のターミナル駅である直江津駅からJR信越線・長野方面行きの各駅停車の電車に乗って二つ目の駅。東京から電車を利用して高田に行くには、二つのルートがある。ひとつは東京から長野新幹線を利用し、長野駅で新幹線からJR信越線に乗り換えて高田へ行くルート。もうひとつは、東京から上越新幹線に乗って越後湯沢で下車。そこから特急はくたか号・金沢行きに乗り換えて直江津で下車。直江津でJR信越線各駅停車に乗り換えて高田に行くルートである。東京からの所用時間は、どちらのルートを使っても、そんなに大差はない。ただし土日祝日、ゴールデンウィーク、旧盆、年末年始の繁忙期になると、上越新幹線~特急はくたか号のルートは、指定席・自由席ともに満席になってしまうことがよくある。しかし長野新幹線のほうは、繁忙期でも全列車満席とは、あまり聞いたことがない。だから信越線の長野行き列車は、長野から新幹線に乗り換える乗客でごった返すことがある。しかし2015年春、北陸新幹線が金沢まで開業する予定になっており、これによって特急はくたか号は廃止され、現在のJR信越線・脇野田駅近辺に北陸新幹線・上越妙高駅が開業する。ここが乗り換え駅になる。よって2015年春以降は、東京からは北陸新幹線で上越妙高駅にて下車し、ここで各駅停車に乗り換えるルート一本だけになる。

高田は冬になると、かなりの積雪がある豪雪地帯にある。浄興寺も冬に参詣すると、本堂、真骨拝殿、宝物殿、庫裡等には雪囲いがしてある。冬は積雪がものすごいため、寺院の行事はほとんど行われておらず、本堂も戸が閉め切られている。寺院の行寺は、春から秋にかけて行われる。

ではなぜ浄興寺を訪れたのか。それは浄興寺が古来から浄土真宗の宗祖・親鸞の真骨(頂骨・頭蓋の中央にある左右一対のたいらな四角形の骨。頭頂骨)を格蔵してきたと伝承する寺院であるからである。

 

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