■奈良東大寺2(六宗兼学・八宗兼学)

 

では日本最初の戒壇、日本三大戒壇の一つとしての東大寺と、華厳宗総本山としての東大寺が、どうして両立するのか、という疑問にぶち当たる。

奈良時代のいわゆる南都六宗(華厳宗、法相宗、律宗、三論宗、成実宗、倶舎宗)は、「宗派」というよりは「学派」に近いもので、日本仏教で「宗派」という概念が確立したのは中世以後のことである。鎌倉時代に「鎌倉仏教」と呼ばれる浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、臨済宗、曹洞宗といった新興宗派が起こってきたころが、今で言う「宗派」の起こりとする説がある。

完全に固定化されたのは、近世初期の1664年(寛文4年)に江戸幕府がキリスト教や不受不施派を禁制として、信徒に対し改宗を強制することを目的として制定された檀家制度、寺檀制度ということになる。

これは仏教の檀信徒であることの証明を寺院から請ける制度である。寺請制度の確立によって民衆は、いずれかの寺院を菩提寺と定め、その檀家となる事を義務付けられた。つまりどこかの宗派の寺院の信徒として固定化されたわけである。

寺請け制度ができる前は、けっこうあいまいな所があり、日蓮宗一門で言えば、ある信者は、日蓮正宗大石寺にも参詣すれば、北山本門寺にも参詣し、身延山久遠寺にも参詣するといった具合である。

 

寺院では、寺請制度の成立によって、現在の戸籍に当たる宗門人別帳が作成され、旅行や住居の移動の際にはその証文(寺請証文)が必要とされた。各家、各家庭には仏壇が置かれ、法要の際には僧侶を招くという慣習が定まり、寺院に一定の信徒と収入を保証される形となったというわけである。

そのため、仏教界では、長い間、寺院の僧侶は、複数の宗派を兼学することが普通であった。

東大寺の場合、近代以降は所属宗派を明示する必要から華厳宗を名乗るが、奈良時代には「六宗兼学の寺」とされ、大仏殿内には各宗の経論を納めた「六宗厨子」があった。

しかし華厳宗は、六宗の中でも開山・良弁ゆかりの宗派として重要視され、近代以前においても日本における華厳宗研究の中心地として、多数の優れた学僧を輩出していた。

平安時代には空海によって寺内に真言院が開かれ、弘法大師空海が伝えた真言宗、伝教大師最澄が伝えた天台宗をも加えて「八宗兼学の寺」とされた。

ここではないが、法隆寺に行ったとき、案内役員から

「法隆寺は、今で言うと大学のような部分があって、多くの学僧が学びに来ていた」

との説明を受けた。もっとも、東大寺が日本最初の戒壇であるとの地位を考えれば、法隆寺に限らず、「八宗兼学の寺」としての東大寺も、今でいう大学としての機能を持っていたと考えられる。

東大寺10戒壇
 


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