一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ

「一般社団法人 仏教宗学研究会」とは任意団体として2005年から活動している会の名称。2018年5月に一般社団法人登記。当ブログ名を「仏教宗学研究会のブログ」から「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」に改名。 「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

Tag:戒壇大本尊

■真宗本廟・東本願寺3(世界最大の木造建築・御影堂)

 

□東大寺大仏殿よりも面積が広い世界最大の木造建築・真宗本廟・東本願寺御影堂

 

1598年の豊臣秀吉の病没、1600年の関ヶ原の合戦で徳川家康が全国の覇権を掌握すると、1602(慶長7)年、徳川家康は京都烏丸六条に寺地を教如に寄進。さらに徳川家康の仲介によって、群馬県妙安寺伝来の親鸞座像(ご真影)が教如に寄進され、ここに東本願寺が造営された。真宗本廟・東本願寺の実質的な開基は徳川家康だと言うことができる。徳川家康の東本願寺寺域寄進が、本願寺の東西分立を固定化させた。徳川三代将軍家光のときに、東本願寺は新たに六条と七条の地を加増している。

しかし東本願寺は、江戸時代に合計四度の火災にあい、現在の御影堂、阿弥陀堂は、幕末の1864(元治元)年の禁門の変で焼失した後、明治28年(1895年)に再建が落成している。

教如が東本願寺を創建した当初の御影堂、阿弥陀堂は、現在の堂宇ほど大規模なものではなかった。「古寺巡礼・東本願寺」(淡交社)によれば、御影堂の間口で約三分の二、阿弥陀堂の間口でも約八割弱の大きさだったという。これが1661(寛文元)年の親鸞四百回忌を機に新たな御影堂、阿弥陀堂再建がはじまる。御影堂の再建は1652(承応元)年にはじまり、1658(明暦4)年に竣工している。「古寺巡礼・東本願寺」(淡交社)に載っている「歴代の御影堂・阿弥陀堂の規模」によれば、慶長度の創建時の御影堂は40.91m×32.72m。明暦・寛文度の再建の御影堂は61.81m×44.99m。単層入母屋造りから重層入母屋造りに改められている。明暦・寛文度の御影堂が、1788(天明8)年の大火で焼失。さらに1823(文政6)年には失火で焼失。さらに1858(安政5)年には安政の大火の類焼で焼失。さらに1864(元治元)年の禁門の変の兵火で焼失した。先の三度の焼失については、すぐに再建作業にとりかかり、短期間で竣工しているが、禁門の変の兵火での焼失からの再建は、幕末・明治維新の激動期でもあり、なかなか実施されなかった。これが1879(明治12)年になって、ようやく明治政府が再建を発令。全国末寺門徒の協力で再建資金と巨大な巨木が集められ、明治13年(1880年)に起工し、明治28年(1895年)の竣工。再建工事に携わった大工は、御影堂が延べ約128万人。阿弥陀堂が約56万人。再建工事での殉職者は105人。ケガをした人は292人。かなりの難工事だったようである。

現在の東本願寺は約93000m2という広大な寺域の中に、南北76m、東西58m(4408m2)、高さ38m、堂内927畳の御影堂。そして南北52m、東西47m、高さ29mの阿弥陀堂がある。

現在の東大寺大仏殿は高さ46.8m、間口57m(2667m2)、奥行50.5メートル。高さは東大寺大仏殿のほうが高いが、面積は東本願寺御影堂のほうが広い。よって世界最大の木造建築とは、東本願寺御影堂ということになる。ただし奈良時代、鎌倉時代の大仏殿は、高さは約50mと同じですが、広さは間口約86m×奥行約50m(4300m2)となっている。奈良時代、鎌倉時代の大仏殿と比較しても、現在の東本願寺御影堂(4408m2)のほうが、わずかに面積が広い。

御影堂1




















 

(真宗本廟・東本願寺御影堂)

 

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■真宗本廟・東本願寺2(親鸞已来代々血族の門主継承)

 

□石山本願寺合戦・本願寺の東西分裂により人工的に生まれた真宗本廟・東本願寺

 

浄土真宗大谷派本山・真宗本廟・東本願寺へは、何度も行っており、直近では20141月に参拝している。私は、ほぼ12年に1回くらいのペースで京都に行っているのだが、東本願寺には何度も行っている。というのは、東本願寺は地理的にJR京都駅からとても近い所にある。JR京都駅烏丸口から北へ伸びる烏丸通り沿いに東本願寺があるのだが、東本願寺の前で、烏丸通りが東側にグニャリと道が曲がりくねる。これは地上を歩いているとよくわからないが、JR京都駅烏丸口の前にある京都タワーの展望室から見ると、グニャリと曲がりくねる烏丸通りが実によく見える。

東本願寺門前の、御影堂門・阿弥陀門と曲がりくねった烏丸通りの間は、東本願寺の大きな行事等で団体参拝があったときに、バスターミナルに早変わりするようである。

東本願寺に行くと、今まで寺院の堂宇・伽藍よりも、東本願寺前でグニャリと曲がりくねる烏丸通りのほうが、印象に残っていた。というのは、東本願寺の場合、巨大な御影堂、阿弥陀堂や御影堂門、阿弥陀門は印象的なのだが、仏教寺院の総本山や大本山によく見られる塔中子院がない。

だから御影堂と阿弥陀堂と、曲がりくねった烏丸通りが印象に残っていた。

真宗本廟・東本願寺に塔中子院がないのは、東本願寺が江戸時代初期に徳川家康の寄進で造営されたという創建因縁が大きく関係していると思われる。つまり真宗本廟・東本願寺は、仏教寺院の総本山や大本山のように「自然発生」的に生まれたのではなく、本願寺の東西分裂、徳川家康の寄進、本願寺を東西に分裂させたまま固定化するという江戸幕府の宗教政策という、いわば「人工的」に生まれた寺院であることが大きいと思われる。では真宗本廟・東本願寺は、どういう経緯で生まれたのか。島田裕巳氏監修「はっきりわかる日本の仏教宗派」(成美堂出版)の記事を元に話を進めてまいりたい。

真宗本廟・東本願寺の創建は1602(慶長7)年。1600年の関ヶ原の合戦の二年後、1603年の徳川家康の征夷大将軍任命の前年である。なぜ真宗本廟・東本願寺が生まれたのか。これは有名な本願寺の東西分裂によって生まれた。ここまでは知っている人は多いと思われる。

本願寺がなぜ東西に分裂したのか、というと、織田信長と石山本願寺の合戦である「石山合戦」の終結をめぐって、退去か籠城かで意見が分かれたことが発端である。本願寺11代門主・顕如(15431592)を中心とする勢力は織田信長との講和を受け容れたのに対して、顕如の長男である教如を中心とする勢力は、これを拒んで籠城を主張した。そのため、教如は顕如から義絶されてしまう。石山本願寺の織田信長明け渡し後、石山本願寺は火を放たれ灰燼に帰してしまう。

教如は大和、近江、安芸など流浪するが織田信長が本能寺の変で死去すると、顕如と教如は和解する。その後、豊臣秀吉の天下統一の翌年、1591(天正19)年、豊臣秀吉が京都七条堀川に広大な寺域を寄進する。これが今の西本願寺である。本願寺11代門主・顕如の没後、12代門主は当初は顕如の長男・教如が後を継いだ。

 

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■真宗本廟・東本願寺1(御影堂・阿弥陀堂)

 

□阿弥陀如来像を祀る阿弥陀堂と親鸞御影を祀る御影堂が並んで建つ真宗本廟・東本願寺

 

京都市街地の中心部に広大な寺域を持つ浄土真宗の本山がふたつある。東側にあるのが通称・東本願寺で、西側にあるのが通称・西本願寺。東本願寺を本山とする宗派名を真宗大谷派という。この真宗大谷派の本山が、いわゆる「お東さん」つまり東本願寺。ただし東本願寺とは通称名であって、正式名を真宗本廟という。かつては、真宗大谷派本山の名前に「本願寺」名を使っていたのだが、昭和から平成にかけての、いわゆる「お東さん紛争」で、真宗大谷派は本願寺の名前を廃止。真宗大谷派に包括される宗教法人本願寺も解散して、真宗大谷派に法的に吸収合併にした。これで通称名・東本願寺の正式名が「真宗本廟」になった。ただし、正式名が「真宗本廟」だから、東本願寺に宗祖親鸞の本廟があると勘違いしている人がいるが、真宗大谷派の親鸞廟があるのは、ここではなく京都東山・大谷祖廟(東大谷)である。浄土真宗本願寺派(西本願寺派)の親鸞廟があるのは、京都東山・大谷本廟(西大谷)であり、浄土真宗仏光寺派の親鸞廟があるのは、京都東山・仏光寺本廟である。また新潟県高田市の浄土真宗浄興寺派本山・浄興寺は、親鸞の弟子・善性の上古の時代から親鸞真骨を格蔵し、東本願寺、西本願寺、興正寺、仏光寺、高田専修寺に分骨したと主張。東本願寺、西本願寺、興正寺からの分骨礼状を公開している。

浄土真宗には、主要宗派が十派あり、その十派の本山寺院の堂宇・伽藍の配置が非常に特徴的である。それは中心堂宇として、本尊である阿弥陀如来像を祀る阿弥陀堂と宗祖親鸞御影を祀る御影堂の二堂が並んで建っている。ここ真宗本廟・東本願寺も同じ。阿弥陀堂と御影堂が並んで建っている。真宗本廟・東本願寺の場合は、地理的に北側に位置している巨大堂宇が御影堂で、南側に位置している堂宇が、阿弥陀堂。現在、真宗本廟・東本願寺は、平成の大修理中で、すでに御影堂の修理が完成。ひきつづいて2015年には、阿弥陀堂と御影堂門の修理・修復が完成する予定である。この阿弥陀如来像を祀る阿弥陀堂と宗祖親鸞御影を祀る御影堂の二堂が並んで建っている伽藍の並びは、日蓮宗の寺院が本尊である釈迦如来像を祀る本堂と宗祖日蓮御影を祀る祖師堂(御影堂)の二堂が並んで建っているのによく似ている。

真宗本廟・東本願寺の御影堂は、世界最大の木造建築とされており、内部には畳が927畳敷になっている。世界最大の木造建築というと東大寺大仏殿を連想する人が多い。私も小学校か中学校で、東大寺大仏殿は世界最大の木造建築だと教わった記憶がある。しかし世界最大の木造建築とは、東大寺大仏殿ではなく真宗本廟・東本願寺の御影堂である。真宗本廟・東本願寺の御影堂は、東大寺大仏殿よりも巨大である。その御影堂だが、浄土真宗十派の本山には、いずれも阿弥陀堂と御影堂が並んで建っていると書いたが、「御影堂」を「みえいどう」と読む宗派と、「ごえいどう」と読む宗派に分かれる。真宗本廟・東本願寺は御影堂を「ごえいどう」と読む。

御影堂1


 


















(真宗本廟・東本願寺の御影堂)

 御影堂門4



















阿弥陀堂3



















(平成の大修理中の真宗本廟・東本願寺の阿弥陀堂)

 

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□「ニセhide」「ニセアンチ日蓮正宗」は「仏教宗学研究会」及び管理人とは全くの無関係である

 

最近、「仏教宗学研究会」「アンチ日蓮正宗」のブログに、「ニセhide」が何度も出没して、アラシ行為を繰り返し、管理人が多大な迷惑を蒙り、アラシ対策として、「仏教宗学研究会のブログ」「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」の表紙に、「悪質な謀略工作・ニセ「hide」にご注意ください」を貼り付けた所でした。

□悪質な謀略工作・ニセ「hide」にご注意ください

http://bukkyoshugakukenkyukai.doorblog.jp/archives/29695198.html

□悪質な謀略工作・ニセ「hide」にご注意ください

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/cat_1186234.html

そうすると、今度は、この「ニセhide」が、「宿坊の掲示板」なる名前の掲示板に、「アンチ日蓮正宗」「hide」の名前を無断で騙って、「アンチ日蓮正宗」管理人「hide」になりすまし、とんでもないスレッドを立ち上げていたことが、判明しました。

 

「アンチ日蓮正宗ブログ

 投稿者:hide  投稿日:2014 3 5()162039       通報 返信・引用

             皆さま。

私ことhdeは最新の調査により、大石寺の板本尊の写真解析に成功致しました。

黒川和雄氏や龍神ひろし君とのやり取りにも終止符を打てる段階に来ました。

今後ともアンチ日蓮正宗を応援して下さい。

協力して頂きました皆さまに感謝申し上げます。」

http://6027.teacup.com/situation/bbs/7949

 

「仏教宗学研究会のブログ」、「アンチ日蓮正宗」コミュや「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」をよく読んでいらっしゃる方なら、このスレッドを立ち上げた者が、「ニセhide」であると、すぐにわかると思います。

このスレッドを立ち上げた者は、当ブログ「仏教宗学研究会のブログ」「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」管理人のhideではありません。再三再四、当方から指摘している「ニセhide」「ニセアンチ日蓮正宗」の者の仕業であります。これは「ニセhide」「ニセアンチ日蓮正宗ブログ」の謀略ですからご注意下さい。まことに悪質極まりない策略であります。

「ニセhide」「ニセアンチ日蓮正宗」は「仏教宗学研究会」「アンチ日蓮正宗」及び管理人とは全くの無関係であります。これも、ずいぶん前から、「仏教宗学研究会のブログ」「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」で表明していることであります。

これだけ表明しても、まだわからない者がいるようですので、もう一度、言います。

 

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□「仏教宗学研究会」はいかなる団体・いかなる個人に対しても中立・非同盟・不偏不党です

 

今まで何度も何度も公言してきたことなのですが、いまだによくわかっていない人がいるようなので、再度、はっきりと明言します。

「アンチ日蓮正宗」「仏教宗学研究会」の主宰者・管理人は、どこの政党や政治団体にも所属していません。特定のイデオロギー、主義・思想を支持する立場にもありません。

又、「アンチ日蓮正宗」「仏教宗学研究会」は、どこの宗教・宗派・政党・団体・個人も擁護したり応援したりはしません。いかなる団体、宗派も支持いたしませんし、いかなる団体、宗派、グループとも連合しません。いかなる宗派、団体、個人に対しても、誰人に対しても中立、非同盟であり、非連合であり、不偏不党が基本政策であります。これは、「アンチ日蓮正宗」「仏教宗学研究会」設立時からの、基本政策のひとつであり、今後とも変えることは絶対にありません。

もちろん「アンチ日蓮正宗」コミュニティご参加の方、「アンチ日蓮正宗」mixiページのフォローワーの方、「アンチ日蓮正宗」中心メンバーの方、「アンチ日蓮正宗」管理人のマイミクさん、ご協力いただいている方々には、無宗教の方のみならず、日蓮正宗系以外の仏教各宗派の僧侶・上人の方、ご信者の方等々、多数いらっしゃいます。そういう方もたくさんいらっしゃることは事実です。

しかし、それと「アンチ日蓮正宗」は、どこの宗教・宗派・政党・団体も擁護したり応援したりはしません。いかなる団体、宗派も支持いたしませんし、いかなる団体、宗派、グループとも連合しません、ということとは、別の話しです。

さらに言うと、「アンチ日蓮正宗」は、どこの宗教・宗派・政党・団体・個人も擁護したり応援したりはしません。いかなる団体、宗派も支持いたしませんし、いかなる団体、宗派、グループとも連合しません、ということは、「アンチ日蓮正宗」の主旨は、無宗教が本筋であるという意味でもありませんし、無宗教でなければならない、という意味でもありません。

「アンチ日蓮正宗」「仏教宗学研究会」は、単なる数合わせの政治的野合・連合体をめざすものではない。「毒をもって毒を制す」という思想は「アンチ日蓮正宗」「仏教宗学研究会」の基本指針・基本政策ではない。よって、「アンチ日蓮正宗」「仏教宗学研究会」が、日蓮正宗批判のために、日蓮正宗との闘いのために、創価学会、顕正会、正信会と連合したり、政治的な野合をするということは、絶対にあり得ない。又、富士門流の寺院、富士門流の信徒、富士門流執着軍団、他宗派と連合したり、政治的な野合をするということも、絶対にあり得ない。

日蓮正宗も創価学会、顕正会、正信会も、富士門流執着軍団も言わば宗教的「毒」であり、それらの宗教的「毒」をもって「毒を制す」ということは、絶対にあり得ないのである。

それから「アンチ日蓮正宗」「仏教宗学研究会」設立以来、時折出没する「勘違い男」がいます。どういう「勘違い男」かというと、例えば、日蓮正宗、創価学会、顕正会、法華講、正信会等「日蓮正宗系」団体の信者の誰か、あるいは「富士門流執着軍団」の誰かと、個人的なトラブル、ケンカ、紛争を引き起こし、それで「アンチ日蓮正宗」「仏教宗学研究会」を自分の味方に引きこもうとする、「勘違い男」です。

 

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■「京都国立博物館2(日蓮と法華の名宝展の見学2)

 

□日蓮真筆曼荼羅・日蓮真筆遺文の拝観で開催の意義が大きかった「日蓮と法華の名宝展」

 

「日蓮と法華の名宝展」では、注目される展示が多数あったため、私も、館内で見学していたとき、一生懸命、メモ帳にメモをとっていました。すると館内にいた係員から「ポールペンでのメモは遠慮して下さい」とのこと。じゃあ、鉛筆でメモをとるしかないじゃないか、ということで、鉛筆を係員から借りてメモをとっていました。

「日蓮と法華の名宝展」見学が終わった後、京都国立博物館のミュージアムショップに入ったのですが、そこに、「日蓮と法華の名宝展」に出展された全展示物の写真と解説が載っている分厚い本「日蓮と法華の名宝」が売られていましたので、それを買いました。これに私が館内で懸命にメモっていた解説文が全部載っていた。

日蓮真筆の大漫荼羅本尊や遺文は、各々格蔵している寺院の虫払法要や宝物館の展示で拝観できるケースが結構ある。千葉県市川市・中山法華経寺の聖教殿のお風入れでは、国宝の「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」「立正安国論」及び、重要文化財61巻他の日蓮真筆遺文が拝観できるし(---ただし近年は中止されている---)、静岡県の岡宮・光長寺や北山本門寺等々の御虫払い法要では、日蓮真筆本尊数点が拝観できる。しかし、複数の寺院に格蔵されている日蓮真筆の大漫荼羅本尊や遺文が展示されるのは、こういう企画展での展示のみでしょうね。

しかも寺院のお風入れや虫払い法要と言うことになると、参詣者が制限されたりしますが、企画展は、広く一般に公開されるものです。そういう意味で、京都国立博物館で開催された「日蓮と法華の名宝展」の意義は、まことに大きかったと思います。「日蓮と法華の名宝展」の主催者の方、後援の方々に対して、甚々の感謝の意を表したいと思います。

ただ、2003年に東京国立博物館で行われた「大日蓮展」、そして2009年に京都国立博物館で行われた「日蓮と法華の名宝展」もそうですが、出展された展示は、そのいずれもが日蓮宗系の寺院に格蔵されている大漫荼羅、遺文、坐像、画像等々ばかりで、日蓮正宗の寺院に格蔵されているものがひとつもないばかりか、富士門流の寺院に格蔵されている物すら、ひとつもありません。

日蓮聖人門下連合会には、唯一、富士門流の日蓮本宗(要法寺門流)が加盟していますが、今回、日蓮本宗から出展されたものは、ひとつもありませんでした。日蓮正宗に至っては、過去の日蓮に関する企画展で、自らが格蔵している大漫荼羅、遺文、坐像、画像等を出展したというのを、見たことがありません。否、出展どころか、日蓮聖人門下連合会にも加盟していません。自ら加盟しないのか、加盟できないのかは、わかりませんが。

日蓮正宗は、というより、創価学会、顕正会を含めて日蓮正宗系は、同じ日蓮門下の他宗と交流を持とうとしない。わずかに、正信会系の興風談所や創価学会系の元日蓮正宗僧侶・松岡幹夫氏、元日蓮正宗僧侶の花野充道氏あたりが、他宗と交流を持っているだけですね。

興風談所は、教学誌「興風」を発行するなどして、他宗と交流しており、日蓮正宗大石寺を離脱した松岡幹夫氏も、東京大学の博士号をとって、各所で講演するなどしている。

 

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■「京都国立博物館1(日蓮と法華の名宝展の見学)

 

2009年の日蓮・立正安国論奏進750年記念で京都で開催された「日蓮と法華の名宝展」

 

日本の国立博物館は、東京、京都、奈良、九州と四カ所あるのですが、このうちの京都国立博物館には、2009年の日蓮・立正安国論奏進750年「日蓮と法華の名宝展」が開催された時に行ってきました。ちょうど、私が日蓮本宗本山・要法寺末寺・實報寺の住職との単独会見と實報寺墓苑墓苑にある日目正墓等々の写真撮影を終えて、このまま京都国立博物館に足を運んだ。この京都国立博物館のある所は、京都・東山七条で、東山五条の鳥辺山・實報寺からは、そんなに遠くない所にある。この地は、近世までは方広寺の境内の一部だったところで、1870年から1876年までは恭明宮(明治の神仏分離後、それまで御所の御黒戸に安置されていた仏像や歴代天皇の位牌を安置していた施設)があった所。方広寺・豊国神社とは、となりあわせになっている。

日蓮に関する展示は、今までも何度か博物館で開催されてきており、私も見学に行っていますが、京都で行われた展示に見学に行ったのは、この時がはじめて。20031月~2月にかけて東京国立博物館で、日蓮・立教開宗750年記念「大日蓮展」があり、私も見学に行っている。この時の展示で印象に残っているのは、日蓮真筆の観心本尊抄、立正安国論、臨滅度時の本尊等でした。こういう企画展で、なにが印象に残るかというと、こういう日蓮真筆の展示である。有名な画家の誰それが描いた画とか壺が出展されていましたが、そういうのよりも、日蓮真筆の大漫荼羅であり、日蓮真筆の遺文(御書)です。ただし、日蓮真筆の観心本尊抄、立正安国論については、千葉県小湊の誕生寺で、日蓮真筆のレプリカが拝観できますけどね。

さて「大日蓮展」の主催者のひとつに、日蓮聖人門下連合会というのがありましたが、京都国立博物館の「日蓮と法華の名宝展」の主催者に、日蓮聖人門下連合会が名前を連ねていました。これに加入しているのは、日蓮宗、顕本法華宗、日蓮本宗、法華宗陣門流、法華宗真門流、法華宗本門流、本門法華宗、本門仏立宗、日本山妙法寺、国柱会、京都日蓮聖人門下連合会の11団体。これは、1960年(昭和35年)、国柱会が日蓮門下の連携を目指して主催、発足させたもので、各法華宗と多くの共同事業に携わっています。

主なものでは日蓮聖人降誕750年慶讃「聖伝劇日蓮」明治座公演(昭和46年)。

《日蓮聖人700遠忌記念事業》として 日蓮聖人劇・日蓮聖人展(昭和56年)。

1988年(昭和62年)、比叡山開創1200年記念法要、2003年(平成15年)、立教開宗750年記念事業「大日蓮展」、2009年(平成21年)、立正安国論奏進750年記念事業「日蓮と法華の名宝展」等があります。この日蓮聖人門下連合会には、富士門流の日蓮本宗(要法寺)が加入しているのが、目を引きます。現在、京都国立博物館では、平常展示館の解体と、平常展示機能を持つ百年記念館の建設工事が進捗中で、南門ミュージアムショップは完成していました。これによって、「日蓮と法華の名宝展」は、レンガ造りの特別展示館(旧・本館)で行われていました。

 

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■京都府1・京都1・「京都駅」1(西日本最大級のターミナル駅)

 

私はほぼ1年に1回、ないしは2年に1回くらいのペースで京都に行っている。もちろん主な目的は、仏教関連の寺跡調査だが、古都・京都には仏教寺院がそれこそ無数にあるばかりか、歴史史跡等も山のようにたくさんある。とてもじゃないが、1日や2日で全てを見学するなど不可能である。又、せっかく寺院に行っても、誰もいなかったり、充分な見学や調査ができないこともある。だから同一寺院を、何度も訪ねることだってある。

その京都へは、東京からは何十回と行っているが、実は実家のある北陸からも何度も行っている。東京から行く場合は東海道新幹線を利用することが一番多いが、自家用車を運転して東名・名神高速をかっ飛ばして行ったことも何度もある。上野駅入谷口、東京駅八重洲口から深夜バスを利用して行ったこともある。北陸から京都に行った時は、特急サンダーバード号(昔は特急雷鳥号)を利用したときと、自家用車で北陸道・名神高速をかっ飛ばしたときも何度かある。

新幹線、特急電車、深夜バスで京都に行くと、降り立つ所はJR京都駅。古都・京都のメインターミナルである。現在の京都駅の駅舎は、ものすごくモダンで立派な駅舎に生まれ変わっている。京都駅は、京都市街の南のはずれにあるが、駅のターミナルは北側と南側にある。北側は烏丸口。南側は八条口。烏丸口は主にバスターミナル、八条口は主にタクシー乗り場になっている。

東京から深夜バスで京都駅に着いたときも、烏丸口に停まりました。東京を24時ころ出た深夜バスは、京都駅に6時半ころ到着。運賃もなかなか手頃。かつて東海道線に「銀河」という寝台列車が走っていましたが、これも利用客が減少して廃止になった。単に運賃だけだと「銀河」も深夜バスもさほど変わらないのだが、「銀河」は運賃の他に特急券・寝台券を買わなくてはならないため、割高になった。

電車・深夜バスで京都に行き、さて京都市内を廻る交通手段として、京都駅烏丸口で1日乗車券を買ってバスを利用したことも何度もあった。たしかに1日バス乗車券は安いのだが、いかんせん、私は京都市内の路線バスがどうなっているのか、さっぱりわからない。だから例えば最初に京都御所に行き、次に金閣に行こうとすれば、どのバスにどうやって乗り継いで行っていいのか、さっぱりわからない。だからどうしたかというと、京都御所からバスで京都駅前に一旦もどり、それで京都駅烏丸口から金閣に向かうバスに乗ったという次第。さらに金閣から次の見学地に行く場合も同じ。だから1日バス乗車券を使って京都市内を廻ると、料金的には安いが、時間がえらくかかってしまう。「それじゃあ、京都御所に行ったのなら、その近くを見てまわればいいじゃないか」となるかもしれないが、そうすると、自分が行きたい寺院や旧跡に行けなくなる。だから京都市内の寺院巡りをするときは、京都駅近辺でレンタカーを借りるか、あるいはタクシーを乗り継いで寺院巡りになったこともかなりある。軽自動車をレンタカーで12時間借りても、ガソリン代や保険代、駐車料金を入れて8000円くらいかかってしまう。これだったら、タクシーを乗り継いだほうが安上がりになったケースが多々あった。

 

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■京都知恩院4(芸術的墨書の御朱印)

 

□知恩院僧侶に墨書していただいた見事な『書の芸術』・知恩院の御朱印

 

さて知恩院御影堂の脇に朱印所があり、参拝人が大勢つめかけて御朱印の申し込みをしていた。私も参拝記念に、集印帳を購入して御朱印をいただいた。御朱印は知恩院の僧侶が墨書していただいたのですが、これまた見事な芸術的墨書でした。ここに写真にて公開しますので、知恩院御朱印の芸術的墨書を御覧下さい。

御朱印1



御朱印2



御朱印3 

 

 

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■京都知恩院3(法然御廟)

 

□法然の弟子・源智が大谷廟堂を修理し法然の真骨を納めて建立した知恩院の法然御廟

 

知恩院には、法然御影像を祀る御影堂の他に、本尊である阿弥陀仏像を祀る阿弥陀堂がある。浄土真宗本山に行くと阿弥陀仏を祀る阿弥陀堂と親鸞御影像を祀る御影堂の二堂が中心堂宇として並んで建っているが、知恩院も阿弥陀堂と御影堂の二堂が中心堂宇として建っている。

御影堂のちょうど向かい側に泰平亭という名の売店・休息所がある。ここにたくさんの参拝人が入っている。売店で知恩院のグラビア写真集を買ったら、売店の女性が何と私に合掌礼。これには、びっくりしてしまいました。

さて「平成の大修理」工事中の御影堂の東側から経蔵を通って法然御廟へと足を運んだ。御廟に行くには、長い石段を登って行かなくてはならない。長い石段を登った突き当たりを左に曲がると、知恩院最古の堂宇・勢至堂がある。ここは法然終焉の地である大谷禅房の旧跡で、1530(享禄3)年の再建。御影堂ができる前は、この勢至堂が知恩院の中心堂宇だった。法然の幼名・勢至丸ゆかりの勢至菩薩像を祀る。この勢至堂がある所からさらに石段を登って、もう一段上の地に行くと、そこに法然御廟がある。ここに浄土宗元祖・法然の遺骨が納められている。

参詣人が立ち入ることが出来るのは法然御廟の手前に建てられている拝殿まで。拝殿でお賽銭を入れて参拝。御廟も拝殿も実に質素な造りになっている。

曹洞宗大本山永平寺にある道元禅師御廟の拝殿は「承陽殿」という大きな堂宇になっているし、日蓮宗総本山・身延山久遠寺の日蓮御真骨堂の拝殿も大きな堂宇である。大谷本廟(西大谷)の親鸞廟の拝殿も大きな堂宇。それに比べたら知恩院法然御廟の拝殿はまことに質素である。

さて泰平亭で買った知恩院グラビア「浄土宗総本山知恩院」には、法然の生涯とその亡骸がどうなったのか、遺骨がどこに納められたのかについて、知恩院の公式見解が載っている。それによれば、1212(建暦2)125日、法然は80才で入寂。門弟たちは、今の知恩院勢至堂がある場所、大谷禅房の傍らに法然の墳墓をつくった。その15年後の1227(嘉禄3)年に比叡山の宗徒が大谷禅房にあった法然の大谷廟堂を破脚。そこで弟子たちは、法然の亡骸を西山栗生野に移して荼毘に付した。ということは、当初、法然の亡骸は大谷廟堂に土葬にされていたということで、法然入寂の15年後に火葬にされたということになる。

そして1234(文暦元)年、法然の弟子・源智が大谷廟堂の荒れ果てた墓所を修理し、法然の真骨を納め、仏殿、御影堂、総門を建てて、知恩院大谷寺と号し、法然を開山第一世とした。つまり知恩院の御廟にある法然真骨は、源智によって当地に納められ、現在に至っているということである。

法然御廟5


 


















(法然御廟入り口門前)

法然御廟2


 


















(法然御廟に登っていく長い石段)

法然御廟14


 

































(法然御廟門)

法然御廟11 



















(法然御廟拝殿)

 

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■京都知恩院2(御影堂・平成の大修理)

 

2019(平成31)年まで「平成の大修理」の素屋根に覆われている知恩院御影堂

 

知恩院の表玄関は、三門である。2002(平成14)年に知恩院の三門と御影堂が国宝に指定されている。今の三門は1621(元和7)年、徳川二代将軍秀忠の建立・寄進によるもの。起工が1619(元和5)年だから、造営に二年の歳月がかかっている。知恩院の見解によれば、三門は高さ24m、横幅50m、屋根瓦7万枚。木造の門としては世界最大級のスケールだという。見るからに巨大な門で、三門前には駐車場が広がり、浄土宗信徒用の和順会館がある。20141月に知恩院に行った時には、駐車場に数台の観光バスが停車していました。団体参拝の人を乗せてきた観光バスではないかと思われます。

この時は、京都東山のウェスティン都ホテルに宿泊し、ホテルから徒歩で三条神宮道の信号から神宮道を歩き、青蓮院の門前を通って知恩院に行ったのですが、このあたりは車や人通りの騒音が全く聞こえない静寂な所。知恩院三門の位置は、京都市街のメインストリート・東大寺通から、少し引っ込んだ所にある。にもかかわらず大通りの騒音は全然聞こえてこない静寂な空間である。三門をくぐって男坂を登り御影堂、法然上人御堂(集会所)、阿弥陀堂近辺まで来ると、参詣者の話し声しか聞こえてこない。法然上人御堂(集会所)で僧侶の読経がはじまると、読経の声がマイクを通して境内に聞こえてくる。こういう雰囲気を味わえるのは、いいですねえ。

巨大な三門をくぐると、その先には男坂と呼ばれる急な石段がある。男坂の横手には、ゆるやかな石段の女坂がある。男坂、女坂の名の坂は、日蓮宗総本山・身延山久遠寺にもあります。

知恩院のメインの堂宇は、男坂・女坂を登り切った所にある御影堂である。ちなみに知恩院「御影堂」は「みえいどう」と読む。これが浄土真宗大谷派本山・真宗本廟(東本願寺)の「御影堂」、浄土真宗本願寺派本山・西本願寺の「御影堂」は、「ごえいどう」と読む。

知恩院「御影堂」は浄土宗開祖・法然の尊像(御影像)を祀る堂宇。御影堂は、入母屋造り・本瓦葺きで奥行き35m、間口45m、瓦の数は約9万枚という巨大な堂宇。堂内には約4000人が収容できるという。ここは1639(寛永16)年、徳川三代将軍家光によって建立されたもの。これも造営に二年かかっており、落慶したのは1641(寛永18)年である。

知恩院は1517(永正14)年に火災にあっており、多くの堂宇が焼亡しているが、法然御影像は焼亡を免れたという。戦国時代の京都は、応仁の乱、天文法華の乱等、市街地が焦土と化す戦災があり、これにより知恩院も災禍を蒙ったものと思われる。その知恩院は1530(嘉禄3)年、後奈良天皇より宸翰「知恩教院」「大谷寺」の勅額を授与され、勢至堂が再興されている。

御影堂の法然像は毎年1225日に御身拭式が行われていたが、平成23年(2011年)1225日には御影堂大修理に伴い、御身拭式の後、御影堂から法然上人御堂(集会所)遷座式が執り行われ、御影堂修理の間、法然上人御堂(集会所)に祀られている。

 

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■京都知恩院1(浄土宗元祖・法然が開山)

 

□歴史上はじめて庶民に仏教を流布した浄土宗元祖・法然が開山した浄土宗総本山知恩院

 

知恩院とは、正式には華頂山知恩教院大谷寺(かちょうざん・ちおんきょういん・おおたにでら)というが、一般では「知恩院」という通称名で呼ばれている。三門にも「総本山知恩院」と書かれている。総本山と書かれているのは、浄土宗総本山という意味である。

いかなる者も一心に阿弥陀如来の名を唱えれば極楽浄土に往生できるという「専修念仏」(せんじゅねんぶつ)の教えを説き、浄土宗を開いたのが法然である。その浄土宗開祖・法然が布教の拠点とした草庵を起源とするのが、この浄土宗総本山知恩院である。

法然は平安時代末期、1133(長承2)47日、美作国(みまさかのくに・今の岡山県)久米南条稲岡庄の押領使・漆間時国の長子として生まれた。幼名は勢至丸。勢至丸が9才の時、漆間時国の館が夜襲され、不意打ちに倒れた時国は、枕辺で勢至丸に遺言を遺す。

「恨みをはらすのに恨みをもってするならば、人の世に恨みのなくなるときはない。恨みを超えた広い心を持って、すべての人が救われる仏の道を求めよ」

ところで、この漆間時国の遺言を読んで、かつて中華民国(台湾)・蒋介石総統が戦後、「以徳報怨」(徳を以って怨みを報ず)と言い、日本兵の復員に最大限の便を図ったり、日本への戦後賠償を放棄したことを思い出しました。蒋介石総統の言葉は、漆間時国の遺言とは関係ないのだろうが、この漆間時国の遺言は、だれかに聞かせてあげたいくらいの名言ではなかろうか。恨みつらみでテロや戦争を繰り返す人たち、過去の歴史がどうのこうのとアラ探しばかりする某国の人たち。日本の琵琶湖畔にも恨みつらみから抜け出せない人もいますね。

さて勢至丸はこの父の遺言に従い、菩提寺で修学した後、15才で比叡山に登って剃髪授戒。はじめは円明房善弘と名乗るが、1150(久安6)年、18才のとき、比叡山延暦寺西塔黒谷の慈眼房叡空の弟子となり、法然房源空となる。島田裕巳氏監修の「はっきりわかる日本の仏教宗派」(成美堂出版)によれば、法然の黒谷での約二十年の修行の中で、二つの転機があったとする。

ひとつは源信の著書「往生要集」との出会い。「往生要集」には、厳しい修行に耐えられない者は念仏を唱えるべきと記されていた。ふたつめは中国浄土教の僧・善導の著書「観経疏」との出会い。「観経疏」には「一心に口で念仏を唱えれば往生が叶う」と記されていた。善導の言葉を知った法然は、衆生が救いを得るためには、誰もが出来る称名念仏のほかにないとの答えを得る。(「はっきりわかる日本の仏教宗派」p63)

法然は1175(承安5)年、比叡山を下り、西山広谷を経て吉水の禅房、現在の知恩院御影堂の近くに移り住み、浄土宗を開宗。法然43才の時である。1186(文治2)年、大原談議において旧仏教高僧の前で法然の教説が披露されると、その教えは瞬く間に人々の信仰を集め、法然の教団は急速に拡大した。1190(文治6)年、法然は東大寺にて「浄土三部経」の講説を行う。1198(建久9)年、法然は「選択本願念仏集」を著す。

 

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□「2ブログ」による「富士門流信徒の掲示板」累計アクセス数ぶち抜きがいよいよ射程に

 

皆様には、いつもブログをご愛読いただきまして、まことにありがとうございます。

20142月、「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」の累計アクセス数が35pvを突破。「仏教宗学研究会のブログ」の累計アクセス数が17pvを突破。「2ブログ」の総合累計アクセス数が52pvを突破しました。まことに、ありがとうございました。

■アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/

■仏教宗学研究会のブログ

http://bukkyoshugakukenkyukai.doorblog.jp/

どんどん「2ブログ」の総合累計アクセス数が伸びていく中で、いよいよ富士門流執着軍団の第一次公式ホームページ「富士門流信徒の掲示板」の累計アクセス数ぶち抜きが、いよいよ射程に入ってきました。マジックナンバー点灯と言っても過言ではありますまい。

2014222日現在の「富士門流信徒の掲示板」の累計アクセス数は、583455pv

2014222日現在の「2ブログ」の総合累計アクセス数は527126pv。あと56329pvまで迫っております。ここ1年間の「2ブログ」の月間アクセス数はだいたい25000pv3pvぐらいで推移していますので、あと数ヶ月で「2ブログ」の総合累計アクセス数が「富士門流信徒の掲示板」の累計アクセス数をぶち抜けるかと思われます。

さて「2014年、新年あけまして、おめでとうございます。」の中で、「2014年中に、「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」と「仏教宗学研究会のブログ」の「2ブログ」のアクセス数累計が、「富士門流信徒の掲示板」のアクセス数累計を、ぶち抜けるかと思われます。」と書いたところ、これを見た「富士門流執着軍団」の面々が、大慌てに慌て、あれやこれやと聞き苦しい言い訳を、あちらこちらで並べるという、まことに見苦しい姿をさらしております。今回も、富士門流執着軍団の面々は、自らの恥も省みず、またも聞き苦しい言い訳を並べるのでしょうか。

まあ、こんな人たちは、ほおっておくとして、今後とも、「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」「仏教宗学研究会のブログ」の「2ブログ」を、よろしくお願い申し上げます。

錦織寺11 

 

 

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■長野善光寺4(2014年初詣4)

 

2014年初詣で善光寺内陣にていただいた見事な『書の芸術』・善光寺御朱印

 

以前の当ブログにて、「善光寺御朱印の毛筆は、この上ない達筆。まさに『書の芸術』と言うべきもの。善光寺御朱印の毛筆は、あまりにも芸術的な書なので、見ていると思わず心が洗われるような気持ちになる」と書いたところ、「どんな御朱印なのでしょうか」とのお問い合わせをいただきました。というわけで、2014年善光寺初詣で、本堂内陣にていただいた善光寺御朱印をここにご紹介しようと思います。見事な『書の芸術』を御覧下さい。

2014御朱印1



2014御朱印2 

 

 

 

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■長野善光寺3(2014年初詣3)

 

□極楽の錠前を探り当てる真っ暗な回廊の『お戒壇めぐり』と回廊入り口に祀られている仏舎利

 

内々陣参拝の後は、内陣にある御朱印受付にて、善光寺の御朱印をもらった。ちょうど20134月末の東京両国・回向院での善光寺出開帳の時、善光寺御朱印帳を買い求めており、そこに御朱印をいただいた。数年前、ある所で、僧侶の毛筆が達筆かどうか云々ということが話題になったことがあったが、善光寺御朱印の毛筆は、この上ない達筆。まさに「書の芸術」と言うべきもの。善光寺御朱印の毛筆は、あまりにも芸術的な書なので、見ていると思わず心が洗われるような気持ちになる。これは、善光寺参拝のいい記念になりますね。ただし断っておくが、私はあっちこっちの仏教寺院で御朱印をもらわないと収まらないような、いわゆる『御朱印マニア』ではない。

御朱印のあとは、『お戒壇めぐり』の階下に降りていった。内々陣の右側を通って奥に進むと『お戒壇めぐり』の入り口がある。これは、善光寺如来(一光三尊阿弥陀如来)像が格蔵される瑠璃壇下の真っ暗な回廊を通り、極楽の錠前を探り当てて、絶対秘仏の善光寺如来(一光三尊阿弥陀如来)と結縁するという主旨のもの。2003年の御開帳で善光寺に参拝したときは、『お戒壇めぐり』の真っ暗な回廊には入っていないと思います。20134月末の東京両国・回向院での善光寺出開帳の時、はじめて『お戒壇めぐり』を知ったくらいでしたから。

東京両国・回向院での『お戒壇めぐり』は、にわかづくりの『お戒壇めぐり』だったが、今回は善光寺での『お戒壇めぐり』。真っ暗の回廊を手探りで歩いて行ったが、全く何も見えない。私の後ろから、4人家族連れが歩いてきて、真っ暗な回廊の中で、ガヤガヤと喋りまくっている家族連れ。

この家族連れも、真っ暗な回廊の中で極楽の錠前を探していたようなのだが、歩いている途中で、若い男の子が「コレだ、コレだ」と、ガチャガチャと音をたてながら元気な声をあげていた。しかし回廊は真っ暗で何も見えない。「本当かね?本当にそれが極楽の錠前?」と、半ば狐につままれたような気持ちになった。

さてその『お戒壇めぐり』の入り口前には、釈迦如来像と仏舎利(釈迦如来の遺骨)を納めた厨子が祀られている。この仏舎利は、善光寺発刊の資料によれば、タイ国から日本に寄贈された仏舎利だという。タイ国から寄贈された仏舎利は、善光寺の外、全国各地の寺院にも格蔵されている。

さて再び本堂の外陣に出ると、外陣中央にものすごい人だかりができている。何事だろうかとその人だかりの所に行ってみると、びんずる尊者像のまわりにできていた人だかりだった。びんずる尊者像は、東京両国・回向院での善光寺出開帳の時にも来ていた。が、2003年の御開帳の時に参拝した記憶がない。ただし回向院の善光寺出開帳の時には、びんずる尊者像は白色のホータイでぐるぐる巻きになっていたが、善光寺本堂外陣では、ホータイはなし。びんずる尊者像参拝の長い行列に並んだ後、賽銭を入れて像を撫でて参拝。参拝の人は、全員がびんずる尊者像に触って撫でていた。像をよく見ると、かなり撫でられた痕跡が見られる。

善光寺18 



















(善光寺本堂)

 

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□東京都知事選挙立候補者一覧の中になかった某氏の名前

 

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■長野善光寺2(2014年初詣2)

 

□天台宗・大勧進と浄土宗・大本願が共同管理する『無宗派』の寺院・長野善光寺

 

善光寺の正式名は定額山善光寺。善光寺は天台宗大勧進と25院、浄土宗大本願と14坊によって護持・運営されている。大勧進住職は貫主とよばれ、天台宗名刹の僧が務める。大本願住職は善光寺上人とよばれ、代々公家出身者を住職として迎えている。善光寺住職は大勧進貫主と大本願上人の両名が勤める。このように独自の運営が為されている善光寺は、「無宗派」の寺院とされ、日本で仏教が諸宗派に分かれる以前からの寺院であるため宗派に関係なく宿願が可能とされる。天台宗、浄土宗塔頭による共同運営の無宗派寺院といえば、宇治・平等院がある。また無宗派寺院といえば、仏舎利を奉安する名古屋・日泰寺も、十九仏教宗派の共同管理になっている無宗派の寺院である。そして昔から女人禁制があった仏教界で、上古の昔から善光寺が女人救済の寺院であったことも、特色の一つである。

善光寺の入り口に、浄土宗が管理する大本願があり、大本願の向かい側に浄土宗側の塔中が建ち並ぶ。常円坊、淵之坊、兄部坊、正智坊、白蓮坊、堂明坊、堂照坊、浄願坊、正信坊、随行坊、寿量院、善行院、玄証院、甚妙院、常行院、徳行坊、野村坊、鏡善坊、向仏坊である。

そして仁王門をくぐると「仲見世」と呼ばれる売店街があるが、その「仲見世」の裏側に、天台宗側の塔中がある。それが良性院、宝林院、長養院、本覚院、徳寿院、最勝院、玉照院、円乗院、威徳院、常住院、世尊院、蓮華院、尊勝院、常智院、教授院、吉祥院、福生院、常徳院、光明院、薬王院である。駒返り橋を渡ると左側に天台宗が管理する大勧進がある。

大勧進に入ってみると、ここにもたくさんの人が参詣している。大勧進の護摩堂の前では、テントが張られ、新春護摩祈願の受付をしていた。ここで午前10時からの護摩祈願を申し込む。

時刻はまだ午前9時で、護摩祈願の時刻まで約1時間の余裕がある。この間に本堂参拝をしてこようと、本堂に向かった。すでに本堂前にも本堂の中にも、ものすごい数の参拝客が来ている。本堂前では、10代後半くらいの若い人たちの野球チームだかサッカーチームの団体さんが記念撮影をしていた。現在の善光寺本堂は、宝永4(1707)に再建された堂宇で、国宝に指定されている。間口24m、高さ30m、奥行き54mある本堂は、東日本最大の堂宇なのだという。

本堂の中に入り、まずは外陣の賽銭箱に賽銭を入れて参拝。それから500円の内陣参拝券を購入して内陣に入る。内々陣前の賽銭箱に賽銭を入れて参拝。大勢の参拝客の大半は、外陣で参拝してお終い。しかし内陣参拝する人も、けっこうたくさんいた。

内々陣の須弥壇を見ると、戸帳が降りていて中は見えない。資料によれば向かって左側に本尊が祀られていて、右側には本田善光と奥方、子息の像が祀られているという。「お朝事」と呼ばれる朝の勤行のときに、戸帳が上がり、本尊が格蔵されている宮殿を拝することはできるが、本尊の善光寺如来(一光三尊阿弥陀如来)像は、絶対秘仏であるために拝することはできない。

 

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■長野善光寺1(2014年初詣)

 

□マイナス5度の厳寒の長野市内の街中を歩いて参詣した2014年・善光寺初詣

 

2014年の初詣は、長野・善光寺に行ってきました。善光寺に行ったのは2003年の御開帳以来のこと。久しぶりに荘厳な善光寺の雰囲気を肌で感じることができた、私にとってはまことに有意義な初詣になった。今回は、東京駅1924分発の長野新幹線「あさま号」に乗って長野へ。21時かぎに長野駅に到着。長野市内のビジネスホテルに宿泊。東京からは長野新幹線「あさま号」を利用すれば、約1時間3040分前後で長野駅に到着する。長野新幹線は、もともとは北陸新幹線の一部区間で、2015年春には、長野から金沢が開通し、いよいよ「北陸新幹線」としてスタートすることが決まっている。長野新幹線開業以前は、JR信越線経由で在来線特急あさま号が上野~直江津、在来線特急白山号が上野~金沢を運行していた。名古屋方面からは、昔も今もかわらず、中央西線、篠ノ井線経由で在来線特急しなの号が長野駅に乗り入れている。

長野には空港がないため、長野市に行くには電車、バスを利用するか、ないしは自分で車を運転して行くしかない。善光寺の最寄り駅は、新幹線や特急が停車する長野駅で、しかも長野駅から徒歩で行ける距離にあるので、割とアクセスは便利だと思う。ただし長野新幹線の開業で、上野~直江津を走る在来線特急あさま号が廃止になり、新潟・富山・金沢方面から長野への交通が不便になってしまった。がしかしこれも2015年春の北陸新幹線の開業で不便さも解消するものと思われる。長野駅も、長野新幹線開業によって、駅舎が新築され、ずいぶんモダンな駅舎になった。

長野新幹線「あさま号」が関東平野を走り抜け、高崎駅を過ぎた所で上越新幹線と分岐。碓氷峠のトンネルを抜けると長野県に入る。長野駅新幹線ホームに降り立つと、寒さに思わず身が震えてしまう。夜21時の長野市の気温は、マイナス2度。寒いですね。しかし長野市内にほとんど積雪はない。雪無しの状態で気温が低いのである。翌朝の気温はもっと低く、何とマイナス5度。思わず「寒いなあ」と言うと、ホテルマンは「長野で、これくらいの気温は、当たり前ですよ」と言う。

東京でマイナス5度まで気温が下がったことは、私の記憶の中にはない。マイナス2度になったら、それこそ「異常低温だ」「寒波到来だ」と大騒ぎになるだろう。

朝は、ホテルのレストランで、バイキング式の朝食。ホテルから善光寺までは、徒歩で参詣しました。長野駅周辺から善光寺までは、歩いて行ける距離にある。長野市という街自体が、古刹寺院・善光寺の門前街と言うことができる。しかし気温はマイナス5度。吐く息が白い。寒さに震えながら、足早に善光寺へ歩いて行った。

善光寺大門から三門の間には、「仲見世」と呼ばれる売店街がある他、長野駅から善光寺に行く表参道の両脇にも、参拝客をあてこんだ飲食店や商店が建ち並ぶ。仲見世や表参道で目立つのは、手打ちそば店。長野は信州そばの本場ということもあり、そば店が軒を並べている。

正月初詣客が多い時期には、参道にテキ屋の露店も軒を並べる。

 

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□自ら東京都知事選挙に出馬しない場合は「逃亡」したものと認定いたします

 

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■福井・永平寺7(法堂ボヤ事件)

 

□火の気がない所からのボヤは不審火・放火の可能性が報道される法堂ボヤ事件

 

127日午後1240分ころ、曹洞宗大本山永平寺の法堂で木製の引き戸が焦げるボヤ事件が発生した。以下は、ボヤ事件を報道するインターネットニュースからの引用である。

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<永平寺>法堂でぼや 国宝などに被害なし

毎日新聞 127()2128分配信

27日午後0時40分ごろ、福井県永平寺町志比の曹洞宗大本山永平寺で、木製の引き戸が焦げるぼやがあった。寺には国宝や重要文化財などが複数保管されているが、被害はなかった。県警福井署は放火の疑いもあるとみて調べている。

同署によると、焦げたのは法要などが行われる法堂(はっとう)の引き戸。近くで新聞紙が燃えているのを観光客が見つけ、僧侶が付近に積もっていた雪や消火器で消した。法堂は寺の敷地の一番奥にあり、観光客の参拝ルートになっている。

(毎日新聞)

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修行僧が「雪」で消火…火の気はなく放火か?永平寺

テレビ朝日系(ANN 128()1630分配信

寺の境内で火の手が。あわやの事態に、修行僧が雪を使って火を消し止めました。

27日、福井県にある曹洞宗の大本山永平寺の法堂の引き戸の外側で、積んであった新聞紙が燃えているのを参拝客が見つけました。火は、修行僧が消火器と雪でまもなく消し止めましたが、引き戸の一部などを焼きました。警察は、何者かが新聞紙を持ち込んで火を付けたのではないかとみて、28日も実況見分をするなどして調べています。

(テレビ朝日系(ANN)

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永平寺でぼや、雲水らが雪で消し止める 不審火の可能性

朝日新聞デジタル 127()2241分配信

27日午後0時40分ごろ、福井県永平寺町志比の曹洞宗大本山永平寺で、法堂(はっとう)正面の引き戸付近に置かれている新聞紙が燃えているのを観光客が見つけ、寺に通報した。雲水ら数人が近くの雪をかけてまもなく消し止めた。引き戸がすすけたが、建物には延焼はせず、けが人はなかった。周囲に火の気はないため、福井署が不審火とみて捜査している。

(朝日新聞)

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■中山法華経寺5(2013年初詣)

 

□鬼子母神堂の御開帳に参詣人の長蛇の行列ができていた中山法華経寺本院(2013年初詣)

 

2013年の初詣は、千葉県市川市にある日蓮宗大本山・中山法華経寺に参詣しています。

中山法華経寺に参詣すると、それこそたくさんの人が参詣しているのが目に入る。中山法華経寺本院には、総受付があり、ここでは鬼子母神堂の御開帳での祈祷受付を行っており、たくさんの人が祈祷の申し込みをしている。私も初詣で、鬼子母神堂御開帳で祈祷をしてもらってきました。

私もいろいろな仏教寺院に参詣したが、祈祷を行っている寺院、行っていない寺院、護摩を焚く寺院、護摩を焚かない寺院等々、様々である。日蓮宗の場合は、祈祷は行っていますが護摩は焚かないですね。仏教寺院でも、祈祷を行っている寺院、あるいは護摩を焚く寺院は、参詣が多いように思う。

人はだれしも家内安全、交通安全、心願満足、夫婦円満、身体健全、商売繁盛等々の、さまざまな願い事があり、これらの祈祷をしてもらうために寺院に参詣する人は多い。私の2013年・中山法華経寺初詣のときも、たくさんの人が参詣に来ていて、鬼子母神堂には長蛇の行列ができていたくらい。私は、中山法華経寺初詣の時、家内安全、夫婦円満、心願満足、身体健全、商売繁盛、厄除け等を願う人は、どういう寺院に祈祷を願い出るだろうか、ということを考えてみた。

もちろん、祈祷を願い出る人から見て、祈祷を叶えてくれそうな寺院、祈祷が叶うと思われる本尊が祀られている寺院、自分にとって開運招福の寺院、縁起のいい寺院に行こうとすると思う。わざわざ縁起の悪い寺社には参詣しないと思う。

中山法華経寺の場合、宗祖・日蓮の小松原法難のときに、出現して日蓮を守護したと伝承する鬼子母神が庶民の信仰を集め、鬼子母神像を祀っている。きわめて自然なことだと思う。そういう日蓮を守護した守護神にあやかりたいと思うのは、自然な庶民感情ではなかろうか。

それともうひとつ。祈祷を行う行者が、中山法華経寺の場合は、百日の大荒行を満願した修法師が行う。修法師が庶民から開運招福の行者として人々の信仰を集める。これも自然な庶民の信仰心ではないかと思う。

私は、中山法華経寺の初詣の時に「祈祷とは何なのか」「なぜ人は祈祷を願い出るのか」ということを、改めて問い直す機会を得た。中山法華経寺初詣の期間中、中山法華経寺と塔頭・遠寿院では、まさに大荒行が修されている真っ最中だった。

 

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■池上本門寺40(2012年初詣)

 

□多くの参拝客をあてこんで池上本門寺参道にぎっしり並んでいたテキ屋の露店(2012年初詣)

 

2012年の初詣は、池上本門寺に参詣しています。この時も12日の午前中に、皇居の一般参賀に行き、帰りに池上本門寺に参詣しています。ですので初詣は12日ですねえ。

しかし12日とはいえ、池上本門寺にはものすごい数の参拝客が訪れていました。ここも東京都内有数の初詣のメッカのひとつ。参道は参拝客でぎっしりです。ただし此経難事坂を登り、仁王門をくぐって大堂前まで来ると、スペースが広いせいか、ぎっしりの状態ではなかったのですが、それでも大堂前には、かなりの数の参拝客がいました。

その参拝客をあてこんで、テキ屋の露店も池上本門寺参道にぎっしりと並んでいました。人が集まる所、参詣人が多い寺社の前に、テキ屋の露店が並ぶのは世の常である。池上本門寺の行事で、最も多くテキ屋の露店が並ぶのは、何といっても毎年10月に行われる御会式である。御会式の時ほど、数は多くありませんでしたが、それでも正月も池上本門寺参道は、テキ屋の露店がぎっしりと並ぶ。又、池上駅前の商店街も、池上本門寺初詣客をあてこんで、12日にもかかわらず、開店している店もかなり見られました。

池上本門寺の本殿では、大きく扉が開けられていて、ここにもたくさんの人が参詣。本殿では、古いお札・お守りの返納・お焚き上げを受け付けていました。普段の日は、本殿に参詣する人はほとんど見られないのですが、正月の初詣は、たくさんの人が本殿に参詣していました。

大堂は、普段とかわらずそれこそたくさんの人が参詣。ここは普段の日も参詣人が多い堂宇ですが、普段よりも増して大堂の賽銭箱の前は、満員になるほどの人が詰めかけている。

大堂前の広場の一角では、猿回しの猿の曲芸が行われていて、参詣人の目を引き、周囲にはたくさんの人が見物していました。これもたくさんの初詣客をあてこんで行われているのでしょう。

仁王門前では、献血の呼びかけが行われていました。さらに大堂前では、菊の花の展示があり、初詣客をなごませてくれていました。菊の花の展示は、これ以前にどこかの寺院でも、何度か見かけていますね。

池上初詣1



池上初詣2大堂


池上初詣5本殿


池上初詣6本殿


池上初詣10大堂


池上初詣11大堂


池上初詣12仁王門


池上初詣13的屋


池上初詣15的屋


池上初詣18総門


池上初詣19総門


 

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■靖国神社1(靖国神社の初詣参拝)

 

815日の終戦の日の参拝者を上回るくらいの参拝者が訪れる靖国神社の初詣参拝

 

2011年の初詣は、東京・九段の靖国神社に参拝に行っています。この年は、12日の皇居の一般参賀の後、その足で地下鉄に乗り、九段下駅で降りて、靖国神社に初詣に行っています。

靖国神社は、815日の終戦の日ないしはその前後に参拝する所というイメージが強いのですが、正月の初詣には、終戦の日をはるかに上回るくらいの参拝の人が訪れています。

靖国神社正面の大鳥居から境内の中、参道の両側に、的屋の露店が所狭しと並んでいるのには驚きました。終戦の日には、こんなに的屋の露店が並んでいたかな??並んでいなかったような気がしましたが。正月には、ここに的屋の露店が並ぶんですね。

表の靖国通りには、いつもながら右翼団体の街宣車が停まっていましたが、境内には右翼関係者と思われる人たちは、終戦の日に比べると少なかったような気がします。

参拝ののち、靖国神社のおみくじを初めて引いたのですが、「吉」でした。

以下の写真は、2011年の初詣の時に撮影した靖国神社の様子です。

2011初詣・靖国神社1


2011初詣・靖国神社3


2011初詣・靖国神社4


2011初詣・靖国神社6


2011初詣・靖国神社7


2011初詣・靖国神社8 

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■鶴岡八幡宮1(静の舞・大銀杏の木)

 

□朱色の舞殿にて静御前が源義経を慕って舞った『静の舞』が行われる鶴岡八幡宮

 

鶴岡八幡宮(つるがおか はちまんぐう)とは、古都・鎌倉のシンボルであり、中心的存在。

私としては、何年に一度ぐらいの頻度で、ここに初詣に行っている他、鎌倉へは何度も寺跡調査で足を運んでいますんで、そのたびにここへ立ち寄っている。たまたま行った時、偶然に鶴岡八幡宮の境内で「鎌倉まつり」が行われていた時に遭遇したこともありました。

直近の初詣は2008年の初詣で参拝しています。ここに行くと、いつもものすごい人出にほんとにビックリしてしまう。正月の初詣や「鎌倉まつり」の時の人出は、それこそハンパじゃないくらいで、鶴岡八幡宮の周辺は、車の交通規制まで行われるくらいだが、普段の週末なんかでも、若宮大路や鶴岡八幡宮周辺には、ほんとにたくさんの人たちが歩いている。こういうたくさんの人出を見ていると、この古都・鎌倉というところ、鶴岡八幡宮が、一般市民の人気スポットになっているんだなあ、と思う。

鶴岡八幡宮の三之鳥居をくぐるとすぐ右に源氏池、左側に平家池という池があり、中央には石の太鼓橋が架かっている。源氏池には産を意味する三つの島、平家池には死を意味する四つの島が配されている。これは北条政子が源平合戦の源氏の戦勝を祈願して寄進したものだという。この源氏池、平家池には、夏になると、紅白の蓮の花が咲いて、これがまた美しい。

鶴岡八幡宮から由比ヶ浜まで一直線に伸びる若宮大路と呼ばれる大通りの、二之鳥居から三之鳥居まで、通りの中央が一段高くなっている、通称・段葛(だんかずら)と呼ばれる歩道がある。

ここは源頼朝が、妻・北条政子の安産を祈願して1182(寿永1)年に築いたものなのだが、ここの両側には、桜の木がずーっと植えられていて、春には段葛全体が、見事な桜のトンネル状態になる。こう見てみると、鶴岡八幡宮というところは、春・夏・秋を通じて、花のきれいなところなんです。

あと、毎年4月の第二日曜から第三日曜にかけて、鎌倉まつりと呼ばれるビッグイベントが、鶴岡八幡宮を会場にして行われる。中でも有名なのが、静の舞と流鏑馬だ。流鏑馬(やぶさめ)は、4月第二日曜13時から、境内地中央の東西に伸びる流鏑馬馬場で行われる。疾走する馬上から正方形をした三つの的を射落としていくという勇敢な行事で、NHKのローカルニュースなどでも紹介される行事だ。静の舞(しずのまい)とは、4月第二日曜15時から、表参道の途中に建っている朱色の舞殿にて行われる。吉野山で源義経と別れ、鎌倉に連れてこられた静御前が、ある日、源頼朝の求めに応じて舞を踊った。その時、舞った静御前が、源義経を慕う次の歌を詠んだ。

「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」

「しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」

ただし当時はまだ舞殿は建立されておらず、実際に静御前が舞ったのは若宮社殿の回廊だといわれている。この故事にならって、境内の舞殿では、古式ゆかしい舞が再現される。

私としては、この鎌倉まつりの静の舞も素晴らしいと思うのですが、NHK大河ドラマ「草燃える」で、この源頼朝(石坂浩二)の前で、静御前(賀来千賀子)が舞う、静の舞のシーンが見事に演じられていて、とても印象深い。正月の初詣以外にも、鎌倉まつりや、きれいに咲く春夏秋の花の鑑賞に行くのも、いいかな、と思いますね。

 

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■熱田神宮1(謎の草薙剣を格蔵)

 

□歴代天皇が継承する三種の神器「謎の草薙剣」を格蔵していると伝承する熱田神宮

 

熱田神宮(あつたじんぐう)とは、愛知県名古屋市熱田区にある神社で、何といってもここは、歴代天皇が継承する三種の神器の一つである草薙剣(くさなぎのつるぎ。天叢雲剣)を神体としていることで有名である。ただし草薙剣は、神話上重要な剣であるため、この剣は模造、偽造、盗難、消失、水没と様々な遍歴を辿った。結果、現在の所在については諸説語られている。

神話の記述の通りであれば、熱田神宮の奥深くに神体として安置されているという説が正しいということになる。神話に拠れば、668年に新羅の僧・道行が熱田神宮の神剣を盗み、新羅に持ち帰ろうとした。しかし船が難破して失敗し、その後は宮中で保管されていた。しかし、688年に天武天皇が病に倒れると、これが神剣の祟りだということで熱田神宮に戻されたという。

このほかに、壇ノ浦水没説というのがあり、源平合戦の平家滅亡の折に、二位の尼が腰に差して入水し、そのまま上がっていないとする説である。ただし、この時に平家が所持していた草薙剣は、宮中で元々使用されていた模造品(レプリカ)という説があり、「平家物語-剣巻」なども、その説を採っている。さらに宮中安置説というのもあり、これは皇居の宮中儀式に使われている草薙剣が、本物の草薙剣だという説である。

第二次世界大戦の時は、熱田神宮は何度か米軍の空襲を受けたため、御神体は一時、他の神社に遷座し、終戦後、熱田神宮に戻ってきたのだという。まあ、草薙剣の真偽については、いずれの説だかよくわからないが、皇室とは切っても切れない深い縁のある神社であることは確かで、天皇・皇后両陛下の御親拝も行われている。

私はここには2010年の初詣で行っています。うっそうとした杜があり、神社の雰囲気としては、なんとなく明治神宮に似ている初詣だったが、正月三が日ではなかったせいか、明治神宮のように参拝客の長蛇の行列はなかった。

そして熱田神宮の境内地の一角には。「熱田神宮宝物館」がある。ここには、皇室をはじめ、将軍、藩主、一般人から寄進された資料約4000点を格蔵しているという。私は、「ひょっとしたら草薙剣の本物は無理としても、レプリカぐらいは見れるのでは」と期待して入ってみたが、残念ながら、草薙剣の本物はおろか、レプリカも展示していなかった。御神体の草薙剣は、天皇ですら直接見ることは許されていないのだという。

もともと、ここ熱田神宮の御神体が刀であることからか、宝物館に収蔵されているものも、やたら刀が多いように思う。「短刀 銘来国俊」という刀は、国宝に指定されているという。

私があっと思ったのは、「日本書紀」の巻物である。これは国宝ではなく重要文化財とのこと。これは熱田本( 13757年写 第110,1215)と呼ばれる卜部家本系統の写本ということで、日本書紀の写本は、あっちこっちにいくつもあるらしいのである。

 

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■明治神宮1(日本で最も多い初詣参拝客)

 

□日本で最も多い正月三が日・初詣参拝客が訪れる東京原宿・明治神宮

 

正月といえば初詣。 私の場合、毎年、違う寺社に初詣の参拝に出かけているのだが、明治神宮は2007年と2009年の初詣に行っており、それ以前にも何度か初詣に来ている所。今年の仏教宗学研究会のブログは、過去に参拝に行った初詣について、記していきたいと思う。

明治神宮とは、明治天皇と昭憲皇太后を祭神とする神宮で、JR原宿駅、JR代々木駅、小田急参宮橋駅に隣接する広大な敷地で、境内の広さは何と約73haもある。寺院の落慶入仏法要に該当する鎮座祭は、1920年(大正9年)111日に行われている。

明治神宮は、初詣では大晦日から正月三が日の間で約315万人前後にものぼる日本一の参拝者を集めることでも知られている神社。大晦日の深夜から、JR原宿駅・山手線外回りの臨時ホームが使用され、表参道から井の頭通りにかけて、交通規制が敷かれる。山手線、小田急線等も毎年、大晦日から元日にかけて終夜運転を行っているが、利用客の大半が初詣参拝客である。

毎年正月の初詣参詣者の関東地方の上位にランキングされるのは、明治神宮が約315万人、成田山新勝寺と川崎大師平間寺が約300万人、浅草寺が約275万人、鶴岡八幡宮が約250万人。

このランキングは、毎年、明治神宮がトップである。

毎年の明治神宮初詣はすごい人出。参道が参拝者で“渋滞”してしまっていて、なかなか前に進めません。明治神宮の境内に入ってから、本殿にたどり着くまで60分以上、かかったような気がします。しかし長蛇の行列の中、長時間待ち続けて、本殿にやっとたどり着いたと思ったら、参拝してお終い。参拝のインパクトとしては、あまり心に残るものが少ない気がする。

それだったら、まだ靖国神社は昇殿参拝ができるし、池上本門寺や中山法華経寺は祈祷をしてもらえる。善光寺だったら、内々陣参拝やお戒壇巡りがあり、大勧進では護摩祈祷をしてもらえる。

むしろ、そっちのほうが、心に残るものが大きいような気がする。

むしろ、明治神宮の初詣は、長蛇の行列を長時間、並んで参拝を待ち続けたことが、一番、心に残っているような気がするのだが…。

明治神宮初詣1


 












(明治神宮本殿)

明治神宮初詣2明治神宮初詣2


明治神宮初詣7


明治神宮初詣8 













































(長蛇の行列になっている明治神宮の初詣参拝)

 

 

 

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皆様、新年、明けましておめでとうございます。昨年は、いろいろとお世話になりました。

日記やボイスに、イイネやコメントを多数いただき、又、ブログには多くの方々からメッセージを頂戴しました。まことにありがとうございました。

さて、「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」と「仏教宗学研究会のブログ」を立ち上げてから、もうかれこれ2年の歳月がたとうとしています。このふたつのブログにUPしている記事は、200511月にスタートしたmixi「アンチ日蓮正宗」コミュニティ、20073月にスタートしたGREE「アンチ日蓮正宗」コミュニティ、20074月にスタートした管理人のmixi日記「日蓮正宗・創価学会・顕正会批判シリーズ」、「旅紀行」「東京近郊ぶらり旅」シリーズ、2009128日にスタートしたmixi「アンチ日蓮正宗vs日蓮正宗」コミュニティ、20121月にスタートした「アンチ日蓮正宗」「アンチ日蓮正宗vs日蓮正宗」mixiページ等で執筆してきた記事を、加筆訂正した上で、「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」と「仏教宗学研究会のブログ」に再分類してアップすることから、はじまりました。

この他に、新たにアップしている記事もどんどん加わりまして、20131231日現在で「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」の記事が1671本。「仏教宗学研究会」の記事が416本。合計で2087本になりました。「mixi」からの再アップ率は80%を超えました。

アクセス数の累計は、「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が320787pv。「仏教宗学研究会のブログ」が159594pv。合計で480381pvになりました。Webサイトを特定に期間のうちに訪れた人の正味の人数で、延べ訪問数(ビジット)から重複を除いたもので、複数回訪問した人も1人と数えるユニークユーザー(UU)数の累計は、「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が82496UU。「仏教宗学研究会のブログ」が44515UU。合計で127011UUになりました。

どんどんアクセス数が伸びていく中で、いよいよ富士門流執着軍団の第一次公式ホームページ「富士門流信徒の掲示板」がいよいよ射程距離に入ってきました。「富士門流信徒の掲示板」の累計アクセス数は、583239pv2014年中に、「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」と「仏教宗学研究会のブログ」の「2ブログ」のアクセス数累計が、「富士門流信徒の掲示板」のアクセス数累計を、ぶち抜けるかと思われます。

尚、富士門流執着軍団の第二次公式ホームページ「富士教学研究会」の累計アクセス数129295pvは、とっくの昔にぶち抜いております。「2ブログ」のアクセス数累計どころか、「仏教宗学研究会のブログ」単独で、「富士教学研究会」の累計アクセス数をすでに、ぶち抜いております。

「富士教学研究会」のブログは、20082月に設立されて、もう6年・2160日にもなるのに、いまだに129295pvということは、1日でたった60pvしかないということになる。人気ありませんねえ。

こんな人気のないブログは、おいていくことにして、2014年もまた、「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」と「仏教宗学研究会のブログ」の「2ブログ」にUPしていく作業はつづきます。

本年もまた昨年に引きつづいて、皆様方からのご指導・ご鞭撻を賜ることが出来ますよう、よろしくお願い申し上げます。

2014年賀2 

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■京都方広寺・豊国神社3(不吉・不運な方広寺大仏)

 

□日蓮宗不受不施派弾圧の発端になった方広寺大仏殿・千僧供養会の日奥の出仕拒否

 

そもそも京都・方広寺とは、1586(天正14)年に、永禄10年(1567年)の三好・松永の戦いの兵火により焼失した、東大寺大仏殿および大仏にかわるものとして、豊臣秀吉が発願。1588(天正16)年に、京都・渋谷に移転した真宗仏光寺の跡地に建造した。1591(天正19)年に立柱式、1593(文禄2)年に上棟式、1595(文禄4)年に落慶した。この時に建造された大仏は、六丈三尺(20メートル)で、東大寺の大仏が五丈三尺だったから東大寺大仏よりも巨大だった。ただし東大寺大仏は金銅仏だが、方広寺大仏は、刀狩りで没収した刀を再利用した釘も使われたが、大仏そのものは当初の銅造ではなく、木像漆箔の大仏として建造された。大坂城内に莫大な金銀を貯蔵するなど巨大な経済力を持つ豊臣秀吉が、なぜ当初の銅造ではなく、木像漆箔の大仏として建造したのかについて記した文献がどこにも見あたらない。単に安価に仕上げようとした「手抜き」だったということだろうか。しかしその後、方広寺大仏のまわりには、不運・不幸がまとわりつく。

1595(文禄4)年の方広寺大仏殿の落慶で、秀吉は亡父母の追善のために、天台宗、真言宗、律宗、禅宗、浄土宗、日蓮宗、時宗、真宗の各宗派の僧に出仕を命じ、千人の僧の出仕で千僧供養会を行った。この千僧供養会に、日蓮宗不受不施派の日奥が出仕を拒否。これが江戸時代の不受不施派弾圧の発端になった。千僧供養会は、仏教界が秀吉に臣従するのか、しないのかを見極めるために、秀吉が敷いた「踏み絵」ではなかったのかと思われる。千人の僧が出仕する大法要は、あまりにも巨大で、出仕する千人の僧の食事を準備した台所が今も妙法院に遺る。

ところが千僧供養会の翌年の1596(文禄5)年の慶長伏見地震により、方広寺大仏は倒壊。大仏殿は倒壊を免れた。

秀吉は、倒壊した大仏のかわりに、方広寺に善光寺如来を祀ることを計画。1597(慶長2)年に、善光寺如来が京都に到着。方広寺に遷座された。ところが秀吉は1598(慶長3)年に病に伏し、さらに厳暑の夏に雪が舞うという珍事が起こった。これが善光寺如来の祟りではないかと噂され、善光寺如来は817日に善光寺に戻される。がしかし秀吉は翌日の818日に死去する。

1599(慶長4)年に、淀君・豊臣秀頼母子が、金銅大仏の再興をはかるが、1602(慶長7)年に鋳造中の大仏から火災が発生。造営中の大仏と大仏殿が焼失してしまう。

今度は徳川家康の勧めで豊臣秀頼が三度、方広寺大仏の再興を志す。1608(慶長13)年に大仏再建の工がはじまり、1610(慶長15)年に立柱式、1612(慶長17)年に大仏金箔が完成。1614(慶長19)年に梵鐘が完成。創建時よりも大きな大仏殿も完成。あとは徳川家康の承認で落慶開眼法要を待つだけ、となったところで、家康は開眼供養の延期を命じる。南禅寺僧・清韓作の方広寺梵鐘の銘文に不吉の文言ありとて、家康が激怒する方広寺「国家安康」鐘銘事件がおこる。

 

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■京都方広寺・豊国神社2(豊臣家の巨大な経済力)

 

□豊臣脅威説・豊臣討伐論に傾斜していた徳川家康に臣従する親藩・譜代大名や旗本

 

徳川家康は、なぜ豊臣秀頼を一大名として残そうとしていたのか。これは、まず織田家と豊臣秀吉の前例に則ったと思われる。豊臣秀吉は、もともとは織田信長の家臣で、本能寺の変・織田信長の死去後、山崎の合戦で明智光秀を破り、清洲会議で実質的に「ポスト織田信長」の主導権を握った。そして賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り、織田信雄・徳川家康の連合軍と対峙した小牧・長久手の戦いでは、織田信雄を臣従せしめた。その後、織田有楽斎をはじめ、織田家の武将をことごとく臣従させている。よってこれと同じように、徳川家康も、天下人になる野心がない豊臣秀頼を一大名として臣従させていく腹づもりだったと思われる。そうすれば豊臣恩顧の大名と摩擦も起こらなければ、秀頼の正妻になった孫娘・千姫の身を案じなければならなくなることもない。

しかし家康は、秀頼を一大名として残す腹づもりだったならば、なぜ家康は方広寺の「国家安康 君臣豊楽」の鐘銘を、「家康呪詛の鐘銘だ」と憤激して、大坂の陣で豊臣家を滅亡させたのか、ということになる。豊臣秀頼は天下人になる気は全くなかったが、実母の淀君があくまでも徳川家への臣従を拒否し、あくまでも天下人は秀頼だと譲らなかったからだ、という説が有力で、方広寺鐘銘事件も、当初は豊臣家を滅ぼすというよりも、淀君を懲罰する腹づもりだったという説である。

NHK大河ドラマ「葵徳川三代」も、この説を採っていて、家康が「あの女狐(めぎつね・淀君のこと)に灸をすえてやらんといかんな」と言うセリフを入れている。

これとは全く正反対に、徳川家康は虎視眈々と豊臣家を滅亡させるべくチャンスを窺っていたとする説もある。これは、このまま豊臣家を大坂城に存続させた場合、豊臣恩顧の大名をはじめ、関ヶ原の合戦で改易・減封・国替えになった徳川幕府に不満を持つ大名・武家が豊臣家のもとに集結し、今の野党的な存在になって、徳川幕藩体制を根幹から脅かす存在になることを、家康は怖れていたのではないか、とする。この説も一理あると思われる。

しかし私は、豊臣脅威説・豊臣討伐論の考えを持っていたのは徳川家康ではなく、徳川家康に臣従する親藩・譜代大名や旗本がそう考えていたのではないかと思われる。この時代は、まだ完全に戦国の世が完全に終わっておらず、戦(いくさ)で負ければ主君の改易はもちろん、家臣から一族郎党に至るまで失業。下手をすれば首を切られかねない。この時代の「失業」は、今の失業とはちがい、ハローワークもなければ求人広告があるわけじゃない。失業=死とほぼ同じ意味だった。

豊臣秀頼は、天下取りの野心はなかったとしても、実母の淀君が「天下人はあくまでも秀頼だ」と固執し、徳川幕府への臣従を拒否しつづけていた以上、徳川家康に臣従する親藩・譜代大名や旗本からすれば、これは脅威に映り、豊臣脅威説・豊臣討伐論に傾斜していくのは、必然だったのではないかと思われるからだ。

 

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