一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ

「一般社団法人 仏教宗学研究会」とは任意団体として2005年から活動している会の名称。2018年5月に一般社団法人登記。当ブログ名を「仏教宗学研究会のブログ」から「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」に改名。 「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

Tag:アンチ顕正会

■石山本願寺跡(大阪城公園)3(大阪旅紀行1)

 

□東京からかなりの割安価格で旅行が出来るJTB「出張応援価」(ビジネスパック)の旅行プラン

 

大阪城公園に行くには、JR大阪環状線・大阪城公園駅が玄関口だが、大阪城天守閣に行くには、地下鉄のほうが便利である。私は大阪城公園も大阪城天守閣も、修学旅行をはじめ、個人旅行でも何度も来ている。2011年の東日本大震災前のころは、中国人、台湾人、韓国人の観光客が大勢来ていた。天守閣の中は写真撮影禁止なのだが、それでも、おかまいなしに、あっちこっちでパチパチとデジカメで写真撮影している中国人旅行者。それを訝しげに見ている日本人旅行者が、とても印象に残った。

私が大阪に行くときは、例によってJTB「出張応援価」(ビジネスパック)などの旅行プランを使う。これは、まともに往復の新幹線乗車券・指定席特急券とホテルの宿泊券を買うよりも、かなりの安上がりになる。12日の旅費・宿泊費で比較して見ると、ビジネスパックを使ったときは、おおむね1泊の宿泊代がタダになる計算になる。また1泊プラスして23日にしても、プラス1泊の宿泊代が割安価格になる。またプラス1000円ないし2000円でグリーン車に乗ることも出来る。まともにグリーン券を買うよりは、はるかに割安であり、私はビジネスパック旅行の帰路は、よくグリーン車に乗る。だからかなりお得な料金で旅が出来る。この他、JTBではポイントカードがあり、JTBを使うと、1年間有効なポイントが貯まる。そのポイントは、次回の旅行の時に割引きになる。ビジネスパックは、人気が高いため、23日前くらいになると、ビジネスパックに割り当てられたホテルの部屋やJR列車の座席が満席になっているというときがある。そういう場合は、ビジネスパック以外の旅行プランを使うが、ビジネスパックよりも割高になる。私は、東京~大阪を移動するときは、若い頃は自家用車に乗って、東名・名神高速道路をかっ飛ばして走っていたが、近年は全て東海道新幹線を利用している。JTB「出張応援価」(ビジネスパック)を使う場合、新幹線か航空機利用になり、自家用車使用のプランはない。東京~新大阪は、56分間隔で、新幹線列車が運転されており、「のぞみ」号もかなり多くの本数が運行されているため、私は東京~大阪の移動は、東海道新幹線が最も便利だと思う。

東京駅から東海道新幹線「のぞみ」号に乗ると、品川、新横浜でどんどん乗客が乗ってきて、普通車指定席はほぼ満席になる。かつては品川、新横浜を通過する列車が設定されていた時代もあったが、新幹線車両がどんどんスピードアップしていくにつれて、逆に品川、新横浜は全列車が停車している。東京始発の「のぞみ」号には、新大阪行き、広島行き(一部、岡山行き)、博多行きの3タイプがある。新大阪行き「のぞみ」号に乗ると、名古屋でドーッと乗客が下車。逆に乗る人はわずかである。京都でも乗客が下車して、車内はどんどん空席が増えていく。ところが広島行き、博多行きの「のぞみ」号に乗ると、名古屋でドーッと乗客が降車しても、逆にドーッと乗客が乗ってくる。だから名古屋を発車する時も、満席状態はほぼ変わらない。これは京都でも同じ。

 

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■石山本願寺跡(大阪城公園)2(大阪城天守閣)

 

□日本人観光客の他、中国、台湾、韓国から来たと思われる団体客が大幅に増えた大阪城

 

石山本願寺跡・大阪城公園に行く最寄り駅は、JR大阪城公園駅になる。大阪城公園に行ったら、石山本願寺跡もさることながら、大阪城天守閣に足が向いてしまう。大阪の象徴と言ったら、やはりこれ。大阪城・天守閣でしょうね。今まで、大阪には幾度となく行っているのですが、大阪城天守閣にも、何度も足を運んでいます。最初にここを訪れたのは、たしか中学生の修学旅行の時だったと思います。その後、大学生のとき、卒業後も大阪に来たときには、何度も来ています。

201010月に大阪に行ったときも、大阪城天守閣に行きました。もちろん、大阪に行ったときは、必ず大阪城天守閣に行っているというわけではありませんが、やはり大阪に行くと、どうしてもここに足が向いてしまう。一回、大阪城に行かなかったことがあると、「次回は、大阪城に行こう」と思い、どうしても足が大阪城に行ってしまう。足が向いてしまうとは言っても、大阪城公園駅から大阪城天守閣までは、大阪城公園の中をひたすら歩いて行くと、およそ2025分はかかる。

歩くとは言っても、私の場合は、大阪城公園の中をいろいろ眺めたり、写真を撮りながら歩くので、実際には30分以上かかっているのではないかと思う。

大阪城天守閣の外観、天守閣の周りは、昔からさほど変わっていないような気がします。

ベンチや写真撮影の所。売店。城郭。石垣。門。天守閣入り口。昔、来たときも、こんな感じだったような気がします。そして、いつ来ても、老若男女、たくさんの人が大阪城天守閣を訪れています。それは平日も土日祝日も関係なく、たくさんの人が来ています。201010月に大阪城天守閣に行ったのも平日の昼間でしたが、たくさんの人が来ていました。どちらかというと中高年の人が多かったように思いましたが、若い男女、家族連れもたくさん居ました。又、目立ったのは、中国、台湾、韓国から来たと思われる団体客。それから欧米人。欧米人は昔から居たような気がしますが、中国・韓国からの観光客は、ここ十年くらいの間のことではないでしょうか。日本人のみならず、外国人観光客にとっても、大阪における一大観光スポットになっているようです。

8階建ての大阪城天守閣の中は、博物館のようになっていて、展示が並んでいる。3F4Fは、豊臣秀吉の時代の大坂城にスポットを当てており、大阪城天守閣の収蔵品の中から、貴重な歴史資料の実物を展示している。5Fは、国の重要文化財「大阪夏の陣図併風」に描かれている各場面を解説。7Fは、豊臣秀吉の生涯を映像、模型、パネルを使って解説している。

大阪城を築いたのはもちろん豊臣秀吉だが、豊臣氏滅亡後は、徳川幕府の大坂城代が住んでいた。大阪城天守閣内にある、さまざまな解説を読んでいると、今の大阪城の遺構は、豊臣秀吉の時代の大坂城というよりも、徳川家康の時代の大坂城の遺構が大半のようである。

しかし、大阪城天守閣内の展示は、なんといっても豊臣秀吉の時代のものが大半。当たり前のことかもしれないが。

 

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■石山本願寺跡(大阪城公園)1(広い大阪城公園)

 

□今の大阪城本丸・二の丸周辺にあったと推定されている浄土真宗・石山(大坂)本願寺

 

現在、大阪府大阪市の大阪城公園は、かつて石山本願寺があった所と伝承されている。

石山本願寺(いしやまほんがんじ)とは、戦国時代から安土桃山時代にかけて、現在の大阪府大阪市中央区大阪城付近にあった浄土真宗の寺院、城郭で、正しくは大坂本願寺という。天文2年(1533年)に本願寺教団の本山となって発展し、戦国時代の一大大名・勢力となった。しかし織田信長との石山合戦(石山本願寺戦争)の末、天正8年(1580年)に顕如が石山本願寺を織田信長に明け渡し、その直後に全焼し消滅した。その後、豊臣秀吉が大坂城を築城したとされる。

その豊臣秀吉が築いた大坂城は、1615年(慶長20年)、大坂夏の陣で落城、焼亡。豊臣氏は滅亡した。その後、徳川幕府が大坂城を再建。江戸時代にはたびたび火災による損傷と修復を繰り返し、1665年(寛文5年)には落雷によって天守を焼失している。慶応413日(1868127日)、旧幕府軍の鳥羽・伏見の戦いでの敗北によって出火。建造物のほとんどが焼失した。

現在の天守閣は、1930年(昭和5年)に再建工事が始まり、翌年に完成したもの。大坂城といえば豊臣秀吉であり、淀君、豊臣秀頼自刃の地として有名であり、石山本願寺を連想する人は皆無ではなかろうか。石山本願寺戦争ののち、豊臣秀吉が本願寺に京都の地を寄進。これが現在の西本願寺である。東本願寺は、江戸時代初期、徳川家康が、本願寺を退出した教如に寄進した土地に建立された寺院である。徳川家康は、巨大宗教勢力だった本願寺教団を東西に二分割する政策をとったとする説が、歴史の通説になっている。

石山本願寺が、どういう伽藍・堂宇があり、どれだけの僧侶がいて、どれだけの門前街があったのか等についての記録はほとんど残っていない。石山本願寺は、顕如の退去後、炎上して焼失。この時に、記録文書等々も焼失してしまったのではないかと思われる。ここに親鸞廟があったかどうかも不明。仮にあったとしても、顕如退出後、石山本願寺が焼亡してしまっていることからして、親鸞廟も焼失したのではないかと思われる。こういったことから、後に西本願寺が、高田・浄興寺から親鸞遺骨の分骨を受けて、浄興寺に礼状を出しているのではないかと推測される。

石山本願寺焼亡後、大坂城を築城した豊臣秀吉は、なかなか世継ぎに恵まれず、50才を過ぎてからようやく秀頼が生まれる。秀頼が生まれたことにより、秀吉の養子で次代関白の豊臣秀次は、高野山に蟄居させられ、その地で切腹。太閤秀吉も1598年に死去。秀頼が家督を相続するが、少年の秀頼に天下は統率できず、豊臣秀吉亡き後は、徳川家康の世になった。その豊臣秀頼は、大坂の陣に敗北。大坂夏の陣で自刃し、豊臣家は滅亡した。この地は、なかなか縁起が悪い地のようである。

 

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■大津・富士山蓮華寺14(日神氏の撮影による『謎の写真』2)

 

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皆様、新年、明けましておめでとうございます。昨年は、いろいろとお世話になりました。

日記やボイスに、イイネやコメントを多数いただき、又、ブログには多くの方々からコメントやメッセを頂戴しました。まことにありがとうございました。

さて、「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」と「仏教宗学研究会のブログ」を立ち上げてから、もうかれこれ3年、私が「mixi」ではじめて「アンチ日蓮正宗」コミュを立ち上げてから、今年で10年になります。20141231日で「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」と「仏教宗学研究会のブログ」の「2ブログ」のアクセス数の総計が79pvを突破。アクセスユーザー数ものべ21万人を超えました。昨年は「2ブログ」のアクセス数累計が、富士門流執着軍団の第一次公式ホームページ「富士門流信徒の掲示板」のアクセス数累計を、ぶち抜きました。今年は、長野県の日蓮正宗寺院某寺法華講に所属していると自称する、あの似合わないメガネにヒゲの男が主宰するテレビ名を付けた某ウエブサイトの累計アクセス数をぶち抜き、いよいよ「2ブログ」のアクセス数の総計が100pvの大台を射程圏内に入れることが出来るのではないかと思われます。

本年もまた昨年に引きつづいて、皆様方からのご指導・ご鞭撻を賜ることが出来ますよう、よろしくお願い申し上げます。

奥の院16 

 

 

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■真宗・仏光寺本廟1(仏光寺の親鸞御廟)

 

□仏光寺本廟の親鸞御廟に入っている親鸞遺骨とは高田・浄興寺から分骨されたものなのか

 

真宗大谷派本山・真宗本廟・東本願寺の親鸞廟が大谷祖廟・東大谷、真宗本願寺派本山・西本願寺の親鸞廟が大谷本廟・西大谷であるが、浄土真宗仏光寺派の本山である仏光寺にも親鸞御廟がある。それが京都東山にある仏光寺本廟である。仏光寺本廟も東大谷、西大谷と同じく京都東山にあり、三門もどことなく、東大谷、西大谷の三門とよく似ている。境内の中には、本堂、寺務所、親鸞御廟、一般墓地があるが、そんなに広いという印象はない。

この仏光寺本廟は、私が京都・寺跡調査旅行で宿泊したウエスティン都ホテルの数軒となりにある。仏光寺本廟の南側には、青蓮院、知恩院、円山公園、大谷祖廟・東大谷がある。私もウエスティン都ホテルから徒歩で京都市内の寺跡調査に出るときに、偶然、ここを見つけて入った。

仏光寺本廟の親鸞御廟は、拝殿はなく、石造りの御廟があるだけ。この仏光寺本廟の親鸞遺骨は、どこから来たものなのか。新潟県・高田の浄興寺の話しによれば、仏光寺や高田専修寺にも浄興寺から親鸞頂骨を分骨しているのだという。であるならば、ここ仏光寺本廟の親鸞御廟に入っている親鸞遺骨とは、浄興寺から分骨されたものなのか。ただし、浄興寺は東本願寺、西本願寺、興正寺からの分骨礼状を格蔵していて、宝物殿で公開しているが、仏光寺、高田専修寺からの分骨礼状はなかった。

いろいろ聞いてみようと寺務所に入るが、誰もいない。そのうち、仏間から数人の門徒らしき人が出てきて、そそくさと靴を履いて寺務所から出て行った。そのうち、受付に寺務員の女性が出てきて、いろいろ話しをしたが、この女性、ずいぶんと愛想がいい女性でした。

本廟5





















本廟3





















本廟1



































 

(仏光寺本廟三門)

御廟2





















御廟3



































 

(御廟)

本堂1




















 

(本堂)

寺務所1




















 

(寺務所)

 

 

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■大谷本廟・西大谷2(親鸞真骨2)

 

□石山戦争等からして浄興寺から西本願寺への親鸞頂骨の分骨説がまことに説得力が高い

 

西本願寺を本山とする真宗本願寺派の親鸞廟所が大谷本廟・西大谷であるが、親鸞遺骨の行方を追っていく中で、本願寺の基となった大谷廟堂とその後の大谷本廟成立の歴史は、まことに興味深いものがある。浄土真宗本願寺派・本願寺出版社が出している冊子「本願寺グラフ」には、「本願寺の歴史」と題する次の文が載っている。

「もともと本願寺は、親鸞聖人の廟堂から発展した。親鸞聖人が弘長2(1263)年に90才で往生されると、京都東山の鳥辺野の北、大谷に石塔を建て、遺骨を納めた。しかし聖人の墓所はきわめて簡素なものであったため、晩年の聖人の身辺の世話をされた末娘の覚信尼さまや、聖人の遺徳を慕う東国の門弟たちは、寂寞の感を深めた。そこで10年後の文永9(1272)年に、大谷の西、吉水の北にある地に関東の門弟の協力をえて、六角の廟堂を建て、ここに親鸞聖人の影像を安置し遺骨を移した。これが大谷廟堂である。この大谷廟堂は、覚信尼さまが敷地を寄進したものであったので、覚信尼さまが廟堂の守護をする留守職につき、以後、覚信尼さまの子孫が門弟の了承を得て就任することになった」(冊子「本願寺グラフ」p6)

つまり本願寺の基は、親鸞の遺骨を納めた大谷廟堂だということで、その留守職に大谷廟堂を寄進した覚信尼の子孫(つまり親鸞の子孫)が就任することになり、これが今の本願寺門主(宗主)ということになる。これは西本願寺門主・東本願寺門首も親鸞・覚信尼の子孫である。

ところがこれと異なる見解が本山浄興寺発刊の写真集「歓喜勇躍山浄興寺」の中に載っている、盛岡大学長・元上越教育大学長・上越市史編集委員長の加藤章氏が「浄興寺小史」と題する論文である。加藤章氏は次のように書いている。

「親鸞は、しばらくこの地で布教し、貞永元年(1232)ごろ、京都に帰るにあたり、弟子の善性にその跡を譲った…」「浄興寺の宗教的権威を支えるものは、まず本寺(浄興寺)が宗祖親鸞の浄土真宗開教の道場であること。さらに最も崇敬される宗祖の頂骨を護持しつづけてきたことがあげられる。」(浄興寺発刊の写真集「歓喜勇躍山浄興寺」p2223)

浄興寺の寺伝によれば、浄土真宗の宗祖・親鸞は90才にて京都で遷化(死去)。京都・東山の鳥辺山墓地で荼毘に付されて葬られた。しかし親鸞の頂骨と遺品は、親鸞二十四弟子の一人、善性に相伝され、善性が護持してきたと伝承する。その善性に随って親鸞の頂骨と遺品は、京都から稲田草庵へ、さらに長野へ、そして高田の浄興寺に至るというわけである。

さてもうひとつ、親鸞に関する興味深い研究・論説がある。それは井沢元彦氏の著書「逆説の日本史」である。井沢元彦氏の著書「逆説の日本史」8巻から、井沢元彦氏の親鸞に関する興味深い研究・論説親鸞に関する研究・論説の要旨を引用してみたい。

 

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■大谷本廟・西大谷1(御荼毘所・親鸞真骨)

 

□鳥辺山の親鸞「御荼毘所」とは離れた所に建っている真宗本願寺派の親鸞廟所・西大谷

 

真宗本廟・東本願寺を本山とする真宗大谷派の親鸞廟所を大谷祖廟・東大谷と言うのに対して、西本願寺を本山とする真宗本願寺派の親鸞廟所を大谷本廟・西大谷と言う。東大谷も西大谷もどちらも京都・東山にある。東大谷が東にあり、西大谷が西にあるというわけではない。これは大谷祖廟は、東本願寺(真宗本廟)の親鸞廟であるから東大谷、大谷本廟は西本願寺の親鸞廟であるから西大谷と呼ばれているものと思われる。西大谷は、室町時代のころから共同墓地で有名な鳥辺山にある。この鳥辺山は、大石寺・要法寺・保田妙本寺三祖日目の墓所がある日蓮本宗(要法寺門流)實報寺がある、あの鳥辺山である。

大谷本廟・西大谷の三門は、京都・東山五条の交差点脇にある。JR京都駅から東山五条までは、徒歩で行けないこともないが、私はここに行くときは、バスかタクシーを利用する。西大谷の境内は、東大谷と比べてかなり広く、親鸞廟所の拝殿もきちんと整備されている。真宗本願寺派の門徒数は約780万人。寺院・教会・布教所数は10369。教師(僧侶)数は19465。これだけ大規模な宗門であるので、それだけ参詣者も多いということだろうか、親鸞廟所も念入りに整備されているのが印象的。西大谷・親鸞廟所の後方には、広大な門徒(信徒)の墓地が広がっている。このあたりは上古の時代から、鳥辺山墓地とよばれた所である。

実は親鸞が火葬・荼毘に付されたのがここ京都・鳥辺山なのである。親鸞は90才で京都鳥辺山の延年寺で火葬され、荼毘に付されたと本願寺の寺伝では、伝承している。親鸞が荼毘に付された所を、真宗本願寺派では「御荼毘所」と呼んでいて、「御荼毘所」は京都・鳥辺山に今も残る。鳥辺山の中にあるのだが、大谷本廟・西大谷と同一所ではなく、離れた飛び地になっているところが面白い。しかもその飛び地に行くには、同じく鳥辺山にある大石寺・要法寺・保田妙本寺三祖日目の墓所がある日蓮本宗(要法寺門流)實報寺の墓地の中を通って行かないと、行けないのである。

 

□明治維新の時に京都市からの廃寺命令でとっくに廃寺になって消滅していた鳥辺山・延年寺

 

現在、鳥辺山ないしは鳥辺山近辺には、鳥辺山墓地が存在するが、それは實報寺墓地、西大谷墓地、ないしはその近辺にある寺院の墓地であって、延年寺ないしは延仁寺という名の寺院は存在しない。鳥辺山の山道をどんどん登っていくと、「延年寺旧跡墓地」という名の墓地があるが、鳥辺山に延年寺という名の寺院は存在しない。「延年寺旧跡墓地」には、別の管理者がいる。そこで

「延年寺旧跡墓地」管理者(鈴木花店)にお話を伺ってみると、延年寺という寺院は、今日、存在していないという。「いつなくなったのですか」と質問すると、「延年寺は明治維新のときに、なくなりました」との回答。「廃仏毀釈でなくなったのですか」と質問すると、「いいえ、そうではありません。京都市のほうから、廃寺命令が出て、なくなりました」との回答でした。

 

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■真宗・仏光寺3(法脈のパクリ)

 

□大石寺9日有が浄土真宗仏光寺派・専修寺派から輸入した「唯授一人の血脈相承」

 

ひきつづき、浄土真宗の歴史の概略、真宗専修寺派の「唯授一人口決」、真宗仏光寺派の「法脈」の概略については、井沢元彦氏の著書「逆説の日本史」8巻から要旨を引用してみたい。

----つまり親鸞の血脈を持たない僧侶も、仏光寺なら親鸞の「法脈」に連なることが可能になり、その法脈に連なることができるかどうかの認定権を仏光寺が握った。つまり仏光寺は、「法脈」の看板を与えて、師範にすることもできれば、住職に任命することもできる。又、逆に「破門」にすることもできるわけで、僧侶は「法脈」の絵系図という「免許」を得るために、仏光寺の忠実な奴僕になる。仏光寺は、信者が抱える不安に巧みにつけいり、「名帳」なる名前の「極楽往生決定者名簿」を作り上げて、信者の心をつかんだ。信者の不安とは、

「本当に自分は極楽往生が決定しているのか」「自分の信仰には誤りがないのか」という不安。

仏光寺はここに巧みにつけ込んで、親鸞以来の正しい教えを標榜する「法脈」の他に、「名帳」なる名前の「極楽往生決定者名簿」を作り、この名帳に名前が記された者は極楽往生が決定するとした。これが浄土真宗の信者の爆発的人気を呼び、われもわれもと仏光寺派に入信し、名帳に名前が記されることを願ったというわけである。

では仏光寺と同じ立場にあった専修寺では、どのように本願寺の血脈(親鸞直系の血筋・血統という意味)に対抗したのだろうか。この教派の代表的な僧は如道である。如道は次のように主張した。専修寺派の歴代住職は、親鸞から「唯授一人口決」を受け、親鸞と同格である、というのだ。

例えば剣術には免許皆伝という考えがある。これは師匠と同じ技量に達した、という意味だ。免許皆伝は技術の継承であるから、必ずしも師匠の子孫が受けるとは限らない。いくら実の子でも、技量が不足していてはどうにもならない。つまり、如道は、われわれ専修寺は親鸞から真宗の教義に関する「免許皆伝」を受けている、と言った。如道は親鸞からの「免許皆伝」は、専修寺の系統の僧だけに与えられた、とした。これが「唯授一人口決」である。これも実に巧みな作戦で、こうすれば本願寺は「ただの親鸞の子孫」に過ぎなくなり、「専修寺こそホンモノ」ということになる。如道は、「唯授一人口決」を受けた者(つまり如道自身)は、親鸞と同格になるとも言った。仏を念ずることによって、往生が決定した僧は、阿弥陀如来と同格であり、極楽もその胸のうちにある。したがって念仏も仏像を拝むことも、一切不要であり、逆に信者は仏ではなく、「仏と同格」であり身近にいる僧(もちろん専修寺の僧)こそを崇拝すべきだということになる。仏光寺の了源、専修寺の如道がなぜこんなことを言ったのかと言えば、こうすれば門徒がそれぞれの寺に集まり、教団が発展するからである。----(井沢元彦氏の著書「逆説の日本史」8巻要旨)

この仏光寺の「法脈」、高田専修寺の「唯授一人口決」は、今の日蓮正宗の「二箇相承」「唯授一人の血脈相承」を頂点とする教団システムに全く瓜二つ。そっくりなのである。

 

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■真宗・仏光寺2(法脈・絵系図)

 

□親鸞の祖廟を親鸞の子孫一族で独占して教勢を拡大しようと計って失敗した親鸞の曾孫・覚如

 

現在、浄土真宗の教団で最大宗派は、門徒数が約780万人、寺院・教会・布教所数が10369、教師(僧侶)数が19465人の浄土真宗本願寺派(西本願寺)である。が、室町時代はそうではなく、最大教団は、浄土真宗専修寺派、浄土真宗仏光寺派であった。この浄土真宗の宗史について、浄土真宗の教団側が出している資料の中に、これらをわかりやすく説明した資料がなかなか見つからず、むしろ井沢元彦氏の「逆説の日本史」の記述のほうが一般には、わかりやすいと思われる。そこで浄土真宗の歴史の概略、真宗専修寺派の教義、真宗仏光寺派の教義の概略については、井沢元彦氏の著書「逆説の日本史」8巻から要旨を引用してみたい。

----親鸞の死後、本願寺教団は全く勢いがなく崩壊寸前だった。それが復活したのは蓮如という天才的な布教者が出て、一挙に教勢を挽回したから。蓮如以前の本願寺がいかに衰えていたか。開祖親鸞の死後、親鸞の教えを継ぐ者は、第一に親鸞の子孫だった。最澄にも空海にも法然にも栄西にも道元にも日蓮にも、直系の子孫はいない。しかし公然妻帯し四男三女をもうけた親鸞には、直系の子孫がいる。その親鸞直系の子孫が本願寺を建てた。しかし鎌倉時代から室町時代前期のころ、本願寺に参詣する門徒がほとんどいないほど衰え、逆に本願寺以外の真宗教団が隆盛していた。それが浄土真宗仏光寺派、浄土真宗専修寺派である。

浄土真宗仏光寺派も専修寺派も、いずれも浄土真宗宗祖・親鸞の弟子たちが開祖になっている。親鸞には直系の子孫の他に、何人かの直弟子がいた。とはいっても親鸞は、弟子を弟子とは呼ばずに「御同朋御同行」と呼んでいた。今風に言うと「同志」ということだが、親鸞の高弟たちは、親鸞の子孫である本願寺教団には従属せず、次々と独立して布教していった。

親鸞の死後、本願寺は浄土真宗の中で唯一絶対の総本山だったわけではなく、むしろ全国に多数ある浄土真宗教団のひとつにすぎなかった。本願寺は親鸞直系の子孫であり、開祖親鸞の墓を護っていたが、真宗の教義では、極楽往生を保証してくれる救い主は本尊の阿弥陀如来であって、凡夫の親鸞ではない。普通の人に過ぎない親鸞の「墓参り」には関心がなくなってしまったのである。しかしながら浄土真宗の各教団も、初期のころは、いくつかの教団に分裂はしていたものの、宗祖「親鸞」を統合の象徴としていた。それに飽き足らず、本願寺派の教線拡大を狙う親鸞の曾孫・覚如は、親鸞の祖廟を親鸞の子孫一族で独占して、教勢を拡大しようと計った。これが本願寺の起こりで、覚如は、本願寺開祖を親鸞とし、覚如を第3世として、本願寺住職で、親鸞の子孫である本願寺教団の代表者・最高指導者を「法主」と呼ばせた。しかしこれが失敗に終わった。

 

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■真宗・仏光寺1(御影堂・尼門主)

 

□外観も柱、内陣の造りから「見真」額まで西本願寺御影堂とそっくりになっていた仏光寺御影堂

 

仏光寺とは、浄土真宗仏光寺派の本山で、ここは浄土真宗十本山のひとつ。浄土真宗本願寺派 、真宗大谷派、真宗高田派、真宗興正派、真宗木辺派、真宗出雲路派、真宗誠照寺派、真宗三門徒派、真宗山元派の十派は真宗教団連合をつくる。京都洛中の仏光寺通りに面している。

大都市・京都の街中にある寺院なので、境内はそんなに広いという印象はない。しかし阿弥陀如来像を祀る本堂、親鸞御影像を祀る御影堂の二堂は、なかなか立派な堂宇である。御影堂の中に入ってみて、中の造りが西本願寺の御影堂(ごえいどう)とそっくりになっているのが、わかった。御影堂だから、親鸞木像が祀られているのだが、「見真」と書いた大きな額が掲げられていることや、内陣の造り、柱の立ち方までそっくり。おそらく、西本願寺の御影堂の造りを模倣して造られているのではないかと思われる。

ところで真宗・仏光寺ないしは仏光寺派のことをいろいろ調べようと書店で書籍を探しても、浄土真宗に関する書籍は、圧倒的に東本願寺と西本願寺に関するもので、仏光寺に関するものは、ほとんど見つからない。2013年度版・宗教年鑑で信徒数を調べてみると、浄土真宗本願寺派(本山・西本願寺)が約780万人、真宗大谷派(本山・真宗本廟・東本願寺)が約323万人に対して、真宗仏光寺派は約48000人。東西本願寺を本山とする宗派と比べて、極端に信徒(門徒)数が少ない。他の浄土真宗の宗派を見てみると、真宗高田派(本山・高田専修寺)が約223000人。真宗興正派(本山・興正寺)が約35000人。真宗木辺派(本山・錦織寺)が約46000人。真宗出雲路派が約11000人。真宗誠照寺派が約13000人。真宗三門徒派が約14000人。真宗山元派が約1600人。親鸞頂骨を格蔵していると伝承する新潟県高田市の浄興寺を本山とする真宗・浄興寺派が約17000人となっている。浄土真宗本願寺派 、真宗大谷派、真宗高田派に比べると、信徒(門徒)数はかなり少ないが、他の浄土真宗系宗派と比べると、真宗仏光寺派は、そんなに見劣りする宗派ではない。

では寺院・教会・布教所数で見ると、どうだろうか。浄土真宗本願寺派が10369、真宗大谷派が8743、真宗高田派が643、真宗興正派が514、真宗仏光寺派は377、真宗木辺派が215、真宗出雲路派が60、真宗誠照寺派が71、真宗三門徒派が40、真宗山元派が21、真宗浄興寺派が14である。教師(僧侶)数で見ると、浄土真宗本願寺派が19465、真宗大谷派が17439、真宗高田派が961、真宗興正派が756、真宗仏光寺派は524、真宗木辺派が254、真宗出雲路派が86、真宗誠照寺派が55、真宗三門徒派が59、真宗山元派が38、真宗浄興寺派が16である。こうしてみると、浄土真宗は西本願寺を本山とする浄土真宗本願寺派が最大で、これとほぼ匹敵する規模なのが真宗本廟・東本願寺を本山とする真宗大谷派で、この二つが極端に規模が大きい。

これにつづくのが、真宗高田派、真宗興正派、真宗仏光寺派、真宗木辺派の4派で、この4派は似たり寄ったりぐらいの規模である。浄土真宗十本山の中で4本山が京都市にあり、4本山が福井県にある。あとは滋賀県と三重県で、西日本、近畿地方に集中しているのが特徴である。

仏光寺6御影堂
















 

(仏光寺御影堂)


御影堂1




















 

(西本願寺御影堂)

仏光寺2御影堂
















 

(仏光寺御影堂内部)

御影堂中6




















 














(西本願寺御影堂内部)

 

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■大谷祖廟・東大谷2(親鸞頂骨の分骨)

 

□浄興寺から東西本願寺への親鸞頂骨の分骨を史実と認めている盛岡大学長・加藤章氏論文

 

本堂の参拝を終えた後、階段を登って親鸞御廟へ。ここにもたくさんの人が参拝に来て、拝所で焼香をしている。賽銭箱のそばに焼香台があり、焼香ができるようになっている。私も焼香していると、本堂から僧侶が出仕してきて、御廟で読経がはじまった。本願寺とは、もともとは宗祖・親鸞の廟所から発展したもので、廟所は親鸞の代々の子孫の世襲になり、本願寺の起源になった。

しかし本願寺は、最初から今のような巨大教団だったわけではなく、本願寺教団を全国規模に拡大したのは、中興の祖・蓮如である。親鸞廟所が歳月を経るにしたがって本願寺に発展したということは、浄土真宗にとって、親鸞廟所は宗教的権威の源泉と言うべきものと言えよう。

ただし盛岡大学長・元上越教育大学長・上越市史編集委員長の加藤章氏は、本山浄興寺発刊の写真集「歓喜勇躍山浄興寺」の中の「浄興寺小史」と題する論文で、真宗本廟・東本願寺が所蔵する親鸞遺骨は、浄興寺から東本願寺へ分骨されたものであると、史実として書いている。

「浄興寺の宗教的権威を支えるものは、まず本寺(浄興寺)が宗祖親鸞の浄土真宗開教の道場であること。さらに最も崇敬される宗祖の頂骨を護持しつづけてきたことがあげられる。それに対し、親鸞の没後十年を経た文永9(1272)、浄興寺から48年おくれて本願寺が創建された。したがって、もともと本願寺と浄興寺の間には、本寺末寺の関係はなかったのである。しかし宗祖を同じくする同派であり、とかも宗祖親鸞の頂骨を浄興寺が安置することから、両寺の交流は深く、また真宗教団の発展に協力して貢献する歴史を有している。とくに本願寺の蓮如の宗門再興をかけて活躍した際や、顕如が大坂石山本願寺を拠点に織田信長と戦った石山合戦前後などは、浄興寺も積極的な援助を行っている」(浄興寺発刊の写真集「歓喜勇躍山浄興寺」p2223)

「その後、慶長7(1602)、本願寺が東西両派に分裂したことを契機に、浄興寺は十六世教善のとき、門末をあげて東本願寺を支持し、深い関係をもつに至った。東本願寺は、浄興寺をして客分一門として遇し、十六世教善、十七世宣性、十八世琢性の三代にわたって、()本願寺門主の息女を室に迎え、(東本願寺)門主の「猶子」として(東本願寺)門主の連枝と同等の待遇を受けている。また歴代の(浄興寺)住職は、修学をはじめ宗務のためにしばしば京都に赴き、本願寺との交流も深かった。このような近世初頭における本願寺との関係の中で注目すべきは、それまで宗祖の頂骨を独占してきた浄興寺の特権が、万治3(1660)、婚姻関係を理由に本願寺側からの強い要望に応えて、宗祖の頂骨および本願寺三世覚如以降、7人の門主の遺骨を分与したことである。そのことによって、本願寺は寛文10(1670)、東大谷本廟を創立し、名実ともに本山の条件を整えるに至った。」(浄興寺発刊の写真集「歓喜勇躍山浄興寺」p24)

東本願寺礼状1
















 

(東本願寺から浄興寺に宛てた分骨の礼状・浄興寺発刊の写真集「歓喜勇躍山浄興寺」)

浄興寺9




















 

(浄興寺・親鸞頂骨拝殿)

写真集・浄興寺1














































 

(浄興寺発刊の写真集「歓喜勇躍山浄興寺」)

 

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□「仏教宗学研究会」管理人は「ニセhide」を行う者に重ねて「ニセhide」謀略工作の中止を命ずる

 

「アンチ日蓮正宗」「仏教宗学研究会」のブログに、「ニセhide」が何度も出没して、アラシ行為を繰り返し、管理人が多大な迷惑を蒙り、その後、「宿坊の掲示板」なる名前の掲示板に、「アンチ日蓮正宗」「hide」の名前を無断で騙って、「アンチ日蓮正宗」管理人「hide」になりすまし、とんでもないスレッドを立ち上げたり、「2ちゃんねる」に「ニセhide」が出没して悪質な策略・謀略を行っていたことが発覚。アラシ対策として、「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」「仏教宗学研究会のブログ」の表紙に、「悪質な謀略工作・ニセ「hide」にご注意ください」を貼り付けております。

□「ニセhide」「ニセアンチ日蓮正宗」の謀略にご注意下さい

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/cat_1186234.html

□「ニセhide」の謀略・策略にご注意下さい

http://bukkyoshugakukenkyukai.doorblog.jp/archives/cat_1186265.html

□悪質な謀略工作・ニセ「hide」にご注意ください

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/18637884.html

□「下記は「ニセhide」「ニセアンチ日蓮正宗ブログ」の謀略ですからご注意下さい」

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/36802462.html

すると今度は、ある人のコメント欄に、「ニセhide」を騙った謀略コメントが残されていることが発覚しました。

妙本寺ニセhide2















 

(「ニセhide」の謀略コメント)

上記は、「アンチ日蓮正宗」「仏教宗学研究会」管理人の「hide」ではありません。なりすましの「ニセhide」であります。これもまた、まことに悪質極まりない「ニセhide」の謀略ですからご注意下さい。今までも、何度も何度も表明していることですが、「仏教宗学研究会」管理人は、インターネット上の他人が主宰するブログや掲示板に、コメントを残すという活動、あるいはスレッドを立ち上げるという活動は、昔も今も全く行っておりません。今後とも、そのようなことを行う予定は、一切ございません。その最大の理由は、「本物」と「ニセモノ」の区別をはっきりとするためです。

でありますから、日蓮正宗系、富士門流系のブログや掲示板、「宿坊の掲示板」なる名前の掲示板や「2ちゃんねる」も含めて、投稿者名「hide」や「アンチ日蓮正宗」の名前で、書き込みがなされているものは、全て、あたかも私が書き込みしているかのように偽装するニセ「hide」の謀略工作であります。賢明なる皆様方には、この「ニセhide」「ニセアンチ日蓮正宗」の謀略工作に充分にご注意いただくよう、お願い申し上げます。

今回の書き込みを見ると、ずいぶん上から目線で、人を“指導”するが如き、不遜な文言が見られますが、これは生まれて間もなくのころから創価学会員として育てられた者の特徴的な悪弊である。どうやら「ニセhide」「ニセアンチ日蓮正宗」の謀略工作を行っている者は創価学会員か、ないしは元創価学会員であるようですね。「ニセhide」「ニセアンチ日蓮正宗」は「アンチ日蓮正宗」「仏教宗学研究会」及び管理人とは全くの無関係であります。「アンチ日蓮正宗」「仏教宗学研究会」管理人は、この「ニセhide」行為を行っている者に対して、「ニセhide」の謀略工作の中止を命ずるものであります。

 

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■靖国神社4(815日・終戦の日の参拝3)

 

□警視庁の装甲車が周囲を固める物々しい雰囲気の中での終戦の日・靖国神社の参拝

 

今年、2014年も815日の終戦の日に靖国神社に参拝してきました。今年も快晴の炎天下での参拝。自分でも熱射病、熱中症にならないかと心配になるくらい。幸いなことに熱射病、熱中症にならずに済みました。靖国神社には午後13時ころ到着。

靖国5
















靖国4
















 

(2014815日の靖国神社)

警察警備1
















警察警備2
















 

(靖国神社周辺の物々しい警察の装甲車)

今年は靖国神社の周辺から九段下交差点付近まで、警視庁の装甲車、バリケード、機動隊が取りかこむという物々しい雰囲気。靖国神社第二鳥居前の道路は警察官のバリケードで封鎖されていました。

警察警備5
















 

(警察官のバリケードで封鎖される第二鳥居前の道路)

九段下交差点脇では、在日特権を許さない市民の会(在特会)が集会を開いており、指導者がマイク、スピーカーを持って演説している。

在特会1
















 在特会3














在特会4

















(在日特権を許さない市民の会(在特会)の集会)

その在特会の集会を機動隊員が取り囲んで封鎖している。在特会の集会が警察の許可条件に違反して行われているので、許可条件を守らせるという主旨のようです。

警察警備10
















 

(在特会の集会を取り囲み封鎖する機動隊員)

さて今年の終戦の日の靖国神社参拝も、参道は参拝者の行列・渋滞が起きている。

靖国8
















 

(靖国神社本殿参道の参拝者の行列)

参拝のあとは、今年も遊就館を見学。遊就館の常設展は何度も見学しているのですが、今年の常設展もほぼ満員。今年は企画展も行われていました。

遊1
















遊6
















 

(遊就館)

遊8
















 

(遊就館内部)

遊3

















 

(企画展)

 

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■靖国神社3(815日・終戦の日の参拝2)

 

□新装なった遊就館をはじめて見学した2011815日・終戦の日の靖国神社参拝

 

2011年も815日・終戦の日に靖国神社に参拝している。私が815日・終戦の日に靖国神社に参拝する日は、いつも快晴で、しかも炎天下の日になる。雨が降った日の記憶はないですね。この日はちょうど旧PCから新PCへのデータ移動中でバタバタしていた最中で、靖国神社に到着したのが夕方16時すぎ。この時は、参拝人の行列は日中ほど長くはなかった。

参拝が終わった後、新装なった遊就館を見学。

しかし遊就館に入館したのが1640分すぎ。閉館は1730分。

見学に最低でも約1時間はかかるということで、見学の途中で閉館時間が来てしまいました。

8・15靖国神社10



















8・15靖国神社4

















 

(2011815日・靖国神社)

 

 

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■靖国神社2(815日・終戦の日の参拝1)

 

□多くの人の参拝で鳥居から拝殿にかけて参拝人の“渋滞”がおきていた靖国神社

 

私は、毎年欠かさずとまではいかないまでも、時間の許す限り、終戦の日、ないしは終戦の日前後には、靖国神社に参拝しています。ペース的にはだいたい3年ないし4年に1度は815日・終戦の日に靖国神社に参拝しています。そこでここには、2008815日の靖国神社記を、当時の「mixi」日記から転載してみたい。

この日、靖国神社に到着したのは午前11時くらいだったのですが、今日は日差しが強く、気温もかなり上がっており、猛暑の中での参拝となった。私が靖国神社に到着した時、すでに境内には、ものすごい人が参拝に訪れており、鳥居から拝殿にかけて、参拝の人たちの“渋滞”がおきていました。靖国神社周辺は、警視庁の警官や機動隊員が出動しており、あちらこちらに装甲車(?)が止まっていて、ものものしい雰囲気。また境内には、一般の人のほかに、日本国旗の鉢巻きをした人、日本国旗を掲揚しながら行進している人、旧日本軍の軍服姿?で行進・参拝している人、暴走族風のいでたちの人、拝殿の前で声明文を読み上げている人、815日の靖国神社を報道しようとカメラとマイクを構えているテレビ局やマスコミのクルーたち、…

終戦の日の靖国神社には、必ずいる人たちが、この日もいました。そういうわけで、靖国神社の鳥居から拝殿の前に来るまで、かなりの時間を要しました。

いつもながら、靖国神社の拝殿の前で参拝し、日本の国のために亡くなられた英霊のことを思うと、胸が熱くなります。現在、靖国神社には2466532柱の英霊が祀られているということですが、先の太平洋戦争によって亡くなられた一人一人の英霊は、どういう思いで亡くなられたのでしょうか??「天皇陛下万歳」を叫んで亡くなられた方、無念の思いで亡くなられた方、特攻隊員として自ら玉砕された方、戦争には行きたくなかったが戦死された方、異国の地で敵兵に殺されてしまった方、…さまざまであっただろうと思います。そういう英霊のことを思うと、なぜか胸が熱くなります。少なくとも、今の私には、英霊と同じように、日本の国のために死ぬということが、できないと思います。今の日本の繁栄、私たちの生活も、戦争で亡くなられた人たちの犠牲の上に成り立っているというのは、その通りだと思います。今の私には、ただ英霊の前で頭を垂れることしかできないのが、まことに残念です。

拝殿で参拝を終えると、いつも複雑な思いにかられながら、靖国神社をあとにします。

やはり、最低でも一年に一度は、せめて終戦の日ぐらいは、先の太平洋戦争で亡くなられた英霊のことを思い、靖国神社に足を運ぶことは大事なことだと思います。

8・15靖国神社3



















8・15靖国神社1



















8・15靖国神社6



















8・15靖国神社7


















 

(2008815日・靖国神社)

 

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■長崎県2・長崎2・「長崎平和公園」2(平和公園・爆心公園2)

 

□東京から航空機・博多からJR特急かもめ号を乗り継いで行った長崎平和公園・爆心公園2

 

長崎駅は、長崎県の県庁所在地・長崎市の中心駅であると同時に、長崎本線の終着駅にして、ホームには車止めが設置されている。つまりここで「終着・行き止まりの駅」ということ。こういうJR駅は、全国に稚内駅、根室駅、函館駅、青森駅、久里浜駅、城端駅、氷見駅、高松駅、門司港駅、枕崎駅、長崎駅…とけっこうあるが、県庁所在地・市の中心駅としては、長崎駅、高松駅、青森駅だけである。長崎駅の駅舎は、2000年に改装された新しい雰囲気のある駅舎で、今のもので4代目。長崎駅前でまず目につくのは、長崎電気軌道長崎駅前電停。電停とは路面電車の発着場所のことで、停留所と呼ばれるか、電停と呼ばれるかは地域によってちがう。東京では、かつて都電が頻繁に走っていた頃には「電車の停留所」と呼ばれた。現在は「都電の停留所」が一般的な呼び方になっている。逆に長崎では、○○電停と呼ぶのが普通な地域のようである。長崎市内の移動には、この長崎電気軌道の路面電車がとても便利。地下鉄よりも、路面電車のほうがとても利用しやすく、便利に感じました。「長崎電気軌道」というのは、長崎市内で路面電車を運行している会社。路面電車というと、他都市では「市電」と呼ばれていたりするが、市電というと、いかにも長崎市が経営しているかのように聞こえてしまうが、この「長崎電気軌道」は、公営企業でも長崎市経営でもなく、れっきとした株式会社であり、私企業である。現在、5路線4系統を営業しており、通称は電鉄、長崎電鉄。地元住民の間ではJRを「JR」、「列車」または「汽車」と呼び、路面電車を「電車」と呼んで区別している。しかも長らく運賃が100円で据え置かれていて、私が20081月に長崎市内に行って、この路面電車に乗ったときも運賃は100円だった。2009101日より25年ぶりに運賃を値上げし、1乗車120円としたという。その後、消費増税があったので、さらに運賃値上げになっているとは思いますが…。長崎市内の路面電車は、運賃は安いし、とても利用しやすいし、長崎市内の主要地点を移動するには、まことに便利な乗り物である。地下鉄やバスよりも、路面電車のほうがはるかに便利である。ちなみに長崎市の人口は約45万人くらいだが、石川県金沢市の人口が約40万人前後。金沢市にも、私の子どものころには、路面電車が元気に走っていたのだが、道路に車が増えてくるにつれて、どんどん路面電車が廃止になり、今では金沢市内に路面電車はひとつも残っていない。まことに残念なことである。それと比べたら、長崎市の路面電車の元気ぶりは、私にとっては驚きに見える。まあ、もっとも金沢市の場合は、第二次世界大戦の戦災が全くなかった都市なので、昔ながらの家や道路がそのまま残っていて、とても狭い道路が多い。だから車の増加によって、路面電車がたちどころに身動きがとれなくなってしまい、どんどん廃止されて行ってしまった。長崎市の場合は、戦災・復興によって広い道路が多くなり、そのために車が増えても、路面電車が身動きがとれなくなってしまうということがなかったということなのだろうか。私としては、長崎市内を元気に走り回っている路面電車に、エールを送りたい気持ちです。

 

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■長崎県1・長崎1・「長崎平和公園」1(平和公園・爆心公園)

 

□東京から航空機・博多からJR特急かもめ号を乗り継いで行った長崎平和公園・爆心公園

 

毎年8月になると89日の長崎・原爆の日がやってくる。私も長崎には何度か行っており、そのたびに長崎平和公園、爆心公園を訪れている。長崎の地は、東京からはあまりにも遠い所にありますね。「どれくらいの距離があるのだろうか」と、グーグルマップで検索したところ、私の東京の自宅から長崎平和公園まで、道路の距離にして何と1221キロもある。1993年の全国旅行で長崎に行った時は自家用車で行きましたが、2008年初頭に長崎に行ったときは、羽田~福岡までが航空機、博多~長崎は特急かもめ号で往復。JR長崎駅という玄関口から長崎市内に入った。2008年はすでに四十代後半になっていたので、車で東京~長崎を走破する馬力は残っていなかったですね。羽田~福岡まで航空機を利用したのは、航空機の便数の関係だった。

かつて長崎駅からは、東京駅・京都駅・新大阪駅・大阪駅などへの 長距離寝台特急の「さくら」・「みずほ」・「あかつき」があり、 「さくら」と「みずほ」は東京駅まで、「あかつき」は京都駅〈または新大阪駅〉まで1日各1往復走っていたが、今は全て廃止になっている。長距離の移動の主流は、航空機と新幹線になった今の時代、寝台特急が元気だった時代は終わったということだろうか。

東京から長崎に行くには、羽田~長崎を航空機で行くか、ないしは羽田~福岡を航空機で、博多~長崎を特急かもめ号で行くか、どちらかだろう。ちなみに羽田~長崎は航空機で約2時間。長崎駅~長崎空港までバスで約1時間。羽田~福岡は航空機で1時間40分。福岡空港~博多駅まで地下鉄で約10分ほど。博多~長崎を特急かもめ号を利用すると約2時間。東京~長崎駅までは約4時間というところか。東京~博多を新幹線のぞみ号、博多~長崎を特急かもめ号で、というコースもあるが、東京~博多を新幹線のぞみ号で約5時間かかるため、東京~長崎は特急かもめ号乗り継ぎで約7時間以上かかる。これで行く人はほとんどいないのではないだろうか。

福岡空港からJR博多駅までは、電車で10分とかからないくらい便利な所にある。JR博多駅前のホテルで一泊。翌朝、JR博多駅始発の特急かもめ号に乗って長崎に向かう。

かもめとは、JR九州が博多駅~長崎駅間を鹿児島本線・長崎本線を経由して運行している特急電車で、JR九州の看板列車のひとつになっている。かもめ号は、通称「白いかもめ」とハイパーサルーンの「かもめ」と二種類あって、1日に25往復が運行されており、九州の首都・福岡市(博多)と主要都市・長崎を結ぶ大動脈になっている。私が乗車した日は、下り長崎行きも上り博多行きも、普通車指定席には、かなりのお客さんが乗っていた。見るからに、ほとんどのお客さんが、ビジネスマン風の人たちでしたが。博多~長崎は、九州新幹線の西九州ルートが計画されている区間であり、この区間の建設計画と並行在来線問題は、時折、全国ニュースになったりして私の耳に入ったりしてきていた。この問題がけっこう長い間、佐賀県・長崎県とJR九州の間で揉めていたようでしたが、200712月、合意に達したという情報が入ってきた。

「九州新幹線西九州ルート着工に向けた三者合意について」

http://www.jrkyushu.co.jp/071217_news_release.jsp

 

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■広島県1・広島1・「広島平和公園」1(原爆戦没者慰霊碑・原爆ドーム)

 

□確認できなかった広島平和記念公園・原爆戦没者慰霊碑にあるとされるWe」が入る英文碑文

 

毎年8月になると86日の広島・原爆の日、89日の長崎・原爆の日、815日の終戦の日がやってくる。86「原爆の日」は、アメリカ軍が広島に原子爆弾を投下した日。昔は「原爆記念日」なんて言っていたが、原爆が投下された日「記念日」と言っていいものかどうか、という疑問はある。今は「原爆忌」とか「原爆の日」と言うようである。海外では「ヒロシマ」というふうに、原爆投下の日とともに、広島の名前が広く知れ渡っている。

その広島・原爆の日のニュースを聞くと、何度か広島に旅行したときに、広島市の「広島平和記念公園」を訪れたときのことを思い出す。ここへ行ったときは、原爆戦没者慰霊碑の前で、鎮魂の祈りをささげていますが、原爆投下という一瞬の出来事のために、あっと言う間に命を奪われてしまった人たちのことをここで思うと、ホントにいたたまれない気持ちになった。「広島平和記念公園」に何度も行ったが、いずれのときも、原爆戦没者慰霊碑の前に、たくさんの花が添えられていたのは印象に残ります。

「広島平和記念公園」原爆戦没者慰霊碑には「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」という碑文が刻まれている。これは1990年代の頃、「朝まで生テレビ」という番組を見て知った。おそらく19906月の広島ホームテレビでの収録した「激論! 地球新時代の戦争と平知と核」のときではないかと思う。そのテレビ番組やいろんな場で、原爆投下をしたのはアメリカであり、広島をはじめ日本全国の主要都市が焼け野原になるまで戦争をしたのは日本政府なのだから、この「過ちは 繰返しませぬから」という碑文が、「不適切ではないか」という批判を何度も聞いた。

それに対して広島の平和団体からの反論は、たしかに日本文の碑文は主語がない文体になっているが、英語の碑文は主語が「We」となっていて、人類全体が過ちを犯さないことを誓ったものだ、というものだった。これを聞いて知っていたので、「広島平和記念公園」に行った時、原爆戦没者慰霊碑にあるとされる英語の碑文を探してみた。しかし日本文の碑文は確認できたのですが、その「We」が入った英文の碑文は、どこに書いてあるのか、確認できませんでした。この英文の碑文って、どこに書いてあるんですか??碑文の内容はともかく、何度ここへ行っても、ここへたたずんだ瞬間に、ホントに気持ちが厳粛になり、原爆投下で亡くなられた方々の心を思う場所です。

その広島平和記念公園の中にあるのが、広島平和記念資料館。ここは、広島市への原子爆弾投下の惨状を今に伝える資料を展示する資料館である。この広島平和記念資料館の中の展示を見ていると、まさに胸を締めつけられる思いがします。原爆投下によって、凄まじいばかりの放射線、熱線、爆風が発生し、これがさまざまな地獄絵図を地上にもたらした。石段に人の跡が影のように残った人影の石、原爆投下時刻で停止してしまった腕時計、ケロイドの標本…など、原爆投下に関する、いろいろな資料が展示されている。これらひとつひとつの展示を見ていると、原爆・核兵器というものが、いかに悲惨な結果をもたらすのか、いかに悲惨な大量破壊兵器であるか、ということが、ストレートに伝わってきます。

 

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■大谷祖廟・東大谷1(門徒墓所・布施金額)

 

□親鸞廟所を中心に浄土真宗大谷派門徒の墓地・東大谷墓地が広がる大谷祖廟・東大谷

 

大谷祖廟とは真宗本廟・東本願寺を本山とする浄土真宗大谷派の親鸞墓所である。浄土真宗本山は、東本願寺、西本願寺、仏光寺、興正寺、高田専修寺、浄興寺等がそれぞれ親鸞廟を造り、それぞれが「親鸞真骨を祀る」と称している。東本願寺(真宗本廟)の親鸞廟が京都東山の大谷祖廟(東大谷)。西本願寺の親鸞廟が京都・鳥辺山の大谷本廟(西大谷)。仏光寺の親鸞廟が京都東山の仏光寺本廟である。そしてどの親鸞廟のまわりにも、それぞれの門徒の墓地が広がっている。大谷祖廟の通称名を東大谷といい、大谷本廟の通称名を西大谷と言うが、東大谷も西大谷もどちらも京都・東山にある。東大谷が東にあり、西大谷が西にあるというわけではない。これは大谷祖廟は、東本願寺(真宗本廟)の親鸞廟であるから東大谷、大谷本廟は西本願寺の親鸞廟であるから西大谷と呼ばれているものと思われる。大谷祖廟(東大谷)は、京都・東山の知恩院、円山公園等の並びにある。長い石畳の参道を歩いて総門から中に入っていくと、本堂、庫裡、大谷祖廟事務所、北門、茶室、太鼓堂、南門、鐘楼、拝所、御廟、東大谷墓地、東大谷墓地事務所等がある。御廟というのが、親鸞廟で大谷祖廟(東大谷)の高台にそびえ立っている。東大谷墓地とは、浄土真宗大谷派門徒の墓所である。門徒の墓所があるからだと思うが、私が大谷祖廟(東大谷)を訪ねた日も、たくさんの人が参拝に来ており、大谷祖廟事務所の中にある休息所も満員。

東大谷墓地を見ると、たくさんの人が墓参に来ている。浄土真宗では、他宗派とちがって御朱印もなければ、追善供養もない。塔婆も立てなければ位牌もないし、祈祷もしない。もちろん護摩祈祷もなければ、護摩も焚かない。では葬儀や法事はやらないのかというと、そうではなく、葬儀、法事、年回忌はちゃんと行う。葬儀、法事では寺院住職が出仕して読経、正信偈を読む。参列者は焼香もする。浄土真宗大谷派の場合、焼香は他宗派とちがって、香をつまんで、香炉に入れて燃やすだけ。つまんだ香を額で一回止めることはしない。又、故人に戒名(法名)も付ける。浄土真宗大谷派の場合も、末寺住職を通じて本山・東本願寺門首に願い出て、東本願寺門首が戒名(法名)を下賜する。東本願寺門首とは、宗祖・親鸞の世襲制。末寺住職も基本的に世襲制である。東本願寺門首は、江戸時代に本願寺が東と西に分かれたときの東本願寺開祖・13代教如の子孫である。

東本願寺門首は、かつては「法主」とよばれ、専政君主に近い権限を有していたが、いわゆる昭和の「お東さん紛争」による内部改革で、政治的実権を持たない象徴的な「門首」になった。

さて大谷祖廟事務所の中に入ってみると、「墓地お経5000円、本堂お経7000円、永代経5万円」と書いた掲示があった。ここには浄土真宗大谷派門徒の墓地が広がっているので、墓所で僧侶が読経したり、永代経等の儀式が執行される。

 

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■真宗・浄興寺3(東西本願寺への親鸞頂骨の分骨)

 

□浄土真宗の宗祖・親鸞の頂骨を格蔵すると伝承する浄土真宗浄興寺派本山・浄興寺2

 

私がはじめて新潟県高田市の浄土真宗浄興寺派本山・浄興寺を訪ねたのは、寒い真冬。高田の地には、こんこんと雪が降り積もっている。JR高田駅の近隣に、仏教寺院が林立する「寺町」があり、浄興寺はその「寺町」の中にある。高田駅前から歩いて行ける距離にあるのだが、行きは駅前で客待ちをしていたタクシーに乗って浄興寺へ。「本山浄興寺」の額が掲げられている山門をくぐると、本堂に向かって参道が伸び、参道の両側には塔頭寺院・子院が建ち並ぶ。境内には、本堂、親鸞御廟、宝物殿、庫裡、聖徳太子堂などの堂宇が建ち並ぶが、積雪のためか、全て雪囲いがしてある。冬になると、高田の地は相当な積雪に見舞われてしまうようです。境内の堂宇をよく見ると「親鸞聖人御真廟」「太子堂」等々の立て看板が立てられている他、浄興寺境内図や浄興寺の歴史を記した案内板も建てられている。寺院の参拝者から見ると、かなり親切な造りになっている。私は浄土真宗の本山寺院をいくつも訪ね歩いていますが、こういった参詣者に対して、わかりやすい案内板や立て看板を整備している寺院をいくつか見かけます。

まずは浄興寺本堂に参拝しようと、雪囲いがしてある本堂へ。本堂入り口階段前のお賽銭箱にお賽銭を入れて合掌。本堂の戸を開けようとしたが、入り口の戸が全てカギがかかっていて閉めきられている。本堂から親鸞御真廟、さらに宝物殿へと渡り廊下で繋がっているが、全て雪囲いがしてあって、戸は閉め切り。私も子どもの頃、真冬になると1メートル級の積雪がある地域で育ったが、昔からの家には、雪囲いがしてある家がよくあった。高度成長時代以降に新築された新しい家には、雪囲いがある家はあまり見られなくなったが、積雪が多い富山県地方に行くと、新築の家でも雪囲いがある家を見かける。北陸では石川県より富山県、富山県よりも新潟県のほうが積雪が多い。富山県でも五箇山などの山間部に行くと、雪囲いをしてある家をよく見かけます。私が浄興寺を訪れた日の積雪は、数十センチくらいでしたが、何せ浄興寺がある新潟県高田市とは、日本でも有数の豪雪地帯で有名な所である。

私は浄興寺の話を聞こうと庫裡を訪ねた。すると門主夫人が応対に出られた。この方、全く物おじせず、しっかりと私のほうを向いて、私の質問にも、ひとつひとつはっきりと明快にお答えくださった。私が「仏教宗学研究会主宰・仏教宗学研究会のブログ主筆」の名刺を見せて、お話を伺うと、門主夫人の話は、浄興寺が上古の昔から、親鸞の頂骨や遺品を格蔵してきた寺院であること、そして浄興寺から東本願寺、西本願寺、興正寺へ、さらに仏光寺、高田専修寺等々まで、親鸞の頂骨を分骨してきていることを語っておられる。ここが浄興寺の大きなポイントでありますね。私はインターネットで東本願寺、西本願寺、興正寺から浄興寺に宛てた分骨の礼状が格蔵されていると聞いてきたので、宝物殿の中を拝観させてもらえませんかと尋ねると、普段は宝物殿は閉め切っているが、拝観の申し込みがあった場合は、開館しているとの御返事であった。

 

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■真宗・浄興寺2(東西本願寺への親鸞頂骨の分骨)

 

□浄興寺から東西本願寺への親鸞頂骨の分骨を史実と認めている盛岡大学長・加藤章氏論文

 

親鸞の頂骨を格蔵してきた浄興寺が東本願寺、西本願寺、興正寺に親鸞頂骨を分骨してきていることは、単なる浄興寺の寺伝によるものではない。20045月、本山浄興寺発刊の写真集「歓喜勇躍山浄興寺」の中に、盛岡大学長・元上越教育大学長・上越市史編集委員長の加藤章氏が「浄興寺小史」と題する論文を寄せている。その中でこう書いている。

(親鸞は)京都から越後国国府(新潟県上越市)に流され、越後にて七年ほど配流の生活を送ったが、流罪赦免ののちも京都に戻らず、上野、武蔵をまわって建保2(1214)常陸国笠間郡稲田郷(茨城県笠間市)に移住し、その拠点は稲田禅坊とよばれた。そこで農民や下層武士を主とする民衆に布教するとともに、自ら信仰を深めつつ『教行信証』を著した。本寺(浄興寺)の成立は、この『教行信証』の成立した元仁元年(1224)、浄土真宗の創始と同時ということになる。親鸞は、しばらくこの地で布教し、貞永元年(1232)ごろ、京都に帰るにあたり、弟子の善性にその跡を譲った…

鎌倉幕府は、皇系である善性に寺領として信濃国水内郡太田庄長沼(長野県長野市)に三千貫文を与えたが、弘長三年(1263)、戦火により稲田浄興寺が焼失した際、下総国(茨城県)稲敷山さらに磯部村をへて、この長沼に移った。(文永4年、1267)。長沼の浄興寺はその後、三百年ほどつづき、永禄4(1561)、十三世(浄興寺)住職の周円のとき、川中島合戦の兵火を受けて炎上した。寺伝では、十六世紀末、上杉景勝(一説に謙信)の招きによって春日山城下に寺地を与えられ、堂宇が建立されたとされている。上杉景勝が会津転封の後、入封した堀が福島城を築いたので、十五世善芸のとき、浄興寺も福島城下に移った。その後、松平忠輝が入封し、慶長19(1614)、高田城を築いたため、浄興寺も城下に移ったが、寛文5(1665)の大地震で堂宇は破壊焼失した。十八世琢性は、延宝6(1678)に、再建計画をたて、江戸および周辺十ヶ村において浄興寺寺宝の御開帳を行い、再建資金を集め、翌、延宝7年に現在の本堂が建築された。この本堂は、平成元年、重要文化財に指定された。…」

「浄興寺の宗教的権威を支えるものは、まず本寺(浄興寺)が宗祖親鸞の浄土真宗開教の道場であること。さらに最も崇敬される宗祖の頂骨を護持しつづけてきたことがあげられる。それに対し、親鸞の没後十年を経た文永9(1272)、浄興寺から48年おくれて本願寺が創建された。したがって、もともと本願寺と浄興寺の間には、本寺末寺の関係はなかったのである。しかし宗祖を同じくする同派であり、とかも宗祖親鸞の頂骨を浄興寺が安置することから、両寺の交流は深く、また真宗教団の発展に協力して貢献する歴史を有している。とくに本願寺の蓮如の宗門再興をかけて活躍した際や、顕如が大坂石山本願寺を拠点に織田信長と戦った石山合戦前後などは、浄興寺も積極的な援助を行っている」(浄興寺発刊の写真集「歓喜勇躍山浄興寺」p2223)

 

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■真宗・浄興寺1(親鸞の頂骨)

 

□浄土真宗の宗祖・親鸞の頂骨を格蔵すると伝承する浄土真宗浄興寺派本山・浄興寺

 

浄土真宗・高田浄興寺とは、新潟県高田市にある浄土真宗浄興寺派本山。讃文には「本山浄興寺」の額が掲げられている。正式名は歓喜勇躍山浄興寺で、浄興寺という寺号も浄土真宗興行寺の略名である。浄土真宗は浄土真宗本願寺派 、真宗大谷派、真宗高田派、真宗佛光寺派、真宗興正派、真宗木辺派、真宗出雲路派、真宗誠照寺派、真宗三門徒派、真宗山元派の十派が有名で、この十派は真宗教団連合をつくる。浄土真宗には真宗教団連合に加盟するむ十派以外にも、数多くの分派があり、その中のひとつが浄土真宗浄興寺派で、ここは真宗教団連合には加盟していない。もともと浄興寺は、真宗大谷派の別格寺院であったが、昭和27年(1952年)の宗教法人法の施行により真宗大谷派から独立したことによって成立した宗派である。

浄興寺はJR高田駅から歩いて行けるくらいの距離にある。高田駅とは、新潟県上越市のターミナル駅である直江津駅からJR信越線・長野方面行きの各駅停車の電車に乗って二つ目の駅。東京から電車を利用して高田に行くには、二つのルートがある。ひとつは東京から長野新幹線を利用し、長野駅で新幹線からJR信越線に乗り換えて高田へ行くルート。もうひとつは、東京から上越新幹線に乗って越後湯沢で下車。そこから特急はくたか号・金沢行きに乗り換えて直江津で下車。直江津でJR信越線各駅停車に乗り換えて高田に行くルートである。東京からの所用時間は、どちらのルートを使っても、そんなに大差はない。ただし土日祝日、ゴールデンウィーク、旧盆、年末年始の繁忙期になると、上越新幹線~特急はくたか号のルートは、指定席・自由席ともに満席になってしまうことがよくある。しかし長野新幹線のほうは、繁忙期でも全列車満席とは、あまり聞いたことがない。だから信越線の長野行き列車は、長野から新幹線に乗り換える乗客でごった返すことがある。しかし2015年春、北陸新幹線が金沢まで開業する予定になっており、これによって特急はくたか号は廃止され、現在のJR信越線・脇野田駅近辺に北陸新幹線・上越妙高駅が開業する。ここが乗り換え駅になる。よって2015年春以降は、東京からは北陸新幹線で上越妙高駅にて下車し、ここで各駅停車に乗り換えるルート一本だけになる。

高田は冬になると、かなりの積雪がある豪雪地帯にある。浄興寺も冬に参詣すると、本堂、真骨拝殿、宝物殿、庫裡等には雪囲いがしてある。冬は積雪がものすごいため、寺院の行事はほとんど行われておらず、本堂も戸が閉め切られている。寺院の行寺は、春から秋にかけて行われる。

ではなぜ浄興寺を訪れたのか。それは浄興寺が古来から浄土真宗の宗祖・親鸞の真骨(頂骨・頭蓋の中央にある左右一対のたいらな四角形の骨。頭頂骨)を格蔵してきたと伝承する寺院であるからである。

 

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■大津・富士山蓮華寺13(日神氏の撮影による『謎の写真』)

 

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日蓮本宗本山・要法寺29(本山要法寺新貫首に丹治日遠氏)

 

□丹治日遠氏が住職を勤めた日蓮本宗佛眼寺がある福島市で管長就任祝賀会が開催される

 

久しぶりに富士門流の記事になりますが、この度、日蓮本宗管長・本山要法寺第51祖貫首・嘉儀日有氏が退任され、新管長・本山要法寺新貫首に諸佛山佛眼寺住職の丹治日遠(にちおん)氏(73)が晋山し、福島市内で管長就任祝賀会が開催された。まずは管長就任祝賀会を伝える報道記事を引用してみたい。

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日蓮本宗最高位に 福島で丹治氏の管長就任祝賀会

 

 福島市の日蓮本宗・諸佛山佛眼寺(しょぶつざんふつげんじ)住職の丹治日遠(にちおん)氏(73)は29日までに、同宗の最高位・管長と、本山・要法寺(京都市)の貫首に就いた。同市で就任などを祝う祝賀会が開かれた。 関係者約300人が出席。丹治氏は「大勢の方々に感謝。懸命に任を全うしたい。今後もご支援いただきたい」などとあいさつした。

 高野伊左衛門佛眼寺責任役員総代長・祝賀委員会委員長があいさつし、小林香市長ら来賓が祝辞を述べた。鏡開きなどで丹治氏の就任を祝った。

 丹治氏は島根県出身。福島高、福島大短期大学部卒。1962(昭和37)年に佛眼寺住職となり、日蓮本宗総務部長などを歴任した。5月に管長就任儀式の晋山式を行った。

(福島民友新聞 630()1316分配信)

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日蓮本宗最高位に 福島で丹治氏の管長就任祝賀会

 

 福島市の日蓮本宗・諸佛山佛眼寺(しょぶつざんふつげんじ)住職の丹治日遠(にちおん)氏(73)は29日までに、同宗の最高位・管長と、本山・要法寺(京都市)の貫首に就いた。同市で就任などを祝う祝賀会が開かれた。 関係者約300人が出席。丹治氏は「大勢の方々に感謝。懸命に任を全うしたい。今後もご支援いただきたい」などとあいさつした。 高野伊左衛門佛眼寺責任役員総代長・祝賀委員会委員長があいさつし、小林香市長ら来賓が祝辞を述べた。鏡開きなどで丹治氏の就任を祝った。 丹治氏は島根県出身。福島高、福島大短期大学部卒。1962(昭和37)年に佛眼寺住職となり、日蓮本宗総務部長などを歴任した。5月に管長就任儀式の晋山式を行った。(2014年6月30日 福島民友トピックス)

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丹治日遠1















 

(丹治日遠氏の管長就任祝賀会を報道するインターネットニュース)

 

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□公開ユーザーを「仏教宗学研究会」管理人の「mixi」マイミクさん限定とさせていただきます

 

「仏教宗学研究会のブログ」「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」の記事の総計が2250本を突破し、「2ブログ」の総合累計アクセス数も61pvを突破。富士門流執着軍団の第一次公式ホームページ「富士門流信徒の掲示板」の累計アクセス数を、ついにぶち抜きました。

2ブログ」も新たな段階に入り、アップした記事の整理、カテゴリーの整理作業を進めているところであります。この整理作業の一環として、今般、「仏教宗学研究会のブログ」にプライベートモードを設定しました。プライベートモードの公開ユーザーさんを、「仏教宗学研究会」管理人の「mixi」マイミクさん限定とさせていただきます。プライベートモードが設定されている記事を閲覧いただくには、マイミクさんは、「mixi」にログインして御覧下さい。よろしくお願い申し上げます。

かくして現在、整理作業中でありますので、「仏教宗学研究会」管理人の「mixi」マイミクさんの新規募集を、基本的に停止させていただきます。ただし例外的に、フェイスブックの友人になっていただいている方で、「mixi」マイミクさんになっていない方については、フェイスブックからメッセージをいただければ、「mixi」マイミクさんOKとさせていただきます。

今後、新たな「mixi」マイミクさんについては、基本的に、先にフェイスブックの友人になっていただいてから、とさせていただきます。よろしくお願い申し上げます。

錦織寺11 

 

 

 

 

 

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■日光山輪王寺・東照宮4(東照大権現2・天皇の権威)

 

□征夷大将軍・日光山・東照大権現等、徳川幕府の統治機構に必要だった天皇の権威

 

日光東照宮は、祭神として徳川家康すなわち「東照大権現」を祀る。その日光山の貫首は、京都の皇族の法親王を迎えていた。江戸時代の文献を見ると、徳川家康のことを「神君」と書いているものを見かける。徳川幕府は、家康を神格化し、神に祀りあげることで、家康の権威というものを、醸し出そうとした。たしかに江戸幕府の統治機構は、征夷大将軍を頂点とする機構が統治していた。しかしその征夷大将軍は、京都の天皇が将軍宣下を以て任命したもの。家康は、「東照大権現」として日光東照宮に祀られているが、家康が「神」になったのは、京都の天皇が「東照大権現」の神号を下賜したからである。そして徳川幕府は、日光山の貫首に京都の皇族の法親王を迎えていた。江戸幕府は、一見すると徳川家康の権威で成り立っているように見えるが、実際は将軍に任命するのも、神号を下賜したのも天皇であり、天皇の権威で成り立っていた。徳川家康は、1600年の関ヶ原の合戦で勝利し、全国の大名を臣従せしめたが、この時の徳川家康の支配体制に、豊臣秀頼・淀君は入っていなかった。1611年、徳川家康が二条城で豊臣秀頼と会見し、秀頼を服せしめたのは、前将軍・大御所としての権威である。つまり将軍として天皇から任命されていたからこそ、秀頼を服せしめることができた。つまり江戸幕府の統治機構には、天皇の権威が必要だったのである。NHK大河ドラマ「葵徳川三代」に、こんなシーンが出てくる。朝鮮通信使が日本に来訪して、三代将軍家光に謁見。朝鮮国王が、徳川家光を「日本国王」と称する国書を手渡した。家光は「日本国王」と称されたことで、「オレは日本国王。ならば京都の天子を江戸に下向させよ」と言う。「朝廷の知行は幕府が召し抱えている。幕府は朝廷にメシを食わせてやっているのだ」と。しかし家光の家臣は、「将軍は天子の将軍宣下で決まる。天子を下に置いたら、将軍は誰がどうやって決めるのか」と問う。家光は「自分で名乗ればいい」と言い出す。すると家臣は、「自分で将軍を名乗って将軍になれるのなら、オレも将軍、オレも将軍と、将軍があっちとこっちに出てきてしまうではないか」と言う。つまり将軍の権威、幕府の支配体制には、「天照大神の子孫」「地上におわす天子」としての天皇の権威が必要だったというわけである。

過去の歴史に於いて、天皇家を乗っ取る形で自ら天皇になろうとした人物はいた。弓削の道鏡は、病を患った孝謙上皇(後の称徳天皇)の傍に侍して看病して以来、その寵を受けることとなった。そして自らが天皇になろうとしたが、宇佐八幡宮神託事件が発端になり、失脚した。室町幕府三代将軍・足利義満も、自ら天皇になろうとしたという説が唱えられている。しかし足利義満は、天皇家を乗っ取る寸前になって急死する。義満の死因については、暗殺説も唱えられている。

天皇とは別の神の権威をつくろうとした人物もいた。そのひとりが平将門である。平将門は関東で挙兵し、自ら「新皇」になろうとしたが、朝廷の討伐軍によって、謀反人として誅殺された。

 

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■日光山輪王寺・東照宮3(東照大権現・徳川家康の正墓)

 

□徳川家康を「東照大権現」として祀り、贅を極めた豪華絢爛な堂宇が建ち並ぶ日光東照宮

 

日光東照宮の祭神は「東照大権現」。すなわち徳川家康である。東照宮入り口の石塔には、徳川将軍家の家紋である葵の紋がある。「東照大権現」を祀る社は、個々の他に、久能山東照宮、仙波東照宮等々ある。しかし日光東照宮は、久能山東照宮、仙波東照宮と比べても、比較にならないくらい境内が広い。さらに東照宮の他に日光山には輪王寺、二荒山神社、大猷院があるわけだから、日光山全体として見れば、その境内はとてつもなく広い。そして堂宇のひとつひとつをとっても、贅を極めた堂宇が建ち並ぶ。輪王寺、二荒山神社は江戸時代以前からあったが、東照宮は徳川二代将軍・秀忠が造営し、さらに三代将軍・家光による「寛永の大造営」があった。そして四代将軍・家綱の代に大猷院が造営された。よって日光山をここまで大伽藍が建ち並ぶ寺社にしたのは、徳川幕府の秀忠、家光。家綱の三代の将軍だと言うことが出来る。それにしても、ここまで贅を極めた大伽藍の数々を造営した徳川幕府は、日光山造営にどれだけの費用をかけたのだろうか。江戸時代における徳川将軍家の直轄領である「天領」は約400万石。その他に幕府の「官僚」である旗本・御家人に与えている所領が約300万石。合計で約700万石もあった。これを他の大名の所領と比較すると、加賀・前田家が約102万石。薩摩・島津家が約75万石。仙台・伊達家が約65万石。ダントツで引き離している。

東照宮の表門は陽明門だが、現在、陽明門は修理中。陽明門には後陽成天皇の勅額がある。後陽成天皇、後水尾天皇の代は、京都の朝廷と江戸幕府の関係が非常にギクシャクした時代だった。徳川家康、秀忠を征夷大将軍に任命したのは、後陽成天皇だが、徳川家康、秀忠は、武力、経済力を以て天皇・公家を押さえつけ、幕府の意のままにコントロールしようとした。ところが天皇・公家は、身分は幕府・武家よりも自分たちのほうが上だという自負がある。ところが幕府のほうは、南北朝の戦争、室町時代の戦乱、応仁の乱からの戦国時代、豊臣秀吉没後の関ヶ原の合戦、大坂の陣と約二百年以上もつづいた戦乱の世を終わらせ、日本全国を統一して太平の世にしたのは徳川幕府であり、さらに全国統一した幕府が、天皇・朝廷・公家に所領を分け与えて安堵している。平たく言えば、天皇・公家は身分は上だが、幕府が朝廷にメシを食わせてやっているのだ、というわけである。だから幕府に言わせると、朝廷は幕府に従え、というわけである。そういう高圧的な幕府の態度に、天皇・公家が反発した。後陽成天皇は、どのような面もちで、東照宮・陽明門の勅額を認めたのだろうか。日光山の二社一寺の中でも、やはり東照宮が最も観光客、参拝客が多い。何と言っても東照宮は、徳川家康を「東照大権現」という神として祀り、東照宮本殿裏の奥宮には、徳川家康の正墓がある。東照宮は神道の神社なのだが、徳川家康の正墓は増上寺の徳川歴代将軍廟と同じく、仏式のように見える。

家康墓所2




















 

(徳川家康墓所)


陽明門1




















 

(日光東照宮・陽明門)