■京都・建仁寺2(栄西禅師の正墓がある子院・開山堂)

 

□江戸時代初期の画家・俵屋宗達の最高傑作「風神雷神図屏風」を格蔵する建仁寺

 

建仁寺とは、臨済宗建仁寺派の大本山で、日本の臨済宗大本山の中では最も古い。鎌倉時代の建仁2(1202)の開創で、寺号は当時の年号である「建仁」から名付けられている。山号は「東山」と書いて「とうざん」と読む。創建当時の年号を寺号にした寺院は、「比叡山延暦寺」「東叡山寛永寺」などの例はあるが、数としては極めて少ない。開基は鎌倉幕府二代将軍・源頼家になっているが、創建当時の年号が寺号になっていることで、建仁寺が天皇勅許の寺であることを、強く臭わせている。建仁寺の諸堂は、中国の百丈山を模して建立されたという。

建仁寺は、創建当初は天台、密教、禅の三宗兼学の寺院だったが、建仁寺第11世・蘭渓道隆の代から、純粋な臨済禅の道場になった。

建仁寺の開山・栄西禅師の名前は、一般的には「えいさい」と読まれているが、建仁寺の寺伝では、「ようさい」と言う。字は明庵(みんなん)、号は千光(せんこう)葉上(ようじょう)という。

栄西禅師は永治元年(1141)、備中国(岡山県)吉備津宮の社家、賀屋氏の子として生まれた。14才で落髪。比叡山で天台密教を修め、その後、二度にわたって入宋を果たし、日本に禅を伝えた。また、中国から茶種を持ち帰って、日本で栽培することを奨励し、喫茶の法を普及せしめた「茶祖」としても有名である。

栄西は二度目の渡宋で臨済宗黄龍派の虚庵懐敬に参禅。建久2(1191)、虚庵懐敬から師道の法を嗣いだという証明である印可を得て帰国。京都では比叡山延暦寺の勢力が強大で、禅寺を開くことは困難な情勢であった。栄西は九州・博多に聖福寺を建立。のち鎌倉に移って北条政子の援助で正治2(1200)に寿福寺を建立。その2年後の建仁2(1202)、鎌倉幕府2代将軍、源頼家の援助を得て、京都に建仁寺を建立した。

建仁寺で有名なのは、国宝に指定されている「風神雷神図屏風」。これは俵屋宗達の晩年の最高傑作とされる。屏風前面に金箔が押されている。俵屋宗達(生没年不詳)とし、慶長から寛永年間に活動した江戸時代初期の画家。尾形光琳と並び称せられる、江戸時代初期の大画家だが、伝記には不明な点が多く、生没年さえわかっていない。

「風神雷神図屏風」は、建仁寺方丈で見学できるが、通常、展示されているのは、高精細デジタル複製、つまりレプリカである。「なーんだ、レプリカなのか」と思ってしまいがちですが、しかし博物館、資料館等に並ぶ展示の大半は、レプリカだということをご存知だろうか。特に、都道府県立や市町村立の博物館、資料館の展示にレプリカが特に多い。展示品が本物なのか、レプリカなのかについては、展示の説明文に書いてある。「複製」と書いてあったら、それはレプリカだということ。

レプリカが展示されている場合、本物(原画、原本)の所在地も明記されている。「風神雷神図屏風」の場合は、本物は建仁寺格蔵となっているが京都国立博物館に寄託されている。普段は建仁寺でレプリカが展示されている。

建仁寺9 

続きを読む